第 145 回

第 145 回
劇団 en 塾
甲斐切 清子 (かいきり すがこ)
2016
Mei-Juni
昨年からスタートした劇団 en 塾の「桜前線プロジェクト」が今年も終わった。
日本の桜の時期に、毎年、桜前線のごとく北上しながら一つの都市を訪ねていく日本公演ツアーである。昨年の九州に続いて
2 回目となる今年は中国地方、選んだのは迷うことなく広島である。インドネシアの学生たちも被爆都市として学校で学んでおり、
世界的にも平和都市として有名であり、そして、私の生まれ育った故郷である。
公的にも私的にも en 塾の学生たちを連れてきたいという気持ちは格段に強く、プロジェクトを立ち上げたときから訪問都市の一
つに決定していた。その広島公演が終わった。今回はその広島公演についてお話ししたい。
故郷とは有り難いところである。劇団 en 塾日本語ミュージカル「時代検証アプリ 192~伊國」広島公演にチケットは 2 週間前
に完売。500 人会場をいっぱいに埋めてくださった方の中の 40 名は私の親戚。小中高校の友人たちも、20 代のころ一緒に仕事
をしていた時の仲間も来てくれた。
だがその中で私にとってひときわうれしいお客様があった。それは恩師・佐藤雅巳先生である。
佐藤先生は私が小学校 4 年生の新学期に私の母校・落走(おちはしり)小学校に着任された。先生はそのとき 26~27 歳ぐら
いだったと思う。呉市内の大きな小学校で数年教鞭をとったあと、全校生徒 120 名、1 学年たった 1 クラスという田舎の小さな学
校に、この年移動されたのだ。私のクラスは男子 10 名女子 10 名、合計 20 名の少人数。この 20 人の田舎の子供たちに、6 年
生までの 3 年間、佐藤先生は実に多くのことを経験させてくださった。学級新聞のガリ版刷り、キャンプと飯ごう炊さん、手作りの卒
業文集と日時計の制作。それから「図画」でも「漫画」でもない「イラスト」の面白さ、「工作」ではない「造形」のこだわり、話し合い
の大切さ…。佐藤先生はそんなことの色々を私たちにたっぷり教えてくださった。
それを今私は en 塾で実行している。ポスター、パンフレット、音楽制作へのこだわり、舞台美術部や衣装部のデザイン、演技部
の練習法、毎年行なう合宿のコンセプト作り、定期的なミーティングの実施。
その素地を作ってくださった佐藤先生にぜひ en 塾を見ていただきたい、広島公演においでいただきたい…そう思い、大昔に控え
ていた電話番号にかけてみたが、すでに不通。市の教育委員会に問い合わせてみたが、個人情報は教えてもらえず。これはもうだ
めかと思っていた出発 2 週間前。広島公演実行委員会の方から「佐藤先生と連絡が取れました!」とのうれしいメール。聞いてみ
れば、先生はすでに en 塾のことをご存知でいらしたそうだ。数日前に発行された en 塾と私のことを取り上げた地元新聞の記事を
お読みになっていらしたのだ。
公演終了後にお会いした佐藤先生は、昔に比べひとまわりもふたまわりも小さくなったように見えた。
「もう 75 歳じゃけんね」と笑われて、「引退して毎日釣りばっかりしとるんよ」と話してくださり、そしてしばらくして、「私の名前を出し
てもらえるなんて…。ありがとう」と嬉しそうにおっしゃった。その日の公演の舞台挨拶で、私が「今日、小学校の恩師・佐藤雅巳先
生においでいただいています」とお名前を挙げたからだ。
「今日は平和公園まわりの桜が満開になったらしいけん、ちょっと見て帰るよ」
そう言って先生はくるりと背中を向けてゆっくりゆっくり歩いて行かれた。その穏やかな後姿を見ながら、今日という日が私の先生
への恩返しになってくれたらと思っていた。だがその後、先生はそれ以上のことをしてくださっていたことがわかった。
ジャカルタに戻って広島公演のアンケートを読んでいたときのことである。1 枚のアンケートに、とても懐かしい、あのころまだ誰も書
くことのなかったアルファベットでのサインを見つけた。M.Sato。先生のサインはこの 40 年変わらなかったんだと思いながら、アンケート
に書いてくださった言葉を見つめた。そこにはこうあった。
「貴女を誇りに思います」
なんと最上級の褒め言葉であることか。この一言で先生はまた教え子を押し上げてくださった。現場は引退されたかもしれないが、
私にとって佐藤先生はいまだ現役の尊敬すべき先生だ。
さて学校といえば今回はもう一つ学校にかかわることがあった。
今回、私は同県人のつながり、同窓生の絆がいかに強いものであるかということを初めて知った。
しかもそれが将来自分の進める大きなプロジェクトをこれほど強く支えてくれることになろうとは、40 年前に広島県立広高等学校
を卒業した時の私は想像するはずもなかった。
それは昨年 12 月の初め、ジャカルタの某ホテルで行われた広島インドネシア協会視察団の親睦パーティーでの出来事であった。
「ほうね、甲斐切さんは広高校ね! 同じじゃねぇ!!」
その男性はそう言って破顔された。そして続けてこう言ってくださった。
「よっしゃ、そういうことじゃったら動かんわけにはいかんのお!」
呆然と聞いているしかない私に、叩き込むようにその方はおっしゃった。
「何でも言いんさいよ、お金でもチケットでも宣伝でも、まかしときんさい!」
まあるい顔に人懐っこい目がいつも笑っているえびす様のような表情のその方は、私が広島に住んでいたとき、いつも利用してい
た広島の電車とバスの会社の社長さんだった。
果たしてその社長さんは、多くの協賛をしてくださり、たくさんのチケットを買ってくださり、そして信じられないことに、市内を走る広
島名物路面電車および広島全県を網羅するバスの全路線に日本公演のポスターを掲示してくださったのだ。
私の姉など、初めてバスにポスターが貼られた日も初めて路
面電車に吊られた日も興奮して電話してきて、それ以降もうれ
しいやら信じられないやらで、しょっちゅう電話があった。
「初日、ドキドキしながらバスに乗ったら、座った椅子の真上
で伊國が私にほほ笑んどったんよ~」
「伊國のポスターを真剣に見ている人がおって、思わず声を
かけそうになってしもた」
「今日は出かける用はなかったんじゃけど、伊國のポスターを
見るためにバスと電車に乗ってきた」
わかるよ、お姉さん! 私も広島におったらお姉さんとおんな
じことをしとるけん!!
この話には後日談がある。
en 塾が広島に行った折、ポスターがまだバスの中に貼られてるということがわかった。そこでバスのすいている時間を見計らってポス
ターに写真が載っているメンバーを中心に数名を連れてバスに乗った。その時の彼らの反応は、実に興味深かった。
(本当に貼られていることに)びっくり→(話が本当だったことに)感激→(公共の場に自分の顔が公開されていることに)羞恥→
(こんなに大きく扱われていることに)感動→(外国のバスの中に自分たちのミュージカルのポスターが貼られていることに)興奮→(写
真を撮りまくったことに)満足。こんな奇跡をくださった広島県立広高等学校の大先輩、本当にありがとうございました!!
さて劇団 en 塾のメンバーは広島公演本番を挟んで、たくさ
んのことを行なった。 まず着いた当日、宿泊施設の会議室で
「平和学習セミナー」を受講。広島の大きな歴史を、広島公
演実行委員長の解説で改めて勉強した。そして千羽鶴を折
った。今回のメンバーは 50 人なので一人 20 羽折れば、全部
で 1000 羽になる。紙はジャカルタで買ってきたバティック模様の
ラッピングペーパーを折り紙サイズに切って持ってきていた。どん
どん折られていくバティック模様の折り鶴。きっと思いのこもった
千羽鶴になるに違いない。
翌朝は一番でホテルから徒歩で 15 分の平和記念公
園に向かった。原爆死没者慰霊碑に献花し、平和祈念
像の前で「桜よ」を合唱。そのあと原爆資料館で多くを目
にし、学んだ。
そして広島公演が終わった翌日、団員たちは再び平
和公園に行き、まず平和の子の像に向かった。広島初日
にみんなで折った千羽鶴を奉納するためだ。
奉納を終えて次は原爆ドーム対岸の川沿いのテラスに
移動した。おりしも平和公園は桜満開、しかもその日は
日曜日でお花見を楽しむ人々でにぎわっていた。
ここで en 塾は原爆ドームを背に、咲き誇
る桜を目の前にして「桜よ」を歌った。観光に
来た外国人の方を含む多くの方が足を止め、
聞き入り、涙を流してくださった。
そのあと en 塾はくるりと向きを変え、川を
挟んで原爆ドームに向き合った。集まった皆
さんに背を向ける形になったが、次の歌はど
うしても原爆ドームに向かって歌いたいと思っ
たからだ。
いつもこの場所にあり続け 私たちを静かに見守り
確かに時を刻んでいた 何も語らず そばにいてくれた
なのに私たちは知らなかった いつしかおまえが年老いて
ある日突然 嵐が吹いて 何も告げずにいなくなることを
石であれど木であれど
別れのこの日におまえの
命が宿ると人は言う
声が初めて聞こえる
ここに始まりよかったと ここに終わりよかったと
たとえ消えても ときおり 思い出して語っておくれと
けして忘れない おまえのたたずまい
おまえのはだざわり おまえの息づかい
おまえの声なき声 消えゆくものたちよ
おまえが消えても 重ねた時は消えない
石であれど木であれど
命が宿ると人は言う
たとえ消えても ときおり
思い出して語ってゆくよ
消えゆくものへ
この歌を歌った後、お客様にお辞儀をするために振り返った en 塾のメンバーの顔を私は忘れることができない。一様に目を腫ら
していた。涙で顔をくしゃくしゃにしている者もいる。彼らは泣きながら歌ったのだ。その顔を見てお客様もまた目を潤ませている。
そのとき私は、彼らを連れてきてよかったと心から思った。広島の歴史を広島で学んでもらい、千羽鶴を折って奉納し、慰霊碑に
献花し祈ったからこそ、この平和な空のもとで歌うことの意味が彼らの心深くにしみわたり、原爆ドームへの愛おしさが彼らを大きく包
んだのだと思う。だからこそ彼らは涙したのだと思う。
そしてこれも後日談がある。
広島から東京に移動した翌日、東京公演のリハーサルの合間、団員たちと広島の思い出話をしていたときだった。私の隣に座っ
ていた団員の一人が唐突に話し始めた。
「先生、変なことを話す子だなって思うかもしれないけど…」
その言葉を前置きに彼はこう語った。
「原爆ドームに向かって『消えゆくものへ』を歌っていたときに、en 塾じゃない人たちの歌声が聞こえてきたんだ。初めはひとり、ふた
り…って少しずつ増えてきて。最後はすごく大勢の人たちが僕らと一緒に歌ってた」
そして彼は再び遠慮がちに「信じてもらえないかもしれないけど…」と前置きをして言った。
「あの人たち、あそこで亡くなった人たちだと思う」
彼は続けた。
「あの人たち、あの川べりや道端で倒れて力尽きた人や、川に飛び込んで溺死した人や、そんな人たちだと思う。その亡くなった
人たちが、立ち上がり這い上がりしてきて、僕らと一緒に歌ったんだと思う…」
私は一瞬言葉を失い、そして迷うことなく彼に言った。
―信じるよ、信じる。世界中の誰も信じてくれなくても先生は信じる。
みんな、広島でたくさんのことを学んでくれて、知ってくれて、感じてくれて、ありがとう。
広島県呉市で生まれ育った私は、小学校から高校まで、たくさん平和教育の授業を受けた。原爆をテーマにした映画をいくつも
観た。原爆資料館にはいったい何度足を運んだことだろう。そしていま私は、第 2 の故郷であるインドネシアの若者たちに広島を伝
えている。こんなことができた私は、広島県人としてなんと幸せな人間だろう。
7,8 年前から心に沁みるようになった歌の一節がある。
みなさんよくご存じの唱歌「故郷(ふるさと)」だが、3 番に属するこの部分は余り歌うことがなかったせいか、ほとんど記憶に残って
いなかった。だが、9 年前にジャカルタ・クマヨランで行なわれた日本の祭りで、インドネシアの大学生たちによる大合唱の楽曲に選ん
だ時に、その全歌詞と向き合うことになり、改めてその 3 番の歌詞に引き込まれた。
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 水は清きふるさと
口ずさむだけで目頭が熱くなってくる。
この歌が心に沁みるのはどうしてだろう。
年を取ったせいだろうか。父母がいなくなったせいだろうか。学校併合で母校である小学校がなくなったせいだろうか。またはすでに
20 年以上もの間、祖国を遠くから見つめているせいだろうか。ほかにも理由があるような気がするが、うまく言葉にできない。
だが一つだけ、はっきり言えることがある。
青き山も清き水もあった時代に生まれてよかった。
広島に生まれて、日本に生まれてよかった。
―つづく
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