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戦間期における国際通信社と国際政治
――岩永裕吉・クリストファー・チャンセラーと日英関係
The International News Agency and International Relations between the World Wars: Yukichi IWANAGA,
Christopher CHANCELLOR and the Anglo-Japanese Relations
高光佳絵
TAKAMITSU Yoshie
Abstract: This article analyzes the relations between the international news agency and
international politics between the World Wars with focusing on Yukichi Iwanaga, Domei
News Agency and Christopher Chancellor, Reuters. Both, connected with the Foreign
Ministries, played a significant role as the second track diplomacy between Japan and
the United Kingdom in the 1930s. Especially in 1938, Chancellor visited Japan for the
talk with the Japanese Foreign Minister, Kazushige Ugaki and Finance Minister,
Shigeaki Ikeda to insist the Japanese Army withdrawal from the Shanghai International
Settlement. This was organized by Iwanaga.
はじめに
本稿は、戦前日本の国際通信社「同盟」設立の中心人物としてメディア史に名を残す岩
永裕吉とイギリスの国際通信社「ロイター(Reuters)
」極東総支配人(General Manager for
the Far East)クリスファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)による国際政治、特
に日英の国家間関係への関与を論じるものである。
国際通信社とは、新聞社を対象にニュースを配信する組織である。19世紀半ばに、ヨー
ロッパで誕生し、フランスの「アヴァス(Havas)
」
、ドイツの「ヴォルフ(Wolff)
」
、イギ
リスの「ロイター」が激しい競争を展開した末、1859年に 3 社による世界分割協定が結ば
れるに至る。この協定によって、日本を含む東アジアは「ロイター」の独占地域となった。
三社の独占地域はそれぞれの帝国領域と密接な関連があり、有山輝雄は、世界規模もしく
は一定地域の情報の生産・流通などを支配し、その域内の住民の認識や思想に影響力を持
つ権力という意味でこれを「情報覇権」と呼んでいる1)。1870年にアメリカの「AP」が同
協定に加わったことから明らかなように、国際通信社を介した「情報覇権」は国際政治に
おける権力関係と連関していた。同協定の下、日本帝国も国際通信社の育成に乗り出し、
1920年代以降、
「ロイター」の支配からの脱却と極東における自らの「情報覇権」を求めた。
このような戦前期日本の情報政策形成にアイデアを提供し、それを先導したのが岩永裕吉
であり、彼は政治的にきわめて重要な人物であった2)。
1 ) 有山輝雄『情報覇権と帝国日本Ⅰ―海底ケーブルと通信社の誕生』吉川弘文館、2013年、 5 頁、
32-36頁。
「ロイター」については、Donald Read, Power of News: The History of Reuters 1849-1989 , Oxford
University Press, 1992.を参照のこと。同書は、「ロイター」所蔵の一次史料を駆使して書かれ、社史であ
りながら十分に批判的な分析が行われている。ただし、極東地域についての記述が相対的に少なく、有
山の著書は、これを補完する点でも重要である。
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戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
有山や赤見が明らかにしたように、国際通信社は民間組織ではあったが、各帝国政府と
密接な利害関係を持っており、各帝国政府とその国際通信社は相互依存関係にあった。
1930年代において、日本の情報政策は、
「新聞聯合社」
(以下、
「連合」
)を中心として形成
され、「AP」との提携により、「ロイター」支配からの脱却を実現し、日中戦争の拡大に
伴い極東における「情報覇権」を確立していったと位置づけられるが、その中心にいたの
が岩永であった3)。
本稿が取り上げるのは、岩永とチャンセラーという国際通信社に関わる民間人の国際政
治への野心的な関与である。有山や赤見の研究により明らかにされた情報政策・広報外交
のような非伝統的外交領域における活動に加え、岩永やチャンセラーは伝統的な外交領域
により近い側面でも積極的な活動を行っていた。彼らは、ビジネス上のライヴァルであり
つつ、双方の政府と密接な関係を持つ個人として「第 2 トラック4)」的役割を果たしてい
たのである。
非政府間の非公式な接触を意味する「第 2 トラック」は、冷戦終結以降、紛争解決の一
手段として注目を集めるようになった。元外交官らによって実務的に形成された概念であ
り、本来、主として民族紛争のような民間の共同体との関係を複雑に孕んでいる紛争への
対応として考案された5)。本稿で取り上げる事例への適用を想定したものではないが、外
交の一元化が困難な状況における紛争解決の手段と見ると、一定の共通点が見いだせる。
1930年代における日英関係は、両政府がそれぞれ外交の一元化に苦慮する中で展開されて
いたからである6)。
1930年代における日英合意の模索に関しては、すでに多くの先行研究が日英双方にあ
る7)。ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)蔵相による1934年の日英不可侵協定
締結構想、35年から36年にかけてのフレデリック・リース=ロス(Sir Frederick LeithRoss)の日英協力提案、36年の吉田茂駐英大使による活動、38年の池田成彬蔵相による日
2 ) 有山輝雄『情報覇権と帝国日本Ⅰ』
、『情報覇権と帝国日本Ⅱ―通信技術の拡大と宣伝戦』吉川弘文
館、2013年。海底電線などの技術的発展と通信社の興亡の中に日本帝国を位置づける通史的大著である。
岩永の構想の詳細、
「連合」
、
「同盟」と日本外務省、軍部との連携の実態については、Tomoko Akami,
Japan s News Propaganda and Reuters’News Empire in Northeast Asia, 1870-1934; Soft Power of Japan’s Total
War State: The Board of Information and Domei News Agency in Foreign Policy, 1934-45 , Republic of Letters
Publishing, 2012 and 2014.
3 ) 有山『情報覇権と帝国日本Ⅱ』259-275頁。Akami(2012)
, pp. 205-301. Akami(2014), 1-192.
4 ) 「第 2 トラック」という用語は、アメリカの元外交官モントヴィレ(Joseph V. Montville)が、1982
年に初めて使用し、その後、各国の市民ないし市民から構成される集団による、非政府、非公式な接触
および活動と理解されるようになった。佐々木豊「太平洋問題調査会と第 2 トラック外交」
『相愛大学
研究論集』第22巻、2006年、111頁。
5 ) John Davies and Edward Kaufman ed., Second Track/Citizens Diplomacy, Rowman & Littlefield Publishers,
2002, p. 2.
6 ) 一元化への苦慮の程度が日英間で異なっていたのはもちろんであり、特に日本において一元化がき
わめて困難な状況にあった。
7 ) 日本側の代表的な研究として、細谷千博「一九三四年の日英不可侵協定問題」
、波多野澄雄「リース・
ロスの極東訪問と日本」
『国際政治』58、1977年。木畑洋一「リース=ロス使節団と英中関係」野沢豊
編『中国の幣制改革と国際関係』東京大学出版会、1985年。松浦正孝『日中戦争期における経済と政治』
東京大学出版会、1995年。イギリス側の代表的な研究として、Stephen Lyon Endicott, Diplomacy and Enterprise , University of British Columbia Press, 1975. Ann Trotter, Britain and East Asia 1933-1937 , Cambridge
University Press, 1975. アントニー・ベスト(武田知己訳)『大英帝国の親日派―なぜ開戦は避けられなかっ
たか』中央公論新社、2015年。
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人文社会科学研究 第 32 号
英協調路線など、常に何らかの日英協調の模索が行われていたのは日英双方にそれを求め
る少数派が存在し続け、双方の外交が一元化されていなかったからである。
もっとも、アントニー・ベストが指摘しているように、日本側が推進した「日本の東ア
ジアにおける覇権」を前提とした日英協調にはほとんど可能性がなかったと言える。特に
吉田茂や重光葵が「親日派」イギリス人として重用したアーサー・エドワーズ(Arthur
Edwards)に対にして英外務省はきわめて批判的であり、逆効果であった8)。
しかし、本稿で取り上げるチャンセラーはいわゆる「親日派」ではなく、日本側のエー
ジェントとして活動するような人物ではなかった。また、英大蔵省と外務省の二元外交の
中で大蔵省側に属した人物でもなく9)、外務省と密接な関係を持つ人物であった。一方、
岩永も必ずしも一方的に「日本の東アジアにおける覇権」を受け入れるようにイギリス側
を説得しようとしたわけではない。むしろ、第一次近衛内閣期における両者の活動は、双
方の当事者に相手の認識を理解させることを目的としていた。
「第 2 トラック」は公式外
交(=「第 1 トラック」
)を補完し、公式折衝が行き詰まっているときにコミュニケーショ
ンや異文化間理解の機会を開くものであるとされる10)。彼らの活動は、まさにそのような
性質を持っていたのである。
本稿は、以上のような視角から、ロイター通信文書館(Reuter Archives)所蔵史料、ケ
ンブリッジ大学所蔵のジャーディン・マセソン文書(Jardine Matheson Archive, Cambridge
University)、イギリス国立公文書館(National Archives, Kew)所蔵史料、ロンドン大学東
洋アフリカ研究所文書館(School of Oriental and African Studies Archives, London University)のスワイア文書(Swire Papers)を中心とする一次史料を用いて、戦間期における非政
府間関係と政府間関係の交錯する状況を分析しようとするものである。まず、第 1 節では、
「ロイター」
・
「連合」通信契約交渉への英外務省の介入問題を通じて、岩永、チャンセラー
の日英双方の政府との関係を明らかにする。次いで、第 2 節では、第一次近衛内閣期に展
開された岩永・チャンセラーによる「第 2 トラック」の可能性を論じ、第 3 節では、国際
通信社の戦争協力問題から本事例の限界を論じる。
1 .「ロイター」
・
「連合」通信契約とイギリス外務省
英外務省は中国で事業を展開するイギリス人企業家の保護にそれほど積極的であったわ
けではなく、多くの中国事業関係者は外務省との関係をうまく構築できなかった11)。しか
し、チャンセラーは外務省関係者と個人的な人脈を持っていたことに加え、
「ロイター」
が国際通信社であったことが曲がりなりにも外務省との関係を構築する手がかりとなっ
た。前述のように、各国の国際通信社の盛衰は、国際政治上の権力関係と一定の連関があ
り、1930年代初めには極東における「ロイター」の地位を掘り崩そうとするアメリカの「AP」
による攻勢が開始された12)。国際通信社は民間企業であったが、英外務省もこの動きには
8 ) ベスト『大英帝国の親日派』143-164頁。
9 ) イギリスの二元外交についてはEndicottおよびTrotterを参照のこと。
10) Davies and Kaufman, p. 2.
11) イギリスの二元外交をもたらす一つの要因はイギリス人中国事業関係者の政府関係者への働きかけ
であったが、外務省には相手にされず、大蔵省との関係を深めていた。Endicott, p. 92.
12) 有山『情報覇権と帝国日本Ⅱ』259-275頁。
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戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
無関心ではいられなかった。
クリストファー・チャンセラーは、1904年にスコットランドの名家に生まれ、イートン
校、ケンブリッジ大学を経て、実業界に入ったが、1929年に職を失った。そのため、妻の
縁戚の紹介で「ロイター」に入社したが、まもなくその有能さを認められ、1931年 1 月、
極東総支配人として上海に派遣された13)。同年10月、満洲事変勃発直後に上海で開催され
た第 4 回太平洋(IPR)会議に参加し、日本の代表団の一員であった松本重治と知り合う。
松本は後に岩永にリクルートされて「連合」に入社し、32年12月に「連合」上海支局長に
就任し、チャンセラーと深い親交を持つことになるが、この二人を引き合わせたのはライ
オネル・カーティス(Lionel Curtis)であった。カーティスは、王立国際問題研究所(Royal
Institute International Affairs、以下RIIA)の創設者として知られ、1927年以降はRIIA内に
IPR委員会を設置し、太平洋問題調査会(The Institute of Pacific Relations=IPR)の活動にも
影響力を行使しようとしていた。また、チャンセラーの父であるジョン・チャンセラー(Sir
「ロイター」
John Chancellor)はIPRイギリス支部の議長を務めていた14)。チャンセラーは、
極東総支配人であるだけでなく、上海共同租界参事会にも関与し、ジャーディン・マセソ
ン商会のケジック(John Keswick)らとの親交も深かった15)。
1933年 5 月下旬、
「AP」総支配人のケント・クーパー(Kent Cooper)が「連合」との交
渉のために来日すると、
「ロイター」はチャンセラーを上海から東京に派遣し、介入を試
みた。この問題にまず関心を寄せたのは駐日英大使館参事官のスノウ(Snow)であった。
スノウはチャンセラーの訪問を受け、すぐに岩永との非公式な会談を行い、
「ロイター」
との契約継続を要請した。
同時に、
本省に対して駐英日本大使を通じて日本政府にアプロー
チするよう要望した16)。
「ロイター」総支配人のロデリック・ジョーンズ(Roderick Jones)も一時帰国中のリン
ドレイ(Francis Oswald Lindley)駐日大使にロンドンで問題の緊急性を訴えたため、英外
務省はスノウに対応を委ね、スノウは重光葵外務次官、白鳥敏夫外務省情報部長に接触を
図った。スノウによれば、日本外務省は大変同情的で、岩永に非公式に指導することを約
束したという17)。「AP」の攻勢は「ロイター」にとって大きな経済的損失を伴うものであっ
たが、英外務省が関心を示したのは、
むしろこの攻勢によってイギリス帝国に関するニュー
スがアメリカの国際通信社によって供給される可能性が浮上したことであった。
しかし、このときすでに「連合」・「AP」間には新契約が成立していた。岩永は、駐日
英大使館の動きを警戒したためか、27日にクーパーを伴って大阪へ移動し、調印を終えて
いたのである18)。
6 月 7 日、岩永は駐日英大使館のガスコイン(Gascoigne)二等書記官と会談したが、
13) Reed, p. 170.
14) Minutes of 40th Meeting, 1933/3/31, IPR Committee, 6/1/3, Royal Institute of International Affairs. ジョン・
チャンセラーは、1928年から31年にかけてパレスチナ・トランスヨルダン高等弁務官を務めたが、イギ
リスのアラブ政策に失望して退任し、王立国際問題研究所IPR Committee, Royal African Societiesなどの
メンバーとなった。H. C.G. Matthew and Brian Harrison ed, Oxford Dictionary of National Biography , Oxford
University Press, 2004.
15) FO371/17063, F5495, Foreign Office Minute by Harcourt Smith, 1933/8/15.
16) FO359/497, P1283/1283/150, Snow to Simon, 1933/6/1.
17) FO359/497, P1283/1283/150, Snow to Simon, 1933/6/1.
18) FO359/497, P1408/1283/150, Snow to FE, 1933/6/3.
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人文社会科学研究 第 32 号
その際の話の運びは非常に巧みであった。岩永は、政府当局の介入に嫌悪感を示し、大使
館側のあからさまな介入に釘を刺しつつ、日英友好関係の増進という点では、協力もやぶ
さかではないという方向に誘導した。英大使館側は、イギリス関連のニュースがアメリカ
のフィルターを通して日本に供給されることは望まない、という点に要望を絞り、この点
について理解を示した岩永を「非常に誠実な人物」と評価することになった19)。
一方、チャンセラーは、 6 月初旬、極東情勢報告をカーティスらに送った。この報告書
において、チャンセラーはかなり悲観的な中国情勢の展望を示した。満洲に隣接する熱河
省をめぐる関東軍と中国軍の軍事衝突は1933年 2 月頃から本格化し、長城以南へと拡大を
見せていた。彼によれば、蔣介石は 2 月の熱河侵攻前に日本と直接交渉しようとして宋子
文に阻止されたものの、最終的に華北に行き、張学良を取り除き、何応欽にすげ替え、交
渉を促進したという。また、宋子文が、ロンドン世界経済会議に関連して欧米を外遊する
ことになったのは、彼自身、中国は日本と妥協せざるを得ないと認識し、対日交渉が進む
間、国外に出ることにしたのではないかと推測している。そして、日本が作戦領域を華北
に拡大している点についても言及し、北平や天津を占領することはないまでも、華北への
浸透はあり得るとし、その結果、南京から独立した華北(日本の影響下で満洲国と一緒の
フレームで協力する)
、日本との了解に基づいた揚子江流域の南京政府、独立勢力として
の広東の 3 つになる可能性があるという展望を示した20)。チャンセラーは、5 月末に至り、
中国側の停戦申し出により塘沽停戦協定が結ばれる前後にこの報告書を作成したと考えら
れる。
また、満洲に関しては、
「中国は怒りを忘れたようだし、日本はまるでジュネーブとい
う場所が存在しないかのように満洲国建設を推進している」として国際連盟の無力を嘆き
つつ、日本は満洲国において急速に前進し、あらゆるところで鉄道や道路の整備をし、通
貨システムを改善しつつあるとの認識を示した上で、日本は、このような満洲国の既成事
実化の後、三年以内に第二のワシントン会議開催をめざしていると考えられると報告した
のである。カーティスは、このチャンセラーの報告書をスワイア商会のジョン・スワイア
(John Swire)に転送しており、さらに英米煙草会社のアーチボルト・ローズ(Archibald
Rose)、ケジックらイギリスの中国事業関係者にも共有された21)。
チャンセラーは、1933年 6 月初旬、新京において満洲国通信社との通信契約を締結して
いた。これは通信契約中に「満洲国」という文言を用いることにより「ロイター」が事実
、ア
上、満洲国を「承認」したことを意味していた22)。岩永は、イギリスの「ロイター」
メリカの「AP」、IPRの三者による民間ベースの満洲国「承認」を企図していた。この問
19) FO359/497, P1283/1283/156, Memorandum by Gascoigne, 1933/6/7; Snow to Simon, 1933/6/1; Snow to Sir
A. Willert, 1933/9/1. 岩永は、スノウに対してアメリカの影をちらつかせている。グルー駐日米大使がア
メリカのニュースが直接日本に供給されることに影響力を行使するよう大統領に要請したというのであ
る。実際にグルーがそのような行動を取っていたかどうかは確認できないが、この契約をめぐっては英
米の対立を際だたせる形で、日本が「ロイター」支配からの脱却を実現し、後に岩永がロンドンにおい
て「ロイター」と「AP」の仲介をする役回りを演じた。このとき、岩永がロンドンに到着する頃を見
計らって、スノウは、岩永がゴルフ好きであることを本省に知らせ、接待を要請している。
20) Curtis to Swire, 1933/6/12, box1187, JSS1/3/10, School of Oriental and African Studies Archives, London
University.
21) Curtis to Swire, 1933/6/12, box1187, JSS1/3/10, School of Oriental and African Studies Archives, London
University.
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戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
題についてはすでに、別稿で論じているので、経緯の詳細には触れないが、
「ロイター」
、
「AP」と満洲国通信社との通信契約、満洲国のIPR加盟を通じて民間レベルにおける満洲
国「承認」をめざした構想であった。この過程で岩永は、チャンセラーとの間で日英間の
「第 2 トラック」の担い手としての基盤を構築したのである23)。
1933年 8 月、イギリスへ一時帰国したチャンセラーは対日妥協を模索すべく英外務省に
アプローチした。彼は、英外務省極東課のハーコート=スミス(Simon Harcourt-Smith)と
会見し、中国内政においては宋子文の威信が低下しており、蒋介石・汪兆銘が対日妥協に
傾いていることから、イギリスも同様の方向へと動くべきだという見解を伝えた24)。英外
務省は、対日妥協には気乗り薄であったが、情報源としてチャンセラーを確保することは
重視し、以後も接触を保った。
また、岩永も様々な形で対英関係改善を求めるメッセージを伝え続けた。たとえば、
1933年末のスノウの離任に際し、日本側は荒木貞夫陸相との会談を設定した。同様の手法
で同年夏に荒木とクーパーの会談が設定され、
「AP」を通じた対米関係改善のメッセージ
が発せられたこととあわせて考えると、この件にも岩永が関与していた可能性が高いと思
われる25)。
2 .第一次近衛内閣首脳とチャンセラーの会談
このような企業人間の国際的人脈を通じた日英関係改善の模索は、1937年 7 月の日中戦
争勃発後も続き、第一次近衛内閣初期におけるチャンセラーとケジックの来日につながっ
た。ケジックは、ジャーディン・マセソン商会を代表する人物の一人であった。
1938年 5 月26日、第一次近衛内閣改造で、宇垣一成が外相、池田成彬が蔵相となり、松
浦正孝が「池田路線」と呼ぶ財界による中国開発の統制が行われようとしていた。
「池田
路線」は、日英協調路線でもあり、池田、加納久朗横浜正金銀行ロンドン支店長とイング
ランド銀行の連携が知られているが、もう一つのルートとしてチャンセラーらが機能して
いたと位置づけられる。
1938年 6 月に来日した二人は、岩永の仲介で池田蔵相、宇垣外相に面会し、上海共同租
界からの日本軍撤退を訴えた26)。岩永は、1933年の非政府組織による満洲国同時「承認」
構想以来、連携していたチャンセラー、ケジックの来日を支援することにより日中戦争の
解決を模索したのである27)。
チャンセラーは、宇垣外相との会談において、日中戦争が始まった頃は、多くの上海在
22) 拙稿「国際主義知識人のトランスナショナル・ネットワークと満州問題」
『史学雑誌』123-11(2014年
11月)70-75頁。従来、松本重治の回顧録の記述から 5 月末とされてきたが、英外務省記録からチャンセラー
の足跡をたどると 6 月初旬と考えられる。FO359/497, P1398/1283/150, Snow to FO, 1933/6/1; P1409, Snow to
FO, 1933/6/3.
23) 拙稿「国際主義知識人のトランスナショナル・ネットワークと満州問題」64-88頁。
24) FO371/17063, F5495, Foreign Office Minute by Harcourt-Smith, 1933/8/15. チャンセラーは次の駐中国大
使に内定していたカドガン(Alexander Cadogan)との会見を望み、外務省側も調整を試みたが、彼のイ
ギリス滞在中には実現しなかった。
25) FO371/18184, 1933/12/22 Snow to Orde. 拙稿「国際主義知識人のトランスナショナル・ネットワーク
と満州問題」74-75頁。
26) No. 1856, 1938/07/06, MS JM/J8/1/11, Jardine Matheson Archive, Cambridge University.
27) 原田熊雄述『西園寺公と政局』第 7 巻、1952年、岩波書店、17頁。
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人文社会科学研究 第 32 号
住イギリス人が日本に対して好意的で、和平が達成されれば協力しようと考えていたと前
置きしつつ、現在は大半のイギリス人は敵対的になっている、と伝えた。これは、日本軍
の態度があまりにも悪いためであり、英軍との衝突が回避されているのは、イギリス側の
抑制によるものであり、現在もきわめて危険だと強調した。さらに、日本陸軍が共同租界
の一部を占拠している限り日英間は通常の関係には復帰できないとして、撤退を求めた。
そして、ケジックは、特に影響力の大きい人々が住んでいる地区へのイギリス人の帰還を
認めるよう要望し、そうすれば、イギリスの利益は日本との協力にあると思うようになる
だろうと請け合ったのである。
宇垣は二人に謝意を述べ、日英協力は日本の利益であるという点に同意したという。翌
日、宇垣に会った岩永も、宇垣はチャンセラーに感銘を受けていた、と彼らに伝えた。チャ
ンセラーは、堀内謙介外務次官とも面会した。
チャンセラーとケジックは、駐日英大使館を訪問して、この会談について報告し、同大
使館から本省にも詳細に報告された28)。駐日英大使館は、同会談を大変意義のあるもので
あったと伝えている。
岩永が彼らの日本政府との接触を仲介したのは、上海のイギリス民間人の対日認識を政
府関係者に理解させるためであったと考えられる。日英関係の改善のためには、イギリス
人に対する直接的な利益の提供が重要であり、どのような措置を彼らが望んでいるのか、
率直に話させることで、日英関係改善の糸口を得ようとしたのである。
満洲事変以降においても、満洲にイギリスやアメリカの資本を導入する、というような
構想は何度となくあったが、その多くは英米人の側からは魅力のないものであった。この
訪日においても、ケジックらは、いわゆる「青年将校」グループとも会見しているが、軍
人側の「揚子江を返還したら、君らは我々に何をしてくれるのか」との問いに、
「盗まれ
たものの返還に、ふつう、代償は必要ない」と回答する場面もあった29)。関係改善の意図
があったとしても、相手の利益が適切に認識できないという問題が日本側にはあったので
ある。
ケジックらがまず望んだのは上海租界、漢口、揚子江の回復であった。英外務省は、中
国ビジネス擁護にそれほど熱心ではなく、例えばハウ(Howe)極東課長は上海共同租界
を放棄することも考えていた30)。しかし、実際にビジネスに関わっているケジックらにとっ
て、それはあり得ない選択であった。注目すべきは、彼らも日本が最終的に勝利するとは
思っていないものの、すぐに崩壊するほど悪い状況にはないと認識し、自らの利益を守る
ために対日妥協が必要だと考えていた点である。ここに小さいながらも日英関係を暫定的
に改善する糸口があったのである。
3 .国際通信社と戦争協力
前節までに見たように、国際通信社は民間企業ではあったが、その性質上、政府にとっ
て無視できない存在であり、一方、国際通信社間の競争において様々な形式の政府の補助
は不可欠であったが、戦争は両者の相互依存関係をより深いものとすることになった。本
28) FO371/22092, F8018, Craigie to Halifax, 1938/6/28.
29) Keswick to Paterson(no. 2706)
, 1938/9/1, J8/1/11, Jardine Matheson Archive , Cambridge University.
30) Memorandum by Carter, 1938/7/6, box 12, IPR Papers , Columbia University.
20
戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
節では、「同盟」
、
「ロイター」両社の戦争協力が進む中で、
「第 2 トラック」の役割の変化
と限界を明らかにする。
前述のように、1938年 6 月、チャンセラーとケジックが来日し、宇垣外相らと会談した
が、チャンセラーの来日には同盟通信社(
「同盟」
)との下交渉という国際通信社の業務上
の理由もあった。
「同盟」は、1936年に「連合」と「電通」が政府主導で合併してできた、
独占的通信社であり、岩永が社長を務めていた。日中戦争の開始に伴い、
「同盟」の通信
網強化は政府補助により急速に進み、1937年12月、
「同盟」は「ロイター」にこの変化を
前提とした改定を申し入れていた。それは「ロイター」とのより平等な関係をめざしての
ものであった。岩永にとって、究極の目標は、イギリス帝国を含む全世界で「同盟」が自
由にニュースを発信することであったが、その実現は日中戦争の拡大による政府の補助強
化によるところが大きかった31)。
一方、この下交渉において「同盟」が示した条件に驚いたチャンセラーは、駐日英大使
館に支援を求めた。この直前に、「同盟」は、フランスの国際通信社「アヴァス」と協定
を結んでいた。チャンセラーによれば、この協定により「同盟」のエージェントがパリ、
ロンドンその他で集めたニュースを「アヴァス」が東京に送ることになり、
「同盟」が受
け取るニュースに占める「アヴァス」の割合は50%に上昇した(
「ロイター」は15%)と
いう。そして、「同盟」は「ロイター」に対しても「アヴァス」と同様の契約を考えてい
るが、「ロイター」としては受け入れがたいとして、このような契約改定を回避し、かつ「同
盟」との関係を断絶せずに済むような支援を求めたのである32)。チャンセラーの支援要請
の具体的内容は、通信料の減額と外交ルートを通じた「同盟」に対する非公式の圧力の二
点であった。
駐日英大使館のアシュリー・クラーク(Ashley Clarke)は、チャンセラーとの会談後、
「同
盟」の前ロンドン支局長、福岡誠一に非公式に接触し、
「同盟」は「ロイター」のイギリ
ス国内ニュースと「同盟」の日本国内ニュースを交換することを望んでおり、
「ロイター」
の世界ニュースへの需要がないことを確認した33)。駐日大使館から報告を受けた英外務省
は、もし、
「アヴァス」同様の契約が結ばれれば、
「ロイター」は、日本のプロパガンダを
含む「同盟」のニュースを「ロイター電」としてイギリス帝国内に配信することになりか
ねないと憂慮した34)。
しかし、有山も指摘しているように、英外務省は日本のプロパガンダを警戒する一方で、
特にドイツへの対抗からイギリスの情報発信への政府補助を強化することを検討しつつ
あった。当時、キングスリー・ウッド(Kingsley Wood)を議長とする内閣委員会がイギ
リス製のニュース供給増加のために、
「ロイター」を援助する方途を議論しており、
「ロイ
ター」に通信設備利用料の大幅減額を認めることが決定した。これは事実上の政府補助で
あった35)。
31) 有山『情報覇権と帝国日本Ⅱ』377-391頁。
32) Clarke to Leeper, 1938/7/4, 1/970125, LN733, Reuter Archives. ロイター文書館で入手したが、一連のイ
ギリス外交電報の写し(FO395/577, P2419/84/150)である。
33) Clarke to Leeper, 1938/7/4, 1/970125, LN733, Reuter Archives.
34) Memorandum by Foreign Office, 1938/8/8, 1/970125, LN733, Reuter Archives.
35) 有山『情報覇権と帝国日本Ⅱ』391-393頁。
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人文社会科学研究 第 32 号
ただし、英外務省情報課と「ロイター」の関係はやや複雑で、ドイツの文化的プロパガ
ンダへの対抗を主たる目的としてブリティッシュ・カウンシル(British Council)の設立
を手がけたリーパー(Sir Reginald .A. Leeper)情報課長は、徹底した「ロイター」の批判
者であった36)。英外務省は必ずしも「ロイター」の情報の質に満足していなかった。リー
パーは、通信料の減額決定についてチャンセラーには知らせないよう、指示した37)。また、
「同盟」への非公式な圧力に関しては、駐日大使館が注意深く介入することについては承
認したものの、ロンドンにおける駐英日本大使館への介入は望ましくないとして退けたの
である38)。チャンセラーは、 9 月初め頃に非公式に日本側関係者に申し入れをし、駐英日
本大使やそのスタッフにも「ロイター」との絆を断つのは近視眼的だと注意して欲しいと
要請しており、 9 月の交渉開始を見込んで、日英双方で英外務省が非公式の圧力をかける
ことを望んでいたが、これは聞き入れられなかったと言える39)。
ところが、この交渉をめぐって吉田茂が介入を行う。 9 月中旬、駐英大使を退任するこ
とが決まっていた吉田が、
「ロイター」総支配人ジョーンズと面会し、
「同盟」との契約に
関して「ロイター」に助力することを約束したのである40)。吉田が岩永に対して実際に影
響力を行使し得たかどうかは明らかではないが、この契約更新は1939年 2 月に最終的に調
印され、「同盟」からロイターへの支払いは年額1000ポンドにまで減額されたものの、
「ロ
イター」は「同盟」ニュースを取捨選択する権利を得たので概ね日本のプロパガンダに荷
担する恐れはなくなった41)。
1938年10月、アメリカのウェルズ(Sumner Welles)国務次官が対日経済制裁に積極的な
姿勢を示すと、チャンセラーは対日経済制裁支持に転じ、旧知のバトラー(R. A. Butler)
外務次官に対日経済制裁実施を訴えた。チャンセラーは日中戦争を終結させることがイギ
リス利益にとって重要だと考えており、その手段に対しては柔軟であった。彼は、自らを
「親日的でもなければ、親中的でもない。イギリスの利益のみを考えている」と位置づけ
ており、交渉相手は岩永に限定されていたわけではなかった。
チャンセラーは、中国政府の力が戦争開始以来、着実に弱まっており、日本の成功を疑
問視するのは希望的観測だとしている。なぜなら、日本軍は鉄道、海岸線、河川、港をコ
ントロールしており、それはいわゆる「点と線」の占領であることは事実であるが、必ず
しも日本を悩ませているわけではないと観察していたからである。彼は、中国のゲリラ戦
をあまり評価していなかった。一方、日本側が「傀儡」とする中国人の質は次第に上がっ
ており、この点からも戦局は楽観視できないと考えていた42)。実際、日本側は汪兆銘とい
うかつての国民党ナンバー 2 の担ぎ出しに成功しつつあったのである。
チャンセラーは、アメリカ国務省が日本政府に対して発した10月 6 日付通牒を重視し、
36) Read, p.182. Phillip M. Taylor, The Projection of Britain: British Overseas Publicity and Propaganda 19191939 , Cambridge University Press, 1981, pp. 29-32.
37) Memorandum by Foreign Office, 1938/8/8, 1/970125, LN733, Reuter Archives. Donald Read, The Power of
News , Oxford University Press, 1992, p.185.
38) Leeper to Clarke, 1938/9/9, 1/970125, LN733, Reuter Archives.
39) Clarke to Leeper, 1938/7/4, 1/970125, LN733, Reuter Archives.
40) Jones to Chancellor, 1939/9/15; 1939/10/20, box 44, Roderick Jones Papers , Reuter Archives.
41) 有山『情報覇権と帝国日本Ⅱ』390-395頁。
42) Copy of letter from Chancellor to Butler, 1938/11/18, 1/880906, LN432, Reuters Archive.
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戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
イギリス政府はここでリスクをとって、アメリカ政府に追随すべきだと主張した。同通牒
の背景には、1938年 5 月末から 6 月にかけての日本軍の広東爆撃にアメリカ製兵器が使用
されたことに刺激されたアメリカ世論の盛り上がりがあった。その内容は、アメリカ政府
がアメリカにおける日本権益を、日米通商航海条約を遵守し、国際法の精神に基づき保障
しているにもかかわらず、満洲事変以来、日本政府が中国におけるアメリカの権益を侵害
していることへの抗議の形式をとっていた43)。
チャンセラーは、アメリカの同通牒における日米通商航海条約への言及をアメリカの対
日政策強硬化の兆しと見た。そして、もはや日本に対する報復以外にイギリスの中国権益
を守る手段はないのであり、そのために、イギリス政府は日英通商航海条約の廃棄を通告
することがまず必要であると主張したのである44)。アメリカにおいても対日経済制裁を支
持する人々は、日米通商航海条約の廃棄を主張していた。対日経済制裁を合法なものとす
るには、最恵国待遇を規定するこれらの条約の廃棄が予め必要だったからである。
しかし、対日妥協に反対する英外務省は、他方で日本を挑発することには消極的であり、
彼の提言は受け入れられなかった。ケジックは、このような外務省の態度は、我々が日本
からやむことのない挑発を受けていることに目をつむるものであると批判している45)。日
本の財政的崩壊はいずれ訪れるかもしれないが、それは中国におけるイギリス利益が消滅
する前ではないことが彼らには問題であった。
チャンセラーはヨーロッパ情勢のことを考えていなかったわけではない。むしろ、ヨー
ロッパ情勢が急を告げているからこそベルリン・東京枢軸を東京の側で弱めることに意味
があると考えていた。イギリスが強硬な姿勢を示すことで、日本の三国同盟推進派の勢力
を弱めることができると考えたのである。もちろん、それはイギリス単独では不可能であ
るが、英米が協調すれば可能であり、イギリスがうまくカードを切れば「極東での英米協
調は可能であることを肝に銘じるべき」であった46)。
翌1939年にチャンセラーは、総支配人補佐(assistant general manager)としてロンドン
に戻った47)。同年、 9 月、第二次世界大戦開始と同時にイギリス政府は情報省を設立した。
10月に「ロイター」総支配人の一人となったチャンセラーは、情報省と協力して活動する
が、その中でも「第 2 トラック」あるいは情報源としてあらゆるネットワークを維持しよ
うと努力した。
1940年 5 月26日、チャンセラーは、極東への長期出張に出発したが、その主要な任務は
重慶の蒋介石政権との調整であった。
「ロイター」
は、
汪兆銘の南京政府の通信社である
「中
央電訊社」と通信契約を結んでいたが、この契約を知って激怒した蒋介石をなだめる必要
があったのである。しかし、重慶における蒋介石らとの会談の末、チャンセラーは「中央
43) Jonathan G. Utley, Going to War with Japan 1937-1941 , University of Tennessee Press, 1985, p. 63. Walter
LaFeber, The Clash: U.S.-Japanese Relations Throughout History , W.W. Norton & Company, 1997, p. 188. 加藤陽
子『模索する一九三〇年代』山川出版社、1993年、152頁。
44) Copy of letter from Chancellor to Butler, 1938/11/18, 1 /880906, LN432, Reuters Archive.
45) Keswick to Bernard, 1938/11/17, J8/1/11, Jardine Matheson Archive , Cambridge University.
46) Keswick to Bernard, 1938/11/17, J8/1/11, Jardine Matheson Archive , Cambridge University.
47) Read, pp. 170-171, pp. 185-188. イギリス政府は、それまであまり評価していなかった 「ロイター」
に本格的支援を与えるに際して、ジョーンズの引退を希望しており、政府とジョーンズ双方の納得でき
る候補としてチャンセラーが浮上した。
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人文社会科学研究 第 32 号
電訊社」との契約解除を決断せざるをえなかった。一方で、上海の「ロイター」極東総支
配人に「中央電訊社」との接触を重慶には気づかれないように継続するよう指示してい
る48)。日本の傀儡である汪兆銘政権と重慶の蒋介石政権双方との関係を維持するために奮
闘したのである。
さらに、極東主張を終え、 7 月下旬にニューヨークに着いたチャンセラーは、英情報省
の新たな指示に従い、さらに南米への視察にでかける。フランスの降伏( 6 月)に対応し
て「アヴァス」の南米における通信網を「ロイター」が引き継ぐためであった。
日本軍部はこのようなチャンセラーの活動をスパイ行為と見なしていたようである49)。
これを実証的に裏付けるのは難しいが、そういう側面があった可能性は高いであろう。英
情報省が「ロイター」の満洲国通信員の給与を負担したり50)、駐中英大使館が中国の英字
紙の「ロイター」との通信契約料を負担したりするなど、第二次世界大戦勃発以降、
「ロ
イター」とイギリス政府の関係はより親密なものとなっており、
「同盟」
同様、
「第 2 トラッ
ク」としての自律性は著しく損なわれていったのである。
結び
本稿で明らかにした日英関係改善をめざした岩永、チャンセラー、ケジックらの活動は、
結局、実を結ぶことはなかった。また、彼らの追求した日英関係改善は中国の犠牲を前提
としており、理念としても問題があったことも確かである。
しかし、冷戦終結以降、紛争解決の一手段として注目を集めている「第 2 トラック」は
必ずしも正義の実現を最優先事項とするものではない。国際社会における正義の実現が望
ましいことはもちろんであるが、戦争状態の継続による大きな犠牲を考えた場合、まず停
戦を実現することはきわめて重要である。そのために、正義の実現の面で妥協を含むとし
ても関係諸勢力間の対立点をできるだけ解消して合意に達することもやむを得ない場合も
あろう。
このように考えたとき、彼らの活動は「第 2 トラック」として一定の意義があったと考
えられる。まず、「第 2 トラック」は「第 1 トラック」と何らかの結びつきを持ち、影響
力を与えうることが重要な前提とされているが51)、岩永、チャンセラーは日英双方の政府
及び外務省との接触が容易な立場にあり、場合によっては影響を与えることができた。岩
永、チャンセラーは「同盟」
、
「ロイター」という日英双方を代表する国際通信社の中心的
人物であった。彼らの関わる国際通信社というビジネスの性質上、彼らの活動に政府関係
者が無関心でいられなかったことが、彼らが政府関係者に影響力を持ちうる資源となった
のである。彼らは「第 2 トラック」が重要な役割を果たすための条件を備えていたという
ことができる。
また、岩永、チャンセラー両者共に現実を直視した上で、日英間の対立点をできるだけ
48) Chancellor to Managing Director, 1940/11/1, box 45, Jones Papers , Reuter Archives.
49) Report of Japanese Army Headquarters in Shanghai, 1940/7/31, LN432, Reuter Archives. 但し、この文書は
英文であり、原文ではない。
「ロイター」の入手経緯も不明である。
50) Chancellor to Managing Director, 1940/7/1, box 45, Jones Papers , Reuter Archives.
51) Edward Azar,“Protracted Social Conflicts and Second Track Diplomacy”
, John Davies and Edward Kaufman
ed., Second Track / Citizens’Diplomacy, Rowman & Littlemield Publishers, 2002, p.23.
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戦間期における国際通信社と国際政治(高光)
解消するために努力した点は評価できる。この点は、日英間、日米間で試みられた数々の
関係改善の模索において欠けていたものであり、特筆に値する。岩永は、英米との協調に
は関心を持ちながら、有効なアプローチを講じられない日本軍部に、まず相手方との対立
点を明確に示し、双方の違いをどう縮めていくかを考えるテーブルに着かせようとしてい
た。チャンセラーも同様であり、イギリス人が日本に対して望むことを率直に示すと共に、
イギリス外務省が主張する日本に対する非妥協的な政策を支える軍事力を欠く状況におい
て、イギリス外務省に対して、何らかの妥協が必要であることを認識させることに努めた
と言える。この点、親日派として挙げられることの多いエドワーズやピゴットのような日
本の問題点に目をつむる人々を仲介とした吉田茂や重光葵による日英関係の改善の試み52)
より現実的なものであったと言える。
しかし、政府との距離の近さは、彼らが有望な「第 2 トラック」となり得る前提条件で
ある一方、諸刃の剣でもあった。岩永、チャンセラー共に、自社が自国政府から独立して
いることは重要だと認識していた。彼らは、外国政府のプロパガンダを排除するために自
社の存在が重要なものだという認識であり、そういったものを排除した真のニュースを提
供することにより、プロパガンダに対抗するというのが基本姿勢であった。したがって、
自社が政府のプロパガンダを担う機関だとみなされれば信用を失い、所期の目的が果たせ
ないので、政府から形式的に独立しているだけでなく、政府から独立した報道を行う必要
があった。
この点について、日英両政府とも理解を示したとは言えない。両政府とも、
「同盟」
、
「ロ
イター」をそれぞれ政府広報の一環に組み入れようとした。これは結果的に、政府自らの
「同盟」報道
目的を損なうものであったが、その点の理解が十分でなかったと言える53)。
が戦局が進むほど政府からの独立性を失っていったのはもちろんのこと、
「ロイター」も
程度の差こそあれ同様であった。その程度の差は、日英間の戦況の違い、すなわち日本の
方が隠すべき情報が多かったことにかなりの程度左右されていたと考えられる。「ロイ
ター」 が 「同盟」 よりは有効なプロパガンダであり得たのは、相対的に 「同盟」 報道より
も 「ロイター」 報道により多くの真実が含まれていたためであり、
「ロイター」報道が全
て真実であり公正中立であったわけではない。
「第 2 トラック」において「第 1 トラック」との結びつきは不可欠であるが、その距離
の取り方はきわめて難しい問題であると言える。岩永とチャンセラーは、残念ながら、こ
の距離の取り方に失敗したと言わざるを得ない。彼らをその点で批判することは容易であ
るが、これは主権国家を単位とする国際政治の構造上、なかなか現在においても克服する
のが難しい問題であり、
「第 2 トラック」の当事者が直面するディレンマを示していると
言えよう。
本研究はJSPS科研費26370756、15H03320の助成を受けたものです。
52) アントニー・ベスト(武田知己訳)
『大英帝国の親日派』中央公論新社、2015年。
53) チャンセラーは、1940年 4 月、他の二人と共にジョーンズに引退を迫ることになった。その原因の
一端は、イギリス政府との協力問題に関するジョーンズへの不信であった。しかし、チャンセラー自身
も第二次世界大戦の中でイギリス政府に密接な協力を行うことになったのである。Read, p. 170-171.
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