近代経済学分野での卒業論文の書き方

近代経済学分野での卒業論文の書き方
白井義昌
現する。つまり明らかにしたい問題は﹁ある仮説が成立し
なっている。科学的研究方法は典型的には次のような一連
ているか否か﹂という問いになる。この問いの可否が判定
研究とは新たな事実や考え方を発見することである。そ
いえ、どんなに小さなことでもよいから、これまで知られ
できるようにモデル構築と実験計画策定を行い、くりかえ
の 作 業 に な る。 ま ず、 こ れ ま で の 研 究 で 何 が わ か っ て い
ていなかった事実や考え方を発見し、それを報告すること
し実験を実施する。その結果を評価し、仮説が否定されな
して研究論文とは研究結果の報告書である。知識量や技術
が卒業論文の目的である︵いろいろな書物や論文を読んで
ければ、これら一連の作業とその結果を論文にまとめる。
て、何がわかっていないかを明確化し、明らかにしたい問
勉強したことをまとめるだけでは論文にならない︶
。本稿
題を設定する。そしてこの問題を検証可能な仮説として表
は主にマクロ経済学、労働経済学、国際経済学といった応
しかし、経済学の研究では実験ができない場合が非常に
を書くことは学部の卒業論文では要請されていない。とは
用研究分野での研究とはどのようなものなのか、そしてそ
多い。実験の代わりに過去の経済データを用いて仮説を検
水準からいって経験を積んだ研究者たちのような研究論文
の研究結果をどのように卒業論文としてまとめるのかにつ
定することがほとんどである。経済学では入念な実験計画
策定や実験が実施できないので、モデル構築や、過去の経
いて説明する。
近代経済学では科学的方法に基づいて研究を行うことに
三色旗 2011.1(No.754)
研究対象が明確になっていない場合も多々あるので、経済
点になってきた。また経済学では、仮説設定ができるほど
基づいてシミュレーションを行ったりすることが研究の重
済データを使った仮説検定に工夫をこらしたり、モデルに
文にしたい﹂というのは卒業論文の問題意識設定になって
る。﹁自分がこれまで知らなかったある事柄について、報
の意見を述べたものが論文だという誤った認識をしてい
多くの学生が新聞記事や書物を読んでそれをまとめて自分
ップは必要ない。私の過去の学生指導の経験から言うと、
いない。一般に知られていることについてさらに深く新た
道を通じて関心を持ったのでそれについて勉強して卒業論
では経済学の研究をするときに、どのように明らかにし
な﹁問い﹂を見い出し、その問いに答える作業をしてその
データを整理して事実を定型化することも研究成果になり
たい問題すなわち﹁問い﹂を設定し、どのようにその﹁問
結果を提示することが研究だからだ。
える。
い﹂に答える作業をすればよいか?
この問題に答えるた
②研究対象について研究者たちがどのような問題を設定し
めに、本稿では卒業論文作成のための研究の進め方につい
ての一連の流れと卒業論文のまとめ方を説明する。そして
て、どのような作業をしてその問題に答えているかを勉強
学術雑誌に掲載されている論文を読んだり、エコノミス
する。
実際の論文を具体例にして読者の理解の助けにしたい。
卒業論文作成のための研究のやり方
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トのレポートを読んだりして、自分が興味を持った議論を
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選ぶ。つまり研究の出発点として、たたき台になる議論や
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論点を探し出す。研究者たちの論文には、必ず答えるべき
0
①関心を持った研究対象について予備知識を獲得する。
﹁問い﹂が提示され、それに答えるためにどんな作業をし
0
研究対象について何が大きな問題だと一般的に考えられ
たか、そしてその結果がどのようなものだったかが明確に
0
ているのかを学ぶ。新聞や雑誌記事、書物を読んでスクラ
記述されている。どこまで明らかになっているかがわかれ
0
ップする。マクロ経済学や国際経済学の分野であれば、ま
ば、さらにどのような﹁問い﹂を提示したくなるか考えや
0
ずは教科書をざっと読んでどんな経済問題がどのようにア
す く な る だ ろ う。 ま た、 た た き 台 に な る 論 点 の﹁ 問 い ﹂
0
プローチされているかを勉強する。
すでに研究対象について十分知識があるならばこのステ
三色旗 2011.1(No.754)
う。その場合、妥協案として教科書によく掲載されている
が行われているかを勉強してみる。そして自分が関心を持
と、新たな﹁問い﹂との差がはっきりとすれば、研究で提
この段階で発生する初歩的問題は、どのような論文を選
っている研究対象について教科書レベルで紹介された経済
ケーススタディを読み、その教科書で紹介された経済原理
んで勉強すればよいかわからないということである。マク
原理を使ってどのような﹁問い﹂を設定でき、どのような
示する新事実や新しい考え方とは何かもいっそうはっきり
ロ経済学や国際経済学の分野ならば、まず教科書に紹介さ
作業をしてその問いにアプローチできるかを考えてみると
を使ってどのように﹁問い﹂が設定され、どのような作業
れている基本学術論文の中に自分が関心を持っている研究
いう方法もある。
するだろう。
対象と重なるものはないか探す。また、予備知識獲得のた
学の分野のデータベースを使って論文を探す︵慶應義塾大
し出す。
③たたき台となる議論や論点をもとに新たな「問い」を探
めに収集した資料の中に出てくるキーワードをもとに経済
学の図書館のウェブサイトにはデータベースナビがあるの
できないことである。その場合、詳細はわからなくても、
識だけでは論文で説明されている作業の技術的詳細が理解
さらにこの段階でよく発生する問題は、学部レベルの知
える﹁問い﹂になっていない。その場合、②に戻って具体
況に陥っているならば、その﹁問い﹂はまだ研究として扱
えるためには何をしたらよいのかよくわからないという状
ればよいかが明確でなくてはいけない。この﹁問い﹂に答
ここで言う「問い」に答えるためにどのような作業をす
大筋でどのような﹁問い﹂に対してどのような作業をした
的な作業がいくつか思い浮かぶような﹁問い﹂を探しなお
で、そこを渉猟すればよいだろう︶
。
かを二〇〇字以内でまとめるという作業を収集した論文そ
すべきである。
﹁問い﹂に対する答えの可能性はいろいろとあるはずな
れぞれについて行い、その中で一番興味が持てた論文を技
術的な内容がわかるまで時間をかけて勉強してみるという
それぞれのシナリオのいずれが実際に成立しているかを区
ので、まずはそれらシナリオを考えることが重要である。
しかし、学術論文にまったく歯がたたず、設定されてい
別 す る た め に は ど の よ う な 作 業 が 必 要 か を 考 え れ ば、
﹁問
方法をとるのがよいだろう。
る﹁問い﹂が何かすら理解できないという場合もあるだろ
三色旗 2011.1(No.754)
い﹂に対応した具体的﹁作業﹂を見つけ出すことができる
だろう。
かるような問いを設定している。
この作業は﹁新たなモデルを作って分析する﹂ことかも
④「問い」に答えるための作業をする。
しれないし、
﹁議論の根拠となる証拠をデータ分析して提
実は具体的﹁作業﹂をともなった﹁問い﹂または﹁問い
かけ方﹂を見つけるのが研究の最大の難関である。調べよ
示する﹂ことかもしれないし、単に﹁データを整理して事
実についての特徴を探し出す﹂ことかもしれない。いずれ
い。﹁日本の××の将来はどうなるか?﹂というような漠
然とした問いを卒論のテーマに設定する学生をよく見かけ
にせよ設定した﹁問い﹂に答えるのに適切な作業を行い、
うのないことを研究対象にしても何も明らかにはできな
る。 こ の よ う な 問 い か け 方 に は 二 つ の 典 型 的 な 問 題 が あ
その結果を客観的に提示する。
う。つまり、
﹁有力な既存モデルの特定の問題点を解決す
台にして新しいモデルを開発してシミュレーションを行
経済の予測を扱う場合、既存の有力な予測モデルをたたき
にシミュレーションを行うことである。最先端の研究では
業は、過去のデータをよく説明できるモデルを作ってさら
的にはわからないことが多いからだ。予測をするという作
に難しいということだ。過去を調べても将来のことは科学
うな結果を得たかも書かなければならない。次に作業をど
づけが必要になる。序論にはどのような作業をしてどのよ
に、新たな問いとたたき台となる議論や既存研究との関連
問いに答えることの意義が自然とわかるようにするため
ある。つまり、序論︵ introduction
︶で研究対象についてた
たき台となる議論をもとに新たな問いを設定する。新たな
めればよい。卒業論文のまとめ方は、研究の流れと同じで
④で完成した問題設定と作業結果について卒業論文にまと
以上が大まかな研究の流れである。最終的には上記③と
卒業論文のまとめ方
る。第一の問題は﹁問い﹂が漠然としていてどのような作
業をすれば答えることができるか手がかりがない。または
﹁問い﹂が大きすぎて、作業をいくつ重ねても到底答えに
べく発展モデルを構築すると、過去データの説明力はどれ
はならないということだ。第二の問題は、将来予測は非常
くらい高まるか?
そして発展モデルでのシミュレーショ
のように行ったかという方法︵
︶を説明する節が必
method
ン結果はどうなるか?﹂というように、具体的な作業がわ
三色旗 2011.1(No.754)
要である。実際に研究で行ったことを他の人が再現できる
︶ を 記 述 し、 そ の 結 果 が そ の 他 の 研 究 や 実 際 の 経
results
よ う に 正 確 に 記 述 す べ き で あ る。 そ し て そ の 結 果
︵
済 問 題 に ど の よ う な 意 味 を も つ か の 考 察︵ discussion
︶を
する。このような﹁序論﹂、
﹁方法﹂
、
﹁結果﹂、そして﹁考
ミストたち、メアリー・デイリー︵ Mary Daly
︶とバート・
︶による論文
Bart Hobijn
Okun s Law and the
ホ ビ イ ン︵
Unemployment Surprise of 2009 FRBSF Economic Letter,
はわずか四ページの論文であるが、学部学生
March 8, 2010
にも簡単に読めるし論文の書き方の参考例になるので、一
ト増えるとGDPが二パーセント減る﹂というオークン法
読をお勧めする。
則である。これはよく知られた経験則である。それに対し
察﹂という文章構成は
要な記述はしない。作業で扱うデータ、先行研究や研究対
の頭文字をとって IMRAD
と呼ばれている。論文
Discussion
は必要最小限の情報を使って簡潔に書くべきである。不必
て、二〇〇九年のアメリカ経済では失業率が二パーセント
この論文のたたき台になる議論は﹁失業率が一パーセン
象についての過去の経緯などをある程度記述する必要があ
くらい上昇しているのにGDPは減少していないという事
Introduction, Method, Results And
る 場 合 に は、
﹁方法﹂の前に一節設けるか、論文の末尾に
実が観測された。これは著者たちがデータ観測から発見し
ない。この事実をよく知られたオークン法則に対比させて
た事実である。この事実を発見しただけでは論文にはなら
補論として記載するのがよいだろう。
経済論文の具体例
﹁二〇〇九年のアメリカ経済でオークン法則が成立してな
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い の は な ぜ か?﹂ と い う﹁ 問 い ﹂ を 設 定 し て 初 め て 研 究
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研究の方法をまとめると、
﹁研究対象についてのたたき
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テーマになる。この﹁問い﹂に答える作業を具体化するた
0
台となる議論をもとに新たな問題を設定し、その問題に答
0
めに問いの内容について三つのシナリオを想定し、どのシ
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えるための作業を行い、その結果を考察する﹂ということ
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ナリオがもっともらしいかを確認する作業が論文の研究内
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になる。これまでの説明は抽象的で読者にはまだイメージ
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容になる。三つのシナリオとは、それぞれ﹁労働者たちが
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がわかないかもしれない。マクロ経済学の実際の報告論文
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労働市場により多く参加したが、生産量は維持するだけだ
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を 例 に、
﹁問い﹂と﹁作業﹂の設定について実例を見るこ
ったので失業者が増えてしまった﹂、
﹁労働者一人あたりの
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とにしよう。米国サンフランシスコ連邦準備銀行のエコノ
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したりするのが第一の方法である。実際に卒業論文作成の
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労働時間が増加すれば生産量が増えなくても必要な労働者
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ための研究を進めている場合、具体的な資料をもとに自分
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の人数が減るので失業者が増える﹂、
﹁労働時間一時間あた
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である程度は問題を考えた上で指導教員と相談するのがよ
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りの生産量が増加すれば以前の総生産量を維持するのに必
いだろう。
―
A New Look at the
Ph. D. in Economics,
︹しらい
よしまさ
慶 應 義 塾 大 学 経 済 学 部 准 教 授、 国 際 経
要な労働者数が減少するので失業者が増える﹂といったも
のである。三つのシナリオの傍点部分がそれぞれのシナリ
オが依拠する仮説になる。論文の著者たちはこれら三つの
仮説が成立しているかどうかをデータで確認するという作
業を行った。そしてその結果、第三の仮説﹁労働時間一時
間あたりの生産量増大﹂が二〇〇九年のアメリカ経済で確
労働時間一時間あたりの生産量増加が継続するならば、二
認されたというのが結論である。この結果の考察として、
〇一〇年にかけてアメリカ経済の景気が回復しても雇用の
回復は必ずしも保証されるわけではないことが指摘されて
いる。
この具体例で注目すべき点は、論文の﹁問い﹂とそれに
答えるための作業ができるように﹁問い﹂を一層具体的な
済 学 、 マ ク ロ 経 済 学 専 攻。 一 九 九 九 年
﹁仮説﹂に置き換えていることだ。このような﹁問い﹂か
け方を発見して具体的作業をするのが卒業論文の一番難し
主 要 業 績
Northwestern University.
︺
Macroeconomic Dynamics, vol.4 no.4, pp.487 505. 2000.
Equilibrium Selection in Search Equilibrium with Masanao Aoki,
Diamond s Search Model: Stochastic Business Cycles and
いところであり、まさに新事実や、新しい考え方の発見を
するという営みそのものである。どのようにしてこのよう
な問いかけ方を身につければよいか?
という疑問がわく
であろう。先行研究の論文を読んで問題設定の仕方をまね
三色旗 2011.1(No.754)