戦国時代のこと。下総に吉池重行という武士がおり、先祖伝来の十字名号

戦国時代のこと。下総に吉池重行という武士がおり、先祖伝来の十字名号を
家宝としていた。この十字名号は、重行の祖父・吉池重次が親鸞に帰依し、武
運長久を祈る本尊として、親鸞から授けられたものである。戦国の世のこと、
武運を願う者が多く、この奇特な十字名号は武士たちの垂涎の的であり、中
には十字名号を吉池重行に所望する者まで現れる始末であった。その者は、
重行に断られると、今度は力ずくで奪おうと白刃をかざして吉池宅に闖入し
た。重行はかろうじて難を逃れたが、追及は執拗である。重行は名号を首に
かけて、一旦磯辺の勝願寺に隠れた。
勝願寺は、親鸞の弟子井上善性の開基で、親鸞の住んだ稲田草庵を発祥と
する。親鸞が京に帰る際、稲田の草庵は善性に託されたが戦火で焼亡する
と、善性は難を逃れて各地を転々、その時結んだ草庵が東弘寺やこの勝願
寺であった。
勝願寺に隠れた吉池重行は、なおも名号奪取を狙う者につけられ、ついに勝
願寺を脱して信濃まで落ち延び、埴科郡寺尾の里に辿り着いた。しかし、追っ
手はなおも追いかけてくる。重行は、とっさに野原に積まれた柴草の中に姿
を隠した。重行を見失った追っ手は、この柴草の野原に火を放った。折りから
の強風のため、柴草は瞬く間に燃え上がり、野原一面は火の海となった。
と、猛火が重行の潜む所まで延びた時である。にわかに雲が走り、たちまち
驟雨となって、燃え盛っていた火は自然に消え、追っ手は遂に名号奪取を諦
めて去ったのであった。
命拾いした重行は名号の奇特に一層信心を深め、そこに草庵を結んで剃髪、
行西と名のり十字名号を「柴阿弥陀仏」と呼んで念仏生活を送ったのであ
る。
勝願寺の開基善性は晩年生地の信濃に戻り、そこで没していた。この善性の法脈
を守る人々が北信濃で浄土真宗を弘め、各地に寺院が建てられている。吉池重
行の「柴阿弥陀仏」の伝説は、布教の恰好の素材となったことは想像に難くない。
事実、善性と勝願寺の教線は北信濃に定着、さらに戦国末期、上杉謙信の時代に
越後に進出、高田浄興寺や同工異曲の「柴阿弥陀仏」伝説を伝える瑞泉寺などが
創建された。
「柴阿弥陀仏」の話には後日譚がある。
永禄4年(1561)9月、川中島で武田信玄と上杉謙信が合戦した時のこと。あ
る日、武田信玄は行西の住む草庵から48の光明が鮮やかに輝いているのを
見た。不思議に思って尋ねさせると、武運長久の霊験あらたかな十字名号が
安置されているという。
「我が戦場への門出に幸いを示すものであろう。」
信玄は草庵に赴いて名号を拝したところ、その日の合戦で大いに上杉勢を
破り、未増有の勝利を得ることができた。このため、信玄はいたく名号の効
験を感じ、堂宇を修築し厚く保護したのである。(武田鏡村)