この資料が保存してあった 「副常院」 は本山系羽黒山派の - J

昌常 院伝 修 験 三味 耶 戒 道場 図 に つい て
様 にな つた のは、 承 久 二年 (一二二〇)に羽 黒 山 の総 長 吏 に、
田
二位 法 印 尊 長 が、 補 任 さ れ てか ら で ある と さ れ てお り、 貞治
清
今 日ま で学 会 に は あま り ﹁三昧 耶 戒 灌 頂 ﹂ に つい ては 発表
七年 (二二六八)に既 に 月山 登 拝講 中 が、 百 余 有 り、 関 東 に も
山
さ れ て おら ず、 初 め て の試 み であ る が、 羽 黒 派 に属 し てお つ
中
た 修 験 道 地 方寺 院 に伝 わ つ て いる ﹁三昧 耶 戒 灌 頂 ﹂ の道 場 図
講 が有 つた事 が知 ら れ て い る。 承 久時 代 当 時 は、 湯 殿 山 よ り
(1)
る。 こ の ﹁昌 常 院 ﹂ は三 度 大 火災 に会 い、 建 立時 は確 か では
殿 山、 羽 黒 山 の 三 山参 り の宿 場 が あ り、 交 通 の要 所 であ つた
中 間 に有 り、 最 上 川 が 流 れ て いる 小 さ な 町 です が、 月 山、 湯
﹁昌 常院 ﹂所 在 地 の長 崎 と いう 所 は、 山形 市 と寒 河 江 市 の
の登 山 が特 に、 盛 ん に行 な わ れた と考 え られ る。
の資 料 招 介 中 心 に論 ず る
こ の資 料 が保 存 し てあ つた ﹁昌常 院 ﹂ は本 山系 羽黒 山 派 の
無 いが、 現住 は三 十 七代 であ り、 寺 伝 に よ る と、 建 仁 の時 代
様 であ り。 ﹃出 羽 三 山 と そ の宗 教集 落 の 盛 衰 ﹄ の 中 で 長 井 政
寺 院 で、 神仏 分 離 命 以後、 現 在 は、 天 台 宗 山 家 派 に属 し てお
と さ れ てお る。 ﹁昌 常 院 ﹂ は、 初 め、 弘 法 大 師 の開 山 と 伝 え
太 郎 民 は、
部分は山形を経由し七ケ宿街道から入つた道者は上ノ山で 一泊 し
陸前方面から の道者は笹谷峠 かニロ峠から村 山に入 つたが、大
(2)
ら れ て いる湯 殿 山 系 であ り、 真言 宗 系 の当 山 派 の寺 院 であ つ
た が、 江戸 時 代 に羽 黒 山 が、 東 叡 山寛 永 寺 の直 末 寺 に変 わ っ
て から、 羽黒 系 に変 わり、 天 台系 本 山派 に変 わ つて い る。
から真直 に長崎に向 つた道者と合体 した。中山町長崎 の最 上川岸
て山形に向い、船 町、長崎に出たが、 ここで二口街道 を経 て漆 山
が真 言 宗 に成 つた の は、 寛 永 十 八年 (一六四 一)で あ る o そ の
に近 い元川船方問屋渡辺三右衛門家 の庭先には、高 さ五尺 程の宝
出 羽 三 山 の月 山、 羽 黒 山 が 東 叡山 の直 末 寺 と な り、 湯 殿 山
以前 は、 天 台 宗 系 の本 山 派 と 真言 宗 系 の当 山 派 の 区 別 が あま
暦四年 の地蔵尊 が立 つているが、右 山形街道と側 に彫 んであ る。
山)
り 無 か つた と 考 え ら れる。 出 羽 三 山 が東 国 第 二の勢 力 を持 つ
昌 常 院 伝 修 験 三 昧耶 戒 道 場 図 に つ い て (中
-337-
昌常院伝修験三昧耶 戒道場図 に ついて (
中
山)
こ の街道 の左沢に向う道路と中山 町岡に出 る道路と の分岐点 にも
三 月 に 東 大寺 慶 讃 の呪願 を勤 め賞 し て律 師 に任 じ ら れ 建 暦 三
年 (二一二 三)に法 印 に 叙 せ ら れ て、 元仁 二年 (一二二五)二 月
山、 第 二十 八代 座 主 に 補 任 さ れ て い る。 建 久 六 年 (一一九五)
略-
大 井沢街道 の碑が見えるが、羽州街道から高擶に通じる街道、漆
山 から長崎に出る街 道口に-
を通 り左 沢 に入 つた と考 え ら れ、 昌常 院 の末 寺 であ つた 日 月
に醍 醐 山 第 二十 五代 座 主 と な り、 建 永 二 年 (二二〇 七)五 月 法
宝 院 で 勝 賢 よ り、 伝 法 灌 頂 を受 け、 建 仁 三年 (= 一
〇 三)三 月
勝 賢 の室 で出 家 し、 文治 元年 (二一八五)十 一月 二十 五 日に 三
定 範 の師、 成 賢 は、 定範 の弟 であ る が、 幼 い時 よ り 醍 醐寺
二十 五 日 に 六十 一歳 で大僧 都 で、 三 宝 院 で寂 さ れ て いる。
寺 が、 最 初 は本 寺 よ り栄 え た よ う であ り、 江戸 時 代 に 入 つて
いる為 に湿 地帯 で山 岳 地 帯 の街 道、 山 形 よ り山 辺 と入 り岩 谷
と記 さ れ て いる が、 承 久 二年 当 時 は長 崎 は、 最 上川 が流 れ て
か ら 船 の利 用 が盛 ん に な り、 本 寺 の昌 常 院 が栄 え るよ う に な
任 し て いる。 建 暦 元 年 (= 二 一)に 増 正 に任 ぜ ら れ て い る。
印 に叙 せら れ て、建 永 元 年 (一二〇六)に 第 二十 七世 座 主 に復
昌 常院 は、 修 験者 の里 坊 であ り、 三 山 参 り の案 内 人、 先達
著 作 は、 灌 頂 に関 した 物 が多 く、 ﹃結 禅 灌 頂 私 記 ﹄ ﹃灌 頂 護
つた 様 であ る o
と し て発 展 し て い つた様 であ り、 檀 那 場 を東 村 山 郡 に持 つて
摩 ﹄等 々が あ げ ら れ て いる。
りか、湯殿山に対 しても 入会権をも つていた。
支配し、川代口を閉鎖 して、月山 の祭祀権を完全に掌握したばか
天台宗 の東叡山に属し、岩根沢 口の日月寺と肱折口 の阿咋院 とを
た。中 でも勢力のあ つた羽黒山は、寛 永十六年 (一六三九)以来
これら の別当寺に は天台系 のも のと、真言 系 の も の と があ つ
験 道 の研 究 ﹄ の中 で
出 羽 三 山 と 醍 醐寺 と の関 係 は、 戸 川 安 章 氏 が ﹃出 羽 三山 修
(4)
いた様 であ る。
(3)
﹁三 昧 耶 戒 灌 頂道 場 図 ﹂ が、 い つ、 だ れ か ら伝 授 され た の
か は不 明 であ る。 し か し、 こ の資 料 は、 江戸 初 期 の大 洪 水 の
為 の染 み が着 いてお り、 少 く と も、 江 戸 初 期 に は、 昌 常 院 に
所有 さ れ て いる と考 え ら れ る。
こ の ﹁三 昧耶 戒 道 場 図 ﹂ を 表 わ し た定 範 と そ の師 であ る成
賢 に ついて、 定 範 は、 ﹃郡 書類 従 第 四、 巻 第 五 六 東 大 寺 別 当
次 第 ﹄ に成 範 の子 であ つて、 三 論 宗 の学 匠 で、 東 南 院 に薫 席
西村山郡 の慈恩寺山内 の別当寺 である宝蔵院を本寺として、真言
大井沢口 の大日寺 と、本 道寺 口の本道寺 とは、どちらも山形県
け、 建 保 元 年 (二二 一三)十 二 月 六 日東 大 寺 別 当 に 補任 さ れ、
宗 の高野山派であり、大網七五 三掛 口の注連寺 は新義真言宗豊山
し て、 醍 醐 理性 院 を 兼 ね、 師 の成 賢 に随 つて、 伝 法灌 頂 を 受
次 い で 大 安寺 別当 とな つて、 承 久 三 年 (二二二 一)七 月に 醍 醐
-338-
新義真言宗 ながら智山派に属し、京都初瀬 の小池坊 末寺 とな つて
派 で、京都醍醐 の報恩院末であるが、大網 口の大日坊はおなじく
香、 白 華、 焼 香、 燈 明、 誓 水、 と し てお り、 供 養 段 を 八 科 と
叡 山、 山形 市 山寺 立 石 寺 灌 室 の法 曼 流 で は、 五 供 養 に は、 塗
コ二昧 耶 戒 道 場 図 L に は 五 供 養 の六器 が有 るが、 今 日、 東
修 験 コ二昧 耶 戒 灌 頂﹂ の内 容 に つ いて は、 今 後
の修験 の三昧耶戒灌頂に ついて・宮家博士が ﹃
槻 験鴬
略-
阿闇梨説戒 においても、葛城灌頂 は法華 の峰で行 なわれる法華灌
と記されている。そしてさらに灌頂受法に先立 つて行なわれた大
経の教 えにもとつ いて女性 の入檀 を認めているとこ ろにあ る。
﹂
華経精神 の真髄授受にあり、
﹂ その特徴 は、女人成道 を説 く 法華
葛城灌頂 の目的は、﹁
本 山修験﹂誌 にの つた予告によれば、﹁法
る﹂ と説 か れ た も の であ る。-
功力によ つて諮然として、仏、 凡不二の境地を体得 するも のであ
以心伝心 である。五智 の秘水 を頂 上に灌がれた刹 那、三密加持 の
意は言語道断、仏祖も これを伝うるあたわずと称し、師資 一体 の
施行されてきたことが説明された。そしてさらに ﹁深山灌頂 の極
が役行者 以来、連線として現在ま で金胎 両部 の浄刹 である大峰で
にも っとも的確に指摘されて いる。 この説戒 では、まず深山灌頂
深山灌頂 の目的は、伝法会前作法における大阿闇梨説戒 のうち
儀 礼 の研究 ﹄ の中 で 述 べら れ て いる のだ が、
含
考 え ら れ る。
に譲 る が、 今 日 の コ二昧 耶 戒 灌 頂﹂ と はだ いぶ 違 つて い る と
と し て いる
し て、 護 身、 塗 香、 白 華、 焼 香、 燈 明、 歯 木、 誓 水、 金 剛 線
いる。しかも大網両寺 の霞場 は、だが いにまじりあ つていた。 そ
のため両者 はどちらも湯殿山表 口別当と称 するなど、その関係 は
複雑 であ つた。しかも、 これら の両寺 の山内衆 に関しては単純 に
は、智積院、長谷寺、鳳閣寺と いつた三ケ寺 の間 で常に争われ、
真言宗徒な のか、ある いは真言、修験 両宗兼 帯 な のか に つい て
明治 五年 (一八七二)にいた つて、修験宗廃止令 が公布され、修
略
験者 は本寺所属のまま、天台、真言両本宗 のいず れかに帰入する
ことになるまでは解決 が つかなか った。
し か し羽 黒 山 が、 寛 永 十 六 年 に 天台 宗 の東 叡 山 寛永 寺 の直
(5)
末寺 に な る以 前 は、 直 言 宗 系 も か な り湯 殿 山を 中 心に し て、
勢力 を持 つて いた と 考 え ら れ る。
﹁三昧 耶 戒 道 場 図 ﹂ を 見 る と、 五 供 養 の時 に使 用 す る 六 器
が 前 机 に置 い て有 る。 前 机 の中 央 に 金 剛 鈴、 火 舎 香炉 が 各 二
置 いて有 り、 南 の方 に受 者 持 物 とし て柄 香 炉、 三衣 と し て有
り、半 畳 が置 い て有 り、半 畳 の右 側 に磐 が有 る。 北 の方 に は、
十 二 天 の屏 風 が 有 り、 中 央 の前 机 に向 つて、華 座 座 具ハが 有 り、
ママ
他 は台 密 法 曼 流 の道 場 図 と の違 い は無 いが、 受 者 控室 は道 場
脇 机右 の上 に、 香 呂 箱、 如 意、 戒 体 箱、 が 置 いて 有 る。 そ の
と は 完 全 に仕 切 つてあ る外 に、 特 に山 水 屏 風 と 注 意 し て有 る
略-
頂であることが強調され ている。山)
のが 注 目さ れ る。
昌 常 院 伝 修 験 三 昧 耶 戒 道 場 図 に つ い て (中
-339-
要 視 さ れ て い た の で は な い か と 考 え ら れ、 今 日 で も、 修 験 勤
昌常院伝修 験三昧耶戒道場図に ついて (中 山)
こ の様 に 深 山 灌 頂 や葛 城 灌 頂 では、 即身 即 仏 を特 に強 め ら
行 儀 の 中 に、 三 昧 耶 戒 真 欄
言 と し て、 ﹁庵 三 昧 耶。 薩 錘 縷 ﹂ が
所在地山形県東村山郡中山町長崎
れ て い て、戒 に つい ては、弱 く扱 か わ れ て いる 様 に見 え るが、
戸 川 安 章 編 ﹃出 羽 三 山 と東 北 修 験 の研 究 ﹄ 一六 六 ぺ
入 つ て い る の が 三 昧 耶 戒 を 重 要 視 し て い る 一つ と 考 え る。
1
今 日本 山 派 修 験道 で の三 昧 耶戒 は、 無 視 さ れ て いる と は、 考
2
他 に、 定 範 筆 の遊 図、 香 薬 嚢 様、 五瓶 厳 様、 金 剛 界 初 会 図、
﹃出 羽 三 山 修 験 道 の研 究 ﹄ 佼 正出 版 社、 一六 五 ぺ
﹃修 験 道儀 礼 の研 究 ﹄ 春 秋 社 八 三 ペ ー ジー 一〇 七 ぺ ー ジ参 照
にす でに真 言 宗 系 の力 が あ つた こと が 一つ の理 だ と考 え る。
れ、 湯 殿 山 が 真 言 宗 系 に完 全 に な つて いる が、 寛 永 十 六 年 以 前
に判 決 を く だ し て羽 黒 山 の天 宥 と 大 乗坊 が 伊 豆 の 新 島 に 流 さ
湯 殿 山 の法 流 に 関 す る 訴 訟 で 寛 文 八年 (一六 六 八) 四 月 四 日
ジー 一六
ジ
え ら れ な い。 灌 頂 に 入る 前 に、 深 山、 葛城 灌 頂 で も、 大 阿闇
3
6
5
六 ペ ージ
4
等 が有 り、
梨 の説戒 と し て戒 が説 か れ て いる。 宗 教 法 人 ﹁修 験 道 ﹂ の勤
略-
行集 の中 に は、 三 礼、 繊 悔 の文、 三 帰 依 三 寛、 清浄 の祓、 発
菩提 心の真言、 三昧耶戒真言、表白ー
比叡 山の ﹁
本山派天台 宗験道総部﹂ の ﹃修 験道勤行 儀﹄で
略ー
は、法螺 三唱、三礼、臓悔、祓発菩提心真言、三昧耶戒真言、
祈願表白ー
菩 提 心戒 真 言、 ﹁庵 冒 地 質 多。
と し て有 り、 今 日法曼 流 の立 石寺、 東 叡 山 灌 室 で使 用 し て
いる 同 一の真 言 を 使 つて いる
母 駄 波 螂 野 彊 ﹂。真 言 行 者 が 菩提 心を 発 生 し た る 三 世 二切 の
諸仏 に対 し て告 白 す る真 実 言 な り と いう 意 であ る と解 し、又、
の実 相 に 二致 す る と解 せ る真 言 が 二致 し てお る と考 え る。
三昧 耶 戒 真 言 と し て、﹁庵 三昧 耶。 薩 錘饅。﹂ 真 言 行 者 が宇 宙
昌 常 院 に密 蔵 さ れ伝 わ つて いる ﹁三昧 耶 戒 道 場 図 ﹂ よ り考
む し ろ こ の道 場 図 は、 東 叡 山 や 立 石 寺 灌 室 の道
えら れ る灌 頂 と今 日の修 験 の灌 頂 の方 法 は、 か な り の違 いが
認めら れる
場 に近 い と考 え ら れ ます。 明 治 の神 仏 分 離 の時 に批 判 の多 か
つた 修 験 に は、 法 も戒 も 無 いと言 わ れ て いる が、 少 く と も 三
味 耶戒 と いう 戒 が有 つた と考 え ら れ、 修 験 灌 頂 で も初 め は重
-340-