JNK000401

天理大学人権問題研究室紀要
第 4 号 : 1 一 21,
2001
英語 (外国語 ) 教育は人権 教育となり得るか
一一現在の英語教育をめぐる 混沌 と
-
英語教育を通じた 人権 教育の可能性一
中井英民
NAKAI
はじめに
結論から申し 上げる。 「英語 (外国語 ) 教
Hidetami
じく ZQQW 年から実施される 小学校新学習指導
要領により,事実的に 小学校からの 英語教育
も可能になった。 「国際語としての 英語の連
育は人権 教育となり得るか」という 問に対す
用能力を身につけよう」という 掛け声は ,学
る筆者の答は ,まことに心もとない " 筆者の
校だけではなく 社会全般に蔓 延 し ,英語を社
答は「そうあ って欲しい」という ,希望とも
内での「第二公用語」とする 企業さえ現れ ,
祈願とも取れるものであ る。 これまで筆者は
「英語ができれば 国際人」と英会話学校のコ
長らく学校現場での 同和教育に携わり ,同和
マーシャルは 調い,英検,
TOE I C 等の資
格 テストは活況を 呈し,英語産業は花盛りで
あ る。 英語, 英語,英語,であ
る。 英語教育
教育が人権 教育へと変貌をとげる 過程ととも
に人権教育の広がりを 目撃してきた。 すべて
の教育領域における 人権教育の可能性を 信じ,
は「国際理解教育」でもあ る。現在 5 千人を
英語教育を通じた 人権 教育を模索する 実践に
越える英語圏から 招牌された青年たちが AL
も
参加してきた。 しかし現在,教育,特に英
T
W外国語補助教員 ) として日本全国の 学校
語教育をめぐる 混沌が日本を 覆 う 状況を目の
に配置され,生徒達は 彼らとともに 英語を用
当たりにして ,「英語 (外国語) 教育は人権
教育となり得るか」に 対する答が,これまで
いた「国際理解学習」に 励んでいる。 長らく
日本の英語教育界では ,異文化理解教育を 中
にも増して揺らぎ 始めている。
心とする,英語教育を 通じた「広い 意味での
英語,英語,英語,世をあ
げて英語であ る。 人権 教育」のあ り方が模索され ,多くの実践
現行の英語・
%, 学習指導要領は ,英語教育の目
が積み重ねられてきた。 社会における 英語数
標 として「コミュニケーション 能力の育成」
育の改善を希求する 動きと相まって ,一見英
を掲げ,それは 2002 年度から施行される 新学
語を通じた異文化現,解 教育も進展するかに 見
習指導要領により「実践的コミュニケーショ
える。 しかし,ことはそれほどバラ 色ではな
ン能力の育成」へと 強化される。 さらには 同
い。 良識あ
る人々には明らかなように ,上記
Program{f;eneral・ducation , Tenriゞniversity
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
の状況には様々な 議論がない交ぜになり
,限
権 教育課」と改められるという。
この - 見唐
りない危うさが 息づいている。 何のための英
突に見える移行の 背景には,国際的,国内的
語 (外国語 ) 教育か,英語教育は 国際的であ
な人権 教育めぐる状況の
るのか 反 国際的であ
一に, 21 世紀を目前にした 世界の中で,「人
るのか,はたまた 我が国
の英語 (外国語 ) 教育はどこへ 行こうとして
いるのか。 英語教育はまさに 一つの巨大な 矛
盾として存在している。
本稿の目的は , 多く
の人々 (英語教育に関わる 多くの教員まで
も ) が 気づいていない
(気づこうとしない )
権 教育のための
変化があ
る。 まず第
国連Ⅰ0 年」制定に代表される
「人権と共生」に向かっての 国際的な潮流が
あ った。 つまり,
これは各国で 個々ばらばら
に実践されてきた 人権 教育が,より 国際的,
普遍的なものとなることが 求められているこ
第二に,同和教育の 中心
矛盾の糸を解きほぐし ,英語教育にまつわる
とを意味していた。
議論を整理し 提示することにあ る。 そしてそ
的課題であ
の上で,「人権 教育」と「英語教育」の 接点
差別と被差別部落の 実態が変化してきたこと
を考えてみたい。 それは,「英語 (外国語)
と,部落差別解消を 目的とする国の 事業が実
教育は人権
教育となり得る」という 希望的で
った部落差別解消に 関わり,部落
質的に終焉を 迎えようとしていた 事実があ る。
肯定的な答を 探る,絶望的な作業になるかも
政府の諮問機関であ る地域改善対策協議会も
しれない。
1996 年度総括として ,実態的差別 (部落内外
英語教育を通じた 人権教育とは
「英語教育を通じた人権 教育」を語る 前に,
の格差) は一定解消されたと 報告し, また同
和対策事業特別措置法を 引き継いだ「地域改
善対策特定事業にかかる 国の税制上の 特別措
まずは現在の 日本における 人権 教育を概観す
置に関する法律」 (他村財特法 )
る必要があ るだろう。 でなければ,人権教育
もってほ ほ実質的に終了しようとしている。
という 暖 味な概念のせ い で,英語教育が人権
第三に,戦後50 年の歴史を持つ 同和教育運動
教育とど う関 わるのかすら 理解されないかも
の視座が,部落問題だけでなくあ
しれないからであ る。 現在はまさに ,
る
日本の
も
2001 年を
りとあ らゆ
人権 に関わる問題に 向けての広がりを 持ち,
学校教育において「同和教育」が「人権 教育」
同和教育の中身が 膨らみすぎ整理を 必要とし
へと移行される 最終段階にあ たる。 この移行
ほついて詳しくは ,昨年度の本紀要に 掲載さ
始めていた実態があ った。 第四には,「いじ
め」,「不登校」などの学校教育の諸問題が 明
れた拙稿を参照して 欲しいが,以下に 要点の
らかになることにより ,「ゆとり教育」,「新
み述べる。
しい学力観」,「生きる力 」に代表される 中教
奈良県においても「民主教育の
置づけられてきた「同和教育」は
中核」と位
審 による教育路線の 変更が提起され ,広い意
過去-l年間
味で 「生き方」に関わる人権 教育が担うべき
にわたり変革の 風を受け続け ,文部省を代表
役割が,教育全体の課題として大きく 広がっ
とする国家行政での 名称も 1996年より「人権
たことが挙げられる。 これらの背景とともに
教育」に変更され
我が国の「同和教育」が「人権 教育」へと変
,この旨が全国の学校, 地
万行政の各機関へと 通達された。 奈良県でも,
貌をとげる 申 ,その教育内容も ,各国の人権
長年行政により 用いられてきた「同和教育
教育の手法に
課」という名「も,最終的に 200V 年 4 月より「人
的なものとなり ,その扱う事項も
学びながら,より 国際的,普遍
直接・間接
2
中引
に人権に関わるあ りとあ らゆる事柄に 拡大し
る
ている。 ここでの大きな 命題は「様々に 異な
いる。1960 年代より学習指導要領において「国
る
多様な人々との 共生」であ り,その意味で
」という側面もいっそう 重要視されてきて
際理解」が覚国語教育の 目標に掲げられて 以
は多 文化の理解や 多文化の人々との 共生が,
来,「国際理解」が 英語
これまで以上にその 視野に入ってきたことは
題となり, 198(W
年代以降は「コミュニケー、 ン
当然であ
(外国語 ) 教育の命
コ ン能力の育成」が 英語教育のキーワードと
る。
語運用能力の 習得という実務的な 目的のほか
して登場する。 また中教審による「新しい 学
力観」の提唱を 受け,英語教育にも 英語を使
に,英語教育で扱われる内容を 通じて,すな
ぅ
わちテキストに 取り上げられる 様々な教材に
ミュニケーションできる 方 」,「自ら考え問題
学ぶことで,広く
を解決する 力 」を育成する 視点が盛り込まれ
日本における 英語教育には ,
もともと,英
「教養」を培 う という目的
ことに よ り「自分の意見を 述べ,他者とコ
も含んできた。 ここでの「教養」の 中身も時
た。 ちなみに,「コミュニケーション 能力」
代とともに変化し ,「国際化社会」の 到来と
とは,英語教育に 関わら ヂ現在の人権 教育全
ともにその視野を 広め,現在では世界の様々
般を貫くキーワードにもなっている。
な民族,文化に 対する理解 (国際理解 ) や興
英語は
「世界共通語」とされ ,異文化理解は英語を
文化の人々とどのように 共生するかに 関わる
使うことによってなされるという
課題 (孝文化共生 ), さらには広く「人権 教
ろん,英語を使わなければ 国際理解はできな
育」に関わる教材内容を通じての「人間教育」
いのか, という問題もあ るが ) が広まりつつ
としての使命をも 現在では包含している。 中
あ る。 さらに現在,インターネットに 代表さ
れる国際的通信技術の 進展とともに 世界はま
学・高校の検定教科書を 見ても,現在教材に
;ゑ ;哉 ( もち
現れる国家・ 地域は英米に 限らず,西欧,ア すます身近になり ,在留外国人が160万人,
ジア, ァブ ヵ ,中近東,中南米諸国に広が
外国人訪問者が 年間400 万人を越えるという
リ
り,また教材内容も「異文化理解」,「民族差
事実が示すように ,人的交流も 極めて盛んに
別問題」,「先住民族問題」,「環境問題」,「障
なっている。 英語が世界 0) リンガフランカで
害者問題」等が 多く取り上げられている。 英
語教育で扱われる 教材内容を通じて「教養」
あ るとの認識はもはやグローバル・スタンダ
ードとなり (この認識の是非についても 後に
を酒 養する,つまり 生き方に関わる「人間教
議論するが ), 英語を用いることを 通じて異
育」を進めようという 見方が我が国の 英語教
文 ヒ理解学習を進めようという 気運はさらに
育には存在してきた。 そしてこのことは ,英
高まっている。 これは 中 ・高の英語教育にの
語教育は広い 意味での人権 教育を進める 潜在
み当てはまるものではなく , 2002 年より始ま
性を内包していることを 意味し,その可能性
る小学校での「総合的な 学習の時間」の 登場
はさらに広がり
により,「国際理解学習」開始の 低年齢化が
つ っあ るといえる。
英語教育が,その扱う教材内容を 通じて人
権 教育となり得るという 可能性のほかには ,
近年では,英語をコミュニケーションの
道具-
捉え,「英語を 用いることにより 多 文化の
人々との円滑な 交流を促進し 多 文化を理僻す
と
ィ
図られようとしている。
笑語教育を通じた「人権 教育」の可能性に
ついては,「総合的な 学習の時間」の 導入,
特にその小学校への 導入が果たすであ ろう役
割が期待されている。
しかし「総合的な 学習
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
の時間」導入の 趣旨,解釈,運用方法,条件 語教員の「狭い 意味での教育目的」は ,いう
までもなく目標言語の「実用的運用能力」を
整備等については ,導入する側 ,現場教員の
両者に議論の 混乱が見られ ,意図的,懇意的 育成することであ
る。 しかし外国語教員の
中
であ るかは別にして , とりわけ「国際理解」
でも,特に小,
中
に名を借りた ,単なる「英語教育の 前倒し」
を置く者たちの 多くが,「広い 意味での教育
が行われようとしている。 たとえそれが 既成
のあ り方」に関わる 限り,外国語教育が「人
事実となろちとも ,我々はこの問題の本質か
間教育」において 果たす役割をも 重視し,
ら眼を離さず ,その可能性と 限界を絶えず 認
れら異なった 二つの目的の 接点を探る努力を
識 し続ける必要があ るだろう。 でなければ,
してきたことは 必然であ った。 しかしこの作
「総合的な学習の 時間」導入の 当初の理想的
業は , 時には自己矛盾をも 苧 んだ苦痛を伴う
・
高
・
大 という公教育に 身
こ
な目的は忘れられ ,結果としては「実利的な
ことも事実であ
目的実現のための 情報操作」に 操られてしま
どちらかの議論に 組みしてしまう 姿勢は,「広
うことになるかもしれない。
く教育のあ り方を考える」立場とは 無縁であ
「総合的な学習
る。 従って,
何の悩みもなく
稿の大きなな 柱であ り,以下にその 分析を試
両者の接点を 探っているか
どうかが,以下に 取り上げる様々な 議論を検
みることとする。
証する上での 指針となると ,筆者は信じてい
の時間」をめぐる 混乱を解きほぐすことは 本
2
2-
Ⅰ
英語教育をめぐる 混沌
る。 悩みながらも
る 。
明治期以来, 日本での外国語教育は 芙 語を
英語教育論争 - 「実用英語」か 「教養
中心に進んできたといってもいいだろう。
英語」か
して「教養としての 教育」が深化するにつれ
もともと歴史的に ,「何のために外国語 (学
習 ) が必要か」については ,
異 民族との交易,
そ
て,英語教育の目的をめぐる 対立は顕著にな
ってくる。 「英語支配」に 警鐘を鳴らす 津田
ょ れば,「実用英語」 か 「教養英語」
知識・技術の 吸収, 異 民族による征服とそれ
幸男氏に
への服従といった ,経済的・政治的要因と 強
かという議論が 初めて社会的に 関心を集めた
く結びついてたことは ,今更説明を要しない。
出来事は, 197(@
年代半ばに起こった「英語教
つまり外国語の 習得は,それを用いた交流を
育大論争」であ ったという。 これは簡単に 言
通じて「使用される」ことに
目的があ った。
えば,「実用的英語運用能力を 保障しない英
そしてこの側面は ,現在国際社会における「芙
語 が一人勝ちしている」という 言語使用状況
語教育」を批判した 衆院議員の平泉渉 氏と ,
を
通じて,世界の人々の間でより 強固なもの
となってきている。 かたや外国語学習が「 教
者の渡辺昇
養を培い,人間教育を 推進する」との 認識は,
ぼした影響は 大きかった。
「教養としての英語教育」に 執着した言語学
-
氏との間で交わされた
議論であ
った。 津田氏によれば ,この議論が社会に及
近代国家の成立と 教育制度の充実を 待たねば
ならなかった。 つまり後者の 認識が確立する
平泉渉氏は実用英語論者として
のは,社会に余裕ができ,教育を
の英語教育を 唱えたのに対し ,渡辺昇一氏
通じて「よ
,少数精鋭
り良い自己の 実現,より良い社会の具現」が
は , 頭を鍛えるには 教養英語は必要で ,実
求め初められてからのことに 過ぎない。 外国
用英語はクラブ 活動としてやるべきだと
反
中井
諭 した。 この論争ははっきりとした
決着は
と
つかなかったが ,論争自体が果たした役割
は大きかった。 というのは,そのときまで
は,英会話学校,ES S の活動,テレビ ,
ラジオの英会話講座は ,いわば,「サブカ
ルチャー」的な 認識が強かったが ,衆院議
員の「実用英語」宣言によって
,オモテの
言えるだろう。
1990 年代半ばから ,現在の英語教育のあ
り
方に疑問を呈する 意見が,政財界・マスコミ
から相次いで 出され始める。 これは,進みゆ
「国際化」と「 I T 社会」の到来から 見れ
く
ば,今後ますます 必要となる英語連用能力の
育成に,我が国の英語教育が 適切に対応でき
世界に出ることになり ,正当な市民権を得
ていないことへの 批判であ
たわけであ る。 物事は正当性を 帯びると,
途端に社会的な ガ を持っようになる。 これ
から必要となるのは 情報処理能力と 英語力 と
いう二つのリテラシ 一であ る」,「英語は
最早
が実用英語が 強迫観念となる 所以であ
グローバル・スタンダードであ る」,「
TOE
る。
(中略 ) これがメジャ 一になり文部省も 学
る。 日く ,「これ
校の先生選も 奨励 し 始めてしまうと ,大き
FL (Test of EngIish as a 甘 oreiP
Language) の平均点国際比較を 見よ。 日本
な社会的強勢力として 働くことになるのだ。
は北朝鮮にすら 抜かれたではないか」という
「英語ぐらい話せないと…」とか「英会話
ぐらい出来ないと ,
る
ものであ った。 確かに国際競争力を 見据えた
世の中にお 、 、 ていかれ
」といった不安がつのるわけであ
(PP.16
る。
㌃ 168)
英語力 め 強化は,世界の常識になりつつあ る。
母語に誇りを 持つことでつとに 有名なあ のフ
ランスでさえ ,企業は英語教育に 奔走し,合
弁会社での第一公用語に 英語を使うところが
この論争が社会的意識を 変える契機となった
増えている。 この意識はアジア 諸国ではさら
かどうかについては 検証の余地があ るが,確
に過激であ り,英語を公用語の 一つとして持
かにこの頃 から英語教育にまつわる 社会通念
つ旧植民地は 言うにおよばず ,
日本と同じく
(幻想) が顕著になってくる。 例えば「日本
英語を覚国語として 位置づけていた 諸国でも
人は中学で 3 年間,高校で 3 年間英語を学び
ながら,簡単な 英会話すらできなぜ」,「学校
英語教育 熱 が起こっている。 アジアにおける
英語は役に立たない。 実用的な英語は 英会話
この英語教育熱を 示す象徴 ( もしくはパロデ
ィ
づ
として,中国人
"英語伝道師 " であ る
学校で学ぶものだ」等の 観念が社会に 広がっ
李陽 ( リー・ヤン ) 氏の活動があ る。 中国中
ていく。最近では新たな 強迫観念として ,「日
を席巻する彼の 教授法が伝えるメッセージは
本人はコミュニケーションがへたであ
明瞭・簡潔であ る。 会場を埋め尽くした 聴衆
る」,
「コミュニケーション 能力は英会話を 通じて
は彼の号令のもと ,歌い踊りながら 英語で絶
習得される」というものがあ るが, これらの
叫 する,「英語を 学んで金を儲けよう」と。
観念の真偽についてはまた 別の機会に論じた
このように現代社会の 英語力 養成を求める 動
い。 この論争が社会的意識変革の
きは,明らかに「市場原理」に
第一歩だと
よ
り突き動か
すると, 1990 年代半ばより 政財界・マスコミ
されている。 しかし我が国における「実用的
を 中心に巻き起こった , 新たな「実用的英語
英語教育推進」の 動きの問題点は ,それが同
能力の育成を 求める英語教育改革議論」は
時に教育改革の 一環として教育界をも 巻き込
,
社会的意識変革の 第二の転換期を 記すものだ
む形で,巧妙に展開されていることにあ る。
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
政財界の声を 受け,前首相の諮問機関であ
「
21 世紀日本の構想懇談会」は
る
2-2
「英語第二公用語論」 対 「英語帝国
主義論」
教育改革構想
「英語第二公用語論」および「英語帝国主
の柱として「実用的な 英語教育の強化」を 提
言し,中央教育審議会や 教育課程密議会は 答
義論」は,英語教育にまつわる 上記ニ つの議
中の中に , 「コミュニケーション 能力を重視
論の両極 (エクストリーム ) をなしているだ
した英語教育」,「英語教育を通じた国際理解
ろう。 我々は英語教育の 場合だけでなく ,す
教育の推進」を 盛り込み,それらは 新学習指
べての議論を 考察する時,主観的,感情的な
導要領によって 具現 されていく。 ただ教育
姿勢により,振り 手 (ペンジュラム ) を完全
界からの提言には ,「国際的経済力維持のた
に 片方の極端につけてしまうことに
め」という本音は 表面的には出てこない。
くてはならない。 現実的に我々が 社会生活を
ィヒ
かしこの巧妙な「
ィま
し
掛け」は英語教員の 多く
注意しな
営む際は,極端と 極端の間に存在する 連続伸
には意識されていないし ,たとえ意識されて
の上でどこかに 妥協点を見いだすことに
いたとしても ,「いい じゃないか,使えてこ
て, 20 度 ぃ 選択を図り活動を 維持している
その英語だ」と 無視される場合が 多い。 教員
のではないだろうか。 外国語
であ れば,学生
しても,妥協点を 探ることにより 教育活動の
(生徒) の英語運用能力育成
を図ることは 当然ではあ
る。 しかし,「市場
ぷ つ
(英語 ) 教員と
指針を見いだすしか 道がない。 しかしその作
原理」だけで 動かされる英語学習者でない 限
業の前には,議論の両極を垣間見ておくこと
り,公教育での 一般学習者が 利便性だけでモ
も必要であ る。
ティベーションを 高めたり熱心に 授業に参加
することはあ り得ない。 また完全に振り 子を
「実用英語」に 着け,「英語を 通じて学ぶ教
養」を完全に 捨て去ることができる 教員も少
ないであ ろう。
まず最初に言えることは , 両 議論とも極論
であ るがゆえに,そのような 異形としての "
扱
いしか受けていないということであ
語第二公用語論」については , ZOO0 年 2 月,
「
一方,英語教育が社会に与えてきた「負の
る " 「英
21 世紀日本の構想懇談会」が
英語を将来的
に 「第二公用語」とする 考えを示唆したこと
-
側面」を憂慮する 教員達の中には ,マイナ一
に始まる。 これについては 同会委員の
ではあ るが警鐘を打ちならす 活動を続けてい
あ る船橋洋一氏が 中心的役割を 果たしている。
る者達がかる。 そんな立場の 違う両者の対立
を極端な形で 示す例が,「英語第二公用語論」
マスコミは一斉にこれに 飛びついたが ,意見
対 「英語帝国主義論」の 論争であ
はこうゆうものをさすという ,概念がはっき
る。 もちろ
人で
を求められた 九谷オー氏により,「公用語と
んその両者は 極論であ り,良識ある外国語 (英
り規定されていない
語 ) 教員がそのどちらかに 狂信的に組みする
一ンを 決めないで野球をするようなもの」と
ことはないだろう。 ただそれらの 主張の中に
一笑に付された。 また,概ね知識人からの 反
は,極論だからといって 看過できない
応も同様に冷笑的なものであ
あ る。 極論であ るからこそ,外国語
議論も
(英語 ).
語化」などは ,
(中略) 。 ストライクゾ
り, 「英語公用
日本人のアイデンティティ 喪
教員にとって 重要な問題点を
,ステレオティ
失や国語 力 低下に繋がるだけだと 切り捨てて
ピカルに提示してくれている
場合があ るから
いる。 ただ議論を正面から 受け止めた英語教
であ る。
育関係者や言語学者の 多くは,真面目に検証
中井
でし
考定
書かい
ば 何て
例 とを
る 用度
ぃ 公な
えはし
て,う
みはょ
い 田で
いうものであ る。 そのような両者の 趣旨に共
通点を持つ鈴木氏の 苦しい選択であ ろうが,
英語教育の行方に 影響力を持つ
氏の揺れこそ
国内に英語の 話されている 地域を一つとし
が, この議論の難しさを 表している。
「第ニ公用語論」に 対する識者,言語学者
て持たない日本のような 国が,近隣諸国の
達の反論は置いても ,船橋比 が社会に与えた
言語への興味や 関心を封じるかのように ,
インパクトは 大きく,特に経済界から支持の
すすんで国民のすべてに ,
声が大きく上がった。 また大学の英語教育
日常はかかわり
関
のない英語を 課するという 発想は,最も国
儒者からも,一部,歓迎の声を聞くことがあ
際的ではなく ,偏狭な文化観と 無教養を露
る。 「英語公用語論」とは極めてナイーブ (未
呈したものとして ,国際的な軽蔑の 対象と
熟 ) な議論であ り,ここでは 検証しないが ,
なるであ ろう以前に,深く 恥 ずべきであ る。
その理念にも 実現性にも問題があ る。 しかし
(P.46)
重要なことは ,こういった議論が社会意識を
あ る偏った方向に 牽引する潜在性を 持つとい
それでも船橋 比 はひるんでいない。 その後,
氏は著書や多くの 雑誌での知識人との 対談で,
うことであ
る。 英語教育と人権
教育の接点を
探るためにも ,今後もその動向に注意してお
「英語公用語論」推進の 論陣を張る。 例えば
その著書『あ えて英語公用語論』の 中では,
く必要があ ると考える。
あ りとあ らゆるデータを 駆使して,英語が国
はさらに異形としての 扱いを受けているかも
次に「英語帝国主義論」であ るが,こちら
際語であ ること,英語が使えないことは 国際
しれない。 まず第一に,その 議論の多くが「今
的商取引や交流において 致命的であ ることを
まで英語で飯を 食ってきたはずの 元英語青年
論じ,危機感を煽っている。 この議論につ
達によって発せられていること」に
い
対する反
て ,それぞれ賛成・ 反対の立場でなされた 二
つの対談の中に ,興味深い現象があ った。 英
感がある。 こちらも英語教育に 影響を与えて
語教育について 独自の理論を 展開し,またそ
誤謬」ということになる。
(131
きた威応正雄氏によれば ,
「英語帝国主義の
の影響力も大きい 言語社会学者,鈴木孝夫 氏
が ,ある時は船橋 氏 と組み「公用語論」を 擁
護していると 思えば,かたや「第二公用語論」
も
顔を出して,
僕自身はまったくナンセンスと 思っている
議論が一つあ るんです。 それは "英語帝国
主義論 " という,かなり 俗流的に流行って
両者の顔色を 窺っていることであ る。 鈴木氏
いる議論です。 (中略) ただ,非常に奇妙
はかねてより 独自の立場で 英語習得の重要性
なのは,英語を 大学で教えて ,それで飯食
を説いているが ,氏の立場は,
まず我々には
っているような 人達で,英語帝国主義なん
日本人としてのアイデンティティを 確保する
ことが大切であ り,Ⅰ母語」であ る日本語を
てことを,物々しく 大上段に振りかざして
言う人が多いのよ。 英語を教えながら
国際的に活用する 努力をした上で ,英語が必
もかかわらずね。 そして,それに賛成して
要な日本人には「国際共通語としてのインバ
(Engl。)」の習得を強く
いる人もかなり 多かわけ。
リック
主
と
,に
(P . 40)
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
「英語帝国主義」が 極論であ ったとしても ,
述べている。
しかし逆に,その 信奉者の多くが 元 (現) 英
語青年であ り,今も英語を 生活の糧としてい
外国語学習には
,のるかそ るか,自分の精
ればいるほど ,また自らの行為や信条に 真摯
神の主体性,自分の 民族の立場を 捨てるの
になればなるほど ,外国語教育が与える影響
か守るのかを 迫ってくるような ,最悪の場
に敏感になることは 自然なことではないだろ
うか。 問題は,「英語帝国主義論者」は 正と
合は,外国語を学ぶことでかえって 骨無し
人間となってしまうような ,そんな危機的
負の影響のうち ,負の側面にだけに 関心を持
なことがあ ることを忘れてはなるまい。
(P.22)
っているということであ る。 こちらの ェ クス
トリームにも 組みせない理由も ,片方の側面
を切り捨てていること ,つまり,好むと
好ま
学習言語を通じてその 文化にあ こがれを持っ ,
ないに関わらず 完全に英語学習から 受ける教
またその言語を 母語として話す 人々 (以下,
育的な,また実利的な恩恵を 無視しているこ
「ネイティブ」と 表記) のようになりたいと
とであ る。 ただ「英語帝国主義」というあ
意味でナショナリスティック
,
る
ファナティッ
思うことは,学習者の 通過点としてよく 起こ
り得る。 そしてネイティブになりきるには
努力がかる。
クな 立場は別にしても ,外国語教育に携わる
文化を捨て去る
教員には,教える 言語がもたらす 正と負の両
れば,このようになる。
自
(151
中島義道氏によ
方の側面を認識している 必要があ ると考える。
それだけにまず ,「英語帝国主義」の 論調に
英会話学校で 最も要求されるのは「さりげ
も耳を傾けてみたい。
なく,すなわちごく 普通のアメリカ 人のよ
「英語帝国主義」の 基盤をなす論拠は ,歴
史的に言語は 支配的側面を 持ってきたという
うに英語を話すこと」であ
ことであ る。 支配のデバイスとしての 言語に
sweetheart @
は ,それを押しつけられた 民族のアイデンテ
本人にとって 一番難しい。 それは人格の 中
ィティをも破壊する 威力があ り, 自らの文化,
価値観までが 支配言語に影響を 受ける,との
核を破壊するほどの 暴力を加えなくては 達
る。 だが,「さ
iSt@
りげなく」 Oh, Jesus Ch 「
とか My
とか叫ぶことは 普通の日
成 できない。
(P . 242)
主張であ る。 もちろん彼らが 英語支配の例と
して挙げる我が 国の英語狂想曲 (「英会話症
確かに「さりげなくネイティブになりぎる」
候群」,「カタカナ語 (英語からの覚来語 )
の
ことには限りない 違和感と不自然さが 伴う。
氾濫」等 ) を眼にすれば ,感情的には納得し
しかし,多くの 異文化理解学習に 関する研究
そうになる。 確かに覚国語学習には ,アイデ
が示すように,これは当然の通過点であ
ンティティの 喪失がついてまとう。 学習言語
を通じ,その文化,価値観に影響を受けるこ
問題はこの段階を 越えた「客観的なステー
とは当然の通過点であ り,その言語に 魅せら
だ。 だからといって , 彼らの主張は
つ
れ熱意を持って 学習した英語青年であ ればあ
るほど,その怖さを痛感していて 当然であ ろ
.
これについて
1l41
以下の "4"
大石俊一氏は
ょ
つ
@
ジ」へと学習者を 導く必要があ
ないと言うことにはならない
るということ
取るに 足
0 これまで
日
本の英語教育は ,その扱う教材により ,事実
ネイティブの 文化,価値観を学習者に「押し
中井
つけ」,この段階を越える 努力を怠ってきた
ことも事実であ る。 実際, 1947 (昭和 22) 年
版 中 ・商学習指導要領では ,英語学習の目標
を
「われわれの心を英語を話す 人々の,し、と同
じように働かせること」と 規定していた。
こ
すれば,「英語のような 自然言語ではなく ,
エスペラントのような 完全中立な言語の 使用
を絶えず希求する 努力と理俳が 必要で,それ
が実現可能かどうかは 問題ではない」となる。
意気込みは理解できるが ,理念だけでは実際
れについて指導要領では ,現在大きく 修正が
の教育は成り 立たないことも 事実であ
なされ,また教科書作成者達による「英米文
かし彼らの真摯な 姿勢は切り捨てないように
化中心の教材からの 脱却を試みる ,悩みなが
らの努力」 (このことについては 後述する )
したひ。 こちら側の ェ クストリームからも 学
る。 し
ぶべき点は大きく , また外国語教育の 過去の
が続いている。 また英語教員の 中にもこの段
階 (英米文 4% 崇拝) で止まっている 者も多く
過ちから得た 教訓も多くあ るからであ
いるのではないだろうか。 つまり,この段階
を反 人権的な教育にしてしまう 可能性があ
に陥るのは易く 抜け出すのは 困難だというこ
からであ る。 要は,両極の議論の長短を 勘案
とであ る。 それだけに彼らの 指摘を無視する
しながら,その 間に横たわる 連続体の中でよ
のではなく,教員は 英語学習は白文化喪失の
り良い妥協点を 探ることしか ,解決策はない
危険性をも内包していることを 認識する必要
があ る。英語学習が国際理解教育 (人権教育)
のであ る。
として意識される 際には, 多 文化を理解する
る。 ま
た ,それらに学ぶことをやめれば ,英語教育
「総合的学習の時間」をめぐる 攻防 -
3
る
「国
際理解学習」の 行方
ためと称しながら 英語のみに頼っていること
の限界を知り ,また無意識のうちに「英米文
化だけを起点とした 孝文化理解」に 陥ること
3-@
を戒めなくてはならないと 考えている。
「英語帝国主義論者」によれば ,一言語に
会や大学の英語教育関係の
縛られることは 決して国際性を 保障しない,
めた。 現在,地域の教育委員会なども ,「小
という。 彼らは,「英語学習は 反国際的」で
学校での英語授業の 運営」に関するセミナ
あ り,「英語は国際語であ るとか英語が 話せ
れば国際人であ るとの意識は 幻想だ」と断じ
の提供を始め ,そのどれもが活況を呈してい
ている。
この問題の解決策として 彼らが提示
文部省 (文部科学習 ) の迷走
最近, 申 ・高の英語教員を 対象にした学習
学会では, 「児童
英語」に関する 文献,資料が大貴に出回り 始
る。 Ⅱ、学校英語」は 申 ・高英語科教員に
る
一
よ
学習会でも取り 上げられ, また「英語教育
するのは,教育において「多言語主義」を 貫
くことであ る。 しかし公教育における 外国語
の 導入」にあ
教育で「多言語主義」が 本当に現実的であ る
稿では以下,「文部省」と 表記) の方針を蓬
のかについては ,現在小学校での英語を通じ
かに先取りした 取り組みが,底辺から 進みつ
た「国際理解教育」が 模索される 中 ,「とり
つあ る。 ここでは「総合的な 学習の時間」の
あ えずは英語」という 姿勢により否定されて
いる。
もちろんこの 姿勢についても 検証は必
要 であ るが。 また水野義明氏に
よ る何卒を共 筑篭は
「中立言語」の使用であ り,氏の趣旨を 要約
わてふためく 小学校の実状を 垣
間見ることも 多い。 つまり,文部科学省 (本
当初の趣旨
や ,小学校への英語教育導入に
する議論等は 忘れ去られており ,
関
もはや小学
校での英語教育は「既成事実」となってきて
いる。 なぜこのようなことになってしまった
を
(外国語) 教育は人権教育となり得るか
のか。 それは,我が国には,そして文部省に
向上させよ」と
手のひらを返している。
こ
も, もともと明確な 言語政策が存在しないこ
れは,最近の国際調査等で 明らかになった ,
とに由来するのではないだろうか。
日本の子ども ,学生の「学力低下」に 対して
社会から懸念の 声が上がり,「ゆとり 教育」
これまで
も我が国では ,多くの教育改革が,何らのグ
ランドプランも
提示されずに ,なし崩し的に
が「学力低下」を 助長するど指弾されたこと
実行されてきたのであ る。
2002 年から始まる「総合的な 学習の時間」
を受けている。 さらにこの背景には ,アメリ
カ,イギリスなど,これまで自由と 創造性を
とは,もともと ,臨時教育審議会は 984-87
年 ) が提起した「児童,生徒の 学習面の負担,
重視する教育をめざしていた
軽減」に向けた 教育行政の路線変換に 端を発
へと急転換したことがあ る。特にアメリカの
している。 臨教審答申の 趣旨は,それまでの
教育改革は,クリントン 前大統領が明言した
閉塞的な教育のあ り方を見直し ,「ゆとり教
育」を推進することであ ったが,週休二日 fil
ように,「 T T 産業を中心に 好況を続けてき
た米経済を将来的にも 維持する」目的を 持つ
導入や授業時間・ 内容の削減はその 具体的方
ことは明らかだ。 この文部省の 変更にも,「・
世
策であった。 またこの流れの 中で,中央教育
界経済における 競争 J の低下をくい 止める」
密議会第一次答申で 示された「横断的・ 総合
という本音 (市場原理 ) が見え隠れずる。
的な学習の推進」を 受け,今回告示された 新
学習指導用要領の 目玉として「総合的な 学習
た「ゆとり教育」を 推進するために 導入され
の時間」が登場する。 つまりこれは ,臨時教
育密議会が提起する ,それまでの詰め込み学
習の時間」についても ,「遊びや体験学習で
学
はない教科教育の 一環」と位置づけ ,Ⅱ、
習をもとにした 学力中心の教育観から
校での英語教育等に 割くべきだ」と 前言撤回
,「ゆ
国々が,「詰め
込みをも辞さず」という 基礎学力重視の 教育
プ
ま
たはずの,体験学習を 重視する「総合的な 学
とり」や「生きる 力」を大切にする「新しい
している。 これは一体何なのか。 公教育の現
学力観」への 移行の集大成となる ,はずであ
った 。 この教育行政の 根幹に関わる 方針変更
場はこの決定に 動揺を隠しきれない。 学習 指
導 要領の告示以来,双倒しで「総合的な 学習
のもと, さて,いよいよ 2002 年から新学習指
の時間」に取り 組んできた現場の 努力は何だ
導要領が実施されようとする 矢先に,文部省
ったのか。 多くの教員からは ,「結局,何も
は迷走を始めた。 唐突に新学習指導要領の
変わらない」とのあ きらめの声を 聞く。
柱
であ る「ゆとり教育」を 抜本的に見直すこと
を決定したのだ。 (200i年 1 同 4 日発表, 1
同
5 日各紙で報道 ) 簡単に言えば ,「ゆとり」
これまで文部省が ,ある改革を実行する 際
の手順はこうであ る。 まず意図した 回答を求
めるべく審議会を 発足させ答申を 出させる。
を撤回し,基礎学力向上をめざせ ,という方
次に,それに沿って「研究指定校」を 全国に
針 変更,いや逆行を 通達した。 例えば「ゆと
設け,その実践を 地域レベルで 広げる。 周辺
校は先進 校 に学び,気がつけばそれは 教育全
それは授業時間軽減を
指すのではなく「心のゆとりを 育てること」
り
教育」についても ,
であ ると定義したり ,授業内容削減を 決定し
体の「既成事実」となっている
,
というもの
ておきながら ,それは「あくまで最低基準を
であ る。 このように,実際はトップダウンの
決定が,いかにもボトムアップで 底辺から広
示しただけで ,指導要領の範囲を超えて
がったように 実行されていく。 しかしこれに
10
学力
に
は時間がかかり ,審議会が答申を
作っている
間に,社会情勢の 変化に伴って 答申の内容は
時代遅れとなり ,今回のように,告示された
学習指導要領が 実施されないうちからその 方
針を変更されるようなことが 起こる。 また何
らの理念や政策を 持たないことから
,別の立
場の審議会が 異なった指針を 出すことも許し
@コ力
末端の末端に 位置していたはずの「英会話」
という表現が ,ついには「小学校での
英語教
育開始」を意味するとまで 拡大解釈されてし
まったのであ る。憂慮すべきことは
,文部省
自体もその考えを 容認もしくは 推進するよう
な発言を繰り 返していることであ
る。 真面目
に「総合的な 学習の時間」のあ るべき姿を模
ている。 例えば「国語審議会」は 小学校での
索・実践してきた 教員 達 にとっては,重大な
英語教育導入よりも「国語教育の 方をこそ強
事態になりっ
化すべきだ」と 提言している。 もはや,総合
習の時間」は 骨抜きとなり ,これまでのすべ
ての努力・議論は「小学校からの 英語教育」
習の時間」を 単なる「英語教育の 前倒し」に
終わらせないために ,また英語教育と 人権教
育の接点を考えるためにも ,再度,「総合的
な学習の時間」の 意義と可能性を 検証してお
一点へと 収敬される危険性が 大きい。
く必要があ ると考える。
的な人権 教育となるはずだった「総合的な
学
っ あ ると言える。 「総合的な学
もともと日本の 教育界には,画一的な 教科
3-2
「総合的学習の 時間」と英語教育の
関係
学習を改め「総合学習」 へ 移行すべきであ る
と考える一部の 研究者がいた。 彼らにとって
まず, ことの発端となった「総合的な 学習
の時間」と,その結果クローズアップされた
「小学校への英語教育導入」の 関係を整理し
ておく。 中教審が言うところの「生きる 力
」
を子ども達に 保障するため ,「総合的な 学習
は今回の「総合的な 学習の時間」の 出現は歓
迎されるべきものであ り,課題は何を 教育内
容とするべきかであ った。 その内容 側 であ る
「国際理解,情報,環境,福祉・
健康」は,
どれを取っても 単独で「総合学習」の 主題と
の時間」は設定された。 その内容は,各学校
して成り立つものであ り,実際現場では 個々
がそれぞれの 実状にあ った学習内容を 独自に
の 主題に絞った
設定し,複数の教科が横断的に 協力して実施
するものとされ ,教育内容の 例としては,「国
際理解,情報,環境,福祉・
健康など」が 提
容例を統合し ,そこへこれまでの 同和教育の
示された。 これら内容例の 多くは,極めて人
持つ地域でこの 動きは強い。 これについて 長
権 学習としての 可能性を秘めている。 ところ
尾彰夫氏 はこの ょ うに述べている。
実践も行われている。 また内
内容も加味した「人権 総合学習」の 展開をめ
ざす動きもあ る。特に同和教育実践の 歴史を
が 多くの教育現場では ,それら多数の内容 例
の一つに過ぎない「国際理解」に
関心が集ま
すでに見てきたように
,「人権」は,総合
った 。 ( もちろん前述したように「国際理解
学習の特質や 可能性を最もよく 現すことの
教育」も人権 教育としての 潜在性を持つ。 )
できるテーマであ り対象ではあ った。 人権
さらにその中で ,「国際理解の 一環として,
総合学習は,総合学習の 視点から見ても ,
英会話等ができる」と 規定されたに 過ぎない
十分に取りあ げられるべき 課題であ った。
「英会話」という 文言が異常にクローズアッ
しかし,人権 総合学習は,人権教育の新た
プされた。 そして「総合的な 学習の時間」の
な進展という 観点からしても ,同時にとり
ⅠⅠ
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
と
つ P
ヰ
いハ
よⅠⅡ
課題
な
重
き
べ
@
れてる
あ
が。
ギ
@ノの
らで
ある
語 教育コに 傾斜した取り 組みがなされている
場合があ る。 また,「横浜市小学校国際理解
教室」の実践のように ,外国人講師と 英語で
同和教育を継承し 人権教育へと発展させよう
のコミュニケーション 活動を推進しているが ,
とする教員 達 にとって,この考え方は魅力的
アジア・アフリカを 含む世界 37 カ国・地域か
らの講師を招牌 し ,英語学習よりも 国際交流
であ り,「総合的な学習の時間」をまるごと
域や学校では ,同和教育の生き残りを賭けて
の方に重点を 置く所もあ る。 しかし共通して
言えることは ,大なり小なり「国際理解学習」
の中心事項として ,英語学習が位置づけられ
この方向に期待するところが 大きい。
しかし現在,「総合的な 学習の時間」の 内
実践や研究において ,英語学習がどのように
容は ついては「国際理解教育」に 絞った実践
捉えられているかを 見てみることにする "
人権 教育に当てようとする 取り組みも存在す
る 。 特に同和教育に 熱心に取り組んできた 地
が多く,「総合的な 学習の時間」関連で
出版
ていることであ る。 では,「国際理解学習」の
ここでの最大の 問題点は,「国際理解学習」
されている文献,資料でも ,圧倒的に「国際
に外国語学習は 有意義であ るとしても,「な
理解」をタイトルに 含むものが多い。 またそ
ぜ英語なのか」ということであ
れは,文部省が研究校 に指示するテーマの 多
いて研究者の 姿勢は大きく 三つ分かれる。 ま
ず英語を「国際言語」と 位置づけ,その国際
くが「国際理解と 小学校での英語学習」に
関
る。 これにつ
しているからかもしれない。 すでに報告され
交流における 利便性ばかりに 重きを置き,「英
ている「国際理解教育」の 取り組みは,その
語オンリー」という 姿勢に疑問を 持たない 立
どれもが何らかの 形で人権 学習に通じる 孝 文
場 があ る。 本名信行 氏は,英語を「地球市民
化理解や「コミュニケーション
のもう一つの 言葉」と規定し ,いかに英語が
能力」を育成
する活動に焦点を 当てており,一見しただけ
多くの井 母語話者により 使われているかを 説
では人権 教育となり得る 可能,性を示している。 いている。 そしてこの立場は ,純粋な「小学
校 での英語教育」開始議論へ 直結しやすいこ
しかし具体的な 実践内容については ,かなり
の幅があ る。 まず,「国際理解教育」の 中身
とは,氏の以下の 意見からも明らかであ る。
を国際交流と 捉え,これまでの同和教育や人
権 教育での国際交流活動を 踏襲している 実践
があ る。 例えば太宰府 西 小学校の実践では ,
英語を広域コミュニケーションの 言語と考
えると,小学校の 国際理解教育の 一環とし
英語学習はほぼ 登場せず,韓国・ 中国の姉妹
て,子どもたちが多少なりとも 英語の有意
からの在留
義なあ り方を経験することは 非常に重要で
外国人との地域レベルでの 交流をめざすこと
あ る。 英語が世界のいろいろな 人々と交流
が中心を占めている。
しかしここまで 英語学
するのに便利な 言葉であ ることを体験すれ
習を排除した 取り組みは希であ り,大半は英
ば,中学校での英語を本格的に 学習する動
語学習もしくは
機づけとなるはずであ
校との交流や ,アジア・アフリ
ヵ
英語を用いたコミュニケーシ
る。 (中略) ベトナ
ョン能力の育成を 柱立てにしている。 問題は
ム ,中国,韓国のような
英語覚国語国でも ,
そこでの「英語」の 扱われ方であ
英語学習を小学校から 導入している。
「国際理解」とかいながら
12
る。 中には
,ほぼ純粋な「芙
も
遅れをとってはならない 0
日本
(P . 29)
中井
次には,「国際理解教育」における 多言語主
義の重要性を 認識しつっも ,世界における 英
の 一環として進められるならまだしも
語の優位性を 考慮して英語学習を「しかたが
が教科として 小学校に導入されるものと
ない」と是認するか ,複数の言語を 学ぶ最初
されていることにあ
の選択としては 英語が妥当であ るとする立場
,問題
は議論がなりまぜになり ,社会的には,英語
意識
る。
まずこのことの 問題点として 指摘されてい
があ る。 そして最後に ,少数だが,多言語主
ることは,条件整備の 不足であ
義を貫くか, もしくはそれに 近い考えを取る
省からは,「教科としての 小学校英語」実施
立場があ
に関して,何を ,
る。 例えば白州知
彦氏はこの立場で ,
る。 現在文音lS
どのように教えるのかと ぃ
氏は 「国際理解」の一環としての「覚国語会
話」のあ り方について 以下のように 述べてい
6 具体的な指針が 一切提示されていない。 つ
る。
れず, 中
まり,教員養成や 資格に関する 条件整備もさ
・
高 ・大の英語教育と 繋がる一貫し
たカリキュラムやシラバスも 提示されていな
「総合的な学習の 時間」で,国際理解の 一
環として外国語会話を 行う場合は,覚国語
い。 今回も文部省は
,研究校を中心に 現場に
実践 (模索) をさせ, まず「既成事実」を 作
を英語に限定する 必要はない。 各学校の実
ろうとしているようであ る。 その上で,
態 に応じて, ALT
10 午後に公示する 次の学習指導要領において
が確保できる 場合は ,
5一
英語にふれさせるのもよい。 地域に英語似、
具体的な指導方法と 内容を拘束してくるもの
外の外国語を 話す覚国人が 多い場合等は ,
と考えられる。 しかし,現時点で 具体的方金」,
その外国語やその 文化にふれさせる 機会を
が示されていなことこそが
持つこともよいだろう。 忘れてならないの
英語学習開始をめぐる 混乱 ど動揺を引き起こ
は 外国語会話それ 自体が目的ではなく ,
(P 田 3)
しており,多くの 研究者や研究団体がそのこ
とに懸念の声を 挙げている。 例えば「全国語
しかし,研究者であ ろうが指定研究を 行う 小
学教育学会」を 始めとする多くの 研究団体に
より構成される「日本覚国語教育改善協議
学校教員であ ろうが,主流を 占めているのは
会」も,条件整備もなく 進められる「小学校
上記のうち最初の 二つの立場,つまり「国際
英語」を懸俳する 声明文を発表している。
手段だということであ
る。
理解学習」における 使用言語は英語で 当然,
もしくは妥当と
レも
う立場であ り,今後も「 国
際 理解学習」においては 英語学習が中心的に
取り組まれていくことは 確かであ る。 それで
あ ればなおのこと ,英語学習が子どもたちに
与える負の側面をも 認識しながら , r-国際理
解 学習」を進めてもらいたいと 考えている。
,小学校現場での
12
教科としての「小学校英語」の
連火
は ついて
しかし,小学校での英語学習が「国際理解」
1
しかしたとえ 条件整備が整っても ,問題は
大きい。 もし単純に英語教育の 低年齢化が図
られるとしたら ,それが教育に与えるマイナ
スの影響は計り 知れないと考えている。 言語
習得の理論から 見れば,学習開始時期を
引き
下げることは ,一見正しい。特に音声認識の
観点からは,日本人学習者の 英語音声認識の
低さが英語習得にもたらしている
3-3
り
被害の大き
さを考えれば ,早期開始には大きく期待がで
きる。 しかし我が国の 英語教育にまつわる 教
育状況,社会状況を 考えると,その大きな利
13
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
点を差し引いてもなお ,「被害」の方が遥か
化には強く反対している。
に大きいと考えている。 まず言語習得の 効率
解教育」という 枠組みを離れた 小学校英語は ,
面からは, 日本のように 純粋な EF も (外国
語としての英語 ) 環境において ,小学校で週
英語教育における 人権教育としての 可能性を
に 1 時間の履修がなされたぐらいで
,
も押しっぶしてしまうと 考えるからであ る。
日本人
4.英語教育は人権 教育となり得るか
学習者が結果として ,いま求められている レ
ベルの英語運用能力を 身につけるとは 考えら
それは,「国際理
4-@
中学・高校「英語教科書」作成の
現
場から
れない。 次に学習全般に 与える影響として ,
るだろう。 これは 中 ・高の英語科教員の 多く
これまで我が 国の中・高英語教育では ,「英
語運用能力の 育成」と「人間教育の 推進」と
が,過去の経験から 感じている強い 危惧であ
いう二つの目的のバランスを 取る努力が続け
。 さらに,すでに 始まっているが ,その導
入は小学英語に 関する英語産業を 活,
性化させ
られてきた。 このバランスを 取る難しさを 身
を以て体験してきたのが ,文部省検定を受け
るだけで,小学生間での 英語学力格差が 開き,
る
中学・高校での 対応はいっそう 難しくなるだ
か 。 教科書作成に 関わる多くの 研究者,教員
中学入学時点での 英語嫌いを作ることに 繋が
る
(28)
ろう。 松川 祀子氏も,小学校英語の 教科化は,
「国際理解や異文化理解を 強調する外国語体
中 ・高英語教科書の 作成者ではないだろう
にとって,教科書を 作るということは ,英語
教育自体が抱える 矛盾や危険性の 中での, ま
験的なプロバラム (F も EX) 」の一環なら
ば展望できるが ,英語運用能力向上 (スキル
た社会の要求や 文部省の拘束をもにらみなが
優先) のためであ れば問題が大きいと 指摘し
べてとは言わないまでも ,現在出版される 検
ている。
定教科書に登場する 題材の多様性やまたその
らの,苦渋の 作業であ ったかもしれない。 す
扱われ方を見れば ,過去作成者達によりなさ
(英語運用能力向上の 観点で小学校におけ
る英語の教科化を 図る立場について )
この
れてきた努力が 窺える。 内容が「英米文化」
中心であ った頃から比べれば ,現在登場する
立場は条件さえ 整えば,当然「英語科」と
題材側 には隔世の感があ る。 「総合的な学習
いう形での教科化を 主張する。 問題は,英
校で行うという 手法のリスクと 困難さが予
の時間」が横断的であ るとすれば,英語教科
書 はかなり以前より ,国語 ( 日本語), 社会,
理科,数学,芸術などのすべての教科にまた
想以上に大きいことであ
がる横断的な 色彩を帯びてきた。 とりわけ 社
語運用能力の 向上という目標に 対して小学
早ければ早
る。 外国語習得は
い ほどよいという
説は,今日で
はほとんど研究上の 支持を得ていない。
言
会 のあ り方との関わりは 密接で,題材として
今日的な社会の 課題が多く取り 上げられるた
語習得の成功は ,学習にかける 時間と,モ
め,英語教科書は,他の教科の教科書に比べ ,
チベーションと 教授法によるという 方が,
遥かにその改訂のサイクルが 早い。 つまり言
真実に近いと 思われる。
く
P ,I5)
語にはそれだけ 社会性が強く ,言語学習 (母
語学習,覚国語学習) から社会のあ り方を抜
筆者もこの指摘を 支持するものであ り,英語
運用能力向上のためだけの 小学校英語の 教科
14
き去ることはできないためであ る。 そして,
このことは鈴木孝夫氏に
よ
る,「異文化理解
中井
や教養主義を廃した ,日本文化発信だけを
目
ころも,英語教科書と
人権 教育資料とに 共通
的とした英語教育」の 提唱に筆者が
(291 反対する
しており,「スキルの 育成」面においても
理由でもあ
似性が見られる。
る。 言語の担う社会性や
機能を限
定した言語教育などあ り得ず, また発信だけ
類
このように見れば ,英語教科書は人権 教育
を目的とする 単調な授業から モテ イベーショ
の推進に寄与できるものとの
ンを高める学習者は 少ないと考えるからであ
実際の作成現場では ,様々な矛盾を 抱え ,今
求められている 実用性との狭間で ,苦しい戦
る。 外国語教育において
,いかに教材の内容
と活動の興味深さが 大切であ
るかは,実際教
印象を与えるが ,
いが続いていることも 事実であ
る。 現在筆者
室 で基礎教育にあ たっている教員であ れば,
が 編集委員会に 加えてもらっている
誰もが体験を 通して痛感しているのではない
語 i 」教科書 (B 社, 20(W3
年度より使用 )
だろうか。
作成現場でも ,
現在, 中 ・高の英語教科書に 現れる教材に
は, 広く人権
教育につながり 得る社会的な 課
題 が多く登場する。 筆者は現在改訂作業中の
中学英語教科書
る
(A 社 ) に付随して配布され
,補助リーディンバ 教材の作成にあ たって
ている。
,高校「英
の
まさにこの苦渋の 作業が続い
この新しい教科書の 理念は,「人間
教育」であ り,それはもっと 具体的には「英
語教育こそ人権 教育であ る」という自負に 基
づいている。 筆者が参加するきっかけとなっ
たことも,人権教育との関係からであ った。
いるが,題材選定に 際しまず教科書会社から
ここでは他社以上に「題材中心主義」を
提示された教材分類は
三つの観点からの 教材 (1. 「ことば」に対す
,「異文化理解」,「今
貫き
日的課題 (人権問題)」,「興味を引く話題」
る感性を磨く 教材, 2.人間教育 (人権 教育)
の三つであ った。 我々が選定した 題材として
に資する教材, 3. 異文化理解教育に 資する教
は,「今日的課題」一つを 見ても,「ドナーカ
ード」,「女性の社会進出」,「便利さと環境破
材 ) 選定にこだわってきた。 筆者は,このよ
うな理念を持つ 作成集団に誇りと ,それに参
壊」,「障害者問題」などが並んでいる。 そし
画できることに 対する喜びを 感じているが ,
て ,現在出版されているおびただし
その作成の過程は ,
い 数の中
・高英語教科書を 見る限り,教材の分類に大
ぎりぎりのせめぎ 合いで
もあ った。 いかに題材中心主義ではあ れ,教
差はなく,「異文化理解」と「今日的課題」
科書であ る限り新学習指導要領の 方針を遵守
は英語教科書で 使用される教材の 中心的なテ
し ,効果的に英語運用能力向上が
図れる教材
ーマとなっている。 前述したように ,我が国
でなくてはならない。 また教材の内容も ,教
では現在「同和教育」から「人権 教育」への
移行が進みっ っ あ り,新しく改訂される 日本
各地の「人権 教育読本」で 扱われる内容も 今
科書検定の現実と「商品としての
目的なものに 変わってきており ,使用言語が
英語 か 日本語かは別にして ,英語教育と 人権
たのが,英語教育自体が 抱える矛盾,つまり
英語教育の宿命としての - 言語主義とどう 向
教育で扱われる 題材は極めて 似かよってきて
き合うかであ った。 孝文化理解に 資するとか
いる。
さらに,内容面だけでなく ,言語を使
用したコミュニケーション
ュニケーション
活動を通じてコミ
能力を高めることをめざすと
中立性」を
考慮すれば,妥協
" しなくてはならない "
場合も
多くある。 そして最も (個人的にも ) 苦慮し
いながら,下手をすれば「英語を 起点とした
世界観」を生徒達 は培ってしまうかもしれな
いからであ る。 例えばこの教科書では ,「世
15
英語 (外国詰) 教育は人権教育となり得るか
界の言語の多様性」と「それらを 話すすべて
の人々の文化とアイデンティティ」を 尊重す
ることが基本姿勢であ るが,いかにそれらを
い ,日本にとっての英語は,いまだ完全なる
外国語であ り,それが同国人の 間でコミュニ
ケーションの 道具として使われることはない。
であ り,「英語は便利だ。 英語さえできれば
例えば英語の 発音にしても ,多くの研究者は
英米のどちらかの accent(特定地域の発音 )
事足りる」というコノテーションを
にこだわるべきではないとの 考え方を持って
訴えていようとも ,教科書の使用言語は 英語
発信して
しまうことから 完全に自由になることはでき
いるが,実際の教室では統一した 提示が必要
ない。 従って, 様々に登場する 孝文化の人々
であ り,従って日本の 教科書では現在すべて
(少数民族であ る場合もあ る ) が, 自らの文
化を語る際にも 英語を使い,英語のディスコ
米昔が ( もしくは水音 が 先に ) 表記されてい
ースに則った 会話を, これも白文化を 大切に
放されることなどはあ り得ない。 それなら,
する日本人相手と 英語で行う, という不自然
音素の混同を 避けるためにも ,教室での指導
なことが起こる。 ただ言えることは ,それで
は英 昔 , 米 昔のどちらかに 限定し,まずどち
も悩みながら ,英語教育が持つ正の側面を 可
能な限り引きだそうとする 模索が続いている
らかの accentに慣れさせ,その後,世界の
様々な英語のバラエティ 一に対する理解と 尊
ことであ る。教科書作成者によるこういった
重の俳を培えば
模索が続く限り ,
また英語科教員の 多くがこ
の ょ うな教科書を 求める限り,英語教育が
権教育となる可能性は 残っていくし
人
また残
して行かなくてはならないと 考えている。
る。発音一つを取っても ,特定の文化から 解
い いのではないか。
その努力
を抜いて,いきなり 日本独自の発音も 作り得
ない。 このように,特定の 文化から自由な
自
然言語も,特定の文化に触れない 言語教育も
幻想に過ぎない " 英語教育を人権 教育の観点
から見た時,このことをどう 捉えればいいの
4-2
妥協点を探って - ささやかな実践から
英語は,言うまでもなく
,
自然言語であ
り
だろうか。 前述のように ,英語を教える 際に
は,いかに世界の 諸文化に配慮しようとも ,
それを話す人々が 存在する。 従って,我々が
英語を起点とした 世界観から抜け 出すことは
教える英語には ,それを話す人々の文化から
完全に自由で ,ニュートラルな 種類のものは
できない。 それならばいっそのこと ,特定の
文化を意識した 活動を通じて ,英語教育にお
あ り得ない。 現在,「世界の 諸英語」 (World
ける人権 教育を模索することはできないだろ
Englishes) という考えが 定着し,日本人が
うか。 これが筆者がこれまで 英語を用いた 異
使用する英語も 日本独自のものでいいという
主張があ る。 鈴木孝夫氏の Englic, 小田実
文化理解教育を 模索する際のスタンスであ
氏の 俺 n 群 anto
な取り組みを 簡単に報告する。
などが日本人が 使用するべき
「英語変種」として 提唱されている。 それら
の構築には,英米のイディオムも 使わない,
発音もそれらのものに 偏らないなど ,特定の
文化を排除する 努力がいるという。 しかし,
インドやシンガポールのように
英語を公用語
として使用してきた 長い歴史を持っ
国 とは違
っ
た。 以下に,筆者が実践してきた ,ささやか
現在ほぼすべての 公立高校,市町村教育委
員会には,英語を 母語とする様々な 国々から
招禍 した ALT
が配置されている。 これは
1986年に文部省,外務省,自治省により 始め
られた「 J ET プロバラム」の 一環として実
施されている。 筆者は高校教員であ った 折,
申ゴ牛
人権教育の観点から ,特定の文化を持つ AI,
T
の活用を図ることを 試みていた " ALT
それぞれの「人権 教育研修会」を 実施してい
る。筆者も県教育委員会の 依頼を受け,「 中
と
のティーム,ティーチンバでは ,英語を用い
, 高 ALT
担当教員への 同和教育研修会」で ,
マ オリ系 ALT
たコミュニケーション 活動を進めるわけだが ,
の協力も得ながら ,実践報告
活動の計画には 絶えず人権 問題の要素を 導入
を行った。 しかしこのように ALT
し,
信を含む活動は ,情報を発信する ALT
A
二
T の貢献を求めた。 例えば,彼ら彼
女 らに自国における 人権問題の現状や 取り組
みを紹介してもらったり ,またその観点から
が赴任したことがあ
ても,ある意味で極めてタッチ 一な問題とも
なり得る。 英国系ALT
る。 自身が労働
でのクラス・システム
の中には,決して
自
国の階級制度の 存在を肯定したがならい 者や,
またそれに触れたがらない 者もいて,このよ
者階級出身の 彼女は,英国にの呼称自体に
も問題はあ るが )
の側
にも,それを 受ける日本人生徒・ 教員にとっ
日本文化を「批評」してもらった。 あ る 時 ,
イングランド・アイルランド・ウェールズ 系
の ALT
からの発
うな活動に抵抗感を 示す場合もあ った。 また
(社
「アウトサイダーとしての ALT
が日本社会
会階級制度 ) を説明し,また 日本人が「イギ
の側面を批判すること」に 反感を持つ日本人
リス」に対して 持つ国家親の 問題 点は ついて
教員や, またその反応ゆえに 言及することに
ユージーランド 人が赴任したが ,彼女は母国
踊躍する ALT も存在する。 従って,無理の
ない提示のしかたとお 互いが学び合える 状況
における マオリ の歴史と現状を 語り,また「有
を作ることに 配慮しなくてはならないことは
色人種」として ,「女性」として 彼女が日本
言うまでもない。
も
指摘してくれた。 またあ る時は て オリ系 二
実際は, ALT
で受ける「待遇」についても 言及してくれた。
もちろん,これら 具体的な諸問題については
英語を用いたコミュニケーション
,
活動を進め
,
の側には人権 教育に参加す
ることに対する 抵抗感が強いのではなく ,多
くの場合はその 逆であることが多い。 日本人
る申で,発展事項として 提示する手法を 取っ
教員への研修会で 使用した資料には ,
たので,決して社会科の授業でのような 直接
系 ALT
的な問題学習にはしなかったが
集めた意識調査の 結果もあ ったが,そこには
" また筆者が
が実施した県内 ALT
マオリ
ほぼ全員から
校内の同和教育部に 所属していたことから ,
ほとんどの ALT
英語科を離れた 取り組みにも 参加してもらい ,
人権教育に貢献できるリソース」だと
例えば生徒に 配布する「人権 ニューズレタ
ており,また参加意欲があ るにも関わらず「校
ー」に意見を 求めることもあ った。 例えば,
内の人権 教育から排除されている」と 感じて
日本人が持つ「国際化」の 問題点を, マオリ
いることが報告されていた。 筆者は,過去 3
の立場から, また英語を第二母語とする 立場
から述べてもらったこともあ る。
年にわたり,奈良県国際課が 主催する「新着
ALT
の存在を活用したこのような 活動は,
学校現場で徐々に 広がっているとの 印象を持
Ⅰ
が自分達を「日本の 学校で
認識し
E
を務めているが ,毎回講義の前に ,
の ナマ の意識を探るべく ,
A
し
T 達
ここでもアンケー
っている。 また奈良県では 県教育委員会でも
ト調査をしてきた。 この結果からも ,彼ら彼
その潜在性を 認識し,現在ではALT
女 らが日本の学校現場で 人権教育に参画する
ALT
対象と ,
担当の日本人英語教員を 対象とした,
ことを望んで い る姿が窺える。
例えば「あ な
17
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
たは日本の学校での 人権教育に,何らかの形
の外国語教育にはどのような
道があるのだろ
で貢献したいと 思いますか」という 質問には,
うか。 一つの可能性としては
,「地域からの
過去 3 年間の参加者 Q3,客中, 62 名 (66.8%)
国際化」を進めることにおける 様々な言語が
が「はい」と 答,「いいえ」と 答えたのは
果たす役割に 注目し,その観点から外国語学
3
習を推進することがあ ると感じている。 現在
我が国では,様々な 言語を話す定住覚国人が
人 (3.2%) に過ぎなかった。 ちなみに彼ら
彼女らの中には ,日本は「人権問題がまだま
だ解決されていない 国」 (回答48%) との認
識があ り,全員から 聞いた「日本の 人権 問題
として思い浮かぶもの」としては
増加している。 今後の日本社会にとっては
,
彼らとの交流を 進め,確かな孝文化理解を 図
,「女性差
り,
BUJ (回答6 %), 「少数派 (部落 民 ,在日韓
よ
り良い 共生の道を探ることが 求められ
ている。 またそのような 人々を支援する 必要
,地域レベルでの支援体制も
Ⅰ
国・朝鮮人,アイヌ 民族,外国人など) への
性が増すにつれ
差別」 (回答 35%) が上位を占めていた。
整いつつあ
る。 特にアジア諸国,南米諸国か
英語教育を通じた 人権教育の可能性として
らの定住者が 増えており,それらの 地域の言
は,まだまだほかの 手法があ るだろう。 それ
語を学ぶ必要性は ,部分的にではあ るが高ま
は決して A
し
T
がいなければ 実施できないと
ってきている。 英語以覚の覚国語については
,
いうものでもない。 英語学習で使用する 教材
「地域からの国際化」における 役割を前面に
内容を基にしたアプローチ ,コミュニケーシ
出し,独自の貢献の道を探って 欲しいと願っ
ョン活動を基にしたアプローチとも ,今後も
ている。 一部の努力を
多くの実践がなされ ,英語教育が広く人権 教
日本社会全体においても ,未だこのような 可
育の発展に貢献することを 願っている。 また
能 性が十分理解され ,独自の進むべき 通が模
その実践を通じてしか ,「実用的な 英語運用
索されている
能力の育成」と「英語を 通じた人間教育」と
外の外国語教育には ,英語支配が進む我が国
の狭間で妥協点を 探ることはできないと 考え
の外国語教育の
ている。
みを, さらに充実してもらいたいと 期待して
よ
除き,本学においても
うには感じられない。 英語以
状況に「打って 出る」取り組
いる。
4-3
英語以覚の覚国語教育の 行方
最 後
この項の最後に ,英語以覚の外国語教育が
取り得る方向性について 触れておきたい。 現
在世界で「英語一人勝ち」の
状況が進む中で
に
現在,世界では,英語が使用言語としての
,
優位性を占める 状況が続いている
。 そして
日
我が国の英語以覚の 外国語教育は 旗色が悪い。
本でも,実用的な英語運用能力を 求める声が
本学だけでなく 日本中の外国語系の 大学では,
高まっている。 筆者を含めた 英語教員にとっ
志願者募集に 苦戦しているようであ
る。 しか
ては,この状況を 考慮し,学習者の英語運用
し一言語がこのように 支配的に使用される 状
能力を保障するより 良い教授法を 開発するこ
・況は
, 真の国際化の 観点からも健全なことで
とが課題となっている。
我々は,教室での実
はないだろう。 教育においても ,何とか「多
践や研究を通じて ,発音,文法,読解,作文,
言語主義」の 火を消してはならないと 考えて
いる。 では,このような 状況の中で,その他
コミュニケーション 活動という個々の 言語領
域に関する具体的で 効果的な指導法を 考える
18
「トオ
ト
ことに労力を 注いでいる。 しかしこれまで 見
"一-三"
てきたように ,手放しで英語の利便性だけを
(1) 中井英民「同和教育の 変貌と大学にお
Ⅰ ョ
クが潜んおり,そのことを 警戒する者達も 多
ける人権 教育の可能性」『天理大学人権 問
題研究室紀要 第 3 号 (2000年, 3 月 ), 1
く存在する。 彼らは,これからも ,英語教育
頁一花 頁 。
考えた英語教育を 進めることには 大きなリス
のもう一つの 側面を追求することをやめない
だろう。 ただ,そういった 者達にとっても ,
ことはそう単純ではない。 英語教育は今や 一
つめ 大きな矛盾の
固まりとして 存在し,我々
コ
(2)
津田幸男
1990 『英語支配の構造
コ
第
三書館。
(3)
(Educational
例えば 1995 年のデータ
Testing
SerVice. 1995. TOEFL
はその矛盾の 中で教育活動を 進めている。 英
Score
Data
語教育には限りない 危うさが伴い ,時にはど
Edition.) では, 日本の平均点は 494 点で,
の立場に立とうとも 独善に陥る危険性があ る。
世界182 ケ国 ・地域中の第 162 位, アジア 28
我々に残された 道は,絶えず英語教育が内包
ケ国 ・地域では23 位と低迷している。 もち
する様々な課題,問題点を 浮き彫りにし ,そ
ろん異なった 各国の英語教育の 状況と受験
の正 と負の可能性を 探りながら,妥協点を 模
者数や実態を 無視して, TOEFL
索 することだけであ ろう。 その際に必要とさ
タを 日本人の英語 力 に当てはめることには
れる姿勢は , 絶えず自らの 行為を自省し 悩み
無理があ
続けることであ り,最大の敵は「ペンジュラ
政財界・マスコミに
ム・シンドローム」だと 考えている。 英語 (外
では強力なツールとして 利用された。
国語 ) 教育は人権 教育となり得るか。 これか
らもこの答を 探るために,悩みながら
,
ささ
やかな実践を 続けていきたいと 考えている。
(4)
Summary
: 1995-1996
る。 しかし TOEFL
よ
Test and
の デ一
のデータは,
る「英語教育批判」
例えば韓国では , 16 年間の準備期間を
経て, 1997 年 2
り
小学校での英語学習を 開
始し,指導内容や方法について 具体的な方
策を講じている。
(参考 : 「特別記事, 韓
国の小・中学校における
英語教育
(5)
ロ
英語教育」 T現代
(1999 年, f 月号 ) 38 頁 一 43 頁。
日本でも 2000 年に, 李陽氏の活動を追
うドキュメンタリー 映画㏍クレイジー・
イングリッシュ」 1999 年中国) が公開され,
話題を呼んだ。
(6)
朝日新聞,インタビュー「英語公用語
論,規定なく意味あ いまい」 (200(W
年4
5
日
月
)。
(7) 例えば,大野晋,森本哲郎,鈴木孝夫
によ
る座談会 ( 「愚かなり「英語公用語化」
論」『新潮45d2000年,
5
月号, 264 頁 一 278
頁 ) では,「英語公用語論」の 未熟さが論
じられている。
19
英語 (外国語) 教育は人権教育となり得るか
(8)
田中克彦「公用語とは 何か」『月刊 言
語j
V o l 29
N0.8
(2000年,8 月号 )
ぐくむべきであ ると強調し,これを 受けて,
教育課程審議会が 新学習指導要領を 作成し
@
40 頁 一 44 頁。
えし 。
(9) 船橋洋一 2000 『あ えて英語公用語
輪 J (文春新書 ) 文藝春秋社。
(10) 船橋洋一・鈴木孝夫 肘談 ) 「特集・
(19) この同じ流れで 文部省は, これまで 大
学入試の科目 数 削減や多様な 入試形f を指
導してきたにも 関わらず,本年 (2000年 )
度になり急に ,国公立大学の入試やセンタ
英語を公用語に 俘 英語が日本を 救 う 」『論
ー試験の科目増を 決定している。
座 J (1999年, 12 月号 ) 12 頁 一 27 頁。
Ⅰわ 前掲 (7) ,大野晋,森本哲郎,鈴木(20) 長尾形夫 2000 1総合学習としての 人
孝夫 による 座 ,会。
誘
権教育コ明治図書。
(21) 北窓正明 (編著) ノ 鈴鹿市同和教育講
(12) 鈴木孝夫 2001 『英語はいらない ぽ
座。 1999 1人権総合学習の授業を 創る』明
(PHP 新書) PHP 研究所。
治図書。
は 3)
國 弘 正雄 2000 r英語が第二の 国語に
(22) 谷川彰英 ・太宰府西 小学校 1996 「国
かる
げ$ たちばな出版。
際理解教育と 国際交流』国土社。
(14) 大石俊一 1990 『英語イデオロギーを
(23) 大久保洋子 1999 「小学校国際理解散
問う 闘文 社 出版。
育の意義」和田稔 (監修) 口、 学校英語教
(15) 中島義道 1993 「英語コンプレックス
育 A to Z 国際理解学習早わかりガイド』
を 探る」津田幸男
(編 ) 『英語支配への 異
』
ト
コ
論 第三書館, 235 頁 一 288 頁。
開隆堂, Vo
ロ
l 2,23 頁 一 28 頁。
血6) 異文化との遭遇を 通じて学習者が 通過
(24) 本名信行 1999 「なぜ英語なのか - 国
する過程には ,様々な分類がなされている。 際コミュニケーションのための 英語学習再
例えば TrRnonovitchは「異文化適応の 段
考 」双掲 (23), V o l 1,25 頁 一 29 頁。
階」としては「あ こがれ段階」 (Honeymoon (25) 白畑知彦 t999 「なぜ小学校から ?
Stage) から「客観的に 自文化と学習文化
- 小学校英語教育の 意義」双掲(23), Vo
l
が認識できる 段階」 (Home Stage) まで
1,32頁 一 36 頁。
あ ると指摘している。 Tr 冊 n0vitch, G. J.
1980
・
CultureLear
㎡n 國CultureTeach;n
In Cro 丘 , K. ㊤ d.).Readtng
a
Sec0nd
on
English
L ㎝ 餌 age.Cambridge,W
thr0pPublishers.
珪
as
田-
[訪 0 一 558].
懇談会」 (座長,中嶋嶺雄氏 ) に向けて出
された,「日本覚国語教育改善協議会」(2000
年度世話人会 ) の「英語指導方法等改善の
推進に関する 懇談会 審議経過報告」に 対
(17) 水野義明 i993 「英語か,エスペラン
トか」,津田幸男 (編 ) 『英語支配への異論d,
第三書館, 121貫一173 頁。
㎝8) 具体的には,第一五期中教審は ,先の
第一次答申 (1996年 7 月 ) において, 21 世
紀を展望した 教育では,学校と
(26) 「英語指導方法等改善の 推進に関する
ヵ リキュラ
ムが「ゆとり」を 持ち,「生きる 力 」をは
する意見」。 『英語教育Ⅲ2000 年, 12 月号 )
64頁 一 65 頁。
(27) 日本人学習者の 英語音声認識の 低さが
英語学習全般に 及ぼす悪影響については ,
筆者による拙稿を 参考されたい。 (中井英
民 2000 .「英語音声指導における
%ヵ
タ
カナ発音 コの 影響とその払拭を 目指した 指
中井
遵法の一例」天理大学『覚国語教育』
26
号, 65頁 一 83 頁。)
(28) 松川 G 子 「小学校英語教育の 教科化
の 可能性」『英語教育 J (2000年, 12 月号)
14.真一 lf 頁 。
(29) 鈴木孝夫
1996 『日本人はなぜ英語が
できないか』,t岩波新書 ) 岩波書店。
(30) 筆者は現在,奈良県高等学校同和教育
研究会が県教育委員会との 連携で改訂作業
を
進める,人権教育読本,高校用「なかま」
の改訂委員でもあ るが,奈良県だけでなく
他府県が作成する 読本でも同様の 傾向が見
られる。 (奈良県で児童生徒全員に
無償で
に配布される 人権読本「なかま」には ,小
学校低学年用,同中学年用,同高学年用,
中学生用,高校生用,の4 種類があ り,全
国で作成される 県 ごとの人権 教育読本のモ
デルとなった。)
㏄1) 筆者は, 1997 年
7
月
10 日,奈良県教育
委員会主催,「奈良県各校の ALT
担当者,
同和教育研修会」で ,それまでの「ALT
の 参加をもとにした 人権教育の取り組み」
について報告した。
(32) ALT の任期は最長
3
年であるが,毎
年奈良県にも 30 一 40 名の新たな ALT
が赴
任している。 赴任直後 (8 月初旬 ) に県国
際課主催の研修会が 行われているが ,「日
本の人権 問題と人権 教育の現状」について
の講義が組み 込まれている。 筆者は1998 年
以降, 当講義の講師を 務めている。
す
寸言 已
本稿は, 200(W
年 , 10 同 19 日に,本学人権 問
題研究室主催の 公開研究会で 筆者が行った
口
頭発表,「英語 桝 国語 ) 教育は人権 教育とな
り得るか」の 内容を基にまとめたものであ る。
21