暑いにつけ、 寒いにつけても思い出の多い我等の滑空場。 そこに

特集
″
`
滑 空場物 語
暑 い につ け、寒 い につ けて も思 い 出 の 多 い我等 の 滑 空場 。 そ こに
繰 り広 げ られ た数 々の ドラマ は我 々 に一 生 忘 れ られ な い強 烈 な イ ン
パ ク トを与 えて くれ た。将 に青春 まっただ 中 の 自分 が そ こに あ る。
玉水 の 風
今
西
駒
治
戦 後 、空 の 翼 が も ど り関 西学 生航 空連盟 が組織
「地上 滑走 」 で始 まった 「玉 水合 宿」 は砂 地 で
され たの は昭 和27年 6月 頃 か と思 う。 当時 3回 生
の 発着 で初速 確 保 の ため に敷 く竹 エ プ ロ ン作 りに
の小 生 は工 学部 4回 生 の知 人の誘 い で航 空部 発足
準 備会 に参 画 し、 時 を経 ず して行 われ た戦 後初 の
は 多 くの 時 間 と苦 労 を重ね、 宿合 「旅館 八百忠 J
→ 借 倉庫 の機 体格 納 庫 か ら練 習地 迄 の搬 送 も又一
夏 の学連 合 同合 宿訓 練 に も参加 した。 それが 課題
│1堤 防 を越 え る急坂 で汗 だ くとな り、
苦労 で木 津り
II河 川敷 での訓 練地
の 「玉 水」 の地 で あ り、本 津り
機 体 部 品 をか つ い だ肩が赤 くはれ Lっ た り、 ウ ォ
探 しか ら始 まった。
ー ミングア ップ には十 分す ぎる運動 量 だ った。
1年 を経 過 した頃、 パ チ ン コか らウイ ンチ に、
発足 直後 の 事 で もあ り参 加者 は、3、 4回 生 中
′
の30数 名 だ ったか 、 わが 同志社 か ら も数 名 は加
じヽ
そ して機 体 もプ ラ イマ リー か らセ コ ンダ リー に変
A班 、 未 経 験 者 B班 に分 か れ
り高度 も上 り旋 Dl訓 練 に入 り、 少 しは空翔 け る爽
て初 滑 空 な らぬ初滑 り「科‐
目、地上 滑 走」 か らの
快 さを味 わ え る頃 には もう卒業 試験 、 単位取 得 に
ス ター トとな ったの で あ る。
追 わ れ る毎 日 とな り、「玉水 の 風」 は心地 よい さ
小 生 も旧郡 山 中学 時 代 の 滑 空 部経 験 か ら A班
に編 入 され たが この班 が又 す ご い メ ンバ ー で 所謂
わや か さ と、思 い 出 を残 し、 またた く間 に過 ぎ去
軍 隊 か らの復員組 、 パ イ ロ ッ トだ った 人 も何 人か
後事 を吉川禎 一 君 にバ トン タ ッチ、更 に北尾君
わ っ た。 経 験 者
って しまった。
い て訓 練振 りも猛 烈 だ った様 子 を今 も憶 えて い る。
が これ を受 け、 す ば ら しい後 輩 、鳥 人達 を生 み 出
夏 の合 宿 が終 る と 4回 生 の 工 学 部 の 諸 兄 は卒業 実
して くれ たの は嬉 しい 限 りで あ るが、 それ につ け
験 に大 童 で早 々 に役 員改選 が行 われ、 主将 に は奥
て も初合 宿以 来 、 常 に指 導 教 官 と して大 変 な御苦
西君 (物 故 され た 由、心 か ら冥 福 を祈 りた い)学
労 をお か け した牧 野 (伊 )、 牧 野 (鉄 )先 輩 、学
連役員 に小 生 が副 委 員 長 と して派 遣 され る こ とに
連 担 当 と して御無 理 な 申 し入 れ を心 よ く処 理 して
な り、 中之島 の朝 日新 聞社 2階 の 学連 事務 所 通 い
い ただ い た石 田 (朝 日航 空部 )先 輩 、 そ して永 年
が続 くこ とにな った。 当時 の 学 連 は 発足 したばか
OB会 長 と して御 世 話 をい ただ い た尾 田大 先輩 の
り、OB会 「鵬 翼会 」 も復 活 した矢先 で夫 々の 活
お骨折 りが な けれ ば、 わが 同志社 の 今 日の航 空部
動 、情報 、通信係 は学連役 員 の 仕事 の一 つ で28年
はあ り得 な い だ ろ う し、 これ を受 け継 が れ た諸 兄
度 の 前 中委 員 長 (関 学 大 )田 中 副 委 員 長 (立 命
に感謝 申 し Lげ る と同 時 に、現役 学 生 諸君 の 活躍
大 )そ
れ に小生 と 3人 タ ッグで右往左 往 、共 に苦
労 を分 ち合 ったの も懐 しい思 い 出 の一 つ で あ る。
を祈 るや切 で あ る。
(昭 和 29年 卒 )
高松飛行場 の 思 い 出
渡
辺
洋
一
″
`
わが空 はわが 空 にあ らず の 時代
が 続 い た こ とは若 い方 々 に とって は想像 もで きな
堂 に寝 泊 りさせ て い ただ きま した。 そ こ まで歩 く
にはみ ちの りが あ るのでバ ス あ る い は タ ク シー な
い こ とだ と思 い ます。 昭和 27年 4月 講和 条約 発効
ど も利 用 しま した。練 習が体 みだ とこの ような足
に よって、や っ と「航 空」 が解 禁 され たの です 。
を利 用 して 高松 市 内 まで観 光
戦後ず っ と
ただ ち に
OB諸 氏 の 熱 心 な働 きか け に よって各
大学 に航 空部 が 復 活 し、空 に あ こが れ て い る者 が
どっ と集 りま した。
(?)に で か け るわ
けです。
飛 行場 は当時 田回 の 中 に あ る滑走路 とい う感 じ
で周 囲 には障 害 にな る ような建 物 な どが な く (た
学 生航 空連盟 のプ ラ イマ リー に よる合 宿 が玉 水
だ し電柱 はあ った。 われ われ の 中 の猛 者 が 離脱 忘
の 河川敷 で 開始 され たのが早 くも同年 8月 です。
れの ワイヤ ー で電線 を切断 した)グ ライ ダー に と
真黒 にな って も くも く と ゴム 索 を引 き練 習 を重ね
って は絶好 の 練 習場 で した。戦 争 中 に防空 用戦 闘
ま した。 今 の よ うに能 率 の よい練 習 で は あ りませ
機 の ため に田畑 か ら急造 され た ようで、滑走路 は
んが 、 み ん なわが 空 を飛 ぶ のだ とい うよろ こびで
約 1300m、 未 舗 装 なので戦 後 は写真 で 見 られ る よ
い っぱ いだ ったの で し ょう。
うに放牧場 とな って お り、 名 も知 れ ぬ 草花 が咲 き
A班
と して高
乱 れ る とい う長 閑 な光景 で した。 滑走 路 の 真 中 を
松 飛 行場 で ウイ ンチ合 宿 をす る こ とにな り、 当時
道路 が横 断 してお り、 そ の あた りにウ イ ンチ を置
は在 来線 で 宇 野 まで行 き宇 高連 絡船 に乗 り継 い で
い て東 半分 を練 習 に使 用 しま した (西 半分 は牛 達
高松 入 りす るか、 あ る い は関西汽船 も利 用 した と
が不1用 、飛 行機 の 発着 が あ る ときは牛 と もど もグ
記憶 して い ます。 高松 駅 (高 松 築港 )か ら琴 平 電
ライダ ー も退避 したのです )。
一 通 りltの 操 作 をお ぼ え た者 は
鉄 長尾線 で最 寄 駅 の林 道 (は や しみ ち)で 下車 、
使 用 した 機 体 は セ コ (JA0064と も う 1機 は
南約 2 kmの 合宿所 は「正大 寺」 とい うお寺 で、本
JA0119?)で 、 直線 で の 旋 回操 作 が大 丈夫 とな
ノン ビ リ放牧 ム ー ドの 高松飛行場
Z2
って、 は じめて高度 をとって360度 旋 回が 許 可さ
い軌『亦をL14い て飛 んだ 技量 の 高 さ とグ ライ ダー の
れたのです (水 場 と称 して、胴上 げを して もらっ
楽 しさを教 え られ た あ の 飛 行 が い まだ に 日 に焼 付
た)。 讃岐富 士 を日標 に して上 昇す ると瀬 戸内海
が ぎらぎら輝 いて屋 島が 目に入 り、眼下 には田 圃
い てお ります。
の 中 に用水池 (弘 法大師が築 かれた とい う)が 散
た仲 間違 と高松 空港 を訪 ね ま した (ホ テ ラ正大 寺
在 してお り、 の どかな田園風景 を楽 しみなが ら飛
会 とい う)。
んだ ことが まざまざとなつか しく思 いだ され ます。
れ われの滑 空場 は立派 な一 人前 の 空港 へ と変ぼ う
われわれは実は、高松 で飛 行機 の操縦経験がある
のです。単座 のセ コですか らパ イパ ーで一 度旋回
して い ま した。 もちろん滑走路 は舗 装 され てお り、
付 帯 設備 と共 に周辺 はび っ し りと家 々 が建 ちな ら
操作 を体験 させ ようとい うことだった と思 い ます
び お 寺 を探 す の に一 苦 労 しま した。 しか しこの 空
(安 全第一の練習ですか ら教官方 のご苦労が よく
港 も本年 か ら山側 に完 成 した新 空港 へ とバ トン タ
もう何 年 か 前 にな りますが、 い っ しょに合 宿 じ
そ の 変 わ りよ うは驚 くばか りで、 わ
わか ります)。 飛行機 での 180度 旋 回あるい は360
ッチ し、 そ の役 目を終 え地 図 にか ろ う じて空港 の
度、 目標がなかなかつかめ なかった こと、グライ
痕 lTIIを 残 す のみで あ ります。 あの 当時 の われ われ
ダー とはまた違 うあの舵 の感覚 な ど、鮮烈な記憶
の 滑 空場 に もどす の は無理 な注 文 で しょうか。
としてなつか しく思 い 出され ます。
もう一つ、われわれ に とって忘れ ることがで き
な い の は故 牧 野伊 兵衛教 官 の 霧 ヶ峰 式鷹 7型
最 後 にな りま したが、大 空 へ の夢 をか な えて ド
さった ご指 導 い ただ い た方 々 にお礼 申 しあ げ ます。
(昭 和 30年 卒 )
(JA 2002)に よる模範 曲技飛行 を見せ て いただ
いたこ とです。 みご とな連続宙返 りに続 いての指
定地着陸、鷹 7の 美 しさに もま して大空に素晴 し
草花咲 き乱れ る高松飛行場
Iθ
霧 ケ峰
八尾 の 空
志
IFk
石
郎
昭和34年 6月 の朝 まだ H音 い 頃、2台 の トラ ック
′
に積 まれ た グ ライ ダーの梱 包箱 は、永 年住 み 1貫 れ
元
勲
「鐘 が もの を いふ 、霧 だ 、霧 だ と。鐘 が もの い
お、
、生 きろ、 生 きろ と一― 」 た い子
霧 ヶ峰 と聞 くと、 この 言葉 だ けはな ん とか 覚 え
た高松 の 飛 行場 をあ とに大 阪 八尾 飛 行場 に向 った。
学連 の 訓 練 場 変更 に伴 な う八尾 へ の 移動 で あ る。
てお りま した。3年 程 前 の 晩秋 に、長 野 か らの帰
わが もの 顔 に飛 んで い た高松 か ら新 参者 と して、
各航 空会 社 の飛 行機 の 飛 び 交 う八尾 飛 行場 へ の 移
路 、天気 は快晴 、時 間 もあ る、霧 ヶ峰 に寄 ってみ
よう と、 ふ と思 いつ きま した。昔 と違 い道路 も立
動 は、訓練 の根 本 か らの 見直 しを迫 られ た。 自由
奔放 に近 い状 況 で フ ライ トの 出来 た 高松 か ら、 ワ
派 で便 本1に な った もの だ と、 つ くづ く感心 しま し
ンフ ライ ト毎 に コ ン トロール タワ ーの指 示 に従 っ
で 日 を見張 るば か りで す。 しか しなが ら以 前 の
て飛 ぶ訓 練 は、今思 えば 当 り前 の こ とが、 当時 は
大 変 な制 約 を加 え られ た よ うに感 じ、 正 規 の 枠 を
「強 清 水 山荘」 とお ぼ しき所 に来 る と、「 こわ し
み ず」 とい う ホテル が あ りま したが 山荘 は見 つ か
はめ られ た野性 鳥 人は とま ど うこ とシ キ リで あ つ
りませ ん 。 たぶ ん こ こだ と思 う こ とに して、 滑走
た。 加 えて生活環境 の 変化 も大 き く 1か ら10ま で
路 が あ る と思 う方向 の上 空 を見 て も、 グ ライ ダー
全 て 自分 達 の 手で作 り上 げね ばな らず 、誰 もが 体
の 飛 んで い る様 子 もな く、 ス キ ーの リフ ト、 格納
庫 ら しき建 物 だ け。 と りあ えず格納 庫 の 方 へ 脇道
験 す る新 天地 開拓 の 苦 しみ をぞん ぶ ん に味 わ った。
例 えば生活 に必 要 な水 が宿合 に無 い ため、近 く
た。我 々が訓 練 で来 た20数 年 前 とは大 変 な変 り様
を登 る と、 な つ か しい鐘 が見 え格納 庫 には
H23C
の住 宅 の 好意 で長 い ホー スで 水道 の 水 を貰 ったが、
と思 え る機 体 が格納 され て い るのが 見 え ま した。
東
夜 中 に継 ぎ目が切 れ た り、 冬 には ホー ス全体 がヤ
って長 い ア イス キ ャ ンデ ーが 出来 た り、 ず い分 苦
ここ まで来 る と今 日は グライ ダー は飛 んで い な い
労 した。 しか しその苦労 も後 にな って思 い 出 して
くこ とに し、昔 なつ か しい思 いが一 段 と足 を早 く
します。立派 な滑走路 が あ り、昔 我 々 は、 どの あ
み る と、 全てが楽 しい思 い 出 で あ る。
こ と もわ か りま したが、 と りあえず滑走路 まで行
そ して その後 に花 開 い た八尾 全盛 時代 は誠 に絢
た りで訓 練 を して い たのだ ろ うか と見 わ たす が、
爛 豪華 で あ つた。 八尾 中研 、 八尾大会 、 八尾 記録
は っ き りとはつ かめ ませ ん。 我 々の 時代 との格差
会 、 どの一 つ を取 ってみ て も学連 の全 てが結 集 さ
を思 い知 らされて い る うち に、 除 々 に昔 の 事 が頭
れ た観 が あ った一 時期 で あ る。
に浮 んで きます。
車 曳航 で上 昇 す る。 西 の 方 に金色 の大 阪湾 が li 4く 、
昭和 36年 5月 、初 め て玉水 で、プ ライマ リー訓
練 を受 け、 グ ライ ダー の事 をほ とん ど知 らな い ま
暮 色迫 る大 阪 市街 、煙 た なび く中、通 天 閣 が ひ と
ま、36年 8月 8日 か ら 1週 間、 第 2回 霧 ヶ峰 初級
きわ高 く、右 旋 回す れ ば視 界 を生駒 山が よ ぎ り信
機 講 習会 第 5期 生 と して、我 が 同志社航 空部 か ら、
貴 山が躍 る。
知 野、樺 島、梶 田、川 上 、 山崎 、成瀬 の 諸氏 と一
夕陽が 西 に傾 く頃、気流 も良 く、 そ の 中 を 自動
最後 の フ ライ トは ロ ン グ ラ ンで 27。
(昭 和37年 卒 )
緒 に参 加 し、 これが あ らため て空 に取 りつ か れ た
第 一 歩 だ と言 え る と思 って お ります 。
私 の班 の教 官 は、 霧 ヶ峰 の主 と言 われ た、 藤 原
ヱイ
鶉 野 の発見
樺
島
紳 一郎
綱 大教 官。皆様 もす で に よ く御 存知 とは思 い ます
「鶉 野」 の 名前 を聞 い て懐 か しさをおぼ え るの
が、藤原咲平博 士 の親 成 で作 家 の新 田次郎 さんの
は、 ほんの数 年代 の 部 員で あ る と思 い ます が、 こ
弟 さんです。 藤原教 官 の 霧 ヶ峰 の 山の話 、 高 山植
の鶉 野 こそ 、我 が航 空部 が 発見、 開発 して イオ ラ
物 の 話、遺 跡 の 話 な どに聞 きい った事 を懐 し く思
ス I世 を飛 ば した我 々の歴 史 に残 る滑 空場 で す。
い 出 します。
同地 が す っか り忘れ られ た 現在 、学連 に も航 空部
我 々の 使 用機 体 は、 プ ラセ コ JA 0153。
ヨ│1練 の
に も恐 ら く何 の記録 も残 って い な い こ とを思 う と、
厳 しさは、 今 で は あ ま り思 い 出せ ませ んが 、 ゲ ー
当時 の部 員 と して全 く残 念 に思 い ます。 この 度、
ロ ッ原 ?で の機 体 押 し、最 終 日で したか、我 が班
翔 友 に掲 載 す る「滑 空場 ものが た り」 の ひ とつ と
の 関 東 の 先 輩 が 「 くるみ 飛 行 」 (池 の くるみ だ っ
して、 同滑 空場 が発見 され た経 緯 を書 い て お くの
まで の 大 飛 行 の 後 の 、 ビス ト迄 の機 体上
も無駄 で は な い と思 う次 第 で す。 ただ、 か れ これ
た か )、
.OB諸
氏 に は、 御 理
30年 近 くも昔 の こ と、 い った い どれ程 の こ とが 書
解 い た だ け な い か も知 れ ませ ん が、「 くる み 飛
行」 とは、プ ライマ リー 、 又 はプ ラセ コで斜 面 を
け るか 全 く自信 が あ りませ んが、記憶 の 糸 をた ぐ
発航 し、通 常飛 行 の 数倍 に及ぶ距 離 を飛 び 、下 の
昭和30年 代 中頃 の我 々の 滑 空練 習場 とい えば、
げ の 苦 しか っ た こ と。 若 い
り当時 の 出来事 を綴 って見 ます。
湿地 帯 に着 陸 す る飛 行 の 事 だ った と思 い ます。又
八尾飛 行場 が主 力 で 、冬 の 記録 飛行 の ため に全 国
そ の 先輩 の搭 乗後 の満 足 そ うな顔 を見 る と、我 々
の 支 部 の精 鋭 が 八尾 に集 った、戦 後 にお け る八尾
もず いぶ ん刺 激 を受 け た もので す。 た った 1週 間
全盛期 にあ った と思 い ます 。 八尾 以外 、 関 西支 部
程 度 の 合 宿 で 、霧 ヶ峰 の す ば ら しさ、雷 の恐 ろ し
と しては 1日 高松 飛行場 や、 か な り後 にな っての 旧
さ、霧 の す ご さ、 さす が 霧 ヶ峰 と言 う実感 も体験
岡 山飛行 場 が あ りますが、 い ず れ も遠 方 で 合宿 費
し、 加 えて強清水 山荘 の 南 京 虫の か ゆ さ、 さすが、
用 も,馬 鹿 に な らず、 しか も定期便 の 発着 が あ って、
これ には一 番 まい りま したが 、若 き日の思 い 出 と
グ ライ ダーの 飛行 が迷 惑 が られ る ような状 況 で し
しては、 これ以上 の経 験 は あ りませ ん で した。 い
たか ら、 なん とか近畿 圏で、 出来 れ ば毎週 末 に練
つの 日にか 、機 会 が あれ ば、 最 新 の機 体 で霧 ヶ峰
習 可能 な場 所 はな い ものか と必死 にな って探 し回
の上 空 か ら、 自樺 湖、諏 訪湖 を存分 に眺 め て見 た
って い た状 態 で した。 当時 の 発航 方法 は 自動車 曳
い と夢 を描 い て居 ります。
航 が主 力 で あ り、 多人数 に少数 の機 体 と、 いた っ
(昭 和 40年 卒 )
て能率が悪 く、 また 当時 か ら小 型飛行機 の メ ッカ
で あった八尾 は、使 用事業 の 飛行機 の 発着 も多 く、
練 習 中断 は 日常茶飯 事 で したか ら、 あた ら絶 好 の
滑 空 日和 を、 ボ ンヤ リと ピス トで過 ごす時 間 が 多
― ― ワンポイ ン ト
蛙原 と書 い てゲ ロ ッパ ラ と読 ませ る。展望
がすば ら しく、 グ ライダーの練 習 中 に、 よ く
富士 山が見 える。長塚 節 の歌碑 もあ る。
か った こ とは、 当時 の皆様 の ご記憶 の通 りです。
八尾以外 の適地 を探 す に 当た って まず我 々の 考
え に浮 か ん だの は、昔 使 用 され て い た滑 空場 が使
えな いか 、 と言 う こ とで した。戦 前、戦 中 に近 畿
15
圏 にあ った渦 空場 は とい えば、 小 さなプ ライマ リ
ー をち ょっ と飛 ばす よ うな場 所 は、 国策 で グ ラ イ
て、 今 の 近鉄 (当 時 の 奈 良 電 )の 大 久保駅 近 くの
陸 L自 衛 隊大 久保 駐 屯地 に、線路 に沿 った短 い未
に違 い あ りませ んが 、戦 後 の 我 々が知 って い る範
舗 装 の 滑走路 が あ りま した。奈 良 電で学校 に通 っ
て い た私 は、 時 折 セ ス ナ L‐ 19が この狭 い場 所 に
囲 で は、 ウ イ ンチが使 用 出来 る よ うな滑 空場 と し
発着 す るの を電車 の 中 か ら見 た もので す。 ここ も
て は本 津川 滑 空場 と生駒 山 の 麓 にあ った 盾津滑 空
条件 さえ良 ければ、大 津 以 上に週 末練 習 に絶 好 の
場程 度 で す。 この 他 には、30年 代 の は じめの わず
場 所 と思 われ たの ですが 、消走路 付近 に余 りに人
か な期 間、大 津 の琵 琶 湖 畔 、比 叡 の 麓 にあ る 自衛
家 が迫 りす ぎて い る と言 う こ とと、滑走路 そ の も
隊大 津駐 屯地 の飛 行場 (連 絡機 が 離 着陸 出来 る小
の が近 々 と りつぶ され る との 自衛 隊 の 話 しで候 補
さなエ ア・ ス トリップ が あ つた と記憶 します )で
地 に はな り得 なか ったの です。 そ の ほか、 淀川 の
│1敷 に適地 が な い もの か と、上 流 か ら下流 へ と
i可 り
ダー を奨励 して い た 当時 はそれ こ そ無 数 にあ った
の H-22
で
窪
「 1監 警 の 世 代 が 立 命 館 と合 同 同 校
(懐 か しい 名機 です )を 飛 ば した筈 です が、39年
堤 の上 を車 を走 らせ た こ と もあ ります が、淀川 の
卒 の 青木 先輩 の 当時 の お話 に よれ ば、比 叡 お ろ し
│1敷 は高圧 線 が 隙間 な くあ り、 とて もグ ライ ダ
河り
の あ る同地 は気流 が 複雑 で飛 行 は極 め て危険 との
ー どころで はな い事 が わ か りま した。
こ とで、 そ の後 同地 での合 宿 は行 われ た記録 は あ
滑 空場探 しも、 この様 な袋小路 の ような状 況 に
りませ ん。 また、 同 じ自衛 隊 の連 絡機 発着場 と し
あ った時 、 た また ま本屋 で立 ち読 み した雑誌 「航
爆破 の 跡 が 見 え る
Iδ
たのです。 それ は記事 と言 え る様 な もの で は な く、
着陸進 人 に障害物 は何一 つ あ りませ ん。 そ して肝
′
の 滑走路 は と言 えば、 ところ どころ に、 きっ と
しヽ
一枚 の 写真 の 説 明書 きで した。目 く、 町臣路 の OO
終戦 直後、使 用不能 にす るため にや った と思 われ
ラ ジ コ ンク ラブ 定例 飛 行会 、妙 旧鶉 野飛 行場 跡 」
る爆 破 跡 が あ るの み で、 コ ンク リー トに亀 裂 が 入
と言 った程 度 の 説 明で あ った と記 1意 しますが 、 そ
り、雑 草 が 多少生 えて い る とは言 え、 れ っ き と し
の 頁 に出て い た一 枚 の小 さな写真 に は、薄 い煙 り
た舗 装滑走 路 です。
空 フ ァ ン」 の ラ ジ ヨ ンの 記 事 の 中 に鶉 野 を見 つ け
を引 い て離 陸 す る ラ ジ コ ンの ス タ ン ト機 が、 機 体
そ こで 、付近 で畑 仕事 を して い た 人 に、 この上
のサ イ ズ に は不釣 合 な、幅 の 広 い滑走路 ら しき所
地 が だ れ に所有 され 、 ど う管 理 され て い るの か を
か ら離 陸 して い る ところが 写 って い たの です 。 こ
た ず ね ま した。 これ が分 か るに はち ょっ と手 間取
の 滑 /1_路 ら しき写 真 と、 旧飛 行場跡 と言 う文 字 が
りま した。 付近 の 人 は誰 も正確 な こ とを知 らな い
私 の心 を踊 ら したの は言 う まで もあ りませ ん 。
はや る気持 ち を押 さえつ つ 、鶉 野 に一 番近 い(?)
の です。 ただ、 時折 陸上 自衛 隊 が トラ ックの運転
神 戸 に住 んで い た同級 生 の 末 吉君 に誘 い をか け、
同君 の 借 りた コニ ー軽 四輪 トラ ック (こ れ も懐 か
して′
思えば、町役 場 な りに先 ず立 ち寄 って 、 この
様 な事 を調査 すれ ば 良 か ったの です。 同地 が村 で
しい 名前 で す )で 同地 へ 駆 けつ けた の で す 。「鶉
あ ったか 、町 で あ っ たか、又 は どこかの市 の 郊外
野」 と言 う地 、 よそ者 の私 には即座 に地 図上 で正
で あ ったの か、今 で もわ か りませ んが 、 そ の後 同
確 に場 所 を示 す こ とは出来 な い地 名です。 とにか
地 との 関係 で必ず そ の様 な役 所 とかか わ りが あっ
II?)の 1し の 方、 と言 うこ とだ けが
く姫 路 (加 占り
の唯 一 の Fnl地 へ の 方 向観 念 です。 ど
当時 も今 も利、
た筈 に もか か わ らず 、不思議 な こ とに 自衛 隊 との
交渉 を除 き、役所 との 関係 につ い て全 く記 1意 にあ
こ を ど う回 って い ったの か 、 今 とな って は全 く記
りませ ん。 当時 部 役 員 を勤 め て い た39年 度 卒 の
にあ りませ んが 、恐 ら く多少 の土 地感 は あ る末
方 々が その交渉 にあ た られ て い たのか も知 れ ませ
吉君 の ナ ビゲー シ ョンで 無 事 た ど りつ い たの だ と
ん し、学連 で これ らの労 を とって下 さったの か も
思 い ます。 とにか く今 で は考 え られ な い事 で す が、
神 戸 か らは全 く舗 装路 が な く、 ガ タガ タの ソ ロバ
しれ ませ ん。 とにか くそ の 日は、飛 行場 とその付
1意
の 練 習 に使 用 して い るこ とが分 か りま した。 今 に
近 の 建 造物 な ど との 関係位 置 を記 入 した簡 単 な見
の 言葉 も最 近 の 人 は知 らな いか も知 れ
取 り図 を作成 し当 日の 調査 を終 了 しま した。 この
ませ んが )ば か りで したの で本 当 に遠 方 に思 え ま
調査 の 結果 と見取 り図が提 lLP4さ れ、航 空部 と して
した。
調査 続 行 が決 まったの は、 記 1意 に よれ ば、 昭和 38
年 度 卒業 生 の 追 い 出 しコ ンパ の 席上 で あ った と思
ン道 路
(こ
さてや っ と同地 につ い て 、 そ の飛 行場 跡 を見 た
時、 これ は い け る、 と思 ったの です。 勿論 、 滑 空
い ます。
場 に適 当な場 所 の 詳 しい条件 な ど知 る由 もな か っ
それ か ら初合 宿、 初 飛行 まで は、部 員全 員 の熱
たの で す が、 とにか く曲が りな りに も滑 走路 が あ
意 で非 常 に迅速 に進 め られ ま した。 先 ず、 同飛行
ったの です。 しか も、滑走路 の 周 りの 空 間 は、戦
場 の 所 有 、使 用者 で あ る陸上 自衛 隊 の姫路 駐 屯隊
を訪 問 し、我 々の趣 旨を説 明、 使 用許 可 を願 い 出
後十 数年 た った 当時 で も何 も建 って お らず、 離 陸、
17
る こ とか らは じま りま した。 今 も、 この様 な官 公
バ ラ さず、組 んだ ままで野外繋 留 したの は この鶉
庁 に近 付 くの は い ささか 面倒 な手 続 きが必要 です
が 、 当時 も同 じで 、 どこに ど う願 い 出れ ば良 いの
野 の 合 宿 が初 め てだ そ うです し、 そ の た めの機 体
か さっぱ り分 か りませ ん 。 そ こで 当時私 の 住 んで
もので す。 また、 同地 に機 体 を運 ぶ ため の トレー
い た奈 良 の 自衛 隊地 方連 絡 所 に色 々 と聞 い てか ら、
許 pr願 い書 ら しき もの を作 成 して、姫路 城 の そば
ラー を 自作 した際 の 三井 君 の 大活躍 な ど、 今思 え
ば そ の 後 の航 空部 の 活動 の基 本 的 な事 に つ い て、
にあ る駐 屯隊 に出掛 けて行 きま した。 この 時 同行
手探 りなが ら一 つ一 つ 実行 して い った と言 え ます。
して くれ たの は同級 の 石 元 君 だ った と思 い ます。
私 が 同地 を再 び訪 れ たの は、 卒業 間際 の 同地 での
自衛 隊 と言 わず 、 まず軍 隊 と言 うの は官僚 主 義 の
見本 の よ うな組織 で あ るこ とは、 卒業 後仕 事 を通
合 宿 に一 日参 加 させ て戴 い た時 で す。 そ の 時 は同
級 の 知 野君 との互 未 で、 夕暮 れ の ア ーベ ン トをつ
じて いや と言 うほ ど実感 しま したが、 当時 の世 間
か み30分 近 くをの んび り飛 行 し、 全部 員 が大 変 な
を知 らぬ 青 二 才 に そ の よ うな事 が分 か る訳 もな く、
盲蛇 に怖 じず、 ただ ただ グ ライ ダー を飛 ば した い、
熱 意 を もって開発 した鶉 野 が 、滑 空場 と して非 常
との コケの一 念 で 、許 可 が 出 る までね ば りま した。
に感 激 で した。 あの 日本音 話 しに出て くる ような、
交渉相 手 は定 年 間近 い年齢 の 下士 官 で したが、許
夕暮 れ の 霞 の か か っ た お だ や か な景 色 の な か を
悠 々 と飛 んだ 時 の 事 は一 生 忘 れ られ な い で しょう。
可願 い を申請す る際の 日上 か ら、 書類 の 書 き方 の
を覆 う シー トの材 質 選 び な どに皆 で知 恵 を絞 った
に適 した場所 で あ った事 を実感 出来 た こ とは本 当
基 本 まで、 実 に細 か い事 を厳 しい 説教調 で お教 え
戴 き、 最 後 に「 き ょう 日の大 学 生 は何 に も しらへ、
翔 友50年 誌 の 中で44年 卒 の小 野 田教 弘君 が 書 い て
ん な あ … 」 と、 ま さ に最 近 新 入 社 員 にむ か って
我 々が 言 って い る こ とズバ リの お言 葉 を頂 載 し、
も もう一 度訪 れ て見 た い場 所 です。 どな たか鶉 野
を懐 か し く思 う方 が い らっ しゃ るな らば、事島野 ツ
す ごす ご と、 しか し幾 分 ホ ッ と した気分 で 夕方 の
ア ーで も組 んで 、 OB総 会 の 帰 りにで も一 緒 に行
女
臣路 を後 に した こ とが昨 日の こ との様 です 。 自衛
ってみ ませ ん か ?
隊 との 交渉 は あ ま り愉 快 な こ とで は あ りませ んで
あの昔 話 の 中 の ような風景 も、 団地 の ひ じめ く風
したが 、 この 時 に この 下 士 官 か ら教 わ った 、書類
景 に とって変 わ られ て い るか も知 れ ませ ん。 そん
の 中で
じヽ
な変 り様 に幻 減 す る よ りも、 いつ まで も′
の書 き方や 、官 公庁 に提 出す る書類 には必 ず書類
番号 を必要 とす る こ と、 また ボール ペ ンは使 用 し
な い事 (当 時 の ボール ペ ンは時 が たつ とイ ンクが
変質 して消 えて しま う)な どは、 そ の後 実社会 に
でて 多少役 にた ち ま した。
さて、 合 宿 の 準 備 、 H23C「 イ オ ラ ス」 I世
の飛 行 の ための準 備 が そ の 後着 々 と進 み ます が、
同地 の 開発 には、 色 々 な苦 労 話 しや エ ピソー ドが
あ ります。 同級 の 知野君 に よれ ば、関西 で機 体 を
18
い る よ うに、私 に とって も同地 はそ の後 何 と して
もっ と も、 あれ か ら既 に30年 、
昔 話 の風 景 で い て くれ た方が 良 い か も知 れ ませ ん
ね。
(昭 和 40年 卒 )
誌 面 の 都 合 で一 部割 愛 させ て い ただ き ま し
た。 ご了承願 い ます。
富 山、 青春 の 地
南
村
i青
治
て …… 。 有 名 な枕 草 子 の一 節 です が 、富 山での合
我 々の 宿 合で、 宿合 とい って も、 二 段 式 の 簡 易 べ
ッ ドに食堂 と 一人が 入れ るか ど うかの小 さな風 呂
宿 は何 と言 って も春 が一 番。 あげ ひば り名乗 りで
だ けで した (ほ ん とうは積 雪 時 の 雪 か き人夫 小屋
る大 空 の 中、 高 度 300メ ー トル の イオ ラ スの キ ャ
で あ った ら しい )。
ノ ピー越 しか らは、 まだ残 雪 の残 る早 春 の立 山連
寝起 きす る訳 です か ら部屋 には青 春 の 香 気 ?が 充
峰、神秘 的 な富 山湾 、 限下 に は雪 溶 け水 を集 め て
流 れ る神 通川 、 etc… …。
満 して い ま した。
春 は曙 、 よ うよ う自 くな りゆ く山際少 し明か り
そ こ に20名 程 の 汗 臭 い学 411が
青春 の地
各地 の 飛行 場 の上 空 を い ろ い ろ な機 体 で飛 ぶ こ
とにか く福 井 で訓練 が 出来 る まで、 京都 か らは
とが 出来 ま したが 、富 山で の 合 宿 の シー ンは20数
るか離 れ た北 国 の地 で 当時 は訓練 が 続 きま した。
年前 とは思 えな い程 、鮮 明 に懐 か し く思 い 出 され
イオ ラ ス に よる初 め ての 「1貫 熟 」飛 行。 飛 行 lnl数
ます。
が増 え るにつ れ操 縦 のむ ず か しさに悩 んだ 事。 雨
の 日の座 学 の あ と寓 │││の 街 に出 て飲 ん だ コー ヒー
猛 訓練 の こ と
OB諸
兄 な らご存
の 美味 しか った こ と。 夜 の ミー テ ィングの 帰 り生
知 だ と思 い ます が 、 そん な春 の 美 しい景 色 に酔 え
まれ て初 め て ホ タル を 見た こ と。 又、 グ ラ イダー
るの はほんの ひ と とき。 当時 は同 志社 も 「単独 合
を陸送 す る時 、琵琶 湖 畔 で思 わず事故 にな りか け
宿」 が や っ と軌 道 に 乗 り、「全 国制覇 」 め ざ して
た こ と…… 。思 い 出せ ば い ろ い ろな事 が脳 裏 に よ
は 1日 2
「や る気十分 」 の 窪 田 コー チ の 、休 息、
「
い
レ
ン
の
の
み
の
と
フ
ップ
陸時
う猛 訓 練 。
ドシ
、
着
便
みが え ります。
天気 さえ良 けれ ば、 日の 出 か ら日没 まで70発 の フ
春 Jに タイム ス リップ してみ た い、富 山 はそん な
ラ イ トが 普 通 で あ りま した。
想 い 出 の地 で す。
「富 山合 宿」 を経 験 され た
当然 、広 い ラ ンウ ェ イで の 直 曳訓練 に よる機 体
'
出来 れ ば もう一 1芝 あの ラ ンウ ェイ に 立って 「青
Π45年 卒 )
(昭 不
運搬 や 曳航 索 の 点検 な ど、地 L勤 務 は大 変 で、 合
宿半 ばで足 の 裏 はマ メだ らけ。
深 夜 の 宿合 、下級 生 の 集 団脱走 計 画 が秘 か に語
し合 われ た事 もあ りま した
たが
(も
ちろん未遂 に終 っ
!)。
ラ ンウ ェイの こ と
神通川右 岸 の 河川敷 に富 山 の ラ ンウ ェイは造 ら
れて い ます。滑走路 の 両 端 は少 し崖 にな って い る
ため増水 時 は まるで航 空母艦 に着艦 す る様 な感 じ
が しま した。
宿合
空港 ビル の 横 の 片 隅 に 10坪 程 の 小 さな建 物 が
Z_Cn
富 山 での慣熟 飛行
恒
藤
恭
行
卒業 して はや 19年 にな る。 19年 前 の思 い 出 は と
Ka6Eは 我 々が 2年 の後 半 にや っ と輸 入 され た
考 えてみ る と、4年 の 間 に は多 くの 失敗や 危 険 が
あ った こ とは あ ったが 、卒業 以 来 19年 の 歳 月 の ふ
か と思 うが初 め ての体験 まで しば ら く待 た な けれ
羊明 に
るい にか か る と楽 しか った事 の ほ うが よ り魚
フ ライイ ングの エ レベ ー ター な どか ら非 常 に扱 い
思 い 出 され て くる。 そん な 中 で実 は昨 年 、慣 熟飛
に くい高性 能 な ス ポー ツ機 を思 わせ たが、 い ざ飛
行 の体験 が もう一 度 か な え られ た ら と願 って 、 ラ
ん でみ る と軽 量 で非 常 に身軽 な小型 ス ポー ツカー
イ トプ レー ン (30∼ 70馬 力程 度 の 単座 又 は複座 の
の ようで小気 味良 か った。敏 感 な動 きをす る機 体
軽 量飛 行機 )講 座 を受 けた。 実 際 の飛 行 は まだ そ
の 暇 もな く一 度 も体験 して い な い。
で 、計 器 も又 非 常 に敏 感 な動 きを した様 に思 う。
さて 今 で も一 番 記憶 にあ り何 時 もこの 時 の 体験
ば な らなか った。 ツル ツル した機 体 表面 、 オ ール
風 防 の 汚 れ もな く視 界 が非 常 に良好 で、旋 回中 に、
ス トラ ッ トの な いの が非 常 に高性 能 を思 わせ たが
H-23Cに 比 べ た ら劣 るか も知 れ
を もう一 度 してみ た い と思 う事 に、最 初 の フ ライ
同時 に耐 久性 は
ト1貫 熟 飛 行 の思 い 出が あ る。 後席 は当時 4年 生 の
阿部教 官 。 阿部教 官 の 指 示 に従 ってベ ル トを締 め 、
な い な ど と余計 な事 を考 えて い るうち にか な り内
滑 りを起 こ して い た。 ス ピー ドも十 分 で て い た し
軽 く卵 を掴 む要 領 で操 縦 liを 握 れ と教 え られ、 こ
内滑 りだ か ら何事 もな く旋 回 を終 えた。場 周飛行
れ か ら飛 び立 つ 300mの 高 度 か らの 不 安 か ら身 の
す くむ思 いが した 端 に、機 体 は ゴ ソ ゴ ソ ゴ ソ、
を終 えて戻 って くる と次 か らは もう
コ トコ ト、 コロ コロ コロ、 しば ら く′
いもとな い助
'金
H-23Cに 乗
りた くな くな って しまった。 Ka6Eの 性 育旨が良 く、
何 よ りも滑 らか な音 が気 に入 って しまった。
えた河川 の青 い 色 とキ ラキ ラ と した太 陽 の反 射 が、
この 他 に も同期 、 先輩 た ちの事 、霧 ヶ峰合 宿 、
立
同 戦 、 セ ス ナ機 の 練 習、 北 尾 教 官 とパ イパ ー
スーパ ー カブ機 で羽 田か ら八尾 へ の 飛行 中冬 の 強
今 で も私 の一 番好 きな景 色 と して記憶 にあ る。何
い西風 に邪 魔 され 名古屋 に着 陸 した。 そ こで ゾ ッ
時 か又機 会 が あれ ば、 空 の ス ポー ツ をや ってみ た
と した事 にパ イパ ーの エ ンジ ンオ イル が ほ とん ど
い と思 わせ る景 色 の 一 つ で あ る。 H‐ 23Cは 風 防
抜 けてお り、 あ と20分 も飛 んで い られ な い状 態 だ
回 りか らの風切 音 が以 外 と大 き く聞 こえた。 これ
っ た と聞 か され た事 な ど、 僅 か
走 を続 け た。 急 角 度 で上 昇 して行 き離 脱 高 度 280
mだ っ た か と思 う。場 周飛 行 第 一 旋 回 で左 手 に見
4年 間 の 間 に も
Ka6Eア イオ ンの 極 め て 静 か で 滑 らか な
色 々な事 が思 い 出 され る。一 部 の視 力 に 自信 の あ
音 が 今 で も印象 に残 って い る為 よけ い に 目立 って
る人 を除 い て は、 卒業 して しまえば グ ライ ダー に
全 く関係 が無 くな って しま うが 、 一 度 空 へ の憬 れ
は後 に
記 4意 に残 って い るの か も知 れ な い。
Ka6Eは 飛 び上 が ったが最 後 しば ら くは降 りて
こ な い だ ろ う と言 っ た とこ ろ が あ るが 、 H‐ 23C
は地_Lか ら見 て い て 直 ぐに降 りて くるの で気 が ぬ
けな い と言 うか 何 時 も見届 けて い な けれ ば な らな
い ところが あ って、 なん と も日が放せ な い 印象 が
強 く残 って い る。
″
を持 った 人はそ う簡 単 に忘 れ る もの で はな い と言
われ て い る。私 もそ の 1人 で、 そ の うち に ライ ト
プ レー ンで も体験 してみ た い と考 えて い る。
(昭 和 46年 卒 )
鳥取砂 丘 を望 んで
箕
浦
健
二
一 体 あれ は何 時 の 事 だ ったの だ ろ う。通 か な る
形 で 、牧 卓 の様 な革 で覆 われ、 西 の エ ン ドか ら東
記憶 の彼 方 にただ 4つ の シー ンが 殆 ど動 きを伴 う
を見 る とラ ンウ ェ イ か らその丘 をは さんで左 手 に
事 もな く浮 かび上 が って 来 る。 多分 、1回 生 の と
砂 丘 が広 が り、 そ の 先 に海 岸線 が あ りま した。 こ
き。季 節 は夏前 後。 同志 社 の 同期 は確 か 自分 1人
れが記憶 の 第 一 の シー ンで は あ ります。飛 行場 に
で、何 とな く他流 試 合 に来 た様 な気 負 い と、 招 か
れ ざ る客 の様 な ぎ こち な さが混 ざ り合 って い た …
向 か う道 はや は り丘陵地 を走 り抜 け、一 帯 に広 が
る畑 はタバ コだ ったのか、 ラ ッキ ョだ ったのか …… 。
…幼 い 頃 に見 た、 夢 な の か現 実 なの か 今 とな って
宿合 は近 くの 漁港 の街 の一 角 の店 先 が何 か 商 い を
は判然 と しな い、 それ に似 た記憶 の 糸 をた ど り乍
して い る様 な … … (怪 しい です ね これ )。
ら、一 体 、 ど う書 けば 「滑 空場 巡 り」 にな る とい
うの か 、近 年稀 れ な困惑 の 日々で はあ りま した。
最 近 、 名城 大
OBの 辻村 さん の 話 に よれ ば、
何 とか 時 間 を作 って 、 あ の い くつ か の シー ンが 、
K学 の S氏 が 前 歯 を欠 損 され た とか 、 そ う い え
夢 だ ったの か現 実 だ ったの か確 かめ てみ よ う と道
ば機 体 はかの ユ ニ ー クな小使 用 器具 を装備 した ボ
路 地 図 を持 出 して、ル ー トを探 って も確 証 は な く、
ー シ ャ ンだ ったか等 々一 。 これ を機 会 に是 非一 度
ただ姫 路 方面 か ら中国 山脈 を越 えて行 った様 な微
探 訪 して、 そ して茫洋 た る記憶 の か け らをただ ひ
か な懐 しさだ けが甦 って きた事 で した。 そ して結
たす ら慰撫 してや ろ うな ど と、企 んで い る次 第 で
局、 そ の 時 間 を捻 出す る事 がで きな い で 今 日に至
す。 どな たか御 一 緒 に如 何 で す か
?
って しまった とい う訳 で した。
話 は 全 く変 わ ります が 、 この 夏 (8月 だ っ あ
ここ まで告 白 して しまえば もう大 丈夫 。
か )所 用 で 福 岡 に行 く為 、 名古 屋 空港 で
B767に
乗 り込 む 際、操 縦 席 の 窓越 しに見党 え の あ る頭部
さて、 ラ ンウ ェ イ は、確 か概 ね海 岸線 と平 行 、
の形 、顔 を上 げれ ば まさ し く山田正勝 さん。 ス チ
西 の 方 で海 岸 に接近 し乍 ら海 に開 け てゆ く配 置。
ュ ワー デ ス の お姉様 に、「 ×○ と云 い ます が後 で
シ ョル ダー は通 常 よ りも狭 く、 ラ ンウ ェ イ に平 行
遊 び に来 ます か ら と機 長 に伝 え とい て下 さ い」 と
して小 高 い丘 が連 続 して丁 度丘 陵 の 谷 間 に開 かれ
頼 ん で お い た らば、 岡山上 空辺 りです か 、機 長、
た様 な状 態。 お まけ に東 の エ ン ドか ら西 の エ ン ド
操 縦 席 か ら出て来 られ て、 窓際 に席 を変 えて い た
に か け て、 結 構 勾 配 に な っ て い て … … (本 当
私 の 隣 に座 り、 フ ラ イ トの 事 、 B767の 機 体 の 事 、
に ?)… ……ゴル フ場 に して も、風 が 巻 い て大 変 み
博 多 の 行 きつ け の店 の事 な ど、 楽 しい一 時 で した。
た い なそん な ところで した。折 角合 宿 に参加 した
後程 、 コ ック ビ ッ トも案 内 して くれ て 、や は り航
のだか ら、一 発位 は飛 んで い る筈 なの ですが、 実
空部 は いい な あ と。
はその記憶 が 全 くあ りませ ん 。 多分 後席 に関 学 か
(昭 和 46年 卒 )
何処 か の恐 い教 官 が 乗 って 、 自分 は何 もで きず に
ただ上 が って降 りただ けだ ったの で しょう。 ラ ン
ウ ェイ に平行 す る小 高 い丘 は、割 合 となだ らか な
2
岡 山金 甲山
阿
部
克
己
ン)、 早 く原稿 を送 って くれ とい われ て も困 るの
うな幸せ な感 じ、 これはいったい なんだろ う。 イ
オラスが 空を飛 ぶ理屈 は、 これで も木枝 ゼ ミ (流
で あ る。 全 く困 るの で あ る。 本 当 に困 るので あ る。
寄稿 の お願 い な る書状 をい ただ い た記憶 が な いの
体力学 )に お りま したのでなん とな く知 って いた
のであ ります が、何故 その ような理屈 と現実が あ
で あ ります。 恐 ら くわ が 家 に は届 い たの で あろ う
″
`
が、 同 志社 航 空 部 …… とい う便 りはパ パ の 手
るのだろ うかなんてことを夢 うつつ に考 えた りし
たのであ ります。結局 これは神 の仕業だ と悟 った
元 まで た ど り着 か な い で ごみ 箱 に直 行 して しま う
こ とが わが家 で は珍 ら し くな い わ けで あ ります。
ので す。私 は神 を感 じたのです。でなければ こん
なに平和 で幸せ なエ クス タシを体験す る筈 がな い
航 空部 創立50周 年 記 念事業 の 頃 を思 い だ して い た
のであって 自然 の真理 、 自然 の愛 と畏敬、誰 に も
だ けれ ば、 住 宅 ロ ー ンに喘 ぐ OB諸 氏 に は きっ
理屈では説明出来 ない 自然 の営 み、 これ を人は神
とおわか りい ただ け る こ とで し ょう。航 空音│`の 記
念事業 に続 い て 同志社 ス ポー ツユ ニ オ ンヘ の 寄付
と呼んで い る、 とその とき思 ったのであ ります。
あれ以来、登 山家や 冒険家、宇宙パ イ ロ ッ ト達 の
が わが 家 の カ ミさん に ダブ ル パ ンチ を見 舞 ったの
″
`
で あ る。 あ れ以 来 、 同 志 社 航 空 部 か らの封 書
感激 を聞 く度 にそれ を岡山金甲山での私の感激 に
ラップ させ てはあの ときのこ とを思 い出す のであ
は請求 書 に誤解 され る羽 目 にな って しまったの で
ります (少 々大 げさ)。
とまあ、 このて い どしか書 けな いのです。 どう
締切 りは とうに過 ぎたで え
(と
い う よ うな トー
あ ります。
岡 山、金 甲 山 あれ か ら20年 以上 も経 ち、 あそ こ
かこの辺で勘弁 して下 さい。何せ 急な こ とで した
で 5時 間半 の 滞 空 を した こ と もそ の事 実 を記 1意 し
か ら。 この次 に寄稿 の願 い を私 によこす
て い る くらい て、 あ の ときの興 奮 な ど とて も思 い
`
出せ そ う に あ りませ ん。 しか し、 今 か らで は他
うな ことは もうな い と信 じてはお ります が)と き
は一方的にテーマ を押 し付けないで い ただ きた い。
″
`
もちろん家内 にはあの 事件 は終 わったのだ と
の 方 にお願 い す るこ と も出来 ませ ん し、 翔 友 に穴
″
が 出来 て しま う云 々 と脅迫 的 に催促 され て、本
当 に頭 を痛 め て い る ところで ご ざ い ます 。
皆 さん は神 を信 じます か。 実 は あの と き私 は神
(そ
のよ
諭 してお きます。同志社航空部 の郵便物 は私の机
の Lに いつ もきちん と届 けられ ます ように。
(昭 和 43年 卒 )
の 存在 を実感 したの です。5時 間 の滞 空獲 得 を ピ
ス トか ら知 ら され てか ら、幸 せ な ひ と と きをひ と
リイオ ラ スの 中で静 か に過 ご した とき感 じたの で
す。稜 線 か ら離 れ、右 にター ン して風上 に向 か う
と機 体 は実 に 静 か で空 中 に静 lLし て しまった よう
な錯覚 にお ち い り、暫 し無我 の境 地 に浸 りま した。
眼下 には逢 か 夕 日に映 えた瀬 戸 内海 の 島 々、地 平
線 も夕 口で真 っ赤 に染 ま り、私 は完 全 に 自然 の 中
に とけ込 んで しまい ま した。 自然 に抱擁 され た よ
″
一 ― 感 激 は いつ まで も
昭和41年 12月 2日 、5時 間10分 の滞 空時 間
を達成 して同山空港 に降 り立 った阿部克 己 は、
グライダー をや って い て本 当に良 か った と思
った。両手 を高 く頭上 に掲 げ、満面 に笑 み を
浮 かべ たガ ッツポーズは、神 の存在 を知 り、
5時 間 の滞 空 を支 えて くれ た全ての人 々 と金
甲山 に対す る感謝 の 気持 の表現 で あった。
吉井川 と父 の 思 い 出
速
見
直
喜
30年 程 前、父 とい っ し ょに泳 ぎに来 た 山陰 の 天
天 ノ橋立 で フ ト背 中 に感 じたあの視線 と同 じだ っ
ノ橋 立 に、 今年 は家族 で 行 って きた。波 打 際 で燥
ぎ回 って い る一 人娘 の 姿 を松林 の 方 か ら眺 め て い
た。
る と、 フ ト、 亡 くな った 父 の視 線 を感 じた。 あの
活、 ク ラブ生活 を送 る事 が 出来 たの は、何 と言っ
時、父 も今 の私 の様 に、松林 か ら私 の姿 を眺 め て
い たの か な と。 水 平線 の上 に は、 入道 雲 の 峰 々が
て も父 の 御 蔭 で あ る。父 と二 人 き りで話 し合 った
事 な どあ ま りな か った。 しか し父 を失 ってか ら二
広 が って い る。 … … 夏 の 合宿 を思 い 出す。
人で話 しを よ くす る様 にな った。 楽 しか った クラ
吉井川 滑 空場 は京都 か ら約 4時 間、 国道 2号 線
を備前大橋 の 手 前 で左 側 に折 れ、川 下 へ 20分 程走
ブ の 合 宿生 活 を思 い 出す時 な どは特 にそ うで あ る。
った所 にあ った。
を書 かせ て い ただ きま した。
思 えば私 が、 楽 しい思 い 出 を沢 山持 て た学 生 生
そん な訳 で 、や や感 傷 的 にな って 、 こん な文章
(昭 和 49年 卒 )
宿合 は空屋 に な って い た村 の 民 家 を借 りてお り、
夏 は蚊 の 大群 に悩 まされ た。 お風 呂な どは もちろ
んつ い て お らず、 夕食 が終 る と宿 当だ け を残 し、
全員、車 でのん び りした 田合 の ガ タガ タ道 を、 ワ
イ ワイ言 い なが ら30分程 か け西大 寺 の銭 湯 まで 出
か けた。 もちろ ん全 車 定員 オ ーバ ーで あ った。
最 初 の 頃 は急 に見慣 れ ぬ一 団 が、大 挙 お し寄 せ
て来 る様 にな った為 か 、番 台 の 人が我 々の 方 を怪
計 な顔 で見 て い た。 前 を水量 豊 か な小川 の流 れ る
古 い お風 呂屋 で あ った。
私 の 吉井川 で の 初飛行 は、 昭和 47年 8月 6日 で
あ る。 そ の後 、何 度 とな く吉井川 に行 ったが 、 ど
うい う訳 か村 の 中 で若 い女性 をほ とん ど見 か けな
か った。 これ は我 々の事 を恐 れ た本寸の 長 老達 が 、
娘 達 を山 の 中 に集 団疎 開 させ た為 ら しい ? 操 縦
訓練 よ りも村 の 人 々 との対 応 に、 よ り神経 を使 っ
た。
初 ソ ロは同 じ年 の 10月 18日 、」A2047号 機 で 出
′
て い るが、不思議 と飛行 の 記 1意 は、 ほ とん どな い。
さぞか し立派 な飛 行 だ ったので あ ろ う。 ただ家 に
帰 り父 に 「初 め て一 人 で飛 ば して もらった」 と言
った時 、 とて もうれ しそ うな眼 で笑 って くれ た顔
だ けは よ く憶 えて い る。 そ うだ、 あの笑 った眼 は、
―一 平松 牛郎 さん
吉井川滑空場 を語 る とき、平松牛郎 さんの
名前 を忘れ て はな らな い。終戦 まで 日本航 空
で操縦 拝 を握 って い た平松 さん は、関西 の大
学航 空部が練習す る滑空場 に困 って い るの を
聞 い て、吉井川 の 開発 に乗 り出 した。
滑空場完成 まで には、 岡山河川 工事事務所、
地 区農家、 ゴル フ場 の協 力や、学 生の労 力奉
仕 は言 うに及 ばず、作業 の 遅れ に地元建 設業
者 がブル トーザ ーの無償提 供 を申 し出 るな ど、
平松 さんの人が らとあ い まって、工事 は善意
と努 力が結集 され、昭和47年 7月 31日 、1番
機 発航 に漕 ぎつ けた。
″
木 曽川 の流 れ
一一昔 のよ もや ま話一―
北
林
英
之
そ の昔 Oη 、 1984年 まで の 宿合 は今 、学 生 諸君 が
み こ しをか つ ぎあげ る ように して持 ち あげ な い と
食事 を し、 ミー テ ィ ング を し、風 呂 に入 るだ けの
ど う しよ う もな い程 重 か った。 L13ブ ラ ニ ック
あの本 造 の 家 一 軒 の みで あ った。 それ はそれ は小
もテ ール の 重 い機 体 で あ った。 しか しこの 全金属
さな宿合 で あ った。 勿論 今 の ような立派 な格 納 庫
はなか った。 台風 で機 体 を総撤 収 す る と きに は、
製 の機 体 は冬が一番 辛 か った。朝 の 点検 の 時 に翼
端保持 な どを させ られ る と手が へ ば りつ くので は
トレー ラーか 宿合 しか な か ったの で私 も何 度 か グ
な い か と思 う程 で あ っ た。 当時 の 合 宿 は、 これ
ライ ダー とひ とつ屋 根 の 下 で一 夜 を明 か した もの
らの複座 機 の組 み 合 わせ で行 なわれ て い た。 当然
だ。確 か龍 谷大学 の
Ka 6 CRで
あ った と思 う。
また、教 官 と襖 l枚 へ だ て て い るだ けで あ るか
ら、 消灯後 の 教 官部 屋 の 会 話 も筒抜 けで ソ ロ前 の
学 生 は耳 を ソバ だ て、 気 を静 め なが らそ の会 話 を
学 生 た ちのむ らが る合 宿 は通称 「ダブル ASK」
(ASK 2機 の こ と)合 宿 で あ った。
曳航 索 も信 じられ な い だ ろ うが 「手」 で結 ん で
い た。私 よ りも 3年 程 先輩 にな る とワ イヤ カ ッタ
盗 み 聞 き した もの だ 。 わ ざ と聞 かせ てい る教 官 も
・。 現 に私 もソ ロの 前 に は、「 あ ―
お られ たが …・
ー で はな く「ハ ンマ ー とタガ ネ と鉄 板 」 で切 って
明 日あた りか 」 と思 った もの で あ る。
ラ シ ュー トは使 わず 、 曳航 索 を 自由落 下 させ て い
い た。随 分 と今 は進 歩 した ものだ 。 そ の 頃 は、 パ
宿 合 はせ まいが庭 は広 い。 雨 あ が りの 待機 の 日
たため に、特 に い たみや す か った。 自由落 下 の 索
な どは、一 杯掃 除す る ところが あ り、時 間 をつぶ
で あ るか らそれ を取 りに行 くリ トリブ は とて もス
す には不 自由 は しなか った。 雪 が ドー ン と降 った
リ リング な もの で あ った。屋根 や ボ ンネ ッ トに ミ
合宿 の ときには、 その庭 に大 きな カマ クラ を作 っ
ミズの は い まわ った様 な跡 をつ けた リ トリブ も現
た りも した (1984年 2月 合宿 。総 発数 はナ ン ト0
にあ った。
発
)。
1985年 早 々 には、 今 の立 派 な宿舎 となった。
書 け と言 われれ ば い くらで も書 くこ とが で きる。
それ ほ どの変化 を見 せ て い る木 曽川 滑 空場 で はあ
R/Wが 長 く拡張 され た。初 めて妻沼滑空場 に行
った ときには、 そ の R/Wの 長 さ、 曳航時 間 の
るが、 考 えれ ば た った ここ10年 の 変化 なの で あ る。
と りとめ もな く思 いつ くままに大 イヽ
変化 を書 い
長 さに驚 いた ものだが、今 の本 曽川 で育 った人に
は、そ うい った驚 きはな いであろ う。初 めか らそ
てみ たが 、今 か ら10年 後 、 ど うい う訓 練 が 本 曽川
れ とほぼ 同 じなのであるか ら。
を 2機 飛 ば し、 ひ ょっ とす る と 日常的 に飛 行機 曳
昔 の ロ グを見 る と離脱高度 は冬 でや っ と300m
で行 なわれ るので あ ろ うか ?複 座 プ ラ ス チ ック機
航 が行 な われ て い るか もしれ な い。 こ こ10年 の 変
を越 える ぐらい。夏 で は、300mを 下回 る。無理
化 を見 て い る と、 それ もユ メで はな い よ う に思 う。
に四角場周 を描 こ う として何度怒 られた ものか。
そ うい えば複座機 の 種 類 もい ろ い ろあった。
ASK 13、 L13ブ ラニ ヽ
ソク、三田式Ⅲ型等 々。 こ
いつ まで も、 いつ まで も木 曽川 滑 空場 が あ らん こ
れ らの中で取 り回 しが一番辛かったのが国産鋼管
羽布張 りの三田式である。 この テール は本 当 にお
2イ
とを願 いつ つ 、昔 話 の終 わ りと します。
(日
召禾日5941)
歴 史 を刻 む 滑 空場
石
田
文
雄
召和 史 は よ くliit前 戦 後 に分 けて語
基地 遍 歴一一 日
えて岡 山、福 井 、富 山、妻 沼 とジプ シーの ように
られ るが 、学連 史 の 中 での訓練 場 所 の 移 り変 わ り
各地 を回 り空港 、滑 空場 を転 々 して い た東 海支 部
も、戦 前 と戦 後 で は際立 った相 違 が あ る。 前者 は
の 人た ちは、何 と して も「 自分 たちの 滑 空場 を」
戦 争 中 の きび しい社 会 背景 の も とで活 きた学連 で
と候 補地 を求 めて足 を運 ん だ。47年 暮 れ も迫 って
国 も社 会 も航 空学 生 に対 してむ しろ寛大 で あ った。
や っ と現 在 の場 所 が 決 まったが、 それ か ら完成 ま
したが って訓 練 場所 に もか な り恵 まれ て い た と言
での 2年 間彼等 に とって全 くの 不 なれ な苦 手 の 作
え る。 ところが、後 者 は独 立独 歩 、未知 へ の 出発
業 が 続 くの で あ る。草 刈 りと整地 と言 って も相 手
を ロオ
旨す学連 で何 もか も手 さ ぐ りの 出発、最 初 か
は 5万 平 方 メー トル 。 ヨシ とかん木 の繁 茂 に まか
ら基地 作 りとい うず しりと重 い課題 を抱 えて い た。
せ る河原 は学 /1の 手 には容 易 な相 手 で はなか った。
敗戦 で 各地 に残 され た 旧飛 行場 は、平和 目的 に
夏休 み 、夏 の 合宿 も返 上 、労 力 の提 供 は決 して惜
利 用 す るため次 々 と姿 を変 え、 グ ライ ダー はわず
しまなか ったが、 あ る学生 は 「 とにか く ドデ カ ク
か に残 され た空地 空域 を求 め て さす らい を続 け る
の だが 、 それ も長 くは続 か なか った。 定期 便 が 乗
広 い」 と声 を絞 る。 全員 が 交代 で作業 に初しみ 、完
成 に要 した経 費 は共 同 で貯 えた金 とアル バ イ トで
り入 れ、 ジ ェ ッ ト機 が飛 ぶ たび に、時代 の 変遷 の
賄 った。 自分 た ちの滑 空場 は波乱 万 丈 の大 創 作 だ
波 をモ ロ にかぶ って撤 退 を余儀 な くされ て い った。
った。
昭和 40年 代 、経済 の 急成長期 を迎 えて状 況 は一 段
自 らが燃 えて一一 滑 空場 作 りの苦 しみ は、 もち
│1敷 か 原野 に
と加速 す る。 受難 の グ ライ ダー は河り
ろん木 曽川 ばか りで はな い。妻 沼 も久住 も最 初 か
飛 ぶ 空 を求 め るほか なか ったの で あ る。
らあ ったわ けで はな い。朝 起 きてか ら夜 眠 る まで、
滑 空場 は広 さは もちろん 、地盤 、風 向、 気流 、
滑 空場 の こ とで波状 攻 撃 に さ らされ て い た昭 和 40
安全性 な どを考 えな けれ ば な らな い。 河川 の 改修 、
年代 の 中頃。 日の 目を見 る こ と もな く消 えて い っ
環境 保 全 の 問題 もあ る。 と くに、地元 の牧 草 、牧
た数 え切 れ な い滑 空場 の候 補地 、事情 で短 期 間 し
野、酪 農 、漁業組 合 な ど との対応 には住 民 の 耕 作
か使 用 で きなか った飛 行場 、 空港 、滑 空場 な ど。
権 、 入会権 な ど も複 雑 にか らん で、何 よ りも先ず
流 れ去 る歴 史 の 陰 に は数 多 くの 意外 史が秘 め られ
地域 の 人達 の理 解 を得 るこ とが 第 一 で あ った。 困
て い るの で あ る。滑 空場 開拓 の 先達 とな って各支
難 な条件 を乗 り越 え、仮 に 適地 が あ った と して も、
部 を担 当 され た教 官 た ち、 先 陣 とな って活 躍 され
利 用 す るには国、地 方 自治 体 の 許 可が い る。 や っ
た 当時学 生 の皆 さんが、背 負 い 切れ な い ほ どの重
との思 い で許 可 を取 り付 け て も、 それ で終 わ った
荷 にた え、燃 えに燃 えた先駆 的 な努 力 が 今 日の学
わ けで はな い。徒 手 空 挙 の 滑 空場 作 りはそ こか ら
に迫 る
じヽ
始 まるの で あ る。 そ の道 の りは険 し く、 ′
4L航 空 を開花 させ た。 あの時 、仲 間 と共 に 開発 の
ものが あ った。
美 し く輝 い て い た よ うに思 う。
木 曽川 の 夜 明 け― ― 木 曽川 滑 空場 に 当時 の一 端
意 気 に燃 え た人 た ち は、 す こや か な 肉体 と精 神 で
(昭 和 16年 卒 )
を振 り返 ってみ よう。滑 空場 が で きた の は昭 和 49
年 11月 で あ る。 それ まで 出 日の な い欲 求 不 満 を抱
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