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第三課の方向性
で、結局「メディア」って何?なぜ「都市」
までメディアなの?
 マクルーハンらのメディア論の検討
・「メディアはメッセージである」
・「声の文化と文字の文化」
 近代社会とメディアとの関連
 社会学とメディア論の微妙な関係

今回のねらい
①メディア論の基本構図をおさえる
②メディア論の観点から、ジャーナリズムを
捉えかえしてみる
1.メディア論の基本視座
「メディアはメッセージである The
medium is the message. 」
 『大辞泉』《medium の複数形》1 媒体。手
段。特に、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど
の媒体。「マス―」「マルチ―」2 ⇒記憶媒
体
 このあたりを理解するため、1903年E.Porter
『アンクルトムの小屋』をみてみよう

『アンクル・トムの小屋』
「メッセージ」がわからなくて当然
 映像をみる前提が全然当時と違う。「映像の
シークエンスを見てメッセージ(意味内容)
を作る/理解する」という送り手/受け手の
構えが存在しない(初期映画)。
 「映像の文法」の不在(映像と意味の連関)
 前提知識の存在。映像そのものの物質性を享
受する態度。

「メッセージ-コード」モデル
メッセージ
(送り手)
コード
メッセージの
ディコード
(受け手)
このモデルで理解しうるコミュニケーション
の様式(送り手と受け手の分離、メッセージ
中心主義)が歴史的な所産であること
 メディアは、単なる意味伝送の「通路」では
なく、それ自体として、関与する人びとの身
体に働きかけるものであること(それ自体が
メッセージである)
 メディアは、その物質性において、伝達され
る(言語的)意味そのものに作用する

「同じ」意味論的意味を持つ言葉でも…
「木曜日に渋谷で飲もう」
①Twitter「ねぇ…誰か木曜暇してないのぉ??
渋谷辺りで呑もうよ…中目でも、大橋でも良
いよ?☆」
②メール「木曜日空いてたら渋谷で飲みませ
ん?」「木曜日空レヽτT=ら渋谷τ〃飲ゐма世
ω?」(?)
③ハガキ、④手紙・・・・・
⑤携帯電話、⑥固定電話・・・・
「情報内容」だけではなく、「情報様式
mode of information」も重要(マーク・ポス
ター)。むしろ、「内容」が意味論的に確定
できなくても、コミュニケートはできる。
 柳原可奈子のネタ:「言葉」そのものもメデ
ィアであることを示す

「メディアはメッセージである」
 一見「メッセージ」の乗り物のように思われ
ているメディアが、それ自体、コミュニケー
ションのあり方に及ぼす作用を重視せよ
 「言葉」「文字」「活版印刷・活字」「映画
」「テレビ」「写真」
 逆に「メッセージ」の乗り物ではないと思わ
れているようなモノもまた、コミュニケーシ
ョンのあり方に作用するという点でメディア
たりうる。「蛍光灯」「都市」「自動車」

メディア論
こうした観点から、「声/共同体」→「文字
/個人主義」→「映像メディア/回帰する共
同体」という歴史を描き出すことがマクルー
ハンの基本的な立脚点
 メディア(情報様式)と社会関係(コミュニ
ケーションの形式)との対応関係を見て行く
という視座

2.「メディア論」の視座
大分水嶺理論
マクルーハン、オング
①文化転換:「声の文化」から「文字の文化」へ
②身体性の編成:聴覚中心主義から視覚中心主義
へ
③主体性の創出:共同体内的存在から自己省察す
る個人へ
④作者性の創出

①文化の転換:メディアと文化

ルリアの事例
→本当に「文字の文化」と「声の文化」の
差を示したといえるか?
→状況依存的な思考様式の違いは、文字リ
テラシーの違いによってもたらされたのか、
受けた教育の違いによってもたらされたのか。
→Scribner&Coleの議論

オング,W「声の文化と文字の文化」
伝達様式による歴史分析(口承文化、印刷
文化)
声の文化:状況依存的、経験にもとづく判
断、抽象的なロジカルタイプ区別の不在。
共同的な「声」による受容(音読)。
文字の文化:行為状況から自律した思考が
可能。抽象的な概念の操作。「視覚」による
個人的な受容へ(黙読)。

ルリア,A,Rの調査
ロシア革命直後のウズベキスタンで、読み
書きのできない人びとに調査
①ハンマー、のこぎり、丸太、なたの絵を見
せて、仲間外れを選んでもらう
→「正解」は丸太(材料と道具)
被験者
「これらはみんなお互いに似ている。のこぎ
りは丸太を切れるし、なたはそれを小さな部
分に砕ける。もし取り除かなくちゃならない
のなら、なたを取り除くよ。なたはのこぎり
ほど能率が上がらないから」
「私もみな同じだと思う。のこぎりで切って、
なたで砕いて、ハンマーはそれで割り切れな
いときにたたき割ることができる」


もう一つの質問(三段論法)
「極北では熊はすべて白い」「ノーバヤ・
ゼムリヤは極北にある」「そこの熊は何色を
しているか」
→「わからないな。黒い熊なら見たことが
あるがほかのは見たことない。…われわれは
見たことだけを話す。見たこともないものに
ついてはしゃべらないのだ」
・実践の作業場面での連関において「類似」
を抽出(全て似ている)
・能率が高い/低いを個別的に適用
・具体的・総体的な状況から離れて抽象的・
分析的に考えることのできない思考様式?
(補足)
実際は、それが「文字リテラシーの有/無」
の効果なのか「教育のある/なし」の効果な
のか、わからない。
*むしろ反例がおおく上がっており、反論も
ある。
*バーンステインの「言語コード論」
→ともあれ、この同時代的な比較考察を、歴
史的な軸において展開していくのが、マク
ルーハン、オング的な「大分水嶺」理論

オングによる「声の文化」の特徴
①累加的であり、従属的ではない
②累積的であり、分析的ではない
③冗長ないし、多弁的
④保守的ないし伝統主義的
⑤人間的な生活世界への密着
⑥闘技的なトーン
⑦感情移入的・参加的であり、客観的な距離
をとらない
⑧恒常性維持的
⑨状況依存的であり、抽象的ではない

アメリカのメディアの影響力とどう折り合い
をつけて自分たちの文化的な多元主義を守っ
ていくのか。そういう課題をどうしても意識
せざるをえない、そういう国々で非常に盛ん
に取り入れられているものです。そういう意
味である意味左派的な志向を持った概念であ
ったといえる。日本でも90年代以降いろん
な本がでています。とくに90年代に出てき
たメディアリテラシーという本をいくつか検
索してみていただければわかると思うんです
けれども、わりと左派的な、そういうコンテ
クストの中でこれは受け入れられています。
■因果帰属の手続き
・「文字リテラシーの高さ」と「抽象的思考
能力」に相関関係があったとしても、即座に
因果関係を帰属してはならない。また疑似相
関に注意。
・「文字リテラシー」→「抽象的思考能力」
というよりは、
・「教育」→「抽象的思考能力」
→「文字リテラシー」
では、英語が「論理的」な言語なのか?
・ヴァイ文字:私的な手紙や記憶
・アラビア語:コーラン読書
・読み書きが西欧式の学校教育を通じて学ば
れる(論理的思考が英語で学ばれる)
・逆に記憶能力はアラビア語
→言語の違いというよりは、その言語の社
会的役割による「結果の違い」

■「文字の有無」それ自体が人間の思考様式に
直接的に関係している、ということは難しい。
■ただし、「文字リテラシー」と「社会的背
景」「人間の思考様式」のあいだに、なだら
かな関係性を見出せるのも事実。その関係性
を歴史的にみていくのが、オング・マクルー
ハン的な「メディア論」
文化の転換
文字・メ
ディア
•記憶媒体、記録媒体の容態
社会的背景
•媒体の社会的役割(どのよう
な機能を担わされているか)
思考様式
•その媒体を用いてどのような
思考がなされるか
②身体性の編成
声の文化
•音声によ
る読みき
き。
•聴覚
写本文化
•?
文字の文化
•読む=見
るて解釈。
視覚
②身体性の編成
声の文化 記録媒体なしに他者に伝達する
→記憶可能性の担保(紋切り型)
→「音声で話されること>何らかの形で記
録されること」
→「話される現場」>「記録される媒体」
(レトリックの多用、具体的共有知識への訴
えかけ)
*式亭三馬の戯作、寅さんの口上(香具師)


文字の文化 記憶の外部化。「書かれたこ
と」に距離を置いて分析的に眺める視座。
→冗長性の排除
→視覚的秩序と思考的秩序の対応関係(章、
節、頁などの視覚的階層構造と意味構造との
対応)
→読む「場の空気」を前提としない書き手
と黙読する読者