宗教と文学覚え書き その一

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Title
宗教と文学覚え書き その一
Author(s)
千本, 英史
Citation
千本英史:人間文化研究科年報(奈良女子大学大学院人間文化研究
科), 第30号, pp.125-132
Issue Date
2015-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3972
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宗教と文学覚え書き その一
千 本 英 史*
「文学」という営みと「宗教」
「宗教と文学」というテーマは、たいへんに大きな課題である。
このテーマに対してはこれまでから、多くの論議が積み重ねられてきた。
「日本の文化・歴史を国際的な連携・協力の下で研究」する使命を持つ国際日本文化研究センター
が、1997年10月と11月の計五日間にわたって、創立10周年記念国際シンポジウムを開催したとき、
そのテーマはまさに「日本における宗教と文学」に設定された。報告書はB5版二段組200ペー
ジのものが公表されているが、内外の知性を代表するメンバーが一同に会して繰り広げられた討
議においても、第三部のミニ・シンポジウムの中でスミエ・ジョーンズ(インディアナ大学)と
ヘルベルト・プルチョウ(カリフォルニア大学)の報告で再検討が若干触れられた以外は、それ
ぞれの報告者が自分なりの「宗教」
「文学」の概念で話を進めており、討議が有機的に関連づけ
られてはいない。
また日本においては「宗教」という場合、
「仏教」がその代表的位置にあることは疑えないが、
「仏教文学と、それに関連する諸分野の研究を目的とする」と会則にうたう仏教文学会(http: //
bukkyoubun.jp/)は、2011年5月に設立50周年記念のシンポジウムを開催し、
「仏教文学研究の
可能性」を討議している。仏教文学会はその二年前の年次大会でも「仏教文学とは何か」をテー
マとするシンポジウムを開いており、
「仏教(宗教)」と「文学」との関係の問い直しを続けてい
るが、常に問題は多岐に亘り、研究の指針が明示されているとは言い難い(これらのシンポジウ
ムの報告は学会誌『仏教文学』誌上で公表されている)。
なぜこの「宗教と文学」というテーマがこのようにうまくかみ合うことがないのだろうか。そ
の第一の要因は、このテーマが徹頭徹尾近代の枠組みでの思考を前提としているということにあ
るだろう。いうまでもなく「宗教」も「文学」も、近代までは存在しなかった学術用語である。
つまりこのテーマは、それぞれの歴史的事象を、今日(近代)の我々がどのように捉えようとす
るのかを、真っ正面から問うているといえるのである。
最澄にとっても、空海にとっても、みずからが信じていた大系は、
「宗教」という枠組みで理
解するようなものではなかったし、それが「文学」なるものとどのように関係するのかを、問う
こと自体がありえなかった。
そのことは江戸末期にいたるまで、すべての人々(「宗教者」、「作者」、「読者」)にとって同様
であったし、そうして今後数世紀の後の人々にとっては、すでに「問い」として成立しえないも
のとなっている可能性さえあるだろう。
* 研究院(人文科学系言語文化学領域)教授
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―
『日本国語大辞典』
(第二版)で「文学」を引いてみると、
『懐風藻』序文の「旋招二文学之士一、
しばしば
をのこ
を
ときどき
ち れい
時開二置醴之遊一」
(旋文学の士を招き、
時に置醴の遊を開きたまふ)を初出用例としてあげている。
その意味は「学芸。学問。また学問をすること」とあり、今日の代表的な意味である「芸術体系
の一様式で、言語を媒材にしたもの。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など、作者の、主として想
像力によって構築した虚構の世界を通して作者自身の思想・感情などを表現し、人間の感情や情
緒に訴える芸術作品。また、それを作り出すこと。文芸」の意味での用例としては、内村鑑三が
一八九四年七月に基督教徒第六夏期学校で行った講演「後世への最大遺物」の「文学といふもの
は我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない」が初例としてあげら
れている。明治中期に至るまで、他に適当な用例がなかったということになる。
『和英語林集成』の「文学」
アメリカ長老派の宣教師、医師で、ヘボン式のローマ字綴りを作ったことで知られるJ.C.
ヘボンが、
慶応三年(1867)に刊行した初版の『和英語林集成』では、
「文学」の項には「BUN-GAKU
ブ ン ガ ク, 文 学 」 と し て「Learning to read, pursuing literary studies, especially the Chinese
classics.」の解説が載せられ、付録の英和部でも「literature」の訳語は「Gakumon; bun; bundō」
とだけあった。この段階では、
「文学」と「literature」とは結びついていなかったのである。初
版に比べて、
幕末〜明治の新語が一万語以上増補されたという第三版になると、
「文学」の説明は、
「Literature; literary studies; especially the Chinese classics.」と「literature」が最初に掲げられ
るようになり、
「literature」の訳語も、
「Gakumon, bun, bundō, bungaku」と新たに「文学」が
付け加えられている。このあたりの外国語辞書における「文学」という語の使われ方については、
鈴木貞美の『日本の「文学」概念』
(1998)に詳しく、それ以上に述べることはない。同書は「文
学」という概念のあり様について周到な検討を加えており、まことに有用なものとなっている。
内村鑑三に戻って、いま岩波文庫版(改版1976)で当該箇所を確認すると、これは講演の二日
目の部分で、「後世へわれわれが遺して逝くべきもの」として、前日に「金」と「事業」につい
て語った後で、三番目として「思想」をあげたところである。
われわれの思想を遺すには今の青年にわれわれの志を注いでゆくも一つの方法でございます
けれども、しかしながら思想そのものだけを遺してゆくには文学によるほかない。それで文
学というものの要はまったくそこにあると思います。
と述べた後に、先の用例の文言が述べられる。そうして具体的な例として、『新訳聖書』、頼山陽
の『日本外史』
、ジョン・ロックの『Human Understanding』(『人間知性論』、
『人間悟性論』とも)
をあげている。内村は、それらの書物こそが、代表的な「文学」だと論じているわけである。そ
うして、詞を継いで旧来の「文学者」観を批判している。
日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それ
は絵艸紙屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のな
かざ
かに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳して眺めてい
る。これは何であるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。し
かし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後
世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものである
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―
かも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何
もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれ
のなかから根コソギに絶やしたい(拍手)
。
ここでは紫式部とともに福地源一郎(桜痴)を引き合いに出して、旧来の「文学者」として断
罪している。講演なので、
用語は必ずしも厳密に用いられているとはいえないが、
「文学者」と「(本
来の)文学」とで使い分けがなされている点は注意しておかねばならないだろう。それでも「文
なま
おもちゃ
学者」を論ずる中で、
「文学というものは惰け書生の一つの玩具になっている……日本人の考え
に文学というものはまことに気楽なもののように思われている」と語られもする。(1)
この立場からは、言語によって造られた「経典」は、
「文学」そのものにほかならないという
考え方が成立する。
実際に1925年に、
『大正新修大蔵経』や『仏書解説大辞典』の編集にあたった浄土宗僧の小野
玄妙(1883-1939)によって著された『仏教文学概論』(甲子社書房)は菊判670頁の大著で、ま
ことに充実した内容のものであるが、そこでは、
今私は従来仏教は歴史的に哲学的教理に富んだものであると云はれて居るけれども其の実は
一切経中哲学的分子と見なすべきものは極めて小部分であることを述べた。然らば其の余の
部分が何ういふ性質のものであるかと云ふについて、之が説明の取扱ひ方は色々あらうけれ
ども、此処には聊か独断かも知れぬが、特に一種の文学書に準じて解説を施して見やうと思
ふのである。突然に此のやうな事を云ふと、古い昔の祖師達の解かれた教相判釈等が先入主
になって頭の底にこびりついてゐる人の耳には異様に響くかも知れぬが、苛くも一切経その
もの全体を検察した結果としては、少しも疑つたり怪んだりする必要のない正真正銘の文書
なりと断ずべきである。しかし文学書と言つても今日流行して居るやうな俗悪な男女の情事
関係を驢列の廻らぬ筆で書きなぐつたやうな低級な劣等なものではなく、印度西域に生れた
古聖賢と肩をならぶる大詩人が心静かに覚者の教訓を経とし、実相の妙理を緯とし、古来の
伝説を文とし、豊満な詞想を以て作り上げた至つて高貴な大文学で(あ)る。
とされ、そこでとりあげられているのは、すべてが漢訳仏典で、和文の通例の文学書などは一点
も含まれていない。 そこまでいかなくとも、たとえば今成元昭が1977年に出版した『宗教と文学:仏教文学の世界』
(秋山書店)はNHK市民大学講座「仏教文学の世界」の記録で、梅原猛・杉浦明平・真継伸彦ら
との対談集だが、そこで扱われているのは、
『往生要集』、『歎異抄』、『日蓮書簡』、『正法眼蔵』
といったラインナップになっている。このような作品から「文学」を論ずる立場もあるのである。
「宗教」ということば
「宗教」ということばもまた、近代の用語であり、多様な意味を持っている。「宗教」とはいっ
たい何なのか。
『和英語林集成』では、慶応三年(1867)刊行の初版には、「宗教」の語は見えず、英和の部の
religionの訳語は「Oshiye; michi; hō; dō」となっている。第三版では、「SHŪKYŌ; シウケウ 宗
教(oshie)
」として示され「Religion」の語が対応させられ、英和の部の「religion」の訳語も、
「RELIGION, n. Oshiye, michi, hō, dō, kyōhō, kyōmon, shūkyō 」と最後に「宗教」の訳語を加え
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―
るにいたっている。
『宗教学辞典』
(東京大学出版会1973)は、
「宗教」の語の使用について、漢字で「祖霊をまつっ
た霊廟」の意を表す「宗」が「仏教用語をサンスクリットから漢訳するときに用いられ」
「仏教
の根本真理を把握することによって到達する究極的な至高の境地」の意となり、
「これを言葉に
よって表現しよう」として「教」が成立したと説く。そうして、「日本では、のちにこの『宗教』
が、仏教のみならず宗教一般をさす類概念として用いられるようにな」るが、それは「1869(明
治2)年のドイツ北部連邦との修好通商条約において、
”Religionsübung”の訳語として『宗教』
が用いられて以来のこと」だとしている。その上で、religionの語について「もっとも原初的には、
なにか不思議な事物に接したときの畏怖や不安や疑惑の感情をさした」ものとしている。
このreligionの語について、最近の『宗教学事典』
(丸善2010)はまた別な立場を取っている。
すなわち、
religionの語源にあたるラテン語の「レリギオ:religio」は,古典古代から用いられていた.
ただいつの場合も,語彙と概念内容は慎重に区別して考えねばならない. religioという語
の当初の概念内容は,現在の「宗教」と比べると,意味も使用頻度においてもはるかに限定
されたものだった.古代ローマにおける用例は,キケロなどにみられるが,神に向けられた
儀礼の規則どおりの(主として公的)執行を意味した.つまり信仰や祈りなどを包摂する語
ではなく,それらと並ぶ限定的な行為を表していた.(慎重な行政的執行との意味もあり,
この語義はreligiouslyという英単語副詞形の「慎重に」という語義に残っている).ある国
土(例えばローマ)の宗教といった言い方もなかった.
とするのである。
そのうえで、このreligioの語が概念内容と使用頻度を大きく変えるきっかけとして、ふたつの
事柄をあげて説明しているが、その一つは、
「啓蒙思想やその周辺の神学思想において用いられ
た『自然(的)宗教(natural religion)
』の概念およびその関連語彙の発達」であるといい、い
ま一つとして、
大航海時代において世界各地の儀礼実践が「発見」され,観察されるに至ったとき,そうし
た儀礼実践がreligioや近代諸語のreligionの語で呼ばれる事例が飛躍的に増えていったとの事
実である.そうした報告や断片的知識が次第に集積されて,17世紀には,「世界の諸宗教」
という言い方が一般化し,そうしたタイトルを冠した書物がヨーロッパ諸国で数多く出版さ
れるようになった.
と、たいへん興味深い指摘をなしているのである。
本稿でも、
「宗教と文学」の最後に、大航海時代のキリシタンとの接触、また日本本土の琉球
との接触における文学的営為について述べることになるが、もともと「宗教」という語が、世界
的に見ても、そのような異文化との接触によって、今日的な意義を獲得してきた概念であること
は、まず初めに押さえておくべきかと思う。
現代の研究の中での文学と宗教
ここで少し遠回りのようだが、現時点で斯界を先導する研究者が、この大きなテーマをどう取
り扱ってきたかについて、振り返っておこう。
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―
小峯和明『中世法会文芸論』
(2009)は、
「法会は、いわば文芸の発生、享受、再生の現場であ
り、説話の生態論や表現史の基幹となるものである。ここでいう「文芸」とは、文学・芸能をあ
わせた複合的な概念であり、かつて筑土鈴寛が唱えた「芸文」と同類の呼称である」として、そ
の脚注に「築土鈴寛『中世・宗教芸文の研究』
(著作集三、四巻、せりか書房1976)」の著を挙げ
ている。
筑土鈴寛については、宗教と文学を論ずる際、繰り返し参照される研究者であるから、ここで
少し詳しく見ておくことにしよう。
1901(明治34)年、東京の北多摩郡に昌翁寺住職筑土寛隆の長男として生まれ、一家離散・小
学校中退を経て、上野寛永寺内の現龍院に入寺、得度受戒し鈴寛を名乗った。天台宗中学を経て
国学院大学に進み、折口信夫と出会う。東京帝国大学副手、大正大学教授を勤めた。筑土鈴寛の
著作は、生前に刊行された単行書は、
『宗教文学』(河出書房1938、日本文学大系第19巻)、『慈円
−国家と歴史及文学−』
(三省堂1942)
、
『復古と叙事詩−文学史の諸問題−』(青磁社1942)の三
冊だけ(他には岩波文庫『沙石集』上下)で、1945年3月の「東京大空襲」によって、印刷目前
であった『中世文学史の研究』の大著は多くの未発表論考とともに灰燼に帰したという。同著は、
第一巻はB5版600ページを超える大冊ですでに校正も完了し、第二巻も稿本はほぼ完成、第三
巻の資料篇を併せて全三冊の刊行が待たれていた。筑土は戦後ほどない1946年11月に病を得、翌
47年2月、45歳の若さで死去した。
筑土の死後、1949年になって、それまでまとめられることのなかった雑誌論文を中心に、『宗
教文学』と『復古と叙事詩−文学史の諸問題−』の一部を取り込む形で、新間進一、永井義憲、
小西甚一の編纂によって遺稿集『宗教芸文の研究』
(中央公論社)がまとめられた。このとき後
を追って『民俗芸文の研究』
『中世芸文の研究』の二冊も刊行を目指したが果たさなかったという。
その後、1966年になってようやく永井義憲の編集によって、『中世芸文の研究』(有精堂出版)が
刊行され、残されていた雑誌論文などがひととおり、収載されることを得た。
それまでの著作を集大成して、
第一巻に『宗教文学』と『復古と叙事詩』の二冊、第二巻に『慈
円−国家と歴史及文学−』を入れ、第三巻、第四巻に死後に編纂された二冊の著作集収載の諸編
を年代順に再構成して入れて、第五巻として未発表ノート類などをまとめて全五巻として刊行さ
れたのが、
せりか書房版の著作集(1976-77)である。小峯が脚注で示しているのはこれにあたる。
第三巻、第四巻の題目の『中世・宗教芸文の研究』は、死後に編集された二著の題名を合体させ
たものとなっているのである。
そこで、この「芸文」といういささか耳慣れないことばであるが、
『宗教芸文の研究』の凡例
によれば、
「題名は、故人によつて創立された宗教芸文学会が、特に意を用ゐての命名であつた
ことから、かやうに定めた」ものという。永井義憲が『中世芸文の研究』の「後記」に記してい
る文章によれば、筑土は戦後、久松潜一の援助により、東京大学附属図書館内に研究室を与えら
れ、宗教芸文学会の設立を企画、
「宗教と文学および芸術一般の精神史的研究を行なうことを目
的とする宗教芸術学会の創立を企画せられ、説話辞典の編集も意図せられていた」
。この学会に
ついては、
『著作集』第二巻に付された月報の新間進一の「筑土鈴寛先生追慕」にも、「東大にま
だご縁のあった私はその実務的な御相談に与った。永井義憲・小西甚一氏、その他の方々の協力
を得て、学会の運営に努めたが、緒についたばかりで先生の御発病、御他界の悲しみに遭わねば
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―
ならなかった。この会は、戦後の困難な時代相もあり、私自身昭和二十五年北大赴任ということ
もあって挫折した」と書かれている。
「芸文」ということばはたしかに耳慣れないが、現在でも、慶応義塾大学芸文学会(『藝文研究』
1951 〜)や近畿大学文科学会(
『芸文』1960 〜)の機関誌はこの名を冠しているし、戦前では、
「京
都文学会」の機関誌(月刊)が知られている。明治43年(1910)4月に第一年一号を創刊し、昭
和6年(1931)2月の第二十二年二号まで続いた(同年6月に総目次を刊行)。京都文学会は、
「本
会は哲学史学文学の進歩及び普及を図るを以て目的とす」
(規則第二条)
、
「本会は京都帝国大学
文科大学に関連あるもの及び其紹介による会員を以て組織す」
(同第三条)とあるように、京都
帝国大学文科大学の機関誌であった。創刊号には、桑原隲蔵、内田銀蔵、狩野直喜などの名が見
えている。この時点では、<芸>と<文>という捉えられ方はされていない。
「文芸」という用語も、石山徹郎による『文芸学概論』(1929)、岡崎義恵による『日本文芸学』
(1935)などで新たに提唱されたものだが、これは「文学」という語では「伝記研究」や「本文
批判」さらには「文化史研究」などの要素が混在するので、それらを隔離する「純粋」概念とし
て提唱されたもので、
石山は後にはさらに「芸文」の語がいっそうふさわしいと述べていた(2)
(そ
の立場は死後に単行著『芸文論』
、
『日本芸文史論』〔ともに1948〕として永積安明らの手によっ
てまとめられた)
。
これらの用例はいずれも、
「文学」と「芸能」といった使われ方のそれではなく、「芸文」の語
をそのような意味合いで使うことは(たしかにいくつかの研究集団などでの使用例は確認できる
にせよ)必ずしも一般的とはいえず、小峯のように「文芸」の語でその意味を表現することには
さらに無理がありそうだ。少なくとも、たとえば『往生要集』といった作品を「文芸」の名で表
わしたことはこれまでになかったことである。
テクスト体系という捉え方
阿部泰郎『中世日本の宗教テクスト体系』
(2013)は、初めから「文学」や「文芸」という語
自体を使用しない。
テクスト解釈学についての基本的な考察は、名古屋大学グローバルCOEプログラム「テク
スト布置の解釈学的研究と教育」
(二〇〇七─一一年)の総括論文集である、松澤和宏編『テ
クストの解釈学』
(水声社、二〇一一年)の「序」(松澤和宏)に提示されており、これを参
照している。テクスト解釈学とは、ガダマーの解釈学(『真理と方法』一九六〇年)に示唆
されながら、これを人文学全体へと発展的に開いていく試みである。第一にテクストとは、
所与のものとして人間の前に立ちあらわれ、己を読解することを要求する記号体系のまとま
りである。それは、その解釈の操作を措いては存在し得ず、しかもこれを一箇のテクストと
して撰び出す価値観の審級を共有する解釈共同体に根ざしている。「本文」や「作品」とし
てのテクストは、引用・模倣・注釈・翻訳などの操作の対象となると同時に、誤読や改変、
忘却に抗して、自己同一性を保ち継承され尊まれようとするものである。そこでのテクスト
は、正典として己に価値や権威を付与する社会・文化的所産であり、その生成過程で複雑な
歴史的文脈が刻み込まれている。
ガダマーの『真理と方法』は魅力的な著作であるが、それに依拠して「テクスト」概念を立て
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―
ることで、いま私たちが検討すべき「文学」の抱え込む全体を位置づけることができるのかにつ
いては、疑問がやはり残ってしまうだろう。たとえば、松澤和宏編の『テクストの解釈学』序文
を読む限りでは、「断片」や「偶然性」といった「文学」研究の対象として考え得ることがらを
どう取り扱えばよいのかについては、問題が残るように思える。
以上に述べたように、今日、このテーマの研究を先導していると考えられる研究者においてな
お、
「文学」作品といかに向き合うかという問題は解決しておらず、それぞれが試行を繰り返し
ている段階だというべきである。
ならば、このテーマの設定はそもそもが無理であって、その追求は意味がないのか? おそら
くそうではない。一つの作品を前にして、
私たちにとってあらためて「宗教」とは何なのだろう、
「文学」とは何なのだろうということを、問い返してみる行為は、じつは今こそ必要なのではな
いだろうか。
ここでいう「今」とは、地球環境が「危機的」ということばではすでにいい足りないほどの状
況に陥っている「いま」であり、
「希望」や「未来」ということばがどこか空疎な意味合いを含
んでしまっているのではないかと思える「いま」である。9.11と3.11というおそらく今後
長く忘れることが許されない日付の刻印を目の当たりにした、その後の世界のことである。
私たちは近代をいかに超えていくかという時代に生きている。
「そんなものは近代的思考だ」とうそぶいて拒絶してみせたからといって、そのことでいかに
近代を対象化していくかという課題から逃れることはできないのであろう。それは逃れたフリを
しているだけである。
このあたりまえのことをまず確認し、その近代の思考の操作概念としての「宗教」、「文学」を
あえてひき受けて、
「聖なるもの」への「畏怖」をいかに我が内に抱きうるのかを問うていくこ
とが必要だと思われる。
(続く)
注
(1)もちろん、内村のいうような「聖書」を代表的な文学と見るような立場が、日本以外ではす
べてであったなどというわけではない。時代も地域も離れているけれども、T・S・エリオッ
トは「宗教と文学」
(1935、岩波文庫『文芸批評論』1962改版所収)の中で、「文学」と「神
学」とが関係することを認めて、
「聖書の欽定訳」を「文学として見られる」と述べつつ、
「『文
学としての聖書』だとか『イギリス散文の記念碑』としての聖書だとか言って熱狂するにい
たった文学者たちに対して私はどなりつけてやりたくなる。聖書は「イギリス散文の記念碑」
だと語る人たちは、
キリスト教の墓地に建てた記念碑として聖書を賞讃しているにすぎない。
(中略)
議論が横道に入ることを避けねばならないから、次ぎのことを言うにとどめておこう、
クラレンドンだのギボンだのビュフォンだのブラッドリだのの著作は、それぞれ歴史として
科学として哲学としてつまらぬものならば、文学的にはもっと価値の低いものだろう、とい
うこととおなじ意味で、聖書は文学ではなく、神の言葉の記録と考えられたからこそイギリ
ス文学に文学的影響を与えてきたのである。いま文学者たちが聖書を『文学』として論じて
いるということは、聖書の『文学的』影響の終末を示すことになるだろう」と述べていた。
(2)
「
「文芸」を「文学」の同義語に使ふことは今の『日本文芸学』の著者岡崎義恵氏その他相当
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広く行はれるやうになつたが、一方この語には「文学」と「芸術」とを引つくるめたものを
意味する習慣があつて、その方がむしろ一般化してゐる関係上、文芸といふ語に文学だけの
意味を持たせることもいくぶん無理である。それで私はむしろ「芸文」といふ語を使ひたい
と思ふ」
(
『芸文論』
「緒言「文学」と「芸文」
」)。ここでは文芸=文学+芸術(芸能ではない)、
芸文=文芸−芸術という関係が示されている。
付言 本ノートはもともとある出版社からの「日本文学史」の分担執筆の依頼に応じてその一章
として書かれたが、残念ながら出版社の意向と著者の思いとが一致することなく、採用に至らな
かったものである。内容的に現在の学部学生、院生に対して、一定の啓発素材となると考えられ
るので、
《研究ノート》として寄稿させていただくこととした。
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