史学講義8 近代世界システム2 第7回 上田信(立教大学) 第2章 東ユーラシア史列伝① 鄭和 東ユーラシア史の画期 1253 フビライの雲南侵攻 銀大循環メカニズム 1371 明朝の海禁令 脱・銀メカニズム 1567 朝貢外の交易を容認 互市システムの開始 1684 清朝、展海令を施行 海域世界の消滅 1842 南京条約の締結 環球システムの開始 1945 太平洋・日中戦争終結 環球システムの完成 現代 (北京オリンピック) 華人ネットの可視化 東ユーラシア史の時期区分 • 1253~1371年:元朝の銀大循環メカニズム (116年間) 日本での貨幣経済 鄭和 • 1371~1567年:明朝の朝貢メカニズム (196年間) 武装海上勢力の成立 • 1567~1684年:互市システムの成立期 (117年間) 日本を除外した互市 • 1684~1842年:互市システムの成熟期 (158年間) 日本を含む互市 • 1842~1945年:国際関係の成立期 (103年間) 大日本帝国の成立と崩壊 1.1つの碑文から 鄭和 • 1371年~1434年 明の武将で雲南出身のイスラム教徒。永楽 帝の宦官長官に任用された。前後7回、南海 遠征の指揮官として活躍した。(『世界史B用 語集』山川出版社) 晋寧「鄭和」公園 故馬公墓誌銘 碑文(前半) • 公字哈只、姓馬公、世為雲南昆陽州人。 • 祖拝顔、妣馬氏、父哈只、母温氏。 • 公生而魁岸奇偉、風裁凛凛可畏、不肯枉己 附人、人有過、輒面斥無隠。性尤好善、遇 貧困及鰥寡無依者、恒保護賙給、未嘗有倦 容、以故郷党靡不称公為長者。 • 娶温氏、有婦徳。子男二人、長文銘、次和、 女四人。 碑文(後半) • 和自幼有材志、事今天子、賜姓鄭、為内 官監太監。…… • 公生於甲申年十二年初九日、卒於洪武壬 戌七月初三日、享年三十九歳。 • 永楽三年端陽日、資善大夫礼部尚書兼左春 坊大学士李至剛撰 碑文の疑問 • 和の父親の本名が欠けているのはなぜ? • 和の父親の役職名などが記されないのはな ぜ? • 和の生年に年号がないのは、なぜ? • 和は、少年時代になんと呼ばれたのか? ムハンマド(馬)=? 碑文の疑問 • 和は宦官になってもムスリムだったのか? • なぜ、永楽三年五月五日の日付なのか? • なぜ、撰者は礼部尚書なのか? 東ユーラシアの誕生(1) • モンゴル高原でチンギス=ハーンが建てた モンゴル帝国は、第四代ハーンのモンケ の時期に、中国を望むまでに拡大する。モ ンケは弟のフビライに、中国の攻略を託し た。 東ユーラシアの誕生(2) • 当時、中国の南部に命脈を保っていた南宋 政権は、長江を天然の防衛ラインとしていた 。騎馬による戦闘をもっぱらとするモンゴル軍 は、それを突破できない。モンケはフビライに 長江の中・下流部を迂回し、雲南を制圧し、 背後から南宋を脅かすことを命じる。 モンゴルの征服戦争 では、基本的に右翼 ・左翼と中軍とに分 かれて進軍し、敵を 挟み撃ちにする戦術 が採られる。 1253年夏に臨洮で フビライ軍は三方面 に分かれる。フビライ の本隊は、四川の西 部を抜けて南下した 世界システムの起点 銀の大循環 銀の大循環(1) • 東ユーラシア全域に俯瞰するならば、長 江下流部で織られた質の高い絹織物、 景徳鎮などの窯業地で焼かれた陶磁器 が、ユーラシア全域に輸出されるように なった。 • 中国産品の流れとは逆方向に、大量の 銀が中国に流れ込む。 銀の大循環(2) • 元朝は商業税や塩税などのかたちで銀 を市場から徴収すると、元朝の皇帝をモ ンゴル帝国の盟主として承認してもらう 見返りに、ユーラシア各地のモンゴル政 権に送り届けた。 • この銀が再びウイグル族やムスリムが 経営する商社に投資され、中国物産の 買い付けに使われた。この交易は銀の 大循環と呼ばれる。 モンゴル帝国のなかの雲南 • =銀の供給地 • =中国~インド(アッサム)へのルート • =チベット~東南アジアへのルート それぞれの交差点 半径4000km 東ユーラシア最大域 半径3000km 東ユーラシア海域 半径2000km 東ユーラシア大陸部 半径1000km 雲南の外延部 半径500km 雲南のコア地域 雲南駅 茶馬古道~概略図~ 徳欽 中甸 麗江 下関 雲南駅 普洱 易武 インドへ抜ける道 下関 雲南駅 尋州 雲南駅 東西と南北の道が交差するところ 雲南駅の面影 雲南駅のいま • いま、すでに寂れてしまっているが、中国で茶 馬古道が観光の目玉として脚光を浴びると、 かろうじて残っていた隊商宿を修復し、町に 分散していた隊商に関わる文物を集めて、 2005年に博物館として一般開放している。 かつての隊商宿 茶葉の荷駄 塩の荷駄 野営しながら 雲南駅の歴史(1) • この宿場町の歴史は古く、漢代の武帝が匈 奴と対抗するために派遣した張騫がもたらし た情報に基づき、インド経由で交易路を拓く ために、ここに拠点をおいたときにその起点 はさかのぼる。 漢代の雲南駅 雲南駅 雲南駅の歴史(2) • それ以来、断絶する期間はあるものの、二千 年あまり交易の交差点として存続した。 鄭和の父と祖父のメッカ巡礼 • 陸路:雲南→大都→シルクロード→メッカ (マルコ=ポーロの往路) • 海路:雲南→泉州→(海路)→メッカ (マルコ=ポーロの帰路) • 東南アジア:雲南→ビルマ→インド→? ベンガル湾→メッカ マルコ=ポーロの経路 「和」に付された標識 • 馬和=本名に近いことは確か。 • 鄭和=皇帝から下賜された姓 • 内官監太監=役職名 • 「哈只」(ハッジ)の孫・息子 →これらの標識が同一であることを表明し ているのは、礼部尚書(≠李至剛)。 標識をめぐる手がかり • 「鄭和」の第1回南海遠征は、 永楽三年(1405年)六月に始まる。 その直前の、同年五月に碑文が書かれる。 書いた人物は、外交を司る礼部のトップ。 →礼部が鄭和を「哈只(ハッジ)の孫・息 子」と認定している。 遠征と碑文 • 海への遠征がなければ、この碑文は書 かれなかったのではないか? • 鄭和を「哈只」(ハッジ)の孫・息子 であることを、認定するために必要 な儀式。 • 父の本名は必要がない。 • 父と雲南モンゴル・バサラワルミ (梁王)政権との関係を抹消する意 図。 「鄭和」の遠征ではなかった • 東南アジア・インド洋への遠征は、鄭和(明朝 皇帝が与えた名前)のもとで行われたのでは なく、「哈只(ハッジ)の孫・息子」である 馬和の名前で行われたプロジェクトで あった。 • 「鄭和」に「哈只(ハッジ)の孫・息子」 であるという標識を回復させるために必 要な手続きが、礼部による「和」の墓の 造営と碑文の作成であった。 標識のあいだの関連 • 海に出たとき • 「ハッジの孫・息子の和」 ≒馬和 ≠ 鄭和 ≠内督太監 「海」の力 • 「鄭和」にとって、「海」とは去勢される(身体 的標識の変化)の前の自我を回復しうる唯一 の場であった。 • 15世紀~17世紀の「海」をみると、王直・鄭 森(≠鄭成功)など、人格の標識を変更させる 力をもっていたことが明らかとなる。 • それでは、18世紀~現在の「海」には、その ような「力」が残っていたのであろうか? 2.なぜ宦官か? 内廷と外朝 • 「朝廷」=外朝+内廷 • 外朝=皇帝の公的な場。官僚の世界。 • 内廷=皇帝の私的な場。皇族と宦官の世界 紫禁城の場合 内廷 乾清門 対立する内廷と外朝 • 内廷と外朝は、予算は別。 • 内廷=収入:皇室直轄領などから 支出:皇室関係(宮殿の修繕維持・ 皇室関連行事など) • 外朝=税収→国庫→国政 3.海に浮かぶ帝国 天妃霊応之記 • • • • 福建省長楽県南山寺(三峰塔寺) 31行1177文字の碑文 天妃=黄海を守護する女神、媽祖 石碑は宣徳六年(一四三一)仲冬(旧暦一一 月)の吉日に、鄭和が航海の安全を祈願して たてたもので、それまでの六回にわたる航海 の概要が記載されている。 天妃霊応之記 • 大明皇朝が天下を統一した。その功業は夏 ・商・周の三代や漢・唐の両朝を凌駕し、遠く 天辺地際に及び、臣下として我が王朝に帰順 しないものはなかった。 • ……海外のいくつかの蕃国(中華の文明が 及ばない国)は、遠い僻地ではあるが、その 使者は珍宝を捧げ礼物を携え、通訳を通して 来訪して朝貢してきた。 • 皇帝陛下はその忠誠心を喜び、〔鄭〕和に命 じて数万の官吏・軍官・兵卒を統率させ、百余 艘の巨艦に乗り、財宝を携帯させて〔蕃国に〕 下賜させ、朝廷の恩徳を宣揚して教化し、遠 方の人民を安んじようとした。 • 永楽三年に命を奉じて西洋に使いすること、 いまに至るまで七回を数える。 • 歴訪した蕃国は占城国(チャンパ)・爪哇国( ジャワ)・三仏斉国(パレンバン)・暹羅(アユタ ヤ)から、 • 南天竺(インド南部)・錫藍山国(スリランカ)・ 古里国(カリカット)・柯枝国(コーチン)に直行 して、 • さらに西域の忽魯謨斯国(ホルムズ)・木骨都 束国(モガディシュ)など大小三十余国になり 、遠く海洋を重ねて航行すること、一○万余 里に及んだ。 4.遠征の目的 目的の説 • • • • 第2代皇帝の行方を捜すため。 モンゴルの海からの攻撃に備えるため。 南洋の物産を手に入れるため。 朝貢メカニズムを海域世界に広げるため。 リアクションペーパーから ジャワの華人虐殺 • 1741年にジャワで起きた華人大虐殺につい て、オランダ人が移住民として増加する華人 に対して抱いた不安は何だったのでしょうか。 アヘン戦争後のイギリスと中国 • 1842年の南京条約締結移行、イギリスに中 国は支配された形になっていたと思っていた が、股また幇というネットワークを用いて、経 済活動自体は、支配されていなかったことに 驚いた。しかし、その中国人商人の動きを止 める効果的方法をイギリスは考えられなかっ たのだろうか? 17世紀の世界商品 • 東ユーラシアの世界商品の変化で、13世紀 ~16世紀は生糸と銀、18世紀~19世紀は砂 糖・アヘン・茶とあったが、17世紀の世界商品 は存在しないと考えてよいのでしょうか? • 新しいシステムに向けた交易システムの模索 の時期であったとする17世紀だけに、気にな る。 サイバーラーニング • • • • http://cl.rikkyo.ac.jp/cl/2007 インターネット側 文学部 史学講義8 テキスト 海と帝国 • 上田信 • 『海と帝国』 • 講談社 • 2005年 テキスト • 上田信『海と帝国』講談社、2005年、\2,600。 • 事業部に取り寄せ済み。 欠席された方 • 欠席者は、欠席した授業に相当すると担当教 員(上田)が指定したテキストの部分を読み、 その要旨を整理し、疑問点やコメントを記した ものを提出した場合、そのレポートの評価をリ アクションペーパーへの評価と読み替える。 • ただし、3回分まで(それ以上は欠席扱い)。 • 形式:A4 横書き(ワープロ可) 各1枚。 欠席回と課題 • • • • • • 第1回(9月21日)=『海と帝国』はじめに 第2回(9月28日)=『海と帝国』第1章 第3回(10月5日)=『海と帝国』第5章 第4回(10月12日)=『海と帝国』第8章 第5回(10月19日)=『海と帝国』第10章 第6回(10月24日) =サイバーラーニングの第6回 最終レポート:課題 • 13世紀から20世紀の東ユーラシアについて、 物産ないし人物を取り上げ、交易との関連を論 じなさい。 • (注意)授業内容の整理ではなく、独自に文献を 調べること。利用した文献名を必ず挙げること。 • インターネットからペーストした箇所は、字数に カウントしません。また、出典を明記せずに流用 したことが発覚した場合、レポートの評価が0点 となる場合があります。 最終レポート:体裁と提出方法 • レポート試験 教務事務センターに提出 提出期間 2008年1月11日(金) ~17日(木)17:00まで 提出場所 タッカーホール 書式:ワープロまたはレポート用紙 A4判 横書き 2,000字以上 所定の表紙を付け、期日を守ること。
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