創価教育研究第3号 基調 報 告 一 牧 ロ常 三郎 は 国 家 政 策 の何 に 抵 抗 したか一 伊 藤 貴 雄 本 日は 、 こ の よ うに発 表 の機 会 を い た だ き 、 大 変 に恐 縮 し、 ま た 緊 張 してお ります 。 私 か ら は 、簡 単 です が 、1943(昭 和18)年7月6目 に 起 き た牧 口常 三 郎 の 逮捕 の理 由 にっ い て 、 報 告 を させ て い た だ き ます(1)。 一 般 に は 「治 安維 持 法違 反 」 と 「 不 敬 罪 」 が 逮 捕 の理 由 で あ る とい わ れ てお ります が 、 そ れ は 具 体 的 に は ど うい う意 味 な の か。 つ ま り、 牧 口の 思想 と行 動 の 何 が 当時 の 法 に触 れ る もの と 見 な され た の か 。 もっ と直接 的 に い え ば 、 牧 口の 逮 捕 につ い て は よ く<神 札 の拒 否 〉 が話 題 に され ま す が 、 は た して そ れ だ け が理 由 だ った の か 。 時 間 も限 られ て お ります の で 、 ほ ん の 要 点 の み にな る と思 い ま す が 、 当 時 の文 書 を も とに 、逮 捕 の背 景 に迫 って み た い と思 いま す(2)。 1『 特 高 月報 』 昭 和18年7月 分 逮 捕 に関 す る 公 式 記 録 資 料 を多 数 用 意 して お ります の で 、 それ に添 っ てお 話 し します 。 一 最 初 に ご覧 い ただ き たい の は、『特 高 月 報 』 とい うもの で す 。 これ は 「 特別 高 等警 察 」 とい う ナ チ ス で い うゲ シ ュ タ ポ の よ うな も ので す ね一 戦 前 ・戦 中 の 目本 にお い て 国 民 の 行 動 を 監 視 し、取 り締 ま っ て い た警 察 の月 報 で す 。 内務 省 警 保 局 保 安 課 の発 行 で 、右 上 の 方 に 「 厳 秘」 と書 い て あ ります よ うに 、 当時 の極 秘 資 料 です(現 在 は 、政 経 出版 社 か ら復 刻 版 が 出 て お り、 図書 館 等 で 閲 覧 で き ます)。 今 日お 配 り した の は 、 「昭和 十 八 年 七 月 分 」 ま さ に牧 口が逮 捕 され た 月 の 号一 のコ ピ ー です 。 目次 をみ ま す と、 「共産 主義 運 動 の状 況 」 「国家(農 本)主 義 運 動 の状 況 」 「 労働及経済 状況」「 農村状況」 「 朝鮮人運動の状況」「 宗 教 運 動 の状 況 」 とい う順 に並 んで お り、特 高 が 国 民 の 生 活 の じつ に細 か い と ころ に まで 監 視 の 目を光 らせ て い た 様 子 が うか が えま す 。 この 最 後 の 「宗 教 運 動 の 状 況 」 とい う項 目の なか に 「一 〇 、 創 価教 育 学会 本 部 関係 者 の 治 安 維 持 法 違 反 事 件 検 挙 」 とい う記 事 が あ りま して 、 こ こ に 当時 の警 察 が ど うい う理 由で 牧 口 を逮 捕 した のか が 書 か れ て い ま す 。 っ ま り、 国 家 の公 文 書 と して 、 正 式 に牧 口の 逮捕 理 由 を記 した 文 書 が これ な ので す 。 まず 、 そ の 内容 を確 認 したい と思 い ま す 。 「 東 京 都 神 田 区錦 町一 ノー 九 所 在 創 価 教 育 学 会 は、 昭 和 三 年 頃 現 会 長 た る牧 口常三 郎 が 芝 区 白金 台 町小 学 校 長 退 職 後 、 当時 本 名 の 冒信 中 な り し 日蓮 正 宗(静 岡県 富 士 市 上 野村 大 石 寺 を本 山 とす)の 教 義 に特 異 の解 説 を施 し た る教 理 を創 案 し、知 人 た りし小 学校 教 員 等 を 糾 合 して創 設 せ る宗 教 団体 な る が 、会 長 牧 口を 中心 とす る 関係 者 等 の思 想 信 仰 には 幾 多 不 逞 不穏 の もの あ りて 、 予 て よ り警 視 庁 、福 岡 県 特高 課 に於 て 内偵 中 の処 、牧 口会長 は信 者 等 に 対 し 『天 皇 も凡夫 だ』 『克 く忠 に な ど とは天 皇 自 ら言 は るべ き もの で は ない 。 教 育 勅 TakaoIto(創 価 大学 文 学 部 非 常勤 講 師/客 員 セ ン ター 員) 一115一 基調 報告 一 牧 口常 三 郎 は 国 家政 策 の 何 に抵抗 した か 一 語 か ら削 除 す べ きだ 』 『法 華 経 、 目蓮 を誹 諺 す れ ば 必 ず罰 が 当 る』 『伊 勢 神 宮 な ど拝 む 要 は な い』 等 不 逞 教 説 を流 布 せ る のみ な らず 、 客 年 一 月 頃 以 降 警 視 庁 当局 に対 し 『創 価 教 育 学 会 々員 中 に は 多数 の現 職 小 学 校 教 員 あ り且 其 の 教 説 は 日蓮 宗 に謂 ふ 曼茶 羅 の 掛 幅 を 以 て 至上 至尊 の礼 拝 対 象 とな し、他 の一 切 の 神 仏 の礼 拝 を排 撃 し、更 に諺 法 払 ひ と称 して 神 符 神 札 或 は神 棚 仏 壇 等 を焼 熾 撤 却 し、甚 し き は信 者 た る某 妻 が夫 の留 守 中諺 法 払 ひ を為 し た る為 離 婚 問題 を惹 起 せ り』 等 屡 篤投 書 せ る者 あ りて 、皇 大 神 宮 に対 す る尊 厳 冒漬 並 に不 敬 容 疑濃 厚 とな りた る為 同庁 に於 て 、本 月 七 日牧 口常 三 郎 外 五 名 を検 挙 し取 調 べ を進 めた る 結 果 、更 に嫌 疑 濃厚 と認 め ら る る寺坂 陽三 外 四名 を追 検 挙 し引続 き取 調 べ 中 な り」(3) 以 上 が全 文 です 。 私 な りに要 点 を解 説 しま す と、 まず 「 会 長 牧 口 を 中心 にす る 関係者 等 の思 想 信 仰 に は幾 多 の不 逞 不 穏 の も の あ りて」 牧 口会 長 た ち の思 想 信 仰 には 、 体 制 側 か ら見 て た く さん の く け しか らん 〉 とこ ろ が あ る とい うわ け です 。 そ こで 「 予 て よ り警 視 庁 、福 岡県 特 高課 に於 て 内偵 中 の処 」 内偵 とは現 在 で い うスパ イ 活 動 です 。 荻 野 富 士 夫 著 『特 高 警 察 体 制 史 』 に よ る と、 当時 の 内偵 に は 、尾 行 や 盗 聴 は も とよ り、犯 罪 捜 査 ・戸 口調 査 ・営 業 臨検 な どあ らゆ る機 会 をっ か っ て の く直 接 視 察 〉 と、新 聞記 事 や 密 告 ス パ イ を利 用 す る く間 接 視 察 〉 とが あ っ た そ うで 、 と くに1932年3月 刊 の 警 察 研 究 会 編 『社 会運 動 に 直 面 して』 で は 、 「 昭和 の 警 察 は進 歩 せ る科 学 的 組 織 的 な警 察 網 の働 き に よつ て 明 る く正 しき視 察 をす べ きで あ る。 只警 察官 は 管 内又 は 受持 区 に於 て真 に警 察 精 神 を理 解 せ る警 察 応 援 者 を物 色 し之 を各 そ の 向 々 に よ っ て指 導 し教 育 して 、 間接 に且 つ 自発 的 に警 察 を援 くる人 物 を獲 得 養 成 す る こ と、即 ち 国 家社 会 民衆 の為 赤 誠 を捧 ぐる 手段 と して警 察 の 耳 目 とな る人 物 と特 殊 な事 柄 に付 き善 処 す る は弊 害 な き も の と思 はれ る 」 と密 告 ス パ イ の有 用 性 が説 か れ て い ます(4>。 特 高 は 、 これ ら さ ま ざ ま な 手 口をっ か っ て 、牧 口 の身 辺 を さ ぐ った わ け です 。 そ の結 果 、牧 口の次 の よ うな発 言 が 「 福 岡 県 特 高 課 」 の 目に とま ります 。 個 々 の発 言 の意 味 内容 に っ い て は 、 の ち ほ ど くわ し く検 討 す る こ とに し、 こ こ で は ほ ん の さ わ りだ け見 て お き ま す。 ① 「 天 皇 も凡夫 だ 」 天 皇 は人 間 で あ る とい うこ とです 。 ② 「 克 く忠 に な ど とは 、天 皇 自 ら言 は るべ き もの で は な い。 教 育勅 語 か ら削 除す べ き だ」 ③ 「法華 経 、 日蓮 を誹 諺 す れ ば必 ず 罰 が 当 る 」 論 です 。 ④ 「 伊 勢 神 宮 な ど拝 む要 は な い」 教 育 勅 語 に対 す る批 判 です 。 法 華 経 、 日蓮 信 仰 の教 義 の一 つ で あ る法 罰 国 家神 道 に対 す る批 判 で す 。 さて 、 これ らの発 言 を 『特 高 月 報 』 は、 「不 逞 教 説 」 とい う言葉 で ひ と く く りに して い ます 。 以 上 は 、 さ き に見 た 内 偵 の 区分 で い う と、 〈直 接 視 察 〉 に よっ て 収集 され た情 報 です 。 この あ とに 、⑤ 「 神 札 」 の話 が 出 て 来 ま す 。 「客年 一H頃 以 降 」 す な わ ち1942年1月 以降 、 しば しば警 察 に 投 書 が 寄せ られ 、そ こ に は、"創 価 教 育 学会 が 「 諺 法 払 ひ 」 とい って 神 札 や 神 棚 を撤 廃 した り焼 却 した りして お り、 そ の た め に離 婚 騒 動 が 起 き た とこ ろ も あ る"と い う内容 が 書 い て あ っ た とい うの です 。 この投 書 が だれ に よる も の か は 明 らか で は あ りませ んが 、 さき の 区 分 で い うと く問接 視 察 〉 、つ ま り警 察 官 で は な い が 「 警 察 精 神 を理 解 せ る警 察 応 援 者 」 「間接 に且 っ 自発 的 に 警 察 を援 くる 人 物 」 「 警 察 の 耳 目 とな る人 物 」、一 言 でい え ば 〈密 告 ス パ イ 〉 に よ る投 書 とい え ます 。 * 以 上 の 情 報 に も とづ き 牧 口が 「皇 大神 宮 に対 す る尊 厳 冒濱 拉 に不 敬 容 疑 濃 厚 」 と判 断 され た た め、 検 挙 に 踏 み切 っ た の だ と 『特 高 月報 』 は結 論 づ け て い ます 。 さて 、 こ こ で注 意 し た い こ とが あ りま す 。 月 報 の 文 章 に 「予 て よ り警 視 庁 、福 岡 県特 高課 に於 て 内偵 中 の処 」 とあ ります 一116一 創価教育研究第3号 が 、 牧 口が福 岡 県 で創 価 教 育 学 会 の 会 合 を開 い た の は 、 今 日確認 され て い るか ぎ り、1940(昭 和15)年11H上 は 、 二 日市(現 旬 と、翌1941(昭 和16)年11H中 旬 との2回 で す 。 と くに2回 目(1941年11A) ・福 岡 県 筑 紫 野 市)の 武 蔵 屋 旅 館 で 「九 州 総 会 」 を開 催 して い ま す が 、 そ の さ い3人 の 特 高 刑 事 が 監 視 の た め立 ち会 った とい う証 言 が あ りま す(5)。 牧 口の 「 天皇 も凡夫だ」 以 下 の 諸 発 言 が 福 岡 県 特 高 課 に よ って 記 録 され た の は 、 こ の とき の可 能 性 が 強 い と考 え られ ま す(も ち ろ ん 、す で に1940年 の段 階 で 目をつ け られ て い た 可 能 性 も否 定 は で き ませ ん(6))。 さ て 重 要 な のは 、 「 神 札 」 に 関す る 投 書 が警 察 に 寄せ られ た の が1942年1H以 降なので、その間、 少 な く とも約2ヶ 月 の時 間差 が あ る とい うこ とで す 。 つ ま り、特 高 は 、神 札 問題 が持 ち上 が る 少 な く とも約2ヶ 月 前 に は 、① 天 皇 凡 夫 説 、② 教 育 勅 語 批 判 、③ 法 罰 論 、④ 国 家神 道 批 判 の4 点 にお い て 、牧 口に 目をつ けて い た わ け です 。 この2ヶ 月 の差 は 、 け っ して軽 視 で き ませ ん。 とい うの も、 この2ヶ 月 の あ い だ に は 、1941 年(昭 和16)12A8目 太 平洋 戦 争(当 の く真 珠 湾 攻 撃 〉 とい う事 件 が起 き て い るか らです 。 っ ま り、 牧 口は 、 時 は 「大東 亜戦 争 」 とい い ま した)の 開始 前 か らす で に、 国 家 に とっ て の 〈危 険分 子 〉 と見 な され て い た の で す 。 よ り正確 にい え ば 、 開 戦 直 前 の 、 思 想 統 制 が そ れ ま で 以 上 に強化 され る時 期 に、 牧 口は く非 国 民 〉視 され た わ け です 。 開 戦 を最 終 的 に決 定 した!2月1日 の御 前 会議 で 、総 理 大 臣 の 東 条 英機(内 相 も兼 任 して い ま した)は 、 「日米 問 題 二 関 ス ル 国 民 ノ 動 向並 二 治 安 上 ノ措 置 」 として 、 「 共 産 主 義 者 、不 逞 朝 鮮 人 、一 部 宗 教 上 の要 注 意 人 物 等 ノ墜 反 軍 其 ノ他 不 穏 策 動 ヲ為 ス虞 ノア ル 者 」 の取 締 と予 防 検 束 を挙 げ て い ます(7)。 この ときす で に牧 口 は警 察 の ブ ラ ック リス トに上 が っ てい ま した 。 そ し て 、 こ の東 条 の指 令 を受 け 、特 高 警 察 が さ らに思 想 統 制 を 強 め る 中 、牧 口を捕 らえ る格 好 の材 料 と して く神 札 拒 否 〉 の嫌 疑 が新 た に加 わ っ た わ け です 。 今 目か ら見 れ ば や や意 外 な こ とか も しれ ませ ん が 、牧 口の言 動 の な か で特 高 が最 初 に 目をっ け た の は 、神 札 拒否 で は あ りま せ ん で した。 ま た 、特 高 が 挙 げ た牧 口の く不 逞 教説 〉 に は 、① 天 皇 凡夫 説 と② 教 育 勅 語 批 判 とい う、 か な らず し も宗 教 とは 直接 的 な 関 わ りの な い事 項 が含 ま れ て い ま した 。 で は 、 牧 口は ど うい う意 味 で そ れ らの発 言 を した の で し ょ うか 。 そ して 特 高 は ど うい う根 拠 か ら牧 口の発 言 を治 安 維 持 法 違 反 お よび不 敬 罪 と見 な した の で し ょ うか 。 2天 皇 凡 夫説 こ こで 参 考 に な る資 料 が 『特 高 月 報 』 の昭 和18年8月 分 、 っ ま りさ き ほ ど見 た 号 の 翌 月 号 で す 。 これ に は 「 創 価 教 育 学 会 会 長 牧 口常 三 郎 に対 す る訊 問 調 書 抜 粋 」(以 下 、 「 訊 問 調 書 」 と略 記)と い う長 文 の記 事 が あ り、牧 口 と警 察 との一 問一 答 が 全 部 記 録 され て い ます 。 こ の なか で 警 察 は 、 さ き の牧 口の発 言 ひ とっ ひ とつ にっ い て 、そ の真 義 を 問い た だ し、言 質 を取 ろ う と し ます 。以 下 、① 天 皇 凡 夫 説 、② 教 育 勅 語 批 判 、③ 法罰 論 、④ 国家 神 道 批 判 の それ ぞ れ にっ い て 、 該 当す る部 分 を 「 訊 問調 書 」か ら抜 き 出 し、牧 口本 人 の説 明 を確 認 して み ま し ょ う。そ れ か ら、 そ の発 言 が警 察 に よっ て 問 題視 され た理 由 を 、 当 時 の政 府 が 出 して い た公 式 見解 の 内容 と比較 す る こ とで考 え て み た い と思 い ます 。 ま ず 、 ① 天 皇 凡 夫説 に 関す る とこ ろ です 。 「 問 陛 下 が 御 本 尊 に帰 依 され て 、 其 御 心 に 従 つ て 国 家 を 御 治 めに な る と云 ふ 事 に な る と 陛 下 の御 自由の 御 意 思 が 阻 害 され はせ ぬか 。 答 左 様 な事 に は な らない と思 ひ ます 。 私 は 学 会 の座 談 会 等 の席 や 又 会 員 其 他 の 人 に個 々 一117一 基調 報告 一 牧 口常 三 郎 は 国家 政 策 の何 に 抵抗 した か 一 面接 の 際 度 々 陛 下 の事 に 関 しま して 、 天 皇 陛 下 も凡 夫 で あっ て 、皇 太 子 殿 下 の頃 に は学 習 院 に通 は れ 、 天 皇 学 を 修 め られ て 居 るの で あ る。 天 皇 陛 下 も間 違 ひ も無 い で は な い。 明治 初 年 に明 治 天 皇 に 山 岡鉄 舟 は 随分 御 忠告 を して 間違 を指摘 され た そ うで あ る。 と話 した 事 が あ ります が 全 く其 通 りで あ ります 然し 陛 下 も久 遠 本 仏 た る御 本 尊 に御 帰依 な さ る事 に依 つ て 、 自然 に智 恵 が御 開 け にな つ て 、誤 りの な い御 政 治 が 出来 る様 にな る と思 ひ ます 」(8) 要 す る に 、"天 皇 も 、皇 太 子 時 代 は学 校 に通 っ て学 ん で い る以 上 、 自分 た ち国 民 と同 じ人 間 で あ る"と い うこ とです 。 教 育 学者 の牧 口 ら しい見 解 です 。 今 日か ら見 れ ば 、 ご く当 た り前 の 見解 で し ょ うが 、 当 時 は 、 そ れ す ら も法 に触 れ る よ うな 目本 で あ っ た わ け です 。 周 知 の こ と と は 思 い ます が 、 こ こ で 当時 の政 府 の公 式 見解 を見 て お き ま し ょ う。 資 料 と して用 意 した の は 、 文部 省 が1937(昭 和!2)年3E30日 ッ ト 『国 体 の本 義 』 です 。 私 が もっ て い る第10刷(1943[昭 に 出 した 国 民教 化 用 パ ン フ レ 和18]年5E31日 発 行)の 奥 付 に は173万 部 と あ りま す か ら、毎 年 平均25万 部 近 くも刷 って い た こ とに な りま す(9)。 また 、角 家 文雄 著 『昭和 時代15年 戦 争 の 資料 集 』 は 、 「『国体 の本 義 』 は終 戦 に い た る ま で 中等 学 校 教 育 の 聖典 に な っ た。小 学校(国 民 学校)、 中等 学 校 の教 員 は 『国体 の本 義 』 の 内容 を理 解 す る た め に研 究読 書会 を設 け 、 中 等学 校 の 多 くは 『修 身 』 の教 科 書 と して使 用 した。 高 等 学 校 、専 門 学校 、 軍 関係 学校 の入 学試 験 に も必 読 書 とされ た。 それ だ け に 、 当時 の青 少 年 に大 き な影 響 を 与 え た とい え る。 三十 年 以 上 経 っ た今 日に 至 る ま で 、『国 体 の本 義 』 の"肇 国"の 章 な ど、 ほ ぼ 正確 に記 憶 して い る 四 十歳 代 の 人 は 多 い の で は なか ろ うか 」(10)と述 べ て い ます 。文 字通 り、十 五年 戦 争 中 の く公 式見 解 〉 を代 表 す る文 献 とい え ます 。 ち なみ に 、 こ の本 が 出て 一 ヶ月 あ ま り た っ た7月7日 に 盧溝 橋 事 件 が起 こ り、 目中戦 争(当 時 は 「 支 那 事 変 」 とい い ま し た)が 始 ま ります 。『国 体 の 本 義 』に つ い て は 、ま た の ち ほ ど取 り上 げ ます が 、戦 争 開 始 の約 一 ヶ月 前 に全 国 の教 育 機 関 に一 斉 配 布 され た とい う∼ 事 を も って して も 、 こ のパ ン フ レ ッ トの もつ 政 治 的 意 味 の 大 き さが うか が え ます 。 冒頭 の 「 第一 大 日本 国 体 一 、 肇 国」 とい う節 は、 次 の一 句 で 始 ま りま す。 「 大 日本 帝 国 は 、万 世 一 系 の天 皇 皇 祖 の神 勅 を奉 じて 永 遠 に これ を統 治 し給 ふ 。 これ 我 が 万古 不 易 の国 体 で あ る」(11) こ の あ と、 古 事 記 、 日本 書 紀 を 引い た うえ で 、 「天 照 大 神 は 、 この 大 御 心 ・大 御 業 を天壌 と 共 に窮 りな く彌 栄 え に発 展 せ しめ られ るた め に、 皇 孫 を降 臨 せ し め られ 、 神 勅 を下 し給 うて 君 臣 の大 義 を定 め 、我 が 国 の祭 祀 と政 治 と教 育 との根 本 を確 立 し給 うた ので あつ て 、 こ 払に肇 国 の大 業 が成 つ た の で あ る」(12)と、天 皇 が 天 照 大神 の 子孫 で あ る こ と を強調 します 。 そ して 「我 が 国 の政 治 は 、 上 は皇 祖 皇 宗 の神 霊 を祀 り、 現 御 神 として 下 万 民 を率 ゐ給 ふ 天 皇 の 統 べ 治 ら し 給 ふ とこ ろ で あつ て 、 事 に 当 る もの は 大御 心 を奉 戴 して 輔 翼 の 至 誠 を尽 くす ので あ る」(13)と、 歴 代 の天 皇 もま た く神 〉 に ほか な らぬ こ とを結 論 す るの で す 。 * 以 上 の よ うな荒 唐 無 稽 な神 話 が 国家 教 育 の 支 柱 に置 か れ 、 受 験 にす ら課 され た とい う時 代 状 況 を頭 にお く と、牧 口 の天 皇 凡 夫 説 は、 か りにそ れ が 近 代 人 の常識 を述 べ た もの にす ぎ な い と 一118一 創価教育研究第3号 して も大 変 な 重 み を持 っ て い ます 。 と こ ろが 、 〈現 人 神 〉 の神 話 が 当時 の社 会 で 担 っ た政 治的 役 割 を考 え る と き、牧 口の天 皇 凡 夫 説 は 、常 識 の表 明 以 上 の意 味 を もつ こ とが わか ります 。 今 度 は 、『国体 の本 義 』 と並 ん で 、国 民 教 化 にお いて 大 き な役 割 を果 た した パ ン フ レッ ト 『臣 民 の 道 』か ら 引用 しま し ょ う。これ は文 部 省 教 学 局 が194![昭 和16]年7A21日 今 日資 料 とし てお 配 りした の は 、 同年8H15日 解 題 、高 須 芳 次 郎 註 解 『文 部 省 編 纂 に発 行 した もの で 、 に 出 た注 釈 付 バ ー ジ ョン(久 松 潜 一 ・志 田延 義 臣 民 の 道 』)で す 。全 編 どこ をみ て も 、4ヶ 月後 の 開 戦 を 想 定 して書 か れ た とし か思 え ない 本 な の です が 、 そ の第3章 第1節 「 皇 国 臣 民 と して の 修 練 」 に は こ うあ ります 。 「歴 代 の天 皇 は皇 祖 の神 齎 で あ らせ られ 、 皇祖 と天 皇 とは御 親 子 の 関係 に あ らせ られ る 。 而 して 天 皇 と臣 民 との 関係 は 、義 は 君 臣 に して 情 は 父 子 で あ る。神 と君 、君 と臣 とは ま さ に一 体 で あ り、 そ こ に敬 神 崇 祖 、 忠孝 一 本 の道 の根 基 が あ る。[…]さ れ ば、国民各 気が 肇 国 の 精神 を体 得 し、 天 皇 へ の 絶 対 随 順 の ま こ と を致 す こ とが 臣 民 の 道 で あ り、 そ の実 践 に よっ て 自我 功利 の 思想 は消 滅 し国家 奉 仕 が第 一 義 とな って く るの で あ る 」(14) こ の よ うに、 現 人 神 の 神 話 こそ は 、 日本 の全 国 民 を戦 争 に奉 仕 させ る うえで 、 最 大 のイ デ オ ロギ ー的 効 果 を発 揮 した もの な ので す 。 こ の イデ オ ロ ギー は 、 中等 教 育 のみ な らず 、初 等 教育 を通 して も鼓 吹 され ま した 。『臣 民 の道 』 とほ ぼ同 時 に文部 省 が 編纂 し、太 平 洋 戦 争 の 開戦 直後 に発 行 され た修 身 教 科 書 で あ る 『初 等修 身科 う。 そ の 「三 一 』(1942[昭 和17]年2月)を 開いてみま しょ 日本 の子 ど も」 とい う節 には こ うあ ります 。 「 世 界 に 、 国 は た く さん あ ります が 、神 様 の御 ちす ぢ を お うけ に な っ た天 皇 陛 下 が 、 お を さ め にな り、 か ぎ りな く さか え て 行 く国 は 、 目本 の ほ か に は あ りませ ん。 い ま 日本 は 、 遠 い 昔 、 神 様 が 国 をお は じめ に な っ た 時 の 大 きな み 心 に した が っ て 、 世 界 の 人 々 を正 し くみ ちび か うと して ゐ ま す 。/私 た ち の お と うさん 、 にい さん 、 お ち さん な どが 、 み ん な勇 ま し くた た か って ゐ られ ま す 。 戦 場 に出 ない 人 も、 み ん な 力 を あは せ 、 心 を一 っ に して 、 国 を ま も らな けれ ば な らな い 時 で す 。/正 しい こ とのお こな はれ るや うにす るの が 、 目本 人 のっ とめで あ りま す 。 私 た ちは 、 神 様 のみ を しへ に した が って 、 世 界 の 人 人 が しあ はせ に な る や う に 、 し な け れ ば な りま せ ん 」(15) 表 現 こそ 『国 体 の本 義 』 や 『臣 民 の道 』 に 比べ て容 易 です が 、 内容 は それ らのパ ン フ レ ッ ト よ りもず っ と直接 的 です 。 子 ど もた ち は 、 天 皇 とい うく神 〉に絶 対 随順 す る こ とを最 高 の 道徳 と教 え られ 、 将 来 く兵 士 〉あ る い は 〈銃 後 の 母 〉 とな る こ との 大切 さを 、頭 脳 に刷 り込 ま れ て い くわ けで す 。 次 に見 る 「 教 育 勅 語 」 の 問 題 とも関 わ るの です が 、 牧 口の天 皇 凡 夫説 は 、 そ う した国 民 教化 イ デ オ ロギ ー を一 挙 に く相 対 化 〉す るイ ンパ ク トを も って い た とい えま す 。 だか らこ そ 、『特 高 月報 』 も 、牧 口の 〈不 逞 教 説 〉の筆 頭 に これ を挙 げ た ので し ょ う(16)。 3教 育勅語批判 っ ぎ に 、② 教 育 勅 語 批 判 です 。 「 訊 問調 書 」 に は こ うあ ります 。 「 問 被 疑者 は 学会 の会 員 其 の他 に対 し教 育勅 語 の 『克 ク 忠 二』 と謂 ふ 事 を天 皇 陛 下 が 臣 一119一 基調 報 告 一 牧 口常 三 郎 は 国 家政 策 の 何 に 抵抗 した か一 民 に仰 せ られ た事 で な い と説 明 して居 る が 、如 何 な る理 由 な りや 。 答 教 育 勅 語 の 中 に、 親 に対 して は 『父 母 二孝 二 』 と明示 して あ りま す が 、陛 下御 自 ら臣 民 に対 して 忠 義 を尽 くせ と仰 せ られ る事 は 、 却 而 様 に仰 せ にな らな くて も 日本 国民 は 陛 下 の 御 徳 を傷 付 け る も の で 、左 陛 下 に 忠 義 を尽 くす の が 臣 民 道 で あ る と考 へ ま す 」(17) "克 ク 忠二"の 意 味 につ い て は 、 あ とで 詳 し く見 ます が 、 さ しあた りは 「よ く忠実 で あれ 」 と い う意 味 で理 解 して お き ま し ょ う。 牧 口は 、 この言 葉 が"天 皇 の発 言 で は な い"と 会 員 に語 っ た よ うで 、警 察 はそ の真 意 を聞 くわ けで す 。それ に対 して 牧 口は、"天 皇 陛 下 み ず か ら国民 に 向 か っ て 「忠 実 で あれ 」 とお っ しゃ る の は 、逆 に 、 陛 下 の徳 を傷 付 け る こ とに な りは しな い で し ょ うか 。 も し、 そ の よ うに命 令 しない と国 民 が 忠実 に なれ ない ので あれ ば、 よ ほ ど陛 下 は 国 民 か ら信 頼 され て い な い とい うこ とに な りは しませ ん か"と 答 え ます 。 ず い ぶ ん 、天 皇 に配 慮 し た 表 現 です が 、 これ は警 察 署 内で の 問答 です か ら、 われ われ は こ こ に牧 口の 込 めた 一 流 の皮 肉 とい うか 、抵 抗 精 神 とい うか 、 ま さ に相 手 の立 場 に則 りつ っ 相 手 を論 駁 す る とい う レ トリ ック を 読 み とる必 要 が あ る と思 い ます(18)。 こ こで 、牧 口の真 意 を探 るた め に も、 や は り 「 教 育 勅 語 」 を見 て お か ね ば な りま せ ん(読 み やす くす る た め 、牧 野宇 一郎 『教 育勅 語 の思 想 』 に従 って 、 句 読 点 を打 ち ます(19))。 「 朕 惟 フ ニ 、我 力 皇祖 皇宗 、國 ヲ 肇 ムル コ ト宏 遠 二 、徳 ヲ樹 ツル コ ト深 厚 ナ リ。我 力 臣 民 、 克 ク 忠 二克 ク孝 二 、億 兆 心 ヲー ニ シ テ 、 世 世 豚 ノ美 ヲ濟 セ ル ハ 、 此 レ我 力 國禮 ノ精 華 ニ シ テ 、教 育 ノ淵 源 、亦 實 二 此 二存 ス 。 爾 臣 民 、 父 母 二孝 二 、 兄弟 二友 二 、夫 婦 相 和 シ 、朋 友 相 信 シ 、恭 倹 己 ヲ持 シ 、博 愛衆 二及 ホ シ 、 學 ヲ修 メ 業 ヲ習 ヒ、 以 テ智 能 ヲ啓 発 シ 、 徳 器 ヲ 成 就 シ 、進 テ 公 益 ヲ廣 メ 世務 ヲ開 キ 、 常 二 國 憲 ヲ重 シ 國法 二遵 ヒ、一 旦 緩 急 ア レハ 義 勇 公 二奉 シ 、以 テ 天 壌 無窮 ノ皇 運 ヲ扶 翼 ス ヘ シ。 是 ノ如 キハ 、濁 リ朕 ガ 忠 良 ノ 臣 民 タル ノ ミナ ラ ス 、又 以 テ 爾祖 先 ノ遺 風 ヲ顯 彰 ス ル ニ 足 ラ ン。 斯 ノ道 ハ 、 實 二 、 我 力皇 祖 皇 宗 ノ遺 訓 ニ シ テ 、 子 孫 臣 民 ノ倶 二遵 守 ス ヘ キ所 、 之 ヲ古今 二通 シテ 謬 ラス 、 之 ヲ中外 二施 シ テ悼 ラス 、 朕爾 臣 民 ト倶 二 、拳 拳 服 庸 シテ 、威 其 徳 ヲー ニ セ ン コ トヲ庶 幾 フ。 明 治 二 十 三年 十 月 三 十 日 御名 御 璽 」(20) こ の最初 の ほ うに あ る 「 克 ク忠 二」 とい う一 句 を 、牧 口は不 要 と主 張 した の で す 。 で は 「 克 ク忠 二 」 とは ど うい う意 味 か。 『国 体 の 本 義 』 発 行 の2ヶH後 、1937[昭 和12]年8H15日 に、 峰 間 信 吉 編校 『教 育勅 語 術 義 集 成 』 とい う本 が 出 て い ます 。 数 人 の水 戸 学 者 が 、教 育 勅 語 の一 語 一 語 に もっ た いぶ っ た注 釈 を付 け た本 な の です が 、「 克 ク 忠 二」に っ い て は 、柳 瀬 勝 善 とい う 水 戸 学 者 が こ う述べ て い ます 。 「『克 ク 忠 二克 ク孝 二』 との玉 はれ し克 の 字 は 、 楊 子 方 言 。 勝 己 之 私 謂 之克 と云 ふ こ とあ りて 、 一 己 の私 な どに は見 事 に打 勝 ちて 、 只 々 君 父 の 力 、 国 家 の た め と云 ふ こ とに 専 心一 意 方 向 を定 め 、如 何 な る辛 苦 を も厭 はず 、 身命 を も さ し出 して 、 其 の誠 を 尽 す を克 く忠 に克 く孝 に と申す にて 、如 何 に 国家 の為 め と言 ふ こ とあ る も、 其 の 内 心 に1柳か た りと も私意 私 心 を挟 み 、私 利 私 欲 の為 め にす る こ とあ りて は、 克 く とは 云 は ぬ な り。 忠 とは 、 臣 た る誠 を尽 し、能 く君 に事 ふ る こ とに て 、孝 とは 、子 た る道 を守 り、 能 く父 母 に事 ふ る こ と 一120一 創価教育研究第3号 な り」(21)。 一 っ ま り、 自分 をす て て 、 どん な辛 苦 もい とわず 、国 家 の た め に 身 命 を さ し 出す のが、 「 克 ク忠 二 」 の意 味 で あ る、 と(22)。 で あれ ば 、 こ の 「 克 ク 忠 二」 と内容 的 に一 番 対 応 してい る の は 、そ の あ とに 出て く る 「 一旦 緩 急 ア レハ 義 勇公 二奉 シ 、 以テ 天 壌 無 窮 ノ皇 運 ヲ扶 翼 スヘ シ」 とい う一 節 に ほか な りませ ん。 牧 野宇 一 郎 の 現代 語訳 で は 、「も し も国 に危 急 存 亡 の大 事 が起 き た な らば 、愛 国 の 義 務 心 か ら発 す る勇 気 を も っ て 皇 国 に一 身 を捧 げ ね ば な らな い。 そ して 以 上 の ご と くす る こ とに よ っ て 、天 地 と と もに き わ ま りな い 皇 室 な い し皇 位 の 昌運 を たす け ね ば な らな い 」 とな っ てい ま す 。 っ ま り、 も し 日本 が 戦争 に 見舞 われ た揚 合 は 、兵 士 と して天 皇 と 日本 の た め に命 を捨 て な さい とい うの が 、 「 克 ク 忠 二」 の真 の意 味 な ので す 。 げ ん に、 『教 育勅 語衛 義 集 成 』 で 、栗 田寛 とい う水 戸 学 者 な どは 、 「 其 の 忠孝 の心 を以 て 、 外 患 の あ る とき に は 、之 れ が 侮 りを拒 ぐ と云 ふ や うに 、 どの や うな 外 国 人 が 、 大 軍 が 押 し寄 せ て も、 我 が 日本 国 に は 、 此 の 忠孝 の 心 を以 て 、彼 れ を拒 ぐ と云 ふ 目 に は 、 拒 ぎ お ほ せ の 出 来 ぬ こ と は な い 」(23)と 述 べ て 、 「 克 ク 忠二 」 と 「 一 旦緩急ア レ ハ 義 勇 公 二 奉 シ 」 と の 対 応 関 係 を 表 明 して み せ て い ま す(24)。 * こ の こ とは 、1941年8.月 第2章 の 、そ の名 も 発 行 の 『臣 民 の 道 』 を 見 る と 、 も っ と 明 確 に 記 さ れ て い ま す 。 同 書 「臣 民 の 道 」 と 題 す る 第2節 しつ っ 、"忠 を も っ て 命 を 捨 て よ"と を見 て くだ さい 。 教 育 勅語 の 文 言 を 下 敷 き に の メ ッ セ ー ジ を 見 事 に 織 り込 ん で い ま す 。 「万 民愛 撫 の皇 化 の 下 に億 兆 心 を一 に して 天 皇 にま つ ろひ 奉 る、 これ 皇 国 臣 民 の 本 質 で あ る。 天 皇 へ 随順 奉 仕 す る この 道 が 臣 民 の道 で あ る。[…]元 正 天 皇 の詔 には 、 至公 に して 私無 き は 国士 の常 風 な り、 忠 を以 て君 に事 ふ る は 臣子 の恒道 な り。 と仰 せ られ て あ る。 ま た 北 畠親 房 は神 皇 正 統記 に、 『凡 そ 王 土 に は らまれ て 、 忠 を い た し 命 を捨 っ る は 人 臣 の 道 な り。』 と教 へ て ゐ る。 即 ち 臣 民 の 道 は 、私 を 捨て て 忠 を 致 し、天 壌 無窮 の 皇運 を扶 翼 し奉 る に あ る」(25) こ うした 〈滅 私 奉 公 〉の 思想 は く現 人 神 〉の神 話 と同 じ く 底 して 教 え こま れ ま した 。 『初 等 修 身 科 二 』(1942[昭 和17]年2月)に 初 等 教 育 にお い て も 、徹 は 、 「三 靖国神社」 とい う節 が あ り、 こ う書 い て あ ります 。 「 靖 国 神 社 に は、 君 の た め国 の た め に っ く して な くな っ た 、 た く さん の 忠義 な人 々 が 、 お まっ り して あ ります 。[…]/君 の た め 国 の た め につ く して な くな っ た 人 々 が 、か うして 神 社 にま つ られ 、そ のお ま っ りが お こな わ れ るの は 、 天 皇 陛 下 の お ぼ しめ しに よる もの で あ ります 。/私 た ち の郷 土 に も、 護 国 神 社 が あつ て 、 戦 死 した 人 々 が まっ られ て い ます 。 /私 た ち は 、天 皇 陛 下 の御 恵 み の ほ どをあ りが た く思 ふ と とも に、 こ こに ま つ られ て ゐ る 人 々 の 忠義 に な らつ て 、 君 の た め 国 の た め にっ くさ な けれ ば な りま せ ん 」(26) 君 の た め 国 の た め に尽 く して死 ぬ こ とが 「忠義 」 の定 義 な の です 。 ま た 、 そ の 翌年 に発 行 さ れ た 『初 等修 身 科 三』(1943[昭 和18]年1月)に は、 「 九 軍 神 のお もか げ 」 や 「 十五 特 別 攻 撃 隊 」(こ れ は 、特 攻 隊 につ い て 述 べ た もの です)と 題 す る節 で 、戦 争 に殉 じた 軍 人 た ち の 精神 を 「 尽 忠 報 国 」 とい う言 葉 で ま とめ て い ます(27>。 さ らに 、『初 等 修 身 科 和18]年1月)で は 、 「八 四』(1943[昭 国 民 皆 兵 」 とい う節 で 、兵 士 と して 「忠誠 勇武 」 を尽 くす こ とが 、 一121一 基調報告一 牧 口常三郎 は国家政策 の何 に抵抗 したか一 男 子 の本 懐 で あ る と書 かれ て い ま す(28)。 こ う して 見 る と、 「克 ク忠 二 」 の一 句 が 、 軍 国 教 育 の 支 柱 を担 っ て い た こ と は 明 らか で す 。 こ の一 句 を 、天 皇 が い うべ き こ とで は な い と し、不 要 と見 な した 牧 口の 見解 は 、政 府 ・文 部 省 に とっ て 、 ま さ し く国家 教 育 の 中核 を揺 るがす よ うな く危 険発 言 〉を意 味 しま した(29)。 4法 罰論 三っ 目は 、③ 法 罰 論 です 。 「 訊 問調 書 」 を見 てみ ま し ょ う。 「問 答 法 華 経 の真 理 か ら見 れ ば 日本 国 家 も濁悪 末 法 の社 会 な りや 。 釈 尊 の入 滅 後 の一 千年 間 を正 法 時代 其 後 の一 千年 間 を 像 法 時 代 と称 し、 此 の 正 法像 法 の 二 千 年 後 は所 謂 末 法 の時 代 で 法 華 経 が 衰 へ 捨 て られ た 濁 悪 雑 乱 の 社 会 相 で あ りま す。/[…] […]例 へ ば 国 王 陛 下 が 法 華 経 の信 行 を な さい ま し て も此 の法 が 国 内 か ら滅 亡 す る の を 見 捨 て 置 い た な らば、 臆 て 国 に は 内 乱 ・革命 ・飢 饒 ・疾 病 等 の災 禍 が起 き て 滅 亡 す る に 至 るで あ ら う と仰 せ られ て あ りま す 。 斯様 な 事 実 は過 去 の歴 史 に依 つ て も、夫 れ に 近 い 国 難 が到 来 して居 ります 。 現 在 の 日 支 事 変 や 大 東 亜 戦 争 等 に して も其 の原 因 は矢 張 り諺 法 国 で あ る処 か ら起 き て居 る と思 ひ ます 。 故に上は 陛 下 よ り下 万 民 に至 る迄 総 て が 久遠 の 本 仏 た る 曼茶 羅 に帰 依 し、所 謂 一 天 四海 帰 妙 法 の 国家 社 会 が具 現 す れ ば 、 戦争 飢 謹 疾 病 等 の天 災 地変 よ り免 れ 得 る の み な らず 、 目常 に於 け る各 人 の生 活 も極 め て安 穏 な 幸 福 が 到 来 す る ので あ りま して 之 が 究 極 の 希 望 で あ りま す 」(30) 法 華 経 の 滅 亡 を君 主 が 傍観 す るな らば 、彼 の 治 め る 国 家 もま た滅 亡 す る。 目下 の 日中 戦 争 、 太 平洋 戦 争 も、 日本 が そ うした 「 諺 法 国 」 で あ る ゆ え の 国難 で あ る。 これ が 、 「 法華経 、 日 蓮 を誹 諺 す れ ば 必 ず罰 が 当 る」 とい う牧 口の 発 言 の真 意 で す 。 た だ し、 こ こ で看 過 して な らな い の は 、 この 発 言 が 、 自身 の信 仰信 条 の 表 明 で あ るだ け で は な く、 日中 戦争 と太 平洋 戦 争 に対 す る批 判 を も含 意 して い る とい う点 で す 。 法 華 経 を中 心 と した 国 家 社 会 が 実 現 した あ か つ き に は 、 飢 饅 や 疫 病 とあわ せ て 「戦 争 」 が 消 滅 し、 国 民 の 生活 が 「極 め て 安穏 な 幸福 」 の 状 態 が 到 来 す る、 とい う くだ りはそ の 証 左 で す 。 牧 口の 発 言 を直 接 的 な 反 戦 思 想 の表 明 で あ る と認 め な い 人 で も、 牧 口が 日中戦 争 と太 平 洋 戦 争 をす こ し も肯 定 して い な い とい うこ とは 、認 め ざ る を え ない で し ょ う。 ま た 牧 口は 、 上 の 引用 文 よ りす こ しあ との ところ で 、 〈 法罰 〉に つ い て さ らに 詳 し く説 明 し て い ま す 。 そ れ は 、 大 日本 帝 国憲 法 と法 華 経 との関係 を論 じた 箇所 です 。 「 問 答 大 目本 帝 国 憲 法 と法華 経 の大 法 とは如 何 な る関係 に立 っ や。 憲 法 は現 世 に於 け る処 の 目本 国 を統 治 す る法 で あ りま して 、 陛 下 が御 定 め に な っ た 所 謂 法 律 で あ ります か ら、 外 国 の 様 に革 命 が起 き て 国 王 が 変 る様 な事 は な い に して も、 政 体 が変 っ て 将 来 憲 法 も改 正 され た り廃 止 され る様 な事 が あ るか も知 れ ま せ ん 。 憲 法 は大 法 の垂 で あ りま す 。 然 る に法 華 経 の 法 は宇 宙 根 本 の 大 法 で あ りま して 過 去 ・現 在 ・未 来 の三 世 を通 じて 絶 対不 変 万 古不 易 の大 法 で あ ります 。 一122一 創価教育研究第3号 其 時 代 々 に依 っ て 改 正 され た り、 廃 止 され た りす る法 律 諸 制 度 とは違 ふ の で あ りま して 、終 生 変 ら ざ る処 の 人類 行 動 の規 範 を示 顕 せ られ て あ る ので あ ります 。 故 に此 の大 法 に惇 る事 は、 人 類 と して も将 又 国 家 と して も許 され ない 事 で反 す れ ば 直 に法 罰 を受 け るの で あ りますj(31) っ ま り、 憲 法 とは、 あ る時 代 の あ る国 家 の法 で あ る。 そ れ に対 し て 、法 華 経 とは 義 が 私 は非 常 に興 味 深 い と思 うので す が こ の定 「 終 生 変 わ ら ざ る処 の人 類 行 動 の 規範 」 で あ り、 これ に反 す る も の は、 た とい 国 家 で あれ く罰 〉 を受 け るの で あ る、 と牧 口 はい うの で す 。 そ う しま す と、 さ き ほ ど牧 口は 日中戦 争 と太 平 洋 戦 争 を法罰 で あ る と述 べ てい た わ けです が 、 っ ま る とこ ろ、 これ らの戦 争 は く人 類 行 動 の 規 範 に反 した罰 〉 とい うこ とに な りま す。 この よ うに 牧 口 の法罰 論 は、 日本 の 戦争 に対 す る否 定 的 な評 価 を含 む も の とい えま す 。 * こ う した 牧 口の見 解 が 、警 察 の 目 に どの よ うに映 った か を知 るた め に も、 日中戦争 や 太 平 洋 戦 争 に 関す る政 府 の公 式見 解 を確 認 して お き ま し ょ う。今 回 も 『臣 民 の 道 』を 引用 します(『 国 体 の本 義 』は 、 日中戦 争 開 始 前 の 出版 な の で 、同 戦争 に 関す る記 述 は 入 っ て い ませ ん)。 同 書 第 1章 第2節 「 新 秩 序 の建 設 」 には 、 日中戦 争 につ い て 次 の よ うに述 べ て い ます 。 「昭和 十 二年 七 月 、盧 溝 橋 に発 した 日支衝 突 事 件 に際 して は 、我 が 国 は東 亜 の安 寧 の た め 、 現 地 解 決 、不 拡 大 方 針 を 以っ て 臨 み 、隠 忍 自重 して彼 の反 省 を待 つ た ので あ る。 然 る に支 那 は飽 くま で我 が 実力 を過 小 に評 価 し、 背 後 の勢 力 を侍 み と して 、遂 に全 面 的衝 突 にま で 導 い た。 か くて硝 煙 は 大 陸 の野 を蔽 ひ 、亜 細 亜 に とっ て極 め て悲 しむべ き事 態 が 展 開 せ ら れ る に 至っ た の で あ る が 、事 こ こ に及 んで は我 が 国 は事 変 の徹 底 的 解 決 を期 し、 新 東 亜 建 設 の 上 に課 せ られ た厳 粛 な る皇 国 の使命 の達 成 に一 路 適 進 しな けれ ば な らぬ 。 天 皇 陛 下 に は 、 こ こ に深 く御 診 念 あ らせ られ 、 支那 事 変一 周 年 に 当 た り下 賜 せ られ た る 勅語 に 、 惟 フニ 今 ニ シテ 積 年 ノ禍 根 ヲ 断 ツ ニ 非 ズ ム バ 東 亜 ノ安 定 永 久 二得 テ 望 ム ベ カ ラ ズ 日支 の提 携 ヲ堅 ク シ 以 テ 共 栄 ノ実 ヲ 挙 グ ル ハ 是 レ洵 二 世 界 平和 ノ確 立 二 寄 与 スル 所 以 ナ リ。 と昭示 し給 ひ 、 国 民 の 向 か ふべ き とこ ろ を諭 し給 うた。 ま こ とに支 那 事 変 の 目的 は 支 那 の 蒙 を啓 き 、 日支 の提 携 を 堅 く し、共 存 共 栄 の実 を挙 げ 、以 つ て東 亜 の新 秩 序 を建 設 し、世 界 平 和 の確 立 に 寄 与せ ん とす る にあ る」(32) 要約 します と、 日本 は 中 国 の友 人 な の に 、 中 国 は 欧米 列 強 を 味方 に っ け て、 日本 に戦 争 を し か け て き た。 説 得 して も聞 か な い の で 、 しか た な く 目本 は 、東 洋 の 平 和 の た め に 中国 と戦 争 を しな け れ ば な らな くな っ た 。ゆ え に 日中戦 争 は 、「支 那 の 蒙 を 啓 き 、 日支 の提 携 堅 く し、共 存 共 栄 の 実 を挙 げ 、 以 て東 亜 の 新秩 序 を建 設 し、 世 界 平 和 の確 立 に 寄 与 せ ん とす る」 た め の戦 争 で ある これ が 当時 の 公 式 見解 な の です 。『臣 民 の道 』で は、こ の こ とが何 度 も強 調 され て い ま す 。 同書 の 「 結 語 」 に も、 「ま こ とに支 那 事 変 こ そ は 、我 が 肇 国 の理 想 を東 亜 に 布 き、進 ん で こ れ を 四海 に 普 くせ ん とす る 聖 業 で あ り、 一 億 国 民 の 責 務 は実 に 尋 常 一 様 の も の で は な い 」(33) とあ りま す 。 ま さに く 聖戦 思想 〉で す 。 太 平 洋 戦争 に関 す る政 府 の 公 式 見解 つ い て は 、(『臣 民 の道 』 が 同 戦 争 開始 前 の 出版 な の で) 同 戦 争 開 始 後 に発 行 され た 修 身 科 の 教 科 書 が 参 考 にな りま す 。 『初 等 修 身 科 18]年1月)の 「十 七 よ もの海 」 とい う節 に は、 こ うあ ります 。 一123一 三 』(1943[昭 和 基調報告一 牧 口常三郎 は国家政策 の何 に抵抗 したか一 「世界 の 平和 を はつ き りとつ く りあ げ る た め には 、 い ろ い ろ の 国 が 、 た が ひ に道 義 を重 ん じ、公 明 正 大 な ま じは りを結 ば な け れ ば な りま せ ん。 これ を守 らず に、他 国 の名 誉 を傷 っ け 、 自国 の た め ば か りを は か る の は 、 大 き な 罪 悪 で あ りま す 。 した が つ て 、 この や うな 国 が あ る とす れ ば 、 そ れ は 世 界 の 平 和 を み だ す もの で あ つ て 、 私 た ち 皇 国 臣 民 は 、 大 御 心 を 安 ん じた て ま っ るた め 、断乎 と して こ れ を し りぞ け な けれ ば な りませ ん。/大 東 亜 戦 争 は 、 そ の あ らは れ で あ りま す 。 大 目本 の真 意 を 解 し よ うと しな い もの を こ ら しめ て 、 東 亜 の 安 定 を求 め 、 世 界 の 平 和 をは か ろ うとす る もの で あ りま す 。 私 た ちは 、 国 の 守 りを固 め、 皇 軍 の 威 力 を し め し て 、 道 義 を 貫 か な け れ ば な りま せ ん 」(34) 戦 争 正 当化 の 論 理 は 、『臣 民 の道 』 に お け る 日中 戦 争 の場 合 とま っ た く 同 じです 。 ま た 、 同 年 に出 た 『初 等 修 身 科 四 』 の 結 び 「二 十 新 しい 世 界 」 を見 る と、 この 聖 戦 の た め に 「 身命 を な げ うって 、 皇 国 の た め に奮 闘 努 力 し よ う とす る この を を し さ こそ 、 い ち ば ん 大 切 な も の で あ りま す 」(35)とあ りま す 。い うま で も な く 「 克 ク忠 二 」 の強 調 です が 、年 が ら年 中 、子 ど もた ち に こ うした く滅 私 奉 公 〉 を説 き 聞 かせ る とは 、 な ん と残 酷 な教 育 だ った こ とで し ょ うか。 今 日、 私 た ち は 、 日本 が 「 大 東 亜 建 設 の 先 頭 」 に立 った 結 果 、何 が 起 きた か 、 よ く知 って い ます 。そ して 以 上 の よ うな く戦 争 プ ロパ ガ ンダ 〉に対 して 、牧 口が 、"日 中 戦 争 も太 平 洋 戦 争 も 聖 戦 な どで は な く、 「終 生 変 わ ら ざる処 の 人 類 行 動 の規 範 」 に 背 い た罰 で あ る"と した 知 見 に 、 あ らた めて 感 嘆 せ ざ る を えま せ ん 。 5国 家神道批判 さい ごに 、④ 国 家神 道 批 判 、す な わ ち 「 伊 勢 神 宮 な ど拝 む 要 は な い」 とい う発 言 につ い て で す。 ふたたび 「 訊 問調 書 」 を見 て み ま す 。 「問 御 本 尊 と所 謂 目本 の神 々 との 関係 は 如何 。 答[…]私 は 学会 員 に対 して は天 照皇 太 神 、天 皇 と謂 ふ 二元 論 で無 く 天 皇 一 元論 を樹 て て 居 ります 。 即 ち天 照 皇太 神 は御 皇 室 の御 祖 先 で あ ります か ら、其 御 神 徳 は歴 代 の天 皇 の御 位 に 継 承 され て 現 在 で は 、 今 上天 皇 陛 下 に悉 く伝 へ られ 、 そ れ が御 稜 威 と して現 世 に輝 き 下 万 民 を照 し幸福 な る生活 が 出 来 る所 以 で あ ります か ら、 憲 法 第三 條 に も 『天 皇 ハ 神 聖 ニ シテ侵 ス ヘ カ ラス』 と御 定 め に なっ て 居 るの で あ ります 。 故 に私 達 は忠 孝 の場 合 と同様 一 元 的 に 『天 皇 一 元 論 』 で 天 皇 陛 下 を尊 崇 し奉 れ ば それ で よ し、伊 勢 の皇 太 神 宮 に 参 詣す る必 要 な し との 信 念 で来 ま した 。 天 皇 陛 下 を尊 崇 し奉 れ ば 天 照 皇太 神 も尊 崇 し奉 る事 に な りま す 」(36) 天 皇 に尊 崇 の念 を抱 い て い れ ば、 そ の こ とが 同 時 に天 照 大神 に も尊崇 の念 を抱 く こ とに な る の で 、特 別 に伊 勢 神 宮 に祈 願 す る必 要 は ない 、 とい うの が 牧 口の 〈天 皇一 元論 〉の 立場 で す 。 ① の天 皇 凡 夫 説 との 関係 が 気 に な りま す が 、 牧 口は 、神 と して で な く凡夫(コ 人 間)と して の 天 皇 は尊 敬 して いた の だ と、 さ しあた りは解 釈 して い い で し ょ う。 い ず れ にせ よ、 国 家神 道 が 全 国 民 に強 要 され る状 況 下 で 牧 口が 案 出 した 論 理 とい えま す が 、 問 題 は、 こ うした 論理 が 特 高 に通 用 した か 、 とい うこ とです 。 そ こ で 、伊 勢 神 宮(皇 大 神 宮)に つ い て も 、政 府 公 式 見 解 を確 認 して み ま す。 『国 体 の本 義 』 一124一 創 価教育研究第3号 に は 、「 皇 大 神 宮 は我 が 国 神 社 の 中心 で あ らせ られ 、す べ て の神 社 は 国 家 的 の存 在 と して 、国 民 の精 神 生 活 の 中軸 とな っ て ゐ る。[…]以 上 の 如 き敬 神 崇 祖 の精 神 が 、我 が 国 民 道 徳 の 基 礎 を な し、又 我 が 文 化 の 各 方 面 に行 き亙 つ て 、 外 来 の儒 教 ・仏 教 そ の 他 の も の を包 容 同 化 して 、 日本 的 な創 造 をな し遂 げ し めた 。 我 が 国 民 道 徳 は 、敬 神 崇 祖 を基 として 、 忠 孝 の大 義 を展 開 して ゐ 亙 。 国 を家 と して 忠 は 孝 とな り、家 を国 と して孝 は忠 とな る。 こ 》に忠 孝 は 一 本 とな っ て 万 善 の本 とな る」(37)とあ りま す 。儒 教 も仏 教 も国 家神 道 に包 含 され る も の で あ っ て 、そ の 逆 で は な い 。 そ の国 家 神 道 の 中 心 点 が 「皇 大神 宮 」 な の です 。 そ れ だ けで は あ りま せ ん。 例 に よ って 『初 等 修 身 科 三 』 を開 く と、 天 皇 が 皇 大神 宮 を崇 敬 す る のだ か ら、 全 国 民 も崇 敬 す べ きで あ る、 少 な く とも一 生 に 一渡 は 伊 勢 に 参 拝 す べ きで あ る と断 言 して い ます 。 これ で は 、 天皇 一 元 論 どこ ろ か 〈天 照 大神 一 元論 〉です 。 「 皇 祖 天 照 大神 をお まっ り申 して あ る皇 大 神 宮 は 、伊 勢 の 宇 治 山 田 市 にあ りま す 。[…] /天 皇 陛 下 は 皇 族 の 方 を祭 主 にお命 じ にな っ て 、 皇 大神 宮 をお ま っ りに な ります 。 ま た 毎 年 の 記 念 祭 や 神 嘗 祭 や 新 嘗 祭 には 、勅使 をお 立 て にな つ て 、幣 畠 を お供 へ に な ります 。[…] /毎 年 の ま っ りご とは じ め には 、 ま つ 皇 大 神 宮 の 御 事 を お 聞 き に な り、 皇 室 ・国 家 に 大 事 の あ る 時 に は 、 皇 大 神 宮 に お っ げ に な ります 。[…]/御 代 御 代 の 天 皇 は 、 こ のや うに厚 く皇 大神 宮 をお あ が め にな りま す 。 国 民 も昔 か ら皇 大神 宮 を うや ま ひ 申 しあ げ 、一 生 に 一 度 は き つ と 参 拝 し な け れ ば な ら な い こ と に して を りま す 」(38) なお 、 「 皇 室 ・国家 に 大事 の あ る 時 に は 、皇 大神 宮 に おっ げ に な ります 」 とい う くだ りは 、注 意 した い 一節 で す。 も ち ろん 戦 争 は この 「 大 事 」 に含 ま れ る わ け で 、 太 平洋 戦争 も、 皇祖 ・天 照 大 神 には じま る歴 代 天 皇 の名 にお い て 開 始 され て い ます 。 そ の意 味 で は 、 天皇 す ら も天 照 大 神 の名 を利 用 した とい って い い か も しれ ま せ ん。1941(昭 和16)年12月8日 、太 平洋 戦争 の 開 始 にあ た っ て 天 皇 が発 した 「開戦 の詔 書 」の 結 び は 、「皇祖 皇 宗 ノ神 霊 上 二在 リ朕 ハ 汝 有衆 ノ 忠 誠 勇 武 二 信碕 シ祖 宗 ノ遺 業 ヲ恢 弘 シ 速 二 禍 根 ヲ蔓 除 シ テ東 亜 永 遠 ノ 平 和 ヲ確 立 シ 以 テ 帝 国 ノ光 栄 ヲ保 全 セ ム コ トヲ期 ス 」(39)とな っ て い ます 。"天 照 大 神 に始 ま る歴 代 天 皇 の霊 は天 に ま しま す 、 この神 々 の遺 業 を 押 し広 め て 英 米 と戦 え"と い うの です 。 した が っ て 、 そ の天 照 大神 を ま っ って い る伊 勢神 宮 を 拝 ま な い とい うこ とは 、 太 平洋 戦 争 に お け る 目本 の武 勇 を祈 らな い とい うこ と と同 じ意 味 に な りま す 。 もっ と も、 牧 口 自身 は そ こ ま で 明確 に は述 べ てお りませ ん が 、 少 な く と も特 高 の 目か ら見 れ ば 、彼 の発 言 はそ うい う意 思表 示 に な る わ けで す 。 6真 の 平 和 を求 め て 長 くな りま した が 、以 上 が 、『特高 月報 』か ら浮 か び上 が る 、牧 口の逮 捕 の背 景 で す 。① 天 皇 凡 夫 説 、 ② 教 育勅 語批 判 、 ③ 法罰 論 、 ④ 国 家 神 道 批判 牧 口の発 言 が1941年11月 とい う時期 に な され た こ とを 考 え る と、 これ らの4点 は い ず れ も、太 平洋 戦 争 に突 入 す べ く国民 教 化 に励 んで い た 日本 政府 の 急 所 を衝 い て い た とい え ま す 。 この 時 点 です で に 、1943(昭 6日 の 逮 捕 とい う運 命 は一 そ して1944(昭 和19)年11月18目 和18)年7月 の獄 死 とい う運 命 も一 決 まっ て い た とい っ て も過 言 で は な い で し ょ う。 ま だ 、 少 しば か り時 間 に 余裕 が あ りま す の で 、 私 自身 が長 ら く疑 問 に思 っ て い て 、最 近 気 づ い た こ と を一 っ ご報 告 させ て い た だ き 、 結 び とした い と思 い ます 。 もち ろ ん 、 明敏 な方 な らば す で に気 づ い て お られ る よ うな こ とな の です が一 一125一 。 基 調報 告 一 牧 口常 三 郎 は 国 家政 策 の 何 に抵 抗 したか 一 そ れ は こ うい う疑 問 で す 。 た しか に牧 口は 、天 皇 を人 間だ とい っ た り、教 育 勅 語 を批 判 した り、聖 戦 思 想 や 神 宮 参 拝 を拒 絶 した り してい る の です が 、 す こ し娩 曲で は ない か 。 当時 す で に 日中戦 争 は起 きて い た わ け だ し、 しか も これ か らま さ に太 平 洋 戦 争 が始 ま るか も しれ な い とい う時 期 な のだ か ら、 も っ とは っ き り と 「平和 」 を訴 えて も よい ので は ない か 、 と。 こ こ に 『牧 口常 三郎 全 集 』 を持 っ て ま い りま した が 、全 部 で10巻 あ る こ の全 集 の うち 、牧 口 が 『創 価 教 育 学 体 系』 全4巻(全 集 第5、6巻 あ ります(全 集8、9、10巻 所 収)の 完 成 後 に書 い た も の だ け で も 、3冊 にお よぶ 分 量 が 所 収)。す な わ ち 、日中戦 争 が 始 ま った1937(昭 和12)年 ころ 以 降 、 65歳 ころ以 降 に 書 い た もの だ け で も、 こん な に あ る わ け です 。 しか し、 こ の な か に 「 平和 」 と い う言葉 は 、 ほ とん ど見 られ ない ので す 。 も っ とも 、牧 口 自身 そ もそ も 「平 和 」 とい う語 をそ れ ほ ど多用 しな い 人 で は あ る の で す が 、 しか しそれ で も、 『人 生 地 理 学 』 の第30章 で す)や 第31章 「 生 存 競 争 地 論 」(あ の 「人道 的競 争 」 が 語 られ る章 「文 明 地 論 」 な どで は 、 そ れ な りに使 用 して い ま す(40)。ま た 『創 価 教 育 学 体 系 』 に も 「平 和 」 とい う語 は何 回 とな く登 場 しま す(41>。しか し、 目中 戦争 勃発 直後 の1937(昭 和12)年8月 に 出 た 『創 価 教 育 法 の 科 学 的 超 宗 教 的 実 験 証 明』 を 最 後 に(42)、牧 口は この 語 を 使 用 しな くな りま す 。 これ 以 降 、 牧 口が 「 平 和 」 とい う言 葉 を使 っ た の は 、 私 の 見 た か ぎ りわ ず か4ヶ 所(そ れ もた だ 一 っ の 論 文 の なか で)し か あ りま せ ん 。 この 事 実 を ど う考 え るべ きで し ょ うか 。 時 代 の あ ま りの厳 し さに 、牧 口も妥 協 を強 い られ た の で し ょ うか。 そ うで は ない 、 と私 は 考 えま す 。 こ こで 私 な りに、 牧 口が真 正 の"平 和 の 人"で あ った こ と の証 拠 を提 示 した い と思 い ます 。 そ して そ の証 拠 は、 じつ は 、 今 申 し上 げ た 事 実 の 中 にす で に あ ります 。 っ ま り、牧 口が晩 年 「 平 和 」 とい う言 葉 をほ とん ど使 わ なか った とい う、そ の事 実 の な か にで す 。 け っ して 誰 弁 を弄 して い るの で は あ りませ ん。 * ヒ ン トに な っ た の は 、最 近 、 日本 に お け る トル ス トイ 受 容 につ い て 勉 強 した こ とで した 。 ト ル ス トイ主 義 者 と して有 名 な武 者 小 路実 篤 とい う文 学 者 が い ます 。 彼 は 、 じっ は戦 争 に協 力 し た か どで 、戦 後 、GHQに よ って 公 職 追 放 に な って い るの です が 、そ の武 者 小 路 が 十 五 年 戦 争 中 に 書 い た 文 章 を読 ん で い て 、 あ る こ とに気 づ き ま した。 どの文 章 に も、 「 平和」 「 東 洋 平和 」 あ る いは 「 世 界 平 和 」 とい った 言葉 が ひ ん ぱ ん に出 て く るの です 。 簡 単 に い う と、 日中 戦争 は 「 世 界 平 和 」 の た めの 戦 争 で あ り、 そ れ を理 解 せ ず に反 抗 す る 中 国 は 間違 っ てい る の だ 、 とい うこ とを述 べ て い るの で す 。1938(昭 和13)年 に書 か れ 、翌 年 出版 され た 『牟 礼 随 筆 』、1939(昭 和 14)年 に書 かれ 、翌年 出版 され た 『蝸 牛 独 語 』、そ して1942(昭 和17)年 に 出版 され・ た 『大 東 亜 戦 争 私 感 』 はそ うい う内容 です(43)。 そ の一 方 で 、 ほ ん と うに く 非暴 力 主 義 〉 とい う意 味 で トル ス トイ を信 奉 した 人 もい ま した 。 熊 本 県 人 吉 の北 御 門 二 郎 とい う人 物 で す 。 戦 後 、 トル ス トイ の翻 訳 で 最 高峰 とた た え られ る人 です が 、 こ の人 は戦 争 中 、銃 殺 刑 を覚 悟 で兵 役 を拒 否 した こ とで 知 られ て い ます 。 そ の 前 後 の 軌 跡 をっ つ っ た 『あ る徴 兵 拒 否 者 の歩 み 』 とい う自伝 が あ りま す 。1936(昭 和11)年 に、 ロ シ ア語 で トル ス トイ を読 も う とハ ル ビン に留 学 して 、 日本 軍 に よ る 中国 人 の虐 殺 を知 り、 ぜ った い に武 器 を とる ま い と誓 っ た こ とや 、1938(昭 和13)年 に 日中戦 争 に徴集 され る際 に、 ロ シア の 恩 師 に遺 書 を書 い た うえ で拒 否 した こ とや 、 しか し兵 役 忌 避 者 が 村 か ら出 る こ と を嫌 が った 役 人 が彼 を精 神 病 扱 い に した た め 、 死刑 に は な らな か った こ とや 、 そ の後 も1945(昭 和20)年 の 敗 戦 ま で 一 貫 して 、村 八分 扱 い を 受 け な が ら も、 い っ さい の軍 事 演 習 を拒 否 しっ づ け た こ と な どが 、 当 時 の 日記 を 多数 収録 しな が ら綴 られ て い ます 。 〈平 和 を貫 く勇 気 〉 を あ らた め て教 一126一 創価教育研究第3号 えて くれ る本 です 。 とこ ろが 、 こ の なか で 引用 され て い る 日記 に は 、不 思 議 な く らい 、 「平 和 」 とい う言 葉 が 出て こ ない ので す 。 も ち ろ ん 、 当時 の 日記 をす べ て収 録 してい る わ けで は な い の で す が 、少 な く とも、 同 じく トル ス トイ 主 義 で知 られ る武 者 小 路 との違 い は 、 あま りに歴 然 と して い ます 園)。 1938(昭 和13)年 ご ろか ら、 文 学 界 の 大御 所 で あ る武 者 小 路 が さか ん に 「 平 和 」 とい う語 を 連 呼 し 、他 方 、妥 協 な く非 暴 力 主 義 を奉 じ る無 名 の一 青 年 で あ る北 御 門 が、 ほ とん ど 「 平和」 とい う語 をっ か って い ない とい う事 実 。そ こ で私 は 、遅 れ ばせ な が ら、気 が っ き ま した(45)。 日中戦 争 が 始 ま って 以 降 、 「平和 」 とい う言 葉 は 、 「 平 和 の た め の戦 争 」 とい う大 義名 分 と して 使 われ てい た のだ 、 と。 も し、 そ の 当時 、牧 口が 「 平 和 」 とい う語 を多 用 して い た な ら ば 、逆 に武 者 小 路 の よ うに、 国 家 の お 先棒 を担 ぐこ とに な っ た の か も知 れ ない 、 と(46)。 * そ う したま な ざ しで、 再 度 、政 府 の公 式 見 解 を見 る と、時 代 の構 図 が くっ き りと浮 か び 上 が っ て き ます 。 日中 戦争 直前 の1937(昭 和12)年3月 に 出 た 『国 体 の本 義 』 には 、 「平和 」 とい う 言 葉 は ま だ2ヶ 所 く らい しか使 わ れ て い ま せ ん(47)。 とこ ろが 、戦 争 が始 ま っ て約2ヶHた た 同年9月 っ に 、天 皇 が 「支 那事 変 に 関す る勅 語 」を発 し、戦 争 目的 を 「中華 民 国 ノ反省 ヲ促 シ 、 速 二東 亜 ノ平 和 ヲ確 立 セ ム」(48)と位 置 づ け ます 。 ま た翌1938(昭 和13)年7月 に 、天 皇 は 盧 溝 橋 事 件 一 周 年 に あ た っ て勅 語 を発 します 。 こ の な か で今 度 は 「 世 界 平 和 」 とい う言葉 が 使 われ る の です 。 それ は 、③ 法 罰 論 の とこ ろで も紹 介 した 、『臣 民 の道 』 第1章 「 世 界新 秩 序 の建 設 」 に 出 て い ます 。 重 複 しま す が 、 後 半部 分 を も う一 度読 ん で み ます 。 「天 皇 陛 下 に は 、 こ こに 深 く御 診念 あ らせ られ 、 支 那 事 変 一 周 年[=1938年7月]に 当た り下賜 せ られ た る勅 語 に 、 惟 フ ニ今 ニ シ テ 積 年 ノ禍 根 ヲ 断 ツ ニ 非 ズ ムバ 東 亜 ノ安 定 永 久 二得 テ 望 ム ベ カ ラ ズ 目支 の 提 携 ヲ堅 ク シ 以 テ 共 栄 ノ実 ヲ 挙 グ ル ハ 是 レ洵 二 世 界 平 和 ノ確 立 二 寄 与 ス ル 所 以 ナ リ。 と昭示 し給 ひ 、 国 民 の 向 か ふべ き とこ ろ を諭 し給 うた。 ま こ とに支 那 事 変 の 目的 は 支 那 の 蒙 を 啓 き 、 日支 の提 携 を堅 く し、共 存 共 栄 の 実 を挙 げ 、以 つ て東 亜 の新 秩 序 を建 設 し、世 界 平 和 の確 立 に寄 与せ ん とす る にあ る」(49) こ こで天 皇 は 、 日中戦 争 を 「 平 和 の た め の戦 争 」 と明 言 して い ま す 。調 べ る と、この1938(昭 和13)年 とい う年 か ら、 日本社 会 の い た る と ころ で 「平 和 」 が 叫 ば れ は じめ た こ とが わ か りま す 。 同 年 春 に つ く られ 、100万 枚 突 破 の 大 ヒ ッ ト曲 とな っ た 「 愛 国 行 進 曲」(森 川 幸 雄 詞 、瀬 戸 口藤 吉 作 曲)の 二番 は 、「起 て 一 系 の大 君 を/光 稜 威に副わん 八紘 を宇 とな し/四 海 の 人 を導 き て/正 理想は 大使 命/往 け と永 久 に い た だ き て/臣 民 われ ら皆 共 に/御 しき 平和 うち建 て ん/ 花 と咲 き 薫 る」 とい う歌詞 です 。 ま た 、 メ デ ィア 関係 で は 、 同年9月(上 で 引用 した 勅 語 が 出 た 翌 月)に 警 保 局 が 「新 聞指 導 要 領 」 を発 表 し、 言 論 統制 を強化 します 。 そ こ に は 、 冒頭 か ら、 全 メ デ ィア あ げ て の く戦 争 プ ロパ ガ ン ダ 〉 を次 の よ うに命 令 してい ま す 。 「 一 、 支 那 ノ抗 日容 共 勢 力 ヲー掃 シ 、親 日政 権 ヲ育 成 発 展 セ シ メ 之 ト帝 国 ガ テ ヲ握 リ東 洋 永 遠 ノ平 和 ヲ確 立 ス ル コ トハ 今 次 聖 戦 ノ大 目的 ナ リ。 コ ノ大 目的 ヲ阻 碍 スル 言説 行 動 二対 シテ ハ 断 乎 之 ヲ排 撃 シー 路 所 期 ノ 目的 達 成 二 遙 進 ス ル ノ実 力 ト信 念 ヲ有 ス ル コ トヲ 明 ニ ス ル コN(50) 一127一 基 調 報 告一 牧 口常 三 郎 は 国 家 政策 の何 に抵 抗 した か一 太 平 洋 戦 争 を前 に 出 され た 『臣 民 の 道 』 は 、 戦争 プ ロパ ガ ンダ の も っ とも露 骨 な例 で す 。 第 1章 「 新 世 界 秩 序 の建 設 」 に は 、 「 平和」 「 世 界 の平 和 」 「 恒 久 平 和 」 とい った 言葉 が10数 ヶ所 使 われ て い ます 。 ま た 、③ 法 罰 論 の とこ ろで も 引用 しま した が 、『初 等修 身科 18]年1H)の 「 十七 三 』(1943[昭 和 よ もの海 」 とい う節 で も 、 「 世 界 の 平 和 」 とい う語 が何 度 も繰 り返 され てい ます 。 です が 、や は り極 めつ け は、 太 平 洋 戦 争 の 開始 に 当 た っ て天 皇 が 発 した 「 開 戦 の詔 書 」 で し ょ う(51)。「 抑 々東 亜 ノ安 定 ヲ確 保 シ以 テ 世 界 ノ平 和 二寄 与 ス ル ハ 顕 ナ ル 皇 祖 考 承 ナル 皇 考 ノ作 述 セ ル 遠 猷 ニ シテ 朕 力拳 々措 カ サル 所 」とい う一 文 で は じま り、「 皇祖 皇 宗 ノ神 霊 上 二在 リ朕 ハ 汝 有 衆 ノ 忠誠 勇 武 二信 僑 シ祖 宗 ノ遺 業 ヲ恢 弘 シ速 二禍 根 ヲ蔓 除 シテ 東 亜 永 遠 ノ 平 和 ヲ確 立 シ 以 テ 帝 国 ノ 光栄 ヲ保 全 セ ム コ トヲ期 ス 」 と結 ば れ て い ます 。 短 い メ ッセ ー ジ の な か に 、 全 部 で6ヶ 所 「平柚 とい う語 が つ か わ れ て い ま す。 * も う明 らか な よ うに 、15年 戦 争 期 、 と くに 日中戦 争 以降 、「平和 」 とい う言 葉 は イ ン フ レー シ ョン を起 こ して い ま した 。 体制 側 の知 識 人 や メ デ ィア が 、 こぞ っ て 「平和 」 を叫 び なが ら戦争 に 狂 奔 して い った とい うの は 、なん とも恐 ろ しい 歴 史 の皮 肉で す 。 「 平 和 」 とい う言 葉 の価 値 が 既 め られ て い た この 時 期 に 、 牧 口が 平和 とい う語 をっ か わ な か っ た こ とは 、彼 の見 識 を示 す も の で あ っ て 、 妥 協 を うか が わせ る も ので は あ りま せ ん。 牧 口 は、 「 平 和 」 とい う言 葉 を 叫ぶ 代 わ りに 、① 国 民 総 動員 の 原 点 を なす 〈天 皇 神 格 説 〉 を否 定 し、 ② 軍 国 主 義 教 育 の支 柱 で あ る 「教 育 勅 語 」 の く忠 君 思 想 〉 を批 判 し、③ 日中戦 争 や 太 平 洋 戦 争 の く聖 戦 思 想 〉 に疑 義 を呈 し、 ④ 戦 争 の守 護 神 をま っ る く皇 大神 宮 〉 参拝 を拒 否 しま し た 。 そ して 、 自分 の頭 で 考 え、 間 違 い で あ る と思 った こ とを、 正 直 に国 民一 人 ひ と りに 語 りま した 。 そ う して 逮 捕 され た の です 。 そ の牧 口が 、1941(昭 和16)年10月 に、「 大 善 生 活 法 即 ち人 間 の平 凡 生活 に 」 とい う小 論 の な か で 、4ヶ 所 だ け 「 平 和 」 とい う言葉 を使 っ て い ま す 。そ れ もす べ て 、"家 庭 の平 和"と い う意 味 に おい て です 。 自身 が仏 法 の理 想 と仰 ぐ とこ ろ の 「 大 善 生 活 」 にっ い て 、 牧 口は 平 易 に説 明 します 大善 生 活 とい って も な ん ら難 しい こ とで は ない 、そ れ は 「円満 平 和 の 家庭 」(=1つ 目)と い う平 凡生 活 の な か にす で に あ る 、 と。 家 庭 の リー ダー が 聡 明 円満 な らば 皆 「平 和 幸 福 の暮 し」(=2つ ふ 」(=3つ 目)が で き る し、逆 に リー ダ ー の徳 が 足 らな けれ ば 「 平 和 幸福 は 失 は れ て しま 目)、 だか ら 「 真 の 円満 平 和 の 家 庭 」(ロ4つ 目)は た しか に稀 で は あ る けれ ど、そ れ で も現 在 の 国 家社 会 に 比べ れ ば 「 そ ん な に難 し くな く容 易 に行 はれ る」 で は な い か一 そう 牧 口 はい うの です(52)。 これ は 日本 が 太 平 洋 戦 争 を開 始 す る直 前 の発 言 です 。 こ の 翌 月 に牧 口 は福 岡 で講 演 を し、最 初 に 見 た よ うに特 高 警 察 が そ の 内容 を内偵=記 録 しま した 。 とも あれ 、 1938(昭 和13)年 以 降 、 牧 口が 平和 とい う語 を用 い た の は 、 これ が全 部 で す 。 そ して 、 こ の事 実 の 中 に、 牧 口が真 に"平 和 の人"で あ っ た こ との す べ て が象 徴 され て い る と思 い ます 。 ま と めま す。 牧 口は な ぜ 、逮捕 され た の か 。そ れ は、 「平 和 」を 〈 叫 ん だ 〉 ゆ え にで は な く、 〈行 な った 〉が ゆえ に な の です 。 以 上 で 報 告 を終 わ りま す 。 ご清 聴 あ りが と うご ざい ま した 。 注 (1)本 稿 を 書 く に あ た り 、 牧 口 の 平 和 論 ・戦 争 論 を 主 題 に し た 文 献 と し て 、 主 に 以 下 の も の を 参 考 に さ せ て いた だ いた 。 斎 藤 正 二 「牧 口教 育 理 論 と 平 和 思 想 」(『 創 価 大 学 平 和 学 会 会 報 』 第10・11合 併号 、 1989年 、15-24ペ ー ジ)、 宮 田 幸 一 『牧 口 常 三 郎 の 宗 教 運 動 』(第 三 文 明 社 、1993年)、Miyata,K・ichi. "T sunesaburoMakiguchi'sTheoryoftheState,"Thθ ノ∼)urnalofOriθntalStudies,Vo1.10,2000, 一128一 創価教育研究第3号 pp,10-28,村 尾 行 一 『国 家 主 義 と闘 っ た牧 口常 三 郎 』(第 三 文 明社 、2002年)、 松 岡幹 夫 「 牧 口常 三 郎 の 戦 争 観 とそ の 実 践 的 展 開 」(『東 洋 哲 学研 究所 紀 要 』 第18号 、2002年 、22-53ぺs-一・ ジ)。 これ らの 文 献 は 、戦 時 下 にお け る牧 口の 思 想 を研 究 す る 上 で 、今 後 も道 標 に な る よ うな 視 点 を提示 して い る 。ま た 、 竹 中労 『聞書 庶 民 列 伝 』(1-4巻 、潮 出 版 社 、1983-87年)は と若 干 立 場 を異 にす る 点 も あ る が)牧 、(提 示 す る牧 口像 に おい て 、 本 稿 口 と同 世 代 の 人 々へ の多 く のイ ン タ ヴ ュ ー を交 え てお り、 戦 時 下 とい う時 代 の空 気 を教 え て くれ る と こ ろが 随所 に あ る。 (2)本 稿 は 、パ ネ ル ・デ ィス カ ッシ ョ ンで の 基 調 報 告 を も と に して い る た め 、全 体 的 に 、 論 点 を 整 理 し す ぎ る き らい が あ る か と思 う。報 告 と して の 分 か り易 さ を 目指 した か らで もあ る が 、 そ の反 面 、 歴 史 の もっ 多 様 な側 面 や 複 雑 な 構 造 とい っ た もの を十 分 に は捉 え きれ て い な い とい う点 も否 め な い 。 可 能 なか ぎ りは注 で補 っ た つ も りで あ る が 、 な お 今 後 の 研 究 課 題 と して多 くを残 して しま っ た こ とは 間 違 いな い 。本 稿 で 不 足 の 点 につ い て は 、上 掲 の 諸 文 献 を参 照 して い た だ く こ と をお 願 い す る次第 で あ る。 (3)『 特 高 月 報 』 昭 和18年7月 分 、 内務 省 警 保 局 保 安 課 、127-128ぺ ・ 一 一 一 ・ 一 ジ 。 な お、 下 線 部 は 本稿 筆者 に よ る(以 下 、 同 じ)。 (4)荻 野 富 士夫 『特 高 警 察 体 制 史 一 社 会 運 動 抑 圧 取 締 の構 造 と実態 』 せ き た 書 房 、1984年 、222-224 ペ ー ジ。 (5)金 川 末 之 の 回 想 録 「九州 指 導 同行 の思 い 出」(聖 教 新 聞社 九 州 編集 総 局 編 『牧 口常 三 郎 先 生 の思 い 出』 所 収 、37-38頁)、 (6)金 田 中 しま 代 の 回想 録 「 心 に残 る 指 導 と薫 陶の 数 々 」(同 、64頁)。 川 末 之 の 回 想 に よ る と、 牧 口 は、1940年 に 九 州 で 開催 した 会 合 に お い て 、 平 重 盛 の 「忠 な らん と 欲 す れ ば 孝 な らず 、 孝 な らん と欲 す れ ば忠 な らず 」 とい う言葉 に言 及 した とい う。 この 言葉 は 、 牧 口 が 「 教 育 勅 語 」 の く克 ク忠 二 〉 の一 節 を批 判 す る さ い に よ く引用 してい た も の で あ る(『特 高 月 報 』 昭 和18年8月 (7)荻 分 、153ペ ー ジ)。 本 稿 第3節 、 お よび 注29を 参 照 の こ と。 野 前 掲 著 、364ペ ー ジ。 (8)『 特 高 月 報 』 昭 和18年8月 (9)岩 分 、152ペ ー ジ。 波 書 店 版 『近 代 日本 総 合 年 表 』(第2版)で そ の初 版 発 行 日を見 る と、 「5,31文 部 省 、《国体 の 本義 》 を全 国 の 学 校 ・社 会 教 化 団 体 等 に20万 部 配 布 開 始 」 とあ る。 (10)角 家文 雄 『昭 和時 代 一15年 戦 争 の資 料 集 』学 陽 書 房 、1973年 、125ペ ー ジ。な お 、国 体 の本 義 を 「ほ ぼ 正 確 に記 憶 して い る 四十 歳 代 」 とい うの は 、 角 家 の 本 が 出た1970年 代 にお い て40歳 代 とい うこ とな の で 、戦 時 中 に10代 だ っ た層 を指 す 。 (11)『 国体 の本 義 』、 文 部省 、9ペ ー ジ 。 (12)同 、13ペ ー ジ。 (13)同 、15ペ ー ジ。 (14)久 松 漕 一 ・志 田延 義 解 題 、高 須 芳 次 郎 註 解 『文 部省 編i纂 臣 民 の 道』、朝 日新 聞社 、1941年 、73-74 ペ ー ジ。 (15)『 初 等修 身 科 一』文 部 省 、1942年 、9-11ペ ー ジ(『復 刻 国 定教 科 書(国 民学 校 期)』 ほ る ぷ 出 版 、 1982年 。 以 下 、『初 等 修 身 科 』 か らの 引用 は 、 すべ て こ の復 刻 版 に よる。) (16)パ ネ ル ・デ ィ ス カ ッシ ョ ンで は 報 告 時 間の 都 合 で割 愛 せ ざ る を え な か っ た が 、牧 口が 天皇 を く 現 人 神 〉 と表 現 した 記 録 も あ る。創 価 教 育 学 会 の 小 冊 子 『大 善 生 活 実 証 録 一 和17]年12月31目 発 行)に 掲 載 され て い る 「 会 員座 談 会 」(同 冊子44-48ペ る。 逮 捕 の約7ヶEま 第 五 回 総 会 報 告』(1942[昭 ー ジ)の な か で の発 言 で あ え の こ とで あ り、 す で に創 価 教 育学 会 の神 道 観 を め ぐっ て 警察 の取 調 べ を受 け た 学 会員 もい た。 牧 口の 発 言 は、 そ うした 学 会 員 た ち に対 して 、警 察 へ の 対 処 法 を ア ドバ イ ス した も の で あ り、そ の意 味 で は 村 尾 行 一 も指 摘 す る よ うに く 方 便 的性 格 〉 が 強 い とい え る(村 尾前 掲 著 、168 -183ぺv・一 一Lジ) 。 げん に、 「訊 問調 書 」 もふ く め て、 公 的 な講 演 や 論 文 で は 、牧 口は 現 人 神 を認 め る発 言 をい っ さい して い な い 。 だ か ら 「 会 員 座 談 会 」 で の発 言 は 、現 実 に警 察 との 対 応 を迫 られ る な か で 、 あ くま で会 員 を守 る た め に余 儀 な く された 一 時 的 な 妥 協 か も しれ な い 。 一129一 基 調 報 告一 牧 口常三 郎 は国 家 政策 の何 に抵 抗 した か一 しか しな が ら、 牧 口 の発 言 を よ くよ く読 ん でみ る と、 彼 が く現 人 神 〉 とい う言 葉 を、 政 府 公 式 見解 とは ま った く異 な る意 味 で使 用 して い る こ とが分 か る。 以 下 、 「 会員 座 談 会 」 での 牧 口の 発 言 の全 文 を 紹 介 した うえ で、 そ の こ と を示 した い。 「こ の 問題 は将 来 も起 る こ と と思 ふ か ら、 此 際 明確 に して置 き た い 。 吾 々 は 日本 国 民 と し て無 条 件 で敬 神 崇祖 を して ゐ る。 しか し解 釈 が 異 な る の で あ る。 神 社 は感 謝 の 対 象 で あ つ て 、祈 願 の対 象 で は な い 。 吾 々 が靖 国神 社 へ 参 拝 す るの は 『よ く ぞ 国 家 の 為 に働 い て 下 さつ た 、 有 難 うご ざ い ます 』 とい ふ お礼 、感 謝 の 心 を現 は す の で あ つ て 、御 利 益 を お与 え下 さ い とい ふ祈 願 で は な い。も し、『あ 墨 して 下 さい 、 こ う して 下 さ い』 と靖 国 神 社 へ 祈 願 す る人 が あれ ば 、 そ れ は 恩 を受 けた 人 に金 を借 り に行 くや うな もの で 、 こん な 間違 つ た 話 は な い。 天 照 大神 に対 し奉 っ て も 同様 で 、 心 か ら感 謝 し奉 る の で あ る。 独 り天 照 大 神 ばか りに あ らせ られ ず 、神 武 以 来御 代 々 の 天 皇 様 に も、 感 謝 し奉 つ て ゐ る の で あ る。 万世 一 系 の 御 皇 室 は一 元 的 で あ つ て 今 上 陛 下 こ そ現 人 神 で あ らせ られ る 。 即 ち 照大 神 を初 め奉 り、御 代 々 の御 稜 威 は現 人 神 で あ らせ られ る 天 今 上陛 下 に凝 集 され て ゐ る の で あ る。 され ば 吾 々 は神 聖 に して 犯 す べ か らず とあ る 『天 皇 』 を最 上 と思 念 し奉 る もの で あつ て 、 昭和 の 時 代 には 天皇 に 帰一 奉 る の が 国 民 の至 誠 だ と信 ず る。 『義 は 君 臣 、情 は 父 子 』 と仰 せ られ て ゐ るや う に 、 吾 々国 民 は 常 に 天 皇 の御 稜 威 の 中 に あ る の で あ る 。 恐 れ 多 い こ とで あ るが 、 十 善 の 徳 を お積 み 遊 ば され て 、 天 皇 の 御 位 に おつ き遊 ば され る と、 陛 下 も憲 法 に従 ひ 遊 ばす の で あ る。 即 ち人 法 一致 に よ つ て 現 人 神 とな らせ られ る の で あ つ て 、吾 々 国 民 は 国 法 に従 つ て 天 皇 に帰 一 奉 るの が 、純 忠 だ と信 ず る。 天 照 大 神 のお 札 を お祭 りす る とか の 問題 は 万 世 一 系 の 天 皇 を二 元 的 に考 へ 奉 る結 果 で あ つ て 、 吾 々 は 現 人 神 で あ らせ られ る天 皇 に 帰 一奉 る こ とに よつ て 、 ほ ん と うに敬 神 崇 祖 す る こ とが 出来 る と確 信 す る の で あ る。ま た これ が 最 も本 質 的 な正 しい 国 民 の道 だ と信 ず る 次第 で あ る 」(同冊 一 子47-48ペ ー ジ)。 た しか に 牧 口は 「 現 人 神 」 とい う言 葉 を つ か っ て い るが 、 そ の 意 味 が 『国体 の本 義 』 や 『臣 民 の 道 』 で の 定 義 とは 大 き くず れ て い る 点 に注 意 した い 。 本 稿 筆者 と して は3点 指 摘 して お こ う。 ま ず 第 1に 、 牧 口は 、 「 今 上陛 下 」(現 今 の 天皇 、 昭 和 に お い て は 昭 和 天 皇)を 天 照 大 神 よ りも上 位 に位 置 づ け て い る。 それ ゆ え、(『国 体 の 本 義 』 や 『臣 民 の道 』 が 展 開 した よ うな)"天 皇 は天 照 大神 の 子孫 な の で 、 国 民 は天 皇 に従 うべ き で あ る"と い う論 理 が 存 在 しな い 。 逆 に 、 天 照 大 神 の存 在 根 拠 は 、現 今 の 天 皇 とい う存 在 の うち に吸 収 され て しま っ て い る の で あ る(牧 口の この 〈天 皇 一 元 論 〉が も つ政 治 的 意 味 に つ い て は、 ④ 国 家神 道 批 判[本 稿 第5節]の と こ ろで詳 述 す る)。 した が っ て第2に 、 国 民 が 天 皇 を 尊敬 し従 う理 由は 、 別 の と こ ろ に求 めね ば な らな い。 牧 口は そ れ を、 「 人 法 一 致 」 と い う点 に 見 て い る。 す な わ ち 、 天 皇 は 、 「 憲 法 」 に従 うだ けの 「 十 善 の 徳 」 を積 ん だ く最 高 人 格 者 〉 で あ る とい う こ とで あ る 。 そ もそ も 「 大 日本 帝 国 憲 法 」 は く欽 定憲 法 〉 、 っ ま り明 治 天 皇 の命 に よ っ てつ く られ た 憲 法 で あ る が 、 そ こで は 「 天 皇 ハ 公 共 ノ安 全 ヲ保 持 シ 又ハ 其 ノ 災 厄 ヲ 避 クル 為 緊急 ノ必 要 二 由 リ帝 国議 会 閉 会 ノ場 合 二 於 テ 法 律 二 代 ル ヘ キ勅 令 ヲ発 ス」(第8条)や 、「 天 皇 ハ 法 律 ヲ執 行 スル 為 二 又 ハ 公 共 ノ安 寧 秩 序 ヲ保 持 シ及 臣民 ノ幸 福 ヲ増 進 スル 為 二必 要 ナ ル命 令 ヲ発 シ 又 ハ 発 セ シ ム但 シ 命 令 ヲ以 テ法 律 ヲ変 更 ス ル コ トヲ得 ス 」(第9条)と あ る よ うに 、天皇 の く 国 民 へ の 奉 仕 〉 を定 めて い る。 「陛下 も憲 法 に従 ひ 遊 ばす 」 とは 、天 皇 が 〈 全 国 民 に奉仕 す る役 割 〉を 引 き 受 け る とい うこ とで あ り、そ うした 最 高 人 格 者 に な る こ とが 「 人 法 一 致 に よつ て現 人神 とな らせ られ る」 の意 味 で あ る。 なお 、 この こ とは、 牧 口の 中期 の著 作 『教 授 の統 合 中心 と して の 郷 土 科 研 究 』(1912[大 正 元]年) 第28章 の 表 現 を っか うな ら ば、 「 大 権 の発 動 す る其 の 主 体 た る 天 皇 陛 下 は此 等 の文 部 百 官 な る機 関 を透 して 活動 す る 、 其 の 理 由 は決 して 天皇 御 自身 の 為 め にす る のに あ らず し て全 く国家 全 体 の御 頭 首 とな り御 主 人公 とな りて 、 下万 民 の為 め に御 尽 し遊 ば され て居 る の で あ る」(『牧 口常 三郎 全集 』第3巻 、第 三 文 明社 、1981年 、 325-326ぺ ・ 一一 ジ) 一130一 創価教育研究第3号 とい うこ と を意 味 して い よ う。 天 皇 の く 国 民 へ の 奉 仕 〉が 、 国 民 の なか に く天 皇へ の忠 誠 〉 を 生 む の で あ る。牧 口は、 最 高 人 格 者 と して の 天 皇 と、そ れ を模 範 に仰 ぐ国民 と の関 係 を、 「人法 一致 に よ つ て 現 人神 とな らせ られ る」 と表 現 した もの と見 て よ い。 こ う して第3に 、 国 民 の 忠誠 の 示 し方 も、 政 府 公 式 見 解 と は異 な ら ざ る を え な くな る。 す な わ ち 、 国 民 は、 天 照 大 神 を信 仰 す る こ とに よっ て で は な く、 国 法 に従 うこ と で 「 純 忠 」 を示 す の で あ る。 天 皇 を模 範 に、 憲法 の理 想 を お の お の が 体現 す る こ とが 、真 の 忠誠 な の で あ る。(こ れ は 、本稿 次節 で 紹 介 す る よ うな 、戦 時 期 の 政府 ・文部 省 が 示 して い た滅 私 奉 公 的 忠誠 論 と はま った く異 な って い る。) 一 以 上 を要 す る に 、 牧 口は 、 天 照 大 神 中 心 の く 天 皇 神 格 説 〉 を否 定 しつ つ 、近 代 立 憲思 想 の枠 組 み にお い て く現 人 神 〉 の意 味 を 再解 釈 し よ うと した とい っ て よ い。 端 的 に い え ば 、<人 間 の 姿 を した 神 〉 と して で は な く、 〈神 の ご とき 人 格 者 〉 と して 天 皇 を捉 え よ うと した 。 それ は 、思 想 統 制 が最 高 度 に達 して い た 昭 和17年 とい う時 代 に あ っ て 、 牧 口が 懊 悩 煩 悶 しつ つ 試 み た 精 一 杯 の抵 抗 で あ っ た と い え よ う(「会 員 座 談 会 」 で の 発 言 の 晦 渋 さが 、 そ の 苦 悩 の深 さ を示 し て い る)。 そ う考 え る と、牧 口 が 「 天 皇 も凡 夫 」 と述 べ 、 そ の 天 皇=凡 夫 を法 華 経 に よ っ て さ らに高 い人 格 に導 こ う と した こ との意 味 が、 じつ に重 大 に 思 え て く る。 「 天 皇 陛 下 も間 違 ひ も無 い で は な い 」 か ら、 「 然 し 陛 下 も久遠 本 仏 た る御 本 尊 に御 帰依 な さる事 に 依 っ て 、 自然 に 智 恵 が 御 開 け に なつ て、 誤 りの な い御 政 治 が 出来 る 様 に な る と思ひ ま す 」 ま で の 、 「 訊 問 調 書 」 の一 節 は 、 上 述 の よ うな牧 口 の 苦悩 と思 索 を念 頭 に お く と、 そ の深 々 の 意 義 が 聞 こ えて くる 。 (17)『 特 高 月 報』 昭和18年8月 (18)さ 分 、153ペ ー ジ 。 き の 注 で 述 べ た よ うに、 牧 口 も、 天 皇 へ の忠 誠 とい うも の を否 定 は して い な い 。 た だ し(こ れ も さ き の注 で述 べ た が)'、そ の忠 誠 は あ くま で、天 皇 が 国 民 に奉 仕 して い る こ とに 対 す る く感 謝 の表 明 〉 な の で あ る。 そ れ ゆ え 牧 口の 批 判 は 、 天 皇 が 一 方 的 に国 民 に忠 誠 を要 求 す る こ とに 向 け られ て い る 。 こ の あ と本稿 が 述 べ る よ うに、1940年 ご ろの 日本 は、 国 民 が天 皇 に対 す る一 方 的 な く滅 私奉 公 〉を 強 い られ た 時 代 で あ った 。 (19)牧 野 宇 一 郎 『教 育勅 語 の 思 想 』 明治 図書 新 書 、1969年 、17-18ペ ー ジ。 (20)参 考 に 、 牧 野宇 一 郎 の現 代 語 訳 を載 せ てお く(上 掲 書100-101ペ ー ジ)。 「 私 は 天 皇 と して 思 うの で あ る が、 わ が皇 室 の歴 代 の 当 主 は 、皇 祖 以来 ず っ と、 この 国 を創 建 す る に あ た り、 そ れ を規 模 が 広 大 で久 遠 に栄 え行 く基 礎 の 上 に 築 い た。 そ して み ず か ら徳 を修 め て範 を 垂 れ 、 国 民 の 間 に深 く厚 く徳 を根 づ かせ た 。 と こ ろ で他 方 わ が 国 の代 々 の 臣 民 も、 古 来 ず っ と立 派 に 、 歴 代 の 天 皇 に忠 を励 み 、 親 や 祖 先 に孝 を勤 め 、 こ う して億 兆 の 臣 民 が 心 を 一 に して 忠 孝 の美 風 を成 就 して き て い る。 以 上 は、 わ が 日本 の 国柄 の精 髄 で華 や か に 光彩 を 放 っ て い る点 で あ る。 そ し て 教 育 が そ こか ら発 し、それ に 基づ くべ き で あ る とこ ろ の根 源 も、ま た 実 に こ こ に存 す る ので あ る 。 私 は こ の よ うに思 う。 汝 ら臣 民 よ、 父 母 に孝 行 を尽 く し、 兄弟 は友 情 を もっ て 交 わ り、 夫婦 は 互 い に和 合 し、 友 だ ち は 互 い に信 じ合 い 、 他 人 に は恭 し く、 みず か らは慎 み深 く、 心 を 引 き 締 め て 節 度 を守 る よ うに身 を統 御 し、 博 愛 を世 の人 々 に次 第 に広 く実 践 し、 学 業 を修 め 習 うこ とに よっ て 知 能 を開 発創 造 し、 か っ 徳 性 と しての 器 量 を完 成 し、 さ らに進 ん で公 共 の利 益 を 拡 大 し、 社 会 ・国 家 の た め にな る業 務 を創 造 発 展 させ 、 常 に 国 の憲 法 を重 ん ず る と と もに 国 の法 律 を遵 守 し、 も し も国 に危 急 存 亡 の大 事 が 起 きた な らば、 愛 国 の義 務 心 か ら発 す る勇 気 を もっ て 皇 国 に 一 身 を捧 げ ね ばな らな い 。 そ して 以 上 の ご と くす る こ と に よ って 、天 地 と と もに き わ ま りな い皇 室 な い し皇 位 の 昌運 を たす けね ば な らない 。 こ こ に示 した 、 皇 運 扶 翼 に 帰 一 す る道 は 、 実 に わ が 歴 代 の 天 皇 が 遺 し伝 えた 教 訓 で あ って 、 そ の 子 孫 も 臣 民 もひ と し く遵 守す べ き もの で あ る 。 そ れ は 古 今 を通 じて 謬 りが な く、 国 の内 外 に施 し て も不 条 理 で な い。 天 皇 た る 私 は 、 汝 ら臣 民 と と もに 、 この 道 を大 切 に捧持 し、 身 につ け て実 行 し、 み ん な が そ の徳 にお い て 一 体 とな る こ と を、ひ たす ら願 い 望 む も ので あ る」 (21)峰 間信 吉編 校 『教 育 勅語 術 義 集 成 』 東 京 学友 社 、1937年 、39ペ ー ジ。 一131一 基調 報 告 一 牧 口常 三 郎 は 国家 政 策 の何 に抵 抗 した か一 (22)同 じこ とは 、『国体 の本 義』 も述 べ て い る。 「忠君 愛 国 」とい う小 見 出 しの箇 所 に は 、次 の よ うに あ る 。 「 忠 は 、 天 皇 を 中心 と し奉 り、 天 皇 に絶 対 随 順 す る道 で あ る。 絶 対 随 順 は 、 我 を捨 て 私 を去 り、 ひ た す ら天 皇 に奉 仕 す る こ と で あ る。 この 忠 の道 を行 ず る こ とが我 等 国 民 の 唯 一 の 生 きる 道 で あ り、 あ らゆ る力 の源 泉 で あ る。 され ば、 天 皇 の御 た め に身 命 を捧 げ る こ とは 、 所 謂 自己 犠牲 で は な く し て 、小 我 を捨 て て 大 い な る御 稜 威 に生 き 、国 民 と して の 真 生 命 を 発 揚 す る所 以 で あ る」(同 書34-35 ペ ー ジ) 。 (23)『 教 育 勅 語 術 義集 成 』、27ペ ー ジ。 (24)杉 浦 重 剛 が 東 宮 御 学 問所 御 用 掛 と して、1914(大 正3)年10月 か ら翌 年4月 に か け て 皇 太 子 裕 仁 親 王(の ちの 昭 和 天 皇)に 教 育勅 語 を進 講 した 講 義 録 に は、 「 一 旦緩 急 ア レハ 義勇 公 二奉 シ」 の 解 説 部 分 に 「 義 勇 奉 公 は 忠君 愛 国 に基 づ く」 と明言 して あ る。 「 以 上 の ご と く、我 が 国 民 は 国 家 の危 急 に 際 して義 勇 奉 公 の挙 に 出つ る は、忠 君 愛 国 の 至 情 に発 す 。 い っ た ん 緩 急 あ らん か 、 義 勇 奉 公 、 凛 烈 た る態 度 に 出 で 、最 後 の一 人 ま で も戦 ふ 。 か の 外 国 の ご と く、 一 連 隊 の 大 軍 が 白旗 を あ げ て軍 門 に 降 る が如 き 醜態 は 、我 が 大 和 民族 の 大 恥 辱 とす る所 な り」 (杉浦重 剛 『教 育 勅語 』、勉 誠 出版 、2000年 、100-101ペ (25)『 文 部 省 編 纂 臣 民 の道 』51-52ペ (26)『 初 等 修 身 科 二』 文 部 省 、1942年 、7-9ペ (27)『 初 等 修 身 科 三』 同、54-55、85-86ペ (28)『 初 等 修 身 科 四』 同、48-49ペ ー ジ)。 ー ジ。 ー ジ。 ージ ー ジ。 以 下 の よ うな文 章 で あ る。 「日本 入 は 、本 来 平 和 を愛 す る 国民 で あ りま す 。けれ ども、一 朝 国 に事 あ る 時 は 、一 身 一 家 を忘 れ 、 大 君 の 御 盾 と して 兵 に召 され る こ とを男 子 の本 懐 と し、 こ の 上 な い ほ こ りと して 来 て ゐ ま す 。/大 日本 は 、昔 か ら一 度 も外 国 の た め に 国威 を傷 つ け られ た こ とが あ りま せ ん。 これ は 、 ま つ た く御 代 御 代 の 天 皇 の 御 稜 威 の も と に 、私 た ち の先 祖 が 、 き は め て 忠誠 勇 武 で あ つ た こ とに よる の で あ りま す 。 私 た ち も、 ま た 、心 を一 つ に して こ の大 日本 を 防衛 し、先 祖 以 来 の 光 輝 あ る歴 史 を 無 窮 に伝 え る覚 悟 が な けれ ば な りませ ん」。 一 ま さに 、教 育 勅 語 の真 義 は く国 民 皆 兵 〉 にあ る とい っ た 口吻 で あ る。 (29)パ ネ ル ・ デ ィ スカ ッシ ョン で は 時 間 の都 合 で割 愛せ ざる を え な か っ た が 、 「 克 ク 忠 二 」 に つ い て は、 特 高 は 、 牧 口に も う一 つ尋 問 してい る。 「 問 平 重 盛 は 親 に孝 な らん と欲す れ ば君 に 忠 な らず 、 君 に 忠 な らん と欲 す れ ば親 に孝 な らず と被 疑 者 は説 例 して居 るが 、 之 に対 す る所 見 は如 何 。 答 平 重 盛 の親 に孝 な らん と欲 すれ ば君 に 忠 な らず 、君 に 忠 な らん と欲 す れ ば 親 に孝 な らず と云 ふ 事 は、 有 名 な話 で私 は 之 を 時 々説 い て居 ります 。 重 盛 も非 常 に 悩 ん だ との 事 で あ りま す が 、 私 は 忠 と孝 とを二 元 的 に考 へ る事 は対 立 して両 立 しな い と思ひ ま す 。 故 に我 々 国 民 は 之 を 一 元 的 に 考 へ て 、 親 に 孝 行 を す れ ば そ れ が 君 に も忠 な る所 以 だ と思 ひ ま す。教育勅語の 「 克 ク忠二」は 「 君 二」 と改正 追補 す べ き もの と思 ひ ま す 」(『特 高 月 報 』 昭和 18年8月 分 、153ペ ー ジ) 一 お そ らく特 高 は 、 牧 口が 「忠 君 愛 国」 思想 を 排 撃 す る もの と見 て 質 問 した の だ ろ うが 、 牧 口 は う ま くか わ して い る。 「克 ク 孝 二 」 を実 践 す る こ とが 、そ のま ま 「 克 ク 忠 二 」 の実 践 を意 味 す るの で あ る か ら、 こ とさ らに天 皇 が 「 克 ク 忠 二」 と国 民 に命 令 す る必 要 は な い 、 とい うの が 牧 口の 主 張 で あ る。 特 高 は これ 以 上 は 問 い た だ して い な い が 、 じつ は 牧 口は こ こで も、 政 府 公 式 見 解 とは 微 妙 に異 な る説 明 を して い る。 ま ず 、 『国 体 の本 義 』 を見 よ う。 「 我 が 国 に於 て は 、 孝 は 極 めて 大切 な道 で あ る。 孝 は 家 を地 盤 と して 発 生 す るが 、 これ を大 に して は 国 を 以 て そ の根 底 とす る 。 孝 は 、 直接 に は 親 に 対 す る もの で あ る が 、 更 に天 皇 に対 し奉 る関 係 に 於 て、 忠 の な か に成 り立 つ」(43ペ ー ジ)。 「 我 が国 に於 て は忠 を離 れ て 孝 は 存 せ ず 、孝 は 忠 を そ の根 本 とし てゐ る。 国体 に基 づ く忠孝 一 本 の 道理 が こsに 美 し く輝 いて い る」(47ペ ー ジ)。 一132一 創価教育研 究第3号 つ ぎ に 、『臣民 の道 』 だ が、 「 抑 〃我 が 国 に於 い て は忠 あつ て の孝 で あ り、 忠 が 大 本 で あ る。 我 等 は 一 家 に於 い て 父 母 の子 で あ り、 親 子 率 ゐ て 臣 民 で あ る。 我 等 の家 に於 け る孝 は そ の ま ま に 忠 に な らね ば な らぬ 。 忠 孝 は不 ニ ー 本 で あ り、 これ 我 が 国 体 の 然 ら しむ る と こ ろ で あ つ て 、 こ こ に他 国 に 比類 な き 特 色 が存 す る」(57 ペ ー ジ)。 「 天 皇 は 皇祖 皇 宗 を祀 り大孝 を 申 べ給 ひ 、 そ の 御 心 を体 せ られ 、 惟 神 の 道 に 則 とっ て 国 を 治 め民 を し ろ し め し給 ふ 。 こ の皇 室 に於 け る御 敬 神 の 彌 深 き を仰 ぎ 、 臣 民 各 〃敬 神 崇 祖 を実 践 す る と ころ に 、 自 ら孝 が成 ぜ られ る」(58ペ ー ジ)。 これ らが 述 べ て い るの は 、 あ く ま で 「 克 ク忠 二 」 が 基 本 で あ っ て 、 そ の な か に 「 克 ク孝 二」 が 含 ま れ て い る とい うこ とで あ る。 しか も 「 皇 室 に於 け る御 敬 神 の彌 深 き を仰 」ぐ こ とが 前 提 にあ る ので 、 けっ きょく 「 克 ク孝 二 」 とは く天 照 大 神 信 仰 〉 以 外 の な に もの で もな い こ とに な る。 ④ の 国 家 神 道 批 判 と も関 わ る 点 で あ る が、 「 親 に 孝 行 をす れ ばそ れ が 君 に も忠 な る所 以 」 とす る牧 口の 立 場 は 、政 府 が 声 高 に 叫ん でい た 「忠孝 一 本 」 とは根 本 的 に意 味 を異 に して いた 。 (30)『 特 高 月 報 』 昭 和18年8月 分 、150-151ペ (31)同 、53-154ペ ー ジ。 (32)『 文部 省 編 纂 臣 民 の道 』17-18ペ ージ。 ー ジ。 (33)同 、101ペ ー ジ。 (34)『 初 等 修 身 科 三』、99-100ぺ (35)『 初等 修 身 科 四』、121-122ペ ・ 一 一 一 ジ。 ー ジ。 な お、 そ こで は 次 の よ うな 聖戦 思 想 を説 い て い る。 「 昭 和 十 六 年 十 二 月 八 日、 大 東 亜 戦 争 の勃 発 以 来 、 明 か るい 大 き な 希 望 が わ き 起 つ て 来 ま した 。 昭 和 の 聖 代 に生 ま れ て 、 今 ま で の歴 史 に な い 大 き な事 業 をな し とげ るほ こ りが 感 じ られ て 、 た くま し い カ が も りあ が つ た の で あ りま す 。[…]そ の 上 、 わが 戦 果 にか が や く南 方 の 諸 地 方 は 、新 生 の光 に あ ふ れ 、 マ ライ や 昭 南 島 、 ビル マ や フ ィ リ ピン 、 東 イ ン ド諸 島 に 響 く建 設 の 音 が 、 耳 も と近 く 聞 え て 来 ま す 。 大 東 亜 十 億 の 力 強 い 進 軍 が始 つ た の で あ りま す 。 目本 は 、 大 き な胸 を開 い て、 あ らゆ る 東 亜 の 住 民 へ 、 手 を に ぎ りあふ や う呼 び か け て ゐ ま す 。 日本 人 は 、 御 稜 威 をか し こみ 仰 ぎ、 世 界 に ほん た うの 平 和 を もた ら さ う と して 、大 東 亜 建 設 の 先 頭 に立 ち続 け る の で あ りま す 」(同 、118-121 ペ ー ジ)。 (36)『 特 高E報 』 昭 和18年8E分 (37)『 国 体 の 本 義 』、106-107ペ (38)『 初 等 修 身 科 、155-156ペ ー ジ。 ージ。 三 』79-82ペ ー ジ。 (39)角 家 文 雄 、 前 掲 著 、142-143ペ (40)全 部 挙 げ る だ け の 余 裕 が な い の で 、 第31章 ー ジ。 「文 明 地 論 」 の 結 び だ け を 引 く 。 「将 来 の 世 界 の 平 和 は 恰 か も 大 な る 『小 』 字 形 に 排 列 せ ら る 墨 日米 英 の 三 国 に よ り て 維 持 せ られ 、 依 て 人 道 的 競 争 形 式 に 基 き て 生 す べ き 文 明 は発 達 せ ら るべ き もの な らん か」(『牧 口常 三郎 全集 』第2 巻 、 第 三 文 明社 、1996年 、414ペ ー ジ)。 (41)こ こで も代 表 的 な もの のみ に と ど める。 第1巻 第2章 「 教 育 の 目的 と して の幸 福 」 か ら。 「 財 産 に よ つ て幸 福 を遺 し得 る と思 うた の は 、 唯 だ 一 片 の 妄 想 に過 ぎ な くな る。 却 つ て多 大 の財 産 を残 す こ とが子 供 に不 幸 を継 承 せ しむ る 結 果 に な る。 此 の 前 二 者 が 立 証 され るな ら ば、 誰 れ が此 の 私 有 財 産 制 度 の欠 陥 を助 長 す べ く 自己 の 生 涯 を 費 す もの ぞ 。 此 の 見 地 に 立 つ な ら ば[…]而 して来 る 可 き将 来 に於 て遠 か らず 一 部 分 に偏 した 金権 の 消 滅 と な り各 人 の 経 済 確 立 とな り平 和 は 招 かず し て来 る可 き で あ る。 然 しそ の 立 証 は頗 る 困難 で あ る 」(『牧 口常 三 郎 全 集 』第5巻 、 同、1982年 、132 ペ ージ)。 (42)同 書 結論 部 か ら引 用す る。 「仏意 の極 意 に基 か ざれ ば創 価 教 育法 の 真 の信 用 は 成 立 た ず 、 之 に よ ら ざれ ば教 育 の革 新 は到 底 出 来 ず。 然 らば 千 百 の会 議 を重 ね て も、 世 界 平 和 の 実 現 等 は到 底 出 来 な い と信 ず る」(『牧 口常三 郎 全 一133一 基 調 報 告一 牧 口常三 郎 は 国 家 政策 の何 に抵 抗 したか 一 集 』 第8巻 、 同、1984年 、87ペ ー ジ)。 (43)こ れ らはす べ て 『武 者 小 路 実 篤 全集 』第15巻(小 学 館 、1990年)に 収 録 され て い る 。2例 の み 挙 げ る。 「日本 の未 来 を」(1938年5月)と い うエ ッセ ー で は 、r戦 争 に負 け る と言 ふ こ とは いか にみ じめ な こ とか。 目本 が支 那 に負 けた こ と を思 ふ と、 どん な 目 に逢 ふ か 、想 像 以 上 の 地獄 の絵 巻 が ひ らか れ る や うに 思 ふ。 今 後 の 日本 は ま す ま す 強 くな る必 要 が あ る。 東 洋 の 平 和 と言 ふ も の が本 当 に 実現 して く れ 珊 ま実 に あ りが た い と思 ふ 」 と か 、 「現在 の 日本 は、 東 洋 平 和 一 点 ば りで 、 目本 を 無 視 せ ず 、 軽 蔑 させず に 日本 の 将 来 を明 る くす る方 法 で 、東 洋 平 和 を確 立す べ き だ」 とか 、 「相 手[=中 国]に も、 日本 の望 む 通 りに東 洋 平 和 のた め にっ くす こ と が わか れ ば許 す 、 生 か す と言 ふ道 を は つ き り示 して お く方 が いyと 思ふ 」 とか 、 わ ず か 原 稿 用 紙4枚 ほ どの 文 章 の な か に 、平 和 とい う語 が7回 使 わ れ て い る(同 書34-35ぺL-一・ ジ)。 また 、 「 長 期 応 戦 に は」(1938年11月)で は 、 「日支 協 力 で、 東 洋 平 和 の為 に支 那 の 内 の共 産党 だ け を 征 服 す る こ とに き めて 、そ の他 の人 に は 出来 る だ け寛 大 な処 置 を と るの が い ㌧の だ と思 う」 とか 、 「 今 我 等 が 手 をひ い た ら、 そ の結 果 ど うな る か を 東 洋 平 和 の た め に働 い て ゐ る親 日の 人 達 に よ く知 らせ 、 そ して東 洋平 和 の実 現 を益 々事 実 に よつ て 示 す べ きだ 」 とか 、原稿 用紙5枚 われ てい る(同 書90-91ペ ほ どの文 章 の な か で8回 使 ー ジ)。 (44)北 御 門 二 郎 『あ る 徴 兵 拒 否 者 の 歩 み 一 トル ス トイ に導 か れ て』 地 の塩 書 房 、1999年 。 私 が 見 た 限 り、 「平 和 」 の 語 が 使 われ て い る の は3箇 所 だ けで あ る。 ひ とつ は 、 彼 が ハ ル ビ ン で 目本 軍 の 中 国 人虐 殺 につ い て知 った1936年7月20日 の 日記 で 、1ヶ 所 。 「シ ョーペ ン ハ ウエ ル は生 存 そ の も の を悪 と して否 定 し、 自 ら 自分 の 生命 を絶 っ者 を偉 大 な りと し た。 それ ほ どに も彼 は 、 この 世 の 苦 悩 、 悲 惨 、兇 悪 、矛 盾 、 不 合 理 を 凝 視 し、 〈 こは流 転 の 世 〉 と 絶 望 し果 て た。 そ れ が遂 に 済 度 す べ か ら ざる もの で あ るか 、或 い は い つ か は獅 子 と仔 羊 とが 共 に 臥 す る 平 和 な世 が地 上 に 臨む も の で あ る か、 そ れ を誰 が 知 ろ う。 が、 悲 しい こ とに 、 私 は しば しば シ ョーペ ンハ ウエル に和 して厭 世 論 者 に な り、晩 年 の ラス キ ンの よ うに 心 身共 に 錆 沈 し果 て よ うとす る 自分 に気 付 か され る」(同 書38-39ペ ージ)。 ま た 、兵 役 を拒 否 した 直 後 の 、1938年4月20日 の 日記 に2ヶ 所 。 「 畑 眼 な る当 局 が 、 私 が 狂 お しい ほ どの 平 和 論 者 で あ り、 反 軍 国主 義 者 で あ る こ とを見 抜 か ぬ は ず は な い 。 そ の 私 を 、 軍 民 離 間 の バ ル チ ス(戦 争 に対 す る非 協 力 者)を 、 政 府 に とっ て は 恐 る べ き 平 和 思 想 の酵 母 を放 任 す る こ とが 何 を意 味 す るか は見 や す き こ とで な けれ ば な らな い。 社 会機 構 が 一 っ の 冷 徹 な メカ ニ ズ ム で あ り、 完 全 に物 理 的、 力 学 的 な法 則 に従 っ て動 くも の とす れ ば 、 私 は 当 然 一 発 見 され、 弾 圧 され ね ば な らな か っ た」(同 書75ペ ー ジ)。 明 らか に北 御 門 は 、 武 者 小 路 と違 い 、 あ くま で く非 戦 ・非 暴 力 〉 の意 味 で 「 平和」 の語を用いて い る。 そ の彼 に して も、 け っ して この言 葉 を多 用 しな か った 。 (45)遅 れ ば せ な が ら とい うの は 、石 田雄 『日本 の 政治 と言 葉』(下:「 『平 和 』 と 『国 家 』」、 東 京 大 学 出版 会 、1989年)と い う優 れ た 研 究 書 が、早 い 段 階 で この こ と を詳 細 に指 摘 して い る か らで あ る。石 田は 、 日本 が 目清 戦 争 以 来 ず っ とく 平 和 〉 を戦 争 の 大 義 名 分 と して き た こ とを指 摘 し、 と くに 日中戦 争 以 降 そ の傾 向 が輪 を か け て激 し く な っ た と して い る(同 書71-81ペ ー ジ)。(本 稿 の も とに な っ たパ ネ ル ・ デ ィス カ ッシ ョンの 時 点 で は 、 不 勉 強 に も筆 者 が 同 書 を 読 ん で い な か っ た た め 、 注 と して 記 す こ と に す る。) (46)そ もそ も 、 国家 権 力 や 政 治 家 が 口にす る 「平 和 」 とい うもの が 〈戦 争 の 大 義名 分 〉にす ぎな い こ と は、 ほか な らぬ トル ス トイ が 力 説 し てや ま な か っ た こ とで あ る。 日露戦 争 時 に彼 が発 表 した 有名 な非 戦 論 か ら引用 して お く。 「 世 界 の諸 国 に平 和 を呼 び か け て いた 当 の ロ シ ア 皇 帝 が 、 世界 に 向 か っ て 、 心 か らな る 平 和 へ の努 力 に も か か わ らず(実 は他 国 の領 土 を 占領 し、 軍 隊 の 力 で それ を守 ろ う とい う努 力 な の で あ る が) 日本 人 か らの攻 撃 を受 けた た め に 、 日本 人 が我 々 に 対 して 為 した 同 じこ とを彼 ら に対 して す る こ と 一134一 創価教育研究第3号 を 、 っ ま り彼 ら を殺 す こ と を命 ず る、 とい うの で あ る。 そ して そ の 殺 鐵 皇 位 の宣 言 の際 、 彼 は神 の 名 を 唱 え 、神 に 向 か って 、 そ の世 に も恐 ろ しき犯 罪 へ の 祝 福 を給 わ ん こ と を祈 る の で あ る。/そ れ とち ょ う ど同 じ こ と を、 日本 の皇 帝 も ロ シ ア人 に対 して 宣 言 した 。 ム ラ ヴ ィ ヨー フ とか マ ル テ ン ス とか い っ た 法 律 学 者 た ち は、 世 界 平 和 を訴 え る こ と と、 他 国 の 地 を 占領 す るた め に戦 争 を 起 こ す こ と とは 、 なん ら矛 盾 しな い こ とを しき りに証 明 し よ う とす る。 ま た 外 交 官 た ち は 、 上 品 な フ ラン ス 語 の 回 章 を印 刷 して ま わ し、 そ の 中 で詳 細 か つ丹 念 に(誰 も信 じは しな い こ とは わ か っ て い る の だ が)平 和 関係 を築 こ う とあ らゆ る努 力 を試 み た あ げ く(実 際 は他 の諸 国 を欺 こ う とい ろ い ろ試 み た あ げ くな の で あ るが)、 ロシ ア 政 府 は つ い に 問題 の 正 しい 解 決 の た め の唯 一 の 手 段 、す な わ ち 人 殺 し とい う手 段 に訴 え ざ る を得 な か った とい うこ と を証 明 し よ うと してい る ので あ る」(ト ル ス トイ 『胸 に手 を当 て て考 え よ う』 北御 門 二郎 訳 、 地 の塩 書 房 、1992年 、26-27ペ ー ジ)。 ま た 、 トル ス トイ の深 い影 響 下 に あ る と され るガ ンデ ィー も、 政 治 家 が く平 和 〉 とい う言 葉 を隠 れ 蓑 に して 〈暴 力 〉 の 爪 を 研 い で い る こ と を、 鋭 く指 摘 し て い る。1947年7Aに 機 関 紙 「ハ リジ ャ ン」 に 寄 せ た 一 文 を 引 用す る。 「 ボ ンベ イ で 一 九 三 四年 に 会 議 派[コ 国民 会 議 派]大 会 が 開 か れ た と き、 わ た しは 『平 和 的』 とい う言 葉 を 『非 暴 力 的 』 とい う言 葉 に置 き代 え させ よ う と懸 命 に 努 力 しま した が 、 結 局 は 成 功 しませ ん で した 。 この こ とか ら して も 『平 和 的』 とい う言 葉 に は 、 た ぶ ん 『非 暴 力 的 』 とい う言 葉 ほ ど厳 格 な意 味 が 与 え られ て い な い こ とは 明 らか です 。わた しに は、そ こ に な ん らの相 違 も見 られ ませ ん。 けれ ど も、 わ た しの考 えは 見 当違 い の よ うです 。 も し本 質 的 な 相 違 が あ る とす れ ば、 そ れ を 明確 に す る の は 学 者 の 仕 事 です 。 み な さ んや わた しが知 らな け れ ばな ら ない のは 、 会 議 派 の実 践 が 、 一般 に認 め られ て い る言 葉 の意 味 で は 、 い まや 非 暴 力 的 で な い とい う事 実 です 。 会 議 派 が非 暴 力 の 政 策 を誓 っ た の で あれ ば、非 暴力 を 支 え とす る軍 隊 な どあ ろ うはず は あ りま せ ん 。それ な の に会 議 派 は 、 軍 隊 を見 せ び らか して い る の です 。 国 民 が わ た しの 言 葉 に耳 をか して くれ な けれ ば 、や が て 軍 隊 は 文 官 を完 全 に抑 え て 、イ ン ドに 軍 国 主 義支 配 を確 立 す るか も しれ ませ ん。 わ た しは 、 国 民 大 衆 が わ た しの 言 葉 に 耳 を傾 け て くれ る とい う希望 を す っ か り棄 て な けれ ば な らな い の で し ょ うか?わ た しの 息 の あ る うち は 、そ れ を棄 て る こ とは で き ませ ん」(ガ ンデ ィ ー 『わ た しの非 暴 力2』 森 本 達 雄 一 訳 、 み す ず 書 房 、1997年 、267ペ ー ジ)。 トル ス トイ とい い 、 ガ ンデ ィー とい い 、 真 の 平 和 を希 求 す る が ゆ え に虚 偽 の 〈 平 和 〉 を斥 け ざ る を えな か っ た 。 (47)そ の うち1ヶ 所 を示 して お く。 「 我 が皇 軍 は 、 この 精 神 に よつ て 日清 ・目露 の戦 を経 て 、世 界 大 戦 に 参 戦 し、 大 い に 国 威 を 中外 に輝 か し、 世 界 列 強 の 中 に立 つ て よ く東 洋 の 平 和 を維 持 し、 又 広 く人 類 の 福 祉 を維 持 増 進 す るの 責任 あ る地位 に 立 つ に至 つ たj(『 国体 の本 義 』141ペ ー ジ)。 (48)友 田宜 剛 『詔 勅 の謹 解 と 目本 精 神 』、 国 民教 育普 及 社 、1941年 、379ペ ー ジ 。 本 書 は 、 明 治 ・大正 ・ 昭 和天 皇 の勅 語 を集 めて解 説 を ほ ど こ した、 国民 教 化 用書 籍 の一 つ で あ る。 (49)『 文 部 省 編 纂 臣 民 の道 』17-18ペ ー ジ。 (50)内 川 芳 美 編 集 解 説 『現代 史 資 料41マ ス ・メデ ィア統 制2』 み す ず 書 房 、1775年 、165ペ ー ジ。 (51)全 文 は 、 以下 の通 り(角 家文 雄 、 前 掲 書、142-143ペ ー ジ)。 「 詔書 天 佑 ヲ保 有 シ 万世 一 系 ノ皇酢 ヲ 践 メル 大 日本 帝 国天 皇 ハ 昭 二 忠誠 勇 武 ナル 汝 有 衆 二示 ス 朕 菰 二米 国及 英 国 二 対 シ テ 戦 ヲ宣 ス 朕 力 陸海 将 兵 ハ 全 カ ヲ 奮 テ交 戦 二従 事 シ朕 力 百僚 有 司 ハ 励 精 職 務 ヲ奉 行 シ朕 力 衆 庶 ハ 各 々 其 ノ本 分 ヲ尽 シ億 兆 一 心 国 家 ノ総 力 ヲ挙 ケ テ征 戦 ノ 目的 ヲ達 成 ス ル ニ 遺 算 ナ カ ラ ム コ トヲ期 セ ヨ 抑 々 東 亜 ノ安 定 ヲ確 保 シ 以 テ 世 界 ノ平 和 二 寄 与 スル ハ 顕 ナ ル 皇祖 考 承 ナ ル 皇 考 ノ作 述 セ ル 遠 猷 ニ シ テ 朕 力 拳 々 措 カ サ ル 所 而 シテ 列 国 トノ交 誼 ヲ篤 ク シ 万 邦 共 栄 ノ楽 ヲ楷 ニ ス ル ハ 之 亦 帝 国 力 常 二 国 交 ノ要 義 卜為 ス 所 ナ リ今 ヤ不 幸 ニ シ テ米 英 両 国 卜雰 端 ヲ 開 ク ニ 至 ル 洵 二 已 ム ヲ得 サ ル モ ノ ア リ豊 一135一 基 調 報告 一 牧 口常 三 郎 は 国家 政 策 の 何 に抵 抗 したか 一 朕 力 志 ナ ラ ム ヤ 中華 民 国政 府 襲 二 帝 国 ノ真 意 ヲ角 セ ス 濫 二事 ヲ構 ヘ テ 東 亜 ノ平 和 ヲ撹 乱 シ遂 二 帝 国 ヲ シテ 干 黄 ヲ執 ル ニ至 ラ シ メ菰 二 四年 有 余 ヲ経 タ リ幸 二 国 民 政 府 更 新 スル ア リ帝 国ハ 之 ト善 隣… ノ誼 ヲ結 ヒ相 提 携 スル ニ至 レル モ重 慶 二残 存 スル 政 権 ハ 米 英 ノ庇 蔭 ヲ侍 ミテ 兄 弟 尚未 タ旛 二 相 圃 ク ヲ俊 メス 米 英 両 国ハ 残 存 政 権 ヲ支 援 シ テ東 亜 ノ禍 乱 ヲ助 長 シ 平 和 ノ美 名 二 匿 レテ 東 洋 制 覇 ノ非 望 ヲ逞 ウ セ ム トス剰 へ 与 国 ヲ誘 ヒ帝 国 ノ 周辺 二於 テ武 備 ヲ 増 強 シ テ 我 二 挑 戦 シ 更 二帝 国 ノ平 和 的 通 商 二有 ラ ユ ル 妨 害 ヲ与 へ 遂 二経 済 断交 ヲ敢 テ シ帝 国 ノ生 存 二重 大 ナ ル 脅 威 ヲ加 フ朕 ハ 政 府 ヲ シテ 事 態 ヲ平 和 ノ裡 二 回復 セ シ メ ム トシ 隠 忍 久 シ キ ニ弥 リタル モ 彼 ハ 毫 モ 交 譲 ノ精 神 ナ ク徒 二時 局 ノ解 決 ヲ遷 延 セ シ メテ 此 ノ 間却 ツテ 益 々経 済 上軍 事 上 ノ脅 威 ヲ増 大 シ 以 テ 我 ヲ屈 従 セ シ メ ム トス 斯 ノ如 ク ニ シ テ推 移 セ ム カ東 亜 安 定 二 関 スル 帝 国積 年 ノ努 力 ハ 悉 ク 水 泡 二 帰 シ 帝 国 ノ存 立 亦 正 二 危 殆 二 瀕 セ リ事 既 二 此 二 至 ル 帝 国ハ 今 ヤ 自存 自衛 ノ為 厭 然 起 ツ テー 切 ノ障 擬 ヲ破 砕 スル ノ外 ナ キ ナ リ 皇祖 皇 宗 ノ神 霊 上 二在 リ朕 ハ 汝 有 衆 ノ忠 誠 勇 武 二信 僑 シ祖 宗 ノ遺 業 ヲ恢 弘 シ速 二 禍 根 ヲ蔓 除 シテ 東 亜 永遠 ノ平 和 ヲ確 立 シ 以 テ帝 国 ノ光 栄 ヲ保 全 セ ム コ トヲ期 ス 御名 御璽 昭 和 十 六年 十 二月 八 日」 (52)『 牧 口 常 三 郎 全 集 』 第10巻 、 第 三 文 明 社 、1987年 一136一 、17-18ぺ ・一・ ジ。
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