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特許に見るライカとその挑戦者
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2015年9月12日 AJCC研究会 研究報告
会員番号0809
写真 1 1932年発売のライカⅡ
筆者がオスカー・バルナックの想い描いた
カメラの完成形と考えるライカⅡ(写真1)をラ
イカの原点として、その競争者の挑戦を特許
の観点から垣間見てみたい。
バルナックがライカ(ライカⅡ)の開発に際
し意図したことは、純機構的に見れば、
(1) 35mmシネフィルムを使う小型カメラ。
(2) シャッターチャージとフィルム巻上げ
を同時に行う。
(3) 連動距離計とビューファインダーを効
率的にカメラに組み込む。
の3点であろう。これにバルナックはどう臨み、
挑戦者はどう対応したのだろうか?
35mmシネフィルムの使用
パーフォレーションのある35mmシネフィル
ムを使ったカメラはバルナックがUrライカを
作った1913年以前から、映画の画面サイズ、
林田吉弘
18×24mmのカメラが数多くあった。現在知ら
れているこのタイプのカメラの特許で最初の
ものはAlberto Lleó他2名の英国特許5336
(1908年公告、図1)である。これはシネカメラ
にスチル写真を撮れるようにしたもので純粋
の(スチ ル)カ メ ラ で は ない。ラ イ カ 判(24×
36mm)のカメラも1912年に米国でGeorge P.
Smithが試作、その2年後には米国でMultiExposure Simplex(写真2)が発売されている。
したがって35mmシネフィルムを使うカメラは
少なくともカメラ関係の技術者には当時知ら
れていたことと思われ、35mmフィルム使用は
バルナックの創作とすることはできない。
24×36mmサイズを使ったことを知らなかっ
たとしても、35mmシネフィルム使って可能な
限り大きくすると必然的に24×36mmの画面
サイズになっただけのことと思う。大画面の引
延ばしに耐えるには画面サイズもさることなが
ら、露光量、現像法の改善、フィルムの更な
る粒状性向上等が必須であろう。
中川一夫氏がアサヒカメラ1968年2月に寄
稿した「私はUrライカを作った」(P246-249)に
よると1913年にオスカー・バルナックが作った
Urライカは幅40mmの固定スリットフォーカル
プレーンシャッターを用い、シャッターチャー
ジとフィルム巻き上げを同時に行う構造となっ
ている。従ってシャッターはノンキャッピング
で巻き上げ時にはレンズ前面に写真に示す
ようなカバーを付けなければならなかった。
記事には氏の作ったUrライカレプリカの分解
状態の写真がある(写真4)。シャッター幕の
スリット幅を10mmとした以外はほぼ本物と同
じモデルを作り、実写も行った旨記載があ
る。
ラ イ ツ 社 が 出 願 し た ド イ ツ 特 許 384,071
(1922年7月登録、図3)では、シャッター、フィ
ルム同時巻上げを行うことのほかに、レリーズ
時のシャッター機構とフィルム巻上げ部の切
離し機構が必須構成要件になっている。
良く知られているようにシャッターとフィルム
の同時巻上げ構造とした最初のカメラは、
セルフキャッピングシャッターと
1902年にカール・ツァイスから発売されたフィ
フィルムの同時巻上げ
ルムパルモスである。カール・ツァイスは1901
この話を進める前に1913年に作ったとされ 年前後にフィルムパルモスに使ったと思われ
るライカの原型、Urライカ(写真3)と、1902年 る「同時巻上げ機構」をドイツ本国の他、英
発売のフィルムパルモス(図2)のシャッターに 国、米国などへ出願している。
ついて触れておく必要がある。
その中で関係があると思われる特許は米
写真 3 Ur ライカ(1913)
(Photo http://leicadiaries.tumblr.com/)
図2 フィルムパルモス(1902)
(Carl Zeissのカタログより)
図1 Alberto Lleó他2名の英国特許5336(1908年)
シャッターとフィルム
巻き上げの切離機構
写真 2 Multi-Exposure Simplex (1914)
米国Multi-Speed Shutter Company から発売。
最初期の24×36mm Formatのカメラ。
写真4 中川氏の作成のUrライカ内部構造と
シャッター幕。スリット幅は10mm(本物は40mm)。
1
図3 Ur ライカのシャッター独特許384,071、
同時巻上げとその切離機構が主眼。
国特許704,755(1902年公告、図4)とドイツ特
許 120,441(1901 年 公 告、図 5)の 2 点 で あ ろ
う。米国特許では、①フィルム巻上げとシャッ
ターチャージはギアを介して同時に行う、②
シャッターには固定スリットを持つ2枚の幕を
用い、レ リーズ時は2枚の幕 のスリッ トが重
なったまま走って露光、巻上時は1枚目の幕
がスリット+α分だけ先に巻上げられ、続い
て2枚目の幕が巻上げられる「セルフキャッピ
ング」構造としている。ただしこの特許はスプリ
ングモーターを使った自動巻上げが目的で、
名称も「オートマチックセッティングシャッター
メカニズム」となっている。自動巻上げはセル
フキャッピングでなければ成り立たない。
また図4のドイツ特許はフィルムとシャッター
が同時巻上げであって、必要に応じ巻上げ
の連動を自動的に絶つ機構が目的となって
いる。これはフィルムとシャッターの巻上げ量
が必ずしも一致しないことへの対応である。
フィルムパルモスのシャッター構造がこれら
特許の構造に準拠したものであろう事は推察
できるが、現物に触れることができない現状
ではフィルムパルモスの現物とこれら特許と
の関連はよく分からない。
バルナックはライツ入社以前にカール・ツァ
イス・イエナのパルモス工場に在籍していた。
この時期にフィルムパルモスのシャッター
構成が彼の頭に印象づけられ、これがUrライ
カや後のライカの開発に大きな影響を与えた
ことは間違いないだろう。Urライカのシャッ
ター構造の特許は1922年に登録されている
が、これは第一次大戦直前の発明で戦争の
所為で特許申請、登録が遅れたのであろう。
1925年発売のA型ライカ開発の時期には
既にフィルムパルモス特許の権利期間は消
滅 し て お り、バ ル ナ ッ ク は 躊 躇 無 く セ ル フ
キャッピングで、シャッターとフィルム同時巻
上げの構造をとれた。ライカの極めて簡素な
構造のシャッターは1924年6月にドイツで特
許 を 取 得 し て い る(ド イ ツ 特 許 433,633、図
6)。また欧米各国にも出願されている。しかし
不思議なことに日本では特許登録がない。
従って欧米ではライカと同じシャッター機構
のカメラは第二次大戦前には作れなかった
が、日本では欧米への輸出を考慮しなけれ
ば誰でも自由に同じものが作れた。第二次大
戦後は、ライツのシャッターの特許権は消滅
しており制約がなくなった。
距離計について
ライツは1932年2月発売のライカⅡ型から短
基線長(38.1mm)の連動距離計を搭載した
(ライカはⅢ型で倍率1.5倍の望遠鏡を組み
込み有効基線長を57mmほどにしている)。
ツ ァ イ ス・イ コ ン は 1932 年 春 に 基 線 長
101.7mmという連動距離計付のコンタックスⅠ
写真 5 コンタックスⅠ型 Ver.3(高島会長所有)
↑図 5 ドイツ特許120,441、フィルムとシャッター同
時巻上で、必要に応じ連動を切り離すことができ
る。
←図 4 米国特許704,755、巻上後の状態。レリーズ
するとスリットが重なったまま走行し露光する。
2枚の幕のスリット
が重なっている。
(写真5)を発売した。
レンズ交換を前提としたライカとコンタックス
の連動距離計は以下の3要件を必要とした。
(1) 必要十分な基線長の距離計を35mm
シネフィルム使用のカメラに装着。
(2) レンズと距離計が正確に連動。
(3) 各種交換レンズに対応。
この3項目について、両社が出願した特許を 図 6ライカのシャッター、ドイツ特許433,633、1924
年登録。日本には出願されなかったか?
中心に比較検討してみよう。
る連動距離計装着に成功している。
ビューファインダーの配置
ライツはⅡ型以降のライカ に、ツァイスも
ライカ、コンタックスの開発の目指すところ Ver.5までのコンタックスⅠ型に、この方式の
は、限られたスペースの中により長い基線長 連動距離計を装着しドイツ国内で製造販売
の距離計と見易いビューファインダーとを押し し、海外にも輸出している。と言うことは両社
込むことである。そのためビューファインダー 間で何らかの取引があったものと思われる。
を距離計の反射エレメントの光路内に入れる
日本ではツァイスのドイツ特許549,787に相
という工夫をした。両社ともにこの距離計構造 当する特許は登録されておらず、ライツの出
の特許を前後して出願したが、ツァイスのドイ 願のみ実用新案(実公昭9-117)で成立して
ツ出願は1930年12月で、ライツの出願1931 いる。また米国ではライツの発明は審査過程
年9月より早く、ライツの特許はドイツでは成 でビューファインダーの配置だけの構造は拒
立しなかった。しかしツァイスは外国出願に際 否され、そのままの形では成立しなかった。
し出願手続きが遅れ優先権が成立しなかっ
いずれにせよ日本ではライカ式の距離計
たので、日本を含むドイツ以外の国ではライ 連動カメラを作ろうとした場合、ビューファイン
ツの特許が成立するという事態になった。
ダーの配置に困ることになった。1936年2月
図7にライツのスイス特許163,291(1933年8 に精機光学研究所(後のキヤノン、以下精機
月登録)、図8にツァイスのドイツ特許549,787 光学と略す)から発売されたキヤノン標準型
(1932年9月登録)にある距離計の構造図を (ハンザキヤノン)ではびっくり箱スタイルの
それぞれ示す。ビューファインダーの配置に ビューファインダー(実公昭11-324、図10)を
関する構成は、形状の違いはあっても明らか
に全く同一である。ツァイスにはファインダー
の配置以外に、縦走りシャッターと距離計配
置に関する発明(ドイツ特許558,798、1932年
8月登録、1931年4月から有効、図9)がある。
縦走りフォーカルプレーンシャッター部をカメ
ラの中央部後方に設け、上部前面空間にカ
メラ全幅に亘る距離計を入れ、100mmを超え
図 7 ライツのスイス特許163,291の距離計図。
2
図 8 ツァイスの独特許549,787の距離計図。
可動ミラーを右上のノブで回す単独距離計。
図 10 キヤノンのびっくり箱の実用新案。
図 11 キヤノンの一眼式変倍距離計ファインダー。
図 9 ツァイスの縦走りシャッターと距離計の配置
の特許、カメラ全幅を距離計に使用できる。
図 12 ライツの距離計連動法の実用新案
採用している。戦後の1946年発売のキヤノン
SⅡでファインダーと距離計を一体化した一
眼式距離計に、1949年発売のキヤノンⅡB型
でファインダー倍率が3段階に変えられる一
眼式変倍距離計(特許明細書176637、図11)
へと進化した。
レンズと距離計の連動
ライツのとった連動方式はヘリコイドによる
レンズ鏡胴の移動をレバーでミラーに伝える
単純な構造で日本では昭和9年6月公告の実
用新案実公昭9-8338(優先権日1931年10月
17日、図12)として成立した。この特許はドイ
ツ本国で特許624,499として1936年1月(1931
年10月から有効)に成立した。その他欧米主
要国でも成立している。極めて単純明快な構
造であり、それゆえに強力な発明であった。
これに対しツァイスも米国特許1,973,213
(1934年9月登録、優先権1931年4月11日、
図13)にあるような、レンズマウント後端にカム
面を設けた連動方式を採用して長基線長距
離計と共に精度を誇った。標準型キヤノンの
実質的な開発推進者であった吉田五郎は、
距離計の問題よりもライツのレンズとの連動方
式の特許に悩まされたと思われる。光学技術
が不足する精機光学は、レンズと共に連動方
図 13 コンタックスⅠ型Ver.5までのミラー回動型連動方式特許図。ミラーを動かすレバーはレンズマ
ウント後部のカム面(図中9番の部分)に接している。この特許にはキュッペンベンダー、ゴルトベル
ク等のツァイスのトップメンバーがかかわっている。
式も日本光学に開発を委ね、日本光学の山
中榮一が考えた連動方案(実公昭11-6035、
図14)を採用した。
この山中案はコンタックスのマウントと形状
は似ているが、外爪がなく交換レンズの装着
はできない中途半端なものであった。このせ
いもあってか吉田五郎は、自身が創立した精
機光学を追われた後も取り憑かれたように連
動方式の改良特許を出し続けた。
コ ン タ ッ ク ス は Ⅰ 型 Ver.6 か ら 米 国 特 許
2,040,050(図15)に示すような棒プリズムを用
いた回転プリズム(ドレーカイル)式連動方式
に変えた。棒プリズムを用いたため、ビュー
ファインダーを距離計の外に出すことになり
有効基線長が93mmと短くなった。さらにコン
タックスⅡ型からビューファインダーと距離計
を一体とした一眼式距離計に変更した。この
ため縮小倍率が掛かり、有効基線長は63mm
と短くなった。この距離計は棒プリズムと2個
の円筒レンズを用い、フォーカシングによるマ
ウント部の回転で円筒レンズを旋回させる光
学楔方式(ドイツ特許667,487、1938年公告、
図16)であった。
この結果、ライカもコンタックスも共に有効
基線長は60mm前後に収束している。戦後の
コンタックスⅡa、Ⅲaの有効基線長はさらに短
く43.6mmしかない。
交換レンズへの対応
ライツは二重ヘリコイドにより、焦点距離の
違うレンズの鏡胴後端部の動きを標準レンズ
と同じにして距離計と連動させる米国特許
1,931,313(1933年10月公告、優先権1931年1
月、図17)を取得した。コンタックスは米国特
許1,973,213(前出 図13)のレンズマウント部の
工夫であらゆる交換レンズに対応可能である
ので、ライツとツァイスは、交換レンズの距離
計連動方式を特許上ほぼ押さえたと思われ
る。これらの米国特許は1950年まで有効で
あった筈で日本のカメラメーカー、レンズメー
カーはどう対応したのであろうか?
ライツの特許戦略を総括すると、
(1) シネフィルムの採用に関しては、特許
性がなく他社との差別化は図れなかっ
た。
(2) シャッター構造に関しては、戦前にお
いては欧米で権利が成立し他社との差
別 化 に 成 功、こ れ に よ り 他 社 は、コ ン
図 15 コンタックスⅠ型Ver.6から使われた棒プリ
ズムと回転プリズム型距離計。棒プリズム使用の
ためファインダーが距離計の外に出てしまった。
図 14 標準型キヤノンの連動方式。
日本光学の山中榮一考案の実用新案
図 16 コンタックスⅡ型使われた棒プリズムと旋
回円筒レンズ使用の一眼式距離計。縮小倍率が
かかり有効基線長63mmとなる。この方式は戦後
のコンタックスⅡa、Ⅲaにも使われた。
3
図 17 ライカの二重ヘリコイドによる
焦点距離の異なる交換レンズへの対応
タックスの縦走りフォーカルプレーン
シャッターに代表されるような複雑な機
構を開発せざるを得なかった。しかしラ
イツは日本では権利化しなかったので
参考資料
アサヒカメラ 1968年2月号 P246-249
ライカの歴史 中川一夫著
ライカ物語 中川一夫著
現代のカメラとレンズ技術 小倉磐夫著
コピー機の蔓延を防げなかった。
(3) 距離計とレンズの連動方式について
は、ツァイスとライツが同じドイツのメー
カーとして協力し合ったとすれば他の
競争者の参入を阻止できた筈だが、不
幸な戦争でその効力を十分発揮できな
かったのではないだろうか?
(林田 吉弘)
現代カメラ新書「距離計付きカメラの変遷」野間俊夫著
朝日ソノラマ 1979年刊
クラシックカメラ専科 No.31 キヤノンハンドブック
朝日ソノラマ 1994年刊
写真工業出版 1979年刊
朝日ソノラマ 1997年刊
写真工業出版 1982年刊
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