ディスカッション・ペーパー: 「認知症高齢者列車事故の最高裁判決」

ディスカッション・ペーパー:
「認知症高齢者列車事故の最高裁判決」
佐藤 雄一郎
東京学芸大学教育学部准教授
はじめに
本会報第 59 号(平成 27 年(2015 年)11 月 25 日)所収のディスカッション・ペーパー(野々村和喜 同
志社大学法学部准教授執筆)でとりあげられた事件について、平成 28 年(2016 年)3 月 1 日に最高裁判決
が出されました。すでにさまざまな論評が出されているので屋上屋を重ねることになるかもしれないので
すが、一部に誤解を招く報道も見られるように思い、ここで改めて紹介しておこうと思った次第です。
1.事件の概要と地裁・高裁判決
すでにご存じかもしれませんが、最高裁判決にしては珍しく分量の多い事実認定をしているので、これ
を紹介した上で、これまでの判決を簡単に見ていきます。
A は大正 5 年(1916 年)生まれ(当時 91 歳)
、その妻は大正 11 年(1922 年)生まれで、昭和 20 年(1945
年)に婚姻し、愛知県の大府駅前にある自宅兼事務所の建物に居住していました。A と妻の間には4人の
子どもがいますが、このうち長男夫婦は横浜市に転居していました。
平成 12 年(2000 年)頃から A に認知症の症状が出てきたことから、平成 14 年(2002 年)3 月頃に長男
の妻と A の娘(「介護の実務に精通している」とされています)とが話し合い、長男の妻が単身で A 宅の近
隣に転居し、A の妻による介護を補助することになり、さらに、長男も月に数度 A 宅を訪ねるようになり
ました。A の症状は進み、長男の妻が A に外出しないよう説得しても聞き入れないため、長男の妻は A の
外出に付き添うようになりました。しかし、A は平成 17 年(2005 年)8 月および翌 12 月に単身で外出し
た(1 度目は徒歩、2 度目はタクシー)ため、長男は自宅玄関付近にセンサー付きチャイムを設置しました
が、事務所出入り口はチャイムは設置したものの、人の出入りがあることから電源は切られたままでした。
平成 19 年(2007 年)には、家族らは A を特別養護老人ホームに入所させることを検討しましたが、娘の
反対により、自宅介護が続けられていました。
事故当日の平成 19 年(2007 年)12 月 7 日、A が段ボールに排尿したためそれを長男の妻が片付け、A の
妻がまどろんでいる隙に、A は事務所部分から外出し、大府駅の 1 駅隣の共和駅のホーム下で列車にはね
られ、死亡しました。鉄道会社は、妻および子らに対して、それぞれの不法行為責任(民法第 709 条)ま
たは監督者責任ないし代理監督者責任(同第 714 条)を根拠として、あるいは、男性の損害賠償の責任を
相続したとして、損害賠償請求を提起しました。
1 審の名古屋地裁は、長男については家族会議を主催するなどしていたことを理由として「事実上の監
督者」であるとし、また妻については自身の過失が認められるとし 1)、両者に賠償を命じ、2 審の名古屋高
裁は、当時の精神保健福祉法の規定によれば妻は保護者にあたり
2)
、さらに、夫婦間には互いに身上監護
義務がある(民法第 752 条)ことから、精神保健福祉法の保護者の自傷他害防止義務が削除された後であ
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っても、配偶者は第 714 条 1 項の監督義務者にあたるとして責任を認め、逆に、長男は会議を主催するな
どしていただけであることを理由として監督義務者にはあたらないとしました。
2.最高裁の判断
最高裁は、民法第 714 条 1 項が定める「法定の監督義務」について、ア)精神保健福祉法上の保護者の
自傷他害防止監督義務が平成 11 年(1999 年)に廃止されたこと、かつての禁治産者に対する療養看護義
務が定められていた後見人
3)
も同年の成年後見制度の導入により性質が変わったことを挙げ、これらの廃
止・改正の後の平成 19 年(2007 年)当時において、保護者や成年後見人であることだけで直ちに法定の
監督義務者になるとはいえないこと、また、イ)高裁が理由とした民法第 752 条も、夫婦間のものであり
第三者との関係で監督する義務の根拠にはならず同居配偶者だからといって法定の監督義務者になるとは
いえないこと、から、妻も(精神保健福祉法上の保護者であったことは肯定)長男も(こちらには法令上
の根拠はないという)法定の監督義務者にはあたらないとしました。しかし、続けて、
「法定の監督義務者
に該当しない者であっても,責任無能力者との身分関係や日常生活における接触状況に照らし,第三者に
対する加害行為の防止に向けてその者が当該責任無能力者の監督を現に行いその態様が単なる事実上の監
督を超えているなどその監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情が認められる場合には,衡平の見地
から法定の監督義務を負う者と同視してその者に対し民法第 714 条に基づく損害賠償責任を問うことがで
きるとするのが相当であり,このような者については,法定の監督義務者に準ずべき者として,同条第 1
項が類推適用されると解すべきである」としますが 4)、A の妻も長男もこのような要件は満たさないから、
どちらも賠償責任はないとして、鉄道会社の請求を一部認めた原判決を破棄し、また第 1 審判決を取り消
しました。
なお、岡部裁判官および大谷裁判官は、長男は法定の監督義務者に準ずべき者に該当する(が義務を怠
らなかった)という意見を述べています(賠償義務がないという結論は同じです)
。
3.新聞各紙の報道
ネットで公開されている範囲で、新聞各紙は以下のように報じていました。
① 平成 28 年(2016 年)3 月 1 日朝日新聞デジタルより
「認知症JR事故、家族に監督義務なし
最高裁で逆転判決」
(「遺族の主張が全面的に採り入れられたすばらしい判決。認知症の方と暮らす家族の方にとって本当に救
いになった」
)
② 平成 28 年(2016 年)3 月 2 日読売プレミアムより
「認知症の事故、家族の責任なし…最高裁が初判断」
(「家族が監督義務者にあたるかどうかの判断では、監督が可能で容易な立場だったかなどを総合的に考慮
すべきだ」とする初判断を示した。その上で、妻と長男は監督義務者ではなかったとし、請求を棄却した。
)
また、1 審で賠償を命じられた長男は、朝日新聞に対するインタビューで以下のように語っています。
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「『介護する人の思い背負った』認知症JR事故で勝訴の長男語る」
(平成 28 年(2016 年)3 月 22 日朝日
新聞デジタルより)
4.雑感
この事件については、さまざまな疑問が持たれていると思うのですが、①なぜ妻と長男の責任だけがク
ローズアップされたのか、②家族の責任はどうあるべきなのか、について、雑感を述べていこうと思いま
す。
まず①については、結論からいうと、鉄道会社は妻及び子全員(つまり相続人)に対して訴えを起こし
ていたのですが、1 審がこのうち妻と長男の責任を認め、逆に他の子の責任は認めず、この原告敗訴部分
は控訴されなかったので、高裁以降では妻と長男の責任が問題となることになった、ということになると
思います。それでも、以下のような疑問が残ります。よくいわれるような、相続人が相続財産を得ている
のに賠償義務を負わないのは不公平だという問題に対応するためには、賠償義務を相続人全員に負担させ
るべきであって、一部の者にだけ負わせるのは相続人間での不公平を生じるのではないか(この事案で、
妻と長男が法定相続分を大幅に超えて財産を取得したということはなさそうです)
、また、この両者以外の
責任(1 審では縷々論じられています。たとえば、介護福祉士の資格を有している娘の責任や、被告には
なっていませんが、次の②ともからんで長男の妻の責任)はどうなるのでしょうか。
次に、②については、最高裁は原則として家族は法定の監督義務者にあたらないとしながら、事案によ
っては監督義務者に準ずべき者になるとしています。これに対しては、法的責任を免れるためには面倒を
見ない方がいいという誤ったメッセージを伝えることになってしまうという(判決後ブログ等で指摘され
た)問題のほか、介護を引き受けることは本人に対する関係を発生させるのみであり、
「第三者に対する加
害行為の防止に向けてその者が当該責任無能力者の監督を」行うことには直結しないのではないか(配偶
者の監督義務についての高裁判決に対する最高裁の批判はここでも妥当するのではないでしょうか)
、本件
でも長男の妻(いわゆる「嫁」
。しかも本件では「舅」の面倒をみるべく単身で移住しています)が責任を
問われるおそれはないか、など、理論的にも、実際にも、問題となりそうです。
家族が自動的に(成年)後見人になるという前提はすでに崩れており、最高裁が言うように後見人であ
れば監督義務があるという前提は取りにくくなっているものと思われますし、老老介護を考えれば、とく
に配偶者に対して監督義務を認めることは酷に過ぎると思われます。最高裁は、責任能力を有しない未成
年者の事件に関して、親権者の責任を限定的に解する判決を出しています(最判平成 27・4・9)。すべて
の事故は誰かに責任があり、その者に賠償が命じられるべきだという前提は取れず/取るべきでなく、残
念ながら損害賠償が認められない不幸な事件というものがある、という理解にたって、社会的にその「被
害者」の救済をどうしていくのか、という観点から制度を考える必要があるのではないでしょうか。
なお、4 月 20 日にも同様の事件があったようです(「男性が電車にひかれ死亡 認知症か
東京・港区」
平成 28 年(2016 年)4 月 21 日 NHK NEWS WEB より)
。この事件では鉄道会社はどう対応するでしょうか。
注
1) 議論はあるところですが、責任能力のある者による不法行為について、それを止められたのに(過失により)止
められなかった者には、独自に不法行為責任があるとされています(最判昭 49・3・22)。本件では本人には責任能力
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はないとされましたが、地裁は、独自の不法行為責任は同じ理由付けで認められると考えたのでしょう。
2) 改正前の第 20 条は、第 1 項で、
「精神障害者については、その後見人または保佐人、配偶者、親権を行う者及び
扶養義務者が保護者となる」
(一部例外あり)とし、第 2 項で、
「数人ある場合において、その義務を行うべき順位は」
「一 後見人又は保佐人 二 配偶者 三 親権を行う者 四 前 2 号の者以外の扶養義務者のうちから家庭裁判所
が選任した者」と規定していました。ですので、配偶者である妻は自動的に保護者となりますが、扶養義務者である
長男は、家庭裁判所の選任がない限り保護者にはならない(しかも選任があったとしても妻の方が順位は上)という
ことになります。ご存じのように平成 25 年(2013 年)改正で保護者制度は廃止されています。
3) ちなみに、この改正前は、婚姻している者が禁治産者になる場合には配偶者が自動的に後見人になることになっ
ていました。
4) 具体的な判断基準として、
「その者自身の生活状況や心身の状況などとともに,精神障害者との親族関係の有無・
濃淡,同居の有無その他の日常的な接触の程度,精神障害者の財産管理への関与の状況などその者と精神障害者との
関わりの実情,精神障害者の心身の状況や日常生活における問題行動の有無・内容,これらに対応して行われている
監護や介護の実態など諸般の事情を総合考慮して,その者が精神障害者を現に監督しているかあるいは監督すること
が可能かつ容易であるなど衡平の見地からその者に対し精神障害者の行為に係る責任を問うのが相当といえる客観
的状況が認められるか否か」という観点を挙げています。
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