顔認証技術の進展と国際標準化 - ITU-AJ

顔認証技術の進展と国際標準化
さかもと
日本電気株式会社 第二官公ソリューション事業部
しず お
坂本 静生
1.概要
リュッセル連続テロと、これまで比較的安全と思われてい
わたしたちは日常生活で出会う人々が誰であるかを認識
た欧州での悲劇が相次いだことから、さらに強化されつつ
し、適切な対応を行いながら暮らしている。この、ひとの
ある状況である。
認識に、身体的あるいは行動的な特徴を直接利用するバイ
バイオメトリクスでは指紋、虹彩、静脈や顔など様々な
オメトリクスがある。特に2001年9月11日に起きた米国同時
身体情報、あるいは歩容(歩き方)などの行動特徴が使わ
多発テロ以降、バイオメトリクスは社会的な重要性を大きく
れる。なかでも顔による認証はひと同士のコミュニケーショ
高め、パスポートや出入国管理での応用が加速度的に進ん
ンに最も近い認証手段であり、セキュリティ以外の様々な目
でいる。
的にも顔認証技術を応用することができる。また、顔認証
当社は1989年に顔認証技術の研究開発を開始した後、
では汎用のカメラで撮影した顔画像で認証が可能である。
多様なソリューションへ展開してきた。認証精度も継続して
これは、他のバイオメトリクスでは専用センサーの操作をし
改善を重ねており、有力ベンダーが数多く参加する米国国
ばしば要求されることとは、大きく異なる点である。同様
立標準技術研究所主催の顔認証のベンチマークテストにお
に顔認証は、利用者に特別な認証動作を強いる必要がな
いて、2009年、2010年、2013年と参加した全てのテストで
いという利用上のメリットも持っている。
トップ評価を獲得した。
当社は1989年に顔認証技術の研究開発を始め、1999年
本稿では顔認証に関わる国際標準化について、特にパス
に顔認証システムを出荷して以来、多様なソリューションへと
ポートを中心として説明し、当社の顔認証技術概要及び、
展開してきた。認証精度も継続して改善を重ねており、有力
米国国立標準技術研究所による性能評価結果、また実際
ベンダーが数多く参加する米国国立標準技術研究所(NIST:
の犯罪検挙事例について紹介する。
National Institute of Standards and Technology)主催の
2.はじめに
わたしたちは日常生活で出会う人々が誰であるかを認識
顔認証のベンチマークテストにおいて、2009年、2010年、
2013年と参加した全てでトップ評価を獲得した。
し、適切な対応を行いながら暮らしている。同様に、ひと
3.パスポートを巡るバイオメトリクスの国際標準化
の認識は様々なマンマシンインタフェースの入り口として非
ここでいったん第二次大戦の終戦間際に立ち戻る。
常に重要である。ひとの認識には、旧来からの持ち物(ID
第二次世界大戦中に航空機技術が飛躍的に発達してき
カードなど)や記憶(パスワードなど)に基づく方法に加え、
たことを受け、今後民間航空分野が大きく発展を遂げるで
ひとの身体あるいはその行動における特徴を直接利用する
あろうと考えられた。そこで大戦が終結を迎える間際であ
バイオメトリクス技術があり、近年その利用が定着しつつあ
る1944年に連合国各国はシカゴで会合を開き、国際条約
る。
である国際民間航空条約(シカゴ条約)を策定した。戦後
社会的に大きなインパクトを与えたのは、2001年9月11日
の1947年に本条約をもとにして、国連の専門機関の一つで
に起きた米国同時多発テロである。9.11ハイジャック犯19名
あるICAO(International Civil Aviation Organization/
は、正規に米国州政府により発行された計62通の運転免
国際民間航空機関)が発足した。ICAOの設立目的は、国
許証を所持していたことを受け、所持による本人の証明が
際民間航空が安全かつ整然と発展するように、また国際
信頼できないことがあらわとなったことから、バイオメトリ
航空運送業務が機会均等主義に基づいて健全かつ経済的
クスの重要性が認知された。これにより米国にとどまらず
に運営されるように各国の協力を図ることであり、2013年
日本や世界各国において、パスポートや出入国管理でのバ
10月現在で191か国が加盟している[1]。ICAOでは関連した
イオメトリクス応用が加速度的に進むこととなった。また
多くの国際標準や勧告を作成しており、その中の一つに文
2015年11月13日のパリ同時多発テロ、2016年3月22日のブ
書9303と呼ばれる、パスポートや査証について規定する国
ITUジャーナル Vol. 46 No. 8(2016, 8)
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特 集 バイオメトリクス
際標準がある。この文書の開発担当であるICAO TAG/
ての照明やカラーバランスなどから、顔の表情や向き、大
TR I P(Technology Advisory Group on Traveller
きさ、背景などを規定している。これらの条件は歴史的に
Identification Programme/(仮訳)渡航者同定プログラ
使われてきた目視確認用途として適することに加え、機械
ムにおける技術諮問グループ)は、開発に多くの技術エキ
的な顔認証技術用としても適するように考慮されている。
スパートの協力が必要であることから、ISO/IEC JTC 1/
我が国ではICパスポートに記録する顔画像は、顔写真とし
SC 17/WG 3(機械可読渡航文書の国際標準化を担当)と
て申請者が持ち込むこととなっているため、外務省はパス
リエゾン関係を締結している。
ポート申請者に対してわかりやすいサンプルとともにガイド
パスポートの物理的な偽造防止技術が進むにつれて、正
ラインを示している
規のパスポートを不正利用して出入国しようとする事案が
日本国発行のパスポートには顔写真が券面に印刷される
増えてきたことを受け、ICAOでは2000年前後にどう対策
とともに、冊子中のやや厚めのプラスチックでできたペー
を行うべきか議論が重ねられ、バイオメトリクスによる本人
ジにICチップが埋め込まれており、国際標準に準拠した形
認証技術が有効であるとの合意に至った。途中米国同時
式で顔画像が記録されている(図1参照)
。パスポートの持
多発テロが発生したこともあって速やかに合意が形成さ
ち主かどうかを顔認証で確かめる際には、このICチップか
れ、2003年6月のベルリン会議及び2004年3月のニューオリ
ら顔画像を読みだして本人確認処理を実施することとなる。
ンズ会議にて、パスポートにコンタクトレスのインタフェース
2006年3月より外務省はICパスポートの発給を開始して
を備えるICチップを採用し、国際的に標準化された顔画像
いることから、このICパスポートに記録された顔画像をそ
を相互運用可能な第一の生体情報として記録することなど
のまま用いることで、正しいパスポートの持ち主であるかど
が決議された。なお、同じく国際的に標準化された指紋画
うかを認証することができれば、追加手続きも不要でメリッ
像あるいは虹彩画像を、相互運用可能な第二の生体情報
トが大きい。パスポートは最大10年の有効期限であるので、
として追加的に記録することも決議された。
2016年には国民が所持するパスポートは全て顔画像が記
また、2001年9月11日の米国同時多発テロはバイオメトリ
録されたICパスポートへ切り替わっており、安全・安心か
クスの標準化推進体制を大きく変えた。それまではIDカー
つ公平な行政サービスが可能となると言える。
ドの標準化を担当するISO/IEC JTC 1/SC 17配下でバイ
海外では、オーストラリアが自国民だけでなく、ニュージー
オメトリクスの検討をIDカード応用の一部門として開始しよ
ランドやUK、米国、シンガポールのパスポート保持者に対
[2]
[3]
。
うとしていたが、テロ後米国からの強い提案に基づき、新
しくバイオメトリクスそのものを対象とした標準化担当の
SC37が、2002年にISO/IEC JTC 1配下に発足した。そ
の結果としてICパスポートの国際標準である文書9303は、
SC17が担当するICカードとバイオメトリクスの接点である国
際標準ISO/IEC 7816-11を通じ、SC37が担当するデータ
フォーマットの国際標準を参照することとなった。なお、著
者はISO/IEC 7816-11のエディタとして、新しい機能の追加
を含む改定に取り組んでいるところであり、2016年5月現在、
DIS投票の準備中である。
生体情報を記 録するパスポートで必 須とされる顔は、
SC37担当のISO/IEC 19794-5に従ってチップ上に画像とし
て記録される。この顔画像データは、同じくSC37担当の
ISO/IEC 19784-3が 規 定 するコン テ ナ 型 デ ータ形 式、
CBEFF TLVパトロン形式
(Common Biometric Exchange
Format Framework Tag-Length-Value)の中に格納され
ている。
また、
ISO/IEC 19794-5では、
顔画像を撮影するにあたっ
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ITUジャーナル Vol. 46 No. 8(2016, 8)
■図1.ICパスポートに埋め込まれたICチップ(外務省ホームページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2006/
pdf/pdfs/4_2.pdfより一部を引用)
しても顔認証による自動化ゲートサービスを行っている[4]。
米 国 はNIST(National Institute of Standardization
またUKでもヨーロッパ経済圏であるEU各国とノルウェー、
and Technologies/国立標準技術研究所)に、国を守るた
アイスランド、リヒテンシュタインに加え、スイスのパスポー
めにバイオメトリクスの技術評価及び調達等に必要な標準
[5]
ト保持者に対する同様なサービスを実施している 。
化を行うよう命じた。これを受けて、指紋や虹彩のほかに、
日本でも2014年夏に、羽田空港・成田空港において日本
顔の認証精度を評価する第三者ベンチマークテストを度々
国民を対象とした顔認証実証実験が行われるなど検討が
実施している。ICパスポートの持ち主の本人確認の認証精
進んでおり、今後安全性を担保しながら利便性を向上させ
度の最新結果は2011年8月に公開されており[7]、本人である
たサービスの実現が期待される[6]。
のに誤って本人でないと拒絶してしまう確率が2002年から
4.顔認証精度の進展
2010年にかけて二桁小さくなるなど、エラーが劇的に減少
していることが報告されている(図2参照)
。この2010年に
米国同時多発テロは、顔認証の技術革新を促すことにも
トップであると報告書に書かれたのが当社のエンジンであ
なった。
る。
■図2.1993年から2010年に至る本人誤拒絶率(本人であるのに誤って本人でないと拒絶される確率)の進展(文献[7]の図28を引用)
■図3.16万人からの顔識別評価実験結果(文献[8]から引用)
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特 集 バイオメトリクス
察券を探してかざす手間を省くことで、簡単に安心して診
察を受け付けられるようになった。ほかには、テーマパー
クやコンサートの入場など、様々な場面で顔認証が使われ
ており、安心・安全な社会の構築へ向けて一助となるよう
今後も開発を進めていく予定である。
参考文献
■図4.シカゴ列車強盗犯の被疑者写真(左)と列車内で撮影され
た防犯カメラ映像(右)
[1]外務省:国際民間航空機関
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/icao/
[2]外務省:パスポート申請用写真の規格について
さらに大量のデータベースからの顔識別するときの認証
[8]
精度最新結果は2014年5月に公開されている 。16万人が
登録されたデータベースを対象とした場合、最速かつ最も
エラーが少ない当社のエンジンでは、約52ミリ秒で照合処
理が終了し、最も類似する人物が検索をかけた顔の持ち主
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/ic_
photo.html
[3]外務省:パスポート用提出写真についてのお知らせ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000149961.pdf
[4]オーストラリア税関:SmartGate
でなかったエラーが約3.4パーセント程度であった(図3参
https://www.gov.uk/uk-border-control/at-border-
照)。即ち、100回検索し、16万人中から最も類似する人物
control
を選び出す操作を100回行ったとき、96 〜 7回は正しい人
物が選択できたことになる。
[5]UK政府:Entering the UK https://www.gov.uk/uk-
border-control/at-border-control
また、米国では顔認証技術によって強盗犯が同定されて
[6]坂本静生、
“羽田空港・成田空港における顔認証自動
逮捕、有罪判決を受けるなど実世界でもその性能を発揮し
化ゲート実験、”情報処理学会情報規格調査会、情報
[9]
ている 。
技術標準、No.104, pp.5-8(2014). https://www.itscj.
図4右はシカゴ郊外の電車内で、防犯カメラにより撮影
ipsj.or.jp/hasshin_joho/hj_newsletter/NL104-w.pdf
された映像である。この人物は銃を突きつけ電車の乗客か
[7] P. Grother, G. Quinn and J. Philips,“Report on the
らiPhoneを奪って逃走したが、その後シカゴ市警がこれま
Evaluation of 2D Still-Image Face Recognition
で蓄積してきた450万人の被疑者データベースからこの防犯
Algorithms,”NIST Interagency Report 7709(2011)
.
カメラ映像を用いて当社エンジンで検索したところ、最も
http://www.nist.gov/customcf/get_pdf.cfm?pub_
類似した人物として同定された。その後、裏付け捜査など
id=905968
を経て逮捕・有罪判決に至ったことから、米国内における
[8] P. Grother and M. Ngan,“Face Recognition Vendor
初めての顔認証技術による事例としてメディアにより報道さ
Test(FRVT)−Performance of Face Identification
れた。
Algorithms−,”NIST Interagency Report 8009
5.おわりに
本稿ではテロ対策や犯罪捜査の側面について述べたが、
顔認証技術の応用範囲はもっと広い。東日本大震災では、
(2014)
.
http://biometrics.nist.gov/cs_links/face/frvt/
frvt2013/NIST_8009.pdf
[9]
“顔認証分析、はじめて列車強盗を逮捕する、”Wired
津波で流されたアルバムを持ち主へ返還するために、顔認
http://wired.jp/2014/06/11/first-robber-caught-via-
証により該当写真を検索するために貢献した。たちばな台
facial-recognition/
病院では再来受付システムで採用され、老人の方などが診
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