な の か - 浦和法人会

なぜさいたま市立高砂小学校の長い塀は、
﹁浦和市章付の瓦屋根に白壁﹂なのか
さいたま市立高砂小学校(埼玉県さいたま市
浦和区岸町4丁目ー 、2014年度・ 児童数
872人 学級)は、さいたま市内最古の小学
校として知られている。高々とした門柱(正門
「高砂門」、東門「敬愛門」)と瓦葺き白壁の塀(真
砂塀)と「白亜のコンクリート4階建て校舎(全
長120メートル超)が一体となって、「郷学校」
のイメージが蘇り、校庭の大銀杏とともに高砂
小学校のシンボルとなっている。
第2次中曽根内閣第1次改造内閣の松永光文
相(在任期間1984年 月1日~1985年
月 日)のころの昭和 年(1985)3月、
「浦和市制 周年」を記念して、尋常高等小学校当時の門柱を復元した「高
砂門」と浦和市章付きの瓦屋根に白壁の「真砂塀」が建てられた。
創立以来、144年の歴史を誇っており、その沿革を以下の通り、振り返っ
てみよう。
江戸時代、中山道浦和宿の宿場町となる。明治2年(1869)9月 日、
浦和宿に本格的な県庁が設置され、それまでの県名であった大宮県が浦和県
に変更される。
かわ・ただなか=なおなか、天保7年〈1836〉三河藩の儒学者の子とし
●「浦和市制 周年」を記念して、尋常高等小学校当時の門柱を復元した「高
て江戸で生まれ、明治 年〈1890〉没)が明治4年〈1871〉、浦和
砂門」と瓦屋根に白壁の「真砂塀」が建てられた。
県令の間島冬道に招かれ、浦和県出仕となり、同年3月1日、玉蔵院(現在
●「高々とした門柱(高砂門)と瓦葺き白壁の塀(真砂塀)」と「白亜のコ
ンクリート4階建て校舎(全長120メートル超)」が一体となっている。 のさいたま市浦和区仲町2丁目 ー )に浦和郷学校を開校することに尽力
し、蕨・浦和両郷学校の校長を兼務した。郷学校(ごうがっこう)とは、江
●「浦和郷学校」のイメージが蘇り、校庭の大銀杏とともに高砂小学校のシ
戸 時 代 か ら 明 治 初 期 に か け 存 在 し た 教 育 機 関 の 一 つ で あ っ た。 明 治 8 年
ンボルとなる。
(1875)、病により職を辞し東京に帰ったが、明治 年(1878)再び
蕨町民の懇望により同町夜学学校の教師となり、明治 年(1882)顕神
学校長(現蕨北小学校)に再任されている。
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明治3年(1870)下戸田村と蕨宿で私塾を開いていた石川直中(いし
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「敬愛門」
どちらも尋常小学校当時の門柱が復元されている
『沿革』
明治4年(1871)9月、浦和郷学校新校舎が建てられ、浦和下宿に移
転した。
明治4年(1871) 月 日、浦和県が忍県、岩槻県と合併し、埼玉県
となる。県庁は当初岩槻に置かれる予定だったが、暫定的に浦和宿に置か
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正門「高砂門」
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瓦葺きの白壁の塀「真砂塀」
、女子付属小学校の校舎が、別所(今の
大正8年(1919)3月 日
附属中の場所)に新設され、代用を解除。
大 正 8 年( 1 9 1 9) 4 月 日、 尋 常 小 学 校 と 高 等 小 学 校 が 統 合 さ れ、
北足立郡浦和尋常小学校として開校式を挙げた。
大 正 年( 1 9 2 5) 4 月、 県 庁 裏 門 の 下、 旧 兵 林 館 印 刷 所( 現 在・ 小
峰医院のあるところ)の建物を改修して、分教場を設けた。
昭和2年(1927)3月、現在の埼玉りそな銀行浦和営業部の地に校
舎を新築して常盤町分教場とし、本校尋常科の児童の一部と兵林館分教
場の児童全員をここに移転。
昭和5年(1930)4月1日、常盤分校が浦和尋常小学校として独立。
昭和7年(1932)4月1日、谷田、木崎両村の浦和町への合併に伴い、
浦和第一尋常高等小学校と改称し、木崎小学校と本太分校を第一尋常小
学校の分校と決めた。
昭和8年(1933)4月1日、本太分校が浦和第五尋常高等小学校と
して独立した。
昭和9年(1934)2月 日、市制施行に伴い、校名を浦和市立第一
尋常高等小学校に改称。
昭和 年(1941)4月1日、国民学校令の施行に伴い、浦和第一国
民学校に改称。
昭和 年(1947)4月1日、学制改革に伴い、浦和市立高砂小学校
に改称。
昭和 年(1953) 月、岸町小学校が新設され、本校児童約700
人が分離。
昭 和 年( 1 9 5 5) 1 月、 大 谷 場 小 学 校 が 新 設 さ れ、 本 校 児 童 約
200人が分離。
昭 和 年( 1 9 6 5) 5 月、 昭 和 年( 1 9 6 6) 3 月 ~ 5 月、 昭 和
年(1968)2月の3期にわたって西側から順次東側に向けて「白亜
のコンクリート4階建て新校舎」が建設され、現在の全長120メート
ル超の校舎が完成した。大半が平屋か二階建ての家並みだった町にモダ
ンな建物が現れ、多くの市民を驚かせた。
昭 和 年( 1 9 7 1 年 ) 4 月、 分 教 場 と し て 浦 和 市 立 教 育 研 究 所 内 に、
言語学級を設置。
平成 年(2001年)5月1日、さいたま市誕生により、さいたま市
立高砂小学校に改称した。
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(文・板垣英憲、写真・海野美佳)
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れる。
明治5年(1872)8月、学制発布により、北足立郡浦和第一番小学
校と改称。
明治9年(1876)8月 日、埼玉県が入間県と合併、新たに埼玉県
となる。 月1日には旧浦和県庁舎を埼玉県庁舎とすることとなった。
明治 年(1877)6月、浦和小学校を埼玉県師範学校の附属小学校
とて教育実習の途を開いた。これが埼玉県における附属小学校の起源と
なる。
明治 年(1879年)5月、師範学校が、稲荷丸(後の埼玉県立浦和
図書館、埼玉会館敷地内)に校舎を新築、続いて明治 年5月校内に附
属小学校が新設され、浦和小学校の附属は廃止。
明治 年(1882年)4月、浦和小学校敷地内に、浦和、六辻、谷田、
木 崎、 三 室、 片 柳、 土 合、 美 谷 本、 笹 目、 芝、 尾 間 木 の 1 町 カ 村 の 組
合立北足立郡第一高等小学校が設立。
明治 年(1889)4月1日、町村制施行に伴い浦和宿が北足立郡浦
和町となる。
昭和9年(1934)2月 日、市制施行により浦和市となる(県内で
は川越市、熊谷市、川口市に次ぐ4番目、全都道府県庁所在地で最も遅
い市制施行)。
明治 年(1907)4月、浦和尋常小学校と北足立郡第一高等小学校が、
埼玉県女子師範学校代用附属となる。
明治 年(1912)4月、高等小学校は、男子児童を男子附属に移し、
女子児童のみとなった。
旧浦和市章付の瓦
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