YMN000905

九 % 期 における大分 濱 の市 芝居にっ い・
て
相田
八四
された多くの郷土資料を手に取ったが、その中で特に興味を抱
好色一代 男 ﹂ 巻三に
の盛んなところであることを知った。西鶴の コ
が、その外に歌舞伎 開係 のものがあって、この土地が古くから 藝能
に行った。吉夢 祠肚や 古表祀祀の有名な人形、吉富 町吹 世乞 濱 の 人
またろ
は
杉船渡御、北原の一人遣い人形と、人形関係の多くのものを見た
昨年の八月初句に日本演劇豊曾の主催で大分 懸 中津の 人形を見 寧
とは言 うまでもない。内容は天和以降より明治初期の廃藩 置醗
ということである。
大分 賭 教育 書附属 輻澤紀 食国書館に寄贈せられて、
の倉庫に移され、明治 セ年 どみ同祀祀より大分国書館の 前身で
ろであったが、明治初年廃蕃置脇の時に藩主の祖先を祭る極楽
群 であった。同館の説明によると、府内藩主大治民の 保存する
のは、豊後図︵大分賭︶府内藩の記録を集めた﹁府内藩 記録﹂
描冥 されている中津郊外の旅芝居は、こうした雰圓気 においてこそ
績 き、 各冊 どとに書名があるが、数冊を合綴した﹁部 ﹂ で数,ん
ら 、この土地の濱の市 へ蛮人達を招いて芝居興行した記事を探
この大部な記録の中から、元禄時代に京都や大阪や遠くは江
だしい分量である。
日記聞 係 四二三部、経済関係三八五部、雑の部セ 九部 というお
博来経過の明瞭な、信用のおける資料であ
現 在 にいた
生きてくる感じがした。
その帰途に大分へ廻った。ここは戦災に遭った新興都 市 だから、
由緒ある資料が昔のままに保存されていようとは考えられなかつた
戦後に収集
が、旅行する時のいつもの習慣で、脇立国書館を訪れ てこの地方の
文献を見せてもらつた。親切な館員の万々のど案内で、
とができて、興味をそそられた。しかし、館を訪れた時の気軽な心
を提出した案件の記録かと思われる。
同地の濱の市の祭祀に営 って藩の許可した芝居記録が若干見出され
以降元禄十六年までの数冊だけは目を通すことができた。その中に
なかつたが、再度大分へ行く機曾に恵まれて、天和巳年、元禄三年
二被山懐
部 な土地へ出向くとなると、﹁狂言口蓋旅芝居京都は自由
阪も京都に劣らず頻繁に旅巡業に出向いたが、そこを接貼として漫
することが多かつた。名古屋、
博統 ある京都が優位を占め、
伊勢、宮島などの主要な土地へは大
大阪 はこれに追随して二番煎じを上演
元禄初年以前の中央劇壇は、歌舞伎狂言でもあやつり浄るりでも
るので、元禄期の旅芝居の事情を考えるための資料として整理して
大坂ハ %不破 仰 伺候﹂というよう な事情であったと思われる。それ
構えではざ つと目を通すのが精一ぱいだつたし、また時間の徐補も
みようと思う。
が富 時の中央劇壇における賃借であった。コ好色一代男L巻の三に
藤村一角が中津郊外で興行している旅芝居の描鳥 がある。一角は藤
が京都で目をかけた役者であるから、この一座は京都の旅廻りと考
対手左衛門こと 幅岡禰 五四郎の 初名であり、㍾千万の庄セは世之介
大坂ハ % 下破 御付 匹由
同日狂言議旅芝居京都 ハ自由ニ級 出侯
のような記事がある。
元禄三年 セ月三日の條
中柳町宗助六月 廿 八日宮嶋出船昨日下実演
講中芝居
六五
-@2市日
全書だつたに違いない。四月に願い出て セ月にはこれを招いた、次
こうした情勢の下で濱の市の芝居に大阪者を招くことは、新しい
かつたことが推測される。
もしれないが、これによって 中津や大分地方の旅廻りは京都者が多
えてよいだろう。元禄三年よりは少々さかのぼって寛文延貿の話 か
相談仕度中書付 差 出一ムン 食
御内意 被 仰山懐
大 阪から招い
た例はは かつたので、この度大阪万と 新規契約をする ために許可 願
際に京都から招いて自由に出演するのを許可したが、
ると、元禄三年四月までは狂言蓋しすなわち歌舞伎の旅芝居をする
あるが、濱の市の芝居と開係したことらしい。人肥 の意味をまとめ
右の記録は虫食いや解詣不十分なために意味の通らな いところが
届 大坂 伴兵衛 万へ 中道 候様
波-百
@
町奉行夫中口歌舞妓芝居之儀 太田安産エ間 万へ 車道下 二俣口承
一柳田 候
が屋市郎左ェ 門万方中越宮嶋 へ参 居中 候竹中柳町め 本分枝登
元禄三年四月九日の條
-一
ロ大操再 太夫
両太夫
加 大夫琉
太夫
太夫
脱
出羽 琉
蛛舞井 放下
罠つ
脇
太夫
人数
内記事
佳織
竹本織部
同
セ郎 太夫
小林平太夫
岡野
三拾セ 太
Ⅹ
ノノ
Ⅰ
メ五芝居書付美田手嶋善大夫 万へ 道上 ル
右の記事は、 中 柳町の宗助が濱の市の芝居に上演させ るために 安
相営 大がかりで あったことが
藝の宮島で契約した時の、興行許可願の記録であるが、 五芝居の人
敦は ムロ
許 して百人を越えるのだから、
宮島は古くから市が立つて、京都や大阪の芝居が多く出演した。
古くから西国 筋
諸 國の芝居 が集まるのは
佑太義太夫が竹屋正兵衛と同道したことは有名で、
の 最も重要な場として注目されていたが、
五年刊︶にほ人
には六月十五
六月であった。その期間は、﹁諸国色里案内﹂︵貞享
月セ日 より セ月 まで、﹁諸国年中行事﹂︵享保二年刊︶
八月十四日よ
りセ月セ日までと、まちまちであるが、宗助が宮島を出額した六月
日 より二十日まで、﹁傾城町辞訣﹂︵享保二年刊︶には
み
のや三勝
山勘
同
二十八日には市が終ったか、あるいは終りに近いころだ
と 思われる。
大坂ハ %不
被仰付帳﹂との不文律の愛更を宗助が願出たものと思,
っ。かくして
居を迎えるために﹁狂言議旅芝居京都は自由に被出候
でいるのを見ると、いずれも大阪者の匂いがする。これらの大阪芝
羽縁 一派の浄るり、美濃尾三勝の女舞や布袋大からくりなどが並ん
本織部という名は竹本義太夫浄るりの一派、出羽流は大阪の伊藤山
連れてきたのであるが、この中には大阪者が湿 っていると思う。竹
かくして集まった諸芝居の中から宗助が五芝居を物色して濱の市 へ
禰
ゆき へ
尾上作
同
琴之助
四拾 五人
龍馬
気捨罠 人
大力 ノ女色々ロロ口
人数
人数
女太夫
脇
女太夫
口替り布袋大からくり井女舞彩色々
竹田?-
中 芝居
小芝居
井ヮじ
へんふく口輪 蛛舞
居のみを見て
大阪芝居を迎えることができたが、ム﹁まで京都系の芝
元禄十四年セ月九日の條
つて勤めた。︵ セ十 頁の原文参照。︶
太夫の代役
大坂座本村山
-ママ-
三郎
樺 左衛門
嵐萬
観明
新太夫
大坂座本大和屋大兵衛
太夫
-ママ-
太夫
力太夫
文 太夫
大坂盛太ロ口中兵衛
︵ママ
-
上十
人
@
-双
マ中
マ平
同座本
柏木太夫
新 舞金太夫
ともあれ、 セ年も十四年も合計百人以上の藝人を招い たから、 多
新仕形舞
座本の代役
難波観明太夫
火敷 廿 二人
︵
女 ︶若太夫
八月八日の條によれば、右の太夫座木は来演せずに 左 の 代役が 替
人数 廿 五人
仕形舞芝居子夫狂言 丼踊
大数 拾 六人
中芝居竹田南京からくり
人数三治哉人
大芝居狂言議人教 七拾壺人
人数三治三人
大操
それ以外を知らなかつた観客層には新しい藝が好評だつたのか、こ
の時以後は濱の市の芝居に大阪万を招いた記録が多くなった。この
ことは、大阪芝居が成長して、そうした観客の期待に報いるだけの
實質を備えたことを裏書しているが、この貼は、時好の動きに鋭敏
な興行師が見落とすことはなかつた。事實、大阪劇壇は、中央にお
いても京都に見劣りしなくなりつつあった。
操芝居
六セ
のために七万 へ出発する四五月ごろから芝居の収支決 算 の 済 む九月
れたよ う である。その金額は大肥 九百 匁 ぐらいで、 借月期間は契約
額の経費を必要としたが、契約その他に要する費用は藩から融通さ
居合芝居人数九人太夫江戸藤巻
女舞馬ノ
からくり芝居人数 廿
九人座本大坂富三
曲人数 試十四人座本大坂市郎 左
@
衛
芝居狂言志人数六十三人太夫水大和屋市郎 兵衛
元禄ゼ年 セ月二日の條
て、その規模を示すことにする。
浄るりをはじめ、多種多様にわたっているので、両度0例を抄書し
年の時も百人以上の大規模であった。藝の種類も歌舞伎 やあやつり
ったよう である。元禄三年セ月には百人詮であったが、セ年、十四
濱の市の芝居は毎年撃行きれたと思うが、出演者の敦は相営多か
一
此
六八
右のように米で拝借することはあっても、大龍 九百 匁 ぐらいの 見
であった。
。興行期間は八月 + 三日より九月六日までであったが、最初の
元禄十一年八月に歌舞伎の布袋屋権八と大和屋市郎 兵 衛を招い
次に芝居の収入を参考のために記しておこう。
営
である。
惣 合計
示からく
︵せむし︶や不具者のかた わ 子があ
そ れらの 純攻
三貫 二百 セ拾四匁 六分六便四手
六分四庫太 毛
大和屋
萱貫 五百三治丸刃九分 ゼ厘 毒手
セ貫九拾ゼ匁
南京
萱貫
束子
威百三措大知九分六回人君
毛
自
嵐 刃入庫太
これらは片々たる記録に過ぎないけれども、南京からくり 、物眞
勘進相撲人員二百九措大宛五分六便
かたわ 子
百五 拾七匁 八分入庫
物 まね
布袋屋
七7拾九頁八百三切五分 口 国王 毛
が 元禄十一年九月十三日の記事に出ているが、整理すると次の如
、その外に肥後熊木から招いた勘進相撲があった。
、 物 真似、見世物の拘 痩子
げることがで、さなかつた。この時は雨芝居の外に、南一
、特に二十三日までは降雨のために人気が悪く豫定は どの収入を
間 た
あ
り
り
ぐらいまでであった。その間の利息は一分、米の場合は時債に見合
候
入
く
う率で換算した。
申
談
も
趣旨 坂
此度大
善 へ
ィき
四
十
五
干 出 申
四
度
匁 懸 車
存
九
計 銀
丸
元禄五年四月十九日
ル
ニ
市
甲 声 五
渡
日
性 比
セ
%
星 月
-
垂 百
何 日
共 辞
と
借
相 願
五 差し
百村
少
中柳町惣介拝借米塞願 ::願文通被切付候
市芝居
リ
月 か
ガ ヘ
九
月 @目
造 営
律
ロ口
何
営
居
二
@
セ
兵
時価
の條
街中波
農相
十五石
仰付
煎りん
申
上
四 分 分
談来菖九
十ゼ刀
心得出
宗介
世八日
書付置
竹
二日
候様
二
頗
田
六十
セ
の
條
米 語
無 二
之 参
一但代
町
元禄
町宗
早晩
士
三 車 之 介
六 口
ケ 口
貝
石
恒常月 四月才同九月迫 六ケ周延拝借也
山里
一朱付石膏 斗
平野九郎之倉
匁
万緑
十八
中
若 御 侠
付 目
似、見世物の類まで克明に記しているから、
知るための参考資料になると思う。
常時の旅芝居の實情を
す
Ⅱ
こま
L
て、従来濱の市で出演した京都系とは違った新鮮な藝 が
だことであろう。
付木性 織 や岡野 ゼ郎 太夫らの脇語りがいるが、元禄 ゼ 年
に 移る。
のや三勝を取り上げよう。
旅 廻り専門
ある。元禄八年十二月に西尾半セと 情死した事件で有 名
浄る りでは笠屋三勝になっ て
が、ム﹁まで聞いたことのない太夫である。
ともこの記録で始めて知ったことである。
波観明太夫、十四年には 観明 新太夫という、 観明雄 の 太
@@難@@に
こ
い
以上の記事に出てくる藝人達はすべて宗助が連れて来 た人々であ
るが、その中から注目すべきものを拾って解説してみよう。
最初にあやつり浄るりから始める。
ん つ
れな
初に
舞
み
舞技・ 浄 80 ・歌祭文・小説などで持てはやされたが、
で
加︵
嘉︶太夫流の内記事竹本織部という
名僻は竹本流に移籍して以
後の改名であろう。宇治嘉太夫︵加賀塚︶の〒京わらん べ﹂︵天和一二
年 二月刊︶に﹁ヮキ内記、 ッレ外記﹂と記した本があ るが、この内
記と同一人とすれば、れつきとした加賀塚の直門である。それが京
都の加賀稼から離れて大阪の竹本へ移ったとするならば、そこに何
か事情があったと推測せねばならない。常時は宇治派の浄るりの文
章をほとんどそのまま竹本で語ることは珍しくなかつたから、竹本
織部は加大夫流の語り物をやったかもしれない。あるいは改名直後
が、改姓したところを見ると、新興地の大阪が生んだ竹本の浄るり
なので加 太夫流の内記事とわざわざ断り書きをしたのかもしれない
ロ
ないことは
には彼を引きつける魅力があったと推測することもでも
ない。そんな太夫を宗助が濱の市に招いて出演させたのである。
その鮎では大阪に木櫨を置く出羽流の小林平太夫を招いた意圓も
を呼
の他
女
に
人物
、
ついては 鈴り知られていない。彼女が女舞として西国 筋
歌
た 記事が日新色五巻書目︵元禄十一年刊︶に見えるので、
に
り
某身
の己
に
藝歴
-。 藝
と 照合するために引用してみよう。
か
三勝を供なひ、西海の浪に帆 十分にあげ、島がくれ行 あ
瀬戸、さねきのこん 平 ・宮島の市、おなじみの見物心
人は芝居に足をか ビめ、悦の聲やまぬは太夫木の仕合
けの 妻夜 のくたびれ、 壺人 たのしむ れ やの銭箱、枕は つ
@
むすぶ 内 、盗人にであ ひ、銭箱は勿論著替迄 とられ、 目
六九
ず 、諸色かれこれしろなし宿排 、 ム﹁少し残りたるは 、 明
愈 議するに、 萱 つも将の明 ぬ事なり。 詮万 つき 弔 いる
て 薄
れ
はぢ
録 出
ず の は
め
銀もれてさ は
ら
いら
う
最
四
であ
も
夫 の
知 が 條 そ
人 国
見 様
次
い
る
に
な
上
の
そ
の
述 旅
早急度済すべき
隙
な
手く
形、
、大
身
謡
す
言
が
す
ら
るに
坂
に
上
り
る。
@
ママ︶
大坂中平 文太夫同座本方太夫
面
り二
度
オ
セO
w
吸マ
ハ
嘗清 之 市へ 下り申 筈ロ杏マ
脇
り
二村下り口
山童 HW@
太夫南人
難或
宮島の市で右の盗ケ
難
の
チ
事
つ件
きに
は
遭
の
じ
め
そ
で遇
、した
相極置
申虎が
二君両人先月 難儀相煩申
中儀
れ
以後の三勝は次第に不し
・た
運の
にで
絶あ
っ中て
揚
句
果
に
段々断
文書
状階の
下 ム
﹁ 新て
仕形舞
女若心
太夫中柏木
る
。虚構の多い小説を信の
用
は
い
が
讃
琴す
平る
やわ
宮け
島古で
文太夫
替 な
下り
新鍍
金太、
夫と申
考古岐
雷太夫替
罷下此
0
市を廻って盗難にあったことは事芝實
で
ろ
う
居人数
庸捨あ
罠八着
船す
みや。
宗助芝居小屋 仕被遣度
日 十本
助指出願文通 可被中村佐藤興一兵衛 申渡
文
初代は元禄四年に病死しで、
載 の 仕形
2 車﹂に 記
伜セ 之助が元禄大西年四 月廿セ 日に名
敷丼
ことで事件の決着をつ同
けな
た記
が事
、が
﹁最あ
府
内
記太録
に
様
初に契
約し港
た中平
夫は﹂
﹁京 四
傑芝も
居問
名代
る
。元禄十四年
刻八
濱
に月
の二
市十
の
四
芝
日
居
文
楽
か
ら
出
火屋
した男舞の又太夫を指すのではなかろうか。もつとも又大夫の
化を
はなかろうか。これも一一代目で、通棚
ゼ年
日 に娘れんに柏木の名代を譲った。
金
てある金太夫のことであろう。
な れんと言った。
操
つ
を
さ れる。
實際に活躍していな がら記録に残
八月十三
つた。両人は一札を入れ
た
ど
で
も。
芝て
居、
を損
す害
る賠し償
柏
績
ていの
るから
、二め
代目に
の又太
夫の乙
ことで
あろ
し
、翌年の濱の市詫
に
びも
欣出
をい
演
書る
す
い。
る
て芝
と居
い
う
で
柏木
太夫というのも同書に女舞として記載の大頭柚木 指すので
起
こつたこと班
は
済、
す芝
る居
と出
い
演
う日
で
のの
が習
彼慣
等で
祀
全
元祖は寛文
十一月四日に女舞の名代を許されたが、元禄十一貫年
あったらしい。た
芝
三居
勝興
の行
盗
難
事
件
は
彼中
等に
仲起
間こ
につ
知れわたっていたに違宗
い
な
い
から、そこを利用して
助濱
がの
へ市
誘ったと考えられないこ
う
勝
濱
市
へ
来と
たも
のな
はか
、ろ
太夫は
﹁歌。
舞妓三
事始﹂
の大が
坂浄瑠
璃 の
名代に
舞太夫 として掲げ
没年から逆算
ド
ら
すい
るの
と時
、で
二あ
十っ
歳た。
三勝の外にも、濱の市太
芝達
居
に出演
た
舞
女
夫
の
記
これし
らの舞
太夫仕
につ形
いては
今まや
で全く
知ら舞
れなの
かつた人々であ
る 。こうしたことから考えると、
演
契約したが、八月八日と
にを
は記
次し
のて
如
役
え
た
営多い
ことこ
が想像
さ
れい
るく
ことの
なか者
つた替
芝居八
が柑し
年 の 様 網 濱 知
し
の
て 挿 入
の
セ 人
は
こ
留
元禄四年五月十 セ 日の條
昨日文使大坂吉田 典 八郎子旅芝居之儀早川家主 ェ門与 中興 力ニ
天
﹁日本風中は言に及ばず、朝鮮 國 まで専らはやる籠 抜け﹂︵﹁
集 ﹂貞享ど ら︶という評判を取った龍馬孝之助が、狂 戸から
居 御免 被遣侯様二 と御町奉行方 へ御許語中上候儀ハ存 候 へ共
此者共 及 渇命 旅芝
をする軽業で、木登りや籠 抜けも同類であったし、
御赦免木皮 承候
旅芝居亡者コ一千人程
参曾様子相暑中條虎
藝 ・手品の類であった。龍馬 琴 之助は、﹁松平大和守 日記 L
市司 有 御座 与挨拶芝山 中
放 下も同
まで来ているのは注目に値する。蜘蛛舞とは、蜘蛛のように
ゼ年 五月六日︵病気のため 趺席 ︶同八年二月十三日、天和二
御目十八日佐藤山左ェ間中度
趣 須藤八郎石ェ 門と以状態
﹁府内港記録﹂は藩の記録であって、演劇水位に書留めたもので
五
上演したのであった。
その 封家 にはならなかつたらしく、その後も旅芝居を迎えて頻繁に
たらしい。しかし濱の市の芝居は藩の許可によって興 付 したから、
旅芝居の取締まりをゆるめてもらぅ よ う に歎願して 許 さればかつ
越地
旅芝居二役出御吹口籠舎壮快と申忍 参考二
二十二日の各條や ﹁天和実委集ヒに 見える如く 、 種々の 藝を
俗つ れづれ 二の
︵即心︶も江 戸の 藝
ら大きな籠の中を通り抜ける籠抜けが彼の表 藝 であ っ て、漬
来た時は三十三歳の働き盛りであった。
琴之助と同様に、兵法居合抜の藤巻嘉信
った 。﹁牟藝 古雅志﹂﹁松平大和手日記﹂や﹁
どに江戸の活躍ぶりが記されているが、遠く九州まで出向い
見世物などの旅 藝八や座本
れる。
ところを見ると、日本全國の各地を巡業したことが知ら
他 に歌舞伎・物具似 ・からくり
はない。藩が濱の市の芝居に多少とも駒保 したために書残した記録
れによって中央劇界の勢力が地方にまで反映している事實を讃みと
が見られるが、従来知られなかったものが多い。常時は 三千
日の ﹁御法度書 之 留帳﹂ 宍 大阪市 史 ﹂所収︶によると、
ることができるのは興味深い。元禄初年どろの大阪芝居は京都で好
の中から、演劇に開係 ある断片的な記事を探すのに過ぎないが、そ
@・
@
キ
@@
。
@
居の停止を命じたし、大阪でもそれに従って禁止してⅡ
評 だつた狂言口を再演するという状態であったが、次に
第大阪でも内
ぅ多敦の旅 藝人 がいたらしく、その取締も嚴重 で、 元 禄 一一年
とは府内 藩宮居者にも開心事であったらしく、次の記事 を書
容が充賞 して来、世話歌舞伎を上演して好評を博したり、竹本義太
幕府
いる。
セ一
こ,
っした時好の
夫の浄 るりが京都の宇治加賀 塚 と競 宰したりする有様 となって 、・
漸
く 京都と 封抗 できるだけの 貫力 を蓄えつつあった。
愛遷に 鋭敏なのは興行師である。宗助が元禄三年に大 阪 芝居と契約
して以後、大阪万を組 々招くようになった。元禄と限 ハ里
ム
9レ
に@
乱しン
ハと
時代を下げて調査したら、地方の芝居に反映した中央 の演劇史的な
推移を見ることができるだろうと思う。
研究である。
一は、半田康夫氏の﹁ 塊温子から 役
ここまで書いた時に、本論文と関係のある論文を二篇も請む機曾
を 得て 、 多くの恩恵を受けた。
考へ﹂とい,≦豊前北原芝居に閲するど
ム﹁度の見卑で 拝見した﹁北原村立御前座由緒書﹂の資 料慣値を知る
ことができたし、 コ卸桂扇城
遺聞﹂によってかねがね 一@頑したいと 思
つていた中津市立国書館所蔵の藩の日記や町曾斯 の 惣町 大帳等が引
用 してあって、近世における北原芝居の事情がよく判 つた。 一
﹂府内
は ﹁大分市正 ﹂
藩 記録﹂もちやんと利用してあって、中津の芝居が濱 0市で上演し
た 正徳一一年八月以降の二三の例を拳げておられた。他
上巻の﹁第四十章濱ノ市 ﹂である。大分 噺文化財 委 貴久雑木 儀一
司府内 藩記録﹂をはじめ、信用 のおける資料
で海の市全般にわたってまとめておられるから、教え られる鮎が 多
郎 氏の執筆になるが、
い。特に第四節芝居その他の興行物では本論文で省略した芝居小屋
の規模について 績 れているし、第五節面責状況も有益 である。
七二
﹁府内藩 記録﹂を元禄時代の演劇研究資料に使う にして も、飯塚
元 禄 の世相 を
銭相場、
一郎氏が紹介された﹁ 若鳩座一巻 L のような、まとま つ た ・ものを
時の報土ロの 一部である。
これは昨年度に木豊富局 のど好意で東京や九州へ研究出 張 した
論文を教えてもらつた。厚く御 禧を申します。
松崎仁氏から半田氏の論文を、大分願主回書館から欠 羅 木氏の
九節によっても推測されるだろう。
利用される 償値 があることは﹁大分市史 ﹂第四十 章の 第 ハ・セ
す記事が見えているので参考になることが多い。そう した面から
出風呂屋の許可、情死事件、勧進相撲の契約など、
侍 することはできないが、その半面、演能、躍の許可、
示 渡 朋 友
も
八