In Support of Great Works of Art 絵画修復家 岩井希久子氏 インタビュー 修復の環境保護にも 目を向ける これまで手がけてきたのはレンブラント 絵画を将来に引き継いでいくためには、 やゴッホ、ピカソ、モネ、マティスなどの作 ただ修復するだけでなく、予防医学的に 品。 日本の作家では香月泰男、藤田嗣治、 長く健康状態を保つための処置を施すこ 山下清などの作品ほか、広重や写楽、北 ヴァイサラの 湿度計が支える 世界最高の絵画修復 とも重要である。 20 186/2011 「作品に適した温湿度が保たれるように、 保存環境まで含めた提案をしています」。 岩井希久子さんは、日本で数少ない絵画 修復家の一人。 でなく世界からも依頼が舞い込む。 斎の浮世絵など多岐にわたっている。ま た、千葉大学で発見された大変希少な、 しかし劣化が著しかったディズニーのセ ル画の修復を見事にこなしたことでも知 られている。 30年ほど前からフリーランスで仕事を続 絵画修復家とは、いわばホームドクター けてきた岩井さんは、修復家の草分けと のような存在だ。作品展示中のホコリや して知られる人物であり、岩井さんのもと 汚れを除去することはもちろん、何らかの には、公立美術館やプライベート美術館、 事故で破損したり、経年変化した作品を 個人コレクター、画廊、作家など、 日本だけ メンテナンスしたりと、常に作品=患者に 寄り添って、異状=病気が見つかれば治 せてあげるかを第一に考える。修復家は し、将来のために残り半分は手をつけな 療していく。 黒子に徹しなければならないと思ってい いで残しておく」といった慎重な判断も ます」。出過ぎた修復は作品のオリジナ 必要となる。 「重要なのは観察することです。一点一 点、医療でいえばカルテのような、 コンデ ィションレポート (状態調書)を作り、作品 の状態を定期的にチェックしていきます」 。 これが仕事の基本となる。 レポートは、修 復記録として後世の修復家にも受け継が れていくだけにその責任は重い。 修復には半年から1 年ものあいだ作品を 預かる。 「状態の記録に始まり、素材など のテストをして、 どんな処置が必要かを 見極めてから作業にとりかかります」。 特に岩井さんは修復後の環境管理に最も 力を注いでいる。 黒子に徹して、 作家の心を読む 岩井さんが絵画修復の仕事と出会ったの は 1974 年。美術館建設の仕事に携わる 父親から紹介されたのがきっかけだ。当 時はまだ絵描きを目指す大学生だった。 リティを失わせてしまうばかりか、将来、 私たちの美意識まで問われることになり かねない。 作品のオリジナリティを 守るための道具 修復では拡大鏡をはじめ、顕微鏡や湿度 計、照度計といったハイテク機器から医 療用メス、大工道具、筆、消しゴム、そして 数ある道具の中で 20 年近くも愛用して いるのがヴァイサラの温湿度計 HM34 である。 イギリスの某国立美術館に所属する保存 科学者からすすめられ、使い始めた。 「わ ずか数秒で測定でき、デジタル表示だか ら見やすく、もちろん精度が高いことが一 番のポイント」。 化学薬品や合成樹脂まで、 プロセスにあ 保存面では、美術館など展示室の温湿度 わせて幅広い道具を使いこなす。 ときに チェックには手放せない。 は無塩無脂の食パンを汚れ落としに利用 例えば海外から作品を借りた時など、契 するなど作品ごとに工夫する。 また補彩は 約書には湿度 50 %± 5 、温度 20 ℃± 2 顔料を合成樹脂などを溶いて行う。 の環境で展示するようにといった契約条 「修復にも流行があり、また科学は日進 件がきめ細かく記載されている。 しかし、 月歩。長く使われてきた材料が、今になっ 測定する機器や方法、測定器の設置場所 て否定される場合もあります」。だから修 や台数は、美術館によってさまざまなの 復の大前提として、 「オリジナルを傷めず、 が現状だ。 なおかつ将来やり直したい時に除去可能 「何度も現場に足を運んでチェックを行 な材料を選ぶ」 という。 います。学芸員や美術館の施設担当者に 修復を手がけるうち、一生の仕事として興 油絵に油絵の具で補彩しないのはその は、 ヴァイサラの温湿度計で計測した値を その後1980∼84 味を持った。 日本で3年、 ためだ。接着剤や剥落止めなどもテスト 基準値にして、 わずかでも範囲外であった 年にはロンドンの美術館で修復技術を身 を重ねた上で安全なものを使う。安全だ この基準値にあわせるようにと厳格 時は、 にアドバイスしています」。 「絵だけでは食べていけないから」 と絵画 につけた。ロンドンでは技術はもとより、 からといって、作品の風合いを損ねるよ 理念を学んだことが大きな財産となって うでは論外で、その兼ね合いが難しい。 いる。 「オリジナリティを大事にすることを 時には「半分だけ今の最高の技術で修復 徹底的に学びました。同じ作家でも作品 一つひとつ、自ずと処置の仕方が違いま す」。 じっくりと作品に向き合い、観察して 適切な処置を見極めていく姿勢を大切に している。 どんな方針で修復するのか、 後世のために どんな処置が適切なのか、 「修復を進めな がらも迷っている」 。割り切って決断を下す 際には経験値がものをいうが、 その細やか な作業の過程では湿度を正確に計測する ことが大変重要になる。 また一方で、謙虚さも重要となる。技術を 過信してしまえば、作品を壊しかねない からである。 「作家の心をどう活かすか、よりオリジ ナルに近い状態にして、 どう生き延びさ 186/2011 21 湿度の調整が決め手 最近では、80年以上も前に描かれたピカ ソ作品の修復を手がけた。絵の具の剥落 が見られ、キャンバスが木枠に触れるくら いにたるんでしまっていた。 これを後世に 残していくためには、キャンバスを木枠か らはずし、新たな保存用パネルに張り直 す工程が必要だった。 この工程は、裏から スチームをあてて、湿度を測りながら、 タイ ミングを見計らって細心の注意を傾け、少 しずつ伸ばしてゆくという、最も緊張を強 いられる、重要な作業だといえる。タイミ ングを見間違えば、世界的な絵画が一瞬 で破損してしまう。 しかし、使われていたキャンバスは裏が透 けて見えるほど薄く、 「デリケートで触るの が怖いくらいの状態で」 、 少しのミスが命取 りになる困難な作業となった。 それを支えたのがヴァイサラの温湿度計 だ。 「 微細な湿度の加減でキャンバスは 大きく変化します。絵画には湿度調整が 一番大切です」。湿度を高めるとキャンバ スは柔らかくなる。その状態で均等に伸 ばし乾かすことで、絵に負担をかけずに たるみが取れる。 「作品にとっては、わず か1%や2%の湿度の差が肝心。その意味 で湿度計は、絶対的な信頼なくしては使 用できません」。 修復と保存と作品保護と 作品の修復とともに、 その保存にも大きな 力点をおいている。 以前、 日本の美術館 でこなした。 から絵を借りて海外で展覧会を行う企画が このような経験は、岩井さんの新たな好 あり、 そのクーリエ (作品の安全確保を担当 奇心を刺激する機会ともなり得る。今、岩 する職種) に指名された。 日本全国を回って 井さんが関心を持っているのは、 このよう 所定の作品をチェックして集め、 作品のケア な作品輸送中に、例えば航空機の中でも をしつつ、 作品とともに開催地に向かう。 展 常時クレート (輸送箱)内の温湿度を計測 覧会が終われば再び作品をチェックして、 日 し、 このデータを記録することができれば 本の美術館に戻すという仕事だった。 新たな予防手段への応用も可能なので クーリエの仕事は修復家が担当するのが 適任であると言えるが、海外の美術館に はないかということである。 予防学的アプローチは大きな意味をもつ。 い人たちに託したい」。ヴァイサラの技術 が、また岩井さんに続いてゆく新たな世 代の修復家たちを応援することができる かも知れない。 そのシステムづくりを一気に進めること はたやすいことではないが、 「作家が表現 したかったものを壊さないようにと。その 理念は、確実に伝えていける」 と岩井さん は考えている。 「私がかかわるのはほんの一瞬ですけれ ど、その一瞬が永遠につながる仕事では は専属の修復家や、運送の手配を担当す 「今、自分のできることを草の根運動み るレジストラという仕事が存在している たいに日本全国の美術館で広めていま が、日本にはどちらのシステムもないた すが、修復部門を設けるべきだということ その情熱の深さは、 どんな計測器でも測る め、岩井さんはこのクーリエの仕事を一人 はもちろん、あらゆるシステムづくりを若 ことはできないだろう。 22 186/2011 ないかと思っています」。
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