郷土資料 あれこれ 【問 合 せ 】 社 会 教 育 課 郷土史編さん係 ☎773 2197 記念碑の揮毫は、井上円 了によるものです。井上円 了 は、 来 迎 寺 村( 現 長 岡 市)に安政5年(1858 年)に生まれ、後に東京大 学で哲学を学び、東洋大学 の前身となる哲学館を設立 しています。迷信の多かっ た日本の風潮を打開するた め、妖怪研究に努めました。 妖 怪 博 士 と も 呼 ば れ、 「妖 怪学講義」をはじめとする 多くの著書を残しています。 「全国巡講」と 井 上 は、 呼ばれる講演活動を精力的 に行い、明治 年(189 2年)5月に塩沢町、大正 4年 月には塩沢町と六日 町を訪れています。 大正4年の塩沢町の講演 は、町教育会が主催し、小 学校を会場に750人余り が、六日町では町内の寺院 有 志 が 主 催 し、 1,0 0 0 人余りが聴講したそうです。 講演の内容は定かではあり ませんが、この時期は「勅 令修身」と題する講演が多 かったそうです。 その講演の翌日、小出町 へ向かう途上で、八海山を 望みながら「八海山の頂き は雲を破り高くそびえたち、 魚野川の流れは雨水をとう とうとたたえている。秋晴 れの南魚沼郡のみちすがら、 山河を一望するとその景観 はとても力強いものであっ た」 ( 口 訳 ) と、 こ の 地 域 の情景を詠んでいます。 塩沢尋常高等小学校の記 念碑への揮毫が、どのよう な経緯で井上円了に依頼さ れたのかは定かではありま せん。大正4年当時、塩沢 町長であった田村寛一郎は、 明治 年に「文学博士井上 円了哲学新案評論」を記し ています。この評論は12 8節にもわたり、田村の井 上に対する関心の深さを感 じとることができます。 当時の町長は小学校の管 理者も兼務しており、大正 4年の講演開催と揮毫の依 頼は、この役職にあった田 村寛一郎の働きかけによる ものと推察されます。 参考資料 44 金城 塩沢小学校百十一年 の足跡 南船北馬集 「みなみうおぬま」 十三号を販売中 【問合せ】社会教育課 郷土史編さん係 ☎773 2197 「みなみうおぬま」への投 稿を募集しています。郷土に 関することでしたらテーマは 問 い ま せ ん。( 内 容 に よ っ て 掲載できない場合があります。 事前にご相談ください) 体裁 A5版、約100頁 販売価格 1,000円 販売窓口 郷土史編さん係 中央・大和・塩沢公民館 「みなみうおぬま」十三号 を 販 売 し て い ま す。 内 容 は、 郷土史研究の歩み(塩沢地域 編)/南魚沼市域にみる地方 知行の三事例/清水村の口留 番所/校歌の歴史(補遺)な どです。 建立 大正4年 南魚 沼 市 の 石 碑 ⑨ 「御大禮記念樹」 〔四分区(塩沢)〕 建立 大正4年 月 日 き ごう えんりょう 揮毫 井上円 了 ご たいれい が行われました。 は、南魚 大正の御大典で だ し 沼 の 各 地 で も 山 車、 楽 隊、 ちょうちん 仮 装、 提 灯 な ど の 祝 賀 行 列が繰り出されました。第 一上田小学校・第二上田小 学校の児童により、村有地 の学校林に記念植樹が行わ れました。また、私立六日 町図書館の設立、坂戸青年 お ん ま 会による坂戸城御居間屋敷 跡への「御大典記念苑」 (写 真石碑⑧)の建立など、さ まざまな記念事業が盛大に 行われました。 塩沢尋常高等小学校では、 大正4年(1915年) 月 日に御大典を祝う式典 が 校 庭 で 開 催 さ れ ま し た。 記 念 事 業 と し て、「 学 校 林 に松苗300本を植樹」 「校庭に若松2本を植樹」 「記念碑を建立」「児童に杉 苗 1 株 を 配 布 」「 成 績 物 展 覧会の開催」などが行われ ました。 この植樹記念碑の「御大 禮 記 念 樹 」( 写 真 石 碑 ⑨ ) は、現在、旧塩沢小学校跡 地に建てられた鈴木牧之記 念館の前庭に移設されてい ます。 - 45 10 「御大典記念苑」〔坂戸〕 南魚 沼 市 の 石 碑 ⑧ - 11 御 大禮 (礼)とは、新天 皇の 「 即 位 式 」 と 新 天 皇 が だいじょうさい 五穀豊穣を祈る「大 嘗 祭」 を合 わ せ た 儀 式 と な り ま す 。 ご たい てん 「 御 大 典 」 と も い わ れ、 各 地で さ ま ざ ま な 祝 賀 の 催 し 市報 みなみ魚沼 平成28年8月1日発行 11 ば ひ ろ の ま な び 10 11 10 25
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