追悼坪谷哲雄先生を想う

係する方々に衝撃をもって受けとめら
札幌私保連の会員のみならず全国の関
る坪谷先生の突然の訃報は、おそらく
です。札幌市私立保育園連盟会長であ
皆様に何をお伝えすべきか、言葉が
見つからないというのが正直な気持ち
い。
と呼ばせてもらいます。お許しくださ
う呼び名より坪谷さん、てっちゃん、
り寂しいな。坪谷先生、坪谷会長とい
たよ、酒はほどほどにね、でもやっぱ
﹁哲っちゃんアンサンブル﹂はよかっ
前が大したものであることも知りまし
運動神経が抜群のようで、ゴルフの腕
も増え、
多芸であることも知りました。
な中、坪谷さんの手品を直接見る機会
ることも伝わってきていました。そん
きましたが、その中心は坪谷さんであ
さまざまなパフォーマンスを披露して
環境と真逆のところで生きてきたの
僕は、坪谷さんの多芸多趣味や幼少
期からバイオリンに触れるという生活
ていて、なるほどと思いました。
HBCジュニアオーケストラに所属し
た。後で聞くと、
坪谷さんは学童の頃、
感じたほど素晴らしい出来映えでし
追悼
坪谷哲雄先生を想う
れたと思います。僕が保育園園長職を
で、本来、相性は悪いはずですが、な
た。共通点といえば二人とも飛行機嫌
た。
一昨年の札幌私保連新年交礼会で
﹁てっちゃんアンサンブル﹂が結成さ
い、でも坪谷さんは職務上、嫌々なが
僕が園長職に就いた前後に坪谷さん
も保育界に身を投じました。ですから
ました。お母さん想いの坪谷さんは、
れ、バイオリニストとして会員前でデ
ら搭乗することが多かったようで気の
退任したため、最近は坪谷先生とかつ
めか、今もただ無沙汰が続いていると
園長であるお母さんを支える副園長に
ビューしました。
その時、
僕はいなかっ
毒だなと思ったりしていました。そん
送っています。
誰もが一目置く存在となりました。
会などでは鋭い意見や質問をとばし、
す。でも、園長会や札幌市の行政説明
﹁てっちゃんアンサンブル﹂
は健在で、
た 評 判 が 聞 こ え て き ま し た。昨 年 も
というちょっとした皮肉と好意を含め
僕も坪谷さんのことを﹁てっちゃん﹂
た。最初は戸惑いましたが、いつしか
﹁かっちゃん﹂と呼ぶようになりまし
な坪谷さんは、いつからか僕のことを
ぜか僕の少ない友の一人となりまし
いう感覚でいます。
でも正直なところ、
徹し、園長になったのはそれほど昔の
た の で す が、
﹁坪谷さんの独演会だ﹂
見知ってからは約 年の時間が経過し
寂寥感、虚無感、喪失感、そんな言葉
こと︵平成 年︶ではなかったはずで
てほど連絡を取ることが少なかったた
がすぐに浮かんでくる日々を今、僕は
寂しいな、またあの笑顔を見せてく
れよ、そんなに煙草を吸ってどうすん
僕は初めて坪谷さんのバイオリン演奏
の、また一緒に﹁白いブランコ﹂を歌
を聴きましたが、ありゃ本格的だわと
おうよ、坪谷さんが思ったよりも数倍
と呼び始めていました。
坪谷さんが属していた札幌市東区園
長会は毎年の札幌私保連新年交礼会で
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坪谷さんには相手を自分の懐に引き
込む魅力がありました。早くから札幌
る反対運動でした。
綱﹂をめぐる北海道内保育三団体によ
﹁子ど
その真価が発揮されたのが、
も・子育て新システムの基本制度案要
し、その支援は継続されました。坪谷
呼びかけ、現地へ保育士の派遣を実行
発生からほどなく札幌市内の保育園に
かりであったに相違ありません。震災
いち早く被災地の保育園のことが気が
いました。
調を気にかけながらも、僕はそのまま
好きな人でもあるので、坪谷さんの体
合いもあり、もともと賑やかなことが
もありますが、職務上、人とのお付き
それを人には見せずにいた気丈の人で
私保連のホープと思われていました
私保連内部でこの﹁要綱﹂の内容を
検討し、その本質は﹁保育の市場化﹂
さんは果敢な人であり、やはり情の厚
年、時代の変わり目で、民間保育園運
坪谷さんはある意味、複雑な人だっ
たかもしれません。情の人、その一方
べることができます。
詰めていった坪谷さんの姿を思い浮か
わず、論理的に﹁要綱﹂がもつ問題を
ました。この運動の中でも冷静さを失
連携し、この動きは日本各地に伝播し
た。そして運動が先行していた九州と
る署名・カンパ活動を広く展開しまし
で集会を開催するとともに撤回を求め
育三団体を一つに結集し、市民ホール
会北海道支部へ呼びかけ、北海道内保
とは考えていませんでした。僕に、﹁あ
にあって、坪谷さんは会長職を退くこ
ども園、そして﹁新制度﹂の施行の中
さまざまな運営主体の保育園や認定こ
連会員も急増する結果になりました。
は待機児童解消施策が進み、札幌私保
﹁要綱﹂から﹁子ども・子育て支援
新制度﹂への動きの中で、札幌市内で
して思います。
ます。心労など多かったのかと、今に
このように振り返ると、坪谷さんは
大変な時期に職務を行ってきたと思い
の保育園が応じたと思います。
死を知りました。
して、その翌週の火曜日に坪谷さんの
何を話したのかぼやけたままです。そ
調だけは記憶に残っているのですが、
思います。なぜか、坪谷さんの声と口
けど体調が大事だから﹂といったかと
調を理由に降りたこと、僕は﹁残念だ
体調などの話をしました。理事職は体
﹁かっちゃん﹂と相変わらずの口調
で、話した時間は短かったのですが、
かけてきたものでした。
すが通じなかたので、その履歴を見て
んから携帯に電話がありました。その
ね。会議の最中、タバコが吸いたくて
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保育園に身を置く立場で、坪谷さんは
営に荒波が押し寄せてきている、ちょ
であると坪谷さんは喝破、撤回させる
が、実際に会長職に就いたのは平成
うどそんな時期でした。
補助金見直し、
坪谷さんが亡くなった5月 日の2
日前、5月 日朝8時 分頃、坪谷さ
償化問題など、会員間でも意見が分か
で自説を貫く理の人でもありました。
と一期は︵会長職を︶やらなければ、
い人でしたから、呼びかけにたくさん
れる難題に、結果的に解決策を探りな
誰もが知っているあの人懐っこい顔で
投げ出すわけにはいかない﹂という意
てっちゃん、てっちゃん、てっちゃ
ん、何度呼んでも、もうあの人懐っこ
べく、北海道保育協議会、日本保育協
がら妥結点を見出すことができたの
理論的に自分の意見を主張する人でし
味のことをいっていましたので、それ
い顔で応えてくれることはないのです
保育園が無償借用していた市有地の有
も、坪谷さんのお人柄と話をよく聞く
た。全私保連の場でも恐らくそうだっ
が坪谷さんの本意だったと思います。
ちょうど私保連の会議を開催してい
た時、
あの東日本大震災が起きました。
前日に僕から坪谷さんに電話したので
姿勢、優れた調整能力があったからで
たかもしれません。
﹁ 少数派なんだよ
お尻をもぞもぞさせることもないので
す。
な﹂
といっていたことを思い出します。
早くに最愛の奥様を亡くされ、続い
て敬愛してやまないお母様を亡くされ
すね。酒を一緒に飲むと
﹁かっちゃん﹂
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るという悲しみをずっと抱えながら、
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「てっちゃんアンサンブル」でバイオリンを演奏する坪谷さん
泡を飛ばすほどに議論し合うことも、
育士等職員の処遇改善のために、口角
ですね。これからの保育界のこと、保
たでしょうか。本当は女性のほうがい
てくれました。
てっちゃん、
僕でよかっ
のに、てっちゃんと僕とのことを考え
深いお付き合いをした方もいたはずな
と出会える、知り合える機会があると
者ですが、またどこかで、てっちゃん
僕もいつかはてっちゃんのあとに続く
人は死してのち肉体をもって復活さ
れる、
生まれ変わる。それを信じると、
ています。
もうありません。僕が大事な友を失っ
いのにと、てっちゃんは望んでいたか
いうこと、ですよね。ですから、その
ちのご配慮によるもの。僕よりもっと
たこと、でもそれ以上に札幌私保連が
も。ごめんね。
を連発してくれることも、もうないの
てっちゃんを失ったこと、それが悔し
日を待ちたいと思います。
い、です。
てっちゃん、お疲れ様でした!
伊藤克実 ●札幌市・大谷地たかだ保育園 前園長
てっちゃんのご葬儀の時、牧師様は
復活のことをお話しされました。僕は
不信心なので詳しくないのですが、牧
有事のことを考える
平成23年3月11日、保護者総会を無事
に終えてほっとしながら事務処理をして
いた時、突然の地震発生。保育園の門前
に止めてあったワゴン車が上下に揺れて
いて『これは大きな地震だ』ということ
がわかった。すぐに園児を午睡から起こ
して園庭中央へ避難させたが、園内に設
置の防災無線が流れず、外部からの放送
もよく聞こえなかった。余震で地面が大
きく揺れたので、園児も怖がって泣いて
いたが、職員もかなり動揺してしまった。
幸い、全員無事で園舎にも被害はなく、
近隣に勤務している保護者が多いので全
員17時頃には引き渡しが終了し、職員も
帰宅準備をしていた。その時、わが子と
同年代の子を持つ親戚が「中学校に迎え
に行ったけど、家族じゃないと引き渡せ
ないっていうから、早く迎えに行ってあ
げて!」と子どもの迎えの件を保育園ま
で知らせに来てくれた。正直、わが子の
ことはすっかり忘れていた。電話が通じ
ず、余震が起こるかもしれない中を車で
知らせに来てくれて、そのありがたさを
しみじみ感じた。その後、電気が通りテ
レビを見て、東北が大変な被害を受けて
いることを知った。
千葉県でも被害の大きかった近隣の旭
市の飯岡漁港では、海底が見えるまで水
が引いた後、大波が押し寄せ漁船が沈没
してしまったり、陸に上がっていた。知
人が漁船を持っていたのでその引き揚げ
作業を見たが、大勢の人が不眠不休で待
機していて、無事に作業が進むことを祈
るしかできなかった。海岸通りは、津波
で全壊している家に車が突き刺さってい
たり家財道具が流されていて、あたり一
面、見るも無残な光景で衝撃的だった。
海の近くに生まれ育った私にとって海
は最も身近な自然で、保育園でも毎年園
外保育に行っていたが、震災後は「津波」
の恐ろしさを知り中止となった。今では、
波打ち際で靴とズボンを濡らし、元気に
遊んでいた園児の姿が懐かしい。
震災日の14時46分に黙禱を捧げ、今あ
る命に感謝するとともに、有事のことを
考える。いつ、どこで起こるかわからな
い災害に備えて。
この追悼を書かせてもらうことがで
きたのは、坪谷さんをこれまで支えて
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師様が話されたことはぼんやりと残っ
を忘れない
一緒に活動してきた私保連三役の方た
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応援メッセージ
私たちは
伊藤眞帆/千葉県・栄保育園園長
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