私にとって和歌山は第 2 の故郷である。青 春期の 1961 年 ~1965 年の4年間を和歌山大 学経済学部生として過ごした思い出は鮮明に脳 寄稿 2 裡に刻まれており、その間に恩師から学んだこ と、学友との交流、アルバイトの経験等が、そ の後の私の人生において大いに活かされてきた と確信している。33 年間の阿波銀行および銀 行の系列下の徳島経済研究所勤務を経て、徳島 地域活性化に関する いくつかの言葉 文理大学の教授として7年、それに加えて学部 長として 9 年が経過した。 毎年 8 月には保護者会が西日本の各地で開 催されており、私は和歌山支部を担当させても らっている。近年感じることは和歌山市駅周辺 とぶらくり丁の衰退ぶりである。このことは徳 島市の中心商店街である東新町商店街の凋落ぶ りとよく似ている。大学で地域経済学を研究し ている関係で、地域活性化のため日々奮闘して おられるリーダー達と接する機会が多く、彼ら から学ぶことが多い。本稿では地域活性化に関 して、私にとって「目から鱗が落ちた」いくつ かの言葉を紹介したい。 徳島文理大学 総合政策学部 学部長 ①「やったらええんとちゃう」 中 村 昌 宏 これは、今徳島県で最も注目されている神山 町の大南信也氏(NPO 法人グリーンバレー理 事長)の口癖の一つである。彼はわが国で初め て環境アドプト(里親)制度を導入しただけで なく、神山 AIR(アート・イン・レジデンス)、 サテライト・オフィス(SO)誘致等で大きく 地域活性化に貢献している。この言葉はポジ ティブであり、地域で汗を流す人々の一歩踏み 出す力を引き出す言葉である。 確か、和歌山所縁の経営の神様、松下幸之助 氏も「やってみなはれ」という言葉をいろんな 場面で発していたように記憶する。盛和塾を開 いた京セラの稲盛和夫氏も「今日の努力の積み 重ねが 5 年後、10 年後に大きな成果を生む。 毎日の積極的な生き方が成功につながる」と述 べている。「成功の反対は失敗ではなく、何も しないことである」というのが私の信条であり、 21 世紀 WAKAYAMA 9 これら 3 名の積極的な言葉は、地域活性化を ベンション等あらゆる方面からの呼び込みが今 推進しようとする人々を勇気づけ、背中を押し や熾烈化してきている。定住に最も必要なのが てくれる。 雇用機会の創出であり、交流人口の増加に効果 的なのが魅力的なイベント等の仕掛けづくりで ②「人は誰でも主役になれる」 ある。 これは徳島県上勝町で葉っぱビジネスを展開 一方、モノに関しては地元資源に付加価値を する「いろどり」の社長で映画化もされ、全国 つけて移出さらには輸出を増やすべく売り込み 的に名前が知られている横石知二氏の言葉であ に躍起である。よく地産地消という言葉が使わ る。葉っぱビジネスに従事するおばあちゃん達 れるが、高知県の尾崎知事は地産外消を提唱し、 は 80 歳を過ぎてからも、数年後に葉を付けて 最近では地産都消という言葉も目にする。以前、 商品となる木を植えている。お互いが競いあい 県西部の池田にてシンポジウムを開催時に、生 現役生活を続けているので、町内に寝たきり老 徒の作文が紹介され、「地産地消をすすめるよ 人が殆どいないといった効果ももたらしてい うに学校で教わりましたが、僕はいろんな土地 る。 の珍しい物をたくさん食べたいです」という内 アイディア次第では、誰でもが主役になれる 容に対してコメントするのに戸惑った思い出が のである。横石氏はさらに「人が輝いて生きる ある。 ためには出番と役割と評価が必要である」と 地域にとって悩みの種は若者の県外流出であ 言っている。私は高齢者の皆さんが輝いたシニ る。私が教えている総合政策学部の学生も地域 アライフをおくるために支援していく NPO 法 への関心は高まってきているが、優秀な者ほど 人「壮生」の理事長としても活動しているが、 流出する傾向が強い。全国いや世界で羽ばたこ 横石氏の言っておられることを杖(つえ)言葉 うとする人材を地元に留めるのは忍びがたい とさせてもらっている。私が常に講演等で語っ が、地域にとっては喉から手が出るほど欲しい ている言葉を紹介すると「人生は後半戦がオモ のが本音のところである。彼らにはいつかふる シロイ」、「あなたの人生で今日が一番若い」、 さと回帰を願って、送り出しているのが現状で 「60 歳は 3 度目のハタチ、80 歳は 4 度目のハ ある。 タチ」、「シニア世代はくたびれたポンコツ車で はなく、格好いいクラシックカーのように生き ④「橋や道路はそれ自体が目的ではなく手 ていこう」等である。 段である」 1988 年に児島・坂出間の瀬戸大橋が開通し、 ③「ヒトは内へ、モノは外へ」 1998 年には神戸・鳴門ルート、1999 年には 何か節分の豆まきの時の言葉を彷彿とさせる 尾道・今治間の瀬戸内しまなみ海道が全通する が、これは私が(財)徳島経済研究所の専務理 ことにより四国が本州と直結することになっ 事をしていた時の仲間の善成知都子研究員が発 た。まさに「夢の架け橋」の実現だったのだが、 した言葉である。地域活性化のバロメーターは 果たして地域活性化は叶ったのだろうか。 人口の趨勢であり、出生数 - 死亡数で表される 四国の有識者間で、「四国の1%ギャップ」 自然増減は全国的に減少基調である。さすれば という言葉が架橋前に話題となったことがあ 転入者数 - 転出者数で表される社会増減を如何 る。これは四国の面積が全国比で5%、人口が に増やしていくかが今後の課題となる。 「ヒト 4%、県内総生産が3%という当時の状況に鑑 は内へ」なのである。UJI ターン者の誘引といっ み、これの是正を夢の本四架橋に託したので た移住促進のみならず、観光、スポーツ、コン あった。ところが 3 ルートの架橋が実現して 10 21 世紀 WAKAYAMA 15 年余りが経過した現在、人口と県内総生産 口の自然減はやむを得ないものと考え、社会増 の全国比の数値はますます低下し、3 大都市圏 の実現に知恵を絞るという考え方である。過疎 との格差はますます拡大しているのである。当 に立ち向かうのではなく、過疎に寄り添うとい 時「橋ができたらどうなるのか」というインタ うスタンスなのである。そこで彼が考え出した ビューやら質問がよく私の所へ寄せられた記憶 思考法がバックキャスティング方式である。つ がある。「どうなるのか」ではなくて「どう利 まり 10 年後、20 年後の神山町のあるべき姿 用したい」でなければ地域は活性化しない。今、 を想定し、そこから逆算してそれの実現のため 四国は本州の半島と化している状態であり、こ に今何をすべきなのかを考えるのである。彼は のことは阪神地域の半島となっている和歌山県 複式学級を避けるためには毎年 6 世帯の移住 と類似しているように思われてならない。 者の誘致が必要と計算し、子どものいる世帯、 一時期、社会実験として思い切った低料金を 何かの仕事を持っている世帯等の神山町にとっ 設定し、橋の通行量を増やしたことがある。私 て必要な要件を備えている世帯に絞って誘致し としてはこれには大賛成である。既存のインフ た結果、社会増の達成という大きな成果をあげ ラのフル活用をはかることは社会全体でみてと ることができている。 ても重要である。今後財政的に厳しい局面が多 くなると思うが、社会資本の長寿命化と効果的 ⑦「ピンチをチャンスに」 なメンテナンスの研究が重要になってくるだろ これは飯泉嘉門徳島県知事がよく使うフレー う。 ズである。例えば、徳島県は従来関西圏の電波 を利用して TV で多くのチャンネルの番組を見 ⑤ 「住めば都から住みたくなる都へ」 ることができていたが、地上デジタル化によ これは徳島における地元最大のスーパーマー り、それができなくなった。まさにピンチであ ケット「キョーエイ」の創業者である故埴渕 る。そこで県民は有線 TV にこぞって加入した 一氏から聞いた言葉である。人は永年住み慣れ 結果、約 87% の加入率となり、全国一のウェ た土地に愛着が湧くという習性がみられるが、 ブ環境の県となり得たのである。これが多くの 他の地域の人の目から見て、住みたくなる土地 サテライト・オフィス誘致につながり、現在 であるかどうかといった視点が大切である。か 30 社にまで増えてきている。 つて本四架橋が実現した際、NHK が行った意 同じようなことが他の事例でも見られる。徳 識調査で「あなたの住んでいる県の住み心地 島県は人口あたり医師数が全国一多い県である は・・」という質問に関して徳島県は堂々の4 にも関わらず糖尿病による死亡率が全国ワース 位であったが、「自分の住んでいる県以外にど ト 1 なのである。このピンチを逆手にとって この県を訪れたいか、どこの県に住んでみたい 「糖尿病の治療をはじめとする医療ツーリズム」 か」については 47 位つまり最下位であったこ を推進することになったのである。 とを踏まえての埴渕氏の言葉だったのである。 まさに「ピンチをチャンスに」である。こう 地域を変えていくための主役は「若者、よそ者、 したことを踏まえ、発想を変えて飯泉知事は過 変わり者」であると言われるが、よそ者の眼は 疎化、高齢化先進県である徳島県を「課題先進 住みたくなる都づくりのために極めて重要であ 県」と位置づけ、「課題解決先進県とくしま」 る。 を目指そうとしている。 ⑥「創造的過疎」 ⑧「住民の幸せか県勢の発展か」 これは先述した大南信也氏の持論である。人 本四架橋が実現した結果、徳島県民は高速バ 21 世紀 WAKAYAMA 11 スや自家用車を利用して USJ へ遊びに行った に言い伝えられているのは興味深い。 り、梅田のルクアやアベノハルカスでの買い物 といった具合で生活の利便性と満足度は大幅に ⑩結び 向上した。しかしながら、購買力の県外流出に 人口が減少し、地域の活力が低下していく環 より地元流通業の業績不振は深刻化している。 境下にあって、政府は地方創生を唱え、「首都 よく言われているストロー現象である。 圏から 4 万人を地方に流出させ、地方から流 住民の満足度は何より重視すべき事ではある 入する人口を 6 万人減らす」という目標の下 が、地域の企業の業績に影響を及ぼすのはどう にいろいろな政策を打ち出した。私が思うの 考えたら良いのだろうか。雇用と税収に影響が は、地方を活性化するために必要なのは卓越し 及べばサスティナブルな地域経済の発展は阻害 たリーダーの存在である。地域が元気づくため される。地産地消という精神に基づき地域の商 には、そこに誰が住んでいて、どのような活動 店での購買を推進する運動も必要かと考える。 をして、そこにどのような人々が集ってきてい そのために、地元業者は魅力のある商品を取り るのかということが注目を集める時代になって 揃えること、買い物弱者に配慮した御用聞き商 きているのである。名所とか史跡がなくても地 法やアフターサービス体制を心掛ける必要があ 域は活性化できるのである。このことは重要で る。 あると言える。 ところで、徳島市の人口は明治 22 年に市制 ⑨「四国は一つ、四国は一つずつ」 が敷かれた当時、藍産業の隆盛もあって堂々の 「古事記」に四国は淡路島に次いで産み出さ 全国第 10 位(因みに 11 位は和歌山市。2つ れた地であって、「伊豫之二名之島」と名付け の都市に共通するのは今日に至るまで新幹線が られ、「身一つにして、面四つ有り」と表現さ 通っていないこと)の大都市であったことは、 れている。それから 1 千 3 百年が経過した現 今や誰も信じられない過去の夢物語と化してし 在も香川県は岡山県と緊密な関係にあり、愛媛 まった。それ以上に名君徳川吉宗公のお膝元の 県は広島県と、徳島県は阪神地域と関係が深く、 紀州藩 55 万 5 千石は徳川御三家の大藩だった 高知県は東京、アジア、オセアニアに目が向い 往年の栄華を今再びもたらすべく和歌山県がこ ていると言われている。 こで頑張りと底力を見せて欲しいとの思いで一 元徳島大学教授で、その後京都大学に転じた 杯である。まさに GO-GO-GO である。 青山吉隆教授は「四国は一つを目指すべきだが、 まず四国は一つずつを強化していくべきだ」と の考えを高徳線の車中で私に語りかけたシーン が忘れられない。ダイバーシティ(多様性)が 重視されてきている現今、四国 4 県はそれぞ れの個性と特徴を強め、良い意味での競争と協 調を展開しながら「協創」しあうことが望まれ る。 因みに讃岐(香川)は飯依比古、土佐(高知) は建依分、阿波(徳島)は大宜都比売、伊豫(愛 媛)は愛比売の国であると古事記に記録されて おり、四国は二男二女の国である。今でも「讃 岐男に阿波女」という理想のカップル像が巷間 12 21 世紀 WAKAYAMA
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