生物工学会誌 第94巻第3号

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吾が道は一,以て之を貫く
藤原 茂
若い研究者の皆さんの人生の選択に役立つよう,何か
元から遠くに出る必要性を考慮しませんでした.した
書いてくれと依頼いただいたものの,若者の多くが目標
がって,のびのびと青春時代を過ごしてしまいました.
とするメインストリームを歩んだ経験のない自分があま
地元で健康的な学生生活を送った後,雪印乳業株式会社
りお役にたてることはないと思い,一度は固辞させてい
技術研究所にお世話いただくことになりました.門外漢
ただきました.しかし,
「叩き上げの人生もまた逆説的
でもあり,当初の勉強不足は隠しきれませんでした.ま
なエールになるのではないか」と考え直し,自分が人生
た,研究・開発の質とそのスピードのバランスについて
の岐路に立った時,一体何を考え,どのように決断して
考える機会にもなりました.この間,ワイン酵母の基礎
きたのかについて,少し述懐をしてみたいと思います.
研究に始まり,門外漢であった乳酸菌研究部門への配置
生い立ち
転換,理化学研究所への派遣研究で腸内細菌に出会い,
理化学研究所フロンティア研究システムでの研究活動,
私は山梨県の北部,八ヶ岳南麓にある高原の小さな町
海外留学などと濃密な時間を過ごさせていただきまし
で育ちました.田舎町で本当に何にもなく,今のように
た.このように研究する人生をスタートさせてはみたも
ネットで情報を得ることもできず,公共交通の手段も少
のの,傍流の門外漢にはさまざまな障壁がありました.
なく,車の普及率も今ほど高い時代ではなかったため,
常に情報貧乏の状態で,教育環境はお世辞にも良好なも
のとは言えませんでした.ここがわき道人生の起点で
あったのかもしれません.
出会い
こんな中で,初めての上司であった故・廣田哲二さん
にはとりわけ大きな影響を受けました.
人生経験豊富で,
実家からは,南に甲府盆地と三ッ峠が眺望でき,その
大変に思慮深く,慈愛に溢れ,未成熟で評価が低かった
上に空に浮かんだ富士を遠望することができました.東
私にも派遣研究や海外留学の機会など,多くのチャンス
には峻嶮な瑞牆山,西には,鳳凰三山,甲斐駒ケ岳,北
を与えてくださいました.廣田さんとの出会いがなけれ
岳などを連ねる赤石山脈を,背中には権現岳,阿弥陀岳,
ば,今の私はないと思っています.
横岳,そして主峰赤岳を擁する八ヶ岳連峰を背負い,三
また,太田賛行さんには厳しくも温かい指導をいただ
分一湧水などの銘水が湧き出る自然環境に恵まれた土地
き,社会人としての基礎を作っていただきました.その
であり,そのことの価値は,今になってようやく理解で
包容力と愛情のこもった教えは,新入社員に対する私の
きるようになってきました.実際,リタイアした方々が
指導の根幹となっています.
第二の人生を過ごすための移住先として,意外と人気が
また,中里溥志さんには,実験計画法と統計解析を徹
あるらしいです(冬の厳しさと人間関係の濃密さに少し
底して指導いただきました.与えていただいた知識は自
ずつ慣れてください).
分の研究人生を支える礎石となっています.実験効率の
「研究する人生」のはじまり
このような環境で育ってきたことから,受験の喧騒か
らは随分と隔絶され,東西の雄に手が届く場合以外,地
向上や原因の絞り込みにおいて絶大な威力を発揮してく
れています.振り返ってみると,これが自分の研究人生
において命綱だったのではないかと思います.
今,自分の立場は指導いただいた方々の当時に近く
著者紹介 アサヒグループホールディングス株式会社発酵応用研究所(理事) E-mail: [email protected]
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なってきています.先輩方のように,分け隔てのない後
けるかどうかの能力にかかっていると思います.要はイ
進の育成ができているかどうか,
真価が問われています.
マジネーションの力であって,これなら傍流組の私にも
研究には資本が必要ですが,とりわけ人脈は最大の資
少しは出番がありそうです.これらは芸術系以外の入試
本です.学閥は重要な人脈ですが,
それを期待できなかっ
試験では測られたことのない右脳の働きが関係している
た私は,真剣にお付き合いさせていただく中で,ご厚誼
からです.この点では,新たな勝ち組が生まれてくるか
いただける先生方に巡り合わせていただいてきました.
もしれません,勿論,その仮説の検証には左脳の能力が
この中には,学生時代の恩師であり,博士論文の指導を
大きくものをいいますが,少なくとも左脳の能力の一部
もいただきました横塚弘毅先生,腸内細菌の奥深い世界
は,現在の計算機の力で補完することもできます.
に導いてくださいました光岡知足先生,研究ツールとし
開き直り
ての無菌動物・ノトバイオート動物に関する研究指導を
いただきました水谷武雄先生,また,多くの共同研究の
また,
「人間到る処青山あり」です.選抜に負けたと
中で,また学会活動の中でご厚誼いただきました多くの
しましょう.負けは悔しいです.でも,
それがすべてじゃ
先生方には只々感謝の念以外ございません.当時,後に
ない.次の選抜では,経験を活かして立ち直ることもで
お世話になりますカルピス株式会社におられた高野俊明
きますし,新たな活動の場,そう適材にとっての適所を
さんとは,光岡先生ならびに水谷先生にお世話になって
得られるかもしれません.大きな目で見れば,次の成功
いた際に面識をいただいたものです.
のための序章に過ぎないと捉えています.渦中にいる間
わき道人生はつまらない?
資本主義では個人ベースでの競争が支配原理であり,
はそう気楽に考えられないかもしれませんが,
「人間到
る処青山あり」です.一つのテーマで失敗しても,必ず
違うところに面白いことは転がっています.一つの選択
受験であれ,就職であれ,勝者は一人(一団体)しかい
に洩れても,また新しい可能性も広がります.これは決
ないことになります.日本的な総中流社会的風潮が薄れ
して逃げではありません.自分の想念の中では,個々人
る中,主流・本流に勝ち残ることは必須であり,勝ち組
は社会・世界という大きなシステムの中で,何らかの規
に名を連ねる事こそ至上命題であると考えられる風潮が
則性を以て機能的に統制されている基本単位だと考えて
強くなっていくでしょう.では,傍流人生・わき道人生
います.生体に例えれば,器官や組織を構成する酵素や
に面白味はないのでしょうか?自分の半生を振り返って
機能分子ないしはその構成分子や原子に似た働きをして
みて,およそそんなことはないと思います.
いる重要な構成因子だと思います.だから「適材適所」
自分の郷里では武田信玄公が信奉されています.武田
であって,皆,替りのない重要な役割を与えられている
勝頼公,武田典厩公,穴山梅雪公,軍師・山本勘助公,
ものと信じています.どんな場合でも,どこにあっても,
真田昌幸公など二十三将を率い,知略に長けた武将で
きっと青山は見つけられます.
あったとされています.信玄公の語録によれば「戦いは
一方で,適所に移動し,その機能を始めるまでの道の
五分の勝ちをもって上とし,七分をもって中とし,十を
りは決して楽ではないでしょう.自分をとことん追い込
下とする」としているとか.すべての領域で勝てるわけ
んでいくと,研ぎ澄まされた感覚が得られる瞬間があり
でも,毎回勝てるわけでもないでしょう.己の慢心・油
ます.そこからさらに自分を追い込んでいって,極限ま
断を避けるためにも,勝ちは六分ぐらいが最上だという
で達したとき,初めて見えてくるものがあります.この
ことだと理解しています.さながら私であれば勝ちは五
状態に到達してこそ,結果がついてくる実感を得られま
分台であれば過分です.
す.ある時期には,自ら退路を断ち,とことん集中して
さて,研究に必要な能力とは一体何でしょう.明確に
頑張ってみることが重要です.自分が選択した場におい
答えられませんが,計算能力や記憶力を中心とした,い
て,正しい方向で行われた努力は決して裏切りません.
わゆる左脳の能力に加え,それ以外の能力も不可欠であ
それまでは「一簞の食,一瓢の飲」でも,自分をとこと
ることを実感しています.入力・記憶されたデータの塊
ん磨くことに集中しましょう.
の中から新たな創造に役立つものを抽出・選択し,相互
この時代ですと,海外での勉学・研究生活はどうかと
間のリンクをとり,さらに必要な修正を加え,その場合
考えます.もし自分がもっと若かったら,きっと外に出
に得られる出力の価値を正確にイメージできるかどう
て,自分の持つ可能性に挑戦しているのではないでしょ
か,さらには,それを現実のものとして落とし込んでい
うか.
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研究活動で大切にしていること
当たり前のことですが,1)他人の褌で相撲は取らな
さがじんわりと忍び寄ってくる中で,これからしばらく
の間,「自分が起草した研究課題を追いかけてみよう」
と決断していました.
いこと,2)他人の物まねはしないこと,3)個人的な勝
その研究所はトロント市街の中心に程近い大きな通り
ち負けを価値基準とせず,仲間の利益のための活動を心
の脇にあり,路面電車が交差する辻の近くに建っていま
がけること.これを 3 原則してきました.本当に守れて
した.北側のウイングの中ほど,生化学研究室の表示を
きたかどうか微妙ですが.最近はこれに加えて,4)次
見つけて訪ねた折,「ここで何ができるだろうか?」と
の時代のための種を撒いておくことを意識しています.
呟きながら,期待と不安が大きく交錯していた記憶が鮮
前二者については,自分の研究領域の特許情報,論文
明に残っています.窓から垣間見えた粉雪が舞う風景と
情報を基に自分なりの技術マップを作成し,これを年代
ともに強烈な印象として今でも残っています.これが,
ごと重ね合わせていく作業を繰り返していくことで新た
トロント小児病院研究所での 2 年にわたる研究の始まり
な取り組み課題が自ずと見えてきます.後二者について
でした.
は,分岐点に差し掛かるたび,御指導いただいた方々な
研究の場は Forstner 博士の生化学研究室で,ミューシ
らどう対応しただろうかと思いを馳せ,自分を律する努
ンと感染微生物の相互作用について,分子レベルでの理
力をしています.
解が当該研究室の主要な研究課題でした.自分はビフィ
日常の生活の中で
ズス菌による消化管感染症の抑制機構を分子レベルで解
いてみようと考えていましたので,ミューシンに関して
日々の積重ねの努力はきわめて重要です.一日わずか
は,一部バインディングを評価すればよい程度でしたの
な時間でも,積み上げて入力を繰り返せば,いずれか大
で,博士と多くの議論の末,自分の追い求めているテー
きな成果となって意識することができます.その昔,よ
マを進めることを納得していただき,研究室のメンバー
く祖母に「塵も積もれば山となる」と口煩く諭された記
のテーマとの連関性が希薄になることも理解した上で,
憶があります.時間のかかる外国語の習得もそうでしょ
推進することにしました.
うし,自分が苦手とする領域の知識の収集もそうだと思
紆余曲折はありましたが,この間に得たデータをもと
います.忙しく時間が取れない中でも,一日一定の時間
に三報の論文をまとめることができました.人とのつな
を確保して新しい知識の拡大に努めてみてください.
がりはここでも重要で,博士のみならず,生化学研究室
時には,自分の目指す方向性をチェックしてみる纏
のメンバーや Sherman 博士の感染症研究室のメンバー
まった時間が必要です.私は土曜の早朝をこの時間にあ
とのコミュニケーションや掃除のおばちゃんやデリバ
ててきました.研究の方向性の決定,新たな研究テーマ
リーをしてくれていたお兄さんとのお付き合い,さらに
案の創出,チームの運営のレビュー,
テーマ進捗のチェッ
当初,宿とさせていただいた B&B のご主人 Gwen Lee
ク,問題解決案の捻出,論文原稿の執筆等々,自分の頭
さんとの交流によって,多くの場面で援助をいただくこ
の中を整理するために必要な時間です.
とができ,これをいまでも感謝しております(図 1).こ
また,週に一度は完全なオフを作ることも必要だと思
います.毎週は無理ですが,日曜日をこれにあてていま
れらの顛末は,また別に機会あれば紹介してみたいと思
います.
した.バイクに乗って近くの日帰り温泉にいき,露天風
単純な結論ですが,まずは思い切って行動してみるこ
呂につかりながら周囲の景色をながめていることが多い
とです.それなりの用意は必要ですが,きっと事態を打
です.完全なオフによって自分の生活のリズムを作るこ
開していくことができます.お世話になった加国の方々
とができます.メリハリをつけることは,仕事の効率を
は寛容の精神に富み,さまざまな援助をしてくださいま
上げるためなんかじゃありません.単に自分に対する労
した.トロント小児病院の看護士さんらが着けていた着
りに他なりません.
衣には,「We are helping a miracle happens !」と刺繍が
海外で研究を進めるときに
自分の経験を述べたいと思います.1991 年 11 月.カ
ナダ・オンタリオ州の小さな島の空港に降り立ちました.
小雪が舞い,日暮も近い西の空はどんよりと曇り,肌寒
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なされ,これがその精神の源流をなすものだと理解して
います.
転職を意識したときに
海外への転出であれば,仕事の区切りで,積極的に考
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善く生きる環境を作り上げていくことを最優先にしてく
ださい.人生は一度きりでかけがえのないものですから.
転職に際しても人間関係は本当に重要です.私の場合,
所属先以外でも尊敬していた方々がおり,その伝手をた
どらせていただきました.その時の状況の変化によって
縁を結ぶことのできなかった事もありましたが,移籍先
で取り組む事のできる仕事の内容を優先して考えていま
した.
最後に
図 1.1992 年 5 月カナダで初めてお世話になった B&B
「Ashleigh
Heritage Home」の前で.ご主人の Gwen Lee さんに撮影して
いただいた当時の家族写真です.
何処にいっても儘ならないことがあり,また,主張が
異なる人間もいます.何事も折り合いをつけるのが一番
で,余分なエネルギーを使うのは愚の骨頂です.ですの
で,極力摩擦を避けるようにしましょう.
慮していいと思います.昨今の日本の経済状態では,む
しかし,ごく稀に想定外の状況に陥る場合があります.
しろ積極的に海外に出ていくことも選択肢の一つかもし
この時,自分に正義があると信じられるなら,この場合
れません.一方,日本の社会システムでは積極的な転職
にこそ本流を意識し,堂々と自らの意思を貫くべきです.
はお勧めしません.しかし,事情によっては決断すべき
衆目の下,一度だけ正論を主張します.後は一切相手に
時がくる場合があると思います.さまざまな原因はあ
せず,何があっても静かに無視することです.「天網恢
り,決断もさまざまでしょうが,原則,「立つ鳥跡を濁
恢疎にして漏らさず」.皆さんの本質が正義であれば,
さず」です.素早く決断し,さっと身を引くのがよいと
必ず事態は好転していきます.
思います.
ここには纏まりのないお話しを綴らせていただきまし
この際には,
「退職後も良好な関係を維持できる状況
た.少しでもお役にたったのなら,望外の喜びです.若
でやめる」場合,
「完全に喧嘩別れの状態を覚悟する」
く希望に満ちた皆さんの将来が,きっと光り輝くものに
場合の二通りの可能性があります.これは,前者が望ま
なることを固く信じています.「吾が道は一,以て之を
しいですが,極論をいうと,どちらでも構わないと思い
貫く」です.
ます.ご自分の人生の中で,悔いを残さないよう,より
<略歴>山梨県生まれ.1982 年春 山梨大学工学部発酵生産学科より雪印乳業株式会社技術研究所入所(在籍の間,
理化学研究所研修生,理化学研究所フロンティア研究システムフローラ T 研究員兼務,トロント小児病院
研究所生化学研究室へ留学).2002 年 10 月 カルピス株式会社基盤技術研究所へ入所,その後,同発酵応
用研究所を経て,2016 年 1 月 アサヒグループホールディングス株式会社発酵応用研究所へ
<趣味>植物いじり,猫かわいがり,バイク乗り
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