4面 - けいはん医療生活協同組合

短 歌 ペンケース
みい支部 木澤佐知子
む
そ
じ
さつき支部 中嶋 順子
せんだん
石垣を伝いて登る我が腰を押してくれし人の竹田城址
みい支部 三輪 順子
樗なる言葉を知らず六十路すぎ短歌詠みはじめて栴檀と知る
おうち
黙ってはおれぬ年金われもまた年金訴訟の原告となる
さつき支部 木下 一
古里の水にあかねどぬばたまの闇にゆらりと旅立つ蛍
門真中央支部 兵頭 克己
シャツを脱ぎ敵機の襲撃に身を伏せて兄失神せし峠の畑
小物入れ
みい支部
田中喜久代
門真東支部 佐々木芳春
わが町探訪
⑦
さつき支部 酒井 則行
河内の運送 水路の多かった河内の、江戸から明治にかけての
運送交通はどうだったでしょうか。
人の移動は足か駕篭。一日男十里女八里といわれ
る 足 腰。 大 坂 へ は 2 時 間 ほ ど で 歩 い た こ と で し ょ
う。しかし米俵など2~3俵などとなると馬が使わ
れ、さらに多く重い物となると「剣先船」が使われ
ま し た。 運 搬 専 用 で 船 首 が、 剣 の 先 の よ う に 尖 っ
た、棹(さお)
で進む船。運上金を払ってお上から許
可を得た船でした。大和川付け替後、剣先船は寝屋
川堀溝村には三艘、門真上島頭村に一艘許されてい
こえぶね
ました。河内で特徴あるのは、淀川の三十石船、野
崎参りの
「屋形船」や下屎(しもくそ)を運ぶ「肥舟」が
ありました。肥舟は、寝屋川・古川両筋から夜中に
出て、夜明けに大阪で決められた家々の下屎を汲み
取って帰ってきました。下屎は安上がりの肥料とし
てよく使われました。田畑に通うのに
「さんまいだ」
という小さな舟が使われることもありました。
明治の頃、寝屋川上流の木田村から天満の八軒屋
まで5時間、帰りは倍かかったということです。古
(明治 年)
開通す
電車が1910年
ことですが、京阪
ら出ていたという
の古川の橋付近か
川筋でも船は重要な交通手段で人の乗る早舟が門真
「東海道五拾三次」見附(部分)より
ということです。
のるようになった
いていって馬車に
になり守口まで歩
ら馬車がでるよう
へ、その後守口か
辺りに常駐し大阪
なく人力車が橋の
るまで、舟だけで
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組合員の
作品
壁掛け
みい支部
西井 好子
(4)
№254
けいはん医療生協ニュース
2016年8月1日
絵手紙
なでしこ支部 小泉 和子