1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる 地域有力卸売企業

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経
営
論
集
63 巻 第 3 ・ 4 号
2016 年 3 月
1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる
地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒
佐々木
聡
はじめに
本稿では,伊藤昌弘が社長に就任した1985年から1990年代半ばまでの伊藤伊の情報・物流
システムなどの機能進化の過程と水平的広域展開の契機について検討する。
別稿(1)でみたように,伊藤伊の従来からの仲間卸の取引範囲は,愛知・三重・岐阜・静岡の
近隣諸県はもとより,滋賀・京都・山梨・長野・新潟・富山・福井の各府県にまでおよんでい
た。1980年代前半までの伊藤伊の経営活動は,そうした仲間卸を中心に,新興の小売勢力へ
の対応を加えた程度の静態的な経営であったとみることができる。
しかし,1980年代半ばの通信自由化,さらには1990年代半ばの他地域からの伊藤伊の垂直
的取引関係地域への卸企業の進出など,伊藤伊にとって経営の進化と転換を迫られる経営環境
となった。そこで,本稿では,まずそうした経営環境の変化の状況について確認するととも
に,伊藤伊がそうした状況へいかに対応したかについてできるだけ詳細に検討することにした
い。これによって,伊藤伊のその後の発展を可能とさせた諸要因を解明することになろう。
1.情報システムの進展とネットワーク化
1980年代,流通に関わる諸企業は,2つの面の情報インフラ整備にともない新たな局面を迎
えた。1つは,1978年に JIS 規格(Japanese Industrial Standard:日本工業規格)として制定
された JAN コード(Japanese Article Number:共通商品コード)を基礎とする POS(Point
of Sales:販売時点情報管理)の普及である。いまひとつは,1985年の通信自由化にともなう
VAN(Value Added Network:付加価値通信網)事業者の登場による EDI(Electronic Data
Interchange:電子データ交換)の進展である。これらにともない,各企業は,自社の情報シ
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ステムを大きく進化させることとなった(2)。ここでは,まず伊藤伊の初期の情報処理システム
の進展をみたうえで,1980年代後半から1990年代前半までの業界の情報ネットワーク化と伊
藤伊の関連する動きについてみてみよう。
( 1 )伊藤伊のコンピュータ活用とライオンへの協力
伊藤伊での本格的なコンピュータ活用は,別稿(3)でも み た よ う に,1977年 の 日 本 電 気
(NEC)の NEAC システム100F による給与計算などの事務処理のコンピュータ化により始
まった。その後,1981年には日本電気の ACOS-S 250を導入して,従来の伝票ごとの合計金
額単位の売掛金の管理から,伝票の各行の明細での計上で商品ごとの販売管理(単品販売管理)
ができるようになった(4)。
この間の1980年には,後述するライオンの販売情報管理システムの LCMS(Lion Circle
Marketing System)の稼働のためのテストや準備に協力している。全国のライオンの最有力
代理店であったから,伊藤伊への信頼と期待が大きかったのであろう。
( 2 )企業間ネットワークとの連動
①
プラネットの設立
1985年4月,電気通信事業法と日本電信電話株式会社(NTT)法が施行されて,それまで
の電電公社と国際電信電話株式会社の独占体制から脱して通信の自由化が実現されることと
なった。これにともない,多くの VAN(Value Added Network)会社が設立されることとなっ
た(5)。同年8月1日には,化粧品・日用雑貨業界初の VAN 運営会社の株式会社プラネットが
東京都千代田区猿楽町に設立された(6)。
同社設立の基礎となったのは,ライオンが卸店から小売店への販売情報を把握するため
に,1983年10月から全国の卸店に端末を設置して結んでいたライオンの販売情報管理システ
ムの LCMS であった。その後,ユニチャームがこの LCMS の共同利用をライオンに申し入れ
てきた。1984年12月,ライオンとユニチャームとの共同利用の合意が発表され,同時に,化
粧品・日用雑貨業界の VAN 事業運営会社の設立構想が立案された。そして,情報処理会社の
インテック(7),資生堂,サンスター,十条キンバリー(後の日本製紙クレシア)
,ジョンソン,
エステー化学(後のエステー)
,牛乳石鹸共進社がこれに呼応して参加することとなり,これ
ら7社とライオンとユニチャームの9社により,資本金2億4,
000万円でプラネットが設立さ
れることとなったのである(8)。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 43
当時,1つの端末機とそれにつながった1本の電線を多くのメーカーが共同で使うという技
術はなく,それをやるとすればメーカーごとに時間帯で分けるか,周波数で分けるかしかな
かった。これを解決するデジタルパケット通信すなわちデータを小包のようにまとめてそれに
行き先の荷札を付ける構造の通信の技術をもっていたのがインテックであったという。このた
めデータの通信処理はすべてインテックが担うこととなり,プラネットはデータには一切ふれ
ない立場となった(9)。これにより,当初懸念された取引情報の機密性も保たれたこととなっ
た(10)。プラネットは,その後も「システムは共同で,競争は店頭で」を理念に,メーカーと卸
店の勧誘と組織化を主たる業務とし,事業拡大にともない,端末機のレベルアップのほか,業
界標準の諸コードや伝票フォームの維持管理を行っていった(11)。
②
全卸連での協力
全卸連でも,この受発注オンライン化に協力するため,すでに1983年頃から,他業界も巻
き込み,メーカー間の伝票の標準化に取り組んでいた。1985年3月6日には,全卸連として
の最初のオンライン委員会を開いた。30名の卸企業の社長が集まったこの委員会では,メー
カーとの受発注システムの確立のため,伝票の統一,JAN(10桁)コードの使用,JCA(Japan
Chain Store Association)手順(12)への統一,取引価格の単純化の協力を呼びかけるとともに,
卸業者による共通取引先コードの登録も伝えるお願い状を,賛助会員であるメーカー宛に発送
した(13)。急務であった伝送データ標準フォーマットの作成に関しては,卸企業の専門家から成
るオンライン委員会専門職会を設けて,通産省,流通開発センターおよびメーカー各社の協力
を得ながら,検討を進めた。オンライン委員会は1986年2月に情報システム委員会と名称が
変更された。情報システム委員会の専門職会は,各工業会・工業組合と連絡をとりながら,オ
ンライン化の基盤づくりに努めた。この専門職会には,伊藤伊から藤根康裕が参加し,活用で
きるシステムを構築するえで貢献した(14)。
③
伊藤伊のプラネット加入と効果
伊藤伊は,1986(昭和61)年4月にプラネットに加入し,同年8月頃に接続を開始した(15)。
ただし,伊藤伊は前述のようにライオンが LCMS を本格稼働させる1985年以前の1980年か
ら LCMS のテスト試行に協力しており,実質的にはほぼプラネット設立と同時の加入とみて
よいであろう。
伊藤伊はじめ,プラネットに加入した卸売企業は,メーカーからの売上伝票が迅速に送付さ
れてくるようになったので情報入手が即座になった。伊藤伊のように,仲間卸(2次卸)との
取引の比率が高い卸売企業は,帳合品のメーカーからの2次卸店への直送分や小売店への直送
分の売掛金情報が納品と同時に入手できるようになった。参加メーカー側も,納品・請求伝票
を入力する必要がなくなり,卸売企業からの注文伝票への入力も不要となった。また卸店の在
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庫・実販・小売店情報も容易に入手できるようになった。メーカー間で多様であったデータ交
換の仕様が統一されたので,卸店・メーカーのシステムの投資コストの削減効果もあわせもつ
こととなったのである(16)。
④
パンジャパンデータサービスへの加盟とプラネットへの集約
その一方で,1986年9月5日,伊藤伊のほか日用雑貨卸売企業90社(計91社)と日本電
気(NEC)系の VAN 会社の日本電気情報サービス(17)が参加して,パンジャパンデータサービ
ス株式会社が設立された。この会社は,日本電気情報サービスのある東京都の三田に本社が置
かれ,全国の卸売企業が小売業に提供する商品・販売情報を集めて,消費者動向を分析・加工
して,卸売企業のマーチャンダイジング企画の強化と販売促進に活用するとともに,メーカー
にもこうしたデータを販売していくことを目的とした(18)。
代表取締役社長にはジョンソン副会長であった御厨文雄,同副社長には大山俊雄(大山)と
熊谷昭三(熊長)が就任し,取締役には伊藤昌弘のほか清水俊吉(麻友),霜田清隆(霜田物
産)
,西川富三(西川商事)
,夏川敬三(夏川本店)
,瓜生健二(宏和)
,倉田正昭(日本電気情
報サービス)が就き,監査役に井吹亢志(パルタック),岡部洋介(チヨカジ)が就いた。授
権資本金額が2億円,払込資本金額が6,
130万円であり,出資分担は参加企業91社が各30万
円(計2,
730万円)
,そのうち発起人会社8社がほかに各300万円(計2,
400万円)
,日本電気
情報サービスが1,
000万円であった(19)。
しかし,前述のプラネットの販売データ提供の事業と競合することとなり,メーカー各社の
はたらきかけによって,プラネットへの活用へとシフトしてゆくこととなった。このため,卸
主導のパンジャパンの事業は,実質的には短期間で活動を終え,会社も解散することとなっ
た(20)。
なお,表 ―1に示されるように,プラネットの会員は1986年に卸売企業86社,メーカー12
社であったが,1997年には卸売企業が300社を超え,メーカーも10倍以上の123社となって
表 ― 1 プラネット EDI メーカー・卸社数推移
プラネット営業期
年月(期末)
1期
2期
3期
4期
5期
6期
7期
8期
1986 年 7 月 1987 年 7 月 1988 年 7 月 1989 年 7 月 1990 年 7 月 1991 年 7 月 1992 年 7 月 1993 年 7 月
接続卸店(社)
86
200
237
255
259
262
265
279
稼動メーカー数(社)
12
23
26
29
34
39
46
50
プラネット営業期
年月(期末)
接続卸店(社)
稼動メーカー数(社)
9期
10 期
11 期
12 期
13 期
14 期
15 期
1994 年 7 月 1995 年 7 月 1996 年 7 月 1997 年 7 月 1998 年 7 月 1999 年 7 月 2000 年 7 月
287
283
299
319
307
297
301
58
71
99
123
140
159
191
(出典)株式会社プラネットから筆者への提供資料(2015年6月提供)。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 45
いる。その後,卸売企業は合併・統合や消滅によって若干の減少もあるが,メーカーの加入者
は増えていった。
⑤
地域 VAN 東海流通ネットワークへの参加
プラネットがメーカー主導によるメーカーと卸売企業の間の受発注データを扱う VAN で
あったのに対して,卸売企業の主導で卸売企業と小売企業との間の受発注データを取り扱う
VAN 会社も設立され,伊藤伊もこれに参画した。
1987年8月,愛知県,岐阜県,三重県の日用雑貨,食品・酒類,医薬品の卸売企業13社が
結束して,東海地域の流通 VAN 会社である東海流通ネットワーク株式会社を設立した(21)。
13社のうち,日雑・石鹸の卸売企業では伊藤伊のほか,株式会社亀屋(名古屋市)
,株式会
社ケンセキ(岐阜市)
,株式会社冨田屋(津市)
,永井商事株式会社(名古屋市)の4社であっ
た(22)。医薬品卸では株式会社スズケン,食品・酒類卸ではトーカン(名古屋市)ほか2社(株
式会社秋田屋,黒川商事株式会社)
,菓子卸では4社(株式会社正直屋,株式会社寿美屋,株
式会社種清,株式会社前田)が参加した。
東海流通ネットワークは,愛・三・岐地域の卸と小売の EOS(Electronic Ordering System)
による受発注業務合理化を主たるねらいとして設立された。北海道のヘリオスと同様に,卸主
導ということのほか,業際的な地域 VAN でもある(23)。1987年9月から業務を始め,システ
ムの開発と運用は情報処理会社のセントラルシステムズ(名古屋市)に委託することとした。
同社のホスト・コンピュータによって,加盟の卸売業者と小売業者との間をオンライン化し
た。これにより小売業者が商品の値札に付いているバーコードをハンディ端末で読み取れば,
VAN センターで各卸売業者に振り分けて配信し,即座に商品を発注できるようになった。東
海流通は,小売業者からは加入料,端末設置料金を徴収して発注作業を軽減するとともに,卸
売業者からは接続料やデータ配信料を徴収して受注作業を軽減させることとなった(24)。
なお,東海流通ネットワークでは,運用開始当初から JAN 情報で小売店が卸へ発注する仕
組みであった。それ以前は,大手量販店では JAN コードのソースマーキング(25)率が向上して
いたものの,まだまだ小売店の自社コードが中心であった。1982年にコンビニの急成長企業
であったセブン―イレブンが POS を導入し,翌年に全店に配置したが,その際ソースマーキ
ングされた商品のみを扱うと表明した。このことは,小売側からのソースマーキングへの圧力
となり,さらに流通業界全般への POS 普及を促す契機となった(26)。そして,伊藤伊も加盟し
た東海流通ネットワークが設立された1980年代後半の時期には,伊藤伊を含めて JAN コード
と POS が普及していった。
さて,以上のように,伊藤昌弘が社長に就任した頃から,伊藤伊自らの情報システムが高度
化するとともに,卸売企業が参加する情報サービス会社が設立され,卸売企業とメーカーある
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いは小売店との取引情報ネットワーク,さらには業際的なネットワークの構築も進展したので
ある。この情報システムの高度化とネットワークは,物流システムの高度化とも連動してゆく
こととなる。
2.大型物流センターとインストア・マーチャンダイジングの始動
情報システムとならんで,物流システムや小売店頭での管理・提案能力は,1980年代以降
の卸売企業の競争力を決定づける要諦であった。1980年代から90年代前半にかけての伊藤伊
の物流システムや店頭管理に関する面の進化についてみてみよう。
( 1 )物流センターの新設と基幹的情報システムの構築
①
高針センター稼働前後の物流システム
別稿(27)でみたように,伊藤伊では1979年10月に高針に配送センターを竣工させた。この高
針センターでは,計算センター(ユニシスに委託:旧タキヒヨービル)と本社のオンライン(専
用線)化やピッキングリストの発行など,その後の物流システムの展開に関わる萌芽がみられ
た。小売との直接取引が増えるとともに,自社の物流システムの必要が生じてきたのである(28)。
オンライン化の以前には,注文はデータ化されていなかった。大須の本社で電話で受注する
と,事務員は,商品の単価,ケースの合計額まで暗記して,手書きで納品伝票を作成し発行し
ていた。センターでの作業者は,送付されてきた納品伝票をみながら,荷造りをしていたので
ある。高針センターでのオンライン化が実現すると,大須の本社で電話や FAX で受注したも
のを,計算センターと専用線でつながった端末で入力し,専用線で高針センターへ送信された
伝票をプリントアウトしてピッキングするようになった。
高針センターでは,伊藤昌弘が社長に就任する前年の1984年に ACOS-S 410を導入し,単
品在庫管理を開始した。すなわち,ある商品が倉庫内で合計何個あるかを管理することになっ
たのである。単品の在庫と物流ピッキングシステムを連動させ,ロケーション付きのピッキン
グ・リストを初めて作成した。
ピッキング・リストには,出荷先(得意先店名)
,品名,ロケーション,数量などが記載さ
れた。ロケーションとは,商品の置き場所を示す住所である。たとえば,「2A ―18―08―2―
08」とあれば,これは2階の第18番ラックの左から8番目の棚の上から2段目の左から8番
目の商品ということを意味する。この住所は,ラックに貼ってあり,作業者はピッキング・リ
ストに示されたラックの場所でピッキング作業を行う。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 47
この ACOS-S 410の導入にともない,伊藤伊では,情報システムと物流システムとの原初的
ながらも連動というシステムの構築を実現した。これと同時に,日本電気のネットワーク型の
データベース管理システム(DBMS)である ADBS(Advanced Data Base System)を導入
した。当時の卸売業界では,先進的なものであったとされている。
高針センター開設当初も,ユニーなどの一部の小売店とのオンライン EOS は実施していた
が,前述の JCA 手順の進展もあいまって,1984年の ACOS-S 410導入以降,小売店とのオン
ライン EOS が急速に増加していった。
1985年頃には,バーコードの付いたプライス・カードを作成し,NEC のハンディ端末の
POT (Portable Order Terminal)―7で営業担当者がスキャンして伝送する受注も開始して
いる。
高針で小売直販のオンライン化が始まると,先に述べたようなピッキング・リストが発行さ
れ,これによって作業者がピッキングをするようになった。
なお,ロケーションは,当初は,メーカー別,カテゴリー別で入荷・入庫を優先させて作成
されていたが,出荷頻度や出荷数量を重視したロケーションに変更された。作業者の作業動線
を見直すとともに,ロケーションと作業のスペースの改善も重ねられた。
こうした改善の背景には,コンビニの急成長があった。多頻度小口配送のニーズの高まりで
ある。これにともない,1個単位という注文に対応するバラピッキングの必要が発生するよう
になったのである。こうしたコンビニ対応のニーズはさらに高まり,伊藤伊としては,新たな
対応が迫られることとなった。
②
仲間卸の物流
ところで,伊藤伊の販売先で大きな比重を占めていた仲間卸の物流についてみておくと,
メーカーからの仲間卸の倉庫への直送が原則であった(29)。しかし,メーカーからの配送基準に
満たない少量の場合は,仲間卸からの要請で伊藤伊の倉庫から出荷する場合もあり,これを
「店出し」と呼んだ。
また,近隣の仲間卸のなかには,在庫をもたずに,伊藤伊の本社併設の大須センターなどの
倉庫に自社の販売商品を置いて納品前に伊藤伊倉庫に寄ってもっていくことも多々あった。つ
まり伊藤伊の倉庫を自社倉庫のように利用していたのである。
仲間卸の「店出し」も伊藤伊倉庫の活用のいずれも,長い間におよぶ伊藤伊との取引実績を
ベースとするものであった。しかし,伊藤伊の情報・物流システムの進化とともに,こうした
例外的な物流も消えてゆくこととなる。
③
大治配送センターの開設
おおはる
1986年3月,伊藤伊では,名古屋市の西方に隣接する大治町(愛知県海部郡大治町大字北
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間島字柚木14)に,コンビニ向け物流を主とした配送センターを竣工させた。敷地面積2,
266
m2,建築面積1,
023m2,床面 積1階253坪,2階86坪,3階265坪,延 床 面 積1,
993m2 と い
うスペースであった(30)。
特徴は,まず入出荷を一貫させたコンベヤー・システム,配送先の仕分けをする商品自動仕
分け装置,自動ラック倉庫装置,コンピュータによる発注・出荷・配送システムなどの導入で
省力化をはかったことである。さらに,デジタル表示によるピッキング・システム(DPS),
デジタル回転ラック,折りたたみ式コンテナによるバラ物出荷方式などの採用の面で伊藤伊自
身のソフト開発の創意が活かされ,より迅速かつ確実な配送が期されることとなった。いわ
ば,コンピュータ活用によるピッキング・センターであった。
このデジタル・ピッキング・システムは,出荷情報としての店舗コードや,集品する商品の
位置情報(ランプの点灯で示す)
・集品個数情報などをフロッピー・ディスク(FD)を介して
連動させたものであった。マテリアル・ハンドリング(物流)のシステムと本社からの情報シ
ステムとの連携という点で,伊藤伊の物流史のなかでは画期を成すものであった(31)。
大治センターでは,紙製品以外では,ケース単位の出荷はほとんどなく,99.
99% がバラ単
位出荷であった。おおむね最大2,
000アイテムの商品を扱い,当面は得意先のコンビニ300店
への対応とされたが,600店までの処理能力を擁していた。実際には,取引店舗500店舗ほど
で,同一店舗に対して週に2回出荷したので,3日間で500店舗,1週間で延べ1,
000店舗へ
の配送となった。
このコンビニ向け中心の大治配送センターの完成により,伊藤伊の物流センターは,本社配
送センター(百貨店,一般小売店,仲間卸)
,高針配送センター(量販店)と合わせて3体制
となった。本社機能も,電算室に加えて,物流企画室を新たに設けて得意先へのサービスを強
化させることとした。
この大治センターの設置の背景には,名古屋地区でのコンビニの進出競争への対応という事
情があった。伊藤昌弘が1985年に社長に就任してからまもなく,名古屋地区にファミリー
マートが出店することとなった。ファミリーマートは当時西武百貨店系の西友によるもので
あった。このため伊藤伊の百貨店担当の神谷常務が尽力して,ようやくファミリーマートと取
引が出来ることとなった。ところが,伊藤昌弘がこの件をすでに取引のあったサークルKの社
長に報告に行ったところ,猛烈な反対に遭った。サークル K を含むユニーグループ全体の取
引を考え直すとまでいわれたのである。そこで,伊藤昌弘が熟慮し,サークル K 専用のセン
ターを作り,同時に花王販社や江口商事(化粧品担当)
などすべてのノンフード商品を一括ピッ
キング配送する大治センター設立案を出し,最高のピッキング精度にすることを約束した。そ
うした提案が受け入れられて,やっとサークル K およびファミリーマート双方との取引を継
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 49
続することができたのである(32)。
こうした外的な経営環境からの作用に対する反作用としての適応的革新(adaptive innovation)は,これ以後も伊藤伊に頻繁に生じてくることになる。
なお,この時から物流担当の専門担当者として前田裕彦を配置した(後掲の図 ―2を参照)
。
伊藤伊としては,最初のマテハンを使用し,次のみなと商品センターへとつながる本格的な物
流システムの第一歩を踏みだしたといえる。
なお,大治センター稼働開始の2∼3年後,同センターでは,花王販社の物流代替・補完機
能としての TC(Transfer Center)型物流を開始した(33)。伊藤伊として,初の TC であった(34)。
④
ITOS の構築
1989年,伊藤伊では,汎用コンピュータの ACOS S610による ITOS(Itoi Total Organized
System)という自社の基幹情報システムを構築した。
その機能面の特徴として,管理面では,会計システムとの連携強化,EDI の対応,在庫管
理(返品在庫管理)
,粗利管理の強化などをはかったことがあげられる。また営業支援の強化
や情報管理の強化もはかられた。
このシステムは,受注面では外部 VAN と連動し,発注面では上述のプラネットとも連動し
ており,経営環境の変化やコンピュータの進化にともない,改変が進められていった。そし
て,2001年には New Itos という新たなシステムが構築されることとなる。
⑤
西春センター
1989年からサン電子の子会社のアイワ化成(現在のイードリーム)の2階(名古屋市沖村
八反52―1)を2年間賃借して,西春センターを開設した。これは,高針配送センターのオー
バーフローに対処するための暫定的な措置であった。軽量ラックを設置しただけの簡便なセン
ターであり,清水ドラッグ,マルミ薬品,スギヤマなどを中心に出荷された(35)。
⑥
みなと商品センターの開設
一方,1991(平成3)年10月には,名古屋市港区中川本町3丁目3番地に,みなと商品セ
ンター(愛称ポート・アイ)を開設した。伊藤伊にとっては,長年の懸案であった本格的な物
流センターであった。
伊藤昌弘社長によれば「ジャスト・イン・タイムの商品供給を目指し,①高い精度(納品
100% 欠品なし)
,②快適な作業環境,③ローコストでオペレーションできる物流センターを
基本コンセプトとして建設した」というという(36)。
敷地面積は3,
581坪で,建物面積はラック棟が630坪で,物流棟が1,
782坪の計2,
412坪で
あった。土地・建物ともリースであるが,建物そのものは伊藤伊の仕様で,コンピュータやハ
イテク機器には15億円が投資された。
50
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バラピッキングシステム,ケースピッキングシステム,自動倉庫,荷合わせシステム,在庫
管理システム,配送管理システム,物流管理(入荷・棚補充品の自動搬送など)の最新システ
ムを備えた。デジタル・ピッキングをバラピッキングの主力とした点は,伊藤伊の物流進化の
大きな転換でもあった(37)。また「伊藤伊式荷合わせコンベアシステム」は,伊藤伊開発による
独自のシステムで,コンベヤー・ライン8本2組16本(1本70m)
,出荷シュート10本(通
常8本,特急1本,エラー1本)という構成であった。
15名の従業員とアルバイト50名での稼働となり,処理能力は,1ヶ月25億円(1万アイテ
ム)とされた(38)。
ちなみに愛称のポート・アイは,社員公募によって命名された。「ポート」は所在地の「港」
区と Transport の「ポート」に,
「アイ」は伊藤伊の「I」と Information の「I」にちなんだ
ものであるという。
このポートアイの新設にともない,本社に併設されていた大須配送センターの百貨店部門を
除いて新センターに移し,さらに西春のピッキングセンターの機能も移すこととなった(39)。
このポートアイの建設にともなう土地は,中部電力の関係会社から30年の長期契約で賃借
することに成功した。これも,伊藤伊の名古屋での実績と信用が評価されてのことであった。
また施設面での大きな設備投資も,別稿(40)で検討したような内部留保や手元流動性の確保と
いった財務面でのゆとりがあったからこそ可能であった。伊藤昌弘社長も「大型投資で経営者
(41)
の個人保証を求められたことは一度もなかった」
としており,「これも先代社長はじめ先輩諸
氏がそれだけのものを残してくれたおかげ」と語っている(42)。
( 2 )店頭管理への取組み
さらに,1980年代後半の伊藤伊では,店頭での競争力強化の強化をはかっていく。こうし
た面の取り組みについて,みておこう。
①
プレゼンテーション・ルームの開設
まず1986年8月には,店頭陳列に関するプレゼンテーション・ルームを開設した。場所は,
当時,本社機能を集中させていた南館(旧本館)の2階である。
正面の入口には高級百貨店のディスプレイを思わせる演出提案コーナーが配置された。左手
半分には,EOS 発注システムを導入したノンフーズ全般商品の効率的な売場づくりを目指し
たモデルショップ・コーナーが置かれた。また正面右手には,新規取扱商品,話題商品,季節
商品の紹介陳列コーナーのほか,コンピュータによる棚割提案コーナー,映画・VTR による
情報提案コーナーなどが配置された。8月11日に有力仕入先や関係者を招いて開催した内見
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 51
会では,モデルショップ・コーナーでバーコードによるハンディターミナルを使った発注業務
の実演などが行われた(43)。
この施設は,伊藤伊従業員の店頭管理に関する教育の場という意味と,仲間卸や販売先小売
店の売場効率や店頭管理の向上のための参考に供するという意味を兼ね備えたものであった。
伊藤伊の経営史のなかでは,次にみる店頭技術研究所の前段階のものと位置づけられよう。
②
店頭技術研究所の開設
そして,2年後の1989年1月(1988年12月という説もある)には,上述のプレゼンテーショ
ン・ルームを店頭技術研究所とした。これは,MSS 研究会(44)で伊藤昌弘と交流のあった大公
一郎が社長を務めていたダイカが1987年8月に同社本社に設置したもの(45)に学んで命名した
という(46)。
スペースは,2フロアから成り,延べ面積は約460m2 であった。約10,
000点の洗剤・化粧
品を揃えてスーパーなどの売場を再現し,コンピュータを使って商品が売れるようにするため
の陳列方法をシミュレーションするのが目的である。
このシミュレーションについては,NEC 製の N5200―05mk Ⅱというハード(端末)を使
用して,伊藤伊が独自に簡易棚割システムのソフトを開発した。現物で棚割が完了した棚の商
品 JAN をハンディ端末 POT-7 でスキャンして,N5200―05mk Ⅱに取り込み棚割図を印刷(商
品サイズにより按分表示あり)するというものであった。これが,後の画像棚割システムの
ベースとなる(47)。
なお,設置後半年間の状況であるが,メーカーや小売店の見学者が毎日2∼3組訪れ,これ
まで取引のなかったメーカーや小売店との接点の役割も担うようになり,新製品の情報も以前
よりも早く入手できるようになったという(48)。その後,棚割システムの自社開発は,後述する
1992年のプラノマスターへと進化してゆくことになる。
こものちょう
なお,1998年には,三重県三重郡菰野町菰野の保養施設「湯ノ山荘」の2階大広間(40畳)
を改造して,店頭技術研究所湯ノ山荘も開設し,取引先の従業員も含めて研修などを行うこと
となる(49)。
③
ミュゼ・アロームの開店
また伊藤伊では,自社による小売店設置による店頭競争力の錬磨も試みた。1993(平成5)
年4月24日,名古屋市内の本山交差点から南へ50メートルのアルファランド・ビル(同市千
種区四谷通1の3)に,ミュゼ・アローム(香りの博物館)を開店した。伊藤伊としては,初
めての小売店であり,11坪のスペースであった。「良質の香りにこだわり,日本人の香りにこ
だわり,日本人のための香り習慣の情報基地となる」というコンセプトで,調香師が原料にこ
だわって調香した200アイテムの商品を展開し,専属スタッフである2名のエバルエーターが
52
―― 経
営
論
集 ――
来店客に合った香りを提供することとした。オリジナルな香りのブレンドが,15,
000円の料
金で1週間で「私の香り」
として出来上がるとされた。顧客志向をつよく打ち出した店舗であっ
た。中心となるオーデコロンのほか,浴用関連商品,香道関連商品も置かれた。これは,1990
年に始めた中期経営計画の商品力強化の一環であり,香り商品を中心とした店舗経営により,
消費者ニーズや嗜好の変化を直接吸収することによって,卸売業として真の消費者志向の強化
とリテール・サポート機能の充実をはかることがねらいであった(50)。
2年後の1995(平成7)年2月16日には,名古屋市栄区栄交差点の栄 NOVA4階に2号店
となるミュゼ・アローム栄ノバ店をオープンさせた。1号店の本山店に比べるとやや小さい(9
坪)であるが,場所が名古屋の繁華街であった。このほかに,本格的な調香をしないため「ミュ
ゼ・アローム」とは名付けていないが,JR 名古屋駅近くの名鉄セブン4階に別の香りの専門
店トレンチ・セブン店も設けられた(51)。
翌1996年12月には,名古屋市のファッション・デザイン情報発信基地となっていたナディ
アパーク(栄町から南へ約500メートル,松坂屋本店から西へ一筋目という好立地)
4階にミュ
ゼ・アローム香りのデザイン館をオープンさせた(52)。ミュゼ・アロームは,その後,マイカル
に10店舗,イオンに5∼6店舗出店し,広島まで及んだ(53)。
1号店開店5年後の1998年の年初,伊藤昌弘社長は,このミュゼ・アロームについて「も
ともとは化粧品を揃えよう,ということで始めたが,代理店権とか色々なシガラミがあって思
うように揃わない。そこで香水や香りのものなら,そんな問題もないだろう,ということで始
めたわけだが,新しい売場作りがドンドン求められている中で GMS さんから声がかかって,
(54)
場合によっては非常に大きな展開が生まれて来るかもしれない」
と述べており,小売店頭で
の提案力・企画力の錬磨の場としてミュゼ・アロームを位置づけていたと理解されよう。
しかしながら,このミュゼ・アローム運営上の問題は,そこに配置されるべき専門技術者の
養成であった。また人件費の問題などで恒常的に赤字となり,またミュゼ・アロームの責任者
であった人材の退任と後任の手当の困難から,次第に撤退を余儀なくされることとなる(55)。
( 3 )仲間卸との情報交換の効率化と独自棚割システム
伊藤伊では,さらに自社の情報システムを仲間卸に適用するとともに自社開発の店頭管理シ
ステムの販売にまで乗り出してゆく。
①
仲間取引への EDI 導入
伊藤伊では,1994年9月から,仲間卸(2次卸)の経営合理化支援の一環として,受発注
データや請求データのやりとりに EDI を導入することとした。当時,伝票などは郵送によっ
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 53
ていたが,このシステムの導入により,伝票処理の作業時間の短縮や仕入れデータの自動照合
が可能となった。この当時で,約450社の仲間卸との取引があり,売上げの6割程度を占めて
いたので,全体としてこれによる効率化の期待は大きかった(56)。
なお,伊藤伊では,後に,システム上,仲間卸へのシステムを PW(Partner Wholesaler)
システム,小売直販へのシステムを DR(Direct Retailer)システムと区分していくことにな
る(57)。
② 「プラノマスター」の販売
伊藤伊では,先述の店頭技術研究所で蓄積したノウハウを基礎に,1992年には EWS4800/
230というユニックス・システムで画像棚割システムを構築した。もともと日本総合システム
のもっていた棚割システムを,伊藤伊オリジナルにフルカスタマイズしたものである。このシ
ステムは,Planogram(棚割)と Master(達人・職人)を合わせて,プラノマスターと命名
された(58)。
これを使うと,メーカー各社の商品をビデオ・カメラで撮影して PC に商品を登録し,画面
上で売場の商品の複数の陳列見本を表示することが可能となる。従来の方法は,実際の什器を
使って手作業で並べ,写真で撮影する方法が多かったが,これにより大いに省力化され,効率
的に棚割見本がつくられて表示されることになった。
すでにみた店頭技術研究所では,それまで主要日用雑貨メーカーの商品を約1万3,
000∼
4,
000種類,棚割システムに登録して,コンピュータによる棚割システムを小売店に提案して
きた。プラノマスターは,そうした提案実績を基礎に開発されたシステムであり,伊藤伊の仲
間卸(2次卸)が得意先の小売店へ迅速かつ効率的に棚割提案を出来るように支援するシステ
ムでもあった。
1995年3月には,この独自開発によるプラノマスターの販売を開始した。価格は,PC 本体
とソフトと合わせて170万円と設定された。プラノマスターを使用するに際しては,棚割の対
象となる個々の商品について映像入力とマスター・コードの登録が必要となる。したがって,
メーカーによる新製品発売や商品改良のたびに商品情報を更新する必要があるが,伊藤伊が棚
替えシーズンごとに商品情報の更新を代行し,年間3万円の実費で販売することとされた(59)。
約2年後の時点で,卸企業を中心にプラノマスターを活用している企業は28社であった(60)。
3.永井商事の経営継承
1989年,伊藤伊にとっては,外的はたらきかけへの受動的な対応によって,取引範囲を拡
充させる好機が到来する。名古屋市内の永井商事の営業権継承である。これは,この時期の伊
54
―― 経
営
論
集 ――
藤伊の経営史上,水平的合併(horizontal combination)とノンフーヅ・フルライン化へ向け
ての起点となることであったので,やや詳しくみておくことにしたい。
( 1 )永井商事の経営継承の経緯
①
伊藤伊と永井商事の従来の関係
永井商事株式会社は,1904(明治37)年に石鹸製造業として創業し,1918(大正7)年から
卸売業を始めた。1950(昭和25)年に法人に改組し,1978年には後述するテクノ中京の本社
ともなる名古屋市名東区姫若町に本社を移転した。1988年時点での主要取扱品目と売上高に
占める比率は,化粧品香粧品類が30%,洗剤洗濯助剤類15%,口腔衛生用品類12%,殺虫防
虫芳香剤類10%,紙衛生用品類8% であった(61)。
別稿(62)でみたように,伊藤伊とは,1968年5月設立の花王の地域販社である中京花王販売
を共に設立した相手であり(63),ライオン株式会社(1980年1月にライオン歯磨とライオン油
脂の合併によりライオン株式会社となる)の油脂製品については,永井商事(ライオンの歯磨
製品は代理店)が伊藤伊の2次卸という関係にあった(64)。
永井商事のように,ライオンの歯磨製品のみの代理店というのは,ライオン株式会社にとっ
ては,当時の隠語で「片肺」と称された。すなわち,オール・ライオンの代理店たり得ず,伊
藤伊と同様に歯磨製品と油脂製品の双方の代理店への昇格が期待される対象であった。しか
し,これについては,同じエリアの伊藤伊の立場も尊重しなくてはならず,伊藤弥太郎の時代
にライオン側から交渉があった。永井商事の油脂製品の代理店としての扱いを伊藤弥太郎が認
めるところまで話しが進んだものの,これがライオン関係者の事情で沙汰止みとなってしまっ
た(65)。
②
チヨカジと永井商事の業務提携
その後,永井商事は,静岡の有力卸店のチヨカジ(66)との連携が進んだ。1987(昭和62)年7
月6日からは,チヨカジが1975年8月に設立した富士流通株式会社(67)を通じて,洗剤,紙,
紙おむつなどのかさばるものを除いた商品の配送を始めた。永井商事にとっては在庫をもたず
にチヨカジと同じ商品を販売できるし,チヨカジにとっては物流センターの多重活用の進展が
期されたのである(68)。その際,永井商事が小売店からの注文を受けて情報を処理し,チヨカジ
の物流センターを経て富士流通への配送指令を出す役割を担うコアネット・インターナショナ
(69)
ル(CNI)
も,チヨカジと永井商事が東京堂およびソフト開発のコアグループとともに,出
資主体となっていた(70)。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 55
③
永井商事の経営悪化と伊藤伊への支援要請
しかし,永井商事の経営の悪化が次第に明らかになっていった。その要因の1つは,売上の
規模に比べて,コンピュータへの過大投資が大きかったことであるとみられている(71)。前述の
コア・インターナショナルの資本金は1億円で,コア・グループの出資額が4,
000万円,東京
堂,チヨカジ,永井商事のそれは各2,
000万円であった(72)。1987∼88年のこれら3社の資本
金は4,
500万円で同一であるが,東京堂の売上は260億円(1988年度)
,チヨカジの売上が260
億円(1988年度)であったのに対して(73),永井商事の売上規模は69億円(1987年度)であっ
た(74)から,そうした見方も的外れとはいえないであろう。
永井商事のそういう経営状況に対して,チヨカジの金融的支援がなされることとなった。さ
らに進んで,1989年2月には, チヨカジによる永井商事の吸収合併という発表もなされた(75)。
これに対して,チヨカジの取引銀行の静岡銀行から,チヨカジへのマイナスの影響が思いのほ
か大きく,懸念する向きもあったという(76)。また,地元の名古屋の販売店からは,静岡に本社
を置く会社から仕入れることに反発があった。これでは,売上の伸長が期待されない。そこ
で,当時ライオンの名古屋支店長であった井口寬治(後にライオン副社長)
が仲介の労をとり,
地元の有力店であった伊藤伊へ永井商事の営業を引き継ぐ話がもち込まれたという(77)。
伊藤伊にとって,永井商事はじめ,CNI に関わったチヨカジおよび東京堂の3社は,東京
方面への展開を展望すると,東海道を結ぶ有力なライバル的卸企業でもあった(78)。また永井商
事は,カネボウ,資生堂などの化粧品のほか,サンスター,P&G,フマキラー,などの代理
店資格をもっており,伊藤伊にとっては,みずから有していないこれらの資格を獲得できる可
能性もあった(79)。
( 2 )伊藤伊による継承と新会社の設立
①
永井商事の廃業と伊藤伊の出資決定
当時の伊藤昌弘の『日記』によると,チヨカジからの協力要請を受けた伊藤伊では,1989
(平
成元)年3月1日,伊藤昌弘社長と伊藤哲也常務が静岡を訪問し,チヨカジ,永井商事および
伊藤伊との間で次のような諸点について,基本的合意に達したという(80)。
1.永井商事は4月20日をもって廃業(又は内整理)をする。
2.情報処理部門は現在の CNI を使用する。
3.物流,商品調達については従来のチヨカジ本社物流を借りる。
4.チヨカジ本社物流にてピッキングされ,名古屋に配送されたものは,量による売上変更
を毎日おこなう。当社が直接代理店のものと,化粧品小物等の中でチヨカジから購入す
―― 経
56
営
論
集 ――
るものとに分かれる。チヨカジから購入するものについては商品情報を受けなくてはな
らない。
5.CNI 使用量については売上の0.
59,チヨカジ使用量については後日定める。
6.3月17日 AM11:00∼13:30迄,永井,伊藤伊合同説明会を行う。
7.永井本社を伊藤伊が購入する。約15億円。
8.CVS,ヤマザキ,ファミリーマート,ココストアは先方の方針にて決定する。又,チヨ
カジ豊橋の取引する店も遠方のものはなるべく伊藤伊につける。
②
公表とテクノ中京の設立
上記の合意にもとづいて,1989(平成元)年3月17日,伊藤伊では,仕入先約100社の関
係者を名鉄ニューグランドホテルに招いて,永井商事の廃業にともない,その得意先を継承す
るとともに本社(名古屋市名東区姫若町)の土地と建物を買収して新会社を設立することを発
表した。新会社の名称は株式会社テクノ中京とし,資本金は2,
000万円,社長には神谷健三
(伊藤伊株式会社常務取締役)
,取締役には村松芳一,非常勤取締役には伊藤昌弘と伊藤哲也
が就任するとされた(81)。
③
テクノ中京の新社屋と商品センター
設立3年後の1992年7月に,テクノ中京は,高針配送センターがあった名古屋市名東区高
間543に新社屋と物流センターを竣工させて,移転した。高針配送センターの機能が前述のみ
なと商品センターに統合されたため,かつての高針センターを全面改装してテクノ中京高針商
品センターとするとともに,テクノ中京の本社屋を新築したのである。
全体の敷地面積は1,
089坪,建築面積が590坪,延床面積が1,
118坪で,本社事務所1階に
事務所,応接室,社員食堂,2階に ISM(In-Store Merchandising)ワークショップ,ロッカー
室,3階に会議室とロッカー室が配置された。新社屋には,情報処理の強化のため,NEC シ
ステム3100― A100と日本オフィスオートメーションのソフト「ザ・卸」を導入した。また本
社2階に配置された ISM ワークショップは,変化の激しい状況下でのインストア・マーチャ
ンダイジングの研究と開発を推進するチームであった。
商品センターでは,1階に物流事務所,出入荷口,ケース棚,CVS 用ピッキング作業場,2
階に社員食堂,ロッカー室,控室,3階に一般バラピッキング作業場がそれぞれ配置された。
特徴の1つは,ピッキングと検品を同時に行うポータブルハンドスキャナーの POT―40S を採
用し,ローコスト・オペレーションをはかったことである(82)。
これまでテクノ中京の物流は,永井商事と関係のあったチヨカジとの協同物流で行われてい
た。自社で在庫をもたない商品は,切り替えや廃番などの情報が遅れたり届かないこともあっ
て,テクノ中京自身としてコントロールできない部分があり,これが欠品の大きな要因となっ
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 57
ていた。そこで,この POT ピッキング・システムの導入をともなう自社物流によって,納入
時のノー検品と欠品が防止できると期待されたのである。ところが,思い通りにはならず,店
によっては欠品率が15∼20% という事態にも陥った。従業員全員で棚卸しをしたり,ロケー
ションをつくり直したり,時には夜中までのピッキング応援をしたりという努力が続けられた
のである。4ヶ月を経た頃にはようやく精度も向上し,欠品率も2% 以内に収まるようになっ
た。当時,65名のピッキング担当者,70余名のアルバイトを含む総勢150余名による成果で
あった(83)。
( 3 )P&G の中核代理店指定
伊藤伊は,永井商事の経営継承によって,P&G の代理店権を入手したが,さらに P&G との
取引関係が強化されることになる。
①
中核代理店制度
テクノ中京設立の翌月,
すなわち1989年4月,
伊藤伊は,
P&G から中核卸店の打診を受ける。
P&G ファーイーストは,1972年に日本サンホーム(第一工業製薬,旭電化,ミツワ石鹸の
の共同出資で1969年設立)と伊藤忠および P&G の合弁による P&G サンホームとしてして発
足した段階では,約3,
000にもおよぶ第一工業と旭電化の卸店網を引き継いだ。これは,おお
よそ東日本が旭電化系,西日本が第一工業製薬系ということで,なかなか旧来の企業との取引
関係の色合いを払拭できなかった。そこで,1987年後半からは,その時点での430の代理店
から125社を中核代理店として選定し,さらにそのなかから35社を最重要中核卸店として選
別し,日本市場での P&G の流通政策の要としたのである(84)。
②
伊藤伊の指定
1989年4月12日,P&G のローバック常務が伊藤伊を訪問し,中核代理店としての指定を
受けるかどうかの打診があった(85)。
伊藤伊は,旭電化および第一工業製薬のいずれの代理店でもなかったが,それまでまったく
P&G の商品を扱っていなかったわけではない。サークル K へのモノゲンユニ(毛糸用洗剤)
などの納品の必要上,名古屋市(港区錦)のニシキ株式会社(86)から,一部商品を店出しで仕入
れていた。その後,前述の1986年のコンビニ向けの大治センターの開設後は,ニシキで対応
が難しくなり,永井商事に仕入先を変更し,同社の合併後,伊藤伊は P&G の代理店となった
のである。
全国の有力代理店の選定を進める過程で,P&G としても,愛・三・岐を中心とする東海圏
での仲間卸網や各メーカーとの取引実績,さらには財務の健全さを評価したと思われる。伊藤
58
―― 経
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論
集 ――
昌弘は,先の打診を受け入れ,1989年6月29日に開かれた中核卸店会議から参加した。中核
代理店となったことで,伊藤伊の取引の範囲は大きく拡がることとなった。また P&G にとっ
ても,北海道地区でのダイカと同様(87)に,東海地区で重要な流通の要を得ることになったので
ある。
なお,当時,伊藤昌弘は P&G の流通担当の宮野入達久とは,同氏がそれ以前に勤務してい
たジョンソン社のアメリカのラシーン本社を視察をしたときからの知己でもあった。後述する
ように,その後,宮野入達久氏は,コンサルタントとして独立し,伊藤伊の若手幹部の教育に
携わることになる。
いずれにせよ,ここでも,伊藤伊は,市場での成長が期待された仕入先メーカーの経営方針
という外的要因への受動的対応によって,取引範囲を拡げることとなったのである。
4.周辺事業の整備
1990年代の初期,伊藤伊では,工場部門や運送部門の合理化にも取り組んだ。これについ
てみておこう。
( 1 )ダイヤモンド化学の設立
別稿(88)でみたように,伊藤伊は1904(明治37)年2月に蠟燭の製造と卸売によって創業し
た。その後,この蠟燭の製造部門は後に伊藤伊堀田工場となり,戦災での焼失からの再建を経
て蠟燭の製造・卸売を継続していた。しかし,なかなか安定した経営は難しい状況が続いてい
た(89)。
ほり た
1991
(平成3)年11月25日,この堀田工場を独立させてダイヤモンド化学株式会社とした。
伊藤伊株式会社の100% 出資で,資本金は2,
000万円(1株5万円×400株)であった。事業
目的は「洋ろうそくの製造」のほか「油脂及び金属磨用剤,磨剤,クレンザー,洗浄剤,つや
出し剤等の化学品の製造」
,「石鹸洗剤日用品雑貨の販売」などとされた(90)。当初の代表取締役
は工場長を務めていた鈴木堅二であったが,1996年6月からは伊藤哲也に代わった(91)。
ダイヤモンド化学は伊藤伊の連結子会社となったが,伊藤伊株式会社としては,製造部門を
切り離して独立採算制とすることによって,企業の事業目的と財務面との関係を明快にして合
理化を図ったことになる。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 59
( 2 )テクノエクスプレスの設立
1991年5月(92), 伊藤伊では運送業に進出した。 これまで取引のあった三和運送を買収して,
新に株式会社テクノ・エクスプレスを設立した。資本金は400万円で(93),社長には伊藤伊の副
社長の伊藤哲也が就任した。車両9台,従業員19名を引き継いでの運送業務開始となった。
前年の1990年12月施行の貨物自動車運送事業法の規定で,トラック事業が免許制から許可
制に緩和されたことも背景にあった。業務の実際面では,量販店やコンビニからの多頻度小口
配送のニーズも高まっており,また運送業者側はトラックや人件費の高騰にともない物流費の
引き上げを求めていた。こうした状況に対応するため,配送の効率化など自社の物流管理を徹
底することにねらいがあった。また,伊藤伊の物流としては,後述する,同年10月のみなと
商品センターの開設にともなう配送効率の全体最適をはかることも意図されたであろう(94)。
5.水平的広域化戦略の端緒
1990年代の半ばになると,伊藤伊の仲間卸売企業の所在地域への他地域からの有力卸企業
の進出がみられた。これを契機として,伊藤伊は1990年代半ば以降,小売直販と水平的広域
展開を進める。ここでは,その契機となった事態と,それへのいわば反作用として伊藤伊が初
めて試みた水平的広域展開についてみておくことにしたい。
( 1 )卸企業の広域展開と伊藤伊の方針転換
①
北陸新和の岐阜2次卸3社合併
1995(平成7)年4月,伊藤伊にとって衝撃的な合併話が報じられた。これまで,伊藤伊の
岐阜県下での有力な仲間卸であった敷島物産株式会社(羽鳥郡岐南町大字八剣字霜田72―1)
,
栗本物産株式会社(岐阜市西川手5―11―1)
,丹羽久株式会社(恵那市永島町中野604―1)の3
社と石川県の株式会社新和が同年6月21日をもって合併するという報道である(95)。
新和にとっては,小売店が広域化する状況への対応策の一環であった。大きなきっかけと
なったのは,得意先のホームセンターのカーマが商圏を拡大したことである。前身の北陸新和
時代の1991年10月には,西加茂郡に名古屋支店を開設し,さらに1993年3月には,名古屋
支店を物流センターをもつ拠点に刷新していた。
一方の伊藤伊にとっては,まさに「晴天の霹靂」とまで報じられたほどであった。伊藤伊が
事前に情報を入手して説得に当たっていればこうした事態は回避できたかもしれないとの見方
60
―― 経
営
論
集 ――
や,3社の経路が外れたことで岐阜での小売直販の好機となるとの見方もあった。これらに対
して,内田喜美雄取締役は「自社としては元卸事業も懸命に取り組んできたつもりだ。だが努
力不足もあったかもしれない」とし,また「対小売販売は大型小売りの登場で出てきた長年の
方針」と答えている(96)。
伊藤昌弘社長個人にとっても大きな衝撃であり,具体的な対応策を見いだし得ないまま数カ
月が過ぎた。しばらくしてから岐阜3社近くに後の江南センターの土地を取得したことが伊藤
伊の当該エリアでの小売直販推進という憶測を喚んで刺激となったのかもしれない,と推論す
るようになったという(97)。
なお,新和と合併した岐阜の3社は,それぞれ,新和岐阜支店の敷島営業所,栗本営業所,
丹羽久営業所として営業していたが,1996年6月に,前2者は岐阜県安八郡輪之内町里1177
に新設した新和岐阜支店に統合し,丹羽久営業所は恵那営業所と改称した(98)。
②
直販の推進と広域化の端緒
岐阜3社の新和による合併という外圧は,伊藤伊にとってはまたも予期せぬことであり,ま
た広域垂直的取引関係の一端すなわち「外堀」を侵食される事態であった。ただ,客観的にみ
て,伊藤伊が岐阜を含め広域的な仲間卸のネットワークがあったからこそ,こうした他地域の
卸企業の越境的商圏拡大を「本丸」の愛知県外にとどめることができたともいえる。またこの
外圧は,伊藤昌弘にとっては,これまでの経営方針に柔軟性を与える大きな転換点となった(99)。
別稿(100)でもふれたように,この報道の2∼3ヶ月後,伊藤昌弘社長は,まずかつての2次
卸の所在地を含む地域での小売直販を推進することを営業担当の平野正敏(第一営業部長)と
高橋洋史(第二営業部長)に指示した(図 ―6参照)
。
こうした方針転換が可能であったのは,前述のように,伊藤伊が業界の動向に遅れることな
く,競争力の源泉である情報・物流システムを高度化させていたからでもあった。
この経営方針の転換の実現により,別稿(101)でみたように,伊藤伊の直販比率が高まってゆ
くことになる。
( 2 )岐阜への反作用的展開と関係企業の合併
①
テクノ中京とケンセキとの合併
上述の岐阜の3社と新和との合併は,伊藤伊にとって岐阜県内での新たな水平的展開へと結
びつくこととなった。岐阜市(金園町4丁目)の卸店の株式会社ケンセキと,伊藤伊の系列会
社であるテクノ中京との合併である。
ケンセキは,1940年11月18日の設立で翌1941年1月4日に開業している。1985年3月
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 61
21日に岐阜県石鹸販売株式会社からケンセキに社名を変更した。当時の社長は,加藤基一,
資本金は3,
000万円,年間売上22億円,従業員数は40名(社員25名,パート15名)であっ
た(102)。
伊藤伊の岐阜県の仲間卸3社と新和との合併が発表された約2ヶ月後の1995年6月,ケン
セキの加藤新一会長とテクノ中京の伊藤哲也社長との会談がもたれた。両者は,1957年と
1990年のアメリカ視察で懇意になった仲でもあったという。ケンセキの加藤会長は伊藤哲也
との会談の翌月の1995年7月末に逝去したが,加藤基一社長は,会長から「時代の流れだ。
ぜひお世話になるよう」激励されていたという(103)。1995年8月から伊藤伊と関係のある今井
合同会計事務所で検討に入り,12月1日に契約のはこびとなった。3日後の12月4日,名古
屋市中区伏見の摩天楼飯店でライオンやユニチャームなどの仕入先100名近くを招いて,合併
合同発表会が開催され,合併は1996年6月1日とされた。
テクノ中京の年間売上高約58億円と合わせると80億円の売上規模となることが想定され
た。他方,両社の補完性というメリットもあった。というのは,テクノ中京の取扱商品は化粧
品が中心で,取引先もコンビニエンス・ストアが多かった。これに対して,ケンセキは,一般
日用雑貨が中心で,食品系スーパーとの取引が多かったのである(104)。
合併後の新会社は,資本金7,
500万円の株式会社テクノケンセキとなり,代表取締役社長に
は伊藤哲也,副社長には加藤基一が就任した。従業員数は,パートを含めて160名の規模と
なった。また岐阜市岐南町伏屋3―44には,岐阜支店が置かれた(105)。
②
テクノケンセキの業績とファミリーマート・ショック
テクノケンセキは,合併翌年の1997年3月期で84億9,
000万円,翌1998年3月期には92
億円の売上高となり,1999年3月期には100億円が見込まれた。このため,物流の強化をめ
ざして,岐阜に敷地面積1,
000坪(賃借)
,延べ床面積1,
300坪,年間処理能力70億円の新し
い物流センターの建設を進めていた。しかし,最大の大口販売先であったファミリーマートの
帳合がなくなってしまった。これはテクノケンセキだけではなく,全国では何社にも及んだと
いう。この影響もあって,1999年3月期は,86億9,
000万円,2000年3月期には75億5,
000
万円と落ち込んだ。こうした状況の下で,伊藤哲也の後任の加藤基一社長は1期2年で退陣
し,伊藤哲也が再び会長兼社長に復帰した(106)。
テクノケンセキが,ファミリーマートの帳合を失った背景には,ファミリーマートの親会社
が西友から伊藤忠に移り,ファミリーマートの日用雑貨関係の帳合と全国物流が東京堂に一元
化されたことがあった(107)。1998年2月,すでにファミリーマートの筆頭株主が伊藤忠商事に
移行していた(108)。その後,伊藤忠では物流面でも,スーパー向けとコンビニ向けが混在して
いた西友の物流施設利用を見直し,効率化と集中化を進めたのである(109)。そうしたなかで,
62
―― 経
営
論
集 ――
化粧品・石鹸・洗剤などいわゆる日用雑貨の帳合と物流も東京堂に一元化されたのである。東
京堂側には,それ以前からファミリーマートとの取引関係があり,1992年11月には埼玉県松
伏町にコンビニ専用の物流センターも始動させていた(110)という強みもあった。ファミリー
マートの帳合・物流一元化にともない,東京堂では,小牧,摂津,淀川,仙台,福岡にファミ
リーマート専用センターを設けて対応した。こうした対応も功を奏して,東京堂では,売上高
を,1998年2月期の528億円から1999年2月には621億円と93億円すなわち17.
6% も伸長
させた(111)。
東京堂のみならず,伊藤伊にとっても,こうした小売勢力へのきめ細かい対応,とくに情報
システムや物流施設面の機能の充実と高度化は,この時期の中間流通企業の競争力を左右する
大きな要因であった。
そうした推移のなかで,テクノケンセキは,2001年6月29日に伊藤伊の100% 子会社とな
り(112),2002年10月には,兼松カネカと合併してテクノカネカとなる。
6.人的資源と組織
( 1 )人的資源の充実
①
従業員数の推移
伊藤昌弘が社長に就任した20期の伊藤伊の従業員数は,表 ―2に示されるように,229名で
あったが,その後,少しずつ増え,31期には約1.
5倍の345名にまで増えている。これは,
前述の21期(1986年3月)の大治センターや26期(1991年10月)などの物流センターの開
設とピッキング作業などの要員確保にともなう増加も含まれていると推定される。また25期
(1989年3月)のように,永井商事の経営継承とテクノ中京設立にともなう増員もあった。
別稿(113)でもみたように,伊藤伊での初の大学卒業者採用は,1967年3月の3名であったが,
この時期も数名ずつ大卒採用者の採用が継続していった(114)。そして,彼らの多くは,伊藤伊
の経営の担い手に育っていった。
②
人的資源の資質向上の試み
獲得した社内の人材を育成することも必要であった。そこで,伊藤昌弘は,かねてより縁が
あり,経営コンサルタントとして P&G から独立していた宮野入達久に,伊藤伊の次世代を担
う30代の主任・係長クラスの資質向上のための教育・訓練を依頼した。社内では「30代研修」
と呼ばれていた。元伊藤伊専務取締役の鈴木洋一(1953年4月生)によると,38歳のときと
いう記憶であるから,1991年頃のことと推定される(115)。
表 ― 2 伊藤伊株式会社従業員数の推移(1985 年 11 月末∼1996 年 3 月末)
20
期
間
年
度
従業員数
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
1984年11月29日 1985年11月29日 1986年11月29日 1987年11月29日 1988年11月29日 1989年11月29日 1990年11月29日 1991年11月29日 1992年11月29日 1993年11月29日 1994年11月29日 1995年11月29日
∼1985年11月28日 ∼1986年11月28日 ∼1987年11月28日 ∼1988年11月28日 ∼1989年11月28日 ∼1990年11月28日 ∼1991年11月28日 ∼1992年11月28日 ∼1993年11月28日 ∼1994年11月28日 ∼1995年11月28日 ∼1996年 3 月31日
1984 年度
1985 年度
1986 年度
1987 年度
1988 年度
1989 年度
1990 年度
1991 年度
1992 年度
1993 年度
1994 年度
1995 年度
229
―
256
271
314
349
367
351
340
355
326
345
(注1)授業員数には,パートなど常勤以外の就業者も含まれている。
(注2)
「役員人員給与」を出典とした場合,当該期の期末役員数を控除した数を記載した。
(出典)伊藤伊株式会社『決算書類』各期所収「会社の事業概況(説明)書」(20期,26期,27期,30期,31期)・
「役員人員給与」
(22期∼25期)・「外国法人
税等の額の控除に関する明細書」
(28期,29期)。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 63
期
64
―― 経
営
論
集 ――
ゼミナール形式の訓練は,月1回のペースで土曜日,あるいは日曜日などの休日に,社内で
はなく外部の会議室などを利用して,いわゆるオフサイトミーティングの形式で実施された。
服装はカジュアルとし,自由に考えて発言できる環境が大切にされたのである。その内容は,
次世代の経営を担うことが期待されている人々が対象であったので,経営戦略の策定に関する
ものであった。当初は,グループ単位で特定のテーマについて検討し,代表者が限定された時
間内で自分たちの考えを伝え,理解してもらうという方式であった。やがて,個人レベルの訓
練へと移っていった。
そのいずれも,HEMPOSA 理論(116)にもとづいて思考し,各自の業務において目標達成に向
けて検討したものを各人が発表し,参加メンバーと意見交換するという形式であった。お互い
に評価し合うことによって,参加者間の競争意識も高まり,知的レベルを上げていくことにつ
ながった。
知識を取得するための従来の研修とは違い,参加者は自分の頭を使い考え抜くことを求めら
れたので,戦略策定に必要な分析力と論理的な思考力を身につけることができた。すなわち,
従来のいわゆる成り行き的な思考ではなく,中期的に目指す目標を持ち,現状とのギャップを
明確にして,打ち手(戦略)を策定する「目標管理」の重要性を学んだのである。
それまで,伊藤伊のみならず多くの卸売企業では,「考える前に行動する」
,俗にいう「イケ
イケドンドン」の活動が一般的であった。そのような企業活動でも売上高が増加でき,毎年実
績を残すことができていたのである。これは,大手メーカーの代理店制度にもとづいて,卸店
の権利が守られていたからである。しかし,守られた権利の範囲を越えて,主体的な創意・工
夫による収益の向上を実現することはできなかった。つまり大手メーカーや成長する小売業と
対等に話し合い,自社が有利に展開できる力はなく,卸売企業に内在している中間流通機能の
主体的な発揮による収益獲得はできずにいた。これを打破する大いなる機会となったのが,こ
の中間管理職の育成であった。
鈴木洋一も,この訓練で覚醒させられた感があり,大いに自己を成長させる機会になったと
いう。社内の論理的思考性を培養する効果をもったし,得意先や仕入先メーカーの担当者に対
して科学的(実証的)
・論理的な思考をもって話せるようになったという。ときには,メーカー
の担当者の論理性の欠如を感じたり,得意先・仕入先に対して裏付けをもった計画案を提案で
きるようにもなったという。
さらに,宮野入達久は,伊藤伊の社員研修に限らず,伊藤昌弘社長と話し合い,当時伊藤伊
の取引先であった卸売業の次期経営者も含めたアメリカ流通視察を定期的に行い,先進的な小
売業が求めている中間流通機能についても検討する実務的な研修を行っている。
こうした活動によって,人的資源の育成をはかったのである。また,経営コンサルタントの
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 65
アタックスから講師を迎えて新入社員から管理職までおよそ7つの研修会も実施されたが,後
に合併するダイカと比較すると(117),全社全層を対象とする体系的・恒常的な教育・訓練プロ
グラムを構築するまでにはいたらなかった。
その意味では,1994年12月17日の「卒業発表式」をもって終えた(118)「30代研修」は,全
社的にみると限定的な成果にとどまったといえる。しかし,宮野入達久氏と取り組んだ各種の
人的資質向上の試みのほか,営業・物流・業務など全ての職種と階層にまたがる業務・品質改
善を狙った QC 活動などは,各社員の持つ能力,資質を顕在化させ,社内活性化に大きく貢献
したといえる(119)。
( 2 )職制の変遷
最後に,伊藤伊の1980年代半ばから90年代半ばまでの経営と人的資源の関連を,人の配置
される組織図によって,6つの時点で確認しておこう。
① 1985∼1989年の組織図
図 ―1は, 伊藤昌弘が社長になった1985年時点での伊藤伊の組織図である。 これをみると,
営業部門は,主に仲間卸を所管する第一営業部と小売直販を所管する第二営業部とに分けられ
ている(120)。
図 ― 1 1985(昭和 60)年
伊藤伊株式会社組織図
༺㒊㛛
(出典)伊藤伊関係者からの情報提供による。
66
―― 経
営
論
集 ――
第一営業部の販売一課は,愛知県外の仲間卸(伊藤伊の2次卸)
の担当で,その範囲は三重・
岐阜・静岡・福井・石川・富山・山梨・長野などのエリアに及んだ。販売二課は,愛知県下の
仲間卸とともに,薬局,雑貨店,化粧品などの小売店を担当した。前述のように小売直販は第
二営業部である。したがって,この第一営業部販売二課の担当する小売店は例外的なものとな
る。すなわち,主にシステム化(EOS 発注など)のできない得意先であり,訪問受注のでき
る小売店を担当した。販売四課は,愛知県内外の松下電器(乾電池,電球,蛍光管,オーディ
オ・テープなど)
・松下電工(配線器具・ドライヤー・電気カミソリなど)両社の製品と象印
製品の仲間卸を担当した。松下電器・松下電工からみると,従来からの小売販売チェーンとは
別の特販ルートとなる。この課では,主に仲間卸への販売を担当し,新興小売勢力向けの販売
は,後述する第二営業部の直販担当の三課などが各センターに発注して,各センターから各小
売店へ納品することとした。
第二営業部に置かれた販売三課は,イトーヨーカ堂,イオン,ダイエーなど広域展開してい
た量販店とデパートを担当した。販売五課は,ユニー,ヤマナカ,ヨシヅヤなどの地域量販店
とトヨタ生協などを担当し,販売六課は,ナフコチェーン,地域の食品スーパー,サークル K
などのコンビニ,チェーン・ドラッグなどを担当した。前述の松下電器・松下電工の製品のう
ち量販店向け販売は,これら販売三課と販売六課が担当した。
別稿(121)でみた1971年1月時点の組織図と比べると,2つの営業部が設けられて,仲間卸担
当を第一営業部,小売直販担当を第二営業部としていることが大きく異なる。仲間卸を「第一」
営業部としていることにも,伊藤伊の仲間卸尊重の経営方針が表れているとみることができよ
う。ただ,その一方で,成長著しいスーパーやコンビニそしてドラッグなどへの対応のため,
第二営業部として,小売担当の3つの課を所管する部を設けなければならなかった。ここで注
意しておかなければならないのは,この時点では,仲間卸の所在する地域に小売直販を推進す
るための組織ではなかったということである。
管理部門をみると,情報システム関係を担う電算室が管理課に置かれ,この時点の2つの配
送センターを管理する物流課と総務・経理課とともに,3つの課で構成されている。大須セン
ターは,従来からの本社併設センターであり,前述の愛知県内の仲間卸の「店出し」のほか,
市内の化粧品店,薬局および一部の百貨店の物流倉庫であった。
図 ―2は,翌1986年の組織図である。これをみると,前年の図 ―1とほとんど変わりはな
い。1つだけ注目したいのは,管理部に物流企画室が新設されているところである。前述のよ
うに1986年3月に,伊藤伊では,コンビニ向け中心の大治配送センターを開設し,新しいシ
ステムが取り入れられた。そのための対応であり,前田裕彦が室長に就いている。大治配送セ
ンター長との兼務である。電算室長には,伊藤伊の情報システムの確立と進化を担った藤根康
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 67
図 ― 2 1986(昭和 61)年
伊藤伊株式会社組織図
(出典)伊藤伊関係者からの情報提供による。
図 ― 3 1988(昭和 63)年
(出典)伊藤伊関係者からの情報提供による。
伊藤伊株式会社組織図
68
―― 経
営
論
集 ――
裕が就いている。
図 ―3は,1988年の組織図である。3つの営業部体制となり,第三営業部に販売七課と貿易
課が設けられている。また経営企画室も設けられた。
販売七課の担当とされたペット事業は,ユニチャームからペット事業を始めないかとの誘い
があったことによる。ユニチャームからの支援がどの程度かもわからなかったが,神奈川ペッ
トフード(通称カナペ)からの支援を得て,ペット事業を開始し,その担当部署として販売七
課を設置したという(122)。ちょうどその頃,岐阜県のペット卸の三恵商事からシステム関係の
支援要請があり,伊藤伊が岐阜の三恵商事からペット用品を仕入れて,得意先に販売した。伊
藤伊と三恵商事との提携へと進展する計画もあったが,経営方針の違いから立ち消えとなり,
得意先を三恵商事へ譲渡して,この計画は中断のやむなきにいたった。
貿易課は1987年に新設され,同年から台湾からの輸入品の販売を実施に移した。交渉の結
果,アースヤードという代理店から傘,扇風機,毛玉取り機,ビデオテープ,乾電池,ポータ
ブルテレビ,クリスマス・ツリーなどを仕入れることになった。その輸入・仕入の担当がこの
貿易課であった。輸入品の販売は,各課が担当した。ただ,販売先の小売店がリスクを負うこ
となく,不良在庫などは伊藤伊が処分せざるを得なかったという面もあり,縮小・撤廃を余儀
なくされた。
図 ―2で管理部の管理課にあった電算室,同じく管理部にあった物流企画室,営業部にあっ
た営業企画室を統括する部として,総合企画部が設けられている。卸機能の強化を担当する部
であり,伊藤伊の経営展開とその基盤となる競争力を左右する重要な部門とされ,管理部から
独立したとみられる。
また管理部門では,業務部が設けられ,第一営業部すなわち卸部門の受注処理業務を担当す
る業務一課と,第二営業部すなわち小売直販部門の受注処理業務を担当する業務二課がその下
に置かれている。
図 ―4は,1989(平成元)年の組織図である。永井商事の経営を継承して,テクノ中京が設
立され,また P&G の中核卸の指定を受けた時期である。
② 1994∼1995年の組織図
図 ―5は,みなと商品センター開設3年後,プラノマスター開発の2年後の1994年の組織
図である。宮野入達久による幹部教育も展開されていた頃である。図 ―4と比べると,営業部
門も管理部門も細分化されていることがわかる。
営業部門では,3つの営業部のもとでの従来の6課体制から10課体制へと変わっている。
これは,業態別のきめ細かい対応による小売直販の強化を企図してのことであった。
第二営業部では,図 ―4で地域食品スーパーはじめナフコ・チェーン,サークル K の担当お
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 69
図 ― 4 1989(平成元)年
伊藤伊株式会社組織図
(出典)伊藤伊関係者からの情報提供による。
図 ― 5 1994(平成 6 )年
伊藤伊株式会社組織図
(出典)伊藤伊株式会社社内報編集委員会『社内報ばぶりん』Vol. 12(1994年春)4頁および伊藤伊関
係者からの聞き取り調査による。
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集 ――
よびチェーン・ドラッグを担当していた販売六課のほかに,勢力を増すホームセンターなどの
担当の販売八課,地域ドラッグや小売店担当の販売十課が設けられた。第三営業部には,従来
販売三課の所管であったデパート部門担当の販売九課が置かれた。また,小売販売強化のため
に,販売促進部が設けられて,店頭技術研究所も,ここに配置された。
管理部門では,業務部に第三営業部の受注処理業務を担当する業務三課が増設されている。
図 ―4で総合企画室にあった電算室が情報システム室として総務部に置かれ,諸々の人的資源
の資質向上を担う能力開発室も同部に設置されている。
図 ―6は,1995年の組織図である。伊藤伊が岐阜の2次卸3社の他企業による合併という衝
撃を受け,2次卸の所在地も含めた直販拡大への方針に切り替えた時期である。この直販拡充
を実現するために,営業本部とその支援部門の体制は大きく変わった。
前年までの第一・第二・第三の3営業部体制が,図 ―2と同じ2営業部体制に変わった。こ
れは,平野正俊が2つの営業部を担当していたのを1つとして,仲間卸その他を担当する第一
営業部専管の責任者とし,第二営業部は新しい責任者の高橋洋史のもとで業態別小売直販強化
を推進しようとしたものである。いわば責任の明確化という主旨であった。
図 ―5で第三営業部にあったデパート部門担当の販売九課は,図 ―6では第一営業部に移さ
図 ― 6 1995(平成 7 )年伊藤伊株式会社組織図
(出典)伊藤伊株式会社社内報編集委員会『社内報ばぶりん』Vol. 16(1995年冬)5頁および伊藤伊関係者か
らの聞き取り調査による。
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 71
れ,前述のミュゼ・アローム担当の香り事業部も付設された。販売七課は従来のペット事業の
担当からドラッグ担当へと役割を変えて第二営業部へと移された。また同じ第三営業部にあっ
た貿易課は,新設されたマーケティング部に置かれた。このマーケティング部には,かつての
販売促進部の機能が発展的に継承された。店頭技術研究所はマーチャンダイジング(MD)課
に,販売促進課の役割は機能分化して MD 課とリテール・サポート・システム(サービス)
(RSS)課にそれぞれ引き継がれた。同課では,セールス・レディが小売店のルートセールス
を行い,店頭で注文をとったり,棚の管理を行ったりした。マーケティング部には,このほか
にエレクトロニック・データ・プロセッシング(EDP 課)を所管する課が置かれ,EOS で受
注するに際してマスター整備(エラー修正)などを担当した。
また,図 ―5で管理本部の業務部にあって受注業務を担当していた業務一課と業務二課は,
それぞれ第一営業部と,第二営業部に移された。得意先からの受注処理業務は,営業に近い組
織が良いとの判断であった。小売直販を担う第二営業部の充実とマーケティング強化がうかが
われよう。
管理部門では,総合企画部が管理本部の下に再び設けられて,図 ―5で総務部にあった情報
システムと管理本部直属であった物流企画が移管され,これらのほかに QC 担当部署が置かれ
て,PL(Product Liability)担当も置かれた。同じ管理部門の物流部では,図 ―5にあった高
針配送センターがこの年の3月に閉鎖されて4月からテクノ中京が使用することになったの
で,この図 ―5にはない。
以上のように,伊藤伊の組織は,情報・物流システムの進化,小売勢力の急成長と環境変化
と伊藤伊の直販拡充という経営方針の転換にしたがって,所管を明確にし細分化する方向で改
正が進められてきた。まさに,組織が戦略(経営方針)にしたがってきめ細かく進化してきた
といえよう。
おわりに
最後に本稿での検討によって明らかにされた諸点を整理しておくことにしたい。
第一に,伊藤伊では,1970年代末から事務処理などのコンピュータ化を推進し,1980年代
半ばには,情報システムの構築とその物流システムとの連動に努めた。1980年代半ばの通信
の自由化にともない,業界の受発注ネットワークシステムの構築が進展した。伊藤伊では,情
報システムの担当者が業界の受発注オンライン化の基盤づくりに尽力するとともに,いちやは
く先駆的企業が構築した EDI のネットワーク・システムに加入した。
第二に,伊藤伊では,1980年代後半に,物流システムのオンライン化を進めるとともに,
72
―― 経
営
論
集 ――
勢力を増すサークル K などのコンビニ対応の大治配送センターも設けた。さらに,プレゼン
テーション・ルームや店頭技術研究所を設置してマーチャンダイジング機能の強化に努めた。
1990年代になると,最新の物流センターとしてのみなと配送センターを新設し,卸売企業と
しての競争力を強化することとなった。この時期には,香り商品の専用の小売店を設けて顧客
ニーズの把握とその対応のためのノウハウの蓄積も試みた。さらに,仲間卸との取引にも
EDI を導入し,経営支援に努めた。また店頭技術研究所での蓄積を基礎に独自の棚割システ
ムを開発し,これを販売していった。こうした新規展開のための投資の多くは,従来からの内
部留保によった。
第三に,他からのはたらきかけで,伊藤伊では,同じエリアの有力卸店の永井商事の経営を
継承し,新会社のテクノ中京を設けた。これによって,取扱商品の幅を広げるとともに,伊藤
伊グループとしての経営の実質的な第一歩を踏み出した。グループ企業としては,同業のテク
ノ中京のほかに,創業の業務の1つでもあった蠟燭製造部門の工場を法人化したダイヤモンド
化学や運送業務のテクノエクスプレスなども,一員となった。さらに,伊藤伊は P&G の中核
代理店としての指定を受けて,その取引関係も強化させた。
第四に,岐阜県所在の伊藤伊の仲間卸3企業が,北陸の有力企業に合併されたことは伊藤伊
にとって2つの大きな意味をもった。1つは,これを契機に小売直販を強化したことであり,
いま1つは,伊藤伊グループ企業のテクノ中京と岐阜県企業ケンセキとの水平的合併が実現
し,広域化の第一歩を踏み出したことである。ただし,ここで注意しておかなければならない
のは,伊藤伊として,創業以来の仲間卸(2次卸)
尊重の方針は,継続したということである。
第五に,人的資源の増加とともに,その能力向上のための努力がなされたということであ
る。30代を中心として,対外交渉力や提案能力を培うことになり,将来の経営幹部候補生の
充実がはかられた。
第六に,情報・物流システムの充実,小売直販の推進,人材の充実といった経営方針の展開
に合わせて,たびたび組織が改編されたことである。伊藤伊という卸売企業も,まさに経営方
針という戦略の展開をフォローするかたちで,組織が改編されたのである。
以上のように,伊藤伊の経営は伊藤昌弘が経営を引き継いで10年を経過した頃に,小売り
直販の推進,広域展開への初動という経営の大きな展開期を迎えた。1990年代後半から2000
年代になると,そうした動きが加速され,さらに全国卸への道を進むことになる。そうした時
期の伊藤伊についての実証的な検証は,次の課題となる。
【注】
(1)佐々木聡「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の多段階取引経営の特徴」(明治大学経営学研究
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 73
所『経営論集』第62巻3・4号,2015年3月)
。
(2)ここでの流通業全体の情報システムに関する叙述は,通商産業政策史編纂委員会編・石原武政編著『通商
(経済産業調査会,2011年3月)191∼200頁による。
産業政策史1980―2000 第4巻 商務流通政策』
(明治大学経営
(3)佐々木聡「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の地域有力卸売企業の経営体制」
学研究所『経営論集』第62巻第1・2号,2015年3月)62∼63頁。
(4)ここでの伊藤伊の情報システムに関する叙述は,特に断りのない限り,元伊藤伊株式会社取締役・情報シ
(2003
ステム担当・藤根康裕氏作成『伊藤伊情報系年表』
(2015年),同氏作成『伊藤伊情報システム変遷』
年)のほか,同氏および伊藤伊株式会社元取締役・前田裕彦氏に対する筆者の質問への回答による。
(5)設備を保有してサービスを提供する「第一種電気通信事業者」と,第一種事業者から回線を借りてサービ
スを提供する「第二種電気通信事業者」の2種類の事業者が認められた。「第一種電気通信事業者」の分
,日本テレコム(JT)
,日本高速通信株式会社
野では,1984年に設立された第二電電株式会社(KDD)
(TWJ)の NCC(New Common Carrier:新規通信事業者)が1985年に認可された。「第二種電気通信
事業者」の分野では,特定ユーザーにザービスを提供するか,設備規模が基準以下の「一般第二種」
,設
備規模が大きく不特定多数のユーザーにサービスを提供する「特別第二種」の2種類が認められた。特に
参入が原則自由であった「一般第二種」の分野には,VAN 事業のほか,電子メール,ボイスメール,デー
タベースなど各種通信サービスから回線のリセールにいたるまで様々なタイプの事業者が参入した(日本
電気社史編纂室『日本電気株式会社百年史』同社,2001年12月,713∼715頁)。
(6)プラネットの経営史の概要は,株式会社プラネット編『株式会社プラネット設立30年 これまでの歩み』
(2015年1月改訂)を参照されたい。
(7)1964年1月に株式会社富山計算センターとして富山市に設立された。企業と地方自治体が,当時まだ高
価であったコンピュータの共同活用を促進させることが事業目的であった。1966年1月の新潟進出をは
じめとして,翌年4月には東京,その後,名古屋,仙台,大阪,札幌,金沢に事業所を開設した。1970
年10月には,Information Technology からとってインテックと社名を変更した。その後,多数が同時に
大型コンピュータを使用できるサービスを開始し,1975年10月には富山相互銀行(現:富山第一銀行)
のオンラインシステムを完成させた。1982年3月には,最先端のパケット通信技術をもつアメリカの
GTE テレネットと提携した。この年,公衆電気通信法が一部改正され,中小企業向けの VAN サービス
が解禁されたのにともない,インテックでは,いち早くパケット交換方式による新しいデータ通信網の
エース・テレネット(Ace Telenet)を構築し,翌年にサービスを開始した。1985年4月には,電気通信
事業法による特別第二種電気通信事業者として郵政省から第一号認可を受けた。1985年設立のプラネッ
トのほか,1986年の食品業界 VAN のファイネットの設立に参画した(株式会社インテック編『季刊イン
ターリンク』第25号,2014年4月25日,12∼17頁所収「インテック50年の歩み」)。
(8)ライオン株式会社社史編纂委員会『ライオン120年史』(同社,2014年7月)162∼163頁。なお,出資比
率はインテックとライオンがそれぞれ25% で,残り7社が残額を当分比率で出資とされた。代表取締役
社長にはインテックの金岡幸二が就任した(
『中日本商業新聞』1985年8月5日)。
(9)玉生弘昌『これが世界に誇る日本の流通インフラの実力だ』(国際商業出版,2013年6月)118∼120頁。
(10)前掲『ライオン120年史』163頁。
(11)同書,163頁。
(12)1980年に日本チェーンストア協会が会員小売業と取引先とのデータ交換に使用する手順として標準化し
た。通産省では,これを受けて,流通業界全体に共通する伝送制御手順を「J 手順」として制定した。こ
れによって,企業間のデータ交換が促進され,納入業者は受注データを再入力することもなくなり,取引
の正確さと効率性の両面で大きく進展することとなった(前掲『通商産業政策史 1980―2000 第4巻
。なお,ここでの全卸連の初期の試みについては,前掲『伊藤伊情報系年表』
商務流通政策』193∼194頁)
による。
(13)全国石鹸洗剤化粧品歯磨雑貨卸商組合連合会『全卸連会報』第36号(1985年9月15日)6∼7頁。
(14)全国石鹸洗剤化粧品歯磨雑貨卸商組合連合会『全卸連会報』第38号(1986年3月15日)3頁および19
∼20頁,同誌第39号(1986年8月10日)27∼28頁,同誌第40号(1986年10月1日)5頁,10頁およ
び17∼18頁,同誌第46号(1988年3月23日)18∼20頁。
(15)筆者の質問に対する株式会社プラネット担当者からの回答による。
(16)前掲『ライオン120年史』163頁。
74
―― 経
営
論
集 ――
(17)1974年9月19日設立,所在地は東京都三田であった(日本電気社史編纂室編『日本電気株式会社百年史
。
資料編』同社,2001年12月,368頁)
(1986年9月15日)および『洗
(18)ここでのパンジャパンデータサービスに関する叙述は『中日本商業新聞』
』
(洗剤新報社,1987年5月10日)67∼68
剤日用品粧報 洗剤・石鹸・日用品ダイジェスト〈86年版〉
頁による。
(1986年9月15日)
。
(19)前掲『中日本商業新聞』
(20)筆者の質問に対する株式会社プラネット担当者と元伊藤伊担当者の回答による。
『日本経済新聞』
〈地方経済面 中部〉
(1987年6月19
(21)ここでの東海流通ネットワークに関する叙述は,
日)
,
『中日本商業新聞』
(1987年6月18日)による。
(22)所在地は『1987中部流通名鑑』中日本商業新聞社(1987年3月)281頁,292頁,345頁,358頁による。
(23)ヘリオスについては佐々木聡『地域有力卸売企業ダイカの展開―ナショナル・ホールセラーへの歴史的所
産』
(ミネルヴァ書房,2015年3月)142∼144頁を参照されたい。
(24)筆者による元伊藤伊担当者への質問に対する回答による。
(25)メーカーや発売元が出荷時点で JAN コードをマーキングすること。
「1982(昭和57)年,セ
(26)前掲『通商産業政策史1980―2000 第4巻 商務流通政策』195頁。同書では,
ブン―イレブンが全店に POS システムを導入し」と記述しているが,川辺信雄『新版 セブン―イレブ
ンの経営史』(有斐閣,1994年4月)256頁ではセブン―イレブンでは「POS システムが1982年秋から
導入され,83年2月に全店に配置され」となっている。
(27)前掲「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の地域有力卸売企業の経営体制」62頁。
(28)ここでの高針センターのピッキングやロケーションおよびオンライン化に関する記述は,前掲『伊藤伊情
報系年表』
,前掲『伊藤伊情報システム変遷』および筆者の質問に対する伊藤伊関係者からの回答による。
(29)ここでの仲間卸の物流に関する記述は伊藤伊関係者への質問に対する回答による。
『中日本商業新聞』(1986年3月5日)と伊藤伊の
(30)特に断りのない限り大治センターについての叙述は,
関係者に対する筆者の質問への回答による。また,以下,土地・施設の面積表記については,根拠となる
出典の記載の通りとし,坪表記と m2 表記の換算や統一は行わない。
(31)筆者の質問に対する伊藤伊関係者からの回答による。
(32)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
(33)筆者の質問に対する伊藤伊関係者からの回答による。
(34)物流センターは,通過型の TC(Transfer Center)と在庫型の DC(Distribution Center)に分けられる。
TC は得意先の小売店に納品するための他社(メーカーや卸店)分の中継センターであり,2つのタイプ
に分けられる。1つは,店別センター納品と呼ばれるもので,発注を受けた卸企業各社が店舗別に納品物
を荷造りして TC へ持ち込み,TC では複数の卸店からの納品物を店舗ごと,配送コースごとに仕分けし
て各店舗へ配送する。もう1つは,総量型センター納品と呼ばれるもので,商品別に総量が納品され,セ
ンターでは,これを店別・部門別に流通加工を加えて納品する。伊藤伊の TC センターは,小売店の流通
センターであり,流通加工した分の手数料は,委託を受けた得意先小売店へ請求した。しかし,納品先の
小売店のセンターのセンターフィー(伊藤伊が小売店から請求される)として,相殺されることが多かっ
たという。ただし,大治センターは,花王の TC としての機能をもち,花王が伊藤伊に手数料を支払って
いたという。これに対して,DC は,小売や仲間卸へ納品する商品の自社在庫型の配送センターである。
ただし,同一納品先小売店へ他社の納品もある場合,他社の在庫も預かって自社分とともに同じオリコン
に集品して納品する。これによって,個口数の減少や店頭での品出しの効率化が図られる。他社在庫分
は,会計上,他社分として分けて計上される。このように他社からの在庫も預かって納品する場合を,預
かり型 DC センターという。このほかに,DC には,在庫振替型 DC センターというのもある。これは,
他社分の納品も自社の在庫から自社分とともに出荷し,他社出荷分を他社の仕入データとしてプラネット
経由でメーカーに流し,他社仕入に加える(自社仕入からはマイナス)ものである(伊藤伊関係者による
説明と
(株)
あらた『あらた用語集』第6版,2015年2月,24頁,29頁)。
(35)筆者の質問に対する伊藤伊関係者からの回答による。
『中日本商業新聞』
(1991年10月25日)
。
(36)
。
(37)前掲『伊藤伊情報系年表』
『中日本商業新聞』
(1991年10月25日)
。
(38)
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 75
(39)
『日経流通新聞』
(1991年4月11日)
。
(40)前掲「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の多段階取引経営の特徴」25∼27頁。
(41)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
91年版石鹸・化粧品・日用品卸売業 日本の有力問屋100社』(1991年3月)114頁。
(42)日本商業新聞社『’
(43)ここでのプレゼンテーション・ルームに関する記述は,『中日本商業新聞』(1986年8月25日)による。
『日本経済新聞』
(2001年10月11日)の「交遊抄」を参照されたい。
(44)
(45)前掲『地域卸売企業ダイカの展開―ナショナル・ホールセラーへの歴史的所産』144∼145頁を参照され
たい。
(46)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
(47)筆者の質問に対する元伊藤伊取締役で情報システム担当者の藤根康裕氏による回答による。
『日経流通新聞』
(1989年7月6日)
。
(48)
(49)伊藤伊株式会社社内報編集員会『社内報ばぶりん』Vol. 28(1998年春)8頁および伊藤伊関係者からの聞
000万円を投じて整
き取り調査による。なお,この「湯ノ山荘」は,ブラザー工業の保養所を購入して7,
備した施設であったが,管理責任者の死亡後,後任が難しく,閉鎖したという(筆者の質問に対する伊藤
昌弘氏からの回答による)
。
『日本商業新聞』
(1993年5月10日)
,
『中日本商業新聞』(1993年5月15日)。
(50)
『中日本商業新聞』
(1995年2月25日)
,
『日本商業新聞』(1995年2月27日)。
(51)
『中日本商業新聞』
(1996年12月10日)
。
(52)
(53)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『日本商業新聞』
(1998年1月1日)
。
(54)
(55)筆者による伊藤昌弘氏への質問に対する回答による。
『日経流通新聞』
(1994年9月1日)および伊藤伊関係者への筆者による質問に対する回答による。
(56)
(57)伊藤伊株式会社『伊藤伊情報システム概要 New ITOS』(2003年1月13日・14日)11頁。
(58)前掲『伊藤伊情報系年表』と筆者の質問に対する伊藤伊関係者の回答による。
『日経流通新聞』
(1995年3月7日)
。
(59)
(平成8年4月1日から平成9年3月31日まで)2頁。
(60)伊藤伊株式会社『第32期営業報告書』
『1988中部流通名鑑』
(中日本商業新聞社,1988年8月)251∼252頁。
(61)
(62)前掲「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の地域有力卸売企業の経営体制」。
(63)同稿57∼59頁。
(64)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
(65)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『創業125
(66)チヨカジは,1871(明治4)年3月に創業し,1941(昭和16)年11月に法人を設立している(
周年記念誌 さらなる躍進をめざして』チヨカジ株式会社,1997年2月,10∼11頁)。
(67)富士流通については,同書,62頁を参照されたい。
(68)同書,32頁。
(69)1984年10月設立。
『日本経済新聞』
(1984年10月6日)
。
(70)
『日本商業新聞』
(1987年3月27日)
。
(71)
『日本経済新聞』
(1984年10月6日)
。
(72)
『洗剤日用品粧報 洗剤・石鹸・日用品ダイジェスト〈88年度版〉』
(洗剤新報社,平成元年6月1日)141頁。
(73)
(74)前掲『1988中部流通名鑑』252頁。
『日本商業新聞』
(1989年2月13日)
,
『伊藤昌弘日記』(1989年3月1日)。
(75)
(76)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『日本商業新聞』
(1989年3月27日)
,前掲『伊藤昌弘日記』(1989年3月1日)。
(77)
(78)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
(79)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『伊藤昌弘日記』
(1989年3月9日)
。
(80)
(1989
(81)前掲『洗剤日用品粧報 洗剤・石鹸・日用品ダイジェスト〈88年度版〉』122頁,『中日本商業新聞』
年3月15日)
。
76
―― 経
営
論
集 ――
(82)
『中日本商業新聞』
(1992年7月25日)
。
(83)伊藤伊株式会社社内報編集委員会『社内報ばぶりん』Vol. 7(1993年冬)10頁。
(84)佐々木聡「P&G の日本進出と日本企業の競争戦略」(明治大学経営学研究所『経営論集』第54巻第3・4
号,2007年3月31日)113頁および129∼130頁。
(85)ここでの伊藤伊の中核卸店指定とニシキおよび永井商事との P&G 製品の取引に関する記述は,特に断り
のない限り,伊藤昌弘氏・平野正俊氏への聞き取り調査による。
(86)1959(昭和34)年の創業で,P&G サンホームの代理店であった。1988年当時,資本金は300万円,従業
『1998中部流通年鑑』中日本商業新聞,1988年8月,262∼263頁)。
員は8名であった(
(87)ダイカの元専務取締役の振吉巳歳男氏への聞き取り調査によれば,P&G の日本マーケティング担当の宮
野入達久氏が札幌に説明に来た際,
「一方的に選別したかのような言い分に対し,こちらは別に一方的に
そちらから選別されるおぼえはない」という旨のことをいちおう述べ,優越的地位であるかのような発言
に釘をさしたという。ただ,この指定によってダイカは P&G 商品の北海道流通の要となった。その後,
振吉氏と宮野入氏は,こだわりのない親しい関係を継続することになったようである。
(明治大学経営学研究所『経営論集』第61
(88)佐々木聡「伊藤伊にみる地域有力卸企業の経営基盤形成過程」
巻第2号,2014年3月)16頁。
(89)同稿,23∼24頁,28頁および37∼39頁。
(名古屋法務局提出,会社番号010484,1996年2月
(90)ダイヤモンド化学株式会社「現在事項全部証明書」
9日)
。
(91)ダイヤモンド化学株式会社「法人等の異動(変更)届書」(昭和税務署1998年1月14日収受)。
(92)設立年月は伊藤伊株式会社作成「沿革(昭和41年9月∼平成12年3月)」(作成年月日不詳)による。
(自平成2年11月29日至平成3年11月28日)の「関連会社株式」で
(93)伊藤伊株式会社『第26期決算書』
068万6,
700円となっている。
は,テクノエクスプレス株式の帳簿価格は1,
『日経流通新聞』
(1991年9月12日)
。
(94)
(1995年6月13日),『日
(95)ここでのこの4社合併に関する叙述は,特に断りのない限り,『日経流通新聞』
,
『石鹸日用品新報』(1995年4月19日),
『中日本商業新聞』
(1995年3
本商業新聞』
(1995年4月10日)
月30日)などによる。所在地は『1994中部流通年鑑』
(中日本商業新聞社,1994年7月)301頁,303
頁,306頁による。なお3社の概要をみておくと,次の通りである。敷島物産は1968年1月の設立で,
当時の社長は高橋達雄,資本金は750万円,年間売上高は15億円,従業員数は35人であった。栗本物産
400万円,年間売上高は22億円,従業員数
は1949年に法人改組し,当時の社長は栗本進治,資本金は2,
は56名であった。丹羽久は1880(明治13)年7月の創業で,1954年4月に法人改組し,1975年に株式
000万円,年間売上高は18億円であっ
会社丹羽久に改称した。当時の社長は丹羽久左衛門,資本金は2,
た(前掲『1994中部流通年鑑』301頁,303頁,306頁)。ただし,栗本物産の年間売上高は前掲『中日本
商業新聞』
(1995年3月10日)による。
(1995年6月13日)
。すなわち,当時の伊藤伊としては,このことによっても仲間
(96)前掲『日経流通新聞』
卸尊重という方針を継続的に公言せざるを得なかったのである。
(97)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『1996中部流通年鑑』中日本商業新聞社(1996年11月)303頁。
(98)
(99)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
(100)佐々木聡「1980年代半ばから2000年代前半の伊藤伊にみる地域有力卸売企業の所有と経営および取引関
係の変容」明治大学経営学研究所『経営論集』第63巻第1・2号,2016年2月。
(101)同稿。
(ママ)
(102)
『1985中部流通年鑑』
(中日本商業新聞社,1984 年11月)344頁,『1995中部流通年鑑』(中日本商業新
聞社,1995年11月)302頁および『中日本商業新聞』(1995年12月5日)。
『中日本商業新聞』
(1995年12月5日)
。
(103)
『日本経済新聞』
(1995年12月6日)地方経済面。
(104)
(105)前掲『1996中部流通年鑑』233頁および302頁。
『石鹸化粧品日用品業界’
2000日本の有力卸売業100社』(日本商業新聞社,2000年11月)122∼123頁。
(106)
(107)伊藤昌弘氏への聞き取り調査による。
『日経流通新聞』
(1998年8月15日)
。
(108)
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 77
(109)
『日経流通新聞』
(1998年11月2日)
。
『日経流通新聞』
(1992年3月31日)
。
(110)
2000日本の有力卸売業」100社』86∼87頁。
(111)前掲『石鹸化粧品日用品業界「’
(112)伊藤伊株式会社『第37期定時株主総会招集ご通知』所収『第37期営業報告書』(平成13年4月1日から
平成14年3月31日まで)5頁。
(113)前掲「1980年代半ばから2000年代前半の伊藤伊にみる地域有力卸売企業の所有と経営および取引関係の
変容」
。
(114)業界誌で,伊藤伊の学校別採用数が記載されているものがある。そのなかで,21名というのもあるが,
伊藤伊の元総務担当の内田喜美雄氏によると,単年度で20名を超えて大卒者を採用したことはないとい
う。おそらく,業界誌のデータは,在籍者数かもしれない。
(115)ここでの伊藤伊の人材育成に関する叙述は,主に鈴木洋一氏への聞き取り調査による。
(116)History, External, Mission, Policies, Objectives, Strategies, Action の頭文字をとった Programs & Plans
である。歴史,外部環境,使命,方針,目的,戦略,行動計画の流れに沿って経営計画を作成する。な
お,この HEMPOSA 理論は,現在では OGISM(A)理論(Objectives, Goal, Issues, Strategies, Measures,
Action の頭文字をとった Programs & Plans)といわれ,目的,達成目標,課題,戦略,判定基準,行動
計画から構成された戦略立案シートに昇華し,大手の上場会社において活用されている。
(117)伊藤伊株式会社社内報編集員会『社内報ばぶりん』Vol. 5(1992年夏)11頁,前掲『地域卸売企業ダイカ
の展開』132∼133頁,241∼244頁を参照されたい。
(118)伊藤伊株式会社社内報編集員会『社内報ばぶりん』Vol. 15(1995年冬)10頁。
(119)同書,10頁。なお,伊藤伊の QC 活動については,伊藤伊株式会社社内報編集委員会 『社内報ばぶりん』
各号に関連記事が紹介されている。
(120)ここでの職制に関する説明は,伊藤伊関係者への聞き取り調査によっている。
(121)前掲「伊藤伊にみる1960年代後半から80年代前半の地域有力卸売企業の経営体制」63頁。
(122)ここでのペット事業に関する記述は,筆者の伊藤昌弘氏に対する質問に対する回答による。
【付記】本稿執筆に際して,伊藤昌弘氏はじめ多くの伊藤伊関係者,株式会社プラネットの関係者および業界紙
誌(中日本商業新聞社,日本商業新聞社,石鹸新報社,洗剤新報社)の関係者の方々に御協力いただい
た。記して感謝の意を表したい。
(基盤研究(C))
【課題番号:
本稿は,平成27年度科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)
25380448】による研究成果の一部である。
78
―― 経
営
論
集 ――
Distributional System Improvements and
the Beginning of Broader Corporate Grouping of
Ito-I from the Mid-1980s to the Mid-1990s
Satoshi SASAKI
This paper examines the powerful Japanese wholesaler Ito-I’
s development from the mid1980s to the mid-1990s. The following points are discussed in this paper.
First, Ito-I made efforts to computerize its office work from the end of the 1970s and also
made progress in linking its information system to its logistic system in the mid-1980s. In
1985 the monopoly of the government Nippon Telegraph and Telephone Corporation was
abolished and free competition was allowed in communications. With the advances in creating online ordering, Io-I dispatched a specialist to help establish a wholesale online system in
soap, cosmetics, toiletry and daily necessities for Zen-oroshi-ren and Ito-I joined the EDI
(Electronic Data Interchange)network system created by pioneering private enterprises.
Second, Ito-I made progress in developing its online logistics system and founded Oharu Distribution Center for convenience stores like Circle K, which had extended its sphere of influence. Ito-I strengthened its merchandising system through the activities of its presentation
room and developing its in-store-merchandising(Tento Gijutsu Kenkyu-sho)
. In the first half
of the 1990s Ito-I strengthened its competitive position in trade through the construction of
the Minato Distribution Center, which was the first modern center for Ito-I.
Third, Ito-I also created aroma shops and strived to grasp customer needs and develop the
knowhow to answer market needs. Ito-I introduced an EDI system for transactions with its
secondary wholesalers and to support their business. Furthermore,Ito-I developed an original planogram system(Tana-wari System)based upon its Tento Gijutsu Kenkyu-sho and
put the system on the market. The funds needed for Ito-I’
s new system and facilities were
―― 1980年代後半から90年代半ばまでの伊藤伊にみる地域有力卸売企業の機能進化と水平的広域展開の端緒 ―― 79
financed by retained earnings.
Forth, by accepting external proposals, Ito-I took over accounts of suppliers and customers
of Nagai Shoji within Nagoya City where Ito-I was located and handed them to a newly established company named Techno Chukyo. Through these steps, Ito-I broadened the scope
of its transactions and took the first steps to become a corporate group. Horita Shop, candle
manufacturing, a company with Ito-I at its founding and which changed its name to Diamond Chemical, and Techno Express, a transportation company, became a corporate group
belonging to Ito-I. In addition, Ito-I was appointed as a core wholesaler by P&G and this
strengthened its relationship with P&G.
Fifth, for two reasons it was important to Ito-I that three secondary wholesalers under Ito-I
in Gifu prefecture were merged into a powerful wholesaler in the Hokuriku area. This
merger allowed Ito-I to step up direct sales to retailers and through the merger of Techno
Chukyo and Kenseki in Gifu prefecture, Ito-I broadened its business development in the
area. However, it was noteworthy that Ito-I did not change its business policy to regard to
transactions with secondary wholesalers.
Sixth, as the numbers of employees increased, Ito-I made efforts to develop their managerial
skills. Through its training program, Ito-I educated trainee executives, mainly in their 30’
s,
to have the ability to make business proposals and negotiate with external persons.
Seventh, Ito-I changed its organization frequently according to its changing business policy,
including improvement in information and logistics systems, developing direct selling to retailers, and the enrichment of human resources. In these ways, organization followed strategy in Ito-I from the mid-1980s to the mid-1990s.