Page 1 別府史談会では、平成B年3月7日の春季講演会に、大分県地方

﹁江戸時代の刑罰﹂
︵講演︶ 芦 刈 政
別府史談会では、平成16年3月7日の春季講演会に、大分県地方史研究会参与で大分県部落史研究会副会長でもある芦刈
政治先生をお招きして、﹁江戸時代の刑罰﹂と題し講演していただきました。先生は、古文書史料のひもときに関心を深め
てもらえたらと、府内領での牛泥棒と縁坐の一件、森領内での女囚の逆恨みと絡んだ破牢の一件を、江戸時代中後期の刑罰
観の若干の変化に留意しながら、つぶさに解説して下さいました。ところが後日、有畜農業の経験豊かな会員の方々は、牛
盗人がいかに脅威であり重罪に値したかを田らい起こしたと言い、一方では破牢に牢内の密通とはという意外さに興味をそそ
られたと言い、残念ながら読み直しが困難なので、小分かりのする解きほぐしの文を添えてほしいとの声が、次々に聞かれ
ました。このため、芦刈先生に改めてお願いし、補記文の校閲を受けた上、本号に掲載することについても快諾いただいて
います。
I 府内藩仕置一件
二十二曰 くもり
︵県先哲史料館蔵による︶
◇
はる
治
︿捕記文貴・編集部手嶋﹀
︵なお、府内藩お仕置一件については﹃おおいた部落解放史﹄第13号、第17号に詳述されていますので、中し添えます。︶
※史料1
廿二日 曇天
は、去年の春牛を盗んだのだが、その直後に府内︵大分︶
一、この日、内成村の三吉と、田代村の平六について、二人
火災。以後御用多候二村差控村方二面番人附置、去冬中出
城下で大火かおり、公務多忙で、調べをさし控えて、村役
⑦三吉田代村⑩平六 去春牛を盗収得共`
◇
候二村、役人具申村、吟味可致候処、牛盗取候義白状二村
一、同日 内成村
◇
−55−
に
つ
い
て
の方で番人を付けて待機していた。やがて冬時分になり、
一一
直二入牢中村、御仕置之儀江戸汀相伺候処、右雨入共二打
申し出があったので、役人たちに申しっけ、吟味にかかっ
一一
く獄
び門
ご く披
もL
ん仲
谷村
こ之
れ・
を おおぜつけらる
首
たところ、牛を盗み取ったことを白状したので、直ちに
入牢を申しっけた。お仕置のことにっいては江戸表のお
殿様に伺いを立てたところ、この両人ともに、打首獄門
の刑とするよう命じられた。
内成村は西南部由布川流域が現挟間町内成、北東部七城川流域が現別府市内成に二分されている。︵一九五六年︶
田代打は内成村の下流側のとなり村。七城西部小学校以東の一帯で、現挟間町田代。
︵注︶⑦
⑩
火災⋮⋮J見保三二七四三︶年四月、府内城下で大火。府内城の東部分や本丸も類焼。町屋・武家屋敷などI、一
五言戸が焼失。その影響に触れているので、この日誌の日付は翌延享元年︵二月改元︶のころとみられる。
中渡
内成村の三古 及び
申し渡す 。
打首獄門⋮⋮打首は斬首刑。獄門は、この場合は出身地の村内で七日間の巣首︵さらし首︶にしたようである。
内成村 三 吉
田代村の平六 へ
※史料2
田代村 平 六
其の方ら両人が、去年四月に内成村の孫兵衛・喜三郎の
た。
どを書いた高札をっけてさらし首にするよう仰せっけられ
う引き回わしをした上で、首を斬り、氏名・年齢・罪状な
牛を盗んだのは、不届きである。重罪であるので、町じゅ
両人 去四月 内成村孫兵衛、じ匹二郎 牛を盗候事不屈二
、
重
罪
二
村
町
中
引
但
し
/
示Z
上
、
討
宍首
よ獄門披 仰村之
候
一一一一一一一一一一
−一一
−56−
︵バ︶
谷
ド級役人に武具を持って随行
装置して、馬Lにまたがら廿、
罪人に曲崖︵椅子の一種︶を
っ引眉・:斬罪以上の重罪に付加した刊。
けた板の立札。
刑の執行役、三〇日間掲げ続
罪状などを記し、街頭に立て、
の獄門に使用。氏名・年齢・
I I︱
rI%
♂
っ捨札⋮引廻し死罪では用いず、重罪
︵注︶玉︶町中引刎し⋮⋮府内城下の町なかを一巡したのち、万方寺へ。そこから大分川河畔の刑場へ向かった。
※史料3T﹃刑罪大秘録﹄収載の﹁引眉図﹂を紹介。情景理解の使に供したもの︶
一利乖大柄!り珊輯
引畷死馨″捨札一之
Sca‘u¥9
ふ誹ny
こ作事
するよう役割分担させた。
図
に
よ
る
と
、
槍
・
や刺
o股
・
万突
有棒
また つくほう
をもっている人は﹁谷ノモノ﹂。
高札ふうの捨札や、幟をもち、
あるいは罪人に付き添ってい
る素手の人々には﹁非人﹂と
いう註記が付されており、身
分割社会で披差別の立陽にお
かれた人々が、否応無しにこ
の役を受け持だされていたこ
とが理解できる。
57
かれ死罪 可放 仰付候処、於江戸御部屋放相願候 付、
親三吉 牛を盗候依科御仕置放仰付侯、其方事、重罪者之せ
市三郎
内政村 三吉子
申渡
けられるはずのところ、江戸屋敷で御部屋様からの歎願があっ
のせがれだから、縁坐のしきたりにより、当然死罪を仰せ付
り、処罰するように仰せつかった。其方についても、重罪者
其の方の父三吉は牛を盗んだので、その罪となる行為によ
内政付の三吉の息子市三郎へ
申し渡す
※史料4
助命之上﹁谷ノモノ﹂手下 二放下之。
たので、殿様がお聞き届けになり助命して、﹁谷ノモノ﹂身
分におとし、その配下として、独特の統制に服させることと
58
された。︵縁坐=犯罪人の親族に刑事責任を負わせること︶
︵注︶⑤ 重罪者之せかれ死罪⋮当時幕府は一七三八年ごろの改正罰則で、主殺し・親殺しに限って縁坐の制を適用し、他は
すべて死罪を免じ軽減していたのに、府内藩では、一七四四年当時もなお重罪を課していたことがわかる。
れるようになったとされる。
の総取締は江戸浅草の弾左衛門で、矢野弾左衛門ともいったので、その配下の人々が﹁ヤノモノ﹂と呼ば
が﹁披下之﹂の語からわかる。﹁谷ノモノ﹂とは披差別身分とされた人々の公称で、由来は﹁矢之者﹂。そ
﹁谷ノモノ﹂手下:∴般庶民である百姓身分を剥奪され﹁谷ノモノ﹂の順に生殺与奪を任される処分であったこと
於江戸御部屋披相願候⋮⋮御奥関係の方には、幕府や他藩の罰則改正情報などが伝わっていたのではなかろうか。
︵応報主義から教育主義への過渡期に当たって生じた事件とねかる。︶
⑤
居)
一
−一
内成付の三吉の女房と、その娘、さらに
︵無宿盗賊の儀市に対する申し渡し︶
-
※史料5
内政村 三吉女房
三吉夫婦の子市三郎の女房の三名の者へ
申し渡す
右 同人 娘
三吉は牛を盗んだ罪科により獄門の刑に処するよう仰せつ
けられた。右の三名は、その重罪者の妻子であるから、百姓
右 同人壬申三郎女房
三吉牛を盗候耕二付、御仕置披 仰付候、重罪者ノ妻子二付、
の籍を抜き、奴隷身分とするよう仰せつかった。追っていず
こかへ引き取られるまでは、言行に預け置くことにする。
奴二披 仰付候、追而何方Jそ相渡候迄ハ居村三拙ケ置候。
※史料6
申し渡す
﹁谷ノモノ﹂共へ
中渡
﹁谷ノモノ﹂共
打ち殺しでかまわない。
された。今後不届きな行為があれば、意見をきくまでもなく、
内戚村の三吉の子市三郎については、其の方其の手下に下
訃徴①盗賊 儀市
n 森藩仕置一件 ・史料⑦は、本件の基幹となる史料、①∼⑤は関連のある補足資料を暦日順に並ぺだものです。
有之候ハハ不反側打殺可中候。
内成村三吉子市三郎、其方共手下二放下之、此後 不屈之事
y〃゛
− ﹄ 一
♂S IS 一−j メr 一Il l∼ J
ルヤ儀ヽ七七年②正月甘言夜ヽ球威か土屋③哲作方 其の方はヽ去る心年一月二十三日夜、頭成の商店富士
一
59−
Mj
※史料ア
ゝ
土蔵之鉄窓を破り恩人、衣類八十四品罫描・昇 数多盗 ︲︲︲ 屋︵稲光家︶の哲作方土蔵の鉄窓をこわして忍び込み、
一
時︶牢を破り逃げ俣段、重々不屈至極二俣、右依重罪行
ねち
し明
、
あ金
け銀
盗
取
、
其
上
三
月
十
日
夜
︵
実
は
三
月
十
一
日
⑤
祢
取、同年五月付一日夜、同所産物方御会所へ恩人、錠を
になってからも三月十日深夜、十一日米明にかけて、牢
錠をこじあけて侵入、金銀を盗み取った。その上、今年
次いで同年五月二十一日夜は、頭成の国産品取扱所に、
衣類八十四点のほか、くしや昇までたくさん盗み取った。
破りをして逃走。重ねがさね不届きな限りである。依っ
獄門もの也
い
の
と
亥し
⑥
五月九日
て重罪につき、斬首の上、さらし首とするものである。
天保十亥年五月九日︵一八三九年︶
追放刑などにより人別帳から削除され、正業をもたない浮浪者。
成年は天保九成成年︵一八三八・つちのえいぬ︶
頭或は現在日出町豊岡のJR駅前一帯。森藩の飛び地として、産物積み出し、物資搬入のほか、藩主久留嶋氏
の参勤交代時も海陸乗り継ぎに用いられた港町。主な商家に、和泉屋・富士屋などがあった。
昇⋮⋮婦人の髪掻き用具から変じて、金銀・べっ甲・水晶・めのうなどでできた髪飾り具。
で、次々出勤し、相談の上、関係先への手配も進んだ。日
行うようにした。役人衆には、藩庁から手紙で知らせたの
告をもとに、さっそく各代官所・町別当らに連絡し検問を
から脱走し逃亡した旨、届け出を受けた。︵中略︶その報
一、けさ午前三時ごろ、牢入り中の盗賊で儀市と中す者が牢
⑥ 天保十己亥年︵一八三九年・つちのとゐ︶ ‘
ぺ今暁八ツ半⑥頃`牢舎盗試供市節心嶮シ逃去候段届中出 ︲︲︲
、
︵
中
略
︶
右
届
中
出
候
二
付
、
早
速
代
官
所
且
又
町
別
当
元
かっまた ⑦
候
へ中道手配り相尋候様中道、猶御役人中へ大会所≒手紙二
而為知侯村、早速出仕段々評議之上手配中村、目田・顛成
御役所、猶又鶴見庄屋へも中道、所々手配固メ披仰村候
一一一一一一
一一一一−
一一一一一一一一
※史料①
③
④
⑤
−60−
②
八
注
心
①
一一
一一
︵注︶⑥ 午前、午後とも○時を九ツ、
していた。
田と頭成の代官所のほか、特に鶴見付庄屋にも指示を出し、
所々漏れなく手配固めをするようにと仰せつけられた。
一時を九ツ半、二時を八ツ、三時を八ツ半と数え、十一時を四ツ半という唱え方で表
⑦ 森藩では、森︵玖珠町︶ ・百田︵日田市︶ ・頭成︵日出町︶の三ヵ所に代官を配置し、郡ごとの政務に当たらせる
とともに、町役人として別当を三ヵ所それぞれで、町方の世話に当たらせた。官民両面あげて、手配したということ
であろう。
御庄屋前箕・笠二面通り候もの、番人羽田
差し出された。⋮⋮羽田村の庄雁畏手のなば山の岩場の崖
の人夫を出すようすぐさま連絡をとったら、総勢二百余人
明時分だったため、手配にかかった。けさ早朝から山狩り
うとしたので、追いかけたところ、突き倒された。もう夜
た者があり、番人の同打座兵衛が誰かと問うと、逃げ去ろ
一、けさ未明、羽田村庄屋の前を、みの・かさ姿で通りかかっ
⑧ ここに討日付はないが、牢抜けの記述から、次の史料⑤と同じく天保十年三月十三日とわかる。
※史料寺
ド仁⑨
一、今晩、羽田
村庄兵衛誰欣々中立出、遡行を追掛候処、突かやされ殼早暁
故手当仕置候、今朝呼出狩之出先直様呼出、此先弐百人余有
之御差出彼奴候、︵中略︶羽田御座屋後茸出岩壇二段々押詰、
大勢押寄御召捕二相成︵下略︶
三月十三日
に次第に追い詰め、一気に押し寄せてお召しとりになった。
一帰一・一・
三月十三日︵天保十年︶
︵注︶⑨ 羽田村は、現日田市東部で有田川上流部こ万の地域、森から日田への往還沿いを占めていた。
−61
一一一一
※史料④
、 ︵﹁揚り屋﹂のやをへの申し渡し︶
右の者は儀市が起こした牢破り事件とのかかわりで、疑
あり
が屋
⑩やを
揚
右之もの儀市牢抜二村、如何敏栄有之、吟珠枝仰村候
わしい点があるので、罪状を調べ礼すよう仰せっかった。
※史料価
揚り屋 やを
一、 ︵同右やをに対する恩典剥奪の内容にっいて︶
右は、盗賊の儀市が先日牢破りをしたときに、衣類といっ
しょにかんざしを貸してやり、牢抜けに成功したら、やを
右ハ盗賊儀市、先日牢破致候節、衣類井 百貨遣し、
出牢致候ハいやを兼ねて剛二存候者をよ卦⑩を暫崔候
まかない
賄ハ
一目玉米⑩六合也
これ、法にそむくこと甚だしい。よって、本日から、一般
の囚人の扱いとするよう仰せつけられた。そこで、衣類は
みな単物に取り替え、襟は外し、夜具や枕も使用禁止で没
収した。まかないの方も、一日に玄米六合と限定された。
三月二十一日︵天保十年︶
玄米のこと。精白していない米で、美食から遠ざけたことを示す。
意趣。うらみ。
れるよう頼み、そのあたりの道筋なども教えるなど、あれ
が以前から恨みに思っている相手に、意趣晴らしをしてく
︵注︶⑨
三月廿一日
上ケ候事、
披仰付候、衣類雄二致し、えりをはっし、夜具・枕等
緋相伺北辺之道筋等も指教朧泉谷ごI忖今目且不牢
も
取
本の臣、僧侶・医師・山伏など。この場合、女性なので、相応の身分の人物だったのであろう。
︵汪︶⑩ 特定身分の未決囚を収容した、牢屋の中の特別室を揚屋といった。特定身分とは、御目見以下の御家人、人名や旗
三月二十一日︵天保十年︶
三月計一日
`ゝ
`ゝ
⑩
62
一
一
之上竹之筒二人、やをへ差返し候旨 ︵下略︶
貴
I
⑩致
候
処
同
.入校白状侯、召捕二相成候上も致所持、入牢
難相分、儀市存不申事ハ有之間数二付、今朝与致吟味水
ぺ盗賊儀市、先日出牢之節、やを≒披頼侯書状之行衛
牢入りしたとき竹の筒に入れたまま、やをに戻したという。
と白状した。それによると、捕えられたのちも所持し続け、
ので、けさから水責めの拷問を用いて追及したところ、やっ
手紙のゆくえがはっきりせず、儀市が知らないはずはない
一、盗賊の儀市が先日牢破りをしたとき、やをから頼まれた
※史料⑤
四月十一日
︵下略︶
四月十一日︵天保十年︶
″ 一 D・’J一 一EL /こノf一戸江x`
みずビめ ︵注︶⑩ 水貴=拷問の几仰向けに寝かせ、絶えず水を顔面に浴びせ、または水を飲みこませるもの。︹広辞苑︺
順二追出峡処、竹之串を以咽を突破り峡趣届出峡間、武石
処、咽二疵付出血夥敷相見へ峡段届出峡間、太田市蔵を見
やを急二不快之由届出候間、早速郷顛⑩よレ様子爪印侯
竹の串でのどを突き破っているとの報告だった。医師武石
どく出血しているとのことなので太田重蔵に確認させたら、
郷頭を遣わし様子を確かめたところ、のどをけがして、ひ
やをが急に体調異常との届け出があったので、さっそく
63
※史料①
元琢へ早速療治中村峡、気道二不掛、食道を突峡様子二村、
元琢に申しつけさっそく治療に当たらせた。気道は無事で、
ぺ︵やをの自殺未遂事件にっいて︶
療治相叶炊事も可ソ到ぃ之哉、竹之串ハ長サ八九寸、巾四
食道を突いている様子なので、治せるかも知れない。竹串
やを
五歩先尖り有之
四月十一日︵天保十年︶
で先がとがっていた。
は、長さ八・九分︵24−27皿︶、幅四・五分︵1.2−1.5m︶
ゝ
四月十一目
一
直に牢内二押入脇差散士、武石光球を早速遣し療治中村、
突膝を致候二村致心配候、︵中略︶果面咽二刀突立候村、
こり
て
︵
中
略
︶
自
滅
之
気
色
二
相
見
へ
、
牢
中
へ
近
寄
候
得
ハ
脇
差
二
面
?
直ちに牢内にとび込んで脇差を取り上げるとともに、武石
ある。︵中略︶あんのじょう、のどに刀を突き立てたので、
近寄ろうとすると、脇差で突くかっこうをするので心配で
盗み取った。︵中略︶自害を覚悟している様子で、牢内に
一一
傷口を縫焼酒 二商況ひ木綿を以巻候由、夕方番人与儀市
元嫁医師を派遣し、治療をさせた。傷口を縫い、焼酒で洗
一一
︵注︶⑩ 郷頭=牢舎内のことなので、牢内の世話役の名称であろうか。
※史料②
容膝語数趣申出候間、元球罷越療治中村候得共、養生絹叶
い消毒、もめんの布を巻きっけたとのことであった。しか
一、昨夜午後十時ごろ、入牢中の盗賊儀市が、牢番の脇差を
間数旨申出候、儀市者重罪之者二村、自誠二商事済候面ハ
し、夕方牢番からの知らせで、儀市の容態が悪化している
一、今日四ツ時分、牢屋盗賊儀市 番人之脇差を盗散候。
他方之聞も悲歎候二村、評議之士明朝士之市 ニおいて御
とのことなので武石兄嫁に往診し治療をと申し付けたが、
もはや養生は見込ありませんとの報告があった。儀市は重
罪入なので、‘自殺を許したとあっては人聞きが悪い。そこ
で役所として相談の上、あす九日朝、帆足上の市の刑場で
処刑するよう命じられたので、関係者に準備にかかるよう
申し付けた。
五月八日︵天保十年︶ 几︾以下史料⑦参照。
64
-
仕置⑤披仰村候二村、夫々手当中村候
五月八日
︵註︶⑩ 焼酒=焼酎の類、もとは朝鮮の蒸留酒。
御仕置=盗犯には森藩は特に厳しかったという。極悪人として、斬首・さらし首にされた。
上の市=玖珠町森と塚脇の中間あたり、河原が処刑場に用いられた。
⑩
⑤
※史料⑦
忍愛を掛ケ、致牢抜候上ハ先年之吟味掛の三人を殺害いた
舎へ引人致密通、非上逃去候道筋を教、衣瀬等差遣し深ク
一味、於牢中将を遣し右を以牢屋之錠を明させ、自身ノ牢
却前非卯之吟味掛を恨、一昨年牢披いたし候盗賊儀市丿致
御宥免茂可有之深御仁恵之程致忘却、自身積悪之儀者不顧、
可
中
村
処
、
御
f慈
悲
を
以
先
4者
人
も手
ち甲
て付
ま置
ず、
は年
じ数
ゅも
ろ祖
う立候ハ入
置
自分の牢部屋に引き入れて密通をし、その上逃亡の道筋も
かんざしを渡し、それを使って、牢屋の錠前を開けさせ、
︵天保十年︶牢から脱走した盗賊の儀市と組んで、牢中で
かえって吟味に当たった当時の役人を逆恨みし、一昨年
いお情けをも忘れ、自分が悪事を重ねたことは反省せず、
あえず入牢さ世いずれ年数が経てば御赦免もあろうとの深
のとききっぱりと処罰すべきだったのを、情をかけて取り
一、︵牢舎のやをへの申し渡し︶
し候鰍、家二人を村侯様厚頼、非外隣端井江戸武家方親類
教え、衣類など与えて情をかけ、牢を抜け出世たら、先年
一、 牢舎ぐ やを
共方へ、枕紙 之古手反古を水ニひたし候を以書状祖語、
の吟味役三人を殺害するか、それとも彼等の家に放火する
其の方は、九年前の辰年に悪事をはたらいたことで、そ
儀市丿遣不埓之取計致候︵中略言言語道断、不屈至極二村、
よう、念入りに頼んだ。そのほか、隣端や江戸の武家方親
其方儀、去ル辰年 不屈之儀有之候二村、武司急度御仕
行死罪者也
類の人々へも、枕紙のほごになったのを水にひたし、再生
七月十七日︵天保十二年︶
まるので、死罪に処するものである。
みである。⋮⋮全くもって言語道断の行為で、不届ききわ
した紙で手紙を書き、儀市に託したのは、ふらちなたくら
七月十七日
一
︵注︶⑩ やをの身柄が揚り屋から本牢舎に移されたことによる。
65
⑩ 天保三壬辰年︵一八二二、みずのえた言
⑩ 木枕の上にのせる小枕をおおう紙。
披仰封侯儀中渡、御徒士目付為続開、警因州之人数差出、
一、やを今早朝 牢屋与呼出、於白州検使宮野七郎与御仕置
それを徒士目付の役人が読み聞かせた上で、警固役の万灯
視役人の宮野七郎から御仕置を仰せつかった旨申し渡し、
一、やをを本日早朝牢屋から呼び出し、奉行所のお白州で検
※史料啓
上ノ市河原 二面やを之首刎侯
がついて、上の市河原の処刑場に連行し、そこで首をはね
た。
前掲⑩と同じ。
史料⑦につながるI文なので、同じ天保十二己丑年︵一八四一年︶七月十七日を示す。
⑩
獄門の場合と異なり、さらし首にはせず打首だけであるが、公開の処刑だったことがわかる。
︵注︶⑤
⑩
66−