1605Kue_issyo - 神通寺 ご法話のページ

 熊本地方を中心とした地震被害に遭われた方々に、心よりお
見舞い申し上げます。
ご門徒・有縁の皆様方からお寄せいただいた義援金 50,000
円は、浄土真宗 本願寺派を通じて、被災地へお届け致します。
PM1:00 〜
6/17
( 金 ) 〜
PM7:00
神通寺定例法座
冷やし中華をいただきます!!
5 月は、山菜
の天ぷらを堪能
しました。
6 月のご法座
神通寺報
熊本地震 災害義援金 ご協力御礼のこと
JINZUJI
では、八軒町の
大野光夫さんよ
り、冷やし中華
を振る舞っていただき
ます。お腹をすかせて
お参り下さいませ。
第 272 号
(2016 年 5 月号)
〒 506-0021
高山市名田町 5-30
明林山 神通寺
住職 朝戸 臣統
0577-32-3614(TEL/FAX)
カラー版神通寺報はこちらから!→
[email protected]
www.jinzuji.com
神通寺報 配布スタッフの皆様(敬称略)
不破 朝子・三枝 勝・黒田 はな・中垣 久美子・中澤 一弘・塚本 清洋・中田 泰子・永富 登代子・
石垣 美代子・洞口 義武・松尾 衿子・片岡 節子・畠山 正一・松本 文男・阿多野 正昭・
柴田 和子・安藤 礼子・成畑 瑛子・松川 浩幸・大萱 勝・谷口 忠雄・若田 義隆・千原 繁・
大野 光夫・原田 尚子 1
第 272 号(2016 年 5 月号)
ふ た た
あ
かならず再び会う
耳 を 疑 う と い う の は、 こ う い う こ と か と 実 感 し ま す。
四十代半ばのご門徒さんが亡くなられました。先月にお
会いして、会話を 交 わ し た の
が最期になるとは 思 っ て い ま
せんでした。
これから、会社 や 地 域 社 会
の中心として活躍 さ れ る は ず
だったのに、連れ 合 い や 両 親
を残して、先にこ の 世 を 去 っ
て行かれたのは、 あ ま り に も
寂しく、残念でな り ま せ ん 。
別れの悲しみに 、 大 小 を い
うのはおかしいの か も 知 れ ま
せんが、やはり若 い 方 と の 突
然の別れは、その 悲 し み が ひ
としお大きいのは 事 実 で あ り
ましょう。
「なぜ人は死ななければならないのか。どうして悲
しい別れを経験しなければならないのか。
」
ちしき
けい
人生の大きな悲しみにぶち当たったとき、私に突
きつけられる人生の問いでもあります。その問いには人
り ま し た。 そ の 際 に、 夫 婦
納骨したいとの申し出があ
両親のお骨を永代供養墓に
えいたいくようぼ
先 日、 ご 門 徒 さ ん 夫 婦 が
お 寺 に 訪 ね て こ ら れ、 亡 き
られます。
人生の終焉に向き合ってお
しゅうえん
く の か、 多 く の 方 が 自 ら の
まい方をどのようにしてい
ま す。 人 生 の 終 わ り 方、 し
そ の 一 方 で、 世 の 中 で は
しゅうかつ
「終活」がブームになってい
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験も役には立たないのです。
けん
間の知識は答えを出すことはできず、積み上げてきた経
「拝読 浄土真宗のみ教え」より。
第 272 号(2016 年 5 月号)
2
ご 自 身 の 納 骨 も「 予 約 」 し た い と の こ
熱心にお聴聞される、ご門徒の皆さん。
しゃくてっ
土真宗の僧侶で、宗教学者でもある釋徹
しゅ浄
う
おっしゃ
宗さんは、そう仰います。
現代人の感覚からすると、物語というのは
あまりリアリティーを感じないかも知れませ
やっかい
と で あ り ま し た。 都 会 で 暮 ら す 若 い 人
で人生の最期をあらかじめ準備してお
ん。
に で き る だ け 厄 介 を か け ず、 自 分 た ち
きたいと仰います。
むしろ、科学的、物質的なものの見方のほ
うが、受け入れやすいと感じます。その思考
の 延 長 線 上 に あ る の は、
「死んだらおしまい
おっしゃ
ーネットで調
「終活」についてインタ
じょうほう
べますと、「死に関する情報」は、たく
さん触れることができるようになりま
だ。 死 ん だ ら 無 に な る の だ。
」 と い う、 ド ラ
む
し た。 多 く の 方 が 、 ご 自 身 の 死 に 向 き
イな命の考え方なのかも知れません。
せんだつ
合 い、 情 報 を 得 た い と 思 っ て お ら れ ま
ち
す。
む
ぜ、私たちの先達は、どうして死に
ではな
ものがたり
う
つ
つた
関する物語を受け継ぎ、伝えてこられたので
物語を信じたけれど、現代人はそんな物語は必要なくて、
し ょ う。 昔 の 人 は 科 学 的 に 無 知 だ っ た か ら、
さ れ る わ け で は あ り ま せ ん。 私 た ち が 本 当 に ぶ ち 当 た っ
死に関する情報さえあればいいのでしょうか。そうでは
た だ、 ど れ だ け 情 報 を 集 め て も、 そ
の 情 報 に よ っ て「 死 へ の 不 安 」 が 解 消
て い く「 人 生 の 問 い 」 は 、 人 間 の 知 識 や 経 験 の 蓄 積 で は
なくて、人間の知識や経験の積み重ねでは乗り越えられ
じんせいこんぽん
乗り越えられないという、厳しい現実があるのです。
な い、 人 生 根 本 の 問 題 を 乗 り 越 え る 力 を、 死 に 関 す る
ものがたり
☆★☆★☆★☆★
あ
物語によっていただいてこられたのではないでしょうか。
じょうほう
もんてい
親鸞聖人は、人生の晩年に、ご門弟に宛てたお手紙の
しんらんしょうにん
☆★☆★☆★☆★
「死に関する情報」はあふれているものの、
「死
現代は、
ものがたり
に関する物語」は貧弱な社会なのではないか。
(釋徹宗氏『死では終わらない物語について書こうと思う』より)
第 272 号(2016 年 5 月号)
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おっしゃ
中で、こう仰います。
あ み だ さ ま
あなた
じょうど
「わたしはもう、年をとってしまって、貴方たちより先に
おうじょ う
ま
往生するであろうから、阿弥陀様のお浄土で、かならず
かならずお待ち申し上げております。
」
うなづ
しんらんしょうにん
ねんぶつ
確かに頷いていかれたのが、親鸞聖人であり、お念仏の
先輩方なのです。
☆★☆★☆★☆★
なるわけではないけれども、悲しみだけでは終わってい
お念仏のみ教えにであえば、別れの悲しみがなくなる
のかといったら、そうはいきません。深い悲しみがなく
同 じ み 教 え を よ り ど こ ろ と し て 生 き て い る 私 た ち は、
たとえこの世で悲しいお別れを避けることができなくて
かない、尊いいのちの行き先と、いのちの目的に気付か
とうと
も、 も う 一 度 お 会 い す る こ と の で き る 世 界 を い た だ い て
せていただくのです。
われ
います。
すく
ものがたり
ていただくのです。それは単なる非科学的な
ひかがくてき
てまたお会いすることのできる世界を聞かせ
今は、悲しいお別れを経験していく私だけれど、やが
かな ら
ほとけ
物語ではなく、私のいのちを支えて下さる、
さと
必ず救う。我にまかせよ。
あ み だ さ ま
阿弥陀様の願いをよりどころとするという
じょうど
ことは、この世の縁が尽きるとき、お浄土に
新 し い い の ち を い た だ い て、 悟 り を 開 い て 仏
ただ一つの道であったと頷けるとき、その物
じょうど
うなづ
さまになっていくことのできる道を歩んでい
ちしき
語こそが私を救う真実の道となるのです。
じょうほう
く、ということで す 。
またそれは、単なる未来のことではありま
せん。今、亡き人のことを想ってお念仏申す
がたり
私 は、 そ の こ と を 情 報 や 知 識 と し て い た だ
もの
く の で は あ り ま せ ん。 私 の い の ち を 支 え る 物
とき、すでに亡き人の導きとお育てをいただ
あ み だ さ ま
たし
いま
いているのです。必ず浄土に生まれて再び会
あ
語としていただく の で す 。
える確かさに、今であっているのです。
ふたた
我が身を照らして下さる阿弥陀様の願いに
で あ う と き、「 私 の 人 生 根 本 の 問 題 を 解 決 し
てくださるのは、この道でありました。
」と、
洞口義武さんから、観経のあらすじを解説。
第 272 号(2016 年 5 月号)
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