WIJC160717受難のキリスト

1
2016 年7月17日 聖書:マタイ16章16-26節 タイトル:受難のキリスト
序 論
●先週は、「人生で最も大切な質問」というタイトルで、「人々は私を誰だと言っているか?」、更に
は、弟子たちに向かって「あなたがたは私を誰と言うか?」と言うイエス様の質問を考えた。
●具体的には、特に、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と言う、イエス様の質問への応答と
しての、ペテロのイエス様に対する信仰告白を学んだ。
●第一は、イエス様は、今も生きておられるお方である。即ち、昔生きていたが、今は死んでしまった
お方ではなく、今も生きていて私たちのそばにおられるお方であること
●第二は、イエス様は、「神の子」「神」であられる。
1.神、仏のような偉大な人間、聖人というのではない。即ち、人間ではないのである。
2.人間だったが、偉大なので神になったというのでもない。むしろ、イエス様は、神が人となった
お方である。
3.神でなければ人を救うことはできない。人は自分さえ救うことはできない。ましてや他人を救う
ことはできない。マタイ19章26節。神だからあなたを救うことができる。
●第三は、イエス様は、キリストである。
1.キリストは、ヘブル語ではメシヤ。油注がれた者と言う意味である。
2.イスラエル人の間では「王と預言者と祭司」をその職に任じるときに頭に「油を注いだ」。彼ら
は、油を注がれた者であり、人々を助けるために神様から選ばれた者であった。即ち、王、預言
者、祭司は、救い主、メシヤ、キリストの姿を現していた。
3.しかし、人間の王、預言者、祭司は、不完全である。それでは間に合わない。それゆえ、私たち
は、人間以上の王、祭司、預言者が必要である。即ち、究極のメシヤ、キリスト、油注がれたお
方、即ち、神なるメシヤ、キリストが必要なのである。
4.ペテロの信仰告白は、まさに、「イエス様、あなたこそ、この究極のキリストです」であった。
●イエス様は、このペテロの信仰告白を大変喜ばれた。確かに、それは完全な信仰告白であり、「イエ
ス様とは誰か」を的確に告げていた。
●しかし、ここで重要なことがある。それは、このペテロの信仰告白の最後の部分「あなたはキリスト
です」の「キリスト像」の理解についてである。
●既に述べたように、それは、油注がれた神的存在者として、私たちの、永遠の王、永遠の祭司、永遠
の預言者、救い主であった。そのように聖書にも約束され、人々もそのようなキリストを待っていた。
●しかし、実は、聖書が約束していた「キリスト像」は、それがすべてではなかった。聖書は、「キリ
スト」のもう一つ大切な「姿」「イメージ」「面」を伝えていた。それは「受難のキリスト」である。
●今日のメッセージは、このことから始めたい。
本 論
Ⅰ.イエス様は誰か? 「受難のキリスト」である。言い換えると、「十字架に付けられたキリスト」である。
A,「受難のキリスト」像の理解と認識が、私たちにとって如何に重要かをまず考えたい。
1.このイエス様の十字架、イエス様の受難の重要性は、何よりも、教会が、歴史において実践
的にデモンストレートしてきたことであり、また社会がキリスト教に感じて来たことである。
(1)即ち、教会は、実際、その会堂や建物を建てるに当たり、その内外(礼拝堂の正面に、屋
根や塔のてっぺん等)に必ずと言っても良いほど、十字架を立てて来た。それは、十字架
に付けられたイエス様こそ、自分たちの信仰の中心と信じ、告白して来たからである。
(2)世の中の人も、それを感じていた。だから、十字架を見ると「あれはキリスト教の教会
だ」と思う。今でこそ、単なるアクセサリーになってしまい、誰でもが十字架のペンダ
ントをするが、昔は十字架を胸にかけていると「あの人、クリスチャンかな」と思った。
2.しかし、もっと大事なことは、聖書が、その重要性を強調していることである。
(1)Ⅰコリント 1 章 18 節 「十字架の言葉は、・・・救いを受ける私たちには神の力です」
(2)Ⅰコリント 2 章2節「イエス・キリスト、即ち、十字架に付けられた方のほかは、何も
知らないことに決心したからです」
2
(3) ガラテヤ 6 章 14 節)「しかし、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとす
るものが決してあってはなりません」
(4)「キリストの受難」については、新約聖書に始まったことではなかった。旧約聖書に既
に記され、約束、預言されていた。
●詩篇 22 篇1、8、14、18
●イザヤ 53 章 (参考:使徒 8 章 30-35 節)
3.なぜ「受難のキリスト」が大切なのか? その理由を見つけるために上述の聖書の言葉を含
め、聖書の教えを簡略に答えを纏めてみたい。その答えは「福音とは何か?」の復習である。
(1)私たちの必要とする「勝利・祝福・救い」は、すべて神様の御手の中にある。
(2)私たちの不幸は、すべて、この神様と私たちの間が、「罪」によって分断されているこ
とによる。
(3)私たちが、このような状態から救われて、神様からの勝利と祝福を再び取り戻すために
は、神様と私たち罪人との間を分断している「罪」が処分されなければならない。
(4)罪の処分のためには、誰か罪のないお方が、私たち全人類の罪を、私たちの身代わりに
背負って罪人として罰せられ、呪われ、苦しまなければならなかった。
(5)聖書は、それこそが、「キリストの受難」であり、イエス様が十字架で受けられた苦難
であったと告げる。
(6)即ち、このキリストの受難なくして、罪の処分、罪の赦しはなく、勝利も祝福もない。
(7)「受難のキリスト像」なくして、「勝利のキリスト像」はない。言い換えるなら、「十
字架の受難と死」なくして、「復活の勝利」もない。
B.理解されていない「受難のキリスト」
1.「受難のキリスト像」は、このように私たちの信仰の基礎、中心、かつ重要なことである。
2.しかし、現実には、その「受難のキリスト」のイメージは、イエス様の時代、弟子たちを含
めて、当時のイスラエルの人々の多くに、全くと言ってよいほど理解されておらず、まして
や強調されることはなかった。
3.むしろ、「受難のキリスト像」ではなく、「勝利のキリスト像」こそが、ポピュラーなイメ
ージとして、当時の人々に求められ、受け入れられ、持てはやされていた。
4.イエス様の弟子たちさえもそうであり、ここに記されているペテロもその一人であった。
5.イエス様は、まず、この弟子たちに、「受難のキリスト」について教えなければならなかっ
た。これなくして、「福音」はあり得なかったからである。
6.その始まりが、イエス様とペテロの、この章(マタイ 16 章)の後半部分の会話である。
Ⅱ.イエス様、弟子たちに、「受難のキリスト像」について教え始められる。
A,イエス様の「受難のキリスト」としての宣言:「・・・・」(マタイ16章21節)。
1.「そのときから」とある。即ち、イエス様は、「そのときまで」は、「受難のキリスト」に
ついては語られなかったのである。「その時から」初めて語り始めたのである。
(1)イエス様は、この時まで、即ち、ペテロが「あなたは、生ける神の子、キリストです』
と言う信仰告白ができるようになる時までは、「受難のキリスト」については弟子たち
に語られなかった。
(2)なぜか? まだ彼らの準備ができていなかったからである。
(3)イエス様は、たとい、それが「真理」であり、語られなければならないメッセージであ
ったとしても、聞くものの心の状態がまだ準備できていなければ、準備ができるまで、
忍耐深く「待ってくださる」お方である。
(4)準備ができていない人を、潰すようなことはなさらない。
(5)ここに隠されている、神様の忍耐深い愛、知恵に満ちた、私たちに対するお取り扱いの
素晴らしさを見る。
2.しかし、イエス様は、ペテロの信仰告白を聞いたとき、「ペテロの準備ができた」と信じた。
それゆえに、その時から、21 節にあるように、イエス様は、受難のキリストについて、率
直に語り始められたのである。
3
3.イエス様を信じたら、良いことがある。それを期待して、イエス様に祈り、それについてイ
エス様と会話をする。それも素晴らしい。
4.しかし、その反対に、イエス様は、そのご計画の中に、いわゆる「重たい」「ネガティブ」
なことも持っておられる。この「受難」や「裁き」の問題も、それらの一つである。必要な
ことだが、つらい、重いことである。
5.イエス様は、良いことだけでなく、そのような重荷を、私たちに打ち明け、分かち合い、神
の友として、共に担ってくれる人を求めておられる。
6.創世記 18 章 17 節に、ソドム・ゴモラの町を裁くと言うご計画の執行直前、重い心を持っ
たイエス様が、こう仰った:主はこう考えられた。「私がしようとしていることを、アブラ
ハムに隠しておくべきだろうか。」と。そう言って、イエス様は、ソドム・ゴモラの裁きの
計画をアブラハムに打ち明け、彼を祈りへと導いた。それゆえ、アブラハムは、「神の友」
と呼ばれたのである。
7.わたしたちも、ただ良いことをしてもらうことだけを神様に期待するクリスチャンから成長
し、神様の持っておられる「重荷」を分かち合って頂き、共に担う「神の友」としてのクリ
スチャンとなりたい。
B.「受難のキリスト」を受け入れることのチャレンジ
1.しかし、その道は、決して楽ではない。それが:
(1)せっかくイエス様にほめられ、信頼され始めたペテロであったが、あっという間に失敗
して、イエス様から、「さがれ、サタンよ。あなたは私の邪魔をする者だ。・・・」(マ
タイ 16 章 23 節)と叱られていることからも、
(2)その直後に、イエス様が、同章 24-26 節で、「誰でも私について来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、私について来なさい」と言っておられることからも
分かる。
2.ある意味で、イエス様は、ここで、「十字架の道」は、イエス様だけでなく、その十字架に
よって救われ、神の子とされた者たちも、各々「十字架」の道を通らねばならないことを語
っておられるのである。
3.そのような生涯を歩もうとする私たちに、チャレンジ/誘惑・試練がある。
(1)第一のチャレンジ:「人情」を「神様の御心」よりも優先することである。
●ペテロは、この点で失敗したとイエス様は指摘された。
●イエス様のことば「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)。
●ペテロは純粋にイエス様のことを思って、「そんなことが貴方のような立派な方に起
こってはなりません。」と言ったのである。
●この点の難しさは、人情、夫婦愛、親子の愛、兄弟愛は、良いもの、美しいもの、神
様から頂いた大切なものという意識がそこにあるからである。
●しかし、その点でイエス様は、私たちを試されるのである。私たちは、単に悪いもの
を捨てる、捧げるのではない。良いものを神様にささげるのである。
●ある人は言う。家族は神様がくださったもの、それを捧げよ何て神様が言うはずはな
いと。
●アブラハムは、イサクをいけにえとして捧げるように言われた。父なる神様は、独り
子イエス様を私たちのために死に渡された。
●私たちもまた、人情をいつでも神様の前に捧げて歩むものでありたい。
(2)第二は、価値観の変換におけるチャレンジである。
●マタイ 16 章 25-26 節
●リック・ウォーレン(サドルバック教会)か、ロン・ソロモン(マクリーン聖書教会)が、
その説教の中で言った。「クリスチャンになったことの一番大きな変化は、価値観の
変化である」と。
●26節には「全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょ
う」とあります。これがイエス様の価値観である。
4
●ここで言う「まことのいのち」とは何か? 「まことのいのちでない命」の存在を前
提としている。それは、肉体のいのちである。まことのいのちとは永遠の命である。
●この世の価値観は、「この世のいのち」を一番大切にする。それは、この肉体のいの
ちであり、この世で手に入れることのできる物、金、地位、名誉、豊かな生活、等々
●しかし、イエス様は、これは間違いであると言う。むしろ、もっと大切な「まことの
いのち」を一番大切にするべきであると言う。
●星野富弘の「命より大切なもの」:「命がいちばんだと思っていたころ生きるのが苦
しかった。いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」。
●ここで大切なことは、マタイ 6 章 24 節でも「神と富とに共に仕えることはできな
い」とイエス様が言われているように、[この世のいのち]と[真のいのち=永遠の命=
霊的な命]は、しばしば両方を手に入れることができない。一方を重んじ、他方を軽ん
じることになるからである。
●私たちは、この世のいのち(生活、人間的な愛、物、地位、名誉、楽しみ、快楽)を得
るために、まことのいのち、霊的ないのちを犠牲にしたり、後回しにしてはならない。
●むしろ、その逆である。1956 年、エクアドルで惨殺された 5 人の宣教師の一人、ジ
ム・エリオットはこう言った。 "He is no fool who gives what he cannot keep,
to gain what he cannot lose."
結 論
●私たちの罪のために、「受難のキリスト」として十字架での苦難・苦渋を受けて下さったイエス様の
ご愛をもう一度、否、日ごとに覚え、感謝し、それを力として日々の生活を歩みたい。
●イエス様は、私たちの罪のために十字架に掛かって下さいましたが、そのイエス様が、「誰でも、私
について来たいとおもうなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、・・・」とあるように、私たち
も、また、それぞれ自分を捨てる、自分の負うべき十字架は何かを考えながら、それを実行したい。
●そして、イエス様の友、協力者となって共に十字架の道を歩みたい。