が超新星(客星、大客星)

明月記: 藤原定家 (1162-1241) が超新星(客星、大客星)の過去の記録をまとめた。
安徳天皇(高倉院 崩御被遊歟) 治承五年六月二十五日庚午、戌時・・・ 、
崩御被遊歟 は「崩御あそばされるか」 ? そこで
高倉院治承5年6月25日: (1181年8月19日)の客星 3C58 の意義
Chandra image of 3C58
X線観測:クォーク星か
第2、第3世代の素粒子(小林、
益川理論)が露わにでる。
かに星雲 (1054)
後冷泉院 天喜二年 四月中旬
以降 丑時 客星觜参度 見東方
孛天関星 大如歳星
この記事がアマチュアー
天文家により、Popular
Astronomyに紹介、
「超新星爆発の最初の
実証例」として国際的に
認められた。
(中国、日本、アラビア、
のみ、ヨーロッパには一
例の記述もない) 中性
子星をのこした。
一條院 寛弘三年 四月二日 葵酉 夜以降 騎官中 有
大客星 如螢惑 光明動耀 連夜正見南方
SN1006
天文衛星「すざく」はSN 1006が史上もっとも明るかったこと、宇宙
の加速器であることを証明した。この加速器が湯川の中間子を
実証した。
時鐘
辰刻
現在の時法
(前後約1時間)
暁9つ
子の刻
0時ごろ
暁8つ
丑の刻
2時ごろ
暁7つ
寅の刻
4時ごろ
明6つ
卯の刻
6時ごろ
朝5つ
辰の刻
8時ごろ
朝4つ
巳の刻
10時ごろ
昼9つ
午の刻
12時ごろ
昼8つ
未の刻
14時ごろ
昼7つ
申の刻
16時ごろ
暮6つ
酉の刻
18時ごろ
夜5つ
戌の刻
20時ごろ
夜4つ
亥の刻
22時ごろ
大鏡(京大付属図書館所蔵)
そうして粟田殿が土御門大路へ出る大内裏
の上東門から東の方へ帝をお連れ出しに
なった時に安倍晴明の家の前を通りかかる
と、仰々しく手を打ち鳴らして「帝がご退位な
されると思われる異変が天に現れたが、も
はや事は決ってしまったように見える。参内
してこの事を奏上しなければ。すぐに牛車
の支度をせよ」と言う晴明の声が聞こえまし
た。その声をお聞きになった帝のお心は、お
覚悟の上とは言え、さぞや感慨無量でい
らっしゃいました事でしょう。「さしあたって式
神一人宮中へ参上せよ」と晴明が命じ
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土御門(安倍)家中興の人、
安倍泰邦は梅小路の自宅に
大表土台(日時計)と
渾天儀台(天体観測機器)。
梅林寺の大表土台
京都と江戸の天文学争い (暦合戦)
江戸で、澁川春海が新暦を作成、 水戸光圀:京
都梅小路で天体観測をさせ江戸と京都の暦の正
さのコンペ ー>江戸方の勝利
「貞享暦」が幕府から発行(澁川春海)
次の「宝暦暦」の策定には天文方の役人に加え陰
陽頭の土御門泰邦が関わった。
「寛政暦」:高橋至時 (以後江戸方に主導権)
この時西三条に天文台をつくる。かれの息子
は伊能忠敬に協力(日本初の本初子午線をおく)
土御門側:斉政館:分室に皆川家
今昔物語24巻(安部晴明随忠行習道語): 安倍晴明が幼少の頃賀茂忠行の
供をした時、夜道に鬼の姿を見て忠行に知らせた。忠行は晴明の只ならぬ
才能を知り、陰陽道の全てを教えた。
最古の星図と日本地図
日本で初めての暦法を作った渋川春海は、星図の作成でも先駆者であった。中国の星座に
春海が観測した星も加えて、「天文分野之図」延宝5年(1677)を発表した。その後息子昔尹(
ひさただ)の名で刊行されたのが「天文成象図」元禄12年(1699)である。日本の星図は長い
間、春海の星図から大きくかわることはなかった。京大数学教室にある「星図」は長久保赤
水(閲)とある。長久保赤水は「天文星象図解」を表した(文政7年:1824)。彼は1774年(安永
3年)に『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成。この修正に努め、1779年(
安永8年)『改正日本輿地路程全図』を大坂で出版し、その普及に努めた(竹島が日本の領
土になっている)。
花山天皇(65代)出家のいきさつ
右大臣兼家は、自分の娘・詮子(せんし)を円融天皇に嫁がせ、政権を握ろうと目論んでいた
。円融天皇と詮子との間には懐仁(かねひと)親王が生まれ、円融天皇が花山天皇の譲位
するのと同時に、当時5歳の懐仁親王を皇太子にさせた。兼家が摂政になるには、花山天
皇を退位させ、自分の孫である懐仁親王を新天皇として即位させなければならない。そこで
、兼家は懐仁親王の即位を早めるために策動した。花山天皇は、そのころ最愛の妃が亡く
なったのをきっかけに、この世を厭うようになって、出家の志をもっていた。花山天皇に仕え
ていた藤原道兼(みちかね=兼家の子)は、ともに出家しようと、花山天皇を夜中に宮中から
連れ出し、共に京都東山の元慶寺(がんぎょうじ=花山寺)へ向かう。元慶寺に到着すると、
まず花山天皇が髪をそって出家した。つぎに道兼が出家するはずだったが、道兼は用があ
ると言って、退出してしまい帰ってこなかった。だまされたことに気づいた花山天皇は慟哭し
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た。65代天皇が
一条天皇
1181年
8月4日-8月6日 - 超新星1181の爆発が観測される。
養和の飢饉、前年の不作の影響もあり、飢饉が発生する。
2月6日(治承5年1月14日) - 高倉天皇没、第80代
定家が治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年
間にわたり克明に記録した日記である
世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。
紅旗征戎吾が事に非ず。
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