東山 喜一 古今東西、 人類はその暮らしのなかで 様々な音 ど接してきた。 そして、 いつしか何らかの 目 的をもって昔を 発する行為、 または昔を求める 行為が生まれた。 最も広義的な 解釈をすれば、 結果として昔が 出るものではなく、 音を出すこと 自体を使用目的とする 道具の総称が 楽器だと 言える,)0 ミクロネシアやメラネシアの 民族楽器のなかに イリイつ という体鳴楽器があ る ゎ 。 しかし、 これは楽器だと 知らされなければ、 何の変哲もない 石にしか思われないものだという。 初めて用いた 楽器は、 イリ イし のように自然物をそのまま 別するのが困難なものだと 考えられる り 人類が 利用したもので、 我々が楽器だと 識 。 したがって、 考古遺物のなかで 楽器と確認されたも のは、 誰の目からみても、 明らかに楽器であ ると認識されるもの、 つまり、 人類が初めて 用い た楽器から進展、 複雑化したものであ り、 そのような楽器しか 見い出せないのが 現状であ る。 それでも、 近年、 日本各地の発掘調査によって、 る 。 陶損と 称される弥生時代前期の 楽器と認められる 遺物の点数が 増加してい 土 笛 もそのひとつであ る。時代を問わず、 楽器のなかには、 例えば事に柱を 用いるように、 ひとっの楽器で 異なる音程を 出すためには 別材 で造られた付属 る。 しかし、 弥生の土 笛は 、 そのようなものを 必要とせずに 異なる 昔 品を必要とするものもあ る 、 数少ない原始、 古代の楽器であ る。 また、 この 上 笛は弥生時代前期のみしかみ られない遺物であ る。 昔 そのものは出された 瞬間に消えてしまうため、 当時の人々が、 どのような音を、 どのよう な リズムで奏でたのか 等は今となっては 知る由もない。 しかし、 出土した楽器を 基に、 当時の 文化のなかにみられる 昔を読み取ることはあ る程度可能であ ろう。 稿では、 主に考古学上の 先行研究を再検討し、 音楽学上の成果を 援用しながら、 弥生の土 笛 、 特にその起源と 変遷について 考察する。 1 。 弥生の土笛の 研究 史 一考古学上の 研究を中心に 一 1. 弥生の土 留 出土以双 弥生の土 笛 出土以双から 土 笛や中国の環に 関する発言を 行った研究者として、 音楽史家の田 辺尚雄が挙げられる。 田辺 は 原始、 古代の楽器を 考察した際に、 事代主神が造ったとされる 天 盤 笛は中国の損の 一種であ るという見解を 示した小田辺が 図版のなかで 用いた墳は中国苗代 以降のものであ ろう。 また、 朝鮮南部から、 古代の遺物としてこの 種の墳が出土したことがあ ると述べているがホ 現在そのような 墳が出土した 報告は確認されていない。 さらに、 田辺が 図版で示した 天鑑 笛と 坦をみる限り、 形が違いすぎて 両者を関連あ るものとして 考えがたい。 田辺はいち早く 損に注目した 研究者ではあ ったが、 坦に関する本格的な 研究は行われなかった。 一 l 一 本格的な研究の 開始は、 これより約 40 年後のこととなる。 2 。 弥生の土留出土 以 日本において、 中国の損に類似し、 かつその系統をひくとみられる 土製品は 、 366 年に初 めて山口県下関市綾羅木鋤遺跡から 出土した。 この土製品はピット 底部の黒色土 層 申から背面 を 上にした状態で 出土した。 背面の指 孔 のひとつは映すの 一部とともに 欠損していたが、 破損 面の跡は古く、 摩耗していた。 また、 表面は剥離していた。 たものだと考えられている。 この 上 笛は損傷のために 廃棄され )0 この土製品を 土笛と 建 し、 発表したのは 国分直一であ る。 それは i967 年、 国分が著した 陶 損の発見」においてであ り、考古学における 弥生の土笛の 研究はこのとぎから 始められた。 国分はこの土製品を「 陶損 」とし、 その理由に「中国古代の 陶 填 にその形と指孔の 状況が 「 している」ことを 挙げ、 起源を中国に 求めた,)0 同年、 綾羅水郷遺跡から 2 点目の土 笛 が出土 した。 綾羅本郷遺跡出土の とされたものの、 吹口が欠損し ていたため、 実際にどのような 音を奏でたのかは 不明であ った。 そこで 1969 年、 松岡 敏そ刊ま 2 点の土製品は、 気鳴楽器めであ 遺跡出土品を 基に 、 る 土笛 1 ㎝田単位で様々な 吹 口径を設定した 上で弥生の土笛を 復原、 から 5%m 製作し、 採譜と吹奏実験を 試みた。 実験の結果、 吹奏に適切な 吹 口の口径は 6 mm の間であ ることが判明し 、 8%m を越えると「普通の 息で は 吹きつづけることができなかった」 て 幻と発表した。 また、 松岡は指孔の 位置や径 と % 高の関係について、 指 孔の位置は音 高 には 関 係 なく、 径は 2 m 田異なると半音 ( ただし西洋音楽上の 半音 ) 異なると言及した ,。 )。 以後 10 年間、 弥生の土笛の 新資料発見の 報告はなかったが、 1974 年に京都府中郡峰山町扇 谷遺跡、 975 年京都府中郡峰山町途中 ヱ ケ丘 遺跡から 各 1 点 ずつ出土した。 これを 新たな上衝研究がなされた。 龍雄は丹後地力出土の 新資料を紹介するとともに、 国分の説を踏襲する 形で、 弥生の土笛の 起源 や 、 土管 と 祭祀との関係について 言及した。 特に、 祭祀との関係においては、 「墓地的性格の 場所から出土せず、 人間生活に密着した 土墳 内 や溝内から出土している」 とを理由に、 弥生の土笛は 死に関する祭りに 用いられたものでほないと 田こ 主張した。 また、 綾羅 本郷遺跡出土品と 丹後地方出土品を 比較し、 その類似性から 両者を同一系統ととらえた。 丹後地力出土品の 復元と吹奏実験も 行い、 % 高 は指 孔の開閉する 位置ではなく、 その数で決ま るという点では 松岡と同様の 結果を得た ,, )。 1979 年、 前島 巳其 は 1977 ∼ 78 年にかけて行われた 島根県松江市タテチョウ 遺跡の発掘調 査によって出土した 弥生の土 笛 2 点を紹介し、 土笛 と農耕文化、 および農耕儀礼の 関係につい て考察しため。 同年、 ぴ えりす企画集団の 編集によって ァ 弥生の土筒口回が 刊行され、 伊東照雄、 国分直一、 松岡敏行等らが 寄稿した。 伊東は「其の 後の出土 陶坦一 綾羅水郷台地遺跡出土 陶損の未発表資 料一 」において、 1967 年以降の発掘調査および 理作業によって 発見された上衝 4 点を紹介 した。 それをうけて、 国分は「弥生駒 損 」を発表し、 弥生時代前期末の 土笛の特徴に 吹口が大 きいことを付け 加えた。 松岡は「上衝 をづ くる」において、 復原した際の 弥生の上笛の 作り方 一 2 一 を 紹介し、 さらに吹口径に 関しては、 新たに 6 mm から 26mm まで 2 mm 間隔で tl 御製作し、 再度実験を行った。 その結果、 大変吹きづらくなるのは 26mm のものだと発表した。 19初年、 国分直一はこれまでに 出土した弥生の 土筒を対象に 再度考察を行い、 吹奏に耐え 得る土 笛は 1967 年に綾羅水郷遺跡から 出土した 2 例のみであ ること、 その後 土 笛は山陰地方 に伝播 し、 それら弥生時代後期の 土 笛は 、 松岡の実験結果から 吹奏機能が退化したものであ る ことを強調し、 吹口径と背面孔の 位置が土笛の 編年の手がかりになる 可能性を示唆したり。 土 笛が 、 そして、 1990 年に タテ チョウ遺跡出土の 1989 年に島根県松江市西川津遺跡出土の 土 笛 が大量に報告されたことにより、 弥生の土笛の 点数は急激に 増加した。 1997 年、 江川幸子は日本で 出土した弥生の 土笛を集成し、 各資料の、 特に西川津、 タテ チ ョウ両 遺跡出土の土 笛に 関して細かい 観察を行い、 あ わせて弥生の 土笛の伝播、 性格について 考察した。 江川は、 出土したすべての 上 笛の分類を行うには 至らなかったが、 西川津、 タテ チ ョウ両 遺跡出土の弥生の 土 笛を 、 全長と形状に 関して各々 3 種類、 器 画調整と胎土に 関して各 種類に分類した。 さらに江川は、 山陰地力で弥生時代双期中葉から 隆盛する削り 出し突 帯 紋に 注目し、 兵庫県豊岡市川原遺跡出土の 上笛から削り 出し突 帯敵 がみられることから、 弥生 々 2 の 上 笛の伝播経路を、 下関市周辺から 山陰地力を経由して 丹後半島に至るものと 考えた。 また、 山陰の土 笛 には吹奏が非常に 困難なものがあ るとする根拠には、 異様に大きい 吹田や 吹 口に接 近した背面 孔 のように国分や 松岡の説に通じるものだけでなく、 宿札時に表面にはみ 出した 粘 土 が整形されていない 土 街や、 小型の土笛の 存在を挙げている ,。 )0 3 。 名称に関する 問 国分 直 - が 綾羅本郷遺跡出土土製品を 陶 墳と 紹介して以来、 同様の土製品は 全て 陶坦と 呼ば れてぎた。 しかし、 西川津、 タテチョウ 両 遺跡から大量の 土 笛 が出土する時期と 前後して、 [lL@ 陰地力の研究者のなかには、 これらを 陶損と 称さずに、 土笛 と称する者がみられるようになっ た。 筆者はこの背景に、 大陸との関係についての う表記は大陸との 関係を前提としているが、 問題があ ると考える。 国分が用いる 陶 損とい 土 笛の起源を中国に 求める国分の 説に対して、 中 画商代と日本の 弥生時代前期との 間には、 時間的な開きが 大きすぎるため、 中国との関係につ いては疑問視されているの。 中国の陶 坦と 弥生の七笛を 同一系統と断定しがたいために、 陶損 ではなく上衝と 称するようになったのであ ろう。 この問題に関して、 筆者は、 現時点では日本で 陶墳と 呼ばれている 土 笛は中国の陶 填 とは無 関係であ ると断言しかねる。 しかし、 中国の陶 損 とは同一系統の 遺物と認めがたい 要素も同時 にみられるため、 本稿においては、 従来 陶損と 称されてきた 日本出土遺物の 呼称を弥生の 上衝、 もしくは単に 土 笛 とする。 その理由については 第 3 章で論じることにしたい。 2 。 弥生の上 笛 の 分 考古学では資料の 分類は編年を 行 う 前段階として 行われる。 しかし、 先学の研究において、 一 3 一 弥生の上笛の 出土地域全てをひとつの 分布置ととらえ、 その上で分類や 編年を行った 業績はな い。 その理由は、 土 笛の存在期間が 極めて短く、 さらに土器の 共伴や層位学的な 考察によって 相対年代の比定が 可能な土 笛 がごくわずかであ るため、 そのような状況で 分類や編年を 行うの は 容易ではなかったからであ る。 しかし、 筆者は土笛の 変遷をたどることを 試みたいため、 あ えてこの作業に 取り組む。 筆者が試案として 行う分類法は、 江川の説に依拠した 形で⑧土器を 共 伴 した上衝 5 点を基準 資料として選定した 上で、土 笛の大きさと 吹 口径の比率を 手がかりとして 分類する方法であ る。 その 5 点は、 綾羅水郷遺跡出土品 4 点 (N0.2 、 3 、 6 、 7) と 下七 見 遺跡出土品 i 点 (N0.8) であ る。 国分が分類の 手がかりとして 吹口径や背面孔の 位置を挙げた⑨背景にば、 土 笛の変容 能の衰退の関係の 有無についての 問題があ るため、 筆者はこの点も 念頭にお いて諭を進めてみたい。 なお、 ここで対象とする 土笛は 、 全発表資料 数 58 点中小片を除いた 30 点であ り、 それらは 表 1 、 表 2 に挙げている (21、 22 頁参照 ) 。 これらは全て 完形であ るか、 破片であ っても吹口径 と胸部最大経が 推定できるものであ る,。 )。 2 。 土 笛の分類 まず、 土 笛の全長と嗣郎最大 往 に関する相関を 考える ( 図 1) 。 その結果、 全長と胸部最大 径の間には強い 正の相関関係がみられ、 どちらの値も 土笛の大きさを 示しているとみなせる。 また、土 笛は大小様々なものがあ るが、 どれも均一した 形態であ ることも読み 取れる。 さらに、 吹口径に関しては、 松岡の実験や 国分の説にみられるように、 吹奏機能の有無を 問う手がかり とされてきた。 吹 口径だけに注目すると、 確かに小さい 方が吹ぎやすいという 結論になるのだ が 、 実際吹奏に耐え 得るかどうかは、 楽器の大きさ、 特に体積にみあ った 吹 口径が設定されて いるかどうかによるという 柑。 月岡ⅠⅠ A頴 推定値・復元値含む 串 最 10 推定値・復元値含まず寄 大 9 径 B類 -@ 8 推定値・復元値含む ム 推定値・復元値含まず直 0 ミ コ % 鏑 二 6 c 類妻 D類 趨亨V 推定値・復元値 含れ 口 推定値・復元値含まず鰯 クり E類 推定値・復元値含む Ⅴ 推定値・復元値含まずⅤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 1巳 13 全長 (cm) 図 「。 土 笛の全長と腕部最大経の 一 4 一 相関 F類 推定値・復元値含む 廿 推定値・復元値含まず費 人類 幸 ド頓 吹 7 推定値・復元値含む ム 推定値・復元 嫡 含まず 盧 6 千耗 C摂 O 尺り 推定値・復元値含む 0 推定値・復元値含まず婁 門づ 4 推定植・復元値含む 口 コり 韓藍 推定杭 ・復元値含まず鼠 O勺 に薫 1 推定値 ・復元値含む Ⅴ 推定値・復元値含まず雙 1@ 8@ 3@ 4@ 5@ 6@ 7@ 8@ 9@ 10@ 11@ 12 Ⅰ 薫 推定笹 ・復元値 禽打 女 推定植・復元値含まず青 図 2. 土 笛の開口 度 したがって、 国分が示唆したように、 吹口径と背面孔の 位置だけでは 分類の手がかりとして 不十分であ ろう。 楽器として最も 能 的な 吹 口径と体積の 関係がっかめれば 望ましいのであ が、弥生の土 笛 のような楽器の 発音に関するメカニズムは 筆者は吹口径 と腕部最大経との 物理学的に解明されていないため 比率を分類の 手がかりに加えることにする (図 る ,木 2)0 さらに、 各出土資料の 相対年代に関する 問題を視野に 入れるため、 土器を共 伴 した先述の上 笛 5 点を基準資料とした。 土 笛の大きさは、 基準になり得る 土 笛 のうち、 2 点の全長が下部 欠 損 により不明となっているため、 腕部最大 径で 代表させた。 筆者は、 これらの数値を 基にして、 吹口径を胴部最大 径で 除した数値を 求め、 便宜的にその 値を開口 度 指数と称した。 このようにして 求められた開口 度 指数 順 に土笛を並べ、 器 形の特徴を考慮して 分類を行 うと 、 以下の通りになる。 なお、 開口 度 指数は小数点第 4 位を四捨五人したものであ A 一 開口 度 指数が 0.300 以下のもの B 一 開口 度 指数が 0.300 を超え、 0.350 以下のもの C 一 開口 度 指数が 0 . 350 を超え、 0t400 以下のもの D 一 開口 度 指数が 0t400 を超え、 0.450 以下のもの E 一 開口 度 指数が 0 . 450 を超え、 0.500 以下のもの F 一 開口 度 指数が 0.500 を超えるもの る。 なお、 本稿において 各資料に付した 番号は論を進める 上で筆者が独自に 付したものであ り、 本文中の番号と 表及び図版中の 番号は一致している。 A 類一 No.2 、 3 、 29 、 30 綾羅水郷、 扇谷、 途中 ゲ 丘の各遺跡から 出土している。 土 笛の大きさに 比べて吹口が 小さく、 背面 孔が 吹口から離れたところに 存在するという 特徴を持つ。 基本的に倒卵形をしている。 一 5 一 A 類の基準資料は 綾羅本郷遺跡出土品 2 点 (No,2 、 3) で、 綾羅 木 1 式の弥生土器を 伴出 しており、 最も古式とみられている。 特に No.2 は日本で初めて 出土した 土笛 であ る。 N0.3 の器壁は No.2 よりも薄い。 両者とも、 現在出土している 七 % のなかで最も 吹奏機能が考慮さ N0.30 も、 吹口の位置が 前面寄りと考えられる 点を除けば No.2 、 3 に類似している。 しかし、 No.29 は、 大きさや 器厚 に関しては数値的な 処理上これら 3 点と 似たような性格を 持つものの、 指孔が 小さい、 吹口付近が平らに 仕上げられているといった 差 れていると考えられている。 異 がみられる。 吹 口付近が平らになっているのは 現時点で本例のみであ る。 B 類一 N 。.Ⅰ、 柊 光岡長尾、 西川津の各遺跡から 出土している。 B 類に該当する 基準資料はない。 大きさは A 類 よりも一回り 大きい。 仮にグラフから B 類の回帰直線を 求めると、 次に述べる C 類の回帰 直 線と 著しく近似したものとなるが、 升 B 類と C 類は器形の特徴が 異なるため、 筆者はこれらを 別 f 式 として分類した。 B 類から F 類に共通する 特徴は、 A 類 よりも大きな 径を持つ吹ロ と 、 吹口に接近した 前面上 部 02 孔 、 背面の 2 孔であ る。 背面 孔が 吹口に近い位置にあ ると、 親指が邪魔になって 背面孔 の操作が行いづらくなるか、 あ るいは背面孔を 操作したときに 土笛 が不安定になる る 。 ひとつの楽器で 異なる音程を 得るために、 例えば筆は付属品として 可能な生があ 柱を用いるが、 上衝は そのようなものを 必要としない。 したがって、 このような背面孔を 持った上衝 は、 仮に昔が 出 00 図 3. 土 笹分類 図 一 6 一 ( 「 ) たとしても、 全ての 指 孔を生かしにくくなった 点で、 A 類に比べて 土笛 本来の機能が 低下した ものと考えられる。 土 笛の基本的な 孔 制は前面 4 孔 背面 2 孔であ るのに対し、 No.1 の士節 は 吹口周辺に前面 側 、 背面倒ともに 2 孔 ずっ小乱 が窄 けられている。 全資料のなかで、 このような小乱 が 存在するの は 本 例のみであ る。 このうちの 2 孔が背面孔を 兼ねているのかどうかはわからない。 C 類一 N0.6. 19 、 20 、 23 、 27 綾羅水郷、 タテチョウの 各遺跡で出土している。 基準資料は綾 水郷遺跡出土品 (N 。 . 6) で、 綾羅 木 11式の弥生土器を 伴出している。 C 類には No.23. 27 のように球形に 近い卵形のも のがみられる。 実測図をみる 限り、 N0.6 も同様の器形をしていた 可能性が考えられる。 No.23 はへ うミガキ による調整がみられ、 作りは非常に 丁寧であ る。 背面 孔は 吹口から若干 離れたところにあ るものの、 器形 のせいか、 かまえてみると 親指が邪魔になった。 No.27 は表 面、 内面ともに ナデ で仕上げられた 無紋の土 笛 で、 こちらは背面 孔が 吹口に近い位置にあ る。 C 類にはミニチュアの 上笛が 2 点あ る㊦ 0.19、 20)o No ユ 9 の背面孔は存在していたかどう か 不明であ る。 仮に存在していたとすると、 も背面が欠損しているが、 吹口のすぐそばに 窄 けられていただろう。 No.20 前面上部 2 孔が吹口からわずか 0 6 ∼ 0.8cm のところにあ り、 これ ・ も背面 孔が 存在していたならば、 吹口に近い位置にあ っただろう。 さや 指 孔の間隔から 考えると実用的ではない。 9 2 点とも、 土笛 自体の大き 2 ︶ 図 分類 笛 土 4. 図 D 領一 N0.4 、 8 、 11 、 1 綾羅本郷、 下セ見、 西川津、 目久美の各遺跡から 出土している。 基準 料は 下七 見 遺跡出土 式の弥生土器を 伴出している。 典型的な 器 形を示していると 考える 品 (凶0.8) で、 綾羅 木 111 れるものは N0.8 、 28 で、 器 壁は厚いが No.nt もこのなかに 入るだろう。 これらは卵形で、 か っ 吹 口から胸部までの 湾曲の度合 いと 胸部から底部にかけての 湾曲の度合いがほぼ 同等とみら れる。 また、 N0.8 、 tl には洗練 紋 が施されている。 D 類であ えて例外的な 存在といえばⅣ 0,4 と N0 ュ4 が挙げられる。 この 2 点は U 字形の をしており、 器彩 はいびっであ る。 さらに、 刃。 みには背面 孔 がなく、 D 類のなかでは 機能的 に 最も低下した 土笛 かもしれない。 E 類一 7 、 9 、 10 、 毬、 21 、 25 綾羅水郷、 西川津、 タテチョウの 各遺跡から出土している。 基準 料は綾羅水郷遺跡出土品 (N0.7) で、 綾羅 木 11式の弥生土器を 伴出している。 E 類は断面が U 字形に近いため、 上衝 の 大きさに対して 吹口径が大きすぎる 可能性があ る。 E 類のなかにはやや 小型の土 笛が 2 点あ る。 No.9 と刃 0.10 がそれであ り、 断面は U 字形で あ る。 特に No.10 は 器厚が 不均 - であ り、 しかも前面の 上部 2 孔の表面には 返り土がみられる 靱。 他の土笛は表面から 窄 孔を行ったものが 多いが、 この立筒 は窄 孔を内面から 行った可能小生 があ る。また、 これら 点は大きさや 指 孔の間隔から 考えると、 実用的なものとは 考えがたい。 2 図 5 。 立筒分類 図 (3) 一 R 一 一 No よ 、 は、 あ ∼ 壬 22 、 24 、 26 7、 、 西川津、 タテチョウの 各遺跡から出土している。 F 類に該当する 基準 No.24 は E 類に近い 器 形をしているが、 筆者はこれを 開口 度 指数に従って F 類に分類する。 F 類の器形や断面は 、 いび っ なものもみられるが、 U 字形をしたものが 多い。 先端がとがっ ているものもみられ、 前島の言葉を 借りると「レモンの 端部の一方を 水平に切り去ったような 形」刈 であ る。 このような 器 形や断面をしているものは 体積に対して 吹口径が大きすぎる 可能 性が高く 、 最も吹奏機能が 低下した 土 笛の型式と考えられる。 さらに、 No.22 に残存する 指孔 孔のうち、 背面側の 1 孔は未貫通であ る。 これは背面 孔が 痕跡器官化したものとみてよい。 同様な例は他にみられず、 土 笛の変容、 衰退を考察する 上で注意を要するものとなる。 No.26 の 上笛は F 類で例外的な 器 形を持っものであ る。 この 上 笛は倒卵形ではなく、 吹ロ が 2 直立した 器 形をしている。 この 緒 形を持っものは 現時点ではこの 1 点しかない。 3 。 土 笛の変容と年代に 関する 58 点の土笛を扱ったが、 江川によると、 そのう ち 土器の共 伴 関係から、 弥生時代前期のいっ 頃 かという点まで 相対年代が細かく 比定できる 土 本稿では、 分類対象外とした 破片も含めて 笛は 5 点しかない 胡。 それらは全て 山口県内で出土したものであ り、 綾羅水郷遺跡出土の 弥生 時代前期前半後葉の 上衝 2 点 (忍0.2、 3) と、 同遺跡出土の 弥生時代前期後半前葉の 上笛 2 点 (N0.6 、 7k 、 下七 見 遺跡出土の弥生時代双期後半後葉の 土 笛 1 点 (N0,8) であ る。 一方、 大農の土笛を 出土した西川津、 タテチョウ 両 遺跡をはじめ、 それ以外の遺跡から 出土 した 土笛は 、 胎土観察等で 弥生前期のものだと 比定されているものの、 り 土器の共 伴 がなかった 、 旧河道からの 出土のため明確な 相対年代が割り 出せないものがほとんどであ る。 だが、 前項で求めた 名類の開口 度 指数と器形を 比較すると、 開口 度 指数が大きくなるほど 土 笛 の大きさに対して 吹口径が大きくなる 傾向がみられる。 さらに、 前項で述べたように、 No.22 にみられる 未 貫通孔は痕跡器官と 考えられ、 F 類の特徴であ る U 字形の器形や 断面は、 土 笛の 大きさに対して 吹口径が大きすぎる 可能性が高い。 吸口径の大きすぎる 土笛は別材 の 吹 口を取 りつけていたのではないかという 説 "@ みられるが、 製作時に吹奏機能が 念頭におかれていた のならば、 その時点で適切な 吹 口径を持つ 土笛を製作するのが 自然であ ろう。 したがって、 土 笛の変容は吹奏機能の 低下によってもたらされたものだと 考えられる。 それならば、 開口 度 指数が土笛の 型式学的変化を 示唆し、 これによって 様々な型式の 平行関 係 がっかめるのではないだろうか。 年代的な関係を 検証するために、 基準資料の 5 点を開口 度 指数の小さい 順に並べ、 共 僻土器や先程分類した 型式と照らし 合わせると以下のようになる。 N 。. No.2 N0.8 №.7 時代区分 型式 木I式 弥生時代前期前半後葉 A 綾羅 木 1 式 弥生時代前期前半後葉 A 木 11式 弥生時代前期後半 C 綾羅 木 111 式 弥生時代前期末葉 D 綾羅 木 11式 弥生時代前期後半 E 共伴 土器 一 9 一 N0.8 木 111 式であ り、 No Ⅰの 共伴 土器は綾羅 木 11式であ る。 開口 度 指数に よる順番と相対年代が 逆転している。 それだけではなく、 A 類の土 笛 No.29 と N0,30 は 第 1 様 の 共伴 土器は綾羅 式新段階の弥生土器を 伴出したと報告されている 時代前期末だという。 したがって、 現時点では立筒出土地域全般を , , )。 これによって 比定される相対年代は 弥生 通じての年代考察に 関しては一貫性がなく、 こ れ 以上何も言えない。 しかし、 筆者としては、 E が F 類のような U 字形の器形や 断面を思わ せる資料を含む 点で、 型式学的変化が 土笛の編年の 手がかりとなる 裏 付けが可能な 資料の出現 に期待したい。 また、 型式掌上においても、 例外的な土 笛 をどのように 扱うのかが今後の 課題 であ る。 とにかく、 現時点ではこれ 以上の言及はできず、 新しい資料の 出土を待つしかない。 3 。 弥生の土笛の 起源 - 中国における 分布と器形から 一 1 。 国分直一説 弥生の土 笛は 、 しばしば大陸との 影響について 論じられてぎたが、 そのほとんどは 国分の説 したものであ る。 しかし、 国分説が発表されてから 30 年 以上経っており、 その間に新 たな資料が増加した。 点数的には不十分であ ろうが、 ここで筆者なりに 国分説、 特に土笛の起 源に関する内容を 再検討し、 弥生の土 笛 と中国の損がどのような 関係にあ ったのかについて 考 察したい。 国分直一は、 綾羅水郷遺跡出土土製品を「 陶墳 」とした根拠に「中国古代の 陶損 にその形と 指 孔の状況が酷似している」 卸点を挙げ、 その起源を申 国 に求めた。 また、 その 伝 化に関して、 国分は、 弥生文化の展開が 呉越争乱の時期にひき っ づいて行われたという 岡 正雄 0 日本種族文化複合論功に 注目呵した。 そして、 呉や越の文化が 山東地力や朝鮮西南部にまで 及んでいたとし、 綾羅 木 遺跡から出土、 検出した 器 脚や金海 式 土器をはじめ、 石 器 等の石器や竪穴の 型式等をふまえ、 「綾羅 木陶損は華 東地区一西南 鮮 ルートを南下した 文化 潮流の中に組合わされていた 要素であ ったと見るのが 自然であ るように思われる」 田 と述べた。 つまり、 国分は、 土 笛の起源を中国のなかでも 江南地方に求め、 そこから朝鮮半島経由で 伝 したとみたのであ る。 2 。 中国における 損の分布 弥生の土笛の 起源が江南地方とざれた 点について、 中国における 損の分布から 検証してみる ことにしよう。 中国の損については、 李 純一のすぐれた 業績があ る 切。 李は申 国新石器時代から 東周時代ま での 損 ( そのほとんどは 陶墳 であ るが、 骨墳 、 朽損も含まれる ) を集成し、 それらを大きく 5 型式に分類した。 また、 測昔 結果を基に楽 理 に関する考察も 行っている。 本稿での中国の 損の 分類は李の説に 依拠しているため、 以下は各型式の 簡単な説明であ る。 また、 図 6 は李の分類 によって中国出土の 損の一例を図示したものであ る。 一 10 一 村 瓦滴斜出 L寝柑 牡堵小屯西地草弗 田ト鶴川 (卸 繍文化 ? l Ⅰ l: i@ll円 六 臨樺 な円通 紳出 (仰沼 @樹出 杭州 老 細山道 繍出 I.鈎出 l商代綾崩 ) 型 Ⅱ l,.@l@l 株 碑師 @。 i@ 文 @l 侍 く @% 朗 文化 ) 三 田塾 型 %岡朋 l I V V 型 図 6 。 中国出土墳一例 1 型 (9 本 ) 口そ 一卵のような 形をしている 損の型式。 弥生の土笛は 下端がとがり 気味 だが、 中国の損は上端がとがり 気味であ る。 苗代後期に平底を 持つ ようになり、 この型式が後世の 損の基本的な 器 形となる。 TT型 (球体 ) 一球形をしている 損の型式。 I11 型 (樽核体 ) 一徹穐の実の 形に似た 器 形を持つ損の 型式。 Ⅳ型 (扁卵体 ) 一卵形で、 かつ薄くつぶれたような 器 形を持つ墳の 型式 Ⅴ 型 (簡 体 ) 一 細長い間のような 形をしている 損の型式。 外見は哨に似ているが、 断面は管状ではなく、 空洞になっている。 図 7 は中国における 周代 までに製作された 坦の分布図であ る。 これによると、 中国の蝿は河 南省、 山西省、 陳西台 等 、 黄河流域に集中している。 その総数は 63 点であ る。 最も出土 側 が 多いのは 段嘘 周辺であ り、 商代晩期の損が 7 点出土している。 この 7 点の型式は何れも 平底を 持つ 卵体で、 前面 3 孔 、 背面 2 孔の孔制を持つ。 吹 口は上端部に 開けられている。 周代 の 陶損 もこのような 形をとっており、 この 器彩 は、 商代晩期に確立したものだと 考えられる。 5 点しかなく、 1 型のものは何 % 渡 遺跡出土の 一方、 江南地方を含む 揚子江流域においては 2 点のみであ る。 国分が「 湖熟 文化は中原文化の 影響をうける 可能性があ る」 國 と 考えてはい るものの、 黄河流域と比べるとかなり 少ない。 また、 製作された時代に 関しても、 商代より 古 い河栂渡 文化早期、 および晩期のものであ る。 商 代、 周 代 でさえ弥生時代前期から 遠く 時代であ るのに、 それよりもさらにさかのぼらなければならない。 また、現在朝鮮半島においては、 中国の墳のような 平底を持っ 卵体 の 上 笛は出土しておらず、 一一 11 一 7 ママⅤ Ⅴ ⅤⅤⅤⅤⅤ けび 凡榊 中国 印Ⅰ点につき 恩 t 点出土 新 石器時代入姥溝類型,蒲 Ⅰ 養@ Ⅱ 製 山型 一 % O 連装 ム 曳代撰 繋辞 唾 卸 l 点につき ノ l 点出土 日 日 5 点出土 Ⅲ点出土 鰯 Ⅴ Ⅳ 型 "型 ・ 音 図 7 。 東アジアにおける 出土台帝図 日本においてもそのような 遺物はみられない。 以上の点から、 中国において、 坦は黄河流域、 特に 段 嘘を中心に隆盛したものと 考えられ、 現時点の発掘調査の 成果からは、 弥生の土笛の 起源を江南地方に 求めるのには 無理があ ると 言 える。 3 。 弥生の土 笛の それでは、 弥生の土 笛 の 器形 が他の器物に 由来する可能,性についてはどうだろうか。 国分直 一は、 土笛の起源を中国に 求めたのと同時に、 C. ザッタスが、 中国の墳は古くさかのぼると、 南アフリカ Ca 皿 e 族の子供たちが 使う果実 製の ボイス。 マスクに「遭遇」、 つまり起源を 求め られると考えた 点,。 )から、 東アジアにおいても 適当な 果 殻を欠いていないとして、 も縄文時代晩期の 土 笛 と同様に、 自然物から模倣した 可能性があ るとした 辮。 弥生の土笛 しかし、 江川幸 子は土 笛 の 器 形について、 国分の説は「最も 説得力があ り、 頷けるのだが、 - 番 古式を伝えて いると思われる 土笛 ( 図 3 卵そのものでしかない」りと N0.2 、 3) は、 特に実物を見ると、 私の目から見るかきり 述べている。 江川は同じ自然物でも の貴重な食物であ り、 生命の源」何とみて、 これらに加えて 最近注目されているのは、 土 笛の形は卵の 鳥の 野鳥の卵を挙げ、 卵を「当時 持っ霊力が関係すると 考えた。 長崎県壱岐郡芦辺町 原 / 辻 遺跡出土の ココ ヤシ製 の笛であ る。 弥生時代前期末から 中期の土器を 含む 旧 河道から出土したものであ り、 全長 一 12 一 12 店clTL、 胸部最大経 8.7cm る 。 吹 口径は約 4cm の卵形をしてい とみられている ") 。 ココ ヤシ製の笛は 現在原 / 辻 遺跡からし か 出土が報告されていないが、 このよ う な 有機物を素材とした 笛も視野に入れる れている。 近藤直美は、 土笛 の 器彩 は コ コヤシ の 内殻に 由来するという 説を発表 した 呵。 近藤の説は。 土笛 にみられる様 々な 器 形と ココヤシ の 内 殻の形や発芽 孔 図 8. 原 / 辻 遺跡出土 ココ ヤシ 笛 とを結びつけた 興味深いものではあ るが、 層位学的な裏 付けはなさ ねて れない。 現時点で、 筆者は弥生の 土 笛 の 器 形は中国の損以外の 要素が影響している 可能性も考えたい が。 具体的な案の 提示は今後の 課題とする。 しかし、 はたして分布状況のみによって、 弥生の土 笛 が中国の損とは 全く無関係であ ると言 い切れるのであ ろうか。 中国では、 上 笛の存在した 時期が弥生時代前期のみであ った日本と異なり、 清代の海損の 存 在が確認されている。 清代の文献 尹 皇朝礼楽図式 ロ によると、 陶損は 鴨鳥の卵のような 形をし ており、 上 鍬下平で前面 4 孔 、 頂上にⅠ孔を 有する楽器だという。 また、 商代、 周 代 の 孔制か ら 発展して前面 4 孔 、 背面 2 孔の孔 削 が生じ、 受け継がれたのではないかと 考えられる あ る。 図 9 (7t 頁参照 ) に挙げた天理大学附属天理参考 館 所蔵 の清代の海損がそれであ 前面 4 孔 、 背面 2 孔の孔制を持ち、 筆者の観察結果によると、 る。 指 孔の形や大きさに 遠いがみら れた。 これは長年の 楽理の洗練、 特に十二律や 平均律の完成が 背景となっているのであ ろう。 器彩 は卵というよりも 砲弾のようであ るが、 商代、 周代の平底を 持つ 卵体 の詩形と比べて、 大 きくかけ離れたものではない。 しかし、 C 。 ザックスが商代の 菅垣 は 「明らかに現代の 損の形をして」。。 )いると述べ、 商代 後期、 および 周 代の海損もこの 菅垣 と 同様の器形をしているものの、 間代以降および 清代以前 において、 前面 4 孔 、 背面 2 孔の孔 制 で、 なおかっ平底を 持つ 卵体 の 器 形をした 陶損 はみられ ない。 中国の損の最盛期は 先秦時代までであ り、 その後の民族資料として には人面 填 めよ う 現存するもののなか に特殊なものがあ るものの、 先秦時代以降中国の 雅楽、俗楽双方においても、 墳 が使われた記録はないようであ る。, )。 中国間代以降の 陶填の変遷をみると、 その好例となる 資料に乏しいが、 筆者は中国の 損と弥 生の土 笛 の 孔制 にみられる近似性は 単なる偶然の 一致とは考えがたい。 器 形は中国の墳以外の 要素が影響していると 考えても、 孔制 においては何らかの 関係が存在する 可能性があ ろう。 指と 弥生の土笛の 朝鮮半島には、 填はⅠ 109 年 (答案 9 年 ) に宋から 倒品 字形に配された 前面 3 孔 、 背面 2 孔 一 131 一 の上矢下底 形 のものが伝わったとされており、 その 運指は 、 両手の親指で 背面の の人差し指で 前面の上部 2 孔を、 右手の中指で 残りの 1 孔を操作するものであ 2 孔を、 両手 る 何。 このよう な運指では、 損を両手の親指、 薬指、 小指で安定させることとなろう。 李 による出土品の 集成を見る限り、 中国の損も商代後期には 形や指孔の数が 整うだけではな く、 前面孔の配列も 倒 品 字形に統一されたようであ る。 中国の墳は 、 大きなものでも 指 孔は全 て損の下半分に 窄 けられている。 そのため、 韓国の墳と同様の 運指は難しくなく、 この 運キ旨 @ 中国から伝播した 可能性も考えられる。 では、 弥生の土 笛に 関してはど う だろうか㈹。 指 孔の配列は、 背面 孔に 関しては中国、 韓国 の墳同様 構は 2 孔 並んでいるが、 前面にはあ る程度左右対照的に 4 孔空 けられている。 全ての 指 孔を必ず操作するという 前提において、 弥生の土 笛 はどのような 構え方が自然かと いう考え方からすれば、 背面の 2 孔は両親指で 操作したと考えても、 まず間違いないだろう。 しかし、 前面 4 孔に関しては、 大陸の連 指 にならって両手の 人差し指と中指で 操作したとは、 全ての 上笛 において言えるものではない。 弥生の土笛の 大きさは、 極端に小さいものを 除くと、 全長は約 5cm から約 12cmまであ る。 こ の 値は中国 苗 代後期の損と 大差はない。 しかし、 胸部最大径は 約 5cIa から 約 locmと中国のもの より大きくなっており、 指孔は土 笛の上半分にも 空けられている。 なかには、 吹口の近くに 背 面の 2 孔や前面の上部 2 孔が 窄 けられた例もみられる。 西岡信雄が論文の 図版に用いた 写真㈲ では、 前面の下部 2 孔を両手の中指で 操作しているよ う に見えるが、 全長Ⅰ OcnN の光岡長尾遺跡 出土品や、 それよりも大きい 下七 見 遺跡出土品では、 このような操作はまず 無理であ る。また、 それ以下の大きさのものでも、 前面の上部 2 孔が吹口付近に 窄 けられている 土笛は 、 前面の下 部 2 孔を両手の薬指で 操作するのが 自然と思われる。 この場合、 薬指を操作すると 中指もっら れて動くため、 土 笛を両手の親指と 小指で支えることとなる。 さらに、 背面の 2 孔も吹口付近に 窄 けられている 例があ る。 このような 土笛の場合に難点と なるのは、 背面 孔 、 すなむち親指を 操作すると 土 笛を安定して 保持できなくなる 点であ る。 他 の館では、 楽器の安定した 保持のために、 発音とは無関係の 指 孔が 存在する例をみかけるが、 土 笛の場合は、 安定した保持のために、 あ えて背面 孔に 親指を添えない 運指も考えられないだ ろ うか 。 また、 西岡が示唆する 上顎吹奏㈲の 場合は、 指孔が 吹口付近に空けられた 土笛 でも、 さほど大きくなければ、 こちらの方が 安定しやすいとみても 問題はないと 思われる。 しかし、 この奏法では、 安定した保持は 小指が重心まで 届くかどうかにかかっている。 こちらは筆者の 実見時に試していないため、 現時点での安易な 発言は控えたい。 6 。 楽 理からの考察 中国最古の十二律の 制定方法として 三分損益法が 挙げられる。 その内容については 口 呂氏春 秋コ季夏 記 に詳しい記述があ る。。 )。 + ニ 待 とは 12 の音に関する 音程関係のことであ り、 三分損益法ではそのて 2 音の音高を設定 する際に、 黄鐘という音を 基準にして他の 音高も設定される。 また、 三分損益法は 律管等を 3 分の 1 ずつ足したり 引いたりしながらこれらの 音高を設定するが 何、 その結果、 損益する双と 後の音律の間には 5 度の音程関係 轄が生じている。 一山4 一 したがって、 三分損益法のような 理論が急に何者かの 手によって生み 出されたとは 考えられ ない。 この理論は以前から 存在していた 音程や音階構造が 発展、 複雑化したものと 考えるのが 妥当であ ろう。 県 流瑠閣から 3 点の商 代 晩期の陶 損が 出土している。 3 点 申 1 点は他と比べて 大き く、 その法量は全長 7.3cnrL 、 胸部最大経 5.lcm であ る。 残り 2 点は全く同じ 形をしており、 全 長 4.3cm 、 胸部最大経 3.1c 巾であ る。 。 )。 これらの 陶墳を測昔 してみると、 小さい方の これは 陶 損の製造が規格化に 2 点の陶損は奏でられる 音程が一致しており、 向かっているためだと 考えられている 小さい方と大きな 方では、 常に昔の開きが 長 3 度で一定している 阿。 斌。 また、運指が同じ場合、 商 代後期には絶対背高 や 念 が存在していたと 考えられている。 これらの概念の 存在が後の楽 理 制定に必要な 条 件であ る簗のは言 う までもない。 では、 日本の弥生時代ではど う だろうか。 先述した通り、 土 笛の大きさには 一定の関係がみ られるものの、 器厚は 一定していない 幼。 中国 輝県 の 陶填 めよ う に、 発音される昔に 至るまで 1 組もないのであ る。 弥生の土 笛は 、 中国との何らかの 関係が 一定の規格で 製作された形跡は あ る可能,性を 残すものの、 中国と同一環境において 使用されたものではないことが うかがえる 簗。 少なくとも、 弥生の上笛の 場合、 楽 理 上の基準も規 の合奏に用いたとは 考えられない 遺物からも もみられないため、 楽曲 対。 おわりに 以上、 筆者なりに弥生の 土笛の分類、 変遷、 中国の 坦 との比較による 弥生の土笛の 性格にっ いて考察してみた。 その結果、 弥生の土 笛は 、 孔制 において中国との 関係があ る可能,注を 示唆 し、 その変容は実用性、 つまり吹奏機能の 低下によってもたらされたと 考えるに至った。 しか 能の低下にもかかわらず、 しばらくの間弥生の 土笛 が存在してい た理由には、 それでも 土 笛を必要とする 場が存在したからであ ろう。 その場として、 前島 対や し、 吹奏という楽器本来の 岡崎 幼、 江川⑧のように 農耕に関する 儀礼が推測される。 衝が用いられたのかもしれないが、 推論を確固とするために あ るいは、 何らかの合図のために 上 必要な事例は 見当たらない。 弥生 の 士節と中国の 坦との関係の 強さは、 今後考えねばならない 大きな課題のひとつであ る,兆さ らに、 土 笛の出土地域の 限定性、 機能低下の原因、 その後 土笛 が何にとってかわられたのかに ついても、 今後の課題と 言える。 また、 編年については 資料の増加を 待ちたい。 2 。 い わ ゆる音楽考古学に 関する問題 筆者が論文の 題材として出土楽器を 扱った理由に、 小島美子の提案が 挙げられる。 小島は昔 楽 史の研究において、 原始、 古代を扱う場合には 考古学との連携が 必要だと主張し、 近年、 音 楽考古学を提唱している㈲。 しかし、 小島の提唱以前から、 考古学、 音楽学双方において 出土 楽器の研究がなされてきたが、 小島は、 これらを日本における 音楽考古学とみなかった。 一 15 一 , )。 ところが、 現在音楽学者が 発表している 音楽考古学関係の 論文や学会での 発言内容をみても、 そこにみられる 方法論は、 出土品を検討し、 必要に応じて 音楽学や文献史学等の 解釈を用いる というものであ る。 この力法論は、 従来の考古学における 出土楽器研究と 大差がなれだけでは なく、 楽器学の分野でもすでに 行われている②。 音楽考古学が、 学際的な分野ではなく、 考古 学のなかの一分野として 音楽学を援用した 形で成立させるのならば、 この傾向は何ら 問題を呼 ぶものではない。 しかし、 音楽考古学を、 考古学と音楽学の 学際的な学問として 独自の地位を 築くという趣旨の 下で成立させるのならば、 たとえ研究者が 自らの音楽や 楽器に関する 見解を 盾 に新しい 視 ,点を提示しようと 索 しても、 考古学の力法論による 文化や なされていなければ、 楽器 学 と変わらない。 それ以前の問題として、 音楽という語をどのようにとらえるべきであ ぅ 概念のなかに 音楽の概俳を 内包することはできても、 に 慎むべきだと 考える。 伝承 記 がない状況において、 ろうか。 筆者は昔とい その逆の行為は 誤 が 生じやすいため どのような音やその 連続が現在の 音楽 という語や概念に 相当するのかを 確認する術は 我々にはない。 よって、 音楽考古学 睡usiC archaeol0幼俺 という名の下では、 研究の姿勢は 出土品から当時の 音楽を探るというものになり かねな い ため、 全ての出土楽器を 短絡的に昔 と 結びつけるという 過ちを犯やすいのではない だろうか。 筆者は、 出土楽器から、 当時の音楽ではなく、 むしろその文化のなかに 存在したと 考えられる昔についてまず 考察すべきであ ると考え、 自警の意味も 込めて、 s㎝ ndarchaeology 、 もしくは文化研究の 一環としての ar 蕊 aeologica sound s抽dy と称せる概念を 求めるべきだと 提 王 唱したい。 末筆ではあ りますが、 本稿は深田 治民地島根県立埋蔵 文化財センタ 一の皆様、 佐伯純也氏地米子市 教育文化事業団埋蔵 文化財調査室の 皆様、 天理大学附属天理参考館の 山内紀綱 氏 、 小田水治 太郎氏、 杉 野友香氏 、 天理大学の近江昌司先生、 中 純子先生、 大阪芸術大学大学院の 松田 明先生、 馬淵 卯 三郎 先生、 九州芸術工科大学の 刮 @l 茂 先生、 同大学学生の 畠中昔日氏からの 御指導、 御協力なしでは 脱稿 することはできませんでした。 また、 國 串焼大軍大学院生の 近藤直美氏からは 数々の情報を 頂ぎました。 写真掲載に関しては 天理大学 (天理大学附属天理参考 館 副館長兼任 ) の近江昌司先生から 許可を頂くこ とができました。 皆様方に記して 感謝致します。 ひがしやま 1) よしかず ( 大阪芸術大学大学院生 ) 音楽学では楽器の 他に昔具 、 鳴器 といった名称を 用いる場合があ る。 しかし、 現在筆者はそれらの 名称 を 使い分ける際の 基準を持っていないため、 本稿ではすべて 楽器と称する。 2) を 使い分ける際の 大阪音楽大学附属楽器博物館にハワイの 基準を持っていないため、 イリイリ 本稿ではすべて が展示されており、 楽器と称する。 大阪音楽大学附属楽器博物館『大 阪音楽大学附属楽器博物館目録四大阪音楽大学 1984 によると、 イリ イリ はフラダンスの 場で片手に 2 個 - If 一 すっ持ち、 指の間にはさんで 打ち合わせるようにして 使うものだという。 また、 ホルンポステル 法における楽器分類のうちのひとつであ 楽器とはザックス・ り、 楽器に張られた 弦や膜ではなく、 楽器の体部 そのものを振動させて 発音する楽器であ る。 なお、 ザックス・ホルンポステル 法に関する詳しい C. ザックス 3) 4) 柿木吾郎 訳 申楽器の歴史山下 用語法 全音楽譜出版社 岡崎賢明「古代人の 楽器と歌舞」 ( r 考古学における 日本 田辺 尚麗日日本音楽の 研究山兎文社 史刀 説明は、 1966 を参照されたい。 1998) 12 雄山 閣 1925 なお、 田辺尚雄 宇笛一その芸術と科学田わんや 書房 1947 の記述があ るが、 図版はみられない。 田辺はこれらの 墳には前面の 指孔の数が 3 孔のものと 5 孔 のものがあ ると述べているが、 筆者の知るところでは、 前面 5 孔の孔制を持っ 中国古代の墳の 存在は確認 されていない。 5) 田辺尚雄 6) 国分直一「 陶墳の発見」 (金閣丈夫博士古稀記俳委員会 7) 国分直一 め 同じくザックス。 ホルンポステル 法における楽器分類のうちのひとつで、 註 4 に同じ。 は 日本民族と南島文化 平凡社 1967) 山 話 6 に同じ。 楽器に送り込まれる 気体 (例 えば息 ) がもたらす振動によって 発音する楽器であ る。 9) 松岡敏行「下関市綾羅水郷遺跡出土 陶填の復原と実験」 ( F 考古学ジャーナル 10) 松岡敏行 註9 2 38 1969) に同じ。 Ⅱ ) 澤 龍雄「陶墳について」 (峰山町教育委員会 は 途中 ケ丘遺跡発掘調査報告書 由 1977) 12) 騨 龍雄 註 Ⅱに同じ。 13) 前島 巳基 「弥生時代の鳴物二題 14) ぴ えりす企画集団 ァ 一十笛 と石 銅鐸舌の新資料」 ( f 季刊文化財 2 35 弥生の土 笛ょ 赤間関書房 1979) 1980 15) 国分直一「呪術的造形および 複葬の形態」第 3 章陶損 とその変容 n 下関市教育委員会ぽ 綾羅水郷遺跡 発 報告書山薬 1 集 1981) 16) 氾 @@ 子「弥生の土 笛 ( P古代文化研究 」 17) 江川幸子 註 16 に同じ。 18) 江川幸子 註 16 に同じ。 め) 誌 15 に同じ。 国分直一 5 山 1997) 20) 国分直一「弥生 陶墳 ( ぴ えりす企画集団 r弥生の土留山赤間関書房 」 1980) にみられるように、 かつ て静岡県浜松市 伊場遺跡出土土製品も 土 笛 と考えられた。 しかし、 伊場遺跡出土土製品は 弥生時代後期の ものであ り、 浜松市博物館 1r伊場遺跡遺物編 田 7 (伊場遺跡発掘調査報告書第 9 冊) 浜松市教育委員会 1997 等にみられるように、 近年になって 士節であ ることが疑問視されている。 そのため、 本稿では 伊場遺 跡 出土土製品を 分析の対象から 外している。 また、 この 58 点には、 1998 年 12 月 5 日における未発表 資 料は含まれていない。 21) 九州芸術工科大学吉川 茂氏の 御教示による。 なお、 吉川氏の 御教示を得るにあ たって、 同大学学生畠 中腎同氏の御協力を 頂いた。 記して感謝します。 22) 註 21 に同じく、 吉川 茂氏の御教示による。 23) 江川幸子 註 16 に同じ。 24) 前島 巳基 註 13 に同じ。 2 分 江川幸子 註 16 に同じ。 なお、 江川が用いた 土器編年は乗安和二姉「山口県の 前期土器」 ( 山口県考古 一 7 一 Ⅰ 学 談話会百 回記念実行委員会田西部瀬戸内の 弥生文化 996) による編年 (試案) であ る。本稿もそ ょ に準じる。 26) 江川幸子 註 16 に同じ。 27) 縄 言主 28) 国分直一 話 6 に同じ。 Ⅱに同じ。 29) 詳糸田は岡正雄 他著 F 日本民族の起源 山 平凡社 1958 にゆだれ 30) 国分直一 誌 6 、 並びに「弥生 陶墳 (ぴ えりす企画集団 び 」 31) 国分直一 。 弥生の土苗よ 赤間関書房 1980) 話 30 に同じ。 32) 李 純一 中国上古出土楽器総論 ] 第 5 車 文物出版社 1996 は 33) 国分直一 る 誌 6 に同じ。 34) C. ザックス 柿木吾郎訳了楽器の 35) 国分直一 話 6 に同じ。 36) 江川幸子 註 16 に同じ。 37) 江川幸子 註 16 に同じ。 38) 長崎県教育委員会 は 奥山上 第 8 章 全音楽譜出版社 1965 原の辻遺跡山下巻 (原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 9 集 ) 1998 直美「日本の 陶填一 最新出土状況に 基づく報告 一 (第鱗 同日本音楽学会関東支部・ 東洋音楽学 」 会合同例会における 発表) 1999 40) C. ザックス 柿木吾郎訳 4n 註 34 に同じ。 天理大学中純子氏の 御教示による。 ただし、 西岡信雄は「損の 器形と奏法Ⅱ は 音楽研究 第 2 巻 1984) 山 において、 「孔子の時代には 日本の弥生時代の 墳と同種の前面 4 後面 2 孔 形式の墳が完成している」とあ るが、 何を根拠としているのかは 明記されていない。 また、 中氏の教示の 反例として、 西岡は p 宋史田 巻 は9 を基に宋代に 損が存在したと 論じているが (西岡 19双 )、 筆者は宋代の 損の好例を知らない。 さらに、 田辺尚雄は 1923 年に北京の孔子廟を 訪れた際に、 清代の填を実見している。 42) 張師勒ロ 韓国楽器大観山韓国国楽学会 1969 43) 筆者は、 弥生時代と並行すると 考えられる戦国、 秦、 前漢期の填の 出土品、 伝世品の存在は、 発見きれ たという情報も 含めて確認していない。 同様に韓国の 墳に関しても、 前面 4 孔 、 背面 2 孔の損の出土品、 ・ 伝 世 品の存在を知らない。 そうすると、 弥生の土 笛 が大陸との関係を 有しているならば、 なぜ前面に 4 孔 窄 けられているのかという 問題が生じるのだが、 ここでは、 土笛の運 指のみを考える。 44) 西岡信雄「損の 器形と奏法」 ( 音楽研究 第 2 巻 19双 ) ぽ 45) 西岡信雄 山 註 偶に同じ。 46) 時代をさらにさかの ぼ ると、 中国春秋戦国時代の 考古遺物であ する記述がみられる。 詳しくは 舘之梅譚維四 「 る 曽候乙墓 出土 鐘 (縛鍾) の銘文に 、 曽候乙墓 発掘の主な成果」、 平勢隆郎「曽候乙 鐘の歴史的意義」 ( ともに F 特別展曽候乙墓山 日本経済新聞社 1992)を参照されたい。 なお、 三分損益 法は、 結果的にはピタゴラス 音律と同じであ り、 平均律ではない。 47) 平努隆郎「曽候ろ 史的意義」 ( r特別展 曽候乙墓 日日本経済新聞社 1992) 4 ㊧ 簡単に言えば、 ドとソの間の音の開きに 相当する。 49) 中国科学院考古研究所ぴ 揮魑 発掘報告 50) 李 純一「原始時代相苗代的 陶 」 由 (中国田野考古報告書 第 1 号 ) 科学出版社 ( f 考古学報 一 ョ lR 第 1 期 の 64) 一 1956 話 32 に同じ。 ちなみに良三度とは、 簡単に言えば、 ドとミの間の音の開きに 相当する。 団 ) 李 純一 52) 李 純一 話 5n に同じ。 53) 西岡信雄「墳の 器形と奏法」 ( F 音楽研究 刀 1984Uによると、 墳をへルツ ホルム共鳴器とみなし 第 2巻 た場合、 同じ 指孔径でも諸屋 が 異なると背高も 異なるという。 器 厚は音色や音程を 左右する重要な 要素の ひとっであ るが、 詳しい考察はここでは 行わず、 今後の課題とする。 54) かって、 百字 晃は 「原始,古代楽器の 考古学的 一 研究」( P 長野県考古学会 ;志ょ 37 弥生時代に「 琴 」、 「 198(W)において、 墳」、 「銅鐸のセット」 (天子の銅鐸のことであ ろう ) のように複数 % 高が発音できる 可能性のあ る楽器が存在していたことにより、 「楽器の中に確実に旋律が 取り入れられていた」と いる。 しかし、 筆者は土笛の 出土地域をひとまとめにしてみた 限り、 本文中で論じたことを 論じて 理由に、 弥生 0)土笛には音楽上の 共通した基準となる 理論が存在した 形跡はないとみる。 紡) しかし、 単に昔さえ出れば 良いのなら、 和声 (協和音) を求める必要はなく、 複数人で吹き 鳴らした 可 能 性もある。 56) 前島 巳墓 誌Ⅰ3 に同じ。 57) 岡崎 晋明 「縄文・弥生時代の 音」 (末永先生米寿記俳会ぽ 末永先生米寿記俳献呈論文集円転 奈良明新 社 t98 式 58) 江川幸子 註 16 に同じ。 59) これまでは、 澤が論じたように、 土 笛は墓地的な。性格を帯びた 史 民俗資料館山 99 特別展 開拓者の眠るところ と 場所から出土していなかった。 しかし、 速報 ! 堀部第 1 遺跡木棺 、 島根県八束郡鹿島町に 位置する堀部 第 i 遺跡では、 墓墳に非常に近接した 地点から上衝 が 1 点出土し た。 中国では、 商代の墓から 墳が出土する 例がみられるため、 土笛が墓地から出土したという 点からも、 土笛 と中国との関係を 再考察する必要があ ろう。 里民俗博物館ぽ 日本楽器の源流 一 コト・フエ。 ツツミ・銅鐸一山第一書房 1995 61) 1996 年 1 月 10 日、 大阪府立文化情報センタ 一において開催された 小島美子氏の 講演による。 62) C. ザックス 柿木吾郎訳 註 34 に同じ。 63) 英語の名称は 柘植元一丁世界音楽への 招待 民族音楽学人門 音楽之友社 2 1991 による。 その他参考文献 内田律雅「 陶墳 (土笛) の分布」 (森 浩一 / 佐原 真監修 1「考古学の世界0 4 中国・四国 きようせい 1993) 大村 平 T 統計解析のはなし・データに 語らせるテクニック 山口科技連出版社 郡司すみ「楽器入「 ョ 」 ( ラテンアメリカの 音楽と楽器編集委員会 学博物館創設㏄ 周年記念企画展図録 孫 女雛 田畑佐和子訳日中国の 音楽世界 田辺尚雄日中国・ 朝鮮音楽調査紀行 中国音楽文物体系総編輯部 は 5 デ 1980 ラテンアメリカの 音楽と楽器山国立民族 199 式 山 (岩波新書 i15) 岩波書店 (東洋音楽選書 11) 音楽之友社 中国音楽文物体系 1970 上海,江蘇巻 大家出版社 & 内藤戊申「漢代の 音楽と音楽理論」 ( F東方学報 1990 由 第 46 冊 197% 一 19 一 1996 図 表出典一覧 。 表 1∼ 2 筆者作成 なお、 本稿における 分類対象外の 土笛は以下の 点数を記す。 t) 、 大門遺跡 ( 山口県豊浦郡豊浦町 1) 、 山 / 口 f) 、 下七見遺跡 ( 山口県豊浦郡菊川町 2) 、 西川津遺跡 (島根県松 綾羅水郷遺跡 (山口県下関市 遺跡 ( 山口県豊浦郡菊川町 江市 12)、 タテチョウ遺跡 (島根県松江市 取県米子市 跡から出土している。 () 内に遺跡所在地と 出よ- 5) 、 長沙遺跡 (鳥取県米子市 1) 、 川原遺跡 (兵庫県豊岡市 図 t∼2 筆者作成 図3∼5 以下の論文、 報告書の実測図をトレース ・光岡長尾遺跡出土品 2) 、 池ノ内遺跡 (鳥 1K、 竹野遺跡 (京都府竹野郡弛後町 1) 報告書未刊行のため、 江川幸子「弥生の 土笛 」㏄古代文化研究 山 1997) 5 よりトレース ・綾羅水郷遺跡出土品 下関市教育委員会 [ 綾羅水郷遺跡発掘調査報告書司 第 1 集 1981 ・下士見 遺跡出土品 山口県埋蔵 文化財センタ 一丁丁亡児遺跡 口 西川津遺跡出土品 ・ ・ タテ チョウ遺跡出土品 (No.15) タテ チョウ遺跡出土品 (N0.19. 22 、 23、 25、 26) 目 久美遺跡出土品 1 樹 l@ 教育委員会 島根県教育委員会田西川津遺跡発掘調査報告書 ょ V Ⅰ 米子市教育委員会口目久美遺跡 1989 989 島根県教育委員会下タテチョウ 遺跡発掘調査報告書 由 1 Ⅰ 980 島根県教育委員会下タテチョウ 遺跡発掘調査報 吉書 山 Ⅲ ・ 刀 1990 5 1986 (筆者の観察結果をまじえた 上で、 一 部加筆) 峰山町教育委員会ぽ 途中 ケ丘 遺跡発掘調査報告書 9 1977 ・扇谷遺跡出土品、 途中 ケ丘遺跡出土品 図6 以下の報告書、 著書の掲載図面をトレース 1 型 段嘘小名画地墓奔出土陶損は中国社会科学院考古研究所 0 段嘘 発掘報告田文物出版 版社 1987 りトレース。 万葉 荊村瓦酒斜 出土 陶境は 李 純一 r 中国上古出土楽器総論 1996 ・ ょ よ 第 15 章 文物出版社 よりトレース nI型 李 純一日中国上古出土楽器総論士 第 竹葦 ・円型 西安 平披博物館等編著下妻寒山 文物出版社 1996 よりトレース。 1988 よりトレース。 文物出版社 Ⅳ堅 二里岡遺跡出土 陶 填は河南省文化周文物工作 隊第一 隊 「鄭州苗代遺跡的発掘」㏄ 考古学報 期 1957) よりトレース。 二里頭遺跡出土 陶墳は李 純一宇中国上古出土楽器総論 初出版社 1996 よりトレース。 V 型 李 純一 F 中国上古出土楽器総論 山 第 15 章 文物出版社 図7 季純一 [ 中国上古出土楽器総論 山第 5 車 文物出版社 図8 長崎県教育委員会 W 原の辻遺跡山下巻 図9 筆者撮影 1996 よりトレース 1996 を基に筆者作成 1998 の実測図をトレース 一 20 一 ょ 山 第1 第 5 章 文 分 一覧 象賢 吹 口径 型式 口 0. 4 ∼ 0, 5 。 出土遺跡 名 。 凡例 1 光岡長尾 (福岡県宗像市 ) 復元値または 推定値 2 ∼7 綾羅水郷 (山口県下関市 ) 欠損のため不明 8 下セ見 (山口県豊浦郡 背面化不明 西川津 (島根県松江市 ) 背面 孔欠損 背面孔の痕跡が 認められるもの 9 ∼ 14 背面孔の痕跡が 認められないもの lf ∼ 27 タテ チョク (島根県松江市 ) 28 目久美 (鳥取県米子市 ) 29 扇谷 (京都府中郡峰山町 ) 30 途中 ケ丘 (京都府中郡峰山町 ) 。 --jE 舌 各法量の単位は c皿 径は全て直径 詳細 は 報告書によるが、 No.17 ∼28 は筆者の No.1, は 、 江川幸子「弥生の 土笛 」掲載の図による 報告書に記載のない 数値は、 報告書に掲載された 実測図から筆者が 測定した 吹 口径は、 F 綾羅本郷遺跡発掘調査報告 蕃団第 1 集にならって 、 最も幅の狭い 部分に統一した - 2l 一 表 科特記事項 2 備考 (報告書上の呼称,番号等も 含む ) 報告書未刊行 綾羅 木 1 号 綾羅 木 1 戎兵 伴 焼成良好 綾羅 木 2 号 綾羅 木 1 戎兵 伴 綾羅 木 3 号 綾羅 木 4 号 綾羅 木 5 号 綾羅 木 11式 典伴 綾羅 木 6 号 綾羅 木 11戎兵 伴 綾羅 木 111式 畔田 へラ描 洗練 紋 No, 1 No, 2 N0 。 4 洗練 紋 No. Ⅱ 洗練 紋 調整 O。 illi 表面剥離 器面 研磨 2 3 4 ハケ 5 ハケ 6 7 へ うミガキ へう 3 ガキ 8 9 々ヂ 10 々 ヂ Ⅱへ うミガキ 2 へ うミガキ No 。 13 3 々ヂ No. 16 4 々デ 蝸 表面へ うミ ガキ 内面 ナデ 報告書 INo, 1 16 表面へ うミ ガキ 内面 ナデ 報告書 INo,2 報告書 1IICL i 全体的にいびっ 雑 17 々 ヂ 報告書 1IICL 2 18 々 デ 報告書 1IICL 3 ミニチュア 19 ナデ 報告書 1IICL4 ミニチュア 20 ナデ 報告書 1IICL7 残存乱数 1 21 ナデ 22 々 ヂや へ うミガキ n 丁寧 ) 報告書 1IICL8 非貫通孔は痕跡器官か 報告書 1IICLl0 焼成良好 23 へ う 3 ガ キ 24 ナヂや へ うミガキ ( 丁寧 ) 報告書 1I CLll 25 々 デや へ うミガキ n 丁寧 ) 報告書 1IICLl2 突帯紋 円形のへ ラ描沈線紋 26 風化のため不明 報告書 1IICLl5 吹 口直立 削り出し突 帯紋 27 ナデ 報告書Ⅳ 28 風化のため不明 焼成 軟 (バインダ一処理 済 ) Ⅰ Ⅰ Ⅰ Ⅰ @ 129 301 日付近が平ら 指 孔 小さい 第 1 様式新段階 共伴 第 1 様式新段階 共伴 l次口がやや前面より 分類対象資料に 関する報告書 ・光岡長尾遺跡出土品 報告書未刊行 ・綾羅水郷遺跡出土品 下関市教育委員会 F 綾羅水郷遺跡発掘調査報告書 山第 1 集 198i 下 セ児遺跡出土品 山口県埋蔵 文化財センター F 丁 石見遺跡 山 Ⅰ 菊川町教育委員会 西川津遺跡出土品 島根県教育委員会 [ 西川津遺跡発掘調査報告書 & V タテチョウ遺跡出土品 (No.t5 、 16) 島根県教育委員会田タテチョウ 遺跡発掘調査報告書 タテチョウ遺跡出土品 1989 1 山 (N0. 7 ∼ 26) エ 1990 島根県教育委員会 T タテ チョウ遺跡発掘調査報告書山田 タテチョウ遺跡出土品 1980 (No.27) 島根県教育委員会アタ テ チョウ遺跡発掘調査報告書目 IV 1992 目久美遺跡出土品 米子市教育委員会 F 目 久美遺跡』 1986 扇谷遺跡出土品、 途中 ケ丘 遺跡出土品 峰山町教育委員会下途中 ケ丘 遺跡発掘調査報告書 一 山 W. 19町 一 i989
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