創刊号

日本キリスト教団
島村教会
蚕 の 群
れ
このむれ(創刊号)2002・11・24
〒370-0134 群馬県佐波郡境町島村 2509
牧師 佐藤 謙吉
TEL・FAX 0270-74-9550 [email protected]
郵便振替番号 00510-7-49361 宗教法人日本基督教団島村教会
〈牧師のひとこと
牧師のひとこと〉
のひとこと〉
礼拝は
礼拝は、生活の
生活の、稽古です
稽古です。
です。
世阿弥の「風姿花伝」には、「初心」「稽古」ということばが、たびたび出てきます。
「初心を忘れずして…」は「稽古」で実質化され、深められていく。読むたびに、これは「能」
の世界だけではなく信仰の世界にも共通している、と、わたしは思い続けて来ました。「能」の
修業を始めたばかりの息子に「風姿花伝」の熟読をすすめたら、
『「稽古」の反復は、「風姿花伝」の実践だよ。素人は、読めば良いと思っているかも知れない
けれど、ぼくは、玄人の世界にいるんだから、毎日実践していることになるんだよ』と、生意
気に言われたことがあります。
「稽古」が、舞台で実質化されても、それは、そこまでのことで、更なる深まりへと、また
「稽古」を繰り返す、ということを考えあわせると、礼拝と信仰生活にも共通することは、確
かなようです。
「稽古」を国語大辞典は、「古事を考え、物事のかつてあったあり方と、これからのあるべき
姿をせいかくに知ること」と記して、「古今の理なり。これをわきまえしるを稽古という。」(神
皇正統記下)を引用して説明しています。
「お父さんも、伝道者・牧師として、もっと稽古をしなければ…」と、息子に皮肉られたと
きの、一本とられたような思いが、そういう思いを、今に引きずっているのかも知れません。
礼拝を「稽古」と、位置づけると、礼拝という「稽古」と「稽古」の間は、生活という、人
間の「舞台」だと言うこともできるのです。
聖書という「古事」を、しっかりとみつめ、かつてのあり方と、これからのあるべき姿を正
確に知る作業が「稽古」なのです。そしてそれは、まさに聖書に聞き、聖書に学ぶということ
と、礼拝をすることと、その作業はひとつなのです。
「あなたがたはくりかえし聞
あなたがたはくりかえし聞くがよい、
くがよい、
しかし悟
しかし悟ってはならない。
ってはならない。
あなたがたはくりかえし見
あなたがたはくりかえし見るがよい。
るがよい。
しかしわかってはならない。
しかしわかってはならない。」
(イザヤ6
イザヤ6章9節)
預言者イザヤも、「稽古」の反復による、神の恵みのもとにおける生活の、探求が、生活現場
の実態であることをかみしめていたようです。
「稽古をしなければならない」
それは、私たちにとっては、礼拝をまもらなければならない、ということなのです。
島村教会牧師
佐藤 謙吉
✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝
『福音ホットライン
福音ホットライン』
ホットライン』
0270-
0270-74-
74-9188
佐藤牧師のテレホンメッセージが3分間流れます
メッセージは毎週木曜日に変更します
1
教会墓地の改築
ならびに献碑式
挙行される
<墓地の
墓地の改築に
改築に至る経緯>
経緯>
島村教会では、1昨年の『召天者記念礼拝』の際に、
ある役員から「教会の墓地はどうなっているのです
か」と言う質問がなされ、それまで教会の礼拝の中
だけで行われていた「召天者記念礼拝の持ち方」と墓地への関心が一挙に高まり、佐藤牧
師及び役員会が中心になって現状の確認及び改築の準備に着手されました。
現状は、故鵜飼吉次郎牧師(島村・本庄教会〔当時は一つの教会であった〕の応援のた
め、昭和7年~10 年滞在され、島村の牧師館に住み、登家種三牧師を支える。
なお、先生のご子息が埋葬されていて、石碑が一基建っているだけであり、鵜飼さんの
ご親族との関わりも途絶えたままでありました。
その後、鵜飼さんのご親族との連絡もつき、遺骨をどうされるか、墓地の所有権・地籍・
面積・改築の手続き・経費の問題等々いくつかの課題がありましたが、佐藤牧師、金井・
栗原役員、その他の役員及び全教会員の協力によってすべてクリアし、今日を迎えること
が出来ました。
<島村教会墓地の
島村教会墓地の歴史>
歴史>
明治政府が樹立され、法治国家としての整備がなされていく中で、墓地についても、そ
れまで各家の所有地内にあった墓地を、一箇所に集合させる法律が制定されました。
この地域でもこの法律に基づいて整備が進み、明治40年に島村教会墓地として、一区
画が確保されていました。しかし、その後この墓地に埋葬される方もありませんでしたが、
昭和7年、前述の故鵜飼吉次郎牧師のご子息・和年さんが14歳で亡くなられ、この地に
埋葬されました。〔死亡場所本庄市の病院と思われる〕その後、墓地のことを知っているの
は長老の方だけという状態が続いておりました。また、今回の墓地改修を機会に、佐藤牧
師のご子息・出さん(享年28歳)の納骨がなされました。
<召天者記念礼拝・
召天者記念礼拝・献碑式の
献碑式の模様>
模様>
『召天者記念礼拝』には、鵜飼牧師の姪にあた
る方がご子息とご一緒に参列されました。
(前列左から2人目と3人目)
現教会員の肉親の方で教会員であった方や、
教会との関わりの深かった方々の遺影を飾り、
記念礼拝が行われました。
献碑式は、同時期に墓地改装された小林弘
兄の建碑と合同でなされました。
その後教会へ戻り、「感謝の昼食会」がもた
れました。
今後、この教会墓地が故人の在りし日を偲ぶ場所として、また、島村教会の伝統を思い
起こす場所として、大きな役割を果たしてくれることになると思います。
2
きな聖句
私の好きな
聖句
「隣り人を愛せよ」
せよ」
田島のぶ
田島のぶ子
のぶ子
神の御名を賛美致します。聖書の中のガラテヤ人への手紙5章 14 節に「自分
を愛するように隣り人を愛せよ」とのみ言葉があります。この聖句が好きで、私
なりに心にとめて過ごして来ました。この度私の不注意で転倒し、痛みと不自由さを味
わっていますが、こんなに皆さんに助けられた事はありません。 立ったままズボンを
穿こうとしてバランスを崩し腰・背中・脇腹の肉離れを起こしてしまい、接骨院通いも
2ヵ月過ぎました。送迎してくれるので楽です。1ヶ月は布団に寝られず苦しみました。
痛さに体の自由を失うことは大変で、実家、嫁さん、姉には身の回りの食事・洗濯のお
世話になり、接骨院より帰れば昼食を届けてくれる友達もいて本当にありがたいです。
敬老の日には「お祝いです」と赤飯を届けてくれる教会員もあり、すぐ食べられるこ
とが一番助かりました。息子夫婦は、立ちあがるのに楽なようにと廊下もトイレも手す
りを付けてくれました。6週礼拝を休みました。今は迎えに来てくれる婦人会の方にお
世話になり、出席しています。聖書のみ言葉に接し、安堵致します。早く体調が戻って
「隣り人を愛せよ」の精神で、お世話になった人々に接して行きたいと思います。皆様
もお体くれぐれもお大切に、お過ごし下さい。
神様のみ恵みが豊かにありますように祈りつつペンを置きます。
はじめての讃美歌
はじめての
讃美歌
『讃美歌312
讃美歌312番
312番』
まどか
「讃美歌 312 番(いつくしみ深き・・・)」は、父の叔母2人から、
私が12~13才の頃、口三味線のようにして、教えられた歌です。
訳のわからない神様の話を無理に聞かされ、その後この歌をくり返しくり返し歌わされ
たのです。正座して、じっとしているのは辛かったのですが、それには訳があったので
す。
母は病気で畑仕事も家事も出来ず私たち親子は、大叔母や祖母に助けられて生活して
いたのです。
父の戦死と戦後のことで不運続きの家には、あちこちから、色々な宗教の方々が誘い
に来て、方角がどうの方位がどうのと云われ、母も随分と迷っていたようです。でも大
叔母達の助けや情け深さには逆らうことが出来ず親子で神妙に神様の話を聞き、だんだ
んと聖書も読むようになりました。
そんな時、近所の子が(島村教会で夜学をはじめたので行ってみないか?)との誘い
があり、夜なら暇が出来るとの事で母も許してくれ、入ってみると勉強より嬉しかった
のはオルガンによって讃美歌が歌えることでした。「312 番」みんなに連れて歌ってい
ると、病床の母にもこのきれいなオルガン伴奏で歌わせたいと思いました。いつの間に
か家族で歌えるようになった頃、母は大正琴をみつけて来て一人で歌っていることが多
くなりました。
(心の嘆きを包まず述べて・・・)のところは父の写真に向かって語りかけていました。
(世の友われらをすて去るときも)ここのところは私にどんな事があっても、捨てる神
あれば、拾う神あり・・・だから辛くても正直に生きてね!と口癖のように言い続けま
した。
「312 番」を歌う時信仰強き叔母と、信仰に至らず若くして逝ってしまった母の声が、
私の耳元で一緒に歌っているのです。
3
島村教会100周年
100周年以降の
以降の推移
島村教会は、1987年〔昭和62年〕4月12日に、100周年記念式典を挙行いたし
ましたが、その後の推移について記録しておきます。
〔敬称略〕
年 度
1987年
主な出来事
・100周年記念式典挙行
100周年記念式典挙行
説教:
説教:田島正人牧師
・100年誌発行
100年誌発行
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
・真壁勝一牧師:
真壁勝一牧師:キヌ枝夫人
キヌ枝夫人と
枝夫人と
結婚
受 洗 者
栗原洋行、栄子
金井辰夫,栄子
田島 豊
須藤
農人
昇 天 者
保
雄三郎
田島幾造
真壁勝一母堂
田島登志子
茂木平八
村井正夫〔村井寿子の 村井正夫
夫、病床受洗〕
真壁ミツエ〔真壁牧師夫
人〕
菊地トミ(トヨの母
未洗)
栗原えき(孝次の母)
金井康子 金井修巳
西那須野教会新会堂献堂式
・真壁牧師胃がん
真壁牧師胃がん手術
がん手術
金井理恵 島田ゆき恵
熊谷教会新会堂献堂
・ 台風により
台風により礼拝堂屋根瓦破損
により礼拝堂屋根瓦破損 前田由美子
〔残存の
残存の瓦により補修
により補修〕
補修〕
・創立110
創立110周年記念会
110周年記念会:
周年記念会:講演 前田貴之
会開催〔
会開催〔阿部志郎先生〕
阿部志郎先生〕
・本田庸一先生の
本田庸一先生の額「克己従主」
克己従主」
改装丁
栗原てる子
田島正樹(安正の息子)
島田敏彦(櫛引)
栗原敬三郎
田島
豊
* 教会堂、保育園大修理、(屋根瓦葺き替え、土台補修、ホール天井張替え、
雨樋修理、牧師館、屋外、掲示板、その他)
工事代金 6,012千円
請負業者 新日本建設(
012千円
新日本建設(株)
100周年記念事業費残額
100周年記念事業費残額2
周年記念事業費残額2,734千円及
734千円及び
千円及び64名
64名の信徒とその
信徒とその関係者
とその関係者
より、
より、献金6
献金6,400千円
400千円が
が
寄
せられた。
せられた
。
千円
残金3
残金3,120千円
120千円は
千円は、別途備荒貯金へ
別途備荒貯金へ
* 真壁勝一牧師は
真壁勝一牧師は、牧師及び
牧師及び保育園長引退を
保育園長引退を表明。
表明。前橋共愛学園大学理事長を
前橋共愛学園大学理事長を引退
* 真壁勝一牧師の
真壁勝一牧師の牧師及び
牧師及び保育園長引退表明に
保育園長引退表明に伴い、保母2
保母2名解雇・
名解雇・一般公募に
一般公募に
よる採用
よる採用が
採用が行われた。
われた。後任園長として
後任園長として栗原寿郎教会役員
として栗原寿郎教会役員が
栗原寿郎教会役員が就任した
就任した。
した。
* 教会では
教会では、
、
後任牧師が
後任牧師
が
与
えられるように手
えられるように
手
を
尽
くし祈
くし
祈
っていたが、
っていたが
、金井次夫・
金井次夫・
では
禿牧師の
禿牧師の推薦により
推薦により、
により、秋田より
秋田より佐藤謙吉牧師
より佐藤謙吉牧師が
佐藤謙吉牧師が紹介された
紹介された。
された。
* 1月28日
28日、佐藤牧師を
佐藤牧師を招き、説教をお
説教をお願
をお願いした。
いした。
* 3月26日
26日、真壁牧師送別礼拝・
真壁牧師送別礼拝・送別会(
送別会(全会員出席)
全会員出席)
島村教会より
島村教会より慰労金
より慰労金1
慰労金1,000千円
000千円を
千円を贈呈
(退会者)川瀬みち
小林 功・美智子
小林 てふ
ジェームス&寿美・ギルバー
ト
4
2001年 *4月 1 日 佐藤謙吉牧師着任、
佐藤謙吉牧師着任、
めぐみ保育園長就任
めぐみ保育園長就任
*7月 8 日 牧師就任式
(上尾合同教会:
上尾合同教会:秋山徹牧師
司式による
司式による)
による)
*11 月 25 日 伝道集会開催
(三浦光世先生:
三浦光世先生:聴衆多数)
聴衆多数)
2002年 *教会墓地建立 献碑式
(11月
11月10日
10日)
費用約1
費用約1,350千円
350千円は
千円は、教会
会計より
会計より捻出
より捻出
栗 原 和 市 栗 原 喜 代 栗原せき 町田昭夫
(転入会者)
佐藤喜久子(牧師夫人)
(転入会者)
吉田朋子
旧約聖書との
との出会
出会い
旧約聖書
との
出会
い
町田文彦
小林 功
多分、小学生の上級の頃だったと思います。私の家は群馬県の下仁田町にあり、往還(今
ではこの言葉は使われなくなりましたが街道のこと)の相向かいに有賀さんという旧家が
ありました。往還に面したその家は建坪が 50 坪位の総2階建ての大きな家で、私の家の
真向かいには有賀さんの親戚が住んでいました。神田で印刷工場をやっていたとのことで
すが、空襲が激しくなったので、引っ越して来て、戦後もそのまま住んでいました。
毎朝、自宅前の舗装されていない往還を竹ぼうきで掃除するのが朝食前の日課でした。
その内、自宅前だけでは気が済まなくなり、有賀さん宅の前まで作業面積を広げるように
なりました。有賀さんのおばさんが「いい子だね。毎朝きれいにしてくれて有り難う。」と
ほめてくれたので、益々精を出し、きれいにしておりました。
毎日、夕方になると、真向かいの家から(今考えると)シューベルトのセレナーデの曲
が蓄音機から流れて来ました。両方の有賀さんには年頃の娘さんが何人かいて、みんなで
集まって、聞いていたのかも知れません。
ある時、真向かいの有賀さんのお嬢さんから旧約聖書を貸していただきました。借りた
動機は何だったのか忘れましたが、白い紙にカラーで印刷された絵本でした。灰色の紙に
印刷された教科書の内容を全然覚えていないのに、旧約聖書を読んでいるときは心が暖ま
ってきたこととノア、アブラハム、イサク、ヤコブといった人の名前が断片的に頭に残り
ました。
当時は終戦後の混乱期で、食べ物が欠乏し、心がすさんでいた時代でしたが、有賀さん
のおかげで、優雅なひとときを過ごすことが出来ました。
〈教会写真館〉
教会写真館〉 天気に恵まれた献碑式
昇天者記念礼拝
5
〈伊豆大島教会を
伊豆大島教会を訪ねて〉
ねて〉
栗原寿郎
去る10月15日から17日にかけて大島元村教会を訪問することが出来ました。
それは第6回農村教会キリスト者青年OB全国協議会のため全国から16名のOB
が集い協議と交流を深めた所であります。
開会礼拝は大島元村教会の戸波牧師が「神の慈愛を心から感謝することが出来る
のは私達自身が「ぶどう園で最後の働き人になったときです」仕事を失った時、病
気に臥した時、自らの弱さを「これでもか」と云う程に思い知らされた時、それで
も与え続けられている恵みの数々に、私たちは己の目を開かれて、そこに神の愛の
深さを見いだすのです」と感銘深い説教でありま
した。
第1回講演は相沢先生の「大島新報について」
でありました。大島には我が民が大勢待っている
と赴任以来55年主の命令にただただ従ってあゆ
んで来たその事が地元紙である大島新報に大きく
取り上げられて、その中から多くを学び、歩んで
来た人生であったと、語って下さいました。
近況報告と自己紹介は2百年の歴史のあるホテ
ル椿園のセミナーハウスで16名の発言を与えら
れ交流を深めました。
第2回の講演は相沢先生の「黒潮の神学」について、黒潮の神学は信徒の神学で
あり、読めば福音を伝えたくなる出版物であり、十字架は神学で、大丈夫の神学だ、
やがて向かう死の前に大丈夫の神学である。黒潮と聖書を両手にこの大島を愛し、
福音を伝え、隠退後も現役のときと同じく全国どこまでも黒潮神学を証し続けてい
る」との事であります。
唯々頭が下がるばかりです。主により生かされているとはこの事だとしらしめられ
ました。
会の終わりに次年度の協議は栃木県のアジア学院を中心にこれからの課題とOB会
の発展的改革を話し合う事として了承されて、閉会した訳であります。
次年度の準備会も去る11月12日と13日に栃木県の原田時近兄の自宅に5名
が集い計画立案して13日には、アジア学院と星野富弘美術館の下見も紅葉のまっ
ただ中無事に終わる事が出来ました。
来年度の会場は島村教会とゆかりの深い地である西那須でありますから、かつて
全国協議会に出席された方々は勿論の事、教会員皆様方の参加を是非ともお願いす
る次第であります。
会報の上に主の恵を祈ります。
〈伊豆大島に
伊豆大島に同行して
同行して〉
して〉
栗原玲子
私は農青協に出席したことはありませんでしたがOBの集い
に加えさせていただき学びの時と交流の時では今後のとり組み
等皆さんと一緒に考えてみました。相沢先生と3日間すごし黒
潮を送りつづけて下さったお礼が言えたことは何よりでした、
「あまのじゃく」の欄は興味深く読んだものでした。
さて、今年はお客様気分ではいられません、少しでもお手伝い出来ればと思っています。
6
〈島村教会礼拝堂の
島村教会礼拝堂の写真によせて
写真によせて〉
によせて〉
島村教会会計係 金井十郎
島村教会関係者の皆様、いつも教会のことを心に留めて祈って下さる事に感謝しており
ます。現在の礼拝堂内部の写真です。多くのかたがたの思い出がいっぱい詰まっている懐
かしい聖所です。
教会設立の初期、初めて福音に触れた
沢山の先輩達が礼拝堂に会し、悔い改め
と神様への従順を誓い合い祈を一つにし
ていたとき全会衆が聖霊に満たされ、そ
れぞれが誠に不思議な体験をさせられた
と記録されています。(明治20年最初
の教会堂での事)また、日曜学校での愉
しい思い出、クリスマスや花の日の光景、
洗礼を授けられた日の感激、結婚式、葬
式の場面等々人それぞれの思い出が詰ま
ってい る風景 では な いかと 思いま す。
(現在の会堂は明治30年建設) 昭和
5年頃台風で大水になり屋根瓦が飛ばさ
れ壁が落ちたことがあり大修理が行われ
たと記されています。また、昭和25年
には保育園の施設を与えられましたが此
の年二階建ての事務室、宿直室(二階の
畳の部屋)が建てられ屋根の上に十字架
が載せられたのです。(1ページ見出し
の写真)創立当時は講壇が狭く小さく前
の部分は畳敷きになっていて、(メソジ
スト教会の伝統的な造り)大沼火鉢が二
つ置いてあり冬には炭火がおこされてい
ました、この火をおこすのはお隣栗原寿
郎さん宅の先祖代々お嫁さんの仕事だっ
たと聞いています。昭和30年頃肥後吉秀先生の時代、畳を取り払って板敷きに変え、講
壇を改造して広くしました。この工事で隅の親石の下に木箱に入った聖書が発掘されたの
です、まさしく明治30年当時祈りを込めて埋められたものです、新しい木箱に納めて聖
書を埋め直した事は勿論です。
105年間当時とあまり変わらない姿で今も厳然と此の地に立って皆様の信仰の拠点と
なっています。故郷を離れ疎遠になっておいでの方々もいらっしゃるかと思います。両手
を広げて待っていますので是非お便りを下さい。
赤城山と島村教会
7
お二人は、11 月6日アメリカ旅行から無事帰られました。栗原さんは、30 数前、
国夫さんは 27 年前アメリカのサンルイスオビスポ(サンフランシスコとロスア
ンゼルスの間の地)の池田農場へ1年間の「農業研修」に行かれました。今回、
同じ農場で研修された仲間や先輩、後輩たちとツアーを組んで、農場主の弟さん
の墓参も兼ねて1週間の旅に出られました。かつての研修先の地域や町・村の様
子は変わったところも有りましたが、当時の自然や思いでの場所・懐かしい人と
の再会等々、大変感慨深い旅行であったそうです。
〈栗原玲子さんから
栗原玲子さんから鵜飼
さんから鵜飼さん
鵜飼さんへ
さんへ墓碑の
墓碑の拓本が
拓本が贈られました〉
られました〉
教会墓地を改修するにあたり、故鵜飼和年さんの墓碑も移す事になりました。町
田ふさ子さんが拓本技術の名手であることから玲子さんが取っていただけるか伺
ったところ、是非、拓本を取らせて欲しいと申し出がありました。ふさ子さんは
町田本家でのキリスト教会との関わりの中で皆さんにはいつもお世話になってい
ますので何かご恩返しが出来ればと日頃思っておられたそうです。今回の拓本は
立派な表装まで施してありました。玲子さんの再三の謝礼の申し出を固辞され、
ちょうど「献碑式の当日届けて下さったそうです。献碑式の後の昼食会で玲子さ
んからこのいきさつが披露され、鵜飼さんに贈呈されました。思いがけない贈り
物に、鵜飼さんも感慨ひとしおのご様子でした。
〈境町名物…
境町名物…島村教会〉
島村教会〉
115 年の歴史を有する我が島村教会は、境町の『歴史的遺産』として、このとこ
ろ「○○歴史研究会」「○○の歴史をたどる」等々の見学者で大賑わいです。その
たびに古老(?)じゃなくて、長老の栗原寿郎さんが呼ばれて、島村教会の成り
立ちから当時の方々の海外との交流、この農村地域における文明開化の先駆的働
きをとうとうと説明され、皆さん感慨深く(煙に巻かれて?)満足気に見学され
て行きます。事実、教会設立当時のエピソードには、当時としては他の地域では
考えられないような大胆さと進取の気概があり、キリスト教の布教だけではなく、
外国の息吹き、文化の香りを感じさせる活動や情報・知識の発信地としての役割
も担っていたようです。
歴史を振り返ると同時に、今後の向上・進歩を目指して、教会員の一層の連帯
感と活力を取り戻していきたいものだと思います。
〈介護・
介護・療養中の
療養中の方々〉
小林春男兄
栗原洋行兄
その時歴史がががが生生生生まれた あの人人人人 このこと ののののコーナー
〈栗原寿郎さん
栗原寿郎さん、
さん、金井国夫さんの
金井国夫さんのアメリカ
さんのアメリカ旅行
アメリカ旅行〉
旅行〉
お祈りに加
りに加えて下
えて下さい
田島澄江姉
荒川とく姉
島村教会では、このたび『蚕の群れ』(このむれ)を発刊することにいたしました。
島村教会の教会員及び関係の深い方々に、島村教会の動きを知っていただくと同時に、研
修会の報告、教会の出来事、旅行記、会員の意見交換などを通じて、信徒の交わりを一層
深めてまいりたいと思っております。今回掲載漏れの原稿は、次号に掲載いたします。
皆様のご意見・投稿をお待ちしております。
(蚕の群れ 編集委員 高瀬美武 金井良樹)
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