天山北道の葱嶺通過路の要地烏恰出土ササン式銀貨等出土地の研究

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Title
天山北道の葱嶺通過路の要地烏恰出土ササン式銀貨等出土地の研究
Author(s)
菅谷, 文則
Citation
中国タリム盆地におけるシルクロード時代の遺跡の立地条件からみ
た類型化‐衛星写真CORONAの活用を通して‐, pp.73-79
Issue Date
2007-03
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/976
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天山北道の一興通過路の要地烏恰出土ササン式銀貨吊出土地の研究
菅谷文則
1.シルクロード研究とGIS
シルクロードという用語は、19世紀末から20世紀初頭に経済地理学の概念としてリヒ
トホウヘンによって提唱された。その後は、その拡大解釈がつづけられてきた①。
リヒトホウヘンが提唱したシルクロードは、ビザンチンと唐事長安間の絹を代価とした
貿易が存在したことを予想したのもであった。
今回、報告する中国新町ウイグル自治区烏恰出土の約918枚ものササン外銀コインと16
本の金子(インゴット、計1.228gr)の一括出土は、今日まで中国大陸で発見された最大
数の西方式一ササン式銀貨であり、シルクロ・一ドの交通路を推定するうえできわめて重要
な資料である②。このため、わたしたちは1998年3月に中日連合のササン式銀貨調査を実
施した。ただ、この1998年冬調査時に出土地の踏査を計画したが、銀貨等の調査におも
なる時間を費やしたので、実地調査をすることができなかった③。
銀貨等の出土は1959年であり、辺境地域における工事中の出土であったので、出土状
況、出土遺構についての情報は多く報告されていない。1959年の報告で、最も重要な点は、
工事中の出土で、工事者によって大多数の銀貨等が回収されていたが、原報告者である李
甲唄氏が現地を確認された時に、自身で銀貨数枚と金条の一部を検出されたことであった。
その報告文の概要は簡単であったので、1998年に李氏に面会し、その記録も注③において
報告している。
ただし、新彊ウイグル自治区のカシュガル・アトシュ地域で1985年8月23日に発生し
た7.8級の地:震によって、李遇春氏の報告の基点となっている烏恰県城が下流側に移動し
た。旧干城は黒孜葦船にあったが、地震で壊滅し、全県域で200人近い死傷者があったた
めに、下流に人工都市として建設されたもので、新旧当垣間は、36㎞もの距離がある。わ
たしは、今回の現地調査までは、烏恰県城が黒孜葦郷であったと思っていたが、現報告の
記述『該県三区名野烏恰(即野里克恰提)…(省略)』は、次のような改革をえていた。
現代の烏恰県は、古代には掲平野(『漢書』巻96上、西域伝第66上)に属していた。
漢学には、疏万国に併せられた。近代に至った1920年(民国9)に疏勒県は烏魯克恰提
県を設置し、それを佐けた。1930年には即吟克恰提に治局を移した。第3行政区に所属
させた。この時は喀平野区に属された。1938年(民国27)に烏恰県が設置され、1954年
の新彊自治区の成立となる。克孜勒蘇村ホ克孜自治州が、烏恰県を管轄とするようになっ
た。銀貨等の発見された1959年の県城は烏魯克恰提に置かれていたのか、黒孜葦に置か
れていたのかは、それを知る資料を筆者は触目していない。
従前の中国では、正確な地図の公刊が進んでいず、国家全図、省別地図が公刊されてい
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た程度である。後者も、1970年代は内部刊行(非公開)の印刷物であった。都市部や大規
模県城については、観光図、交通図が刊行されていたが、これは絵地図に近く、比例尺が
合っていなかった。このような地図状況であるが、旧ソ連が、中国建国直後から、1958
年前後のソ連派遣技術者(専家)の一斉帰国以前にほぼ全土の10万分の1地形図を完成
していたことは漏れ聞いているが、現在に至るまで中国では非公開である(本地図は、1990
年後半に、旧ソ連から日本に移出され、いま日本では容易に実見できる)④。
本文の対象である烏恰県については、辺境地域でもあり、具体的な状況を知ることもで
きなかった。ところが、近年公刊されている動静、市別、県別交通地図等の精度が向上し
ており、米国作成50万分の1地図(TPC)と縮尺を統一してみると、交通地図が極めて
正確に描画されていることが判った。交通図等をもとに、烏恰県を例にササン式銀貨出土
地をさぐってみる⑤。
2.1959年出土の烏恰の銀貨と金条
標題の烏恰県は、行政的には新彊維吾ホ自治区克孜勒興野ホ克孜自治州烏恰県である。
烏恰県は中国最西端の都市であるカシュガル(喀什)の北方にあたり、キルギス共和国と
接している。県内には2ヶ所の口岸(開放された国境)があり、中国とキルギスとの間を
貨物車が往来している。この2ヶ所の口耳以外に、かつて国境意識が確立する以前におい
ては、人畜が往来していた。あるいは国境管理がなければ、現在にも往来ができる山口や
達坂といわれる交通路が烏恰県内には、11ヶ所もあった。以下に表示する。
・伊爾克什坦野司
国道309号
キルギスのサラタッショー
・吐爾朶特口岸
国道212号
キルギスのトタベリ山野
・烏ホ他蘇町鳶
キルギスのKarawlitee
・克則勒庫ホ山口
キルギスのKarawl’Tepe
・蘇約克山口
キルギスのAlay−Kvn東ヘ
・吐ホ朶特山口
キルギスのChatyu一:kel湖西10㎞
・喀勒馬克阿保山口
同上
・塔華墨依山口
同上
・薩引掛ホ頓山口
・葛魯栂杜山口
・芋刺別里山口
南ヘ
キルギスのKair−Talq南へ
同上
キルギス、タジキスタン三国境付近へ
2007年現在、新彊ウイグル自治区には口岸が17ヶ所設置されていて、パキスタン、タ
ジキスタン、キルギスタン、カザフスタン、ロシア、モンゴルの諸国との間に国境が開か
れている。「山口」「下坂」などの表示が国境線上、またはその近くに記されているのは、
38ヶ所もあり、合わせると55ヶ所もの国境越えの道路が、少なくとも民国時代まであっ
たようである。
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烏」恰の銀貨出土地点は、『考古』1963年9期の原報告では、「老烏恰9公理、90多米高
的山崖音響路時…」で発見されたとしている。この老僧恰は、原報告では「該県三区名馬
烏恰(郎烏魯克恰提)」と表現されている。烏魯克恰提は、カシガル川の源流部にあるキル
ギス族の集落で、そこで国道309号は国境の伊愚臣什坦口唱(イルケシュタム)に向う道
路と大きく二曲する川に沿う自治区道にわかれる。後者は、キルギス国境の塔一越依山口
と喀勒馬克阿静山口などに至る。地図上には、塔勒嬉依山口(聖算)、喀勒馬克阿野山口(右
股)にわかれる。ともに、ONC地図(F−6)では、13000feetの峠となっている。パミ
ール高原に通じていて、古代の「葱嶺道」のひとつと考えられる⑥。
銀貨と金轡の出土した地点は、烏鷺克恰提郷から9㎞とあるが、1959年に修路(道路
工事)に参加していた老郷によると、里程標12㎞を少し上院に過ぎた川の屈曲部にあた
る、右岸であった。この二条等の出土は、山あいの小集落の大事件で、出土から50年近
く経過しているが、その出土について語り継がれていて、村のものなら誰でも知っている
とのことであった。
3.カシュガルからウランチャットへの道
カシュガルからアトシュ(憎愛什)を過ぎて、アクス(阿克蘇)に至る国道314輝線を
走る。パミールから流下してくるキジルス川をほぼ直角に横切ると荒々とした土漠となる。
つづいて、ゴビとなる。道路の山側には、草木のない山脈が国道まで迫っている。烏恰へ
の道路は国道309号線で、キルギス国境まで、広潤な山峡をすぎてゆく。国道314号から
は12㎞で、上層苓北のバザールに至る。中学校があり、タクシーや小形貨物車の溜り場
となり、伐採された道路の並木のポプラの市場もある。谷入り口の大市場である。このあ
たりから山峡となるが、両岸の山も高くなく、川原も広く、一面に背の高い葦が繁茂して
いるところが多い。27㎞で、国道212号の分岐となる。直角に北に延びる212号は、吐
馬韓特断岸に至る。三叉路付近には、国境越えの超大型貨物車を多く見る。貨車には中国
税関督と大書されている。
さて地図では、カシガルからウルグチャト(同割克恰提)に向う道路は、3ルートある。
現在の通行量の多く、国道として解放されているのは、省道212号で、ハルダート一環に
向う三叉路を西進(ヘズウェイ)(黒藩屏旧県城)、カンスー(康蘇鎮)を通過するものと、
カシュガルからキジルス川左岸に沿う道路がある。さらに、カシュガルからヘズウェイに
通じる道路もあり、道路の分岐点から見ると、よく整備された道である。第1と第3の道
路の聞には、TPOによると9990feetの独立峰がある。第1と第2の道路は、1991年3
月に公開発行された『中国交通営養里程図第二版』(人民交通出版社、p.1−37)に図示され
ているが、212号から309号への分岐点は托栢という地名となっている。
309上線は、谷間の大道とも言える道路で、谷に沿い支尾根をこえる道路で、康怪獣ま
では、おおむね困難なく通過できる。康蘇鎮でキジルス川の支流を直角に横切る。谷の深
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さは30∼50mもあり、現在はコンクリート橋で渡るが、古くは藤橋などが掛けられていた
のであろう。今は炭坑があり、小規模な火力発電所もある。また食堂なども集まっており、
やや大きい集落を形成している。
わたしの踏査では、12時6分に九眼楽橋をすぎたところがら、道路周辺は雪となり、そ
の中に黒い道路があったが、康増田を過ぎた12時53分ころには、路面にも雪があらわれ、
まもなく10 cm程の積雪となり、2輪駆動中の北京Jeepは2度のスピンと、1回の越廼を
したので、4輪駆動をドライバに言って、ようやく難を逃れた、不思議なことに、14時10
分頃(里程標165㎞)あたりから、雪はまったくなくなる。165㎞は、目的地やイルケシ
ュタム(烏魯克恰提)ちかくで、この谷間の集落には雪がなく、周辺の山々にも雪はなか
った。地元のキルギス族にたずねると、この集落周辺は湿暖で、下流に降雪があっても、
一般には無雪であると言う。事実、この村落からの右側(ほぼ真北)へ向う支流の憂国汗
蘇川は広く開け、水流も豊かで、3300mをこす高地とは思えなかった。
広い川原には、ヤク、ウマ、双峰ラクダ、ヒツジ、ヤギなどが放牧されていた。草は背
の高いものから低いものまであるので、家畜の摂i食には極めて有利であると言えている。
当目も、ウマ、ラクダ、ヤクに騎乗している牧民を多く見かけた。
銀貨等の出土地は、マイルストン12㎞の地点から、わずかに上流に向つた岩山の裾部
であった、憂四竹蘇河の右岸で、たしかに屹立した岩山の裾部である。現在はトラック1
車線幅強の未舗装道が通っている。この道路肩から川辺へは、1∼3m程の崖となっていて、
水流までは100m強の石のゴロゴロした川原となっている。ここにも、ラクダ、ウマが放
牧されていた。
岩山は、川下側は砂岩風の礫岩で、川上側は巧い砂岩風の岩壁で、この両岩の交接点に
は、上部から水流によって侵食された凹み(登山用語のルンゼ)があり、その基部には、
巨岩が堆積しており、その奥が凹状を形成している。李遇春野の報告と牧民(76才、トル
ガン)の記憶はよく合致していた。若いガイドの伝聞記憶とも一致していたので、ここを
出土地としておく。15時40分に到着したが、帰途の道路事情、ここより奥へは立ち入れ
ないことから、短時間の観察で帰途についた。
ウルクチャトの村落から6㎞の位置のところに自治州史跡『老烏恰墳墓群』があるとの
ことで、踏査する。道路西側から川(道路)に降りてくる小さい切りくずし崖の上に4基
の低平な墳丘があった。墳丘からの出土品もあるそうであるが、自治州に存置されており
未見。墳丘は5∼10mの直径をもつ低平な墳丘で、そのすべてが凹んでいる。墳丘が陥没
している2基が、川原石を積み上げ、木材を加えたものである。石木混合の墓室構造は、
烏孫の墓に見られるようであるが、目下は時代判定と、国主の民族判定は、避けておきた
い。なお、その上流に大量の貝化石が出る泥砂岩層がある。結局、19時50分に阿図什市
中心部に帰着する。
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4.烏恰銀貨出±:地点確定の意義
馬蝉出土銀貨等の出土地が、キジルス川渓谷の谷の入り口近くではなく、最深部に近い
地点かの出土の決定は、極めて大きい意義がある。
もし現在の思掛三遍近くが銀貨等の出土地であれば、カシュガル、あるいはアトシュか
ら1日行程(約40㎞)であり、騎馬ならば、1日で往復できる行程である。タクラマカン
砂漠縁辺部の定着民が富を一時的に隠匿する目的で、デポジットした可能性も考えられる。
いわゆるシルクロードとの関係一隊商の通過路との関係は浅いと考えてよい。ところが出
土地がタクラマカン砂漠周辺のオアシスから、はるかに遠い位置であることが確定できた
ことは、銀貨等を隠匿した人物の推測は、次の二つの可能性に限られてくる。
第1は、谷間の営牧地である烏魯克恰提(ウルクチャトからイルケシュタム周辺)の谷
間の住人であった可能性。第2は、この谷間の道路を利用して、フェルガーナ盆地との間
を往来した隊商が、何らかの理由によって、谷間に隠匿した場合が考えられよう。この両
者を比較したい。
烏魯克恰提で、早耳蘇河(キジルス川)から北方に分岐する大きい支流を憂勒汗蘇河
(Yoo・Le−Han−Su河)という。この河の最上流は、喀勒馬克阿野山口と塔勒鳴依山口に至
る。両者は、ともにONC地図に道路表示があるが、国境は閉鎖されている。ともにフェ
ルガーナ盆地東端の大都市であるオシューに至る。通路は、シルダリア河の源流の1っで
あるタール河(Tar河)に沿う。
またキルギス領内に入って、すぐに東北に向うことによって、チャトルク湖(Chatyrkel
湖、聖母ホ克ホ湖、水面高さ11500feet)に至る。ヨルハンス河の源流部には、金鉱と炭
鉱があるとの地図記載がある。
この峠をこえる東西交通路は、タクラマカンとフェルガーナと結ぶ最腱路であるが、20
世紀初頭に繰り広げられたプトレマイオスの『地理学序説』による葱嶺通過路の認識の中
では、交通路としては低い位置づけとなっている。葱嶺通過路が、いわゆる天山北道で、
カシュガルーウルクチャトーイルクシュタンーオシュとみるリヒテンシュタイン・桑原騰
蔵(『東西交通史論叢』p.143・274)とする考え方と、タシュクルガンーワハン渓谷とする
考え方がある(白鳥庫吉『西域史研究』下、p.1−56)。ロシアの探検家であるV・オシャー
ニンらが、この谷間は牧草も少なく、徒沙点が多く、大キャラバンの通過が困難であると
したとしている(加藤久詐『シルクロード事典』1975年、芙蓉書房、p.152、筆者は露文
報告楼未見)として、否定的解釈が多い。スタインは1900年5,月から1901年5月の第1
次中央アジア探検でこの谷間を越えている(」・ミルスキー著、杉山二郎訳『考古学探検
家スタイン伝』上、1994年、六興出版、p.249・250)。スタイン伝では、1901年5.月29
日置ポニー8頭によって、8日のうちには、オシュに到着している。この行程は通常は18
日行程であるが、第5日目には国境のイルクシュタン(伊ホ克什提)に到着して、勾画に
入っている(1901年7,月2日にロンドンに帰着している)。この谷間が険路であって、古
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代の交通には適しないとの報告は、ほぼ同時代のスタインの記録からみても、若干の疑問
が生じる。わたしの21世紀初頭における走行は順調で、谷の通過も巨大な車以外はでき
たものと思われる。
さて、銀貨等の隠匿者は誰かという命題であるが、私は隊商が不時の事態に遭遇して、
紅い岩と褐色の岩との隙間に路用していた銀貨等を臨時的に隠匿したとみたい。谷間の集
落の長では、これほど金条や銀貨を隠匿するのであれば、平地の巨岩の周辺等の適地をさ
がして隠匿したであろうと思わざるをえない。もちろん推測である。
これよりも重い検討事項は、プトレマイオスの葱嶺通過路であり、漢書等の記する大苑
と中原との交通路である。短文で記述することは適当ではなないが、烏孫の墓地らしきも
のか、烏魯克恰提の上流に存在することである。出土品の実見を経てからすべきであるが、
この谷間の葱嶺通過路も看過しがたいものであることを指摘しておきたい。
注
①リヒトオウヘン(Ferdinand von Richehofenl)の提唱にかかる。その著書の和訳は次のとおり。
②李遇春「新里烏恰県発現金野和大批波鍍銀幣」(『考古』1963年前9期)
③シルクローード学研究センター一Wt『新彊出土のササン式銀貨』シルクu一一ド学研究19、2003年、 pp.1・343
④使用した地図は以下のとおり。
・新墨継吾ホ自治区近習局編制『中華人民共和国新彊維吾ホ自治区地図集』1995年、pp 1・19
・新彊維吾ホ自治区交通巨編『新彊維吾ホ自治区公路地図』1997年、人民交通出版社、pp 1・135
・新彊維吾ホ自治区測絵局『二言二二ホ自治区地図冊』2006年、山東省地図出版社、pp 1・186
・人民交通出版社『中国交通聖運里程図』第2版、1991年、人民交通出版社、pp 1・370
⑤注④の地図の注記では、1983年に「重新解放」と表記されている。
⑥葱町道は、『漢書』西域伝によっているが、その具体的な路線、なかでも峠越えについては論争が20
世紀初頭から続けられているが、地図の状況が不完全であったので、個人の探検的踏査や、たまたま入手
した地図、あるいは地理情報によっていて、不確かである。もっとも簡易な概説は、前嶋信次・加藤九詐
著『シルクロ・一一一ド事典』1975年、芙蓉書房、pp。150・156が簡便である。
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付図 烏魯克恰提付近のGoog l eEarth画像