リスクアセスメントの結果に基づく措置が努力義務であること

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2016 年 08 月 07 日
リスクアセスメントの結果に基づく措置が
努力義務であることをいかに理解すべきか
元・厚労省化学物質対策課
化学物質国際動向分析官
柳川 行雄
内容
最初に ......................................................................................................... 1
なぜ RA に基づく措置は努力義務とされたのか ......................................... 2
(1)国法の義務規定は明確でなければならない ......................................... 3
(2)RA の結果に基づく措置を義務化する意義 .......................................... 3
3 RA の結果に基づく措置を義務化するべきか .............................................. 4
4 RA の結果に基づく措置と安全配慮義務 ..................................................... 5
(1)問題の所在 ........................................................................................... 5
(2)安衛法中の努力義務と安全配慮義務 .................................................... 5
(3)RA の結果に基づく措置と安全配慮義務 .............................................. 7
5 では、結局どうすればよいのか? .............................................................. 8
(1)RA の結果に基づく措置をとらなくてよいのか ................................... 8
(2)まとめ .................................................................................................. 9
1
2
1
最初に
最初に次の枠内の文章を読んで見て欲しい。
【ある事業場でリスクアセスメントを行ったあとの措置】
化学物質のリスクアセスメントを行ったら、あまりにも非現実的な対策を
とるべきとの結果が出た。そんな対策をとることはとてもできない。法律上の
対策は努力義務なのだから次善の策をとることにした。
1
この文章を読んで、皆さんはどのように思われるだろうか。おそらく、少なく
ない事業者の方は「とくに問題はない」、あるいは「そうするより他どうしよう
もないではないか」とお考えになるのではなかろうかと思う。
確かに、少なくない事業者の方がそのように考えるのには、十分な理由がある
のかもしれない。2016 年6月に施行された化学物質関連の改正労働安全衛生法
(安衛法)第 57 条の2第2項は、リスクアセスメントの結果に基づいて「この
法律又はこれに基づく命令の規定による措置を講ずるほか、労働者の危険又は
健康障害を防止するため必要な措置を講ずるように努めなければならない」と
されている。必要な措置は努力義務なのである。それなら、次善の策をとること
で何の問題もないのではなかろうか。
だが、ちょっと待ってほしい。冷静に考えて、本当にこの文章には何の問題もな
いのだろうか? また、この文章の主張には、もっと根本的なところでも、少し
おかしなところがないだろうか?
この「リスクアセスメントの結果に基づく措置」が努力義務であることについ
て、一般の事業者の方の中にかなりの誤解があるように思える。そこで、本稿に
おいて、この努力義務の意味について私なりに解説を加えてみたい。
なぜ RA に基づく措置は努力義務とされたのか
2
先ほどの安衛法第 57 条の2第2項において、「法律又はこれに基づく命令の
規定による措置1)」については「講ずる・・・なければならない」と義務規定と
していることは当然としても、
「リスクアセスメントの結果に基づく措置」が努
力義務となっているのはなぜなのだろうか。
1
労働安全衛生規則第 576 条は「事業者は、有害物を取り扱い、ガス、蒸気又は粉じん
を発散(・・略・・)等有害な作業場においては、その原因を除去するため、代替物の
使用、作業の方法又は機械等の改善等必要な措置を講じなければならない」とされてお
り、また同規則第 577 条には「事業者は、ガス、蒸気又は粉じんを発散する屋内作業場
においては、当該屋内作業場における空気中のガス、蒸気又は粉じんの含有濃度が有害
な程度にならないようにするため、発散源を密閉する設備、局所排気装置又は全体換気
装置を設ける等必要な措置を講じなければならない」としている。これらもまたこの措
置に該当することはいうまでもない。なお、労働安全衛生規則のこの2つの条文の根拠
は労働安全衛生法第 22 条であるから、罰則付きの義務となっている。
2
私自身は、これには2つの理由があると考えている。
(1)国法の義務規定は明確でなければならない
ひとつは、労働安全衛生法に限らず公法の義務規定は、国民である事業者2)の
権利を制限し又は義務を課すものである。であれば、その内容は明確なものでな
ければならない。そうでなければ、国民は何をしてはならないのか、また何をし
てはならないのかが分からず、政府の恣意を許し、国民の自由を不当に制限する
ことになりかねないからである。
一方、リスクアセスメントの結果に基づく措置などというものは、何をどこま
でしなければならないのかを予め明確に定めることは、その本来の趣旨からい
って困難である。なぜなら、それは本来、事業者が自ら、化学物質の危険有害性
に関する情報を取集して、その物質による労働災害のリスクを見積もることに
ある。すなわち自主的な判断こそが重要となるからである。
そのため、立法技術上の問題として、リスクアセスメントの結果に基づく措置
を義務化することは困難なのである。
さらに言えば、仮に義務化してみたところで、事業者がリスクを正しく判定で
きなければ意味がない。シナリオを抽出するときに事故のシナリオを見落とし
てしまえばリスクの見積もりなどしようもないし、シナリオを抽出できたとし
てもリスクの見積もりを誤れば同じことであろう。リスクの見積もりなどとい
うものは、誰がやっても同じ結論が出るわけではないのである。
(2)RA の結果に基づく措置を義務化する意義
また、二つ目の理由であるが、リスクアセスメントの結果に基づく措置を義務
化してみたところで、実は、さしたる意味はないということも挙げられるかもし
れない。というのは、吸入ばく露による慢性毒性についてのリスクアセスメント
は別として、リスクアセスメントの結果というのは、通常、リスクの相対的な大
きさが分かるだけで、実施すべき対策の具多的な内容まで分かるわけではない
からである。
多くのリクスアセスメントの手法では、段階的なリスクのレベルが判るだけ
であるから、その結果に基づく措置を義務化するといってみたところで、義務化
2
もちろん、ほとんどの事業者は会社などの法人であり、また外国人の事業者もいるが、
ここでは法人や外国人も含めて国民といっている。
3
された方もどうしてよいか分からないであろう。
RA の結果に基づく措置を義務化するべきか
3
私自身は、リスクアセスメントの結果に基づく措置を、安衛法令で義務化しな
かったことは正しい判断だったと思っている。なぜなら、仮にこれを義務化する
とすれば、リスクアセスメントの内容を法令によって明確に定めなければなら
なくなると考えるからだ。
しかし、それではリスクアセスメントの制度の意味が損なわれてしまうだろ
う。前述したように、この制度の意義は、多様な化学物質や生産現場の状況に応
じて、事業者が自ら適切な手法を選択して災害発生のリスクを見積もり、その結
果に応じた対策を事業者が自ら選んで実施するというところにあるのだ。
これを法令で具体的に示してしまえば、我が国の現状においては、少なくない
事業者は“それさえやればよい”と考えるようになるだろう。そして、そのよう
に考えるということは、必然的に“意味は分からないがとにかく形だけ整えてお
こう”というところにつながる。これでは“労働安全衛生法違反にならないため
のリスクアセスメント”になってしまう。
すなわち、労働安全衛生法の規定を免罪符のように考えるようなり、わざわざ
コストをかけて、意味もなく形だけ整えるというばかげた状態になりかねない
のである。
そもそも、リスクアセスメントの内容を明確に定めるといっても、不可能に近
いのである。例えば、シナリオ抽出をどのようにするかを定めることが、まず不
可能に近い。どこまでシナリオを想定・予見すればよいのかを明文化することな
どできるわけがない。
また、比較的、定型的に行いやすい“吸入ばく露による慢性毒性”のリスクア
セスメントでさえ、汎用性のある手法を定めることは不可能であろう。現在、厚
労省が WEB サイトで公開している簡易なシステムにしても、少なくともガス
体である化学物質には使用できない。また、液体であったとしても、例えばガソ
リンスタンドのガソリンのリスクアセスメントを厚労省の簡易なシステムで行
おうとするのは、(おそらく)ばかげた行為である。
他のどの手法にしても、一長一短があり、すべての場合に適切にリスクを判定
できるシステムなど存在してはいないのである。
すなわち、あくまでも“現状においては”という限定つきではあるが、労働安
4
全衛生法がリスクアセスメントの結果に基づく措置を義務化しなかったことは、
正しいことであると言わざるを得ないのである。
4
RA の結果に基づく措置と安全配慮義務
(1)問題の所在
単純に考えれば、リスクアセスメントの結果に基づく措置は努力義務なので
あるから、実施しなくともかまわないはずだし、実施しなかったからといって、
少なくとも公権力によって不利益を課されるいわれはないはずである。
確かに、公権力によって不利益を課されるいわれはないことはその通りでは
ある。しかし、その規定が労働者の健康や生命、身体の保護を目的とするもので
ある以上、それを実施する必要はなく、事業者の完全な自由意思に任されている
と言い切ってしまうにはやはり躊躇を感じざるを得ないのである。
努力義務であるから事業者はそれを必ずしも実施しなくてもよいと理解して
本当によいのであろうか。
(2)安衛法中の努力義務と安全配慮義務
ところで、安衛法中で「努めなければならない」又は「努めるものとする」と
なっている規定で、事業者が(努力)義務の対象となっているものは、次の 14
の条文である。
【安衛法における事業者への努力義務】
50 人未満の事業場における医師等による健康管理等(第 13 条の2)
安全管理者等に対する教育等(第 19 条の2)
リスクアセスメント(第 57 条の2によるものを除く)の実施等(第 28
条の2)
④ 化学物質のリスクアセスメントの結果に基づく措置(第 57 条の3第2
項)
⑤ 法定の義務のない危険有害業務従事者に対する安全衛生教育(第 60 条
①
②
③
の2)
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中高年齢者等についての配慮(第 62 条)
労働者の健康に配慮した作業管理(第 65 条の3)
健康診断等の結果に基づく必要な者への保健指導(第 66 条の7)
面接指導を行わない者への必要な措置(第 66 条の9)
50 人未満の事業場におけるストレスチェック(第 66 条の 10・附則第
4条)
⑪ 受動喫煙の防止(第 68 条の2)
⑫ 健康教育、健康相談等(第 69 条)
⑬ 体育活動等への便宜供与(第 70 条)
⑭ 快適な職場環境の形成(第 71 条の2)
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
一般に、安衛法の規定は、その対象の範囲等を政令で定め、具体的な措置につ
いては省令で定めることが多い。しかし、これらの努力義務のうち実施すべき内
容を省令に委任しているのは、③、⑨及び⑩の3つのみである。なお⑩は、本来
は義務規定であるが 50 人未満の事業場について附則で当分の間は努力義務とし
ているものであるから他の規定とやや性格を異にしている。また③は省令には
実施すべき時期や対象業種等を定めるのみで、⑨も省令にそれほど詳細な規定
を置いているわけではない。
一方、これらは、事業者が実施すべき措置の内容について厚生労働大臣が指針
を定め、その内容について事業者等を指導できるとしているものがほとんどで
ある。もちろん、指針の内容に定められた個別の事項がただちに安衛法上の努力
義務となるわけではないが、事業主の行うべき措置の内容が行政機関によって
示され、事業者等に対して指導を行う権限が与えられているわけである。
すなわち、安衛法上の努力義務は、政省令によって具体的な内容を定めるので
はなく、行政が事業者の実施すべき措置の内容について指針を定めて事業者等
に指導できる3)としているものがほとんどなのである。
一方、下級審判決ではあるが、行政が発出した指導通達について「行政的な取
締規定に関連するものではあるけれども、その内容が基本的に労働者の安全と
健康の確保の点にあることに鑑みると、使用者の労働者に対する私法上の安全
配慮義務の内容を定める基準となるものと解すべきである」としているものが
ある(広島地裁判決平元年 9 月 26 日)
3
もちろん、実際に指針を定めて指導している。
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すなわち、行政指導とはいえ「内容が基本的に労働者の安全と健康の確保の点
にある」ものについては、私法上の安全配慮義務の内容となるといっているので
ある。
そして、上記 14 の努力義務の内容を詳細にみてみると、積極的な健康の保持
増進を目的とするなど、必ずしも労働災害の防止のみを直接の目的としている
とはいえないものが7例(⑧から⑭まで)ある。
残る①から⑦までの7つについては、その内容が労働者の安全と健康の確保
の点にあって、安全配慮義務の内容となり得ると考えられる。では、リスクアセ
スメントの結果に基づく措置は、安全配慮義務の内容となるのであろうか。
(3)RA の結果に基づく措置と安全配慮義務
化学物質のリスクアセスメントの結果に基づく措置が安全配慮義務の内容と
なるか否かに答えるためには、まずリスクアセスメントとはどのようなものな
のかを考えなければならない。
まず、リスクアセスメントの対象となる災害を“危険性による爆発災害・火災
災害”、
“アクシデント性の急性中毒災害”などに限って考えてみよう。そうする
とリスクアセスメントとは、災害発生のシナリオを予見、あるいは想定して、
“そ
のシナリオが現実に起きた場合の結果の重大性”と、
“シナリオが現実に起こり
得る可能性”からリスクを見積もることと定義することができる4)。
だとしたら、この見積もったリスクに応じた対策が努力義務に過ぎないとい
うのは、きわめて奇妙なことではないだろうか?
というのは、事業者は、労働者と雇用契約を締結しており、契約に基づいて労
働者に対して指揮命令をする権限があるのである。すなわち、働く場所、働く方
法、扱うもの、作業をする働く時間などを指定して、その通りしろと命じること
ができるのだ。そして、労働者は、原則としてその指示に従う契約上の義務があ
るのである。
ところが、その命令の通りにすると、労働者の身体・生命に重大な悪影響をも
たらす事故が発生する可能性があるということが分かったとしよう。そのよう
な場合に、事業者はどう対処するべきだろうか。もちろん、このようなことは聴
くまでもあるまい。誰でも、ただちになんらかの対策をとるか、でなければその
4
厚生労働省の指針上は、対策の検討までがリスクアセスメントの定義に含まれる。
7
ような命令は出すべきではないと考えるであろう。
であれば、リスクアセスメントを行って、高いリスクがあるという結論が出た
のであれば、対策はとるべきである。そのようなことは労働安全衛生法の規定を
待つまでもないのではなかろうか。
すなわち、安衛法の規定が努力義務規定だからという理由だけで、事業者には
その実施の義務がないとまではいえないのではなかろうか。災害の発生が予見
できた以上、その対策をとらないことには違法性があると言わざるを得ないの
である。
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では、結局どうすればよいのか?
(1)RA の結果に基づく措置をとらなくてよいのか
最後に、本稿の冒頭に掲げた文章をもう一度見て頂きたい。
【ある事業場でリスクアセスメントを行ったあとの措置】
化学物質のリスクアセスメントを行ったら、あまりにも非現実的な対策を
とるべきとの結果が出た。そんな対策をとることはとてもできない。だから次
善の策をとることにした。
私自身は、これには、2つの点でおかしなことがあると思う。ひとつは、
「リ
スクアセスメントを行ったら、あまりにも非現実的な結果が出た」というところ
である。これは、自らが行ったリスクアセスメントが適切なものではないと言っ
ているようなものである。あるいは言外に、
「リスクアセスメントはその方法で
なければならない」と言っているのかもしれない。
確かに、労働安全衛生規則第 34 条の2の7第2項にリスクアセスメントの手
法が限定的に記載されてはいるが、かなり広い範囲の手法が含まれる表現なっ
ている。事実上、限定などされてはいないのだ。また、労働安全衛生規則のこの
規定を別とすれば、少なくとも関連する指針・通達類には、リスクアセスメント
の手法をなにかに限定するというようなことは書かれてはいない。指針関連の
通達に紹介されているリスクアセスメント手法の解説には、いささかくどいほ
ど「例」という文字が書かれている。もしなにかの手法に限定されていると考え
ておられるならそれは誤解に過ぎないと申し上げたい。
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要は、労働安全衛生法にいうリスクアセスメントの義務化とは、事業場で発生
するかもしれない労働災害のリスクを判定してほしいということである。であ
れば、どのような災害がどのような頻度で発生し得るのか適切に判断し、それに
対する必要な対策を検討すればよいのである。そうすれば、そもそもこの枠内の
ようなことは問題にもならないのである。
ふたつ目の問題は、もしリスクを適切に判断したにもかかわらず、その結果に
基づく措置が非現実的だから次善の策をとるというのであれば、やはりそれも
おかしいということである。もし、労働災害の発生が容認できないようなリスク
レベルであると判断したのであれば、それに対する適切な措置をとらなければ
ならない。
簡単に次善の策をとるという判断をしてはいけない。次善の策をとるという
のなら、その前に、その次善の策をとることによってリスクのレベルが容認でき
るレベルまで下がるのかどうかを判定・評価しなければならないのである。この
ことを忘れてはならない。
そして、そのような判断をするには、一定の情報と知識が必要であり、それを
得るためにはコストがかかるのである。しかしながら、そのコストは必要なもの
なのだということをご理解頂きたいのである。
(2)まとめ
以上をまとめると、
「事業者は安衛法の規定があろうとなかろうと、また努力
義務であろうと義務規定であろうと、予め起きると予想できるような事故・災害
を起こしてはならない」というごく当たり前のことを言っているにすぎないの
である。もう少し具体的に言えば、自らの事業場で取り扱っている化学物質につ
いて、世の中にある情報を調べてみて、自らの事業場で扱っているようなことを
していれば、事故が起きるということが分かるのであれば、そのような事故が起
きないように対策をちらなければならないということなのである。
もし、それを怠って災害が発生した場合、民事賠償請求訴訟を起こされれば敗
訴する可能性が高いのである。そればかりか、業務上過失致死傷などの刑事罰を
受けるおそれもないとはいえないのだ。
次の、甲論、乙論のいずれが正しいかは、お分かりいただけると思う。
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【甲論】 リスクアセスメントは、厚生労働省が WEB サイトにアップしてい
る簡易な手法を用いれば、特別な知識がなくても費用もかからず容
易にできる。また、結果に基づく措置は努力義務なのだから必ずやら
なければいけないというものではない。
【乙論】 有害な化学物質を労働者に扱わせるのであれば、それによる災害発
生のリスクを適切に調べて、必要なら適切な対策をとらなければな
らない。それには一定の知識が必要であるし、また一定のコストをか
けなければならない。
厚生労働省が WEB サイトにアップしている簡易な手法といっても、万全で
はない。また、かなり過度な対策を求められることになる。そして、その対策を
とらないというのであれば、それによるリスクをどのように評価するかについ
てはやはり一定の知識が必要なのである。
また、安衛法が、努力義務を課しているだけだからといって、リスクアセスメ
ントの結果に基づく措置は行わなくてもよいなどと簡単に考えてはならないの
である。
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