[南相馬避難解除取消訴訟 (20 ミリ基準撤回訴訟)]

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5年 9月 2
8日
[南相馬避難解除取消訴訟 (
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0 ミリ基準撤回訴訟)]
「
第 1田口頭弁論期日・原告意見陳述書 J I
報告集会 Jのご案内
南相馬・ 2
0ミリシーベルト基準撤回訴訟支援の会
①経産省前抗議アピール
12:30~ 1
2
:
5
0
@経産省前
②東京地裁前アピール
13:00~ 1
3
:
4
0
@東京地裁前
③ 第 1回口顕弁論
14:00~
@東京地裁 1
0
1号法廷
※傍聴券が必要となりますので、配布締め切りの 1
3
:
3
0までに東京地裁入口にお越しくださ
い。希望者多数の場合は抽選となります。抽選に漏れた方で、どうしても傍聴にのぞみたい
方は、本資料配布者までお声がけしてみてください。尚、傍聴抽選に漏れてしまった方向けに
次の集会をご用意しております。是非ご参加ください。
④ふくいち周辺環境放射線モニヲリングプロジェクトの,舌動紹介(実演デモあり)
⑤報告集会
14:30~15:30
@参議院議員会館 B107
15:30~
@参議院議員会館 BI07
資料代 5
00円
ご挨拶
爽やかな季節となりました。いつも
方ならぬお力添えにあずかり、誠にありがとうござ
います。本日もご多忙な中、 2
0ミリ基準撤回訴訟第 1回口頭弁論期日にお集まりくださり
心より感謝申し上げます。
本裁判は、原発事故に伴う避難解除の違法性を争う初の行政訴訟です。 3
.
1
1 東日本大震
災から福島第 1原発事故に至った過ちを反省することなく、再び原発を推進しようとする
政府。一方で日本国民が日齢、られている年間被 l
iく線量は 2
0ミリシーベルトです。三の上
うな過ちを白日の元にさらし、原発事故以前の基準である年間被ばく線量 1 ミリじーベノレ
卜を勝ち取るための訴訟です。日本の未来そのものである子供達を守るための闘いであり、
そして大きくは、世界に於ける核推進への撲とならなければならない裁判であると捉えて
いますっ全ての国民が福島第 1原発事故の被害者です。皆さま土共に、勝訴に│蒔けi
菖進する
所存です。
本日、傍聴出来ずお帰りになられる方々へと考え、原告意見陳述書をご用意致しました
被害者と
U
括りにされる事が多いのですが、そのお一人お一人の人生を強制的に変えてし
まった原発事故。その怨いを感じていただけますれば幸いですわ
朝晩は随分と冷え込むようになりました。皆さま、お身体をこ自愛くださいませ。
20ミリ某準撤回訴訟支援の会代表世話人 坂本建
の
平成 27年(行ウ)第 238号、第 381号 南相馬避難解除取消等請求事件
原 告 菅 野 秀 一 外 807名
被告
国(処分行政庁:原子力災害現地対策本部)
意見陳述要旨
平成 27年 9月 28日
東京地方裁判所民事部第 38部 Al係 御 中
住所
氏名
福島県南相馬市原町区高倉地区に住んでいる菅野秀ーと申します。自宅は、平成 2
3年 3月 11日の東日本大震災をキッカケとして爆発事故や放射能漏れを起としま
した、東京電力福島第一原子力発電所から約 25キロメートルの所に位置します。
私は、地区長として高倉地区 74世帯の往民のお世話をしていますが、前代未聞の
放射能に汚染された地域で、果たして地区長としての責任を全うしているのか悩む毎
日を過ごしております。といいますのは、チェルノブイリ原発事故では、まもなく 3
0年近くを経過しますが、未だに 30キロメートル圏内は立ち入り禁止区域だからで
す
。
また私は、南相馬市特定避難勧奨地点地区災害対策協議会の会長として、特定避難
勧奨地点がありました、南相馬市原町区の片倉・馬場・押釜・高倉・大谷・大原、南
相馬市鹿島区の模原・上栃窪の各地区長の取りまとめをしてきました。南相馬市・福
島県・国の機関などに対して数々の要請をしてきましたが、その内容については、ほ
とんど受け入れられることなく、ずっと放射能から住民を守りきれずにおりました。
特定避難勧奨地点は、原発事故での放射能被害により避難の指示がありました警戒
区域や計画的避難区域の外側で、事故発生後の 1年間で積算線量が 20ミリシーベル
トを超えると推定される世帯について国が避難の勧奨をしたものですが、その国が実
施する放射線量の測定方法などについてズサンさが横行し、結果として住民分断を招
いてきました。この測定方法の詳細については、後日改めて代理人の弁護士さんたち
から説明があると思いますので、ここでは省略いたします。
特定避難勧奨地点の指定世帯には、東京電力による精神的賠償があり、仮設住宅の
入居に優先権がありました。しかし、非指定世帯が安全だということはなく、非指定
世帯は自主避難ということで不便な場所の仮設住宅であっても入居の申請をしまし
た。また、裁判外紛争解決手続き (ADR) を通して、非指定世帯についても指定世帯
と同等の精神的賠償が認められましたが、このような住民分断の解消に取り組んでき
ました。結果として、 8地区が一丸となって、子どもも含めた年間 20ミリシーベル
トというあまりにも高い基準での特定避難勧奨地点の解除に異議を唱えるに至りま
した。
しかし国は、平成 26年 12月 28日に住民の意向をまったく無視して指定解除を
強行しました。私は、原告団長として、地域全体の実態を述べなければならないので
すが、 8つの地域の長さは 10数キロメートルにも及びあまりにも広範ですので、白
分が地区長の高倉地区について実情を述べさせていただきます。その他の地区の実情
については、後日改めて各地区長からの意見陳述があると思います。
国による年間 20ミリシーベルト基準での特定避難勧奨地点の無謀な解除問題以
前に、地域の実情がどうなっているのかをご説明申し上げます。まず、放射能による
被ばくの影響はよくわかりません。国は、「年間 20ミリシーベルト以下での健康被
害は考えにくい」としていますが、福島県内での小児甲状腺がんが多発しております。
また、チェルノブイリ原発事故における低線量下の健康影響の報告もあります。これ
らのことを考えると、子育て世帯が避難をするのは当然のことだと思われ、私が避難
を止めることや避難先からの帰還を勧めることはありえないととだ、と考えています。
高倉地区では、特定避難勧奨地点が解除されても、若い人は誰一人戻ってきません。
子どもは一人もいません。若い世帯が戻らないのは、宅地の除染が済んでも、生活圏
には無数のマイクロホットスポットがあることを知っているからです。除染でも放射
線量は 3割程度しか下がらず、そこで子育てをすることは無理だと考えているからで
す。約 6割の高齢者は帰ってきましたが、いま往んでいるのは 70歳を超えた人たち
ばかりです。人がいないので、コミュニティは完全に崩壊しています。若妻会、子供
を守る会、消防団、婦人会、老人会は全て解散しています。学区内の小学校や中学校
は何とか開校しておりますが、幼稚園は閉鎖されたままです。市街地に目を向けると、
総合病院は隣町に移転しました。スーパーや小児科病院が閉鎖されたままです。職員
不足で老人福祉施設が縮小されました。わず、かに賑わっているのは除染作業員が立ち
寄るコンビニや宿泊業などです。
体の不調を訴える人たちもいます。放射能で汚染された田畑で作物を作れない、人
がいなくてお祭りができないととなどが原因かもしれませんが、免疫力の低下によっ
て、原爆ブラブラ病のように、とにかく疲れる、いくら寝ても寝た気がしない、目が
かすんだりしょぼしょぼする、鼻血、うつ病などの症状をよく耳にします。平和な山
里の暮らしが一変し、身の回りの健康被害がこの先ず、っと続くのかと思うとすごく不
安になります。生態系の異常も目にします。モリアオガエルの個体数が激減していま
す。原発事故以前と比べると鳥類や昆虫類も少なくなっています。かたや、イノシシ・
サル・タヌキ・ハクビシンなどの野生動物にとっては楽園となっています。これらは、
放射能の影響とはいい難いかもしれませんが、環境の変化は肌で感じ取ることができ
ます。現在調査中の土壌の汚染が深刻なようです。今後は、西側に隣接し全村避難中
の飯舘村からの放射能が再浮遊し、偏西風による地域再汚染も懸念しています。
このようなことから、年間 20ミリシーベルト基準で特定避難勧奨地点を解除する
という愚行は承服することができません。年間 20ミリシーベルトというのは放射線
業務従事者の基準であり、国際放射線防護委員会 (ICRP) の勧告による公衆の被ば
1- 3
i
く限度の世界基準は年間 1ミリシーベルトで、国内法でもこれを取り入れてきました。
日本が法治国家であるのなら、この基準を厳守すべきであり、住民の生存権を最大限
に考えるべきです。この夏、広島の原爆投下 70年式典に足を運びました。そこで、
70年後のいまも原爆症の認定を求めている方にお会いしました。低線量被ばくの環
境に身を委ねることを半ば強要されている私たちの子どもや孫が、 70年後に同じこ
とを繰り返さなければならないような禍根を残すべきではないと考えています。経済
性を優先して放射能汚染の被害者を切り捨てることがあってはならないと、司法が判
断されることを切に望みます。原発事故対応の悪しき先例を世界の基準として残さな
いためにも,避難の放射線量基準は年間 1ミリシーベルトとすべきです。
以上
I
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①
平成 27年(行ウ)第 238号、第 381号南相馬避難解除取消等請求事件
原 告 菅 野 秀 一 外 807名
被告国(処分行政庁:原子力災害現地対策本部)
意見陳述要旨
平成 27年 9月 28日
東京地方裁判所民事部第 38部 Al係 御 中
住所
氏名
-・・・と申します。
本日は意見陳述の機会を与えていただき、ありがとうございます。
私は原発事故当時、両親と夫と子ども 3人の 7人家族でした。子どもは 3人とも男
の子で、長男と次男は小学生、三男は生後 11か月でした。
3月 12日、原発が爆発したとニュースで知り、南相馬市から福島市の姉の家に避
難しました。
福島市は断水していて、給水所まで、交替で水を貰いに行ったり、三男をおんぶしな
がら 1時間以上並んで買い物をしたりと大変でした。今考えると、あのとき屋外にい
たことで初期被ばくの影響を受けていないか心配です。
新学期が始まり落ち着いてきた頃、福島市もある程度放射線量が高いと知り、ハイ
ハイをしている三男のことを考えて知人のいる猪苗代町の磐梯青少年の家に避難す
るととにしました。しかし、仮設住宅の申請や手続きなどの情報を入手するのが困難
2-1
だったため、両親は南相馬市の自宅に戻ることにしました。その後、父がくも膜下出
血で倒れ緊急手術をすることになりました。両親が大変な時に一緒にいてあげたかっ
たのですが、子ども達を避難所にいる知人にお願いしてきたため、休暇を取ってきた
姉に母や父をお願いして、私は避難所に戻りました。事故後の南相馬市の自宅での母
の生活は、事故前と違って何をするにも大変だったと思います。
7月に入ると、避難所になっていた青少年の家が通常営業を始めました。だんだん
と一般の利用者が多くなって、避難者の居場所が狭くなり、早く出て行かなければと
思わせるような雰囲気になっていました。
親戚が山形の借上住宅にいたので、それを頼りに何度も山形に通い、 8月から私た
ちも山形に借上住宅を借りることができました。夫は仕事のために南相馬市に戻らな
ければならず、私と子どもたちだけの避難生活が始まりました。子ども達が何度も原
因不明の鼻血を出したり、風邪を引いたりしたので病院に頻繁に通いました。南相馬
市には小児科がなくなっていたのですが、山形市では病院や買い物などで図ることが
なかったので、助かりました。しかし、夫は可愛い盛りの三男と一緒に暮らすことが
できず、仕事で疲れているにもかかわらず 2時間以上かけて車で山形まで来てようや
く子どもたちに会える状態だったので可哀想でしたし、苦労させたと思います。
翌年の 2学期から長男が学校に行きたくないと言い始めました。すんなり行くとと
もあったのですが、部屋から出なかったり、 1時間以上も玄関にいたり、車で送って
行っても学校に入らず歩いて帰ってきたりということが何度もありました。担任に相
談し、本人とも話し合いをしましたが、その状態がずるずると続き、息子も私もスト
レスが貯まり限界がきていました。
長男のとと、病気の父のこと、家のことをすべて任せきりにしてきた母のこと、高
齢になった夫の両親のこと。夫といろいろ相談し、一昨年の 1丹、南相馬市に戻ると
とにしました。
特定避難勧奨地点にあった自宅は放射線量が高かったため、私たちは自宅ではなく、
市内の仮設住宅に戻りました。地元の中学校に編入すると、長男に笑顔が戻りました。
.
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楽しく通学している姿を見て、この点だけを考えると戻ってきて良かったと思いまし
た
。
自宅は仮設住宅と同じ原町区にありますが、 2度の除染をしても線量が高く、ほん
の数キロしか離れていないのにもかかわらず、南相馬市に戻った後もなかなか子ども
たちを連れて行くことができません。子どもたちは何度も家に帰りたいと言いますが、
お墓参りのときなど滅多なことがない限り自宅には連れて行きません。
三男は事故当時生後 11か月でしたが、今は 5歳半です。来年小学生です。ずいぶ
ん成長しました。でも、落ちている木の校や花や石など何でも拾い集めます。外に出
ちゃダメと言っても出て行きます。自宅に来たときは外に出ちゃダメ、触っちゃダメ、
仮設ではドタバタしてはダメ。夕、メダメ夕、メ。理由を言っても 5歳児には分かりませ
ん
。
そんな中、国は去年の 12月 28日に年間 20ミリシーベルトという高い基準で特
定避難勧奨地点を解除しました。 2度の除染をしても雨樋や側溝付近では未だに毎時
約 4マイクロシーベルトの高線量が出ます。国は、ず、っとその近くにいるわけじゃな
いから大丈夫といいます。確かにそうかもしれませんが、除染したのは宅地のみ。未
だ田んぼや畑、原野や農道はすべての除染を完了していません。
原発事故の前、長男と次男は小学生でした。学校へは徒歩や自転車で通い、帰宅す
れば近所の子どもたちと広場でキャッチボールをしたり、 )
1
1でカニ捕りをしたり、夏
はカブトムシやクワガタ捕りをしていました。解除しても三男にはお兄ちゃんたちと
同じことをやらせてあげられません。そこで育った私としてはとても悲しいです。
将来被ばくによる何らかの影響は出ないのでしょうか。誰も、何もない大丈夫!と断
言する人はいません。解除されたからといって簡単に「はい、戻ります」というわけ
にはいきません。私たちは、仮設住宅の期限が切れたら行くあてがありません。今の
南相馬市には空き家や空アパートがありません。復興団地に入る権利のない私たち家
族には、自宅に戻るしか道がないのでしょうか。これから未来ある子どもたちを安々
と被ばくさせるしかないのでしょうか。
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事故前は米や野菜は両親が作り、水は井戸水を飲んでいたので食費はそんなにかか
りませんでした。今は、仮設住宅三軒分と、たまに行く自宅の四軒分の光熱費を支払
っています。東電からの補償金は事故後全く住まなかった自宅のローンに消えました。
解除で補償が打ち切られるなか、余計な出費が大変です。
チェルノブイリでは、年間 1ミリシーベルト以上で補償付の避難など補償を受ける
権利があるとされました。日本でも事故以前は年間 1ミリシーベルトが国民の被ばく
の限度とされていましたが、いつのまにか 20ミリシーベルトに引上げられていまし
た
。
私は、固による一方的な解除には、とても納得がいきません。
現段階での解除は一度白紙に戻した上で、私たちの声を聞き、私たちに寄り添い、
何か良い対策・補償を考えてはくれないでしょうか。
以上
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