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告白 死
天使の指輪
一田和樹
告白は終わり、壇上には血だまりができていた。男の死体が無残な姿で横たわっている。昇りはじ
めた朝陽が横殴りに広場を照らす。徹夜で男の告白を聞いた聴衆は、まぶしそうに眼を細めた。
疲れ切った表情で、その場を去る者もいればそのまま残る者もいる。新しくやってくる者もいる。
しばし広場は騒然とした。
広場に静寂が戻ると、聴衆は次の告白者の登場を待った。だが、現れない。本来なら後ろで順番を
待っており、すぐに現れて壇上を清めなければいけないはずだ。
「なにしてるんだ?」
広場にざわめきが広がり始めた頃、深紅の貫頭衣を着た女が、ふたりの男に連れられて現れた。後
ろ手に両手を縛られている。それを見た人々は遅れた理由を了解した。女は囚人なのだ。そしてふた
りの男は刑務官だ。
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女の縄が解かれ、壇上に上がった。髪を短く刈った細面の美人。全身から高貴な雰囲気が漂い、赤
い貫頭衣の脇から女の肢体がのぞく。白い痩身の体躯は引き締まって美しい。だが、とろんとして焦
点が定まらない目が不気味だ。
女は演台に転がっている無残な死体をにらんだ。それから確認するように、自分を連れてきた刑務
官たちを見る。刑務官は無言でうなずいた。
女はにっこり笑うと、すたすたと死体に近づき、右足を持って引きずった。無数の石で肌が裂け、
骨が露出し、血まみれになっている死体を全く臆することなく無造作に扱う様子に聴衆は息を飲んだ。
女は、死体を演台の下まで引きずりおろすと、横にある昏い穴に落とした。
そして壇上に戻ると、血だまりをモップで清め始めた。てきぱきとして無駄のない動きだ。聴衆は
静かに見守っている。たちまち血はぬぐい取られ、さらに乾いた布でていねいに磨かれた。
「血はぬぐえても、匂いはぬぐえませんね」
女のはひとりごとのようにつぶやき、きれいになった演台を眺めた。床は、ぴかぴかに光っている。
刑務官たちは、女が掃除を終えたのを確認すると、そのままどこかへ去っていった。女の死を見届け
るつもりはないようだ。
「みなさま、おはつにお目にかかります。いえ、こうやって見渡しましたところ、見知った顔もたく
さんおいでです。再会のみなさまには、あらためてご挨拶申し上げます」
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そう言って女が優雅な仕草で頭を下げた。貫頭衣の腰のスリットが開き、陶器のように白く艶のあ
る肌と、流れるような脚線が見えた。男も女も見とれて声も出ない。
「ミーティアさん」
ややあって、広場のあちこちから声がした。
悪魔?
売 女?
それとも
「その名前で呼ばれるのも、あとしばらくなのでしょう。みなさんが私の正体を知ってしまったら、
そうは呼んでくださらないでしょう。私はなんと呼ばれるのでしょう?
雌豚でしょうか?」
ミーティアは、かすかに微笑んで見せた。非の打ち所のない輝くような表情だ。
「みなさん、ご存じのようにこの国には死刑はありません。囚人が死ぬためには、告白死しかないの
です。だからわたくしはここに参りました。みなさま、座興と思ってわたくしの世迷い言をお聞きく
だ さい」
ミーティアは、一歩前に進み出て、貫頭衣の左肩を力任せに引っ張った。布のちぎれる音が響き、
左肩から服が滑り落ちる。白い肌が現れ、場内の誰もが息を呑んだ。ミーティアの乳房の途中で布は
かろうじて止まった。ミーティアの胸には大きな緑色の泥のようなものが付いていた。
「碧蜜だ!」
広場から上がった声を耳にしたミーティアは、艶然と微笑んだ。広場は、しんと静まる。
「いい匂い。碧蜜は名前こそ醜いのですが、とてもよい香りがするんです。熟した甘い果実の匂い」
ミーティアは、自分の肩にある碧の膿をうっとりとした目で見つめた。ミーティアの全身から妖艶
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な空気が立ち上り、広場に集まった人々はじっと、その姿に見入る。
ミーティアを知るものは、驚きを隠せなかった。ミーティアは天使のように讃えられていた。捕ま
った時も、なにかの間違いだろうという者がほとんどだったくらいだ。このような妖しい姿を見たこ
とのある者はいない。
「碧蜜病というのは、性病でございます。淫らにまぐわってうつるもの。この村では、病人はごくわ
ずかでした。でも、どうしたことか、二カ月前から病人が増えてきました。病人は、誰から感染した
のか知っているはずです。でも誰にうつされたのか言いません。なにも言わぬまま、全身を腐らせて
死んでいきました。何人も何人も」
ミーティアは、そこでくすくすと笑った。淫靡な物腰と意味ありげな笑いは、わかりやすい真相を
暗示している。
だが、その真相はミーティアを知る者には受け入れがたい。かいがいしく村のために尽くしてきた
天使が、そのような業病に蝕まれているいるばかりか、さらに多くの人に移してきたなどと信じるこ
とはできない。聴衆の間から「ウソだ」という叫びが上がった。
「……ああ、いけません。順を追ってお話ししなければ、わかりませんものね。まずは私の生い立ち
から、お話しましょう」
ミーティアは、そう言うと話を続けた。笑いは消え、凛とした天使の顔になる。
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わたくしは、貧しい家に生まれました。両親は、たいした容姿ではなかったのですが、わたくしだ
けはこのように類い希な美しさを持って生まれ落ちました。ありがたいことです。
物心ついた時には、家事をしていました。ぞうきんのような布を身体に巻いて服の代わりにしてい
ました。下着というものがあるのを知ったのは、だいぶあとのことです。
陽が昇る前に水をくみに行き、ご飯を作り、父と母に食べさせるのです。ふたりが食べている間、
私は台所の隅にうずくまって、残りの食べ物をいただきました。汚いあばらやです。台所とは名ばか
り、屋根があるだけの土間です。私は地面に座って、手づかみで芋や野菜を食べたものです。
なにしろ土間のような場所ですから、冬には凍え、夏には虫にたかられました。それでも文句は言
えません。言うともっとひどい目に遭うからです。
ある時、あまりに足先が冷たいので、食事中の母にそう言いました。すると母は、無言で私の足に
煮立った湯をかけたのです。その時の痛みと驚きは、忘れられません。私がうずくまって痛い、痛い
と言っていると、母は「黙らないと身体中にかけてやる」と言い出しました。
それで私はなにも文句を言わないようになりました。ただ黙って言うことを聞く。そうしなければ
殺されてしまうだろうと思ったんです。
私はずっと裸足でしたから、火傷が治るまで、ひりひりする足を引きずって家事をしなければなり
ませんでした。数日経つといやな匂いのする膿が出てくるようになりました。困ったことに、その膿
に虫がたかるのです。最初は虫を払っていたのですが、きりがないのであきらめました。台所で自分
の口には入ることのない料理を作りながら、醜く膿と虫にまみれた足をながめて、なぜ自分はこんな
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目に遭っているのだろうと思ったものです。
父は、大工でした。頭のおかしな男です。私の足に虫がたかっているのを見つけると、それを食べ
ろというのです。食べればきれいになる、と父は言いました。それはその通りですが、蟻や蠅を食べ
て大丈夫なのでしょうか? 幼かった私は、怖くて言うことをきけませんでした。
かといって父に逆らうのも怖くてできません。だから、なにも言わずにうずくまって、震えていま
した。業を煮やした父は私を突き倒し、火傷しているつま先をつかんだのです。なにをされるのかお
そろしくて、私は悲鳴を上げました。
「うるさい」
母が煮立ったお湯の入ったヤカンを持ってきて言いました。私は黙るしかありません。
父は、私のつま先を無理矢理、私の口に近づけました。幼かったから、身体が柔らかかったんです。
つま先は苦もなく、私の顔の前に届きました。間近に見ると、自分の身体の一部とはいえ、黄色い膿
と血と泥と虫でぐちゃぐちゃになっており、ひどく気持ちの悪いものでした。それに腐った匂いがひ
どかったです。
父は血走った目で私をにらみ、口を開けろと言いました。開ければ、なにをされるかわかっていま
す。開けられるわけがありません。私は、口を固く閉じて首を左右に振りました。でも、駄目でした。
「こいつの顔にお湯をかけろ」
父が怒鳴った瞬間、私はお湯をかけられる恐怖で無意識に口を開けていました。それほどに熱湯を
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かけれたらことは怖かったのです。
父は右手でつま先をつかみ、左手で私の膝の裏側を抑えると、口の中につま先を押し込みました。
口の中いっぱいに、土とつんとする変な臭いが広がります。それから苦いものと酸っぱいものとわけ
のわからない味がしました。
「虫をなめとれ」
父は、つま先をぐいぐいとさらに奥に押し込みます。私の口の中で虫が動き出しました。舌の上や
歯の裏、口いっぱいを虫が這い回っているのがわかります。
「早くしろ」
背骨がみしりと鳴ったような気がしました。父は私の身体に体重をかけて、無理矢理折りたたんで
いるのです。これ以上、力をかけられたら、骨が折れて死んでしまうかもしれないと思いました。
「なめて呑み込むんだ」
私は、言う通りにするしかありませんでした。自分の汚れた足先を舌でなめまわしました。冷え切
ったつま先を暖かい舌でなめるというのは、薄気味悪く不思議な感覚でした。そうしている間にも、
呑み込むんだ!」
虫が口の中を這い回り、吐きそうでした。胃の奥から苦い液体が上がってきて口に広がりました。
「呑め!
鬼のような形相で父が怒鳴りました。とにかくおそろしくて、私は無理矢理呑み込みました。でも、
身体が拒否しているようで、なかなか呑み下せません。泥や虫が喉の途中に引っかかり、もぞもぞし
ているのがわかります。
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でも呑まなければ、なにをされるかわかりません。ひどい寒さだというのに、私は全身に汗をかい
ていました。目からとめどなく涙が出ます。口からは涎があふれました。
「呑めないのか?」
父が低い声でつぶやいた時、私は死にそうになるほどの恐怖とともに、泥と膿と虫を飲み下したの
でした。胃がせり上がるのがわかりました。こんなものは受け付けられないと言っているのでしょう。
吐いたら、どうなるのだろうと思うと絶望的な気持ちになりました。
全身に熱湯をかけられて、激痛に苦しみながら死んでいく自分の姿が頭に浮かびました。
死にたくない。
そう思った時、せり上がってきた胃が元に戻り、身体がびくんとはねました。突然の動きに父も驚
いて離れました。
「きったねえ。後できれいにしろよ」
父は吐き捨てるように言うと、どこかに行きました。私は地面に丸くなって、声を出さずに泣き続
けました、股間からおしっこを垂れ流しながら。
そんな毎日でしたから、友達というものはできません。同い年の子供がいないわけではありません。
道でよくすれ違いました。
私が水をくんで歩いている時、きれいな服を着た子供たちが同じ道を通りかかるのです。その子た
ちは、なんだかとても楽しそうに話をしていました。そしてどうやら学校というものに通っているよ
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うでした。
勉強がいやだ、学校は嫌いだ、と言いながらも、とてもはつらつとしていて、まぶしくて、うらや
ましかったです。
なにしろ、その頃の私ときたらぼろぼろの布をまとい、髪の毛もぼさぼさ、お風呂にもろくに入っ
ていませんから、ほんとうに汚くて変な臭いがしていたのだと思います。
私とすれ違う時、その子たちがおおげさによけていたのを覚えています。私は、そのたびに悲しく
て、恥ずかしくなりました。よけられるのは、それでもマシな方です。
男の子たちには、石を投げつけられることもありました。幼い男の子というのは残酷です。
「ゴ ミ」
「クズ」
そう言って笑いながら石を投げつけてくるのです。
初めて石を投げつけられた時は、とにかくおそろしくて泣きながら家に帰りました。水を汲まずに
帰ってきたのを見た母は、なにも聞かずに私の腹を蹴飛ばしました。思い切り蹴ったんだと思います。
私は、ふわっと浮き上がりました。それから地面にたたきつけられて、胃の中のものを戻しました。
吐き気と痛みで死んでしまうかと思ったくらいです。
その時まず思ったのは、もったいないでした。食べたものを吐いたのがもったいなかったのです。
そんなことを思ったのが悲しくて、お腹を押さえて泣きました。
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「水を汲んでこい」
母は怒鳴りながら、私を何度も蹴飛ばしました。私は痛さと怖さで、狂ったように泣き叫び続けま
した。
「これでも行かないのか?」
やがて業を煮やした母は、母屋から熱湯の入ったヤカンを持ってきました。それを見た私の全身が
ぶるぶると震え出しました。涙も止まりました。
「行きます」
私は大声で叫ぶと、身体中の痛みに耐えながら這うようにして家を出ました。幸い、男の子たちは
もういなくなっていました。
こんなこともありました。女の子たちとすれ違った時、その中のひとりが私に声をかけてきたので
す。くるりと丸まった髪の毛をリボンで結んでいたきれいな女の子。大きな目で私を見つめました。
「ミーティアは学校行かないの?」
それを聞いた時、なぜだか涙がこぼれて止まらなくなりました。初めて話しかけられた驚きと喜び
と、学校に行けないという悲しみと、いろいろなものがまざって、こみ上げてきたんです。
「行きたい」
私は泣きながら叫んでいました。
「来ればいいのに」
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その子は私に言いました。でも、そんなことを言われても、どうすれば学校に行けるのか見当もつ
きません。優しい言葉というのは、時にひどく残酷です。
「どうすれば行けるのか、わからないの」
私はうずくまって両手で顔を覆っていました。声もちゃんと出ていなかったと思います。だって、
あの父と母が学校に行かせてくれるとは思えなかったのです。着てゆく服もありません。
あの子たちが、うらやましくて、うらやましくて、うらやましくて、うらやましくて……どうしよ
うもありませんでした。
なぜ、私は学校に行けないのだろう?
なぜ、私は字を読めないのだろう?
なぜ、私はご飯を食べられないのだろう?
答えはわかっています。貧乏だからです。父と母がクズだからです。私は一生なにも楽しいことの
ないまま人生を終えるのだ。今まで考えていなかったことが、どんどん頭の中に湧いてきて、身体中
に痛みと苦しみを生み出しました。息もできなくなりました。地面に倒れ、もがきながら、泣き続け
ました。
「ミーティア、かわいそう。ごめんなさいね」
女の子はそう言うと去っていきました。その言葉が一番つらかったです。
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もう家に帰りたくない。学校に行きたい。ちゃんとした服を着たい。かなうはずのない望みが浮か
んできて、止まりませんでした。
道端で倒れて泣いている私を、たくさんの人がゴミでも見るように見下しながら通り過ぎて行きま
した。どれくらい時間が経ったかわかりません。私は立ち上がると、水を汲んで家に帰りました。
でも、考えてみると、あの頃の私には、まだ希望というものがあったのです。だから絶望できたの
です。希望を持たない人間には絶望もありません。ただ、無になっていくだけです。なにも考えず、
なにも感じず、その時々の欲望に従って生きていくだけです。
私に声をかけてくれた女の子は、その後も時々声をかけてくるようになりました。少し恥じらいな
がら、ぎこちない笑みを私に向けてくるのです。
その子の笑顔を見た時、私は人に笑顔を向けられたことがなかったことを思い出しました。父や母
は、嘲ることはあっても、好意のある笑い顔を見せてくれたことはありません。時々、すれ違う子供
たちも同じです。人の笑顔がこんなにも気持ちをあたたかくしてくれるものだと初めて知りました。
「ミーティア、こんにちは」
「ミーティアは、お家のお手伝いをしてえらいわね」
声をかけられるたびに、私は泣きました。胸がつまって声がでなくなるのです。普通に声をかけて
もらって、笑顔を向けられるということがどれほど素敵なことだったのか、みなさんにはわからない
でしょう。
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くるくるしたくせっ毛のかわいらしい女の子でした。私がなにか答えると、にっこりしてくれるの
ですが、するとえくぼができてとても愛くるしかったです。
でも、その女の子と一緒にいる友達は私のことを嫌いみたいで、すぐに女の子の手をひっぱってす
ぐに連れて行ってしまうのでした。
私は、もっと話したいような、話したくないような複雑な気持ちでした。話をするたびにひどく悲
しい気持ちになってしまうのです。でも話しかけてもらえると、とてもうれしいのです。これが友達
というものかもしれないと、思ったりしました。でも、もちろんそんなものはただの幻でした。
やがてその子は、夕方私の家にやってくるようになりました。いえ、家に上がるのではありません。
私の家の裏は空き地で、その向こうは川です。空き地に面した土間に私はいます。女の子は空き地で
私を見かけたらしく、そのまま後を追って来ました。そして土間にいる私を見つけたのです。
「ミーティア……」
女の子は、なにか言いかけて、口をつぐみました。そして、地面に小さな袋を置くとそのまま帰っ
てしまいました。
私はなんのことかわかりませんでした。今ならわかります。あの子は、私の家が想像以上に汚くて
臭くて、それ以上近寄れなかったのでしょう。
女の子が置いていった袋には、お菓子が入っていました。生まれて初めて食べたお菓子です。クッ
キーです。今でもあの味は、はっきり覚えています。甘くておいしくて、全部食べてしまうのがもっ
たいなかったのですが、父や母に見つかるのが怖くて全部食べてしまいました。
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食べているとものすごく幸せな気分になりました。うれしくてたまりませんでした。こんな素晴ら
しいものをくれるあの子は、天使だとすら思いました。
でも、食べ終わったとたんに悲しくなりました。お菓子を全部食べてしまったという思いと、あの
子たちはきっと毎日食べているに違いないというねたみが湧いてきました。それと同時に、お菓子ひ
貧しいとはこういうことなのです。
とつでうれしくなったり、ねたんだりする自分を哀れで愚かだと感じました。
でも仕方がないんです。みなさんに、わかりますか?
その子は毎日のように夕方やってきては、お菓子を置いてゆくようになりました。いつも離れたと
ころに置くので、話はできません。私は、その子が来るのを心待ちにするようになりました。
雨が降った日、外に置くと濡れてしまうと思ったのでしょう。土間の近くまで、その子がやってき
ました。私が出て行くと、お菓子を手渡してくれました。あんなに近くで向かい合うのは初めてでし
た。その子は離れて見るよりも、きれいでかわいくていい匂いがしました。赤い傘をさしていたのを
よく覚えています。傘をさしたことがなかった私は、きれいだなあと思いました。
「ありがとう」
私が小さな声でお礼を言うと、その子は黙ってうなずき、そのままくるりと背を向けて立ち去りま
した。私はとてもうれしくて、あたたかい気持ちになりました。
でも、その子は少し歩いたところで、つぶやいたんです。その日はどしゃぶりでつぶやきなど聞こ
えるはずもないのに、私にははっきりと聞こえたのです。
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その子は私にお菓子を渡した手を見て、こう言ったのです。
「汚い……」
その言葉を聞いた時、私の中でなにかが壊れました。さっきまでのあたたかい気持ちは、一瞬で冷
たい怒りに変わりました。私はもらったばかりのお菓子を放り出し、大声を上げて、その女の子に駆
け寄ると、うしろから飛びつきました。
女の子はそのまま前に倒れ、悲鳴を上げました。私は自分でもなにをしているかわからなくなって
いました。うつぶせに倒れた女の子の後頭部を拳で何度も殴りつけました。怒鳴っていたと思うので
すが、よく覚えていません。
雨でずぶ濡れになっているのに、身体と顔がひどく熱くなっていました。寒さとか痛さとか全く感
じませんでした。頭のどこかにもうひとりの自分がいて、暴れる自分を悲しそうな目で見ていました。
やめて」
私は、髪の毛をわしづかみにして引っ張りました。
「痛い!
女の子は悲鳴を上げました。でも、そんなこと気になりません。どうしようもなく大きな怒りでい
っぱいでした。なぜそんなに怒っているのか自分でもわかりませんでした。ただ、女の子に思い知ら
せてやらなければならない、という気持ちに突き動かされていました。私は好きで汚いんじゃないん
だ。自分のせいで貧乏なんじゃないんだ。学校に行きたくないわけじゃない。ほんとは行きたい。き
れいにしたい。おいしいものを食べたい。それなのに、汚いってどういうことなんだ。
私は、両手で髪の毛をつかんだまま、女の子の顔を地面に何度もたたきつけました。最初に鼻がつ
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ぶれました。どばどばと鼻血が流れます。ぜえぜえという息と、助けてというかすれた声が聞こえま
した。
二度三度とたたきつけると、顔全体が腫れ上がり、そこら中から血が流れ出しました。いつものか
わいい顔が、醜くふくれあがりました。女の子はぐったりしています。
「……から」
なにか言っているのですが、唇が切れて晴れているのでよくわかりません。私が髪の毛を離すと、
女の子はぎこちない動作で肩にかけていた袋からお菓子を出しました。
お菓子を持っている!
私は女の子の袋を奪いました。中にはお菓子や本が入っていました。濡れてしまっていますが、そ
れでも私にとっては宝箱です。欲しい。どうしても欲しいと思ったんです。それから女の子を見ると、
今度は服もほしくなりました。
女の子がぐったりしていたので、私はさほど手間をかけずに服を脱がせることができました。スカ
ートもシャツもショーツもみんなはぎとりました。その時の私は、ものすごくうれしくて、それでい
てとても不安でした。この子が告げ口するかもしれない。いえ、告げ口するに決まっています。誰に
やられたか、言うでしょう。
草原に転がっている裸の女の子を見下ろした私は、殺した方がいいと思いました。大きめの石を拾
うと、女の子の頭に打ち下ろしました。なにかがへこむ手応えがあり、女の子があっと叫んだような
気がしました。二度、三度と石をたたきつけました。血があふれ出し、あたりの草を赤く染め、髪の
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毛がずるりと落ちました。ざあざあ降っている雨と一緒に流れていきます。
「ああ……ああ」
女の子の口から空気が抜けるような声が漏れて、それからなにも聞こえなくなりました。
私は、動かなくなった女の子を川まで引きずっていき、土手から川に落としました。女の子の白い
死体はぷかりと浮かび、流れていきました。
昼間は澄んできれいな川なのですが、夜はどんよりと暗く、月を映していました。月は雨でぐずぐ
ずに崩れ、揺れていました。
早く家に戻って晩ご飯の支度をしなければなりません。そうしないと母にひどい目に遭うのです。
私は、とぼとぼと家に戻りました。空き地に転がっている赤い傘を見て、どうしようかと思いました。
でも傘はすぐに風に引きずられて、どこかに転がって行ってしまいました、まるで女の子を追いかけ
るように。
その夜、私は怖くて眠れませんでした。女の子を殺したことがばれるのが怖かったのではありませ
ん。理由なくただ怖いのです。息をするのもつらいくらいに、胸が苦しくて、目をつぶると女の子の
姿が浮かんできます。雨音に混じって、女の子が最後にもらした空気の抜けるような声が聞こえてき
ます。それはあまりにも本物っぽかったので、私は何度も起き上がって外をながめたくらいです。
もちろん外にはなにもありません。ただ暗闇が広がっているだけです。耳をすませてもなにも聞こ
えません。でも、私がほっとして緊張を解くと、その時かすかにあの子の声が聞こえるのです。いつ
もです。聞こえない、と思った時に聞こえるのです。
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そんな私よりもひどい扱いを受けている者もいました。
弟です。
弟は完全に動物扱いでした。家の裏の空き地に置いてあるゴミ箱に裸で閉じ込められていました。
犬小屋ほどの大きなゴミ箱です。弟は、そこにござを敷き、布を身体に巻き付けていました。
私は弟を見るたびに、ふたつの思いにとらわれました。
この子は私以外に頼るものがいないんだ。なんとかしてあげなければいけない。
私よりもひどい最低の生き物がいる。
ふたつの思いは、全く違うように見えて、同じものなのです。みなさんが、誰かを思いやり、あた
たかく接する時、実は同時に相手を見下しあざ笑っているのです。
ほっとする気持ちもありました。弟よりはまだマシだという気持ちです。でも、それはほんのちょ
っとの慰めにしかなりません。だって、自分より下の人間がいたからといって、私の苦痛がやわらぐ
わけではないのです。
私は毎日、両親に食事を作り、残飯を自分で食べた後、弟にさらに残り物を与えていました。土間
から出てゴミ箱の蓋を開けると、布にくるまった弟が物欲しそうな目で私を見つめます。
私以上に食べ物を与えられておりませんからやせ細り、一日中ゴミ箱に座っているだけですから、
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体力も筋力もありません。おそらく立ち上がることもままならなかったと思います。ただ、じっとし
ている以外に、なにもできないのです。
弟は言葉を話せませんでした。身体に問題があるわけではないのです。母が、弟に言葉をしゃべる
ことを禁じていたのです。理由はわかりません。私も、弟と言葉を交わしてはいけないと言われてい
ました。
弟は一日中ゴミ箱にいるのですから、私がなにも言わなければ言葉を覚える道理がありません。た
だ、動物のように「あー」とか「うー」とかわめくだけです。
そ れで も、 外か ら聞 こ える 声で 覚え るの か 、
「お はよう 」のよ うな簡 単な言 葉を言 うこと もあり ま
す。そんな時は私は無視します。私が弟に言葉をかけたことがわかったら、母になにをされるかわか
ったものではありません。
でも 、弟 は 無邪 気な 表情 で 、何 度も 同じ言 葉を繰 り返し ます 。
「おは よう」 と。そ の言葉 を聞い て
いるうちに、つらい気持ちになったことを覚えています。理不尽なことです。私には、なにもするこ
とができないのです。覚えたての言葉を繰り返す弟を無視することしかできないのです。
それなのに私は、悪いことをしているような気分になりました。弟を苦しめているのは、自分では
ないのかと、ありもしないことを考えることもありました。
私はぼろぼろ涙をこぼしながら、ゴミ箱のふたを閉めました。それでも、弟は小さなかすれた声で、
「おはよう」と言っています。私は土間に戻ると、しゃがみ込み、小さく「おはよう」と言いました。
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弟に聞こえるはずはありません。聞こえてはいけないのです。なんの意味もないことです。それでも
私は、言わずにはおれなかったのです。
今思うと、両親は弟に死んでほしかったのでしょう。ご存じのように、この村は『死』というもの
を特別忌み嫌います。死にそうになった者は『死』を他の人間に見せないように山に捨てられます。
人を殺すことは、もっとも罪深いこととされています。
だからひと思いに弟を殺すことをせず、自然に衰弱して死ぬようにしていたのだと思います。
なぜ、弟を殺したかったのかはわかりません。単に育てるのが面倒くさかったのかもしれません。
あるいは、父か母がよその人と交わってできた子供だったからかもしれません。
そういうひどいありさまでしたから、弟はよく病気にかかりました。そもそも狂った両親の元に生
まれた時点で、死と狂気の病にかかっているようなものです。生きていられる方がおかしいくらいで
す。それは私も同じです。
弟の調子が悪い時、ゴミ箱のふたを開けると青い顔をして横たわって震えています。そのへんの野
良犬ほどもない身体。両手で必死に布を握り、救いを求めるように私を見るのです。私もゴミ箱の中
に入って、弟を抱きしめます。
驚くほど軽く、冷たい身体は、私の身体も凍えます。でも、一生懸命抱きしめます。このまま死な
せた方がいいのかもしれないという気持ちと、私だけ遺していかないでほしいという気持ちが湧いて
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きました。
弟は、飼い主にはぐれた犬のような少し甲高い泣き声をたてます。その声は私の身体に入り込み、
内臓を食い散らしました。私は心の中で、ごめん、と訳もなく謝りながら、じっと弟を抱きしめるし
かなかったのです。
弟も私も、誰にも知られることなく、虫のように扱われ、ゴミのように捨てられて消えるのだろう
と思っていました。旦那様とお会いするまでは……
PPP
みなさん、ご存じのように村には診療所がひとつあります。慈悲深いクイエルの旦那様が作ったも
のです。旦那様はお医者様で、この地の医療に身を捧げるために遠くの街からやってきたのです。と
ても素晴らしい方です。
もっともその清らかで理想に燃える心もご先祖の残した莫大な資産あればこそなのですが……いえ、
それは言いますまい。いくらお金を持っていても、人のためになにもしない方の方が多いのですから、
旦那様の病人に対する献身的な取り組みには頭が下がるばかりです。
診療所には常時病人が詰めかけてきており、入院している者も十人以上います。ですから、いつも
人手不足でした。診療所の若い看護師たちは、少しでも手が空くと、村の家々を回って診療所で働く
者を募っていました。
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ある日私の家にも、看護師がやってきました。今でもよく覚えています。浅黒い顔をした、中年の
男性です。ぼさぼさの長い髪の毛をし、男のくせにうしろで縛っていました。その名をダーレムと言
います。
ダーレムは私の家にやってくると、子供を診療所に働きに出さないかと言いました。子供とは私の
ことでしょう。幼い私にはダーレムが人買いのように見えて、恐ろしいと思いました。
よく考えてみれば、その頃の自分の境遇よりもひどい場所などありはしなかったのですが、その時
は人買いに売り飛ばされるということが怖くてしかたがありませんでした。
我が家に客が来ることなど滅多にありません。それにダーレムの着ている白衣というものを私は初
めて見たのでした。なんというか、とても特殊な人なのだと思いました。そして両親が楽しそうに笑
っているが聞こえたので、ひどく危険な感じがしたのです。
私は玄関の近くに隠れて、ダーレムと両親の会話を盗み聴きしました。
子供を奉公に出せば金をもらえると知った父と母は大喜びでした。あとで知ったのですが、ふたり
は私を育てて売春窟に売ろうと考えていたようです。当時の私はまだ十歳くらいでしたので、売春窟
に売るには早すぎます。買ってくれるかもしれませんが、買いたたかれるでしょう。だからまだしば
らくは売れないと思っていたのです。
でもそれがすぐに売れる、思ったよりも高い値段で。両親は、即座に私を売ることに決めたようで
す。
今よりひどい目に遭わされるのだと私は思いました。玄関から離れ、土間に戻ると、どうしたらよ
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いのか一生懸命考えました。
逃げるしかないと思いました。でも、それよりも早く父がダーレムを連れてきました。大柄なダー
レムは悪魔のように見えました。私は思わず、その場に土下座していました。
「お願いです.殺さないでください。なんでもします」
頭を土間の床にこすりつけて、何度も何度もそう言いました。言っているうちに涙が出てきました。
すぐに殺されてしまうような気がしてきたのです。
「どういうことですか?」
ダーレムは静かに私の父に尋ねました。
「知らんよ。こいつは、もうあんたのものだ。好きにしろ」
父の言葉を耳にした私は、取引はもう終わってしまったのだと悟りました。
「……わかりました」
ダーレムは、深いため息をつくと、土下座している私の前にしゃがみました。私は身体を動かすこ
ともできなくなっていました。頭を地面につけたまま石のように固まっていました。ダーレムは、私
の額に手をあてて、顔を起こしました。
「なにも心配することはない。これから私たちは病気の人を助ける仕事をするのだ。誰もお前をいじ
めることはない。殴られることもない。食べ物もある。安心しなさい」
一瞬、ダーレムの言っていることがわかりませんでした。意味がわかってからも信じることはでき
ません。だって殴られることもない、食べ物もある、そんな生活があるわけがありません。だまして
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殺すつもりだ。そうとしか思えませんでした。
私が不信の目で見るとダーレムは、それを跳ね返すように微笑みました。それは私の見た初めての
真っ白な笑顔でした。嘲りや嗜虐のない、きれいな笑顔。人間がそのように笑うのだと初めて知りま
した。
私はダーレムの無垢な心に触れて気を失いました。
気がつくと白いベッドの上に寝ていました。見たこともないきれいな部屋です。真っ白な天井。ふ
かふかのベッド。あとからそれは使い古された固いベッドだとわかりましたが、土間に寝ていた私に
はふかふかだったんです。
ベッドの両脇はカーテンで仕切られていました。ここはどこなんだろうと考えた私は、ダーレムの
ことを思い出しました。これが診療所というものなのだろうかと思い、上半身を起こし、周囲を見回
そうとしました。その時、いつもと違う服を着ていることに気づきました。真っ白なワンピースのス
カートです。胸と股間がもぞもぞします。スカートの中に手を突っ込んでみて、下着をつけていると
知りました。下着をつけるなど、生まれて初めてです。みんなはこんなくすぐったいものをずっと身
につけているのかと驚きました。なんだかすごく恥ずかしかったのを覚えています。
私は怖くなりました。きれいな服を着せ、ベッドに寝かせてもらうなんてことはありませんでした。
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私は両親に売られたのです。家畜のような扱いを受けると思っていたので戸惑いました。これから殺
すつもりなのだ。最後の情けで、いい思いをさせててくれたのかもしれない。
逃げなければという思いに突き動かされて、私はベッドを出ました。その時、声が聞こえました。
「もう少ししたら、クイエル様が説明をしてくださる」
振り向くといつの間にか白衣のダーレムが立っていました。その目を見た時、私はまた目眩に襲わ
れました。私の知っている人間の目ではありません。両親は濁って充血した目をしています。弟はい
つも目やにをためて、膜の張ったような知り目です。時々、見かける子供たちは、澄んだ眼をしてい
ましたが、蔑むような光がありました。あの子の目は澄んでいましたが、ダーレムほどではありませ
ん。
ダーレムは、透き通った水のような目をしていました。私はとっさに顔を伏せて、はいと答えるこ
としかできませんでした。
「……それまではベッドに寝ていなさい」
私はまだダーレムのこともクイエルという旦那様のことも信用していませんでした。この時はまだ
殺されるかもしれないと思っていたのです。
「遠慮することはない」
ダーレムは優しい声で言いました。私は言うことをきくしかありませんでした。
私がふとんに潜り込むと、ダーレムは私の頭を撫でてくれました。大きくて暖かい手でした。私は
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眠りに落ちました。
次に目覚めた時、ダーレムと見知らぬ老人が傍らに立っていました。私は最初、老人のことを病人
と間違えそうになりました。老いた人を見るの初めてでした。
髪の毛は真っ白。ひどくやせて頬がこけていました。ダーレムの澄んだ雰囲気とは違う雰囲気がし
ました。もっと厳しく悲しい感じがしました。その目で私をじっと見ていました。
聞い
「私はクイエル。私たちは、ここで病人や怪我人の治療をしている。君は、その手伝いをするために
ここに来た」
この人がクイエル様。私を買った人なのだ。それにしても”
治療”
とはどういう意味だろう?
た事のない言葉だ。
私はベッドに上半身を起こし、クイエル様の顔をじっと見ました。ダーレムの澄んだ目を見ると目
眩がしますが、クイエル様の目は悲しみで濁っているので見ても平気でした。
「この国では病気にかかった者や大きな怪我をした者は谷に捨てられる。それではいけないのだ。ち
ゃんと手当をすれば治る。助かりたいと思う者のために、手当、治療をしている。そしてここは治療
を行う場所、診療所だ」
クイエル様は、愚かな私のためにくわしく説明してくださいました。でも私にはわかりません。い
ったいなにをすればいいのでしょう? 治療のために私を生け贄にするのでしょうか?
「君はこれから毎日、病や怪我に苦しむ人のために働く。洗濯、掃除、それから身動きできない人の
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身体を清めるのだ。ダーレムの言うことをきいてがんばってほしい。つらいと思った時は、休んでも
いい。無理はしないように」
私は信じられませんでした。でも、
クイエル様はそう言うと、ダーレムに目配せしてどこかに言ってしまいました。洗濯、掃除……そ
れなら私にもできます。でも、そんなことでいいのでしょうか?
本当にそうなのでした。
クイエル様は、その後しばらく黙って私の顔をながめていました。もしかしたら、私がなにかを言
うのを待っているのかもしれないと思ったのですが、なにを言えばいいのかわかりませんでした。
その時の私は不安と恐怖に包まれて、その一方でクイエル様とダーレムのことを信じてもいいよう
な気もしていました。なにしろ、こんなに優しい言葉をかけてもらったことは初めてだし、ふかふか
のベッドにきれいな服も生まれて初めてでした。
クイエル様は、私がなにも言わないでいると、そのままダーレムを残して去って行きました。ダー
レムも、ちょっと待っていないと言い残してどこかに言ってしまいました。一瞬、逃げるなら今かも
しれないと思いましたが、少しだけ信じてもいいような気になっていました。
すぐにダーレムが背の高い優しそうな女の人を連れて戻ってきました。白衣を着た優しげなまなざ
しの女の人です。太っているなと私は思いました。私の周りには太っている人はあまりいないので珍
しいと思いました。
「アーエルです。これからよろしくね」
アーエルはそう言うと、突然私を抱きしめました。私は驚きで息が止まりました。人に抱きしめら
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れるなんてことは初めてです。全身にアーエルの暖かさが伝わってきて、幸せな気持ちになりました。
「おいおい、驚いているぞ」
ダーレムが言うと、アーエルは私を抱きしめている腕にさらに力を込めました。
「だって、可愛いんですもん。ここの仕事は大変だけど、がんばってね」
アーエルは私の耳元でそう言うと、首筋に唇を押しつけました。びっくりして息が止まりそうにな
と訝しく思
りました。この人は、なにをしているんだろうと思いましたが、悪い気はしません。とてもうれしか
ったです。
「アーエルは愛情過多なのだ。慣れてくれ」
ダーレムは苦笑しながら去っていきました。
「私たちのお部屋に案内しますよ」
アーエルは、私から離れると、診療所を出ました。どこに連れて行かれるのだろう?
っておりますと、診療所と同じ敷地にある、すぐ隣にある二階建ての小さな建物でした。そこは看護
師たちの寮になっていました。
アーエルが扉を開けると、すぐに大きな部屋がありました。食堂です。三人の看護師さんがそこで
お茶を飲みながら話をしていました。仕事をさぼっている、と私は思い、アーエルが叱るものと思い
ました。でもアーエルは叱りません。
にこにこして私を三人に紹介しました。私がぼんやりしていると、まだ慣れていないからと気を使
ってくれました。こんなにていねいな扱いを受けるのは初めてでした。
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それから診療所の中を案内されました。診療所はずらりとベッドが並んでおり、それぞれカーテン
で仕切られています。二階建ての二階に二十もベッドが並び、十六のベッドに人が寝ていました。
こんなにたくさんの大人の人を見るのは初めてでした。怖い……と思いました。でも、すぐに慣れ
ました。なにしろあそこにいる人は私にお礼を言ってくれるのです。
「ありがとう」
私がそんな言葉をかけられるようになるとは想像したこともありませんでした。私の両親は汚い言
葉で罵ることしかしませんでした。あの診療所にいたのは、病人や怪我人ばかりでしたが、世の中に
こんな優しく平和な世界があるのかと私は思ったものです。そしてなによりうれしかったのは、みん
なが私を必要としてくれることです。私が水を運び、汚れ物を選択することが必要なのです。私は、
ここにいてもいい。生きていてもいい。なぜなら、みんなが必要としてくれるから。そう思うことが
できました。
この世界を守るためなら、なんでもできる。しなければならないと思ったものです。
あと、うれしかったのは、朝昼晩とたくさんの看護師さんたちとご飯を食べられることです。忙し
いからゆっくり話をしながら食べるなんてことはありませんでした。でも、それまでの私は土間で残
飯や腐ったものを口に押し込んで飢えを凌いでいたのです。誰かと一緒に笑いながらご飯を食べるこ
とが、こんなに楽しいとは思いませんでした。そんなことが私の人生に起きるとは思っていませんで
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した。
そんなわけで、診療所に売られたことは私にとって幸福でした。生まれて初めて人として扱っても
らえたのですから。診療所で忙しく働き、みんなと一緒に時間を過ごしていると、あの子も声が聞こ
えることもなくなりました。
でも、私は呪われているのに違いありません。診療所で働き出してから一年経った頃、私は恐ろし
い病に罹ってしまったのです。
いえ、碧蜜病に罹ったのではありません。でも碧蜜病に関係あることです。回りくどい言い方はや
めましょう。私は、あの香りに魅せられてしまったのです。あれなしには生きていけなくなったので
す。
診療所には碧蜜病の方もいらっしゃいました。長い間、この病はなくなったと思っていたのですが、
そうではなく隠されていただけなのでした。
人にうつる病であることと、自分が罹っていることを隠したい方ばかりということから、診療所の
裏に小さな小屋を建てて、そこで看病しておりました。といっても、できることは、ただ身体が腐っ
て死んでゆくのを看取るだけです。なにも手立てはないのです。
みなさんの中には、碧蜜病の末期の香りを嗅いだ方はいないでしょうね。この国では重い病に罹っ
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たらすぐに人里離れた場所に捨てられます。ですから、もしあの香りを嗅いだことのある人がいたと
しても、かかりはじめの匂いを嗅いだくらいでしょう。
あの病にかかると甘い蜜のようなとろける香りがします。知っている人には、おぞましい恐怖の香
りでもあるのですが。その香りといったら、誰でもすぐに、それとわかる素晴らしいものです。碧色
に腐った場所から漂ってくるのです。
私の身体から香りが漂っていると思います。
今 日来 てい らっ しゃ る方 は、 みな さん 嗅い だこ とが ない のです ね。演台 の近くの 方はわ かります
か?
この醜い緑色に腐った肉から出ている香りなんです。最後には全身がどろどろに
そうです。これは、花の香りではないのです。私の身体の腐ったところから出ている香りです。い
い匂いでしょう?
解けて、この匂いにまみれて死ぬのです。素敵だと思いませんか?
私は碧蜜病の方々のお世話もしておりましたから、最後の香りも存じております。最初にその小屋
に足を踏み入れた時のことは、今でも覚えています。部屋中に充満した甘い香り。この世のものとは
思えないくらいでした。くらくらして倒れそうになりました。両脚から力が抜け、身体が傾きました。
その時は、アーエルも一緒だったのですぐに支えてくれました。
誰でも最初はそうなるのだ、とアーエルは言いました。毎日世話をしているうちに、慣れてくると
教えてくれました。でも、それは違っていました。ほとんどの人はそうなのでしょうけど、私は慣れ
ることができませんでした。
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毎日、あの小屋の扉を開け、くらくらしながら必死にお世話をしました。困ったのは、それだけで
はありません。あの小屋の病人は全部男の方でしたが、皆さんご自身が死ぬとわかっています。そし
て、あのような病気に罹るくらいですから、女性を見るとそういう衝動をこらえられなくなるような
のです。アーエルやダーレムは、年端もいかない私なら、相手にされないだろうと思っていたようで
すが、そうではありませんでした。
むしろ逆です。幼い子供ならわからないだろうと思うのか、固くなった自分の陰茎を見せてしごく
人や、私の身体に触れてくる人もいました。まんがいち、そういうことがあったら必ず言うようにと
アーエルに言われていたのですが、私は一度も言いませんでした。
なぜなら、あの人たちの身体から漂う匂いに包まれると、頭の中がしびれるようになってしまうの
です。まるで淫夢の中にいるようでした。そこで汚れた下着を取り替えたり、身体を拭いたり、掃除
をしていました。その間、ずっと誰かが私につきまとって、身体を触ったり、陰茎を私に見せたり、
押しつけたりしているのです。私の目の前で射精する人もいました。なぜか、嫌な気持ちはせず、床
にたれた白濁を拭く時、ぞくぞくするような快感を覚えました。
そして部屋を出て、匂いがしなくなると、自分がひどくいやらしく、みじめに思えました。こんな
ことをしていてはいけない。いつか、とりかえしのつかないことが起きてしまう。そう思いました。
小屋に行くのはいやだとアーエルに言おうと、何度も思いました。でも、そうはしませんでした。
あの匂いに包まれることがたまらない歓びで、そこから離れられなくなっていたのです。
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そしてある日、とうとう私は禁断の扉を開けてしまったのです。
「なんでも言うことをきいてあげるから」
と年取った碧蜜病の人が、私に言いました。身体中が腐り出し、死を間近に控えた人です。
言うことをきいてあげるから、私の陰部を触りたいというのです。なんでもと言っても、診療所に
来るような人はお金は持っていません。持ち物だってたいしたものはありません。交換できるものな
どないのです。
でも、私は、はいと答えてしまいました。その時は、なぜそんなことを言ったのかわかりませんで
した。でも今から思えば、私は自分のほしいものがわかっていたのだと思います。
その人は小屋のトイレに私を連れ込みました。もちろん、他の患者さんにもわかります。みんなが
いやらしい好奇の目で私たちを見ていました。
薄暗いトイレの中で私は、下半身を露わにしました。その人が、私の股間に顔をうずめて一心不乱
にいじっている時、私はそこから立ち上ってくる甘く淫猥な香りに包まれてなにも考えられなくなっ
ていました。
気がつくと、その人が私の前で尻餅をついていました。両手を自分の目の前に出して、ぶるぶる震
えています。見ると、左手の指が全部なくなっているではありませんか。碧蜜病で腐っていた手です。
なにが起きたかすぐにはわかりませんでした。その時、口の周りがべとべとしていたので、何気な
く手でぬぐうと血の混じった緑色の泥のようなものがつきました。それでなにが起きたのかわかりま
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した。
そうです。私は、その人の指を食べたのです。味の記憶はありません。ただ、口の中は甘い血の匂
いでいっぱいでした。身体の奥から、ぞくぞくするような歓びがあふれていました。そして恥ずかし
いことに私は、おしっこを漏らしてしまったのです。
幸い、すでに下半身は裸だったので服が汚れることはありませんでした。もし、ばれたらなんと言
われたでしょう。恐ろしいことです。
私はその人を部屋に戻し、掃除をしながら、ひどく後悔しました。クイエル様やダーレム、アーエ
ルが一生懸命働いているのに、いやらしいいたずらをされて悦んでいる自分は薄汚い罪人だと思いま
し た。
仕事を終えて小屋を出ても、うしろめたい気持ちは消えません。いっそクイエル様に懺悔して、叱
ってもらいたい。あの厳しい声で思い切り、罵ってもらい、叩かれたい。そうしてもらえれば安心で
きる。でも、そんなことはできません。万が一、ここを追い出されたら行くところなどありません。
翌日から私は、碧蜜病の人たちに身体を触らせる代わりに腐った身体を食べさせてもらうようにな
りました。それがどれほどおぞましいことか、自分でもわかっていました。碧蜜病の人たちもわかっ
ていたので、誰も他の人に漏らすことはありませんでした。
あの薄暗い碧蜜病の病棟のトイレで、下半身をさらして触らせ、その代わりに指や耳、時には腕や
腿に食らいつき、甘い香りに包まれて至福の時を過ごしたのです。
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時には数人がせまいトイレの中で、私の下半身に群がり、その人のたちの濃い匂いに包まれながら、
耳や指をむさぼるように食べたこともあります。そんな時、私はおしっこを漏らしてしまうのですが、
患者さんたちはいやがりもせず、それをすすってくれました。みんな狂っていました。
私は自分のしていることがどれほどいけないことかわかっていました。だから、その分診療所の仕
事を人一倍熱心にやりました。数年経つと、私は「天使」とまで呼ばれるようになっていました。
ただ、時々クイエル様が冷たい目で私を見ているのに気づくことがありました。私が患者さんのお
世話をしていると、離れたところからじっとにらんでいるのです。
ある日、生理が始まりました。すると、クイエル様は碧蜜病の担当を他の者に帰るようにアーエル
に指示しました。患者さんにいたずらされる危険を考えてのことだと思うのですが、私にはありがた
迷惑です。しかし、あそこではクイエル様の言うことには逆らえません。
私はしかたなく、碧蜜病の担当をあきらめざるをえませんでした。代わりというわけでもないでし
ょうが、週に一回休みをいただけるようになりました。その休みの日に、隠れて碧蜜病の病棟に行こ
うと思いましたが、そんなことをしてばれたら大変なことになります。
かといって、もはや私はあの甘い香りの腐肉なしでは生きてゆけなくなっていたのです。
考えあぐねた私は、最後の手段をとることにしました。碧蜜病の肉を求めて、休みの日に街外れの
娼館を訪ねたのです。
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娼館にいる碧蜜病の人の肉を食べに行ったのではありません。病人がいるかどうかもわかりません。
そんなに病人の数は多くないのです。
その日はよく晴れた天気でしたが、娼館に続く森は暗くひんやりした空気に満たされていました。
森を抜けたところにある娼館は、とても古い美しい建物でした。扉の前に、乳母車のようなものがあ
り、そこに腰から下のない男が乗せられていました。身体が小さいので、子供かと思ったのですが、
近寄るとそうではないことがわかりました。皺だらけの顔をしています。きっとお年寄りなのでしょ
う。
娼館 の人 な のか と思 って 話 しか ける と、白 い膜の 張った 目を私 に向け て 、
「女主 人は中 にいる 」と
言い、扉を指さしました。
私は、礼を言って扉に開けようとして、そこで一瞬身体が止まりました。少しだけ躊躇したのです。
病棟の患者さんにさんざん下半身をいじられていましたが、私はまだ処女でした。でも、そんなこ
とはどうでもよくなっていました。あの香りに包まれて肉を食べたい。その一心に突き動かされてい
たのです。でも、扉に手をかけた時、少しだけ我に返ったのです。
でも引き返すことはできません。私は扉を開きました。
まるで私が来ることがわかっていたように、女主人は扉の前に立っていました。
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「あんたは地下だ。それでもいいの?」
女主人は私を見るなり、そう言いました。地下とはどういう意味なのかわからなかりませんでした。
地下には金のない者や病気の者が客としてやってくる。そいつらに好き勝手にされる。なにをされ
てもいい女だけが地下で働く。殺されることもある。目や腕を失うこともある。それでもいいのか?
と女主人は続けて言いました。
私は不安になりましたが、それと同時になぜか期待でわくわくしてしまったのです。すぐに、はい
と答え、地下に向かいました。
女主人が、私を地下に活かせた理由はわかっていました。私はすでに碧蜜病に罹っていたのです。
診療所では、碧蜜病の病棟からかすかに漏れる香りにまぎれてわからないのですが、私ひとりだとご
まかしようがありません。
でも、碧蜜病に罹っていても、自分の肉はおいしくないのです。やはり他人の肉ではないとだめで
す。自分を犯した男が碧蜜病にかかり、また娼館を訪れる。そしたら肉を食らうことができる。私は
浅はかにもそう考えたのです。
与えられたのは、暗くじめじめした部屋でした。それにいやな匂いがします。でも、そんなことは
言っていられません。
私は女主人に言われた通り、裸になると、黒い革のマスクをつけ、両手両足をベッドの端のバンド
で締めて客を待ちました。怖いという気持ちと、悦びを待つ気持ちとが頭の中で渦巻いて、意識が混
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濁してきました。
気がつくと、いつの間にか誰かにのしかかられていました。ああ、これから犯されるのだと思うま
もなく、激痛が走りました。
私は後悔しました。性交というものは気持ちがよくなるものだと思っていたのです。碧蜜病の病棟
のトイレで腐った身体の患者さんたちに身体を弄ばれた時の快感と同じようなものを得られると思っ
ていました。
でも、気持ちよいどころか、痛くて苦しくて、ひどく辛く惨めなものでした。世の中の女たちは、
よくあんなものに耐えられるものだと思いました。しかもあのかぐわしい香りはないのです。
その日は、ふたりの客を取っただけで帰りました。身体中が痛く、股間がひりひりしていたことを
よく覚えています。でも、これでふたりを病気にできた。次にまた来てくれるといいと少しだけうき
うきした気分にもなりました。
娼館に三度行きましたが、結局碧蜜病に罹った客は来ませんでした。理由はわかりません。診療所
に来た様子もありません。この病気はうつりやすいと院長先生も言っていたのです。誰にも言えず、
どこかでのたれ死んだのかもしれません。
私だっていつ死ぬかわかりません。碧蜜病の進行は個人差が大きく、腐り始めてから死ぬまでの期
間は全く予想できないのです。私は、比較的進行が遅い方でした。でも、いつまで生きていられるか
はわかりません。
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私を買った男を捜すことにしました。あんな場所に来るのは、ろくな男ではありません。家を持た
ない男がねぐらにしている場所は村にひとつしかありません。この広場のすぐ近くの丘です。
私は休みの日に、丘に出かけ、行く当てもなくぼうっとしている男たちをひとりずつ確認しました。
汚い場末の丘です。めったに女が来ないのでしょう。男たちもまた私をじろじろと見ていました。顔
を隠しておけばよかったと思いましたが、もう手遅れでした。
男たちの中から、ひとりがふらふらと私に近寄ってきました。私を買った男でした。もう頭もちゃ
んと働かないのでしょう。おそらく私の匂いで思い出したのに違いありません。
私が森の方に歩き出すと、男もついてきました。しめしめ、このまま森に連れて行って、食べよう
と思いました。でも、気がつくと着いてきているのは、その男だけではありません。その場にいた他
の男たちまで一緒に着いてきています。十数人いたと思います。
私は、どうしようか迷いましたが、もう我慢できません。あの肉を食べなければ死んでしまうと思
いました。もしかすると、着いてきているたくさんの男たちに犯されて死んでしまうかもしれません
が、それでも肉を食べたいという欲望には勝てなかったのです、
森の中に入ると、私はすぐに男を裸にし、腐っている腕にむしゃぶりつきました。腕に噛みつかれ
た男は、うめき声をあげながら、私を押し倒し、強引に中に入ってきました。後からついてきた他の
男たちは、おおと声を上げて喜びました。
私は無我夢中で男の腕を食らいました。気がつくと、もう腐った部分はなくなっており、生身の肉
をかじっていました。
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私が男の腕を放すと、男も私から離れました。どうやら、すでに男は私の中に射精していたらしい
のです。
他の男たちが私の身体に手を伸ばしてきました。私は我に返ると、隠し持ってきたナイフで手当た
り次第に周りの男たちを刺しました。碧蜜病でない連中に身体を自由にされたくなんかなかったので
す。もうたっぷり甘い肉は食べました。
その頃から私はおかしくなっていました。毎日、腐肉を食べたくて死にそうでした。次の休みには、
どうやって腐肉を探そう……そのことばかり考えていました。
診療所の友達の話から、恋人というものを作ればいいのだと悟りました。酒場で知り合って、性交
し、毎週会う。私にとっては理想的な関係。それは世間の恋人でした。
休みの日、私は夕方から酒場に行き、最初に声をかけてきた男について行きました。顔も名前も覚
えていません。だって、そんなことはどうでもいいことです。私を犯し、感染してくれれば誰でもい
いんです。
気がつくと私は見知らぬ男の部屋にいました。隣には裸の男がいびきをかいています。幸か不幸か、
ちゃんと自分の家のある男のようでした。手を自分の股間に当てると、ぬるぬるしていました。男の
精液です。来週の休みには、またここに来よう、きっと感染しているに違いないと思いました。
見知らぬ男と性交したことよりも、新しい腐肉を確保できたことを考える自分はおかしいと思いま
した。でも、すぐにそれを否定しました。私はこの村で一番貧しい家に生まれた人間なのです。まと
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もなはずがありません。
幼い頃にたったひとりの友達を殺しています。普通の生活を送れるはずがない。そんな気持ちにな
りました。外を見ると、すっかり日が暮れています。帰らなければなりません。今の私を受け入れて
くれるのは診療所だけです。お世話になっているあの人たちには迷惑をかけたくありません。私は眠
っている男を残し、診療所に帰りました。
それから私はその男の元に毎週通いました。男に犯されながら、男の腐肉を食らうのです。業病を
移した私を男は憎みました。性交しながら私を殴り、首を絞め、呪いの言葉を何度も投げつけてきま
した。でも私は平気でした。あの甘い香りに包まれ、腐肉を口にすると他のことなどどうでもよくな
ってしまうのです。
三度目に男の家を訪ねた時、すでに虫の息でした。考えてみれば無理もありません。男の指は私が
食べてしまっていましたし、左腕も肘までしかありません。これでは自分で食事を摂ることもできな
いでしょう。しかし罪悪感は全くありませんでした。うつろな目で私を見つめ、なにも言わない男を
ながめながら、右腕を食べました。すでに全身が腐り出していた男は、本当にいい匂いでした。右手
を食べ終えた私はたまらなくなり、裸になって男にしがみつきました。私の身体に男の腐った肉がべ
たべたとつきます。おぞましく甘美な匂いが私の身体にうつります。
私は男の匂いに狂い、抱きしめ、噛みつき、手を内臓に差しこみ、腐りかけの臓物を自分の身体に
なすりつけて、快感にもだえました。この世にこんな気持ちのいいことがあるのだろうかと思うほど
でした。全身どろどろになった私は、人間のていをなしていない男の遺骸を放置し、自分の身体を清
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めると部屋を出ました。
頭巾をかぶり、顔を見られないようにして、人気のない道を選んで診療所に帰りました。帰り道の
途中で、幼い子供が私を見て笑いました。どこかで見たことのある子供です。でも、思い出せません。
夜、診療所のベッドに入った時に思い出しました。あれは私が殺した子です。亡霊となって出てき
たのでしょう。申し訳ないと思いました。私が唯一後悔している人殺しです。その日から、あの子の
声がまた聞こえるようになりました。
それからも私は、診療所で「天使」と呼ばれるほどに献身的に働き、休みの日には男を見つけて碧
蜜病を移して食らっていました。幸福でした。こんなに満たされ、幸福な日々はないと思いました。
碧蜜病になるような男はクズです。酒場で知り合った女を家に連れ込んで犯すようなろくでなしで
す。そんな男は死んでもいいのです。
私が碧蜜病の患者を食べるようになってから、三年以上経ちました。いつか全て露見してしまうの
だろうと思っていました。村には碧蜜病の患者がどんどん増えています。私が感染させた男たちは、
身体が動くうちは私以外とも性交しているのです。病気が広がるに決まっています。それは私ののぞ
むことでもあります。村の中に、碧蜜病の甘い香りが漂うなんて素敵です。
ある日、私はダーレムに呼ばれました。とうとうばれてしまったのかとびくびくしながらダーレム
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の元に行きました。ダーレムは、診療所の入り口のところに立って私を待っていました。
私を見ると、クイエル様の指示で私と結婚することになった、と言うのです。私は驚いて訊き返し
てしまいました。結婚なんて生まれてから一度も考えたことがありません。幼い頃から人を殺し、最
低の男と性交し、肉を食らってきた私が誰かの妻になるなんてあるわけがない。そう思っていました。
それに私は碧蜜病なのです。性交すればうつってしまうでしょう。
でも、診療所で働く私だけを見ていれば、働き者の女性と勘違いするのも仕方がないのかもしれま
せん。クイエル様の指示では断るわけにはいきません。かといって、裸の姿を見られれば碧蜜病に罹
っていることはすぐにわかります。性交すれば移ります。
困惑と不安が顔に出たのでしょう。ダーレムは、少し悲しそうな表情になりました。
「そんなにいやか。年の差もあるし、お前がいやがるのもよくわかる。私からクイエル様に話してみ
る」
ダーレムは、低い声でそう言うと診療所の中に戻りました。その時、私はもうここにはいられない
と思ったのです。ここの人たちには迷惑をかけられない。そう思いました。
その夜、私は行く当てもないまま、診療所を出ました。暗い夜道を当てもなく歩く私の傍らに、あ
の子が現れました。その夜は笑いませんでした。
「どうして私を殺したの?」
その子は可愛い声で尋ねてきました。私には答えられません。その子の持っている全てが妬ましか
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った。哀れみをかける態度が憎かった。理由はわかっています。でも私はなにも言いませんでした。
幽霊を相手に話をしても仕方がありません。
「だから殺したの?」
その子は私の心の声を聞いたかのように続けて質問してきました。私が答えないでいると、やがて
あきらめたのかその子は消えてしまいました。
私はその時、つきあっていた……食べていた男の部屋に行きました。毎日、男と性交し、その肉を
食らいました。そして、その男が死ぬと、次の男を探して性交し、肉を食らう。そんなことを繰り返
しました。
終わりのない淫夢でした。毎日、石を投げつけられ、男に犯され、男を食いました。どこまで本当
のことなのかわからなくなっていました。今でもそうです。これは夢なのではないかという気すらし
ます。
ある日、私は自分の家を見に行きました。二度と行きたくないと思っていたのですが、死ぬ前にも
う一度見ておきたいと思ったのです。弟がどうなったのかも気になっていました。
ひと目につかないように日が暮れてから出かけました。
「新しい男を探しに行くのか?」
その時、一緒にいた男が皮肉めいた声で言いました。
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「違います。帰ってきます」
私はそう答えると、そのまま外に出ました。街灯もない夜道を歩いていると、あの子が現れました。
「どこへ行くの?」
私にまとわりついて尋ねます。私は見ないようにして、黙って歩き続けました。やがて家に着きま
した。子供の頃も汚いと思っていましたが、今さらながらひどいあばら屋です。いえ、これはいくら
なんでもひどすぎます。屋根はぼろぼろだし、扉も壊れて倒れています。近づくと、完全に廃屋にな
っていることがわかりました。壁もぼろぼろで、外から中が丸見えです。
私はおそるおそる、家の中をのぞいてみました。もちろん、誰もいません。暗くてよく見えません
が、いろんなものが散らばっているようでした。そして柱になにかがついていました。目をこらして
見ると、それは骨でした。服らしきぼろ布がついた人間の骨が柱にくくりつけてあったのです。ふた
つありました。父と母だ、と私は直感的に思いました。
なんのために誰が、父と母を殺したのかわかりません。でも、ふたりは柱に縛り付けられて、飢え
て死んだのでしょう。いい気味だ、と思いました。ふたりが苦しみの中で死んだことが、わかっただ
けでも来た意味がある。
私は、家の反対側に周り、私が暮らしていた土間を見ました。そこはもう完全に崩れていました。
弟の小屋があったあたりに目を転じると、草むらに血まみれの裸の子供が倒れているのが見えまし
た。闇の中で、そこだけぼうっと明るく光っています。はっとしましたが、すぐにあの子だとわかり
ました。私が殺した時のままの姿です。
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あの子は、空気が抜けるような小さな声を漏らすと姿を消しました。
あの子が私を死に誘っているのだ、と思いながらあらためて弟の小屋の方を見ると、腐った板が重
なって倒れていました。壊れた小屋の残骸です。
その時、弟の声が聞こえました。
「おはよう」
確かにそう言ったのです。私はあわてて、小屋の残骸の場所まで走って行き、倒れている板をどか
しました。生きてそこにいるはずはないことはわかっていました。でも、確かに声が聞こえたのです。
板を全部のけると、膝を抱えて横になった姿の骨が出てきました。それを見た瞬間、私はその場に
つっぷし、弟の骨を抱きしめて泣きました。
全てが間違いだったのです。私が生まれてきたことも、弟が生まれてきたことも、そして父や母の
ような人間が生まれてきたことも。愚かで貧しい人間は、生まれるべきではないのだ。生きている間、
誰にも愛されず、飢えと病に苦しんで死んでいく。弟のように、抗うこともできずに死ぬ者もいれば、
父や母や私のように他の人間に害悪を撒き散らして死ぬものもいる。
貧乏人など生まれた時に殺すべきだ。愚かな者には生きている価値はない。それでも必死に生きて
きた弟があわれでたまりませんでした。うしろめたく、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。弟だっ
て病人です。もしかしたら、診療所に連れて行くこともできたかもしれない。そんなことが後から浮
かんで来ました。
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私は朝まで泣き明かすと、泥だらけのまま警察に行き、全てを話しました。
「だから私はここいます。こうしてみなさんに全てをお話しし、殺されるためにきました」
ミーティアが艶然と笑みを浮かべてそう言うと、石が飛んできた。石はミーティアの額に当たった。
当たった箇所が緑色に変わり、瞬く間に美しいミーティアの身体が全て緑色に変色した。
「ああ……」
ミーティアがため息のようなものを漏らすと、身体がぐずぐずに崩れだした。頭が溶け、頭髪がず
るりと演台に落ちた。続いて全身の肉が泥のようにぼたぼたと落ち始める。顔も崩れ、眼球が眼窩か
らこぼれるように落ちた。あちこちに白い骨が見える。甘く淫靡な香りが会場いっぱいに広がる。
骨になったミーティアは、乾いた音を立てて演台に散らばった。
聴衆はなすすべもなく見守っていたが、しきたりにならい。石を投げ始めた。石は、演台にできた
緑色の泥に落ち、骨をくだいた。
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