古代 の 村を 復 ふ 元 し た公園もあ る よ

ふくもといせき
神崎郡神河町福本
日本全国で見られる縄文時代の人が食べた貝
。兵庫県の瀬戸内海沿岸地域から見
の跡
「貝塚」
の殻 や動物や魚の骨などを捨てたごみ捨て場
から
かいづか
つかった貝塚は日笠山貝塚だけです。左上の人
骨は、播磨町の大中遺跡で展示されています。
ひょうごけん
きげんぜん
万数千年前から紀元前
1
❹
い せ き
世 紀 ごろまでを 縄
❸
約
年 前から約
むろまちじだい
る 遺 跡)
です 。
あ こ う し
ひがしうね
かみかわちょう
ふくもといせき
は り ま ち い き
年 前 を 弥 生 時 代 といい ま
う ね は ら
お き た い せ き
たなかいせきこうえん
平 安 、室 町 時 代 ま で 続い た 複 合 遺 跡(二つ以 上 の 時 期 にわ た
へいあん
家 原 遺 跡 、赤 穂 市 の 東 有 年・沖 田 遺 跡 な ど は 縄 文 時 代 か ら
え ば ら い せ き
も 播 磨 地 方 の 特 徴 で す 。たつの 市 の 新 宮 宮 内 遺 跡 、宍 粟 市 の
しんぐうみやうちいせき
が あ り ま す 。ま た 、
一度 暮 ら し 始 め た 人 々 が 長 く 定 住 し た の
の 播 磨 大 中 古 代 の 村 や 赤 穂 市 の 有 年 原・田 中 遺 跡 公 園 な ど
はりまおおなかこだい
し てい ま す 。弥 生 時 代 の 村 の 様 子 を 復 元 し た 公 園 に 播 磨 町
や 加 古 川 市 を 中 心 と す る 南 の 低 地には 数 多 くの 遺 跡 が 集 中
か こ が わ し
の 数 が 増 え 、そ の 面 積 も 大 き く なってい き ま す 。特 に 姫 路 市
ひ め じ し
ま り 見 ら れ な かった 播 磨 地 方 で す が 、弥 生 時 代に な る と 遺 跡
か ら 低 地へと 移 り 変 わってい き ま し た 。縄 文 時 代 の 遺 跡 が あ
す 。縄 文 時 代 か ら 弥 生 時 代に な る と 、人 々の 住 む 場 所 は 山 地
2
4
0
0
され、
「 福 本 式 押 型 文 」とよ ばれています 。
ふくもとしきおしがたもん
は 、縄 文 時 代 早 期の 押 型 文 様の 土 器 が 播 磨 地 域で初 めて発 見
おしがたもんよう
但 馬 地 方 の 山 地 に 集 中 し てい ま す 。神 河 町 の 福 本 遺 跡 か ら
た じ ま ち ほ う
文 時 代 と いい ま す 。兵 庫 県 に あ る 縄 文 時 代 早 期 の 遺 跡 は 、
今から約
❷
宍粟市一宮町三方町633
☎0790-74-8855
(宍粟市歴史資料館)
たかさごし
⑤有年原・田中遺跡公園(赤穂市)
赤穂市有年原1090
☎0791-43-6962
80
81
❼
4
❶
❻❺
⑦家原遺跡公園(宍粟市)
ふ く げ ん
①日笠山貝塚(高砂市)
ひがさやまかいづか
1
7
0
0
赤穂市東有年1936
☎0791-43-6962
竪 穴式住居で
暮らしていたよ!
たてあなしきじゅうきょ
⑥東有年・沖田遺跡公園(赤穂市)
高砂市曽根町1706-1
④新宮宮内遺跡(たつの市)
②大中遺跡(播磨町)
おおなかいせき
たつの市新宮町宮内
古代の村を復元した公園もあるよ
③福本遺跡(神河町)
弥 生 時 代 後 期 から古 墳 時 代 初 頭 の 代 表 的な遺 跡 。長さ
500m、幅180mで約7万㎡の広さがあります。遺跡内には
少なくとも250軒くらいの住居が建てられていたようです。
加古郡播磨町大中1-1-2 ☎079-435-5000
(播磨町郷土資料館)
播磨大中古代の村として整備されています。
こ ふ ん
古墳の数が全国ナンバーワン!
②壇場山古墳(姫路市)
人塚古墳、尼塚古墳とともに西条古墳群の中心となる
播磨地方で一番大きい前方後円墳。
長109mの玉丘古墳を中心に小さな円墳が集まっています。
古墳。全長99m。
姫路市御国野町国分寺
加西市玉丘町76
加古川市山手
『播磨国風土記』
(→P86)
に記された根日女伝承ゆかりの全
あたごづかこふん
播磨町内に現存するただ一つの古墳で
世 紀 後 半から
す。直径22mの円墳で、埴輪などが発見
されていることから県の史跡に指定され
ています。
加古郡播磨町北野添2-1
こ ふ ん
おおきみ
❶
❺
❹
❻❷ ❸
年 ほ ど の 間 、大 王( の ち の 天 皇 )や
3
0
0
①愛宕塚古墳(播磨町)
数は
万
万
ひょうごけん
年 の 文 化 庁 の 調 べに よ る と 日 本 に あ る 古 墳 の
は り ま ち ほ う
基 。そ の う ち 兵 庫 県 に あ る 古 墳 の 数 は
ほうけい
基 と 全 国一で す 。さ ら に 、播 磨 地 方 の 古 墳 数 は
基 で 、県 内 で も 古 墳 の 多い 地 方 で す 。前 方 が 方 形
よ し ま こ ふ ん
そ の 後 、 世 紀 に な る と 、川 を 中 心 と し て 平 野 部 を 支 配
は 、播 磨 地 方 だ けでな く 日 本 最 古 級 の 古 墳 と して 有 名 です 。
す 。 世 紀 半 ばに 造 ら れ た と み ら れ る 、たつの 市 の 吉 島 古 墳
3
( 四 角 形 )で 後 方 が 円 形 を し た 前 方 後 円 墳 も 多 く 見 ら れ ま
約
1
5
6
0
6
5
7
7
時 代 を 古 墳 時 代 といいま す 。
豪 族 の 大 き な 墓( 古 墳 )が 造 ら れ る よ う に な り ま し た 。こ の
ごうぞく
3
16
2
0
1
3
1
7
0
0
0
だんじょうざんこふん
ひ め じ し
と播
1
4
3
m
かこがわりゅういき
ひさごづかこふん
か さ い し
たまおかこふんぐん
加 古 川 流 域 で は 上 流 部 と 下 流 部 に 二つの 勢 力 が あった と 考
え ら れ て い ま す 。上 流 に は 加 西 市 の 玉 丘 古 墳 群 、下 流 に は
古墳時代後期、7世紀の群集墳。6号墳は二
墳は巨石を使用した横穴式石室で、古くか
位 以 内の前
つの横穴式石室を持つ珍しい遺構。10号
さいじょうこふんぐん
み の こ ふ ん ぐ ん
10
⑥見野古墳群(姫路市)
か こ が わ し
赤穂市坂越300-1
たくさんの古墳が
作られていました
加 古 川 市 の 西 条 古 墳 群 が あ り 、そ れ ぞ れ 県 内
えられています。
方後円 墳と小さな円
30mの円墳。海域を支配した豪族の墓と考
墳 を 築 き 、力 を 競 っ
古墳時代中期に造られた海に面した直径
た とみ ら れ ま す 。
ら姫路の石舞台として知られます。
る の は 輿 塚 古 墳( た つ の 市 )、瓢 塚 古 墳( 姫 路 市 )。さ ら に 、
こしづかこふん
磨 地 方 で一番 大 き な 古 墳 で す 。揖 保 川 流 域 で 最 大 規 模 を 誇
いぼがわりゅういき
市 川 流 域 に あ る 壇 場 山 古 墳( 姫 路 市 )は 全 長
いちかわりゅういき
す る 豪 族 が 、大 き な 古 墳 を 次 々 と 造 る よ う に な り ま す 。
5
⑤みかんのへたやま古墳(赤穂市)
ぎょうじゃづかこふん
82
83
③行者塚古墳(加古川市)
④玉丘史跡公園(加西市)
姫路市四郷町見野
あわじ
たいほうりつりょう
ごこく
さいじょうはいじ
はりまのくに
の郡か
や ま の う ま や あ と
いかるがでら
赤穂郡上郡町落地
こ さ つ
たじま
さんようどう
ふ せ の う ま や あ と
か こ が わ し
加古川市山手
りつりょうせい
たんば
き、農民の協力を得るために人気の高い
行基に協力を求めます。行基は朝廷の期
待に応え、大仏づくりを成し遂げました。
兵庫県には行基が開いたと伝えられる寺
る り じ
などが行基開創と伝えられています。
かいそう
おろち
奈良時代前期の大きな寺の遺構。法隆 野磨駅家跡、山陽道跡が良好に残り、駅家
今に残る古刹(古い寺)
が建てられ始めます
はりま
として高さ 15m の大仏を作ろうとしたと
①落地遺跡
(上郡町)
一辺218mの寺域の中に門や講堂などの建物が配置
とう
せっつ
ほんぞん
いちじょうじ
の全体像が分かる貴重な遺跡。
れる石。4カ所の石が県の文化財に指定されています。
年 、唐( 中 国 )の 律 令 制 に な らって 大 宝 律 令 が 定 め ら れ ま す 。現 在 の
ひょうごけんいき
だいぶつ
か さ い し
)には 白 鳳 時 代 の 貴 重 な 仏 教 美 術 が 今に 伝
P.69
こ く ぶ ん に じ
寺式の伽藍配置を持っています。
兵 庫 県 域 に は 摂 津・播 磨・丹 波・但 馬・淡 路 の 五 国 が あ り 、中 で も 播 磨 国 は
ら な る 大 国 でし た 。
家 が整 備 されました 。
うまや
政 治 の 中 央 集 権 化 を 進 め る た め 、都 と 地 方 を 結 ぶ 道 と 駅
だ ざ い ふ
駅 家 と は 国 の 役 人 や 使 者 が 宿 泊 し た り 、馬 を 交 換 し た り す る 施 設 で す 。播 磨 国
い こ う
に は 都 と 大 宰 府( 九 州 )を 結 ぶ 重 要 な 道・山 陽 道 が 通 り 、 つの 駅 家 が あった とい
かみごおりちょう
わ れ てい ま す 。山 陽 道 の 駅 家 の 遺 構 と し て 、布 勢 駅 家 跡( たつの 市 )や 野 磨 駅 家 跡
は り ま ち ほ う
鳳 期( 大 化 の 改 新 か ら 平 城 京 遷 都 ま で の 時 代 )に な る と 、全 国 的 に 寺 が 建 て
はくほうき
( 上 郡 町 )が 見つかって お り 、全 国 的に 貴 重 な 遺 構 と なっていま す 。
白
かくりんじ
P . 7)
3を は じ め と す る 数 多 く の 寺 が 建 て ら れ ま し た 。ま た 、加 西 市 の一乗 寺
か こ が わ し
)や 加 古 川 市 の 鶴 林 寺( →
P.68
行基
がらんはいち
ら れ る よ う に な り ま す 。播 磨 地 方 に も 加 古 川 市 の 西 条 廃 寺 や 太 子 町 の 斑 鳩 寺
(→
(→
こくぶんじ
ひ め じ し
⑤瑠璃寺
分 寺 と 国 分 尼 寺 が 建てら
しんごんしゅう
仏教がさかんに
信仰されました
え ら れていま す 。
奈 良 時 代 に な る と 国 ご とに 国
てんだいしゅう
れ 、仏 教 の 信 仰 が す す め ら れ ま し た 。播 磨 国 で は 姫 路 市 に
くうかい
国 分 寺 跡 が 残ってい ま す 。平 安 時 代 に は 天 台 宗 や 真 言 宗 な
そ
[668〜749]
❷
❹ ❸
❶
84
85
聖徳太子が推古天皇にもらった土地の境に置いたといわ されました。
姫路市御国野町国分寺
ど の 新 し い 仏 教 が 生 ま れ ま す 。播 磨 地 方 で も 空 海( 真 言 宗
行いました。 聖 武天皇が東 大寺の本 尊
とうだいじ
)が 開 かれまし た 。
P.70
佐用郡佐用町船越877 ☎0790-77-0450
9
の 祖 )が 開 い た と 伝 え ら れ る 寺 が 残 る ほ か 、平 安 中 期 に は
をめぐって橋や道を作るなど社会事業を
しょうむてんのう
しょこく
ふきょう
②西条廃寺(加古川市)
いかるがのしょうぼうじいし
えんぎょうじ
の酒 見寺(→ P.44)、 佐 用町の瑠 璃寺
さようちょう
しょうくうしょうにん
が数多くあります。 播磨地方では加西市
さがみじ
性 空 上 人により円 教 寺(姫 路 市)(→
奈良時代の僧。 布 教のかたわら諸 国
そう
き
う
ょ
ぎ
③播磨国分寺跡(姫路市)
④鵤荘牓示石
(お太子さんの投げ石)
(太子町)
12
7
0
1
社 会 事 業を行なった僧
多くの
揖保郡太子町
❺
は
ど
はに
ひよしじんじゃ
この時、固まって岩となった堲が日吉神社の
裏山にある大岩だといわれています。投げ
おか
はにおか
たといわれます。
さ
よ
つ
ひ
め
じ
ん
じ
ゃ
⑤佐用都比売神社(佐用町)
地 元 で は「 佐 用 姫さん 」の 名 で 親しま
れる 歴 史 の 古 い 神 社 。
「播磨国風土記」
❹
❷
❸
さ よ
❻
の 讃 容 郡 の 条 に 、同 郡 の 名 は 土 地 神 を
さ よ つ ひ め の み こ と
ごう
記されています。
佐用郡佐用町本位田甲261
ね ひ め で ん せ つ
⑥根日女伝説(加西市)
けんぞうてんのう
い わ の お お か み
あめのひぼこのみこと
①伊和大神と天日槍命
きゃくじん がいらいしん
にんけんてんのう
いずも
後に23代顕 宗天皇と24代仁 賢天皇になるニ人の皇子が、父を
客神
(外来神)
である天日槍命が、
出雲の国から来た神であ
殺 害されて都を逃 れ 、播 磨 の 国でひそやかに暮らしてい たとき、
る伊和大神と宍 禾郡の土地を争い合ったときのこと。激しく
くにのみやつここま
ね ひ め
しそうぐん
お け
賀 毛 郡の国 造 許 麻の娘・根 日女と出 会います。ニ人の皇 子 意 奚と
争った後、二人はつる草の輪っかをけり飛ばして決着をつけ
袁 奚は根日女に恋しますが、互いにゆずり合って結婚しないまま、
ることにしました。伊和大神の輪っかの1本は但馬の気多の郡
都へ戻ります。その後 、年 月は流れ、根日女は亡くなってしまいま
に、
1本は夜夫に、
1本はこの村
(宍禾郡御方)
に落ちました。一
たじま
を け
や ぶ
け た
しそうぐん み か た
す。二人の皇子は深く悲しみ、根日女のために大きな墓を作るよう
方、天日槍命の輪っかはみな但馬の国に落ちたため、但馬国
命じます。玉で美しく飾られたお墓を「玉 丘」と呼んで、いつまでも
の神様になったといわれています。
かざ
たまおか
宍粟市一宮町須行名407
根日女のことを語り伝えたといいます。
加西市玉丘町76
❶
賛 用都比売命と号したことに由来されると
神崎郡神河町比延245
87
❺
さ よ ひ め
き
た土が岡をなし、堲岡の里というようになっ
ふ
我 慢比べをして歩き、神河町辺りで小比古
尼命が堲
(赤土のねん土)
を放りなげました。
に
がまんくら
く
大 汝 命と小 比 古 尼 命 の2人 の 神 様 が
の
かみかわちょう
すくなひこねのみこと
ま
げんめいてんのう
月、ときの元明天皇が地名にふさわしい文字をあ
5
り
年
7
1
3
④堲の大岩(神河町)
おおなむちのみこと
播磨国風土記
てさせるとともに、国 内の特 産 物やめずらしい植 物や動 物 、土
地の豊かさ 、山 川 原 野の名 前の由 来 、神 話や 伝 説 、昔 話 を集め
きょうと
て報告するように命令を出しました。このような国の情報を集
しゃほん
まえだつなのり
めたものが後に
「風土記」
と呼ばれるようになります。
へいあんじだい
か が は ん ご だ い は ん し ゅ
「播 磨 国 風 土 記 」は 命 令 が 出てから 、最 も 早 く 完 成 し たとい
さんじょうにしけ
わ れ ま す 。原 本 は 失 わ れ ま し た が 、平 安 時 代 の 写 本 が 京 都・
三 条 西 家 に 伝 わ り 、そ の 後 、加 賀 藩 五 代 藩 主・前 田 綱 紀 の 発
見・修 復 に よ り 世 に 出 ま し た 。この 写 本 は 国 宝 に 指 定 さ れて
はに
ひ ぜ ん の く に ふ ど き
い、いつしか
「龍野」
になったといわれます。
たつの市龍野町北龍野
いま す 。
た。野に人が立ち並んだことから
「立野」
とい
い ず も の く に ふ ど き
の地で亡くなったため出雲から多くの人が訪
れ、川の石をリレー式に運んで墓を建てまし
ま た 、こ の と き 作 ら れ た「 風 土 記 」の 中 で 、内 容 が ほ ぼ 完
たつの
ひ た ち の く に ふ ど き
うことで神前山と呼ばれるようになりました。
やまと
一部 欠 損 し て 残って
全 に 残って い る の は「 出 雲 国 風 土 記 」、
大 和の国から故郷の出雲へ帰る途中、龍 野
い る の が「 播 磨 国 風 土 記 」「 常 陸 国 風 土 記 」「 肥 前 国 風 土 記 」
すもうの元祖として知られる野見宿禰が、
5
つ を 五 古 風 土 記 と 呼 ん でい ま す 。
伊和大神の子、建石敷命が山使村の神前山
に降り立ちました。この山は神様がいる山とい
たけいわしきのみこと やまつかいのむら
ぶ ん ご の く に ふ ど き
の み の す く ね
③野見宿禰の墓(たつの市)
「 豊 後 国 風 土 記 」。こ の
ふくさきちょう
「 風 土 記 」に 報 告 さ れ た 地 名 の 多 く は 、今 も 残ってい ま す 。
か む さ き や ま
②神前山(福崎町)
年前の地域の姿を今に伝える、貴重な
「書物」
です。
1
3
0
0
玉丘古墳
伊和神社
86
は り ま の く に
赤 松 円 心の三 男 則 祐 が 建てた臨 済 宗の寺 。
れます。
姫路市安富町皆河233-1
赤穂郡上郡町赤松
げ ん じ
へ い し
世 紀 に な る と 、地 方 政 治 が 乱 れ る よ う に な り 、武 士 が
ぶ し
❷❶
あくとう
ほうげん
へ い じ
ちぎょうこく
らん
たいらの き よ も り
げんぺい
こくしゅ
元・平 治 の 乱 の 後 、平 清 盛 が 国 守 と な り 、そ
ばくふ
ご け に ん
あかまつ えんしん
し ゅ ご
かみごおりちょう
じ と う
こけなわふきん
で「 悪 党 」と 呼 ば れ た 勢 力 が 強 く なっていき ま す 。
よしのり
こうけん
たじま
けんむせいけん
に っ た よしさだ
や ま な し
ろくはらたんだい
せ っ つ
しゅごぶんこく
た ん ば
年 、強 大 化 す る 守 護 大 名 の 力 を お そ れ た 六 代 将
あかまつ みつすけ
年に 将 軍 の あ
年
間 続い た 戦いで 、将 軍 の 力 は 衰 え 、各 地 に 戦 乱 が 広 がってい
とつ ぎ 争 い か ら 応 仁 の 乱 が 始 ま り ま す 。京 都 を 中 心 に
おうにんのらん
名 氏と細 川 氏の対 立 が激しくなり 、
倒 さ れ る と 、播 磨 国 は 山 名 氏 に 与 え ら れ ま し た 。そ の 後 、山
起 こ り ま す 。こ れ が 嘉 吉 の 乱 で す 。幕 府 軍 に よ り 赤 松一族 が
か き つ
軍・義 教 が 、赤 松 満 祐 をの ぞこ う と し て 逆に 殺 さ れ る 事 件 が
れ ら の 三 家 は 幕 府 の 重 要 な 役 割 を 果 た す よ うに な り ま す 。
細 川 氏 、播 磨 は 赤 松 氏 、但 馬 は 山 名 氏 の 守 護 分 国 と な り 、こ
ほそかわし
な ど 、室 町 幕 府 の 成 立 に 貢 献 。室 町 幕 府 の 下 、摂 津・丹 波 は
むろまちばくふ
を 助 け 、白 旗 城( 上 郡 町 )を 築 い て 新 田 義 貞 を 食 い 止 め る
しらはたじょう
を 攻 め 落 と し ま し た 。そ の 後 も 建 武 政 権 と 対 立 す る 尊 氏
せ
の 兵 を 挙 げ 、足 利 尊 氏 と 京 の 幕 府 の 拠 点 で あ る 六 波 羅 探 題
あしかが たかうじ
年 、赤 松 円 心 は 上 郡 町 の 苔 縄 付 近 で「 打 倒 鎌 倉 」
だとうかまくら
派 遣 。し か し 、幕 府 の 統 制 力 が 乱 れ る と と もに 、播 磨 国 各 地
はけん
る と 、鎌 倉 幕 府 は 御 家 人 を 守 護 や 地 頭 に 任 命 し て 地 方 に
かまくらばくふ
の 後 は 平 氏 の 知 行 国 と な り ま す 。源 平 の 戦 いで 平 氏 が 敗 れ
播磨国は保
力 を 強 めていき ま し た 。
誕 生 し ま す 。中 で も 源 氏 と 平 氏 は 大 武 士 団 の か し ら と し て
10
1
3
3
3
1
4
4
1
あ か ま つ し
真 言宗に改め再 興されます。赤松氏ゆかりの
あかまつさんそんぞう
さいこう
赤穂郡上郡町河野原279
が伝えられます。
寺として
「赤松三尊像」
☎0791-52-1277
(松雲寺)
88
89
11
おじお(おきしお)じょうあと
ととも
城跡として感 状山城跡(P.92)、置 塩城跡(P.92)
に国の史跡に指定されています。
❸
1
4
6
7
りんざいしゅう
のりすけ
き ました 。
武士が台頭し
戦乱の世の中に
なっていったよ
しせき
全国的にも非常に古い遺構で
「千年家」
と呼ば
かんじょうざんじょうあと
ぶ し ょ う
赤松氏とともにおとろえますが、江戸時代に
しんごんしゅう
ほうりんじ
あかまつえんしんざぞう
ひるがえ
せんねんや
ふるいけじゅうたく
田義貞の軍勢を迎え討つために築かれました。赤松氏
室町時代末期に建てられたといわれる民家。
赤松円心が足利尊氏と建武政権に反旗を翻した際、新
③古井家住宅
(千年家)
(姫路市)
①白旗城跡(上郡町)
播磨国を代表する武将・赤松氏が活躍!
②赤松円心坐像
(宝林寺)
(上郡町)
おうにん
そっせん
りょうごく
や ま な し
あかまつ まさのり
うらがみし
こうづきじょう
ちょうすいじょう
あ け ち みつひで
分は国府山城に移りました。
☆中国大返しを進言
ぼつらく
べっしょし
のぶなが
とよとみ
さよう
おかやまけん
びっちゅう
こ で ら し
ちゅうごくちほう
は し ば
く ろ だ
ひでよし
か ん べ え
ふ く は ら じょう
ひ ご ろ
㎞の 行 程 を
2
0
0
高 松城(岡 山県)にいた秀吉と官兵
衛に「本能寺の変」が知らされます。
官兵衛は秀吉に「ご自身で天下を取
る好機です」と進言。 秀吉の天下取
りに大きく貢献しました。
べ え
官兵衛は「姫路こそ国主のいる場所
ん
おとろ
ほそかわし
にして毛利攻めを行おうとしました。
か
三 木 城 開 城 後、 秀 吉 は 三 木 を 拠 点
く ろ だ
は け ん
しょじょうしゅ
派 遣 し ま す 。こ の と き 、率 先 し て 協 力 し た の が 黒 田 官 兵 衛
さようちょう
で す 。説 得 に よ り 播 磨 の 諸 城 主 を 味 方 に 付 け ま す が 、毛 利
みきじょう
年 に は「 三 木 の 干 殺 し 」と 呼 ば
み き
氏 の 勢 力 が 強 かった 佐 用 町 の 上 月 城 や 佐 用( 福 原 )城 で は 戦
いが 行 われま し た 。
ひ め じ
平 定します。
へん
路 を 拠 点 に 毛 利 攻 めに 着 手 し ま す が 、
ちゅうごくおおがえ
光 秀 のいる 京 都へ取って 返 し ま す 。お よ そ
きょうと
年 に 本 能 寺 の 変 で 信 長 が 明 智 光 秀 に 殺 さ れ る と 、岡 山 か ら
ほんのうじ
秀吉は姫
1
5
8
2
木 氏 英 賀 城 攻 め 、宇 野 氏 長 水 城 攻 め を 経 て 、秀 吉 は 播 磨 を
あ が じ ょ う ぜ
れ た 兵 糧 攻 め に よ り 別 所 長 治 の 三 木 城 は 開 城 。そ の 後 、三
ひょうろうぜ
1
5
8
0
です」と自らの 居 城を差しだし、 自
日 で 戻った「 中 国 大 返 し 」に よ り 、秀 吉 は 天 下 統一の 達 成へ
☆姫路城を秀吉に献上
だいみょう
むろまちばくふ
し ゅ ご
か し ん
お だ
へいてい
年 、天 下 統一を か か げ る 織 田 信 長 が 中 国 地 方 の
てんかとういつ
櫛 橋 氏 な ど の 小 さ な 勢 力 が 乱 立 す る よ うに な り ま し た 。
くしはしし
も 弱 く 、播 磨 で は 家 臣 で あった 浦 上 氏 や 別 所 氏 、小 寺 氏 、
は り ま
赤 松 氏 は 復 活 を 果 た し ま す 。し か し 、そ の 力 は 以 前 よ り
あかまつし
播 磨 国の守 護 は 細 川 氏に協 力 し た 赤 松 政 則に与 え られ 、
はりまのくに
る 戦 国 大 名 が 現 れ ま す 。応 仁 の 乱 で 山 名 氏 が 没 落 す る と 、
せんごくだいみょう
室 町 幕 府 の 力 が 衰 え る と 、各 地 に 領 国 を 独 自 に 支 配 す
❷
❶
毛 利 氏 を 攻 め る た め 、播 磨 地 方 の 平 定 に 豊 臣( 羽 柴 )秀 吉 を
も う り し
1
5
7
7
伝えられています。
突 き 進 んでいき ま す 。
1582 年、 毛 利を攻 めるため 備 中・
たかまつじょう
か ろ う
黒田官兵衛
[1546〜1604]
②御着城跡(姫路市)
ごちゃくじょうあと
衛が家 督をつぐまで小 寺政 職の近 習
こ で らまさもと きんじゅう
として仕えた場所。
☆織田信長を真っ先に支持!
戦国時代の播磨は「織田につくか毛
こうやまじょうあと
90
91
秀 吉 の 全 国 統 一を
官兵衛が助けるよ!
へしきり
家老から大名へ
― 。黒田官兵衛が登場!
黒田家が仕えた小寺家の本城。官兵
かとく
いんきょ
もとたか
つくべき」と説 得し、 岐 阜で信 長に
7
した信 長は名 刀「 圧 切 」を与えたと
吉に明け渡したのち、父・職 隆が隠 居していた
ぎ ふ
国府山城に移りました。
会い「大将を一人使わせば、 先手を
別名、妻 鹿城、功 山城。官兵衛は姫路城を秀
めがじょう こうざんじょう
した。 官兵衛は周囲を「織田信長に
①国府山城跡(姫路市)
利につくか」で意 見 が 分かれていま
姫路市御国野町御着
てるひめちゃん
かんべえくん
姫路市飾磨区妻鹿
務 めましょう」と述 べました。 感 動
めいとう
んだヒーロー
播磨が生
ち
中世
ゅ
むろまちじだい
う
せ
い
し や
の城
ろうじょう
町 時 代 に な る と 籠 城 も 視 野 に 入 れ た 守 りに 強い 城 が 建
こけなわじょう
1469年に建てられ、赤松氏
きょてん
が播磨を治める際の拠点とな
りました。その後秀吉により
ひめじじょう
姫路城築城の用材として解体
はいじょう
され、廃城となりました。
姫路市夢前町宮置
室
秀吉の播磨攻めにおいて、城
かんきよりさだ
主の神吉頼貞は約3万の大軍
かかん
に包囲され、果 敢に抵抗しま
したが落城しました。
はりま
14世紀中頃に赤松氏によっ
ひろせ
う の
て築かれた後、広 瀬氏、宇 野
氏と城主が変わりましたが、
1580年に秀吉の軍勢に攻め
られ落城しました。
しらはたじょう
③置塩城跡
加古川市東神吉町神吉
てられる よ うになり ま す 。その先 駆 け が 赤 松 円 心の苔 縄 城 や
⑦常楽寺(神吉城跡)
宍粟市山崎町宇野・五十波
以 上 もの
⑪長水城跡
4
0
0
白 旗 城( →
おじお(おきしお)じょうあと
)。その 後 、播 磨には 多 くの 城 が 築 かれ ま す 。
P.88
かんきじょうあと
あかまつ
じょうせき
南北朝時代後期に永 良三郎
のりつな
則 綱によって築かれ、嘉吉の
乱で落城。後の城主である広
瀬氏も討死し、廃城になったと
みられています。
じょうらくじ
むろまちじだい
その正 確 な 数 は 分 かり ま せん が 、播 磨 だけで
巨岩が楯のように立ち並ぶと
ころからその名が付いたとい
われます。赤松貞村以後5代
続きましたが、秀吉によって
攻め落とされました。
ながらさぶろう
室 町 時 代 の 中 期 、赤 松 氏に
み き
よって建てられ、その後三 木
氏が大規模な城として整備し
もうこう
ましたが、秀吉軍の猛 攻によ
り落城しました。
姫路市飾磨区英賀宮町2-70
城 跡 が あ る といわれていま す 。中 世には 軍 事 的 な 目 的で 建て
神崎郡市川町鶴居
織田軍と毛利軍が戦うきっか
かこがわひょうじょう
が行
けとなった
「加古川評定」
われました。南北朝時代に主
ふんし
君を守ろうとして奮 死した従
くようとう
臣7名の供養塔があります。
加古川市加古川町本町313
られた 山 城 が 多 く 、戦 国 時 代になる と 領 主の居 城 としての目
ちょうすいじょうあと
⑮鶴居城跡
揖保郡太子町太田
うえはらみんぶ
ぜ
⑲楯岩城
あかまつみつすけ
ひでよし
つ る い じ ょ う あ と
加西市北条町小谷字城山
赤松満祐の弟である上原民部
だいふすけまさ
大 輔祐政によって築城されま
かきつ
したが、
1441年の嘉吉の乱で
やまなそうぜん
山名宗全の軍に攻められ落城
しました。
はしば
たていわじょう
は が
この地の有力者であった波賀
氏 が 築 いたとみられていま
しせき
す。現在は史 跡公園として整
やぐら か ぶ き も ん
備され、二層櫓 、冠 木門など
が復元されています。
あ が じ ょ う あ と
②英賀城跡
とよとみ
宍粟市波賀町上野2-51
ほんごう
赤松氏の家臣、本郷氏の居城
であると伝えられています。
嘉吉の乱で山名氏に攻め落と
されたと伝わっています。
かこがわじょうあと
⑥称名寺
(加古川城跡)
的 から 建てられた 平 山 城 が 多 く なり ま す 。播 磨における 中 世
神崎郡神河町寺前
しょうみょうじ
え ど
こ た に じ ょ う あ と
⑩小谷城跡
の 山 城 は 、豊 臣( 羽 柴 )秀 吉 の 播 磨 攻 めに よって 廃 城 と なった
は が じ ょ う あ と
⑭波賀城跡
ものが 多 く 、江 戸 時 代 までに城 としての機 能 を 失います 。
てらまえじょうあと
⑱寺前城跡
さ よ う
ふくはら
じょうあと
⑳佐用
(福原)
城跡
佐用郡佐用町佐用
ふくはら
赤松氏の家臣である福 原氏
が 城 主となった 平 山 城 で 、
たかなか
1577年に黒田官兵衛と竹中
は ん べ え
半 兵衛によって攻め落とされ
ました。
かすがやまじょうあと
⑯春日山城跡
神崎郡福崎町八千種
赤松氏の家臣として、室町幕
じんりょく
ごとうもとあき
府の成立に尽力した後藤基明
によって築城。その後秀吉の
播磨攻めにより、1578年に
落城しました。
ひじりやまじょうあと
か ん の ん じ
⑫聖山城跡
宍粟市山崎町須賀沢字出石
でじろ
長水城を守るための出城とし
て築かれました。播磨攻めの
際に秀吉軍が攻め落とし、長
じん
し
水城を攻めるための陣を敷き
ました。
しかたじょうあと
⑧観音寺
(志方城跡)
加古川市志方町
くしはし
赤松氏の家臣、櫛橋家の居城
く ろ だ か ん べ え
てる
で、黒 田官兵衛の妻である光
が生まれた場所です。1578
年に秀吉の攻略にあって落城
しました。
かんじょうざんじょうあと
④感状山城跡
相生市矢野町瓜生
かまくら
うりゅうさえもんのじょう
鎌 倉時代に瓜 生左衛門尉に
よって建てられたのち、赤松
氏一門の居城に。建物の土台
と思われる石群が当時のまま
残っています。
❶
❸
❹
❷
❾
❽❺
❼
❻
こうづきじょうあと
上月城跡
佐用郡佐用町上月
みまさか
びぜん
か し お じ ょ う あ と
⑰柏尾城跡
神崎郡神河町柏尾
たじま
播磨、美 作、備 前の国境にあ 播 磨と但 馬 の 国 境を見 張る
くり
赤松氏の家臣である栗
ることから、軍事上重要な拠 ため、
あわ た
おおたけさん
もうり
点として織田軍と毛利軍の激 (粟)田氏が大嶽山の山頂に築
こうぼう
く
しい攻 防が繰り広げられまし いた城です。秀吉によって攻め
落とされたと伝わっています。
た。
93
ささのまるじょうあと
⑬篠ノ丸城跡
宍粟市山崎町横須
あかまつあきのり
南北朝時代初期に赤松顕則に
よって築かれ、戦乱の中で落
く
城と復興を繰り返しましたが、
秀吉の播磨攻めの後廃城とな
りました。
やましたじょうあと
⑨山下城跡
加西市山下町城山
うらがみひさまつ
赤松氏の家臣浦 上久松の城
みきかっせん
で 、三 木 合 戦 の 後に廃 城に
なったとみられています。現
在はふれあいの森として整備
されています。
ちゅうどうしさんじょうあと
⑤中道子山城跡
加古川市志方町岡
なんぼくちょう
南北朝時代に赤松氏によって
築かれたと伝えられている城
おお
で、山全体を覆う本格的な山
城でした。秀吉の播磨攻めで
落城したといわれています。
つ ね や じ ょ う あ と
①恒屋城跡
姫路市香寺町恒屋
かきつ
つねや
に恒 屋氏が築城し
嘉 吉年間(1441~1443)
たと伝えられる山城。1576年に秀吉の播磨攻
めで落城しました。
92
ま つ え も
ん ほ
わる松 右 衛 門 帆
工 楽松 右衛門
く
ら
く
ま
つ
え
も
ん
[1743〜1812]
たかさご
じつぎょうか
かいせんぎょう
するかたわら、丈夫な新型帆布を発明。
「松右衛門帆」
として知られるようにな
えとろふとう
てんごや
は と ば
ちくさてつ
いせき
林田藩の大庄屋である三木家住宅。建築時期は江戸初期と考
えられ、大庄屋の建築として県下で年代が推定できる最も古い
千種鉄の魅力を再発見できる学習館が整備されています。
遺構です。
宍粟市千種町西河内1048-38 ☎0790-76-3833
姫路市林田町中構74
てんごやてつざんあと
いこう
はりま
い け だ てるまさ
い し だ みつなり
とくがわ いえやす
むこ
にぎ
せきがはら
農 村歌舞伎が郷土芸能として発
ひょうごけん
展しました。兵 庫 県 の 農 村 舞 台
化や新田開発を進め、およそ27年で借
数は全国でもずば抜けて多く、播
さようぐん
れましたが、現存するものは少な
また、地域住民が穀
くなっています。上三河の舞台は
めいじじだい
物を出しあう防 災
明治時代の再建ですが、回り舞台
こねいそう
や屋根裏回転機構
(二階廻し)
など
きゅうおぐにけじゅうたく ふくさきちょう
⑤旧小國家住宅
(福崎町)
ばんたんいっき
各種の舞台機能を持つ貴重な建
おぐにてつじゅうろう
物です。河原田農村芝居堂も明治
1871年の播 但一揆に名を残す小 國鐵十郎の
おもや
ながやもん
生家。江戸末期に建てられた主 屋、長 屋門、
どべい
しょうわちゅうき
しんりょうしょ
99mの土塀と昭和中期に建てられた診療所の
ゆうけいぶんかざい
4棟が国の有形文化財に登録されています。
95
しそうし
磨では佐 用郡・宍 粟市で多く見ら
金を完済しました。
ききん
❺
のうそんかぶき
任すると、木綿・皮革・竜山石・塩の専売
飢饉に備えました。
❶
18世紀から明 治時代にかけて、
ひ か く たつやまいし
を 設 置し 、災 害 や
❸
めいじじだい
酒井忠道が河合寸翁に財政の改革を一
備蓄倉庫「固 寧倉」
❹
❷
しょしょう
ひめじ
年 )で 西 軍 の 石 田 三 成 につ き ま す 。結 果 は 西 軍 の
とよとみ ひでよし
ざんぱい
1
6
0
0
豊 臣 秀 吉 と 関 係 の 深 かった 播 磨 の 諸 将 は 、関ヶ原 の 戦 い
(
むすめ
ひめじじょう
万 石 を 娘 の 婿 で あ る 池 田 輝 政に あ た え て 西 国 の 要 と し
52
惨 敗 。勝 利 し た 徳 川 家 康 は 政 治 の 実 権 を 握 る と 早 々に 、播 磨
一国
れんりつしきてんしゅ
こくだか
ま し た 。西 国 将 軍 と 呼 ばれ た 輝 政 は 姫 路に 入 る と 、秀 吉 の 城
とざまだいみょう
ぼつ ご
あこうはん
ふ
様 大 名 で あったこと 、ま た 姫 路 藩 が 広 大 で あった
ほ ん だ ただまさ
やまさきはん
はやしだはん
あんじはん
を 解 体 して 連 立 式 天 守 の 姫 路 城 を 完 成 さ せ ま し た 。
輝政が外
ふだいだいみょう
しんぐうはん
み か づ き は ん
万 石 。減った 石 高 は 、山 崎 藩 、赤 穂 藩 、
あ か し は ん いかるがはん
15
年 に 譜 代 大 名 で あ る 本 多 忠 政 が 姫 路 に 入った
たつのはん
1
6
1
7
こ と か ら 、幕 府 は そ の 没 後 、姫 路 藩 の 石 高 を 減 ら し 始 め ま
す。
ひらふくはん
以 降 の 石 高 は すでに
ふくもとはん
平 福 潘 、龍 野 藩 、明 石 潘 、鵤 藩(後の新 宮 藩)、林 田 藩に振 り 分
け ら れ ま す 。その 後 も 福 本 藩 、三 日 月 藩 、安 志 藩 が 配 置 さ れ
さ か い ただひろ
る など 、播 磨 は 譜 代の中 規 模 藩 と 外 様の小 藩による 分 割 支 配
借金に苦しんでいました。藩主である
が 定 着 していき まし た 。それでも 姫 路 を 中 心 とす る 播 磨 は 西
えどじだいこうき
江戸時代後期、姫路藩は総額73万両の
国 の 抑 え と し て 幕 末 まで 重 要 な 機 能 を 果 た し ま し た 。
[1767〜1841]
3
0
0
年 間 続 い た 江 戸 時 代 で は 、産 業・文 化 が
う
およそ
の
あこうじお
ん
ちくさてつ
す
はりまなべ
い
発 展 し ま し た 。播 磨 で も 、江 戸 時 代 初 期 に は す でに 野 里 鍋
河 合寸 翁
わ
ひ め じ し
千種鉄としてその名が知られていました。その代表的な遺跡
しょみんぶんか
の財政を立て直した
はやしだおおじょうやきゅうみきけじゅうたく
①林田大庄屋旧三木家住宅(姫路市)
である天児屋鉄山跡に、たたら製鉄の歴史や工程を紹介し、
( 播 磨 鍋 )、宍 粟 鉄( 千 種 鉄 )、阿 古 塩( 赤 穂 塩 )な ど 数 々 の 特
帆を再現した商品も作られています。
宍粟市では古くから広い範囲でたたら製鉄が行われており、
産 品 が 名 を 残 していま す 。ま た 、今に 伝 わる 民 家 や 寺 院 な ど
こうけん
するなど海運業に貢献。現在、松右衛門
はんい
の建 築 物 、神 事 芸 能 、庶 民 文 化 など が 数 多 く 生 まれまし た 。
ります。その後、択捉島で波止場を築造
か
しそうし
②天児屋たたら公園「たたらの里学習館」
(宍粟市)
高 砂 生まれの 実 業 家 。廻 船 業を経 営
姫路藩
現代まで続く特産品も誕生します!
今に伝
かわはらだのうそんしばいどう
し そ う し
かみみかわ
ぶたい
さようちょう
④河原田農村芝居堂
(宍粟市) ③上三河の舞台(佐用町)
宍粟市一宮町河原田828
佐用郡佐用町上三河117-2
時代の建物で、宍粟市に数多く存
在した農村歌舞伎舞台のうち、保
存状態のよい遺構です。
94
き ん だ い こ っ か
加古川市野口町水足247
め い じ い し ん
ぶんめいかいか
文 明 開 化で
暮 らし が 変わったね!
ひめじけん
はいはんちけん
とよおかけん
めいとうけん
週 間 後に 飾 磨 県に 改 称)が 発 足 。この
しかまけん
明 治 維 新 で 新 政 府 が 成 立 し 、廃 藩 置 県 が 行 わ れ る と 、
ひょうごけん
年 、姫 路 県(
年にこの
とき 、現 在の兵 庫 県 は 姫 路 県のほか 、兵 庫 県 、豊 岡 県 、名 東 県
ひょうごけんいき
の4県 から 成 り 立っていまし た 。その後 、
しょくみんちか
まぬが
県 がひとつになって現 在の兵 庫 県 域 が 確 定し まし た 。
米 列 強 の 植 民 地 化 を 免 れ る た め 、全
おうべいれっきょう
)の 整 備 も
P.98
を発刊したことでも
わされています。
揖保郡太子町鵤135-1
明 治 時 代 、日 本 は 欧
本で初めての新聞
されています。公園には蒸気機関車D-51が保存されています。
国 的 に 近 代 化 を 進 め ま す 。明 治 初 期 に は 民 間 に 近 代 工 業 を
しょくさんこうぎょうせいさく
ばんしゅうぶどうえんあと
せんれい
花 崗岩のアーチとレンガが組み合
起こす 力 が な かった た め 、政 府 の 力で 外 国 人 技 術 者 を 招いて
いなみちょう
官 営 の 工 場 を 設 立 す る 殖 産 興 業 政 策 を 行 い ま し た 。そ の 殖
し か ま つ
産 興 業 政 策 の一つを 稲 美 町 の 播 州 葡 萄 園 跡に見 ること ができ
ばしゃみち
ま す 。ま た 、このと き 官 営 化 さ れ た 生 野 銀 山 と 飾 磨 津 を 結 ぶ
助されて渡米します。サンフランシスコ
かこうがん
播電鉄道が経営した太子山遊園地跡が太子山公園として整備
たいしやまゆうえんちあと
ぎん
とべい
一 環として作られた水路橋です。
⑤太子山公園(太 子町)
いくのこうざんりょうばしゃみち
へ向かう際に船が難 破し、米国船に救
いっかん
たいしちょう
ふきゅう
リー。日本の近代化を伝える遺産
1880年に開園された国営ワイナ
跡になっています。
④別府鉄道
(播磨町ほか)
はりまちょう
❷❸ ❶
❹
年に 開 通 し た
知られます。
そすいじぎょう
1915年に神戸の淡 河川と山田川
じんりょく
「 生 野 鉱 山 寮 馬 車 道( 通 称:銀 の 馬 車 道 )」( →
と、通訳で活躍。日
はりま
え ど
から農 業 用 水を引く疎 水 事 業 の
に尽力しました。
4
年 に は 鉄 道 の 敷 設 も 始 ま り 、明 治 か ら 大 正 時 代
ふせつ
明 治 政 府のビッグ プロジェクトです 。
ると米国に帰 化。1859年に帰国する
き か
おうごがわ
③平木橋(加古川市)
がいこうこうしょう
❺
年 に 開 通 し た 別 府 鉄 道 な ど 、現 在 で は
べ ふ て つ ど う
にか け て 次 々 と 路 線 が 開 通 し ま し た 。
ばんでんてつどう
はいし
播電鉄道や
廃 止 された 路 線 も あ り ま す 。
なんぱ
加古川市加古川町本町
ど教育関係の役職
1
8
7
6
1
9
0
9
一方 、旧 制 姫 路 中 学 を は じ め 龍 野 中 学 、加 古 川 中 学 な ど が
で教育を受け、カトリックの洗 礼を受け
次 々 と 誕 生 し 、い ち 早 く 新 し い 時 代 を 担 う 人 材 を 育 て る た
播磨町生まれ。1850年、江戸から播磨
めの 教 育に 力 を 入 れ ま し た 。
[1837〜1897]
宅内の公会堂として使用されています。
工学部の前身)、学習院院長になるな
1
1
9
1
1
はりまちょう
西 欧式農法の試験と普 及を目的に
96
97
1
8
7
2
ジョセフ・ヒコ
棟の木造洋館です。当初は欧米から招いた外国人
技術者の居住施設として使われました。現在も社
評価され、工部大学校校長(東京大学
1
8
7
1
新聞の父
明治時代末期から大正時代にかけて建てられた2
となります。明治維新後はその能力を
か こ が わ し
く ら ぶ
かつやく
きょうどしりょうかん
か こ が わ し
戦争前の外 交交渉
ひらきばし
を 歴 任 。また 日 清
②ニッケ社宅倶楽部(加古川市)
播磨町大中1-1-2 ☎079-435-5000
(播磨町郷土資料館)
ばくしんはたもと
せいようへいほうほうじゅつ
たきかがく
らんがく
いがく
かんがく
加古郡稲美町印南ほか
大鳥 圭介
[1832〜1911]
多 木化学が自社製品の輸送のために敷設した路線。播磨町
上 郡 町 生 ま れ 。漢 学 、医 学 、蘭 学 、
かみごおりちょう
として約5万㎡の区域が国指定史
け
す
い
け
り
と
お
お
郷土資料館に別府鉄道で活躍した機関車が保存されています。
西 洋兵法・砲 術、英語を修め、幕 臣旗本
近代国家へ向けて
①播州葡萄園跡(稲美町)
せいおうしきのうほう
代化を推し進めた
日本近
銀
ぎ
ん
の馬
さいくつ
ば
し
ゃ
み
いくのぎんざん
ひめじこう
車道
し か ま つ
年 がかり
治 時 代 の 始 め 、銀 の 増 産に乗 り 出 し た 政 府 は 、生 野 銀 山
め い じ じ だ い
明
こうそくさんぎょうどうろ
3
か ら 産 出 さ れ た 銀 や 採 掘に 必 要 な 物 資 を 飾 磨 津( 姫 路 港 )ま
”
で 運 ぶ た め の 馬 車 道 建 設 に 着 手 し ま す 。フ ラン ス 人 技 師 を
1
8
7
6
招 き 、ヨーロッパの 土 木 技 術 を 取 り 入 れ た 工 事 は
ち
姫路城
福崎町
で 行 われ 、
年に 日 本 初 の 高 速 産 業 道 路 というべき
”
いくのこうざんりょうばしゃみち
「 生 野 鉱 山 寮 馬 車 道(通 称 : 銀の馬 車 道)」が完 成しました 。当
市川町
辻川
しだい
銀の馬車道
交流館
J
R
ばんたんせん
いくのばしふきん
姫路市内の生 野橋付近に馬車道修
築の碑が建てられ、ミニパークとして
整備されています。発着地点ではな
いところに碑が置かれたのは、ここが
なんこうじ
最も難 工事だったからだといわれて
います。
姫路市砥堀
ばんたんてつどう
②馬車道修築の碑
(姫路市)
神河町
姫路市
ひ め じ し
播但線)
が開
ばしゃみちしゅうちく
いくの
❶生野銀山
ひめじ
朝来市
時の沿線は、行き交う馬車や人で大いににぎわったといいます。
お だ
(現
年に、姫路―生野間に播但鉄道
へいあんじだい
平 安時代に発見された銀山。織 田、
とよとみ とくがわ ちょっかつこうざん
豊臣、徳川の直轄鉱山として栄え、明
治時代には政府の直轄鉱山として近
代日本発展の一翼を担った大鉱山で
こうどうない
す。1973年に閉山。現在は坑道内も
見られるように整備されています。
朝来市生野町小野33-5
☎079-679-2010
①生野銀山
(朝来市)
通し、飾 磨 津から生 野 銀 山 が鉄 道でつながると、馬 車 道は次 第
あ さ ご し
にその役割を終え、国道や県道に姿を変えていきました。
銀の馬車道
1
8
9
5
❷馬車道修築の碑
❸飾磨津物揚場跡
TOPICS
銀の馬車道劇団による公演活動
シスレーのバラ
し か ま つ も の あ げ ば あ と
③飾磨津物揚場跡
(姫路市)
ラッピング電車
(JR播但線)
99
馬車道の発着点である飾磨津
(姫路港)
に、明治時代に建てら
ごがん
れた倉庫の一部が残っています。また、護岸に使われているカ
ラミ石も見ることができます。
姫路市飾磨区
銀の馬車道の設計者レオン・シス
レーがフランスに送った日本の
ノイバラの種は、改良を重ねてフ
ランス中に広まりました。2014
年、日仏の交流促進と東日本大
震災の復興を祈念して、さらに
改良されたバラ
「絆
“KIZUNA”
」
が贈られ、銀の馬車道沿線各地
に植栽されました。
98
め い じ こ う き
まんしゅうじへん
年に
とむら
年に 満 州 事 変 が 起こる と 製 鉄 や 鉄 鋼 な どの
戦争と現代の夜明け
はりま
進み、
くうしゅう
くうばくひがいしゃ
1
9
4
1
1
9
3
1
播 磨 で は 、明 治 後 期 か ら 海 岸 部 を 中 心 に 急 速 に 工 業 化 が
ぐんじゅこうじょう
たいへいようせんそう
さんげき
ひせんとういん
軍 需 工 場 が 次々と 建てられる よ うになり ま す 。
れんめい
太 平 洋 戦 争 がはじ まる と 、播 磨 地 方 も 激 しい空 襲にさ ら され
せ ん さ い と し
ひ め じ し
大きな被 害を受けました。こうした惨 劇を繰り返さないため、
いれいとう
こうどけいざい
全 国の戦 災 都 市 が 連 盟 を結 び 、非 戦 闘 員の空 爆 被 害 者 を弔 う
ふっこう
あこう
かくりんじ
1952 鶴 林寺本堂・太子堂(加古川市)、一乗寺三重塔(加西市)を国宝に指定
いん
くうしゅう
1945 姫路などで大規模な空 襲・終戦
慰霊塔が姫路市に建てられました。
こくてつかこがわせん
あかし
いかん
1
9
5
5
年以降は高度経済
ばんたんてつどう
1943 播 但鉄道を国に移 管、国 鉄加古川線が開業
興 に 向 かった 日 本 経 済 は 、
1941 太 平洋戦争がはじまる
年には明石から赤 穂までの
たいへいようせんそう
せいちょうき
1939 日 本製鐵(株)広 畑製鐵所が創業(姫路市)
1
9
5
7
復
ひろはたせいてつじょ
はりまりんかいこうぎょうちたい
にほんせいてつ
りんかいぶ
きしんせん
成 長 期に入っていきます。
こくてつひめつせん
1936 国 鉄姫津線(現JR姫 新線)開通
臨 海 部 が全 国で五 番 目の播 磨 臨 海工 業 地 帯に指 定されるなど
ひめじじょう
1931 姫 路城を国宝に指定(姫路市)
年 代になる と 経 済の発 展 とともに道 路 輸 送の
1929 播磨造船所が神 戸製鋼から独立(相 生市) 1
9
7
0
急速に発展し、日 本の高度経済成長を強力にけん引しました。
じゅよう
あいおいし
また、
こうべせいこう
需要が増え、主要道路の整備が進みました。
昭 和 の 主な出 来 事
1956 姫路城で昭和の大修理が始まる(姫路市) 太平洋戦争全国戦災都市空爆死没者慰霊塔が手柄山に完成(姫路市) 1958 書写山ロープウェー完成(姫路市)
おおなかいせき
はっくつちょうさ
1962 大 中遺跡の発見・発 掘調査が始まる(播磨町)
1964 播磨臨海地帯が工業整備特別地域に指定
まちうらじょうすいじょう
①町裏浄水場(姫路市)
1966 姫路大博覧会が開催(姫路市)
姫路市で上水道が給水されたのは1929年のことで
す。町裏浄水場は当時の姿がほぼ完全な形で残って
姫路モノレールが開通(姫路市) さんようしんかんせん しんおおさか
おかやまかん
1972 山 陽新幹線 新 大阪-岡 山間が開通
姫路大博覧会にあわせて
モノレールが開通、8年に
渡って運行されました。
いる近代水道施設です。
た い へ い よ う せ ん そ う ぜんこく せんさい と し
②太平洋戦争全国戦災都市
くうばく し ぼ つ しゃ い れ い と う
空爆死没者慰霊塔
(姫路市)
軍人・軍属以外の太平洋戦争中の空爆その他による犠
牲者を供養し、世界の恒久平和を祈念するために1956
年に建てられました。
ばんたんれんらくじどうしゃどう
1973 播 但連絡自動車道の一部が開通
ちゅうごくじどうしゃどう
1975 中 国自動車道が開通
国道2号姫路バイパス全線開通
なごやまれいえん
③名古山霊苑(姫路市)
1953年開園。1960年には、イン
ドの故ネール首相から贈られた仏
❸❶
❷
舎利を安置する仏舎利塔が完成し
ました。
101
100
未 来へ 向 け て
は り ま け ん い き れ ん け い ち ゅ う す う と し け ん こ う そ う
きゅうげき
播 磨 圏 域 連 携 中 枢 都 市 圏 構 想 がスター ト!
こうれいか
現 在 、わ が 国 で は 新 し く 生 ま れ る 子 ど も の 数 が
か
年 々 減 り 、人 口 が 減 少 し てい ま す 。ま た 、生 ま れ 育っ
そ
こくみんけいざいけいさん
か
青森県 4兆4722億円
ないかくふ
た 町 か ら 都 市 に 移 り 住 む 若 者 が 増 え 、地 方 で は 急 激
北海道 6兆3851億円
たが
愛媛県 4兆7161億円
な 過 疎 化 や 住 民 の 高 齢 化 が 進 ん で い ま す 。そ の 中
5兆7369億円
境 、も の づ く
4兆6324億円
かんきょう
■製造品出荷額(2013年度)
こ
■総生産額(2012年度)
8
町 が お 互 い に 協 力 し 合 い 、地
総務省
「2010年国勢調査」
8
市
総務省
「2010年国勢調査」
で 、播 磨 圏 域 の
佐賀県 2439.65㎢
こくせいちょうさ
域 を 発 展 さ せ てい こ う と い う 取 り 組 み が 行 わ れ てい
大分県 1,196,529人
ま す 。こ の 取 り 組 み を「 播 磨 圏 域 連 携 中 枢 都 市 圏 構
鳥取県 3507.28㎢
想 」といいま す 。
岩手県 1,330,147人
そうむしょう
産業
2800.41km
播 磨 圏 域 に は 、歴 史 、文 化 、自 然 環
面積
り の 力 な ど 多 く の 資 源 が あ り ま す 。こ れ ら を 生 か し
1,327,193人
て 、県 外 か ら 多 く の 会 社 や 人 々 を 呼 び 込 む 取 り 組 み
人口
や 、播 磨 に 住 む 人 々 が 快 適 に 暮 ら せ る 町 づ く り が 進
き ぼ
播磨の人口、面積、産業は、1つの県に相当する規 模を持っています!
め ら れて お り 、地 域 の 活 性 化 が 図 ら れていま す 。
播磨圏域連携中枢都市圏の人口、面積、産業
長野県 5兆1125億円
けいざいさんぎょうしょう
内閣府
「国民経済計算」
、
経済産業省
「平成25年工業統計」
しちょうみんけいざいけいさん
兵庫県
「市町民経済計算」
宍粟市
神河町
●電気機械
●機械
フラットパネルディスプレイ
●
●化学
●鉄鋼
各種調味料 ●
●食品
化成品等
●
●
化成品等
酢酸セルロース
高吸水性樹脂等
佐用町
市川町
福崎町
● 紙幣入出金機等
● 自動車エンジン部品等
家庭用殺虫剤等
●
103
リチウムイオン電池等
●
火力発電システム等
清涼飲料水
ハロゲンランプ等
●
●
●
●
●
● 樹脂・化成品等
液晶パネル
●●
●●●
● 水晶振動子等
●
●
エネルギープラント等
吸水性樹脂等
鋼鉄事業部門等
●●
●
特殊鋼材等
ガラス等
● 精密科学品等
高級薄板
●
● 機械事業
各種調味料
アグリ事業等
塩ビモノマープラント
鋼鉄事業
上郡町
たつの市
相生市
赤穂市
加西市
姫路市
太子町
加古川市
高砂市
播磨圏域連携中枢都市圏
播磨臨海工業地帯の主な工場
稲美町
播磨町
102
播磨圏域連携中枢都市圏の現状
ものづくりを支える最先端の科学施設
目に見えない「原子」
を観察し、
マイクロ機械を作るための
新素材の開発に利用
立体加工が行える
スプリング エイト
■播磨圏域の将来推計人口
(出典)
国立社会保障・人口問題研究所
「日本の地域別将来推計人口」
(平成25年3月公表)
(人)
1,400,000
SPring-8
ニュースバル
すべての物質は、目に見えない 小さな「原
ニュースバルは、SPring-8と同様に放射光
子」
という粒 同士がいくつも組み合わさってで
施 設(中 型 放 射 光 施 設)です。現 在 の 機 械 加
きています。その原子を観察できる施設を放射
工技術では不可能なµm(マイクロメートル=
光施設といいます。SPring-8は世界最高性能
1mmの1000分の1)以下の立体的な加工を
を持つ大型放射光施設の一つで、その研究結
行うことができ、さまざまな分野で利用される
果が新素材の開発などに利用されています。
マイクロ機械の製造に役立っています。
つぶ
1,327,193
1,267,074
1,175,971
1,200,000
年少推計人口(0~14歳)
1,068,269
1,000,000
2040年に
800,000
約20
生産年齢推計人口(15~64歳)
%減
2040年に
600,000
約30%減
老齢推計人口(65歳以上)
400,000
2040年に
200,000
0
約40%減
2010
2020
2030
約22%増
2040 (年)
播磨圏域8市8町における将来人口は、今後30年間で約26万人減少すると予想されていま
す。0歳から64歳までの人口が減少する一方で、65歳以上の人口が増え、少子高齢化が更に進
むことが予想されます。
©RIKEN
兵庫県立大学提供
播磨圏域連携中枢都市圏構想で目指すこと
▶地域ブランドの育成
①播磨圏域の経済の活性化
ほうじょう
めぐ
播磨は古来より
「豊 穣の地」
と呼ばれ、温暖な気候と豊かな自然がもたらす山海の食材に恵まれてお
たさい
り、世界でも高評価を得ている日本酒や革製品をはじめ、多 彩な播磨の地場産品を
「はりま地域ブラ
ンド」
として、全国に向けて情報発信するなど、取り組みを進めていきます。
▶「はりま・ものづくり力」の強化
きょてん
ものづくりの一大拠 点である播磨圏域。優れた中小
ほこ
しせつ
はりまかがくこうえんとし
術施 設が並ぶ播 磨科学公園都市があり、新たな技
▶交流人口の増加
術や新素材・新製品の開発が行われています。そん
ひめじじょう
平成の大修理を終えた世界文化遺産・国宝「姫 路城」
をはじめ、播磨圏域内の国宝などの歴史的建造
ゆうきゃく
105
さいせんたん
企業が集まるとともに、世界に誇る最 先端の科学技
そくしん
きぎょう
ゆうち
な播磨圏域に多くの企 業を誘 致することで、産業の
しんこう
こよう
物、豊かな自然・文化などの地域資源を活用し、国内外からの観光客等の誘 客を促 進し、交流人口の
振 興や雇 用の創出を図り、次世代のものづくりに取
増大に繋がる取り組みを進めていきます。
り組んでいきます。
播磨科学公園都市
(兵庫県企業庁提供)
104
②圏域の魅力の向上
ミュージアムガイド
▼
さまざまな機能を備えた都市をつくる
主な取り組み
■JR姫路駅前の整備と
ネットワークづくり
播 磨 圏 域 の 中 核 都 市にふさ
わしい 都 心 づくりに向 け 、J R
姫路駅周辺の整備が進行中。
魅 力 ある商 業 施 設 や 付 加 価
値 の 高いサービス産 業 、様々
な情報交流がよりスムーズに
行える施設の導入が検討され
ています。
③住民に安心・快適な圏域づくり
▼
圏域全体の生活関連機能サービスの向上
主な取り組み
■広域防災
■地域公共交通
大規模な災害が発生したときの相互応援体制や地
JR姫路駅を起点とした地域の公共交通ネットワー
域の防災力を高めるため、災害を防ぐ、または減ら
クを強化するため、JR姫新線・播但線の利用促進な
す体制の充実を図ります。
どを行います。
■社会教育施設の相互利用
■移住・定住促進
住民の社会教育活動を支援するため、圏域各市町の
移住・定住希望者のさまざまな要望に対応するため、
図書館や博物館などの相互利用を進めます。
地域の特長を生かした対策に取り組んでいきます。
注目!
どんぐりカードで
社会教育施設等が利用できます。
さい
播磨圏域各市町にお住まいの4歳 から中学3年生ま
での皆さんは、姫路城、姫路市立動物園、姫路市立
水族館、姫路科学館などが無料で利用できます。
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