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まどろむように
08240039
初めて会った日を覚えている?
大きな瞳を輝かせ、小さなやわらかい
手のひらで、君は僕にふれた。
何度も、何度も、繰り返し。
やあ、久しぶりだね。
そうためつすがめつ見られると、さす
がに少し、気恥ずかしいな。
…あ、今、うわ汚い、って顔したな?
しかたないだろう、僕だってこれでも
君と同じだけの時間をここで過ごして
きたんだ。年も積もれば、汚れだって
つくさ。
そう、僕は君と一緒に、君と同じだけ
の時を、この部屋で生きてきた。
幼い君は子ども用のビスケットが大好
きで、牛乳にひたしたそれでテーブル
の上に芸術作品を作り出すのがもっと
大好きで、だから君の手からはいつも、
甘いミルクの香りがしていた。
この染み、覚えているかなあ。ほら、
君の手のひら、そっくりそのままの形
だろ?
歩けるようになった君はどこにでも僕
を連れて歩いた。
僕は水場が苦手なのに、君ときたら洗
面所の鏡が大のお気に入りで、危うい
体勢で鏡をのぞき込む君を、僕がどん
な決死の覚悟で見守っていたか、君は
知るよしもないだろうね。
君の友達に紹介されるのは、誇らしい
反面、ちょっと寂しいことでもあった。
僕はどんなに頑張ったって、君の友達
にはかなわない。
一緒に歌は唄えないし、鬼ごっこもか
くれんぼも苦手分野だ。ぽつんと部屋
に置き去りにされるのは、仕方のない
ことだけれど、でもやっぱり、ちょっ
と寂しかった。
君が小学校に上がると、僕らが一緒にす
ごす時間はさらに少なくなった。
毎日毎日いろんなことを覚えていく君。
友達とのけんかや悩み、お父さんの都合
で転校しなければならなかったとき。ど
うしようもなく辛い時には、君は決まっ
て僕を引っ張り出した。君の瞳が何度も
大粒の涙をこぼしたのを、僕ははっきり
覚えている。
でも君は、どんなときだって、最後には
いつも笑ってくれたね。
初めての恋は、世界にとってはありふ
れた、けれど君にとっては特別な、で
きごとだった。
さすがにこの分野では僕はお役に立て
なくて、君からあふれるこっちまで胸
がきゅんとするような空気に、僕はた
だ身を任せていた。
まるで自分のことのようにやきもきした
し、もらい泣きしそうになったことだっ
て、1度や2度じゃない。
初恋は実らないだなんて、昔の人はなん
て夢のないジンクスを作ってしまったこ
とだろう!
高校生になった年。君は初めて手にし
た携帯電話に、いの一番にお父さんの
番号を登録するのを嫌がって、すねた
お父さんに携帯を取り上げられそうに
なっていたっけ。
今思えば、お父さんにしたってほんの
冗談のつもりだったとは思うけど、本
当に取り上げられるようなことになら
なくてよかった。
だってもうすぐ、初恋のあの人と遠距
離恋愛ってやつになる君にとって、そ
れはなくてはならないものだから。
初恋が実ったあの日を最後に、君が僕に
ふれることがなくなって、もうすぐ3年
がたとうとしている。
出会ったときから、わかっていた。
めまぐるしく変わっていく世界の中で、
僕の存在はとてもちっぽけで、刹那のも
のだということ。
遠くない未来に、別れは訪れると、いう
こと。
まだこの土地には雪さえ残る3月。君は
遠い街へ、新しい場所へ、旅立つ。
「佐代子ー、片づけは終わったの?い
らないものはちゃんと分別して、ゴミ
袋に捨ててちょうだいよー?」
わかってるー、と返事をして、君はも
う一度僕に目を落とした。
引越しのついでにと部屋の片づけをし
ていた君は、片隅でほこりをかぶって
いた僕を見つけて、ふと手に取った。
そしてずいぶん長いこと、ためつすが
めつ、僕を見ている。
今君の目に映っているのは、古さ相応
に薄汚れた一冊の絵本。僕だ。
「うーん・・・」
困ったように少しだけ寄せられた眉が、
いつも即断即決の君が珍しく迷ってい
ることを表していた。
どうしようかなと、その目が言ってい
る。
だけど、迷わなくていい。
そりゃ本当のことを言えば、僕だって
もう少しだけ君の側にいたいけれど。
これからまだまだ大きくなっていく君
を、もう少しの間だけ、ここで感じて
いたいけれど。
でも、迷わずに、捨てていってくれて
いい。
だって、君にはもう、どうしようもな
く泣きたいときにいつだって側にいて
くれる、大好きなあの人がいるから。
もう、僕がいなくたって、大丈夫だか
ら。
まだ迷うような表情のまま、君はふと、
僕のページを開いた。
あぁ、なんて幸せなことだろう!もう
一度君と、この物語をなぞることがで
きるなんて。
覚えてる?
笑って、泣いて、わくわくして、どき
どきして、思わず息をつめて、そして
また、笑って。
僕らは数え切れないほどの想いを共有
した。
僕は君と一緒に唄うことや、鬼ごっこ
をしたり、かくれんぼで遊ぶことはで
きないけれど、でもこんなにたくさん
の想いを、いつも君と一緒に感じてい
た。
大きくなった君の指は、ゆっくりと
ページをめくっていく。
時々微笑んで、あれ、今、泣きそうに
なった?驚いたなぁ、僕にはまだ、君
にそんな顔をさせるだけの力があった
んだね。
でも、あれ?
どうしたのさ?
このページはそんな、くしゃくしゃに
なってしまうほど、泣きそうな顔をす
る場面じゃないよ?
みんなで踊り明かす、最高に楽しい場
面のはずじゃないか。
あぁ、ねぇ、そんな。
泣かないで。
お願いだから、泣かないでくれよ。
同じページを開いたまま、君は両手で
顔を覆って、大粒の涙をこぼし始める。
なすすべもなく、僕はおろおろと君を
見守る。
こんな時、絵本である僕にはどうした
らいいかわからない。悔しくてたまら
ない。せめてぼくにも手があれば、震
えている君の肩に、そっとふれるくら
いはできるのに。
でも僕がそんなことをしなくても、君
は少しずつ落ち着いて、最後にはそっ
と、指先で涙をぬぐった。
手近にちり紙があってよかったね。そ
のままじゃ、そうだな、百年の恋とま
では言わないけれど、3年くらいの恋
なら冷めてしまうかも。
そしてまたゆっくりと、君はページを
手繰りだした。
ああ、そうだ。
そうだった。君はいつも、どんなに苦
しいときだって、つらいときだって、
ぼろぼろに泣きくずれたって、いつも。
最後にはそうやって、笑ってくれてい
たよね。
やがて最後のページを閉じると、君は
小さく息をついた。
大事に大事に、僕にふれる手のひら。
あれ、本棚に戻してしまっていいの?
僕の新しい住所は、てっきりそっちの
燃えるゴミ袋だと思っていたけれど。
そっか。
いいんだね。
もう少しだけ、僕はこの部屋にいても、
いいんだね。
君の指が遠ざかる。
これからどれだけ、君は大きくなっていくん
だろう。
僕はいつまで、君を見守っていられるかな。
できることならいつまでも、なんて、困った
な。僕は少しわがままになってしまったみた
いだ。
でも、いいよね。
まどろむように、陽のあたるこの部屋
で、僕は君を想って過ごす。
いつまでも、いつまでも。
君が幸せでありますようにと、祈りな
がら。