第九週

12 Peace History Lectures
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第九週:
国の憲法における平和(平和
憲法)と安全保障
The Constitutional Law of
Peace (droit constitionnel
de la paix) and Collective
Security
それに先立つこと半年、1945年9月初頭の、軍隊に
向けたV-J (対日戦争勝利) スピーチにおいて、トルー
マン米大統領は「地球が今後も、今までの形で存続を
望むなら、戦争は地上から根絶されねばならない」と宣
言した。
Harry Truman
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日本国憲法の第9条について議論する
とき、第二次世界大戦後、ほかの国の
憲法がどんな経緯で作られたかも頭に
入れておくべきだろう。その中心的な
テーマは、すべての国を軍縮させ、紛争
を平和的に解決する能力をもった国連
による集団安全保障である。
The International Association of Constitutional
Law is perhaps the best-known site for
constitutional scholars and persons interested in
constitutional law. The Fourth World Congress
Clemenceau
took place in Tokyo in 1995.
2
1946年2月 20日、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙は
次のように報道した。「フランスは諸国に先駆けて、世界平和の問
題を初めて憲法に条文化した」。フランス新憲法は、国際紛争を
解決する手段としての戦争を廃絶するためには「国家主権の制
限にさえ同意する」ものだ、と。
そして同紙は、「やがてはすべての国々がそのような法律を受
け入れ、平和への法的規範を束ねる世界規模の組織に参加する
ことを決断し、本条文が、そのための第一歩となる」として、フラン
ス新憲法の登場を歓迎した。
前文第15項では、「フランスは相互主義の留保のもと、平和の
組織および防衛に必要な主権の制限に同意する」とした。この条
文をもって、フランスは国際社会における地位を鮮明にしたの
だった。国家主権の制限は、有効な集団安全保障システムの基
本であるが、それは国連憲章24条の最初のパラグラフにつなが
る、すなわち「国際連合の迅速かつ有効な行動を確保するために、
国際連合加盟国は、国際平和及び安全の維持に関する主要な
責任を安全保障理事会に負わせるものと」する、と。
フランスは次の結論に到達した。「信頼できる効果的な国際機
関なしに、国際社会は発展し得ない。その創造には、これまで各
国が個別に行使してきた主権の一部を新機関に委託することに
よって初めて可能である」のつまりフランス以外の各国も、既に述
べた相互主義の原則に基づいて国連の「安全保障システム」をそ
れぞれが分担するようにしてもらわなければならない、というのだ。
3-5
Vive la France!
6
河野 洋平
1958年10月4日、フランスの第5共和制の新憲法が発
効したとき、1946年の憲法前文の15項は放棄されるこ
となく、新憲法の前文は「1946年憲法の前文を再確認
し補足するもの」とされた。それは、法律的な縛りとして、
有効性を保ち続け、「国の政治的・社会的な哲学」の本
質的な要素になった。
それは、「憲法によって武力の行使が禁じられている
のが(国の)基本的な哲学」(橋本首相、1996年9月2
4日国連総会 要確認)という日本と同様である。
Hashimoto
日本もまた、1945年8月のヒロシマ、ナガサキへの原爆投下をもって終了した第二次世界大戦の後に、新憲法を創った国である。
 1946年1月24日つまり、日本を「非軍事化」する案がまとめられた1ヵ月後、幣原はマッカーサーを訪問し、彼の求めでペニシリン
を調達してくれたことに謝意を述べたが、大平メモによれば、余人をまじえない2時間半を越える会談の冒頭では、天皇問題が話され
たという。天皇がもっている理想主義について話す中で、二人は世界から戦争を廃絶することに言及した。すなわち、日本は戦争を
起こす権利を放棄するよう努力すべきだし、そのためには、国家主権の一部を放棄することが必要だ、と。その時点で、幣原はすで
にフランス新憲法について既に知っていた可能性もある。その日の会談の後、マッカーサーは総司令部の政治部門の責任者コート
ニー・ホイットニーに対し、二人が討議した内容を伝えた。
Shidehara suggesting the abolition of war to MacArthur in a popular
history manga. However, with the Gulf War and the criticism heaped
on Japan for its “check-book diplomacy,” the bubble with Shidehara’s
suggestion was shifted to come from MacArthur.
7-8
 1950年から51年にかけて、読売新聞記者の質問に答えてまとめた回想録「外交五十年」において、幣原は、彼の中で憲法第九条
の理念が思い浮かんだのは、空襲で焼け野原になった風景を列車の窓から眺めていたときだったと、次のように述べている:
 「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職についたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これ
は何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫
そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹し
なければならんということは、外の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいう
か、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思
に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私に関する限りそうじゃない。決して誰からも強
いられたんじゃないのである。」
Tokyo Firebombing
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11-12
私(ホイットニー)は二人の討議には参加しなかった。しかし幣原が辞去した午後2時半、私は部屋に入りマッカーサーの顔を
見た。討議の前と後のマッカーサーの表情のあまりの違いに、その間何か重要な出来事が起こったことを私はすぐに了解した。
マッカーサー回想録によれば、「しばしば、よく事情を知っていなければいけない人々によって、この不戦条項は、私の個人的
な命令によって日本政府に押し付けられたと非難されてきた。しかし、それは真実ではない」。
幣原によれば、憲法第9条とは、集団安全保
障に基づく国連システム(それは、すべての国
家の軍備を撤廃させることを可能にする)の礎
石たるべき存在である。それが今や日本では、
9条2項に何らかの変更に加えて、防衛庁を国
防省に格上げすることが議論されている。そこ
では、日本区域で国連の集団安全保障が効力
を発揮すれば(日米安法、第十条)、日米の同盟
関係は不要となり廃棄される、と謳われている。
それは、全体がGHQによって既に翻訳され
ていた「憲法研究会」(委員長: 鈴木安蔵、植木
枝盛研究者 )提案におよそ一致するもので、そ
れは政府草案をつくるときにアメリカ人たちに
広く用いられていた。
日米安全保障条約
第十条: この条約は、日本区域における国
際の平和及び安全の維持のため十分な定
めをする国際連合の措置が効力を生じた
と日本国政府及びアメリカ合衆国政府が
認める時まで効力を有する。
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The Shidehara cabinet
1945年11月に日本政府によって作られ、自ら委員長に就
任した「戦争調査委員会」において、 1946年3月27日、幣原
首相は憲法第9条についてこう述べた。
かくのごとき憲法の規定は現在世界各国いずれの憲法
にもその例を見ないのでありまして、今なお原子爆弾その他
強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日に
おいて戦争を放棄するということは夢の理想であると考える
人があるかもしれませぬ。しかし、将来学術の進歩発達によ
りまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当たる破壊的新兵
器の発見せられないことを誰が保証することができましょう。
もし左様なものが発見せられましたる暁におきましては、何
百万の軍隊も、何千隻の艦艇も、何万の飛行機も全然威力
を失って、短期間に交戦国の大小都市は悉く灰燼に帰し、数
百万の住民は一朝皆殺しになるということも想像せられます。
今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗を翳して、国
際政局の広漠なる野原を単独に進み行くのでありますけれ
ども、世界は早晩戦争の惨禍に目を覚まし、結局私共と同じ
旗を翳して遙か後方に踵(きびす)を接してくる時代が現れる
でありましょう。
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1946年11月9日付ロンドンの週刊誌「ザ・エコノミスト」はこの憲法を
高く評価してこう述べた:
「新憲法は … 極めて民主的であり、前の憲法に目立つ非民主的な
側面を大きく正している。しかし、これだけでは日本を、議会制民主主義
国家の列に後追いで参加させるだけで、他国に比べてとりわけ徳の高
い地位を与えたわけではない。ただし、自衛のための戦争さえ放棄した
条文については格別である。世界のいかなる国が、かくも完全な非暴
力を、政治構造の一部として採用したであろうか。ガンジー氏のインドで
さえそれを提起していない。日本の首相は、あたかも日本が戦争に勝っ
た国のように、世界に向かってこれを提示する僥倖を味わっているかの
ようである。 … 今や日本は、より高い道徳の地平に乗り出した。…皮
肉屋は言うだろう。日本はいずれにしても連合国によって武装解除され、
ずっとその状態を続けられているだけであり、華々しく言われる「戦争放
棄」はただ必然から生まれたにすぎない、と。しかし、結局のところ、こ
の必然の美徳は、まるで柔道のように、向かってくる力を巧みに利用し
て、素早く相手を投げたワザともいえる」
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Art 24
Carlo Schmid
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 ドイツでは「偉大な啓蒙家、政治家にしてヒューマニズムの伝道者」(政治
評論家ウォルター・イエンスによる)カルロ・シュミットが、1948年から49年に
かけて、「ボン憲法」(基本法)に主権の制限を加えるよう、国会において主
張を続けていた。当時チュービンゲン大学教授、連邦法務大臣であったカル
ロ・シュミットの胸のうちには国連構想があった。彼が委員長を務めた委員会
では、平和と安全保障の問題に関して次のような考え方を満場一致で決め
た。「憲法が、多数決によって成立し、採用された法に基づくならば、連邦は
国際機関に主権の一部を委託することが可能であるようにすべきである」。
もしこうしたことが実現すれば、先行した日本を援護し、戦争放棄の理想を
追いかけようとしていた諸国の一つの「動き」として見られたことだろう。
 ドイツ憲法協議会の報告によれば、第24条の第1節は次のように謳って
いる。「この条項は、参加各国の地域において、これまでそれぞれの国家主
権に任されてきた事柄を統括する国際機関が創設されることを促進するよう
設けられた。ドイツ国民は今後、政治手段としての戦争を放棄し、必要な解
決策を講じることを決めた」。
代表者たちは戦争放棄の意志を宣言するだけでは不十分であり、まず、
主権の一部を放棄して、集団的な安全保障システムに託すべきことをよく
知っていた。
 「国が無防備とならないよう、外国軍に従属することを避けるために、ドイ
ツ連邦になる領域は、平和を保障する国際的な安全保障システムに含まれ
ることが必要である。委員会の満場一致で、平和とヨーロッパ域内関係の恒
久秩序のために、連邦は、そのような安全保障システムから生じる国家主権
の制限に同意する心構えをもつべきである」
 効果的かつグローバルな安全保障のシステムつくりは、「純粋な欧州域
内関係の構築」より明確に優先順位が上だった。その趣旨は憲法協議会の
メンバーの諸提言の言葉使いにもよく表されている。たとえば、国家主権の
制限は「まず前提条件」であり、「それを通じてのみ欧州関係は平和で永続
的仕組みが得られ、安定したものになる」。
 「連邦は国家主権の制限に同意する。その行為が、平和で永続する欧州
相互関係の仕組みを堅固にし、集団安全保障システムの一部を形成するこ
とがその条件である」
25-26
第24条、第2節の発想は「フランス憲法の相
当部分」から影響を受け、特別に重きが置か
れた。 しかし、フランス憲法との大きな違い
は、ボン憲法では「相互主義の条件」が省か
れたことである。なぜなら、ドイツという国に対
して、他の国々が明確な「イニシアチブ」を
取ってくれることを期待していたことを協議会
のメンバーは、「十分に認識し」ていた。すな
わち、「(戦時中)ドイツ国民の名で行われた
数々の事柄の後、今こそドイツが他国に先駆
け、率先して平和のイニシアチブを取ることこ
そがふさわしい」という認識していたからであ
る。
安全に関して言えば、相互主義的集団的安
全保障システム(system of reciprocal and
collective security)という概念は、国連憲章5
1条が全ての加盟国に認める「集団的自衛権
collective self defense」とは「本質的に違う」
のは明らかである。憲法協議会の会長、ヘル
マン・ボン・マンゴルと Hermann von Mangoldt
教授は、多数意見は次の通りだと語っている。
「(私たちが考えている)相互集団安全保障
(mutual collective security)こそ、国連の世
界システムである」。カルロ・シュミット教授も、
確信をもって次のように緊急発言した。「我々
はそのような機関に必ず加入しなければなら
ない。さもなければ我らは亡びる。」
Hermann von Mangoldt
ドイツに先立つ1年前、イタリアは同様の条項を戦後
新憲法に明記していた。1948年1月制定のイタリア憲法
第11条に曰く、「イタリアは、他国民の自由を侵害する手
段として、および国際紛争を解決する方法として、戦争
を否認し、他国と互いに等しい条件の下に、諸国家のあ
いだに平和と正義とを確保する秩序にとって必要な主
権の制限に同意し、この目的を有する国際機関を推進
し、助成する」(岩波文庫版)
Young Dr. John Loudon
Promulgation of the Italian Constitution
27
ハンス
ここでは他の憲法でも、ほとんどは欧州諸国の憲法と
いうことになるが、戦争を防止し廃絶し、また必要な超国
家的な国際機関を作りだすために、今まで述べてきたも
のと同様の主権の移転、制限、委任などが、多くの憲法
でも構想されてきたことにも触れておきたい。特に、1953
年6月に施行されたデンマーク憲法が、第二次世界大戦
後の諸憲法の中で模範的な意義をもっている。
デンマーク憲法の前史として、1952年8月28日から9
月2日まで、スイスのベルンにおいて、列国議会同盟
(IPU) の会議が開かれたことを記さなければならない。こ
の IPU は、1889年に創設され、未来の「世界議会」のモ
デルとして、選挙で選ばれた国会議員たちの国際的な組
織である(日本は1910年に正式メンバーになっている)。
1952年のIPU会議で、参加諸国は自国の憲法に、経済、
政治、文化の各分野で効果的な国際協力を目指す条項
を採用するよう決議された。それに向けて、各国の国会
代表団から色々な提案が出された。
IPU会議における主要なテーマは、個々の国の主権を
制限すること、そして、やがて生まれるだろう「世界議会」
へのグローバル・レベルの正当な代表権とはどのような
ものなのか、という問題だった。(この1952年の会議の精
神を受け、)デンマークの憲法委員会メンバーは、1946年
から取り組んでいる新憲法の条文(1953年に採用され
るのだが)に次のような文言を取り入れた。
「憲法第20条、第1項、本憲法が、王国の権能をもっ
て付与する諸権力は、法律の定める制限のもとに、国際
的な権威ある機関に託されることが可能である。当該機
関は、国際の法秩序と協力を促進するために各国が互
いに承認して設置を定める」
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また、1952年スイスでのIPU会議の結果を受け、
同様の法律がオランダでも1953年に作られ、1983
年の改定でも再確認された。その他、集団安全保
障と平和協力の普遍的なシステムを実現する権
能が、次の国々の憲法で承認された。(アルファ
ベット順)アルゼンチン(1994), オーストリア (1981),
ベルギー(1971); ブルンジ (1981), コンゴ共和国
(1979), コスタリカ (1968); ギリシャ(1975); グアテマ
ラ (1985), アイルランド (1937); ルクセンブルグ
(1973); ノルウエー (1814/1905), ポルトガル(1982),
シンガポール (1980), スペイン (1978), スウエーデ
ン(1976), 東チモール (2002), ザイール (コンゴ 民
主共和国, 1978)。 各国の憲法条項に頻繁に出て
くる公式的な英文は、「The parliament may make
laws for the peace, order and good government of
the state」(議会は平和と秩序とよき政府のために
法律を作る)。(たとえば、Antigua&Barbuda、
Barbados、Belize、Brunei, Jamaica, Lesotho,
Malawi、Vanuatu、Zimbabwe)日本を特に名指しし
ています。
日本に関して言えば、国際連合による集団安全保
障の真の礎石である憲法第9条をずっと維持して
きたことによって、(国際法の優位に対して)長い
貢献をなしてきたといえる。
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Aoki Shuzo