まほろば主人

―前 篇―
まほろば主人
宮下 周平
1
32 周年記念
まほろば創業
国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 そそ
国破れて山河在り、城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ、
放射能は、いずれ人を滅ぼす
だろう、しかし自然は、この元
嘆息した。 然 は、 か く も 旺 盛 た る か 」 と、
「 嗚 呼、 人 は 滅 び る、 さ れ ど 自
在るのみだった。
あ
せ、ただ除染作業の車と人影が
く。人なき家々は、朽ちるに任
(「春望」杜甫)
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 原発の地を訪ねて
「 …… と、 笠 打 敷 て、 時 の う
つるまで泪を落し侍りぬ 夏草や 兵どもが 夢の跡……」
杜甫の詩に重ねて、芭蕉はよ平
泉にて藤原三代の無常を詠ん
と茂り行くであろう。自然を前
だ。
二〇一五年七月十日、奥州の
連 な り 福 島 の 浜、 無 人 の 大 熊・
に、「 環 境 保 護 」 と い っ た 善 言
素さえも抱きかかえて、何事も
双葉の町街道を車で走り抜けな
さえ人間の傲慢さであり、この
無きかのように、年々歳々、青々
がら、この詩が口を衝いて出た。
原発という怪物を世に送り出し
つ
盛夏七月、鬱蒼とした木々が陽
たのだと感じた。
うっそう
炎のように天に立ち上がり、蜩
そして、何故に福島が、離れ
さ
の声々のみが辺りの静寂を劈
一望、除染フレコンの山また山、ここまで津波が襲って来た
田畑を続ける根本家の横では、物々しい
除染作業が続く
た首都の為に、負の遺産をかよ
うにも請け合わねばならなかっ
たのだろう、と我に問うた。
先祖探し
ある日、まほろばに郷土史家
で作家の大橋しのぶ女史から連
絡があった。
何でも、寺田本家の雅代夫人
の紹介でエリクサー浄水器を
購入し、拙著『倭詩』を読まれ
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試験水田区域を見学。震災後も変わらず、福島の風景は美しく豊かだった。
中嶋紀一先生と家内。
ら札幌に渡って造園業を営んだ
父二人が、福島県の会津若松か
た。 そ こ に、「 私 の 祖 母 と 曽 祖
されるほど、不思議な感性を持
ンマーなどの異郷の文学を創作
上梓され、シルクロード、ミャ
も親しく、啓佐前当主の伝記を
に走り、しばしそれが続き、茫
そ の 時、 家 系 の 由 来 を 読 み、
俄かに鳥肌が立ち、電撃が体中
真が添付されていた。
に入り細に亘るまでの解説と写
けいすけ
……」の一文、それが心に掛かっ
ち合わせておられる。
けになった。
、佐々
宇多の御代から始まり
くだり
木源氏を経て……との件に釘付
然として我を無くした。
たという。そして、藤沢からわ
「ご先祖のお名前は?」
と訊かれた。
ざわざお越しになられたのだ。
実 は、 彼 女 の 母 方 の 先 祖 も、
会津だというのだ。会津といえ
ば、あの戊辰戦争前夜のことを
問われたのだろうが、私は歴史
「倉田です」
家系図を盗まれて、一度も目に
亡き祖母から生前、よく聞か
さ れ た 文 言 で、 あ る 法 事 の 際、
に甚だ疎く、愛憎の感慨を抱き
「 良 か っ た ら 調 査 し て 参 り ま
す」と挨拶され、間もなくお帰
触れることがなかったものと同
うと
ようもなかった。彼女の祖を辿
りになった。
じ 内 容 だ っ た。「 あ の 話 は、 本
倉 田 家 は 会 津 若 松 城 郭 外 で、
五 街 道 ― 白 河・ 二 本 松・ 越 後・
た。
資料に手紙が添えられて届い
でなくなったこの先、重大な事
掛けから、興味本位の先祖探し
れているかのような深刻な思い
札幌と会津と離れても、なお
確かなる証に、祖先の魂に呼ば
当だったのだ」。
下野・米沢―の交差する町の中
実に氣付くべき何かが待ち受け
札 幌 と 会 津 の 戸 籍 簿 を 送 り、
それから程無くして、女史より、
れば、木曽義仲の四天王、樋口
れっ
次郎兼光で、何とあの巴御前の
兄であったという歴きとした血
筋。女史は、千葉の寺田本家と
心 地、「 大 町 四 辻 」 の 角 で 検 断
ているのだろうか。
茨 城 大 学 名 誉 教 授 の お 招 き で、
二本松市で有機農業の会「あぶ
くま農と暮らし塾」での家内の
つい
講演会と原発周辺跡地の視察に
同行し、序でに初めて会津若松
の旧市街に、大橋女史の案内で
入った。この同じ福島の悲劇の
重なりが、何か偶然ではないよ
次々と起こる奇遇
のすぐ近辺、初めて目の当たり
幼き野口英世の火傷を手術し
て 後 に 務 め た 病 院、「 青 春 館 」
うな氣がした。
それから間もなく、中嶋紀一
に駆られた。思いもよらぬ切っ
の役。つまり町衆農民の世話役
をし、町と藩政を取次ぎ、司法
や消防などの諸役も兼ねて町全
体を纏めていた庄屋の家系とい
う。その古地図から建物と、微
二本松市の「あぶくま農と暮らし塾」に招かれての家内の講演会
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対面して、在りし日の啓佐さ
んの思い出話をしているうちに、
大橋しのぶさん
にする本家の跡地に「大町四辻」
の石杭が立てられ、旧郡山商業
銀行の明治創建のビルが遺って
いた。
は、 イ タ リ ア レ ス ト ラ ン
ル今
ーチェ
」 の 経 営。 記 念 に 夕 食 を
「 Luce
ここでと入った。
中は古い明治大正ロマン漂う
雰囲気に、祖母の本家で会津の
おぼ
初 め て の 晩 餐 を と 張 り こ ん だ。
奥様と思しきサービスの方との
会話で驚愕。何という偶然! 大町四辻の石
倉田家址、レストラン「Luce」
札幌市西区平和生まれ、お母様
はまほろばのお客様であること
を知り、互いに目を見合わせた。
その驚きと共に、更にマスター
のご主人が、知人の「アクアパッ
ツァ」日高良実オーナーシェフ
の元で修業されたとか。日高氏
の奥様、タカコ・ナカムラさん
は、家内主宰の「インテグレー
ト・マクロビオティック」を運
営してくださっている。そんな
仲なのだ。その関係の濃い者た
ちが先祖の跡地で活躍。
更に、直前、鶴ヶ城を散策し
ていたさ中、映画『降りてゆく
生き方』の製作者・森田貴英国
際 弁 護 士 か ら 偶 然 電 話 が あ り、
「会津に来ているなら、『ふるさ
と街づくり』で、内閣総理大臣
オーナーシェフ矢澤直之と奥様未来さん
く
み
だ け に な っ て し ま っ た と い う。
数ある子孫の老舗がたった三軒
人で日野出身。昭和の大恐慌で、
店「 zoo
」 の 経 営 者。 し か も、
後述するが、先祖は同じ近江商
」 で 初 対 面、
早 速 そ の「 Luce
何と目の前のモダンな生活雑貨
託け。
回是非お会いして欲しい」との
賞を受賞した山口ご夫妻に、今
の だ。 不 便 な 昔 の 旅 路、 前 途
こ こ か ら、 札 幌 に 向 け て 親
子二人して心細い旅に立った
は見当たらない。
あろうが、今は倉田を名乗る家
い を 馳 せ て 名 付 け ら れ た の だ。
じ碧空を仰ぎ、同じ空氣を吸っ
ね、今は亡き家から見上げる同
祖母の生家跡、甲賀五番地を訪
ことづ
翌日、自ら古文献を調べられて、
二二五里、一千㎞、その心境は、
塔の墓。
だが、近所に今も残る初代藩
主・蒲生氏郷の菩提寺と五輪の
賀へ
会 津 か ら、 さ ら に 滋
三五〇年続いた本家の分家筋で
た。この甲賀は滋賀の故郷に想
倉田と親戚筋に当たることも判
どうであっただろうか。
と し た 曽 祖 父 の 足 取 り を 訪 ね、
翌日、戊辰戦争後、米沢に一
度身を寄せ、その後市内を転々
互いに驚くばかりであった。
会 い が あ る も の だ ろ う か 」 と、
ズ ー
明。ただ唖然として「こんな出
山口勝啓・乃子ご夫妻
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蒲生氏の墓
三 重 松 阪 を 統 治 し、
千利休の一番弟子でも
あ っ た 彼 は、 名 大 名
にして大茶人の武士で
あった。秀吉の命に依
り滋賀県日野から国替
え で、 会 津 に 移 封 し
た。その時、大挙近江
寺田本家 23 代目故寺田啓佐さんと奥様雅代さん
倉田家譜
商人を連れて会津の街
造りに当たった。その
二十八年前に、先駆けとして命
じられた近江商人こそ、倉田新
右衛門為實であった。日野銃を
扱って生業としていたから、あ
のNHK大河ドラマ『八重の桜』
の砲術師範・山本(新島)八重
子家とは深い繋がりがあったで
あろうかと推測された。
しかして、千葉県神崎の寺田
本 家 の ご 先 祖 も、「 三 方 よ し 」
ご縁に、何かしら親近感があっ
たが、そういう因縁であったの
かと改めて感じ入ったのだ。
発酵学者・小泉武夫先生の福
島県小野町の生家も酒造業。関
東一円の酒・醤油・味噌など醸
造業の多くは近江商人の流れで
あることを小泉先生から伺って
おびただ
いた。実際日野の近江商人館を
訪ねると夥しい蔵元の銘柄が並
べてあった。更に、「倉田氏家譜」
に依ると、倉田家の前は山中姓
を名乗っていた。それは、今現
地で博物館として公開されてい
る旧山中正吉酒店の祖、山中兵
右衛門の連なりで、一時会津に
も行って戻った醸造家であった
のだ。今、少なからず、醸造発
酵 と 関 わ り の 深 い ま ほ ろ ば は、
こんな縁を端緒としていたので
あろうか。
し めの
あかねさす 紫野行き標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
〈額田王(万葉集巻一・二十)〉
まと
一九六八年五月、私は、薬師
寺の金堂復興勧進行脚に、頭を
剃り墨染の衣を纏い、高田好胤
管長に就いて初めて同行したの
が も う の
が、この額田王と天智天皇の歌
が 交 わ さ れ た 蒲 生 野 で あ っ た。
この地、蒲生郡日野町の意味合
いが、ほぼ半世紀を経た今、解
き明かされた。
つまり、私は、初めから、誰
かに呼ばれていたのだった。
蒲生野とされ船岡山の麓にある「蒲生野遊猟」が描かれた巨大な陶板
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の日野商人で同郷であったとい
うのだ。寺田さんとの浅からぬ
旧山中正吉宅「近江日野商人ふるさと館」
薩 長 へ の 恨 念、 今 も
なお
会津を日々歩き、人々の話を
聞いて感ずることは、戊辰戦争
は 一 五 〇 年 前 の こ と で は な く、
昨 日 の 我 が 事 で あ っ た こ と だ。
何故に、ここまで憎悪の溝を埋
められないものがあるのだろう
か。作晩聞いたことのように話
す会津人にとって、それは恨ん
でも恨みきれない無念遣る方な
い、先祖の遺言であり、吐息だっ
た。
「 義 を 以 て 倒 る ゝ と も、 不 義
を以て生きず」
その精忠、天地を貫く愚鈍と
も い え る 生 き 方 は、 死 を 以 て
する中、孤立無援の会津は、耐
えた。信任された孝明天皇の崩
御、だが、謀略に、朝敵の汚名
を着せられ、幕府の生贄として
まみ
矢面に立たされて一敗地に塗れ
た。あの時、松平容保に孝明天
皇から信任するとの宸翰と御製
を 何 故 に 公 開 し な か っ た の か。
そうすれば、朝敵の汚名を着せ
られなかったものを……。
卑劣なる岩倉具視などが捏造
した天皇討幕の密勅と錦の御
旗、それを掲げて会津に攻め込
の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱こ
れを遣わすもの也。 文久三年十月九日
【御製】
たやすからざる世に、武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこ
びてよめる
和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄え舞
武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて
りを尽くした。それは子女にも
各家の土蔵を封印して略奪の限
た。 分 捕 り 合 戦 に 血 眼 に な り、
殺戮は日本史を汚す蛮行だっ
んだ官軍。士族・町民無差別の
内命を下せしところ、すみやかに領掌し憂患掃攘、朕の存念貫徹
及んだ。男根を切り、死人の口
岩倉具視によって偽造された
「錦の御旗」。日像と神号が書か
れている。
今の世の審判を仰ぐものであっ
た。
藩祖・保科正之の家訓十五ヵ
条の絶対服従の教えも、将軍徳
川慶喜からの京都守護職の厳命
には逆らえなかった。火中の栗
を拾わざるを得ない立場。日本
中が長い物に巻かれろ、とばか
りに新政府に相寄る風潮が蔓延
【御宸翰】
堂上以下、暴論を疎ね、不正の処置増長につき、痛心に耐え難く、
くわ
じゅうりんりょうじょく
に咥えさせ、女子という女子は
悉く 蹂 躙 陵 辱 されて八歳にま
で及んだとする。婦女を裸にし
て惨殺した振る舞いは強賊と言
う他なかった。
武士たるもの、そこまで見境
無きか。松陰の大和魂が啼くだ
その生き残った子女が当時の骨
ろう! 何処にか、武士の情けよ。
1868 年(慶応 4 年 8 月 21 日)「会津戦争」母成峠の戦い。
6
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まで親戚十二人と共に自邸で自
五人の子女、一歳の季子に至る
めを受けぬため、家老・
そのた辱
のも
西郷頼母の一家は老母と妻、妹、
みな堕胎した。
津 に 処 女 な し 」 と ま で 言 わ れ、
畜の如きを今に語り継いだ。
「会
髄に刻まれた凄まじい情景、鬼
が、遂に半年を過ぎ、埋葬の
許 し が 降 り た 雪 解 け の 春 に は、
さえ許されず、罰せられた。
願すること幾度、だが触れる事
見かねて、検段は葬ることを嘆
せ、死臭は町を覆った。見るに
禁止令。死肉は禽獣に食うに任
そして町の路傍に散乱した屍
を葬ることさえ許さぬ遺体埋葬
れ、断罪された。
検断で藩に加担した罪を問わ
んだ。倉田家も町衆であったが、
祖、 儒 学 者 横 田 三 友
いう私の尊崇する先
五 輪 搭 が 三 基、 保 科
り 口 に は、 家 を 祭 る
続 い た。 阿 弥 陀 寺 入
は延々として幾日も
に 上 る 遺 骸。 そ の 煙
を弔うこと千三百柱
阿弥陀寺に堆く山と
わずかばかりにある
した七日町の街道筋
俊 益 の 初・ 二 代 の 墓
正之をも指南したと
積まれた腐乱した屍
うずたか
害し果てたのだ。
市街は凄惨極まりない地獄絵
なよ竹の 風にまかする 身な
がらも たわまぬ節 は ありと
こそきけ
図となっていた。倉田家が創建
が 置 か れ、 そ の 横 に 討 ち 死 に
し た 藩 士、 町 衆 を 弔 う 墓 石 と
碑が今も厳かに祭られてあっ
た。
飯盛山では白虎隊十九名が自
刃、さらに年少の二本松少年隊
六十二名も闘って逝った。
「かたくなまでのひとすじの道
愚 か 者 だ と 笑 い ま す か ……、
気まじめ過ぎたまっすぐな愛 不器用者と笑いますか もう少
し時がたおやかに過ぎたなら
……」
横田三友俊益:元和 6 年~元禄 15 年 (1620 ~ 1702)
会津藩の教学の祖。幼少から博学多才で、17 歳で堀杏庵、林羅山
に学ぶ。加藤明成に仕えて信任を得、その後も学問をもって保科
正之に仕えた。寛文 4 年 (1664)、日本における地方教育の先駆け
といわれる学問所・稽古堂を創設し藩士子弟の教育に当たった。
すことがなかっただろうに。
ず、かような少年の命まで落と
詰められた。愛しき日々は帰ら
の紅顔の少年たちは、死に追い
十 二・三 歳 か ら 一 六・一 七 歳
の、今では小学六年から高校生
「阿弥陀寺」倉田家の三基の五輪塔
町衆は山野や米沢など藩外に
逃れ、藩士は下北斗南の地に遷
7
〈頼母妻千重子(三十四歳)の辞世〉
幕末の会津藩家老の西郷頼母近悳
殉難の婦女子は二三三名に及
( ちかのり ) 肖像写真
西郷頼母の一族婦女子の自決
らされ、飢えと寒さで一万七千
ることはない。それは最早、テ
とへの恨み辛みは、今尚消え去
かった。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」。
ロリストである他の何者でもな
人中多くが離散し息途絶えた。
勝 海 舟 は、 江 戸 城 開 城 の 際、
西郷隆盛の会津への同情を抑
え、非情にも一分の情も残さず
この一世紀半以上もの間、そ
の怨念に耐えて来た。奥羽越列
見放した。武士魂が最期は、や
さぐれの下級武士崩れに、謀略
藩同盟の同じ負け組が、明治政
おとし
かいざん
ろうかと思うのだ。
に語り継がれている怨恨もなか
し、今尚、国内でこれほどまで
「 歴 史 の 真 実 は、 敗 者 の 心 情
に語り継がれる」という。しか
勝者を正義として改竄する。
れは戦乱の記述であり、歴史は
いずれの国史も、地方史も、そ
を超えて今なお癒えなかった。
まりない仕打ちに心の傷は、時
の名を借りた薩長の残虐非道極
戦争とは殺戮であることは古
今 に 変 わ ら な い、 だ が「 官 軍 」
るのだろうか。
先祖の記憶が今また甦ろうとす
がら知り、その押し込められた
に移住させられた消息を今更な
府の財政を支え、東北、北海道
に貶められ、総なめにされたこ
飯盛山では紅顔の少年
兵たちが命の花を散ら
した
なおも続く歴史の今
新 政 府 は、 戊 辰 戦 争 の 結 果、
無防備となっていた北海道に謹
慎中の会津藩士を送り、開拓民
兼有事の際の軍隊とした。それ
はいわば遠島であった。ここ札
幌 市 西 区 に は 琴 似 神 社 が あ り、
明治八年、北海道開拓使最初の
屯田兵として会津藩、伊達藩の
亘理から琴似に入植した二四〇
戸の人々によって 開 かれ、斗南
の藩士も加わった。あのNHK
朝 の ド ラ マ『 マ ッ サ ン 』。 そ の
旧会津藩士入植者の住宅(余市)
は、まほろばの近く宮の森に在
あった。その直系の磯美雪さん
頭家老、田中土佐清玄の末裔で
が入植した。彼こそ、会津藩筆
その中でも、戦後日本のフィ
クサーと言われた田中清玄の祖
函館の隣町・七飯にも渡った。
の 藩 士 た ち。 ま た 道 南 の 瀬 棚、
のリンゴ園を開いたという会津
のある余市にも、日本で初めて
舞台となったニッカウ井スキー
琴似神社
田中土佐清玄墓
8
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住、親しくして戴いている。ま
た 音 楽 家・ 松 本 愛 子 女 史 の 父
方・小針家の白河藩は、会津戦
争最大の凄絶たる前哨戦で敗れ
た。
「白河以北一山百文」とまで、
薩長土肥の新政府軍から東北以
北は値なしという侮蔑の言葉に
……平成まで耐えた。 いたずら
こで、徒に、会津の惨
私はあこ
ぶ
状を炙りだしているのではな
にまで突入した。冷静に大観す
れば、勝てる戦いではなかった。
侵略と植民地支配の精神構造は
会津もアジアも同じである。古
代、大和朝廷が日本を平定する
えみし
東征西征も、言ってみれば先住
くまそ
民の熊襲・蝦夷という原日本人
いたのは耳に新しい。中国のチ
ベット・ウイグルへの侵攻同化
を責められようか。今でも彼ら
の、和人への屈辱の絶叫は、北
の大地に響いているのだ。それ
は 人 が 幾 代 替 わ る と も、 大 地
ア
テ
ル
イ
が 記 憶 し て い る の だ。 蝦 夷 も
阿弖流為も、無念の血と涙を流
した。
これも続く驚くべき
逆縁
そうは言っても、私はそのよ
うな眼で、少なくとも同じ日本
人を意識して見たことはなかっ
がなかったのだった。
生まれ里に依って差別のしよう
た の だ。 無 知 で あ っ た が 故 に、
阿弖流為(アテルイ)像
い。この敗れた感情というもの
に、その氣持ちを推し量ること
が、極めて大切ではなかろうか
と思っている。皇軍という正義
の名の許に、何を為しても許さ
れるという人間の異常性が、数
多くの戦争の引き金になったの
ではなかろうか。
この戊辰戦争を皮切りに、日
本は日清、日露、満州、日中と
立て続けに国外に向けて戦いを
挑み、遂には無謀な太平洋戦争
を、武力を以て抑えたのだ。会
津の悲しみは、縄文の悲しみな
のだ。官軍が維新後、北海道で
アイヌを制圧して同化政策を敷
9
日清戦争
日露戦争
太平洋戦争
私は、北海道の恵庭という片
田舎で生まれ育った。日本の歴
史とは、ほど遠い因習の全くな
い 原 野 で 伸 び 伸 び と 成 長 し た。
だが、最近、あることで恵庭の
きっきょう
歴史を調べて吃驚したのだ。
恵庭は、何と長州藩が開拓し
た 町 だ っ た の だ。 恵 庭 小 学 校
の近く、横書きで「山口県人」、
中央縦書きで「恵庭開拓記念碑」
と刻まれた石碑が建っていたの
を思い出す。行くと、そこには
岸信介元首相(現・安倍首相の
学校があった。何と、そこは吉
農業地域があり、そこに松園小
北東の外れにも山口区という純
ら 渡 っ て 来 た 子 孫 だ っ た の だ。
ね 来 ら れ て 友 好 の 花 を 咲 か せ、
妻がわざわざ「まほろば」に訪
の総代、入江邦春・アイ子ご夫
学の会友で萩の名士、松陰神社
その後四〇年を経て、まほろ
ばを開業してから、森下自然医
家や酪農家の子息は、皆長州か
田松陰の松下村塾を慕って、
「松
萩焼の香炉まで頂戴したことが
生活は、一汁一菜、麦飯に味噌
た。松陰先生を慕い、東京での
下に、昭和維新を志したりもし
席巻していた。岡潔先生の影響
青 年 期 は、『 竜 馬 が ゆ く 』 な
ど司馬遼太郎の幕末史観が世を
過ぎだろうか。
がそうさせたとするのは、考え
り、そりが合わない過去の遠因
政を変革しようとしたこともあ
不正を訴えて、孤軍奮闘して町
当時一連の市長と町議と業者の
た幼き日々。そういえば、父が、
そんな事とは露知らず、過ごし
今思えば、会津出の母が敵陣
に 乗 り 込 ん で 来 た 構 図 に な る。
したのだった。
かも、乃木大将は、長州藩の出
綱の末裔が倉田家であった。し
殉死した乃木希典将軍で、弟定
定信の末裔が、明治天皇崩御で
そ の 佐 々 木 四 郎 高 綱 の 子 孫 兄・
そして、決定的なのが、源義
経の家臣・佐藤継信・忠信兄弟。
活躍されている。
ナカムラさんも山口県出身で大
る場所であった。前述のタカコ・
した山口ザビエル記念聖堂のあ
スコ・ザビエルが帰住して説教
始まった。そこは、聖フランシ
売したいとまほろばとの取引が
お越しになり、北海道物産を販
また山口駅前の道場門前商店
街振興組合の吉松昭夫理事長が
あった。
がくぜん
園」と名付けたと聞いて愕然と
ともやしの生活が続いた。
入江邦春・アイ子ご夫妻
吉松昭夫理事長(右)
祖父)の揮毫、そして、移住開
拓 民 の 名 前 が 列 挙 さ れ て い た。
嘉 屋、 土 屋、 ……… そ こ に は、
小中学校の友の祖父たちの名前
が書き連ねてあった。あいつも
こいつもと、幼き日々の友の農
恵庭市にある山口県移民の石碑
10
まほろばだより No.4315 16-92 7/1
いささ
身であった。これには、聊か言
を失った。
思い起こせば、私が中学二年
の時、亡き母が、死の床で三人
の兄弟を呼び寄せ、三本の矢の
こまで、二つ乍ら因縁を負うも
藩の始祖に他ならなかった。こ
の話の主、毛利元就こそ、長州
良くすべきを説いて逝った。そ
英傑であった。西南の役で、西
篠原國幹、彼の曽祖父に当たる
けられた地だった。その人こそ、
いう明治天皇のご下命にて名付
あり、これは「篠原に習え」と
譬えを以て、三人手を携えて仲
のかと考えた。
討死にしたのだが、会津に入っ
かたき
郷に従い、最初に敵弾に当たり、
更に、夢薬局「エッセンチア」
の篠原康幸代表。彼は千葉県旭
たこともあり、敵に相違なかっ
「三子教訓状」毛利元就 と「三本の矢」
町出身である。近くに習志野が
た。その子孫の彼は、体躯に秀
で、心根は優しく、何故か寺田
本家で修業し、今札幌で「まほ
ろば」とも親しく、オリジナル
製品創りに携わって下さってい
る。
そして、私の姉の亡き義兄は
鹿児島出身、根っからの薩摩隼
人である。今回『倭詩Ⅱ』の表
紙を飾る日本画は息子辰介(ホ
セ・フランキー)が父の郷里武
引いている。
独り子孫に至る因縁は一様で
はない。様々な地により、人に
より、時により、変わり、混ざり、
深まる。
父方の山梨県富士吉田市明見
の宮下家は、楠正成、北畠親房、
三浦(宮下)義家と合議して南
朝護持に動いたため、当時鎌倉
幕府から弾圧を受け、また徳川
幕 府 か ら の 圧 政 に も 苦 し ん だ。
両 親 を し て、 片 や 徳 川 を 守 り、
片や徳川を恐れる。敵も味方も
加害も被害も入り交って層をな
し、愛憎半ばする世に、今私た
ち は 生 ま れ た。 ま さ に、「 恩 讐
は彼方に」ある。血筋も、土地
柄も、生まれもない。みな同じ
一人の日本人として存在してい
まぎ
る。これ
こそ、紛
れもない
事実なの
だ。
会津は
四方山に
囲 ま れ、
藤 沢 文
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町の家を想像して描いた。それ
には、桜島・薩摩富士の煙が棚
楠正成銅像(皇居外苑)
源義経家来 佐藤継信・忠信兄弟の墓。共に義経を守
り戦い継信は屋島の戦いで討死、忠信は京都潜伏中
に襲撃され自刃している。
乃木将軍 佐々木神社
篠原國幹
徹底された。
ならぬものなり」との武士道で
る忠義の心は、「ならぬものは、
れた。そして親藩・徳川に仕え
中にも長閑で素朴な心情が培わ
学に見られるような閉鎖社会の
要 る。 尊 皇 攘 夷 も 開 国 討 幕 も、
負の連鎖を断ち切るには、自
らを引く、自らを空しくするし
消えないだろう。
積年の恨みがあるとも、果た
すところ、許す以外に、恨みは
れたのだ。
いえる。憎っくき幕府の唯一の
みが、明治維新に爆発したとも
味わった積年の幕府に対する恨
一戦を交え、外様として屈辱を
た。関ヶ原の戦いで、会津とも
切は妄想なのだ。幻想なのだ。
うより、元々何も無かった、一
それが許しでもある。許しとい
遠 く 離 れ て 大 観 す る し か な い。
過ぎない。本質を見据えるには、
一つの時代に縛られた囚われに
そして、その思想の中核は何か。
の心即理の博愛思想は、世の中
手よし、売り手よし、世間よし」
方 よ し 』 の 近 江 で あ る。「 買 い
人と慕われた。その地こそ『三
士農工商みな平等を説いて、聖
じょ
や り 」、 仁 に し て 愛 に 他 な ら な
い。
不思議の今
パッと目が覚めた寝起き、
「 こ の 大 川 町 は、 あ の 大 町 四
辻だったのか!」
ころも
ひ
かない。東洋の虚の実践哲学が
一方、長州は三方海に囲まれ
開放的な土壌に交易も盛んだっ
象徴が会津であった。
波は
蒋介石の生地、浙江省寧
商業都市にして王陽明の生誕地
そ れ は 孔 子 の 言 う、「 一 言 に し
の 和 合 を 目 指 す も の で あ っ た。
でもあった。日本で陽明学を継
て終身行うべき道、『恕』」であっ
ねいは
いだ祖が中江藤樹、日々行商を
た。 そ の 恕 こ そ、「 人 へ の 思 い
報怨以徳、それは恕
し な が ら 母 へ の 孝 養 を 尽 く し、
日中戦争、中国に多大なる戦
禍を齎せた日本。
だが、蒋介石は敗戦敵国日本に
「怨みに報いるに、
徳 を 以 て す 」 と、
老子の「報怨以徳」
を借りて、見事許
された。略奪も返
還要求もなかっ
たいじん
よぎ
初生りの余市リンゴ「緋の衣」の樹
(
月の大売り出しに掲載予定)
以下、「後編」に続く………
としている………。
私は、今、余市の地に初めて
起居し、仁木町の住人になろう
な
中 江 藤 樹(1608 ~ 1648)、 近 江
国出身、江戸初期の陽明学者。
との閃きに似た思いが過った。
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た。大人の風格に、
最後、日本は救わ
蒋 介石(1887 年~ 1975 年)孫文
の後継者として北伐を完遂し、中
華民国の統一を果たして同国の
最 高 指 導 者 と な る。1928 年 か ら
1931 年 と、1943 年 か ら 1975 年
に死去するまで国家元首の地位に
あった。しかし、国共内戦で毛沢
東率いる中国共産党に敗れて 1949
年より台湾に移り、その後大陸支
配を回復することなく没した。
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まほろばだより No.4315 16-92 7/1