故 坂田創先生絶筆文 って止まない次第である。 」震災の荒廃の中で、 当時の 故 坂田創先生絶筆文 ─「寄稿 橄欖会の精神について」─ 坂田 創(中 21 回) 情勢の中で語られたこの告辞は生徒の心に強く残った と思います。 卒業式の午後横浜キリスト教青年会館ホールに場所 を移し卒業生と教職員が記念昼 会を共にしました。 橄 欖 会 創 立 90 周 年 その後卒業生の総会が開かれ同窓会として「関東学院 おめでとうございます。 橄欖会」が創立発足しました。坂田院長が会長に推さ 90 年の長い歴史を受け れて就任しました。1924 年 3 月 10 日のことです。 「橄 継いできた多くの会員 欖」の名称は上記の通り平和の象徴です。 の皆さん、会を運営し 以上の経緯から考えて(当初の会則には明確ではあ てきた方々、母校関東 りませんが) 「橄欖会の精神」は「人になれ 奉仕せ 学院、その他多くの関 よ」 「人道上のチャンピオンになれ」であると考えるの 係者の皆様と喜びを共 が自然であり適切であると考えます。そしてこの精神 にしたいと思います。 は 90 年間脈々と受け継がれてきたと思います。 この節目の時に当た 47 名で発足した橄欖会は今や 21,000 名を超えてい り創立当時の学院の状 ると聞いております。会が大きくなると会員の交流親 況と橄欖会の精神を考 睦も難しいのですが、会員が関心をもち、会の為に何 えてみることは意義のあることと思います。 か出来ないかを考えることが大事だと思います。会と 1919 年(大正 8 年)中学関東学院が三春台に創設 してはますます充実発展し会員の為、学院の為、世の され 4 月 9 日入学式を挙行、第一回生 147 名が入学し 為に貢献する良い会になり創立 100 年に向けて前進す ました。新入生を前にして坂田院長は式辞の中で学院 ることを心から祈ります。 建学の精神を述べ、キリストの教えを土台とする「人 その後坂田院長は米国ミッションの招きを受けて 5 になれ 奉仕せよ」を力説し、人間として全生涯を通 月 13 日横浜港を出帆、 テンネー理事長と共に訪米の途 じてその実現に努力すべき目標であると強調しました。 につきました。バプテスト大会に出席して 5,000 人の聴 坂田院長は当時 41 歳、希望に満ちた出発でした。 衆を前にしてミッションスクールの使命を強調し、関 この第一回生が 5 年生になっていた 1923 年(大正 東学院の震災復興のため懸命に支援を訴えました。そ 12 年)9 月 1 日、突如として関東大震災が起こり横浜 の後シカゴ大学の夏のセミナーを聴講し 9 月からは米 は壊滅的被害を受けました。関東学院が誇った英国風 国各地の教育施設を観察し、多くの関係者と交流を深 の瀟洒な校舎も一瞬の中に崩壊し、市街地からの類焼 め 11 月に帰国しました。このことはその後の学院の復 により全焼しました。教職員 3 名が犠牲になりました。 興を進めていく上で大いに有効であったと思います。 夏休み中で学校における生徒の犠牲がなかったことは 不幸中の幸いでした。 そして災害を免れた捜真女学校の校舎を借用して早 くも 10 月 15 日には授業を開始し、翌年 2 月 29 日に は三春台にも仮校舎が建設されて捜真女学校から戻り 授業を続けました。5 年生は卒業式が迫っていました。 仮校舎には講堂がなかったので捜真女学校の講堂を借 りて 3 月 9 日に卒業礼拝、3 月 10 日に卒業式が行われ ました。この日 47 名が第一回卒業生として誕生しまし た。当時は進級審査が厳しく、震災の影響もあって入 学時と比べて人数が大きく違っています。卒業式の告 辞の中で坂田院長は「人になれ 奉仕せよ」を再び強 ▲坂田 祐先生と筆者(坂田記念館所蔵) 調し更に次のように述べました。「わが国は戦争に勝 つことを以て世界に誇っているが、武力では世界文化 〔上掲の坂田創先生の御文章が、御絶筆文となりまし に貢献することはできない、人道上の貢献もできない。 た。これは 『橄欖会会報』のために先生がご執筆された 願わくばわが国に人道上のチャンピオンが生まれるこ ものですが、同会報の発行前にご召天されました。こ とである。願わくば諸氏自らそのチャンピオンとなれ。 れらのことをご紹介くださり、御写真もご提供くださ 関東学院の兵隊山(注:元陸軍の練兵場であったので った橄欖会(関東学院中学校高等学校同窓会)の このように呼ばれていた)から人道の兵士、諸氏の帽 容子様並びに坂田記念館の鍛治多津子様に、この場を 章の橄欖が象徴する平和の戦士が多く出ずることを願 借りて感謝申しあげます。 (編集子) 〕 14 │ 学院史資料室ニューズ・レター(No.18)2015.3 城
© Copyright 2024 ExpyDoc