日本におけるゲシュタルトの歴史 - ゲシュタルト・ネットワーク・福岡

特別寄稿
『日本におけるゲシュタルトセラピーの歴史』
日本ゲシュタルト療法学会
副理事
岡田 法悦氏
(1) 黎明期
ゲシュタルトセラピーはフリッツ・パールズらによって1950年代に開発された心理療法である。フリッツ
自身,1960年に京都を訪れ,2ヵ月ほど禅寺で禅を体験しており,そこから「肥沃な無」といったコンセプ
トを生み出している。また,記録は残っていないが,その後,散発的に著名なゲシュタルト療法家が来日した機
会はあったようである。
その流れの中で,日本人がゲシュタルトに関わり始めたのは1970年あたりからである。その頃,霜田静志
に師事して精神分析を学んでいた篠崎忠雄(1917-1997)がゲシュタルト療法に関心を持ち,サンフランシスコ・
ゲシュタルト研究所のポーラ・バトム(Paula Bottome、以下、ポーラ)らとの交流を図っていた。
霜田はイギリスのA.S.二ール(Alexander Sutherland Neill,1883-1973)による新教育運動の研究に傾注し,
二ール著作集10巻の刊行,『愛育研究』詩の発行などにより,日本の教育界に大きな影響を与えた。また,教
育相談や,母親教育,教育分析,集団分析の実践と共に,親子関係や対人関係で苦悩する人々への援助,自己成
長,自己実現を求める人々への学びや研修を精神分析の立場で実践していた。その中から日本のカウンセリング
界の重鎮,国分康孝や篠崎忠雄を輩出した。
篠崎は,工学系エンジニアとして活躍中に旧海軍に召集され兵役に従事した。復員後,期する所あって人の心
の問題に取り組むようになり,霜田に師事し精神分析をベースに実践研究を重ねた。ホーナイのリアルセルフの
概念に示唆を得て,人の根幹を成すものという意味の真自己という概念を元に真自己分析法を開発した。一方で,
精神科から紹介のあったクライエントにゲシュタルト療法を用い,またゲシュタルト療法の研究会やワークショ
ップを積極的に開催した。1980年から1985年まで,前田茂則と共同で『ゲシュタルトセラピー研究』誌
を発刊した。
(2) トレーニングの開始
1981年にリッキー・ウルフ(Rickie Wolf,後にLivingstone、以下、リッキー)が,テレビで英会話を教
える姉を訪ねて来日した。
リッキーのゲシュタルト歴は1967年よりカナダのトロントでゲシュタルト療法のトレーニングを受けた
ことに始まる。ちなみに,後に社会産業教育研究所を主宰する故・岡野嘉宏が定期的に日本に招聘していたトニ
ー・キー(Tony Key)も,同じトレーニングコースの同期生であった。
リッキーはオーストラリアでトレーニングを行った後に来日したが,その時偶然に,サイコシンセシスを研究
していた東京大学医学部の石川中,上智大学教授で臨床心理学を教えていた霜山徳爾との出会いがあった。
ポーラは1985年に東京ゲシュタルト研究所に招かれリッキーと共にトレーニングを行ったが,意見の相違
からその後すぐにリッキーの元を去った。
リッキーはその後1990年までトレーニングを続け,その間に「クラウニング・ワークショップ」という手
法を開発し,1989年には吉福伸逸と共著で「聖なる愚か者」を出版している。この手法はコースの卒業生に
よって現在まで受け継がれている。リッキーのトレーニングコースはエネルギッシュであると同時に厳しい雰囲
気に包まれており,コース修了までに3分の2の参加者が脱落したということである。
ポーラは,リッキーと決別してすぐに東京神楽坂に場所を提供する人を得て日本ゲシュタルト研究所を設立し,
そこで週1回のワークショップを開始している。1986年にそのワークショップに参加したのが,筆者にとっ
てゲシュタルト初体験であった。
ポーラは,元々は西洋史で博士号を取得したが,1966年にパールズ夫妻と出会いゲシュタルト療法のトレ
ーニングを積んだ。フリッツが1965年から1969年までトレーニングコースを開設していたカリフォルニ
ア,ビッグサーのエサレン研究所で,そしてフリッツが1969年に設立し晩年を過ごしたカナダ,バンクーバ
ー近郊のレーク・カウチンのゲシュタルトコミュニティーなどで研さんを積み,後にサンフランシスコ・ゲシュ
タルト研究所の所長を務めている。
1987年の夏に,サンフランシスコ・ゲシュタルト研究所でポーラを含む3人のセラピストによる夏期集中
ワークショップが開催され,筆者はそれに参加した。セラピストはポーラに加え,フリッツとの共著「ゲシュタ
ルトセラピーのルールとゲーム(1970, Rules and Games of Gestalt Therapy)」があるエイブ・レヴィツキ
ー(Abraham Levitzky,1922-2012)とルー・グレイ(Luccana Grey)であった。このワークショップが大変素
晴らしい体験だったので,筆者はこの3人を日本に招聘してワークショップを開催した。ポーラは日本でのトレ
ーニングに見切りをつけるつもりだったが,このワークショップが成功裏に終わったことで日本における活動を
再開する決心がついたと,後に筆者に語った。
その後,ポーラと筆者は,1988年にパット・バウムガードナー(Patricia Baumgardner)を,1989年
にはステラ・レズニック(Stella Resnick)を日本に招聘し,ワークショップを開いた。1990年に,筆者は
ポーラにゲシュタルト療法の団体を創設することを提案し,俵理英子,後に前田茂則(前述の篠崎と共に『ゲシ
ュタルトセラピー研究』を刊行),百武正嗣と共にGNPR(The Gestalt Network of the Pacific Rim)を設
立した。
(3) 4つの流れ
現在,日本のゲシュタルト療法には大きく分けて4つの代表的な流れがある。それは,
 リッキー・リビングストン(ウルフ改め Livingstone)から発生した流れ
 ポーラから発生した流れ(GNJ系)
 筆者から発生した流れ(GA系)
 倉戸ヨシヤから発生した流れ
である。それ以外にも,確かなことは不明であるが,フリッツらとニューヨーク・ゲシュタルト研究所を立ち上
げたメンバーの一人,イサドア・フロム(Isadore From)が1980年代初め頃に関西を訪れた時に訓練を受け
た松井洋子がトレーニングを行っていたといわれているが,一つの流れを作っているとはいい難い。
リッキーによる東京ゲシュタルト研究所のトレーニングコース卒業生たちの流れとポーラの流れは,2010
年に日本ゲシュタルト療法学会が設立されるまでほとんど接触を持たず,お互いに独自の活動を続けてきた。東
京ゲシュタルト研究所は同学会副理事長の一人,江夏亮が事務局を務め,後に大野美都子,そして倉木成伊知へ
と受け継がれ,現在Eセラピー研究室として存続している。また,上記学会のもう1人の現副理事長,守谷京子
は独自にPGIを設立しトレーニングコースを開催しリビングストンのクラウニングも継承している。
一方,ポーラは通訳を務めた筆者と共に日本各地でワークショップを実施し,ゲシュタルト療法を紹介する活
動を続けた。GNPR設立1年後,上記学会の現理事長,百武正嗣がメンバーに加わった。1992年には筆者
の提案で日本初のゲシュタルト療法解説のためのビデオを㈱チーム医療より出版した。このビデオにはポーラ,
前田,百武,俵,筆者が出演しており,実際のゲシュタルト療法のワークが収録されている。その後,百武が事
務局を筆者から引き継ぐと,その発案で会の名称をGNJ(Gestalt Network Japan)と改め,現在までトレー
ニングコースを開催している。百武は精力的に日本各地でワークショップを開き,鹿児島,福岡,福山,大阪な
どにGNJプログラムによるトレーニングコース開催グループを立ち上げている。
筆者はGNJには加わらず,自社,ゲシュタルト・インスティテュート㈱において定期的なワークショップを
開催するとともに,(社)日本産業カウンセラー協会会員として,全国各地の同協会支部でゲシュタルト療法を紹
介するワークショップを実施し続けている。同協会神奈川支部では毎年8回のコースを開いており、また200
0年に同協会関東支部(当時)で開始された年10回の通年コース第1回の参加を終えたメンバーの発案で20
01年にゲシュタルト・アソシエイツ・ジャパン(GA)を設立し,トレーニングコースを開催し続けている。
また,名古屋と大阪にもトレーニンググループ(GAN,GAO)を立ち上げ,定期的にワークショップを開催
している。
2003年7月,GNJ系のファシリテーター*たちが東京・三田に集まって第1回全国ファシリテーター集
会を開き,研鑽を深め,また意見交換を行った。翌年7月には,筆者やGA系のメンバーも加わって第2回全国
ファシリテーター集会を東京・北千住で開き,その場で日本ゲシュタルト療法連絡協議会を設立した。目的は,
積極的に全国のゲシュタルト療法実践者たちに相互研鑽を呼び掛けることである。全国ファシリテーター集会は
その後毎年開かれ,2006年には国際サイコセラピー会議イン・ジャパンのゲシュタルト療法分化会を主管し,
フランスのゲシュタルト療法家,サージ・ジンジャーによるワークショップを開催した。また,2008年には
集会を屋久島で行い80名の参加者を集めるなど,参加者数も年々増加してきた。
2009年の全国ファシリテーター集会を「全国ゲシュタルト大会」と名付け,日本ゲシュタルト療法学会設
立準備大会と位置付けた。この大会には,前述のエサレン研究所現所長,ゲシュタルト療法家のゴードン・ウィ
ーラー(Gordon Wheeler)と,米国ケント州立大学名誉教授で40年以上同大学でゲシュタルト療法を教えてき
たアンセル・ウォルト(Ansel Woldt)を招聘し,全国から約140人の参加者を集めた。
翌2010年1月,東京・新宿において日本ゲシュタルト療法学会発起人集会が開かれ1月24日に学会が発
足した。この発起人集会にはリビングストンの流れのメンバーも参加し,ここに3つの流れが合流したのである。
さて,もう一つの流れは関西の倉戸ヨシヤから発生したものであり,上記3つの流れとは接点がほとんどない。
倉戸は,1972年にアメリカから一時帰国した際にゲシュタルト療法についての講演やデモンストレーション
を行ったが,日本の土壌には向かないなどの批判を受けたとして,以下のように述べている。
…そして,再度渡米したときには,より一層,ゲシュタルト療法を含めた心理臨床の研究と実践に精を出す原
動力となった。恩師のスー・キャンベルをはじめ,スティブンス親子などゲシュタルト派の療法家に師事し,最
終的には,サンディエゴにあるゲシュタルト・トレーニング・センターのポルスター博士夫妻からディプロマを
もらった。
また,日本における実践については次のように述べている。
1976年の夏に帰国し,心理療法として本格的に実践されるのは,編者が帰国するまで待たなければならな
かったというのが大方の見方といってよいと思われる。
1976年の夏に帰国し,心理臨床が開始される。その結果は,学会でのケース研究の発表,シンポジウムや
講演会での報告,ワークショップの開催など,順次,行われている。それゆえ,もう22年も心理臨床の現場に
おいて実践されていて,その効用と限界についての知見が蓄積されているのである。
(倉戸ヨシヤ編「現代のエスプリ第375号,ゲシュタルト療法」, 至文堂, 1998 年, pp.6-7)
倉戸は大学で教鞭をとりながらセラピストトレーニングを開催し,現在もそれを続けている。筆者らが日本ゲ
シュタルト療法学会を設立した際に合流を呼び掛けたがそれには応じず,同学会設立直後に,独自に日本臨床ゲ
シュタルト療法学会を設立している。
(4) 約20年間の鎖国状態と国際交流
この間,GNJ系もGA系も,モーガン・グッドランダー(Morgan Goodlander),ロイス・ブリエン(Lois Brien)
を始め,数名のセラピストをアメリカから招聘する一方で,日本のゲシュタルト療法実践者たちが海外に出て他
国のセラピストたちと交流したりワークショップを開催することはほとんどなかった。そこで,グッドランダー
は,百武にオーストラリアの団体が主催するワークショップへファシリテートとして訪れることを,また筆者に
は英国マンチェスターで2008年に開催されるAAGT(The Association for the Advancement of Gestalt
Therapy, the International Community)の国際学会で発表を行うことを提案し、その橋渡しの労を取った。16)
筆者がこの国際学会に参加したことで,上述,2009年の全国ファシリテーター集会にウォルトを招聘するこ
とができた。また,百武もウィーラーと連絡をとり招聘している。
ポーラと筆者がGNPR主催でバウムガードナーやレズニックのワークショップを開いたり,グッドランダー
やブリエンらが来日するなどしていたが,2009年に至る約20年間,日本のゲシュタルト療法界は鎖国状態
にあったといっても過言ではない。ここでいう鎖国状態というのは,後述する欧米のゲシュタルト療法の流れの
変化を学んだり影響を受けたりほとんどせず,独自の歩みを続けていたという意味である。理由は2つある。
1つは,上述のように,わが国のゲシュタルト療法実践者たちが海外のゲシュタルトの世界と交流をあまりも
たなかったこと,もう1つは理論面にあまり関心を持たず,体験面を重視していたことである。
筆者は幸いなことに英語にあまり不自由しないので,多くのゲシュタルトセラピーの文献に親しみ,欧米の変
化を知的に仕入れることはしていたが,大多数の日本のゲシュタルト療法家にとって言語の壁は厚い。それが,
海外に出ることを妨げていた可能性は高い。
また,ポーラは,ゲシュタルト療法家を養成する上で最も大切なことは体験であり,理論を知るより,精神分
析でいう教育分析のように,自分の内面を見つめ体験するワークを続けることが重要であることを繰り返し語っ
ていた。リビングストンも同様の見解を持っていたようである。ポーラと筆者が1988年にバウムガードナー
をアメリカから招聘しワークショップを開いた時,筆者は理論も学びたかったので毎日午前中をレクチャーの時
間にあてるプログラムを組んだのだが,そのレクチャーへの出席者が大変少なく,午後の体験のみの参加者が多
かった。バウムガードナーは日本人のこの態度に怪訝な思いを抱いたようだが,それに対しポーラが自分の教え
に一因があるとの反省を伝えていたことが思い出される。この出来事が,日本のゲシュタルト界において,さら
に理論に重きをおかない習慣を強化した観もあり,グッドランダーらが来日してのワークショップでも体験重視
のワークショップを依頼し続けていた。そのことで,彼らの方法を体感的に受けとめながら自分たちとの違いを
感じることはあったにせよ,それがどのような理論に裏打ちされたものかを知的に学ぶ機会を逸してきたように
思える。
筆者がAAGTの国際会議に参加して目撃した変化への驚きは大きなものであった。前述のように,日本の療
法家たちがポーラらから教わった古典的な方法を守り,独自に発展させていた間に,欧米ではブーバーの「我-
汝の関係」を純粋に実践する関係対話アプローチ(Relational Dialogical Approach)が大きな潮流となってい
たのである。
(5) 今後の展望と課題
現在の日本ゲシュタルト療法学会には,指導的な実力を持つスーパーバイザーが,筆者を含め8名いる。ある
いは,8名しかいないと言った方が適切かもしれない。現在,学会が主催するトレーニングコースをファシリテ
ートする療法家を育成するための審査を行っているが,そのような機会を増やして指導者を育成することが急務
である。
現在,日本でも心理職を国家資格化する法案がまとまりつつある。日本ゲシュタルト療法学会も,その推進団
体である日本心理学諸学会連合に加盟したところである。国家資格化されるということは,資格認定試験が設け
られるということであり,その受験要件には一定のアカデミックな資格が要求されることになろう。
関西の日本臨床ゲシュタルト療法学会は,倉戸が大学教授であることからメンバーはアカデミックな人々であ
ると考えられるが,日本ゲシュタルト療法学会のメンバーは学位を持つ人も多くなく,大学で心理学系の科目を
修めた人ばかりでもない。3人の副理事長の1人である筆者にいたっては,理工系の学部を3年で中退しており
BAも持ち合わせていないのである。
概要に述べたように,ゲシュタルト療法は他のどの心理療法にもその要素が取り入れられるほど基本的な方法
である。そうであるなら,心理療法を学び実践する人々がゲシュタルト療法を学ぶ機会を持つことが求められる。
その時に,ゲシュタルト療法家の多くが国家資格を得,さらに心理療法諸学会に対し一定の発言力を持つことも
必要になろう。そう考えると,それにふさわしい人々がゲシュタルト療法の専門性を身につけ,日本のゲシュタ
ルト療法の世界を盛り立てるようになることが求められるということになる。これも今後の大きな,そして急を
要する課題である。
筆者は,ゲシュタルト療法を含む心理療法が国家資格化されることは,わが国の心の健康を守るために大変重
要なことと考えている。欧米各国と違い,日本にその制度がないことで,誰でもカウンセラーを名乗るだけでな
く開業もできる現状を作っており,心の健康を守る上で大きな危険をはらんでいると感じるからである。
一方,筆者が危惧するのは,国家資格に合格することや心理療法の専門家たちに対し、ある部分で指導的な立
場に立つことに,アカデミズムが強く求められる状態が生まれる可能性である。
日本のゲシュタルト療法家育成の過程で理論面が重視されてこなかったと述べたが,実は理論以前に体験を重
視することが,ゲシュタルト療法を身につける上で欠かせないことも事実なのである。それは,ゲシュタルト療
法が「今・ここ」での感情・感覚・直観的な気づきと,療法家とクライエントの間の「我-汝の関係」を大切に
すること,また論理的に因果関係を追うことで問題解決を図る目的志向に陥らずに,「あるがままの自分の中で
起きていることを感じつくす」ことのみによって結果として変容が起きることを大切にする療法だからである。
そして、ゲシュタルト療法理論として確固として体系づけられたものがある一方で,それを過去のデータの集積
として捉え,「今・ここ」で起きていることを理論に重ね合わせ,それに沿ってクライエントと関わるよりも,
「今・ここ」で起きていることを〝初めて起きているユニークな体験〟として捉え,直観的にクライエントと関
わることを優先するのがゲシュタルト療法だからである。
理論は「言葉」の集合体である。一方、人の心が感じることは言葉によって表現し得ることばかりではない。
心の不調や葛藤は,人によって違い,そして言葉によって捉えたり表現したりできない,微妙でデリケートな心
の襞の中に生まれ,潜んでいることが多い。そういう意味でクライエントを受容し、寄り沿い,結果として癒し
を生む関わりは,理論的な,あるいはマニュアル的な知識・スキル学習を優先させると学ぶことが大変難しくな
るのである。
現在までのゲシュタルト療法家の養成の過程で大切にしてきたこの側面に,アカデミックな姿勢を養う必要性
が付加された場合,体験優先の文化がどこまで守られるか,それが、筆者が危惧する部分であり,それらを両立
させることが今後の大きな課題の一つであると考えている。