オリンピアン 前畑秀子(PDF:440.2KB)

選手生活で学びえたことを伝え続けた
終戦後、開業医の妻として母とし
て大忙しの毎日でした。﹁夫の仕事
を手伝ってあげたい﹂という思いか
ら、看護婦見習いから薬の調合、薬
の包み方などさまざまな勉強をし、
夫を支えました。
また、終戦後は市営プールや県営
プール、学校プールが各地にできた
ため、前畑さんには多くの招待状が
届き、子ども二人を連れてプール開
きなどに出掛けていきました。
前畑さんのすごい所④
す ぎ や ま
前畑さんの指導者としてのキャリ
アは、くしくも夫の正彦さんが亡く
なったことをきっかけに始まりまし
た。2人の子どもと生活していかな
くてはならない前畑さんは、196
0年 歳の時に椙山女学園で医務室
職員兼水泳コーチとして働き始めま
した。
そして、 歳代半ばを過ぎ、つい
に水泳コーチの道を選び、新たなス
タートを切りました。名古屋市では
﹁ママさん教室﹂をスタートさせ、
その後﹁幼児教室﹂﹁子ども教室﹂
に選手育成を目指した﹁スイミング
クラブ﹂を開設し、別のプールでは
﹁シルバー教室﹂も始めました。
指導者として
前畑さんのすごい所②
前畑秀子さんがベルリンオリンピックで金メダルを獲得してから 年目となる今
年は、ブラジル・リオデジャネイロでオリンピック競技大会が開催され、大会期間
中の8月 日は、前畑さんが日本女性初の金メダルを獲得した日にあたります。
そこで、今月号では引退後の前畑さんが妻として母として、そしてオリンピアン
としてプールサイドに立ち続けた人生を紹介します。
︻秘書広報課︼
オリンピアン 前畑秀子
前畑さんのすごい所①
こ
80
未来に語り継ぐ存在
の う い っ け つ
▶二人の子どもを連れて競技会へ
︵椙山歴史文化館提供︶
女性や中高年を対象にした水泳教
室など考えられなかった当時、母親
が正しく水泳を理解すれば子どもた
ちは水泳を好きになるという考えや、
高齢化社会を見越したシルバー教室
の開設は先進的でした。
老若男女への水泳普及を形にして
いった取組みの成果は、紫綬褒章や
エイボン女性年度賞スポーツ賞、オ
リンピック・オーダーの受賞など多
数の受賞実績に示されています。
▶脳溢血からの復活︵日刊スポーツ
平成7年2月 日より︶
勝つこと、そして一度決めたことは
やり抜くことの大切さを学び、生涯
を通じて伝え続けていったのです。
オリンピアンとして、金メダリス
トとして、社会の要請に応えながら
プールサイドに立ち続けた前畑さん
は、未来に語り継ぐ存在であり、郷
土の誇りなのです。
お り
き
む ら
この記事は東海学園大学の木村華
織先生に協力いただきました。
か
▲指導の様子
(椙山歴史文化館提供)
妻として、母として
ま え は た ひ で
ひょう ど う ま さ ひ こ
前畑秀子さんは1936年に開催
されたベルリンオリンピック女子2
00m 平泳ぎでの金メダル獲得を最
後に、本格的な選手生活から引退し
ました。この試合で、﹁前畑がんば
れ!前畑がんばれ!﹂と何度も繰り
返された実況中継は、現在でも多く
の人の記憶に残っています。
翌年3月には兵藤正彦さんと結婚
し、新たな生活をスタートさせまし
た。
しかし、水泳から遠のいたわけで
はなく、1937年には朝鮮釜山府
営プールの竣工水上競技大会に出場
するなど結婚後もオリンピアンとし
て社会の要請に応えていました。
前畑さんのすごい所③
オリンピック・オーダー
50
オリンピック・オーダーを受賞し
た2年後、前畑さんは脳溢血で倒れ
ました。しかし、前畑さんはプール
でもう一度泳ぐために辛いリハビリ
を乗り越え、脳溢血で倒れてから約
1年半後、再びプールに戻ってきま
した。
前畑さんは﹁他人に勝つことより
も自分に勝つことのほうが難しい﹂
と語っていますが、選手生活や脳溢
血からのリハビリは、まさに自分と
の闘いでした。これらの経験から、
前畑さんは常に全力を尽くすこと、
努力を惜しまないこと、自分に打ち
25
▲親子三人で記念撮影(婦人
クラブ昭和27年7月号より)
▲水泳指導の様子
(椙山歴史文化館提供)
ていますが、決してこれだけではあ
りません。メダル獲得だけではなく、
講演活動やプール開きへの出席、水
泳教室の開設など、生涯を通じた水
泳に関わる普及活動が、オリンピッ
ク・ムーブメントの普及・促進に寄
与したとして評価されたのです。
じ ま か ず
こ
2
広報はしもと 2016 年 8 月号
3
え
46
11
1914年 橋本市で豆腐屋の長女として誕生
1929年(15歳)
椙山女学園(当時の椙山第二高女)に
転校
1932年(18歳)
ロサンゼルスオリンピック女子200m
平泳ぎで銀メダル獲得
1936年(22歳)
ベルリンオリンピック女子200m平泳
ぎで金メダル獲得
1937年(22歳)
兵藤正彦氏と結婚
1938年(24歳)
前畑 小島両嬢優勝記念プール竣工
1946年(31歳) 岐阜市で夫正彦氏が内科医開業
1951年(37歳)
椙山女学園に新しいプールが完成し、
小島一枝氏と模範泳法
1959年(45歳)
夫正彦氏逝去
1960年(46歳)
椙山女学園に医務室職員兼水泳コーチ
として勤務
1964年(50歳)
紫綬褒章受章
1967年(53歳)
名古屋市で水泳教室を開き、日本初の
「ママさん教室」などを開設
1976年(62歳)
名古屋市で「母親教室」を開設
1978年(64歳)
国際水泳連盟殿堂入り(日本女性初)
1981年(67歳)
オリンピック・オーダー銀賞受賞
(日本女性初)
1983年(69歳)
脳溢血で倒れる
1983年(70歳)
橋本市名誉市民となる
1987年(72歳)
勲三等瑞宝章受章
1990年(76歳)
国の文化功労者に選ばれる
1991年(77歳)
橋本市民プール完成式に出席
1995年(80歳)
逝去
オリンピック・オーダーとは、国
際オリンピック委員会が1975年
に設けた賞で、スポーツ界への多大
な貢献、オリンピック・ムーブメン
トにとりわけ貢献した個人に与えら
れる賞であり、オリンピック・ムー
ブメントに関わる最高峰の賞だとさ
れています。
1981年に、前畑さんはオリン
ピック・オーダーを受賞しました。
自身の著書の中では、その受賞理由
を﹁1932年ロサンゼルス大会と
1936年ベルリン大会の金メダル
が評価されたのではないか﹂と記し
前畑秀子さんの生涯
オリンピアン 前畑秀子
オリンピアン 前畑秀子