歴史を感じる町並み

魚吹八幡神社の
提灯まつり
魚吹八幡神社で毎年10月21・22日
か と う け
か た お か け
きゅうみずいけ
加 藤家、片 岡家、旧 水井家
に行われる秋祭りのこと。
よいみや
旧水井家
たけざお
21日の宵 宮では竹 竿の先に提灯を
網干地区には、歴史を感じさせる住宅が多く残ってい
つけて練り歩き、神社の入口で互 いに
ます。運送業や醤 油づくりを手がけた加藤家は、主屋
たが
たた
提灯を激しく叩き合います。竹竿の鳴
る音、人々のどよめきが混じり合って
22日の本宮では、豪華絢爛な屋台
の練り合わせが見ものです。
や長屋門、蔵などを備え、国の登録有形文化財に指定
おおじょうや
されています。片岡家は1702年に建てられた大 庄屋
の住宅です。大正時代に建てられた旧水井家は戦前
まで材木問屋を営んでおり、住宅に利用されている木
材は立派です。このような町並みを観光客に案内する
「網干まちなかあるき」が開催されています。
片岡家
ひ
め
じ
し
います。
姫路市網干区
よ こ は ま
余子浜12
☎079-255-8001
し
いっぱん
ました。現在は資料館として無料で一 般に公開されて
ぼ
行っています。
の宿舎として利用され
あ
た外国人技術指導者
ほうじょうえ
ほか、観光ガイドも
ご う か けんらん
地場産品の販 売や朝市などさまざまなイベントの
洋風建築。会社に招い
きょてん
ルロイド会社が建てた
姫路市
はっしんきょてん
はんばい
は な
みりょく
祭り華やか歴 史の町
網干の魅力の発信拠点として2009年にオープン。
うすきはちまんじんじゃ
あぼしまち交流館
ダイセルの 前 身 のセ
「 網 干 」の名 前 は 、地 区にある 魚 吹 八 幡 神 社の放 生 会(捕
せっしょう
あみ
ま え た 生 き 物 を 放 す 行 事)の日に、漁 師 が 殺 生 をや め 網 を
ダイセル異人館
はいじん
ひめじはんりょう
姫路市網干区浜田632 ☎079-272-0823
げ た
ちょうちんね
姫路市網干区浜田812 ☎079-272-1276
くっし
か ん べ え
下駄の跡」
の句を読んだ俳人でもあります。
はりまちほう
くろだ
朝 二の字二の字の
び、播磨地方でも屈指の禅宗寺院です。
え ど じ だ い
えんじょ
豪商・灘屋の援助がありました。寺には20以上の堂が並
干してお 参 りをし たことに由 来 するといわれています 。
6 歳 のときに「 雪 の
きょうごくけ
ごうしょう
網 干 は 江 戸 時 代 の は じ め は 姫 路 藩 領 でし た が 、その 後
てんりょう
たつのはんりょう
まるがめはんりょう
は 天 領( 幕 府 の 領 地 )、龍 野 藩 領 、丸 亀 藩 領 に 分 か れ る な
京極家と網干の
ど し て 、複 雑 な 歴 史 を た ど り ま し た 。そ の た め 古 い 寺 社
女 が 龍 門 寺 のそば
に開いた寺。捨女は
まるがめはん
や 町 並 み が 残 り 、多 くの文 化 財 が あ る 地 区です 。
禅 宗 の 寺 。創
建には丸亀藩
魚 吹 八 幡 神 社 の 秋 祭 り は 、提 灯 練 り や 豪 華 絢 爛 な 屋 台
の練 り 合 わせで有 名です 。他にも 、季 節の祭 りや 味 わい深
じょ
い地 酒の製 造 など 、独 自の文 化 が 育 まれてき ま し た 。
でんすて
ぜんしゅう
戦 国 時 代 の 天 才 軍 師 、黒 田 官 兵 衛 は 、大 名 に なった と
とよとみ
はしば
ひでよし
きに 豊 臣( 羽 柴 )秀 吉 か らこの 網 干 の 地 を 与 え ら れ た とい
1688年、盤珪禅師
の 弟 子 である田 捨
ぜ ん し
わ れてい ま す 。最 近 は あ ぼ し ま ち 交 流 館 を 拠 点に 観 光 案
1661年に盤 珪
禅 師 が 建てた
2
内 や イベン ト な どの 町 おこし を 行っていま す 。ま た 、毎 年
ふ て つ じ
不 徹寺
ばんけい
月 ご ろに行 われる「 網 干 か き 祭 り 」
にも 大 勢 の 人 が 訪 れ
ます 。
りょうもんじ
龍 門寺
網干
祭りは盛り上がります。
加藤家
しょうゆ
姫路市網干区新在家1239 ☎079-273-7001
39
38
さ
坂越
こ
し
あ
赤穂市
こ
う
し
生島
坂越大道
旧坂越浦会所
坂越の船祭
毎年10月第2日曜に行われ
坂越まち並み館
行 政や商 業 のため の 村 会 所として
明治末期から大正時代の銀行であった建
1831~1832年に建築。赤穂藩主の
物(旧奥藤銀行)
を修復したもので、坂越の
あこうはんしゅ
きゅうけいじょ
休 憩所としても使われました。2階の
景観の中心。館内では、坂越の歴史や文化
部屋「観海楼」
からは坂越湾が一望で
をパネルで紹介しています。また、銀行時
神社での神事の後、神輿や
きます。
代のアメリカ製大金庫も残っています。
獅 子舞が浜 辺まで練り歩き、
赤穂市坂越1334 ☎0791-48-7755
赤穂市坂越1446-2 ☎0791-48-7770
る大避神社の秋の祭礼。
みこし
ししまい
はまべ
かんかいろう
さこしわん
おたびしょ
せ と な い か い
さこしだいどう
え ど じ だ い
つな
江 戸 時 代 、瀬 戸 内 海でも 有 数の廻 船 業(海
さこし
ちくさがわ
運 業)の 地 として栄 え た 坂 越 。千 種 川 と 坂 越
いしだたみ
かいせんぎょう
湾 を 繋 ぐ 坂 越 大 道 に は 、当 時 の お も か げ を
残 す 町 並 み や 美 しい 石 畳 を 見 る こ と が で き
おおさけじんじゃ
41
いきしま
赤穂市坂越
ます 。
定文化財。
坂 越 湾 に 浮 か ぶ 生 島 は 、大 避 神 社 が 人 の
立 ち 入 り を 禁 止 し たこ と か ら 原 生 樹 林 が 残
ざんまい
三 昧」
ともいわれています。兵庫県指
くにしていむけいみんぞく
期に、坂越浦海域で海難や病気で亡く
なった他の地域の人たちの墓。
「よそ
り 、国 の 天 然 記 念 物に 指 定 さ れていま す 。秋
江戸時代の廻船業がさかんだった時
ふなとぎょ
く ろ さ き ぼ し ょ
黒 崎墓所
ぶんかざい
赤穂市坂越1299 ☎0791-48-8136
に 開 催 さ れ る 坂 越 の 船 祭( 国 指 定 無 形 民 俗
民俗文化財)
が行われます。
かきようしょく
再建。坂越湾に浮かぶ生島を神地と
し、毎年秋に坂越の船祭(国指定無形
おくとうしょうじ
俗文化財に指定されています。
す。現在の本 殿や拝 殿は江戸時代に
文 化 財)
では、生 島への船 渡 御 が行われます 。
数えられます。国の重要無形民
まつ
はいでん
牡 蠣 養 殖 が 盛 ん な 地 域 で も あ り 、牡 蠣 な
どの海 産 物 が 食べられる「 海の駅 し お さい市
せとうち
く、瀬戸内三大船祭りの一つに
はたのかわかつ
ほんでん
場 」は 、冬にな る と 県 内 外 か らの 大 勢 の 観 光
様子や日没後に提灯をともし
て島から帰ってくる様子が美し
しょうとくたいし
聖徳太子の臣下、秦河勝を祀っていま
客で賑わいます 。
にちぼつご
大避神社
この 町 並 み は 市 の 景 観 形 成 地 区 に 指 定 さ
きゅうさこしうらかいしょ
れ 、坂 越 ま ち 並み 館 や 旧 坂 越 浦 会 所 、江 戸 時
じゅんこう
代 か ら 続 く 酒 造 業 の 奥 藤 商 事 を 中 心 に 、保
のぼり
船が旗や幟を立て巡行する
存 活 動 が進められています 。
が行われます。
大道が結ぶ川と海
御旅所がある生島まで船渡御
40
た
か
さ
ご
高砂町が兵庫県の歴史的景観形成
ます。歴史的建造物や6kmにわたる路
2007年から毎年9月に開催されてい
もぎてん
地がライトアップされ、町中が灯りに包
産 業を支 える町 並み
かべ
しっくい
はんえい
江戸末期の古民
砂に来られたこと
家。国の登録有形
により、浄土宗になりました。
文化財。
高砂市高砂町横町1074 ☎079-442-0242
高砂市高砂町高瀬町1511 ☎079-443-5306
大崎家住宅
松宗蔵
しゅうそほうねんしょうにん
た か さ ご し
いけだてるまさ
え ど じ だ い
田 輝 政 が 高 砂 の 町 割 り( 都 市 計 画 )を
池
ほ ん だ ただまさ
き そ
し 、本 多 忠 政 の 時 、現 在 の 高 砂 の 町 の 基 礎
ほりかわ
が 築 かれまし た 。江 戸 時 代 はじ めか ら 港 を
たかせぶね
中 心に 舟 運によ り 栄 え 、堀 川には 大 き な 蔵
が 立 ち 並 び 、多 くの高 瀬 舟 が 往 来 して繁 栄
め い じ ま っ き
し たと伝 え られていま す 。
明 治 末 期にな る と 産 業 の 中 心 が 漁 業 や
商 業 か ら 工 業 に 移 り 、町 の 様 子 も 大 き く
変 わ り ま す 。し か し 、町 内 に は 江 戸 時 代 か
ふ ん い き
らの民 家 や 歴 史 あ る 寺 や 神 社 が 数 多 く 残
しゅうへんちく
り 、かつて の 雰 囲 気 を 今 に 伝 え てい ま す 。
わがわら
特 に 、堀 川 周 辺 地 区 で は 、壁 に 漆 喰 、屋 根
高砂市高砂町東浜町1254 ☎079-442-0017(田尻)
むしこまど
高砂市高砂町藍屋町1667 ☎079-432-8785(加藤)
こうし
形文化財。
に和 瓦 な ど 伝 統 的 な 材 料 が 使 われ 、木 製の
した。国の登録有
録有形文化財。
格 子 や 虫 籠 窓 な ど 、建 物の工 夫 を 見 ること
物です。国の登
ひょうごけん
蔵として使われま
ができ ます 。
で、その後乾物の
つ明治時代の建
いしょう
まちや
とうろくゆう け い ぶ ん か ざ い
町屋の意匠を持
おおさきけじゅうたく
虫籠窓が特徴の
宗祖法然上人が高
じょうど
高砂市高砂町
東宮町190
☎079-442-0160
れ、はじめは米蔵
つぼにわ
これ らの 町 並 み は 兵 庫 県 の 歴 史 的 景 観
はないけじゅうたく
まつそうぐら
形 成 地 区に 指 定 。
「 花 井 家 住 宅 」「 松 宗 蔵 」
家 」。漆 喰 の 壁に
寺。1207年、浄土
たかさごじんじゃ
1823年に建てら
つ、坪庭といった
そで
「 大 崎 家 住 宅 」な ど 国 の 登 録 有 形 文 化 財 に
別名「高砂来て民
が建てたと伝わる
こうぼうだいし
高砂市
指 定 地 区になったことをきっかけに
42
43
815年に弘法大師
指 定 された 建 物の活 用 も 進んでいます 。
じゅうりんじ
高 砂神社
出 格子、袖 うだ
で ご う し
花井家住宅
十 輪寺
高砂神社
山陽電車
「高砂駅」
南側一帯
☎079-443-9030(高砂市産業振興課)
三連蔵
ど、さまざまなイベントも行われます。
ち ょ う
高砂町
たかさご万灯祭
まれます。ジャズコンサートや模擬店な
ほ う じ ょ う
北条
か
さ
い
加西市
し
な ら じ だ い
歴史と今が溶け合う町
さんよう
さんいん
きょてん
すみ
北 条 地 区 は 、奈 良 時 代 に 建 て ら れ た 住
よしじんじゃ
さ が み じ
吉 神 社 や 酒 見 寺 の 門 前 町 として栄 え ま し
た 。山 陽 と 山 陰 を 結 ぶ 交 通 の 拠 点 で も あ
にぎ
きたはりまちいき
り 、戦 国 時 代 は 市 場 町 、江 戸 時 代には 宿 場
はんえい
ごうか
町 として賑わった 北 播 磨 地 域の中 心 的 存 在
です 。
そ の 繁 栄 を も とに 商 人 は 豪 華 な 家 や 店
うだつ
むしこまど
を 建て、現 在 も 建 物に卯 建 や 虫 籠 窓 な ど を
見ることができ ます 。
北 条 地 区は現 代 も 北 条 鉄 道の始 発 駅や
観 光 案 内 所 、図 書 館 やホール、ショッピン グ
センター な ど が 集 ま り 、加 西 市 の 中 心 とし
ての 役 割 を 果 た していま す 。町 並 み は 兵 庫
県の歴 史 的 景 観 形 成 地 区に指 定 され 、保 存
や 観 光 資 源 として生 か す 取 り 組 み が 進 め
られています 。
だいしんじ
われます。三 棟が横並びに
なっている本 殿が特 徴。国
はな
ほこ
加西市北条町北条1319
☎0790-42-0145
無形民俗文化財に指定されています。
の多 宝塔は国の重要文化
持って舞 い 、後 半は素 手で舞って人々
といわれる寺。美しい色彩
たほうとう
二つに分かれ、前半は猿 田彦命が鉾 を
ぎょうき
といわれる華やかな春の祭りです。
とくちょう
ほんでん
ま た 、付 近には 個 性 豊 かな 表 情の石 仏 が
ごひゃくらかん
ず らりと 並 ぶ 五 百 羅 漢 、国の登 録 有 形 文 化
みこし
酒見寺
財に指 定 された 大 信 寺 などもあります 。
ばんしゅう
が町中を練り歩き、播 州三大祭りの一つ
加西市北条町北条1293 ☎0790-43-0580
を行います。東西の神 輿と14台の屋台
のために作ったのかは謎に包まれています。
住吉神社では毎年4月に北条節句祭り
財に指定されています。
の 心 を 表します 。龍 王 舞 は 兵 庫 県 の
むけいみんぞくぶんかざい
境内に500体近い石仏「五百羅漢」が並びます。いつ誰 が何
なぞ
だれ
住吉神社龍王舞
745年に僧・行 基が建てた
境内では龍王舞が行われます。舞は
さるたひこのみこと
五百羅漢
す み よ し じ ん じ ゃ り ゅ う お う ま い
44
45
酒見寺
五百羅漢
住吉神社
奈良時代に建てられたとい
さんとう
の登録有形文化財。
加西市北条町北条1318
☎0790-42-0423
む
ろ
室津
つ
ほうのう
「棹の歌」
を奉納します。
「棹の歌」は兵 庫県
じゅうようむけいみんぞくぶんかざい
こ さ つ き ま つ り
じょううんじ
な み お だ
そう
ぎょうき
波 穏やかな天 然の良 港
な ら じ だ い
へんさん
は り ま の く に ふ ど き
)
室 津 は 、奈 良 時 代 の 僧 で あ る 行 基( P.85
に よって 整 備 さ れ 、古 代 か ら 栄 え た 港 で す 。
こ
とまり
むろ
ごと
8 世 紀 は じ めに 編 纂 さ れ た『 播 磨 国 風 土 記 』
みさき
には「 此 の 泊 、風 を 防 ぐこと 室 の 如 し 」と 記 さ
れ 、三 方 を 山 と 岬 に 囲 ま れ た 地 形 が 風 を 防
ぎ 、部 屋 の 中にいる よ うに 静 か な 海 で あ るこ
へいあんじだい
か も じ ん じ ゃ
たいらのきよもり
とが 室 津の名 前の由 来 だと伝 えています 。
さんきんこうたい
平 安 時 代には 賀 茂 神 社 が 建てられ 、平 清 盛
え ど じ だ い
も 参 拝 し た と い わ れ て い ま す 。江 戸 時 代
さいごくだいみょう
ていはく
か
に は 、参 勤 交 代 で 江 戸 と 領 地 を 往 来 す る
しゅくえき
はんえい
西 国 大 名 が 、船の停 泊 や 陸 路 と 海 路の乗 り 換
え 地 点 と して 利 用 し 、
「 海の宿 駅 」として繁 栄
し まし た 。
明 治 時 代 以 降は陸 路 が発 達し 開 発から 取
り 残 さ れ ま し た が 、そのた め 町 並 み がそのま
建物を利用した資料
ともぎみ
し ば
りょうたろう
港に突き出すように
海 産物問屋「魚 屋」
立つ神社で、参籠所
を改修した資料館。
さんろうしょ
ごうしょう
たにざきじゅんいちろう
ま残り、
「 歴 史 とロマンの 港 町 」と して 愛 さ れ
てい ま す 。谷 崎 潤一郎 や 司 馬 遼 太 郎 な ど 、多
した豪 商「 嶋 屋 」の
むろつみんぞくかん
からの眺めが素晴ら
部屋が23もあり、か
しい。国の指定重要
つて の 繁 栄 がうか
文化財。
がえます。
たつの市
御津町室津74
☎079-323-3171
たつの市
御津町室津306
☎079-324-0650
くの作 家の作 品にも 取 り 上 げ られています 。
人の説法を聞き出家した
といわれる遊女・友君の塚
ゆうじょ
うおや
かいさんぶつどんや
つ
しまや
廻船問屋として活躍
ほうねんしょうにん
たつの市
御津町室津457
☎079-324-0595
があります。
館。江戸時代では珍
たつの市御津町室津168
☎079-324-0030
しい二階建て。
賀茂神社
室 津民俗館
室津港
かいせんどんや
法 然上人ゆかりの寺。上
46
47
むろつかいえきかん
室 津海駅館
浄 運寺
ながさき
現在も鼓を持ち烏帽子をつけた少女たちが
シーボルトも室津を訪れました。
重要無形民俗文化財に指定されています。
長 崎のオランダ商館付の医師、ケンペルや
ひょうごけん
琉 球(現在の沖縄県)の使節団をはじめ、
え ぼ し
つづみ
りゅうきゅうしせつぎょうれつず
さお
むろぎみ
りゅうきゅう
奉納したことがきっかけといわれています。
(江戸時代 たつの市教育委員会蔵)
を
津の遊 女の長・室 君が、神社に「棹 の歌」
琉 球使節行列図
賀茂神社の春の例祭。平安時代後期に室
ゆうじょ
たつの 市
小五月祭
旧辻川郵便局
大正時代に三木家当主が建
み き け
てた郵便局で電 信電話局の
でんしんでんわきょく
役割もありました。現在の福
崎郵便局の前身。国の登録
有形文化財。
神崎郡福崎町西田原1107-1
大 庄屋三木家住宅
お お じ ょ う や み き け じ ゅ う た く
い頃にここの本を読みあさったといわれています。兵庫
県指定重要文化財。保存修理工事中。
柳田國男生家
かいたく
祀る北 野天満神社を結ぶ道を
「学問
神崎郡福崎町西田原
成就の道」
と呼んでいます。
み ん ぞ く が く
し か ま つ
P . 9)
8が 通って い
ひめじこう
業績を称える記念館。
たた
神崎郡福崎町西田原1038-12
☎0790-22-1000
かんざきぐん
民 俗 学 のふ る さ と
ばしゃみち
辻 川 地 区 は 、福 崎 町 の 歴 史・文 化 の 中 心
め い じ じ だ い
いくのこうざんりょうばしゃみち
地 で す 。明 治 時 代 に は 生 野 鉱 山 寮 馬 車 道
ぎん
( 通 称:銀 の 馬 車 道 )
(→
あ さ ご し
ま し た 。銀 の 馬 車 道 と は 生 野 銀 山( 現 在 の
朝 来 市 )と 飾 磨 津( 現 在 の 姫 路 港 )を 結 ぶ 馬
車 専 用 の 道 路 で 、日 本 初 の 高 速 産 業 道 路 と
いわれていま す 。
やなぎた
当 時 建てら れ た 洋 風 建 築 の 役 所 や 郵 便 局
は 現 在 も 残 り 、辻 川の歴 史 を 感じ させます 。
辻 川 は「 日 本 民 俗 学 の 父 」といわれ る 柳 田
くにお
まつおかえいきゅう
國 男 や 日 本 画 家 の 松 岡 映 丘 らの 兄 弟 が 生 ま
かっぱ
れ た 地 区 で も あ り ま す 。町 を 流 れ る 市 川 で
えいきょう
めん
は 河 童 が 出 る とい う 伝 説 が あ り 、國 男 の 民
俗 学 研 究に影 響 を 与 えています 。
大 麦 の一種「 も ち 麦 」を 使った も ち む ぎ 麺
( → P.62
)が 名 産 で 、そ ば や う ど ん と は 異 な
る 独 特 の 食 感 が 特 色 です 。
近 年では 、これらの地 域 資 源 を 生かして町
並み保 存 や 観 光 振 興に力 を入れています 。
く に お
しずお
みちやす
かなえ
わ
鈴ノ森神社と学問の神様・菅原道真を
出してきます。
や な ぎ た
しんこう
各界で大成しており、その兄弟5人の
たいせい
ふくさきちょう
きたのてんまんじんじゃ
郎は、時間が来ると池の中から飛び
柳田國男
しょみんせいかつ
1875年 、神 東 郡 辻 川 村の松 岡 家に六 男
として生まれました。
國男の兄弟(鼎 、通 泰、静 雄、映丘)
も
立。著書に『 遠野物語 』『 故郷七十年 』などがあ
とおのものがたり
を 歩 いて 庶 民 生 活 に 生 き る 信 仰 、習
全国
ぎれい
慣 、儀 礼 、行 事などを研 究し、日 本 民 俗 学を確
りま す 。
柳田國男・松岡家記念館
神崎郡福崎町西田原1038-12
☎0790-22-5699
辻川山公園のため池にいる河童の
じんざい
神崎郡福崎町西田原1038-12 ☎0790-22-1000
福崎町
ます。兵庫県指定重要文化財。
生活用具・農具などを展示してい
河童の河 太郎と河 次郎
か
明治時代に神東・神西郡役所
(神
じんとう
じ
歴 史民俗資料館
ています。兵庫県指定重要民俗文化財。
つ
れきしみんぞくしりょうかん
家。國男はこの家を著書で
「日本一小さい家」
と書い
すがわらのみちざね
すずのもりじんじゃ
河太郎と河次郎。池の中にいる河次
神 崎郡
神崎郡福崎町西田原1106
日本民俗学を開 拓・確立した柳田國男が生まれた
やしき
ひめじはん
崎郡役所)
として建てられた洋風
48
49
建築。主に福崎町の歴史資料や
が じ ろ う
が た ろ う
辻川
姫路藩の大庄屋を務めた三木家の屋敷。柳田國男が幼
うりゅうばらてい
瓜 生原邸
平福
1810年に建築されたといわれる瓜生
原邸は、平福地域の町家の特色を持
つ貴重な建築物で、享保年間に津山
うりゅうばらけ
から移住した瓜 生原家によって、代々
ひ
ふきや
「吹 屋」の屋号で、昭和初期まで鋳物
ら
業が営まれてきました。2006年に県
ふ
の景観形成重要建造物に、2014年に
県の登録文化財に登録されています。
く
2014年に大規模な改修工事が行わ
れ、現在は地域の人たちの手によって
どころ
「お休み処 瓜生原」として、地域の活
さ よ う ち ょ う
佐用町
性化に活用されています。
佐用郡佐用町平福439
☎0790-71-0812
利神城
池田輝政の甥、池田由之
平福の伝説
が 城 主となり、5年 か け
ろうかく
て作った城 。三 層の楼 閣
は雲を突くように立派で
くもつきじょう
「 雲 突 城 」と 呼 ば れ まし
し ゅ く ば ま ち
え ど じ だ い
りかんじょう
平 福 は 、江 戸 時 代のはじ めに現 在の町 並 み
いなばかいどう
が 作 ら れ 、その 後 、因 幡 街 道 の 宿 場 町 と し て
い け だ てるまさ
栄 え ま し た 。町 並 み は 佐 用 川に 沿って 南 北に
ひめじじょうしゅ
1 2・㎞続いていま す 。
くにが
います。
姫 路 城 主・池 田 輝 政 が 利 神 城の城 主 として
おい
い け だ よしゆき
はけん
にぎ
甥の池 田 由 之 を 派 遣 。平 福 は 城 下 町 として賑
の勝負をし、すべて勝ったと記録して
じんや
13歳から29歳までの間に60回以上
とっとりはん
ていた商い道具や民具、
わいま し た 。城 主の国 替 えで城 下 町の役 割 を
館。宿場町の商人が使っ
武蔵は著書『 五 輪書 』に、初決闘の
ごりんしょ
51
家の建築を再現した資料
一振りで倒したといわれます。
ばんしゅうけい
ふ
江戸時代の代表的な町
終 え た 後 は 、鳥 取 藩 が 陣 屋 を 置いた 時 期 も あ
いど
みまさか
き へ い
さくしゅうけい
ありま
の達人、有 馬喜 兵衛に勝負を挑 み、刀
平福郷土館
る た め 、町 並 みの中に播 州 系(播 磨 地 方)の造
しんとうりゅう
武蔵は当時13歳でしたが、新 当流
とくちょう
決闘をしたといわれています。
り の 家 と 作 州 系( 岡 山 県 美 作 地 方 )の 造 り の
のたもとで、1596年、宮本武蔵が初
かわざしき
佐用郡佐用町平福981-4
いしがき
建築したものです。
みやもと む さ し
宮本武蔵 初決闘の地
宿場町として栄えた平福の金倉橋
に代 官・佐々木 平 八 郎 が
家 の 両 方 を 見 ら れ る の が 特 徴 です 。
存する陣屋門は1864年
は つ け っ と う
佐 用 川 沿いの石 垣 や 川 座 敷 、川の水 面に土
蔵 群 が 映 る 様 子 は 平 福 ら しい 景 色 と し て 愛
官の支配となりました。現
さ れていま す 。周 辺には 宮 本 武 蔵に 関 す る 伝
平福は松平氏5千石の代
説 が 残 る 歴 史 豊 か な 地 区 でも あ り ま す 。
はいじょう
利神城が廃城となった後、
この 町 並 み を 保 存 し て 未 来 に 伝 え よ う と
いっしょ
ひょうごけん
住 民 と 行 政 が一緒 に 取 り 組 んで お り 、兵 庫 県
平福陣屋門
の歴 史 的 景 観 形 成 地 区に指 定 されていま す 。
佐用郡佐用町平福
川 面に 映 る 宿 場 町
た。現在は石垣が残ってい
ます。
利神城ゆかりの品を展示
しています。
佐用郡佐用町平福594
☎0790-83-2635
50
な
か
む
ら
あ
わ
が
中 村・粟 賀 町
ま
ち
かみかわちょう
神河町
歴 史や文 化を感じる町
え ど じ だ い
ひめじ
いくのかいどう
たじまかいどう
中 村・粟 賀 町 を 中 心 とし た 歴 史 的 景 観 形 成 地 区 は 、
はりま
たじま
ようしょう
古 く か ら 播 磨 と 但 馬 を 結 ぶ 要 衝 として 栄 え ま し た 。
にぎ
たんば
きょう
江 戸 時 代には、姫 路から 但 馬への生 野 街 道(但 馬 街 道)
おおさか
え ど
の 宿 場 町 と し て 賑 わい 、播 磨・但 馬・丹 波 、そ し て 京・
大 阪・江 戸へ人 やものを 運 ぶ 中 継 地 としての役 割 も 果
きゅうなんばしゅぞう
た し ま し た 。当 時 の 様 子 を 兵 庫 県 景 観 形 成 重 要 建 造
物に指 定 されている 旧 難 波 酒 造・旧 中 村 屋(竹 内 邸)や
め い じ じ だ い
いくのこうざんりょうばしゃみち
屋 号 の あ る 町 屋( 商 家 )か ら う か がい 知 ること がで き
ばしゃみち
)が通り、町は日 本の近 代 化
P.98
ます 。また 、明 治 時 代になると、生 野 鉱 山 寮 馬 車 道(通
ぎん
称 : 銀の馬 車 道)(→
を支える道路とともに発展してきました。
でんえんぶ
ま た 、姫 路 、丹 波 、但 馬への 案 内 を 記 し た 江 戸 時 代
どうひょう
どうろげんぴょう
の 石 仏・道 標 や 明 治 時 代につく ら れ た 道 路 元 標 、そし
かいどうすじ
じょうちょ
て地 区 全 体に張りめぐらされた水 路もあり、田 園 部と
街 道 筋 が 融 合 し た 情 緒 あ る 町 並 み を 感 じ るこ と がで
き ます 。
食と産業
銀の馬車道交流館
生野銀山と飾 磨津(現在の姫路港)
を結ぶ馬車専用の
し か ま つ
道路「銀の馬車道」
に関する資料を展示しているほか、
地域の交流拠点としても活用されています。
こうりゅうきょてん
神崎郡神河町中村78 ☎0790-32-0737
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