乙類 萩原 能久

論文の書き方?
「論文」と「文」の違い
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論文とはひとつの問題解決行動である
萩原能久
ている方法も同じである。つまり何がよりよい解法なのかを
あらかじめ知りえない両者が採用するのは、とりあえず何
らかの解決策を試してみて、それがうまくいかない場合には
それをあきらめ別のものを試してみるという、試行錯誤の
アメーバーのような下等生物に、そもそも論文など書け
二 十 世 紀 を 代 表 す る 科 学 哲 学 者 の ひ と り で あった カ ー
したのである。どういう意味でアメーバーとアインシュタイ
るはずなどないではないかという反論もあるかもしれない
方法でしかない。ポパーはこれを首尾一貫して追求すること
ンに大差がないのだろうか。ポパーによれば、アメーバーも
が、論文を書くということも、アインシュタインのような
ル・R・ポパーが大胆なことを書いていた。
﹁アメーバーと
アインシュタインも、ともに自らをとりまく環境の中で、環
大科学者の場合であれ、一介の学生の卒業論文であれ、本
こそが科学の方法だと主張したのである。
境が課した問題に答えようとする、問題解決行動をとって
質的に同じで、それは﹁試行錯誤﹂の方法による﹁問題解
アインシュタインは同じことを行っている﹂
、彼はこう主張
いるという意味では本質的な差はない。また両者が採用し
三色旗 2010.7(No.748)
を立ててみることはむしろ喜びとなるだろう。
いや失敗こそが成功の源になるのだから、思い切った仮説
文を書こうとする人は失敗を恐れる必要がないのだから、
くれるのである。アメーバーなら死を恐れるだろうが、論
きる。言ってみれば仮説が、執筆者自身の代わりに死んで
次の問題解決行動、つまり次回の論文の糧にすることがで
め、その誤りから学び、これによって刺激された好奇心を
う こ と は な い。 む し ろ 逆 に 自 分 の 誤 り を 積 極 的 に 受 け と
失敗しても、別にその書き手が死ななければならないとい
さなければならないものだからであり、また論文の執筆に
らそこにあるものではなく、自分で発見する、いや作り出
意味してしまうが、論文を書く場合、
﹁問題﹂ははじめか
境が課したもので、その解決に失敗すれば即、個体の死を
けである。というのも、アメーバーが解決すべき問題は環
﹁ 問 題 ﹂ と は、 ア メ ー バ ー が 解 決 す べ き 問 題 と は 異 な る だ
決 行 動 ﹂ と い う 側 面 を 持 つ。 論 文 を 書 こ う と す る 場 合 の
いない。そもそも言葉というものには、私たちが自分自身
ために失うことになった時間と労力の方がはるかにもった
ればすぐその解決法を見つけ出せるのに、それを怠ったが
私自身にもいやというほどあった。それよりも、少し調べ
ができるからだ。何を隠そう、そういう恥ずかしい思いは
ある。こうした恥の経験は、次からそれを戒めにすること
れを恥ずかしいことだと感じられるようなら、まだ救いが
に解決したなどと自惚れるのも恥さらしである。しかしそ
もうとっくの昔に解決されていたのに、それを自分が最初
かしそうでないならば自分の無知をさらけ出すだけである。
ものならば、その﹁再発見﹂には重大な意義もあろう。し
たが、人知れずのものであったり、誰からも忘れ去られた
これに関しては微妙である。その解決法がかつては存在し
るのに、自分がそれを知らないだけという場合はどうか。
では、もうすでに先人が十分満足のいく答えを出してい
値しないような問題は定義からして﹁問題﹂ではない。
で考え、経験したのではないことを共有し、それを自分自
身の考えや経験に取り入れることができるというありがた
の成長に利用できるのだ。研究を志す者が外国語の習得に
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「問題」とは何か
それではそこでの﹁問題﹂とは何か。言うまでもないこ
励むのも、まさにその﹁すでに存在しているかもしれない
い機能が備わっているのである。他人の考えや経験を自分
とかもしれないが、すぐに答えの出るような、解決するに
三色旗 2010.7(No.748)
術がそのレベルに達していないがために、自分の手に余る
具があればそれを解けるが、能力がないために、現在の技
つは能力や技術の問題である。能力があれば、然るべき道
を解決できないことにはふたつの理由があるだろう。ひと
どうあがいても答えの出ないような問題はどうか。問題
解法﹂を発見する可能性と機会を広げるために他ならない。
検討する作業が必要になる。
そのためにはまず既存の解決案を可能な限り知り、それを
で自分なりの解決案を提示していくことになろう。しかし
どこに自分が満足できないか、それを十分に自覚したうえ
もしれない。その場合には数多く存在する既存の解決案の
なかで遭遇する問題の大半はこういうたぐいのものなのか
ている人に、本当は知らないのだということをわからせ、
目を見出したからである。それが何かを知っていると思っ
人が陥っているアポリアから救い出すことに﹁哲学﹂の役
を明らかにすることには重要な意味もある。ソクラテスは
もしれないが、ある問題が解法を持たないものであること
問題と取り組んでも徒労に終わるだけだと思う人もいるか
場合であり、哲学ではそれを﹁アポリア﹂と呼ぶ。そんな
る。もうひとつの理由は、そもそもその問題に出口がない
組むか、あきらめてその問題の解決は他人に委ねるかであ
つけてから、技術が開発されてからその問題に改めて取り
問題に対して自分が解決を試みているのか、問いのない、
と、実は教員として学生と接していて、そもそもどういう
う、ある意味で当たり前のことを長々と書いてきたかという
実はこれが一番 難しいと言ってもいいだろう。なぜこうい
もう答えは目前なのである。正しい問題を発見すること、
達できる境地なのであり、それができた段階では、むしろ
はなく、かなりの自問自答を繰り返したなかではじめて到
は論文を書こうとする場合の、時間的に最初にあるもので
分かりいただけたかと思う。
﹁問題﹂を設定するということ
﹁問題﹂を発見するまでに相当な道のりが必要なことがお
ここまでお読みいただければ、本当に取り組むに値する
という場合には、道はふたつにひとつである。能力を身に
改めてその人にそれを研究したいという欲望を注ぎ込むこ
その意味で論文とは呼ぶことすらできない、ただの﹁文﹂
それと関連して、ひとつの﹁コツ﹂を記しておきたい。
に付き合わされる経験があまりにも多いからである。
とがそれだった。
そもそも正解など存在しない、複数の解がある・ありう
る問題はどうだろう。おそらく社会科学に限らず、人生の
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はその章ごとに書くべきことを箇条書きし、書ける部分か
い。全体の議論の組み立て︵章立て︶を考えたなら、まず
論 文 の﹁ 序 章 ﹂ や﹁ は じ め に ﹂ は 最 初 に 書 く も の で は な
ばその﹁文﹂の論理は破綻している。
かぎり、必ず自分と同じ結論にたどり着く、そうでなけれ
い。自分とは異なる人が、自分が立脚した根拠にのっとる
しい。また最低限の論理を無視したものも﹁論文﹂ではな
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学問に王道なし?
らそれを徐々に文章にしていくのが得策である。その過程
で自分が﹁解決﹂すべき問題がはっきりしてくることの方
が多い。﹁序章﹂ではこれから自分が答えを与えようとす
る問題設定を行い、解決への道筋︵方法や仮説の設定︶の
﹁学問に王道なし﹂、これは︵異説もあるが︶幾何学を体
系 化 し た ユ ー ク リ ッ ド の 言 葉 だ と 言 わ れ て い る。﹁ 王 道 ﹂
概要を示すことになるだろうが、それは論文執筆の過程の
ほとんど最後の段階ではじめて自分にとっても明らかにな
などと言われると日本人はそこに儒教っぽいイメージを抱
い て し ま う か も し れ な い が、 こ の 言 葉 は 英 語 の 諺、 There
としてしばしば学校で教えられ
is no royal road to learning.
る部分なのである。
次に学生の﹁論文﹂ならぬ﹁文﹂に多いのが﹁問題設定﹂
があっても、少しもそれに答えようとしていない﹁文﹂で
ている royal road
の 訳 で あ る。 し た が っ て こ こ で の 王 道 と
は儒教とは関係がなく、王様だけが通ることを許されるき
ある。自分が調べてきたこと、他人の説の受け売りを羅列
するだけで、一向に自分で答えようとしない、つまり﹁解
ちんと整備された、歩きやすい楽な道というような意味で
ある。楽をして学問をものにすることなどできませんよと
決﹂を示そうとしないかぎり、それは論文ではない。
さらには、論文が自分なりの問題解決行動の提示である
ざ﹁文﹂にする意味などないだろう。だとすれば、単に自
人、つまり読み手の参考になるものでないかぎり、わざわ
は な い。 確 か に﹁ 王 道 ﹂ は な い か も し れ な い が、
﹁近道﹂
コツコツと歩を進めなくてはいけないのだろうか。そうで
しかし学問の高みに登るには全部自分だけの力で地道に
いう戒めである。
分の思いの丈を根拠の明示もなく述べるだけのものも﹁論
ならある。それは端的に、とりあえず﹁権威﹂に頼ること
の だ か ら、 同 じ 問 題 と 直 面 し、 そ れ を 解 決 し よ う と す る
文﹂とは言えない。きちんと注で根拠や出典を明示して欲
三色旗 2010.7(No.748)
学問という巨峰の高みに登るのには、先人がすでに敷設し
うであり、定評ある﹁教科書﹂に頼ることもそうである。
である。その分野で名をなした先生に教えを請うこともそ
してみたいと思います﹂と真顔で言いつつ卒論指導に現れ
ヨーロッパの政治思想史全体をギリシャから現代まで概観
し ば 目 に す る の が、 そ こ の と こ ろ を 勘 違 い し て、
﹁私は
私の専門が政治哲学であるということもあってか、しば
えば﹁民主主義について﹂あるいは﹁ナショナリズムにつ
てくれているケーブルカーもあれば、ヘリコプターを使う
実は先に述べた﹁問題﹂の発見を行うには、頂上まで到
い て ﹂ 書 い て み た い と 言 う 学 生 は も っ と 多 い。 そ こ に は
る学生諸君である。あるいはそこまで広くなくとも、たと
達しないまでも、ある程度の高みにまで登って、そこから
﹁ 問 題 ﹂ な ど な い、 い や 山 ほ ど あ り す ぎ て、 何 を﹁ 問 題 ﹂
という手もあるのだ。
俯瞰的に個別の問題が全体の中でどのような位置を占めて
として取り組むのかという視点がなさすぎるのである。
い。しかし﹁苦しい﹂かと問われれば、いや、それに喜び
組まなくてはならない。そこには間違いなく﹁王道﹂はな
題に対して、石にかじりつき、血の涙を流しながらも取り
でである。遊覧飛行から戻れば、今度は自分で設定した問
とつなのである。しかし﹁楽﹂をできる﹁近道﹂はそこま
生を一種の﹁遊覧飛行﹂に連れて行くというサービスのひ
体の中のどこにあるのかを俯瞰することができるよう、学
づけがわかっていなければそれを正しく理解することなど
部分を理解するためには、そもそも聖書全体の正しい位置
るという関係のことである。つまり聖書の中のある特定の
が部分の理解に依存し、部分の理解が全体の理解に依存す
きた学問である。そこで指摘された循環とは、全体の理解
もとは聖書の正しい理解を得るための技法として発達して
釈学的循環﹂の関係にあるとも言える。解釈学とは、もと
このような部分︵問題︶と全体︵俯瞰図︶の関係は﹁解
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解釈学的循環
いるのかが分かっている必要がある。学者と言われている
人が教科書や概説書を書くのは、何もそれで金儲けを考え
ているからではない。とりあえずは個々の学生が楽に全体
を見出せるのが﹁学問﹂という登山の楽しみで、ハマって
できないのだが、かといってふつうは読む前に全体を知る
像を把握して、自分のとりあげたいと考えている問題が全
しまえば病みつきになる。
三色旗 2010.7(No.748)
マキアヴェッリという思想家を例にとって考えてみよう。
体︶はしかし、これ以外の局面でも問題となる。たとえば
テ キ ス ト︵ 部 分 ︶ と そ れ を 取 り 巻 く コ ン テ キ ス ト︵ 全
﹁読解﹂というテキストに前者の絶対的優位などというも
の場合はマキアヴェッリのテキストと読者である学生の
ことはない。コンテキストとテキスト、あるいは著者、こ
﹁ 地 平 の 融 合 ﹂ と し て と ら え れ ば、 そ ん な に ビ ビ る ほ ど の
レベルに上昇していく作業でもある。またガダマーの言う
マキアヴェッリの思想、さらには彼の﹃君主論﹄という思
のは存在せず、両者は融合して一体化し、新たなテキスト
ことなどできない。一歩一歩、テキストを読み進めていく
想のテキストを理解する場合に知っていなければならない
となる。その結果、大胆な、マキアヴェッリ本人には思い
よ う に、 こ の コ ン テ キ ス ト と テ キ ス ト の 循 環 を 積 極 的 に
コンテキストとは何か。それはひとつに、西洋政治思想史
もつかなかったような有意義な学問的前進がもたらされる
しかないのだ。
全体であり、その中でマキアヴェッリがどういう位置を占
こともありえない話ではない。
というテキストの全体と、一節一節との往還の中で彼の思
解が必須である。その上で、先に述べたような﹃君主論﹄
として、マキアヴェッリの全著作と﹃君主論﹄の関係の理
いエッセイの場合、明らかにこの原理で書かれているよう
成法に由来するようだが、確かに﹁天声人語﹂のような短
っともらしく語られることが多い。どうもこれは漢詩の構
文章作法のコツとして﹁起承転結﹂などという公式がも
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最後に ──起承転結ではなく起承承結を
めているのかを理解していなければならない。ふたつ目は
マキアヴェッリが生きた当時のイタリア情勢であり、彼が
どのような具体的問題に答えを与えるべく執筆活動を行っ
想を理解しなくてはならない。古典と言われる書物を読む
に思われるものもある。
たのかを理解していなければならない。さらにはみっつ目
ときには、最低限でもこうした読み方に気を配らなければ
は、趣味での読書ならいざしらず、論文で許されるもので
たように、
首尾一貫した問題解決行動の表現だからである。
い。論文は漢詩でも四コマ漫画ではなく、
繰り返し述べてき
な ら な い の で あ る。 そ れ 以 外 の﹁ 読 者 の 勝 手 な 読 み 方 ﹂ しかし、これは論文の書き方の原則としては奨められな
はない。この循環は堂々巡りではなく、螺旋状により高い
三色旗 2010.7(No.748)
ことになるだろう。論理の流れは、問題とその解決に向け
だとすれば、その書き方の原則は﹁起承承結﹂だという
タ ー﹂ 所 長、 政 治 哲 学・ 政 治 理 論 専 攻。 一 九 八 七 年 慶 應 義 塾
ローバルCOEプログラム﹁市民社会ガバナンス教育研究セン
︹はぎわら
よしひさ
慶 應 義 塾 大 学 法 学 部 教 授、 同 大 学 グ
大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 政 治 学 専 攻 博 士 課 程 単 位 取 得 退 学。 主
て、一本の筋として貫かれていなければならない。
そして、繰り返しを恐れず強調しておきたいが、論文を
︵編著︶
﹃ポスト・ウォー・シティズンシップの
Fukosha, 2010.
Democracy and Governance for Civil Society,
るということをひけらかすためにあるのではない。いい論
思想的基盤﹄慶應義塾大学出版会、二〇〇八年。︵監訳︶マイ
︵
―編著︶
文であればあるほど、数年もたてば自分でその自分の論文
ケル・ウォルツァー著﹃正しい戦争と不正な戦争﹄風行社、二
要業績
を 否 定 し、 書 き 直 し た い と い う 思 い に 駆 ら れ る は ず で あ
〇〇八年︺
書くということは、自分がこんなに色んなことを知ってい
る。そうでなければ、その論文は、本当に解決すべき問題
と対峙していなかったことになるだろう。
最後に、忙しさにかまけて、実は自分でも実践できてい
ないことを﹁理想﹂として掲げておく。締め切りのかなり
前にひととおり書き終え、十分な推敲の時間を持って欲し
い。問題設定が有意義で、その解決に向けて自分が導入し
た方法や仮説が首尾一貫しているか、結論に至るまで、論
理的な欠落なく議論の流れに淀みがないか、それを、論文
を 書 い て い る 時 の 熱 に 浮 か さ れ た 状 況 か ら 一 度 冷 め た、
クールな頭で見直して欲しいのである。
このエッセイを原稿の締め切り日から書き始めた私に言う
資格などないのであるが。
三色旗 2010.7(No.748)