1197号 (2月15日)

助、道義の高揚につとめ、
平和日本建設に寄与し、戦
争の防止、世界恒久平和の
確立を期するを信条とする。
周年(制度創設
特別弔慰金支給法の
改正案を審議・了承
年)に当たる平成
族等援護法の遺族年金 〇戦後
し、特別弔慰金の支給 問 題 特 別 委 員 会(委 員 へ最終答申を提出した。
提出された答申書は次
を継続。
長・須 々 木 壽 志 副 理 事
〇ご遺族の高齢化等を踏 長)は、県遺族連盟の財 のとおり。
まえ、償還額を年5万 政基盤の中心である「幸 「幸町会館の運営」
年国債)が最終償還を
(2回の交付で合計
見を取りまとめて理事長
5年ごとに2回交付。 同年十二月二十六日に意
在の契約内容のまま好
までの五年の間に、現
についての最終答申
円 に 増 額 す る と と も 町会館の運営」に絞って
に、5年償還の国債を 慎重に調査・検討を行い、 一.賃貸借契約期間満了
迎えることから、国と
して配偶者)がいない
特別弔慰金(第8回特
年には、現在償還中の
表するため、戦没者等
して改めて弔意の意を
て き た 遺 族 に つ い て 一月号に掲載)したとこ
年の改正により支給し 詳細は本紙平成二十六年
万円)※これまで中間 に答申書を提出(答申の
する。
金・果実で組織を運営
合 は 売 却 し、そ の 基
条件で売却が可能な場
等を受ける遺族(主と
た厚生労働部会に特別弔
とき、先順位者一名に
も、平成 年の支給に ろである。
厚生労働省は二月十七
日、自民党本部で行われ
慰金支給法の改正案を示
の遺族に対する特別弔
(昭和 年、昭和 年、
10
特別弔慰金/
万円6
国債及び特例の第9回
万円
慰金支給法を改正(平
国債の交付により行わ
平成
このため、同委員会は
現入居者への対応を含め
することとしていた。
し、改めて理事長に答申
選択肢から最善策を模索
今後一年がかりで多くの
めることが不可欠とし、
業後の新しい動きを見極
山駅前店の開業前及び開
の運営はイオンモール岡
あって、今後の幸町会館
〜二年前から賃借人と
着手して、遅くとも一
確実に設定可能となっ
家から意見を聴取し、
いては弁護士等、専門
期借款契約の設定につ
契約を行う。但し、定
し、双方対等な形で再
して定期借款を設定
は、新たな契約条件と
性・動 き が な い 場 合
なお、同答申書では、 二.契約期間満了までの
より、併せて対象とす
激変する市内周辺環境に
間、前 述 の 様 な 方 向
ることが可能。
て各委員が継続して情報
交渉を開始する。
た場合は早々に作業に
収集に努め、平成二十六
員会、同年十月五日に第
では変わっていること
当初の契約時と現在と
年六月十四日に第四回委 三.会館周辺の環境は、
五回委員会、そして十二
機関として設置した財政 十二月八日、岸本理事長
り組み」について、諮問 りまとめ、平成二十六年
運営についての今後の取 の対応について答申を取
る。
委員会を設置し協議す
ば、必要に応じて特別
から付託された「組織の 館の賃貸借契約満了まで 四.状 況 に 変 化 が あ れ
から、契約期間内に賃
料の値上げ交渉を行う。
県連盟財政問題特別委員会
年4月1日施行)
年
村で対象者(約一二三万
れ、毎年の償還日に均
に制度が創設され、以
別の機会をとらえ、国
においても、新たな要
32
最終答申提出
平成二十五年六月二十 月三日に第六回委員会を
九日開催の第二回理事会 それぞれ開催し、幸町会
幸町会館の運営について
40
24
【戦後50周年】 【戦後60周年】【戦後70周年】
※今回、継続・増額される特弔
【戦後40周年】 第六回特別弔慰金国債 第八回特別弔慰金国債
第十回特別弔慰金国債
第四回特別弔慰金国債
【戦後30周年】
第十一回特別弔慰金国債
【戦後20周年】 第二回特別弔慰金国債
額面40万円
額面40万円
特別弔慰金国債
額面
額面
額面30万円
10年償還
10年償還
額面20万円
25万円
25万円
10年償還
額面3万円
10年償還
5年償還 5年償還
10年償還
成立後、全国の各市区町
人)からの申請受付を開
等に支払いを受ける。
後、昭和 年(戦後
年
周年)、平成7年(戦
周 年)、平 成
として弔意の意を表す
成
別弔慰金/
50
支給。
27
70
し了承された。今国会で
50
特別弔慰金の支給経緯
〇支給は、無利子の記名
始する。
金支給法の一部を改正す
了承された「戦没者等 【これまでの経緯】
の遺族に対する特別弔慰
年(戦後 周年)
る法律案」の概要は次の
周年)、昭和 年(戦後
〇昭和
とおり。
【制度の概要】
後
(戦後 周年)といっ
軍人軍属等の方々に思
た機会に、 年償還の
〇先の大戦で国に殉じた
いをいたし、戦後 周
特別弔慰金(記名国債)
を支給。
周年といった特 〇なお、特例的に中間年
るため、一定範囲の遺
件を満たすこととなっ
年償
名国債)を支給。
還)の特別弔慰金(記
還(昭和 年は
年、平成 年)
族(子、兄弟姉妹等)
た遺族に対し、6年償
支給。
※戦 没 者 等 の 遺 族 の 中
平成37
平成32
平成27
平成17
30
27
平成21
平成11
50
60
に対して特別弔慰金を
戦後
周年、戦後 周年、
年、戦後 周年、戦後
20
に、恩給法の公務扶助
第九回
特別弔慰金国債
第三回
特別弔慰金国債
50
30
料や戦傷病者戦没者遺 【改正内容】
第七回
特別弔慰金国債
第五回
特別弔慰金国債
額面
24万円
6年償還
額面
12万円
特別弔慰金国債に号 6年償還
発 行 所 〒703−8272
岡山市中区奥市3-22 岡山県遺族連盟
電話代表 086−271−7175
F A X 086−271−4815
郵便振替岡山01230−9−3532
発行責任者 岸 本 清 美
編集責任者 豊 島 始 男
印 刷 所 西尾総合印刷株式会社
定価(郵税共)年額1,200円
ホームページ http://izoku-okayama .jp/
われわれは遺族の相互扶
自由民主党
厚生労働部会
額面
24万円
6年償還
額面
18万円
6年償還
額面3万円
10年償還
11
平成7
20
17
54
21
10
平成元
昭和54
昭和47
60
10
47
昭和60
昭和50
昭和40
40
60
40
50
47
40
毎月十五日発行 ( 1 1 9 7 )
い さ お 新 聞
(昭和二十五年八月十日
第 三 種 郵 便 物 認 可)
平成27年
2 月15日
(一)
平成
年度県連盟女性部研修会
性部は昭和二十九年の婦
人部結成以来、昨年で六
十周年を迎え式典を挙行
しました。妻の皆様方が
育ててこられました婦人
国会議員諸先生方のご尽 部を、今は私たち遺児が
力の賜であり、改めてお 中心になり受け継いでい
けでは何も出来ません。
礼を申し上げる次第であ ます。しかし、女性部だ
ります。
倉敷市玉島・三宅 隆さん
(フィリピン地域訪問団)
族会内でも色々なご意見 たが、七十年経っても私 召集され、終戦日の翌日 の日に行って見たらどう ていたことを思い出しま
戦犯の分祀について、遺 年の節目の年を迎えまし 昭和二十年に父は現地で すぐの近所ですよ。最後 人々に母がお握りを配っ
があることは承知してい たちの心には顔も知らな の八月十六日に戦死した ですか。ご案内します』 す。今で云うところのボ
戦争のない平和な国家 と
た。その礎となったの が
特弔、所謂祭祀料も継続 生き続けています。こう 確かなことは判りません 間早く起きて案内してい 約一年半後、財産すべて
しかし、 と言われました。朝一時 ランティアでしょうか。
ます。今回、国の方から い肉親への思いが脈々と とのことでした。
ればなりません。語り 継
を後世に伝えて行かな け
ても、この尊い英霊の 勲
であります。七十年経 っ
私たちに課せられた責 務
な社会を引き継ぐこと が
たでしょうか。この平 和
の平和な日本を想像さ れ
す。ご英霊の皆様は今 日
私たちの肉親でありま
ういう一心で戦った父 ら
『故郷と家族を護る』 そ
して繁栄して参りまし
「戦後七十年、我が国は た九段会館ですが、民間 本遺族会、自民党所属の の責任者である所謂A級 います。今年は戦後七十 年十二月、その五カ月後、 場所は、このホテルから え て い ま す。そ れ ら の
押し寄せていたことを覚
当時、瀋陽の公園には
毎日毎日、日本人難民が
で暮らしておりました。
分の家に帰らず母のもと
業員は終戦後も暫くは自
われていたようです。従
していたことから随分慕
そして、総理の靖國神 各遺族会の役員・会員の
社参拝をはじめとする英 方々と手を取り合って、 一「遺児による慰霊友好 ただき、父の亡くなった が、母は従業員を大事に
倉敷市・国富伊都さん
(旧満州地域訪問団)
に貸し付けを行う法律の 霊顕彰問題です。今、日 今後の英霊顕彰や組織の 親善訪問団」への参加報 吉林省の延吉西方、北朝
平成二十六年度の研 修 と 確 信 し て い ま す 。
鮮の国境近くにある琿春
また、最重点課題であ 一部改正が昨年暮れの国 本遺族会の方でも天皇陛 在り方を考えて行かなけ 告に入った。
会は、県下各市郡遺族 会
先ず、旧満州地域訪問 で慰霊の誠を捧げること
の女性部長ら女性部員百 りました特別弔慰金が年 会で成立しました。法律 下の御親拝をいただくた ればなりません。
私たちの肉親は夢も希 団に参加された倉敷市の ができました。
三十六名が参加し、午 前 五 万 円 に 増 額 ・ 継 続 さ は 新 た な 建 物 を 建 設 し め の 環 境 整 備 に つ い て
帰国の前日、私が生ま
十時三十分に開会した。 れ、五年国債が続けて二 て、その一部を日本遺族 色々声が上がっておりま 望も振り払い、言い残し 国富伊都さんが報告を行
れた瀋陽の町に行きまし
英霊に黙祷を捧げた後、 回支給されることが決ま 会が利用するとしていま す。無謀な作戦により、 たいことも心にたたんで った。
国富さんは「私が満州 た。現地のガイドさんか
岸本清美理事長が挨拶に りました。更に、東日本 す。これも、会員皆様方 多くの将兵が飢えや病気 亡くなりました。今、私
立った。岸本理事長は、 大震災により閉館しまし からのご支援、そして日 で亡くなっています。そ たちは幸せに生かされて で生まれたのが昭和十九 ら『国富さんの生まれた
(元大阪府知事)の講 演 を 拝 聴 し た 。
研修会では、遺児 巡 拝 へ の 参 加 報 告 や 軍 歴 調 査 要 領 の 説 明 の ほ か 、 本 県
選出の阿部俊子衆議 院 議 員 ( 農 林 水 産 副 大 臣 ) 並 び に 太 田 房 江 参 議 院 議 員
岡山県遺族連盟女 性 部 は 二 月 七 日 ㈯ 、 岡 山 市 北 区 絵 図 町 の 「 岡 山 ロ イ ヤ
ルホテル」において 平 成 二 十 六 年 度 研 修 会 を 実 施 し た 。
県下各遺族会から百三十六名が参加
26
いで行く間は平和は続 く
ら引揚船で帰国しました
き女性部の皆様方のご協 願いします」と挨拶を結 得したようでした。
人は、終戦後、大変な目 は娘と息子がいますが、
後は母が仕事のすべてを ます。
平部長は「日本遺族会女 ご祝辞を賜った後、研修 戦死場所を詳しく調査い に あ っ た と 聞 き ま し た 毎年いただいている特別
て酷い仕打ちをした日本 ら如何でしょうか。私に
皆様も元気な内に、亡
取り仕切っていました。
当時、現地の人々に対し き父の足跡を辿ってみた
訪問団は、昨年八月四
力をお願いしたい」と挨 んだ。
次いで、研修会にご臨 日に成田を出発して現地
拶。
続いて、秀平良子女性 席をいただいた奥西道浩 を巡拝しましたが、日本
部長が挨拶に立った。秀 岡山県護國神社宮司から 遺族会の皆様により父の
父は満州で運送業を営 が、帰国してからの方が
動を続けて行かなければ 謝し、実り多き研修会に 私が小学校五年の時、戦
なりませんので、引き続 なりますようご協力をお 死公報が届き母も漸く納 んでおりましたが、召集 大変だったような気がし
していただけるように運 だけることをご英霊に感 と言い続けていました。 し訳ない気持ちです。
国の方できちんとお祀り 研修会に参加させていた 間、まだ父は生きている 加者の皆さんには少し申 の葫廬島(ころとう)か
されましたが、ご英霊を して縁あって同じ会場で でしたので、母は暫くの ただきましたが、他の参 を現地に置いて、遼寧省
平成26年度女性部研修会
(2月7日:岡山ロイヤル H )
(二)
平成27年
2月15日
(昭和二十五年八月十日
第 三 種 郵 便 物 認 可)
い さ お 新 聞
毎月十五日発行
( 1 1 9 7 )
私の父の戦没地はレイ 場合はそうはいかないと でもそうですが、亡くな ることと思い、参加を決 社や護國神社にどういう 足跡、生きた証でありま 戦時中、三菱重工業水島
弔慰金を子供たちに渡
形でお祀りされているの す。私たち遺児が調べな 航空機製作所(現三菱自
し、父の命日に孫らと一 テ島です。今年は戦後七 いうことです。そして、 った方の半分以上は餓死 意した次第です。
今回一緒に参加された か調べていませんでした。 いと孫や曾孫の世代がし 動車水島製作所)の疎開
緒に墓参りに行かせてい 十年の節目の年ですが、 二つ目は現在の一般家庭 とか病気が大部分と云わ
ところが、改めて祭神 て く れ る と は 限 り ま せ 工場として、亀島山地下
ます。その娘や息子たち 戦争で父や肉親がいなく では五十回忌を行うのは れています。レイテ島は 遺児の皆様も、なかなか
に遺族運動を引き継いで なった為に、良い方か悪 難しい時代となっている 激戦地でありました。父 決心がつかなかったよう 票を取り寄せますと、祭 ん。今年は戦後七十年の に掘られた大小三十三本
が大きく変わったことは 陰様で今回、七十回忌と か、或いは餓死か病気で 士で心配でしたが、同じ 載はなく、死没地もニュ もう一度、父たちの履歴 一・七㎞。昭和十八年頃
もらいたいと思っていま い方か判りませんが人生 ということです。私はお が 戦 闘 で 亡 く な っ た の です。最初は知らない同 神票には所属部隊名の記 節目ということもあり、 のトンネル工場で総延長
す」と報告した。
続いて、倉敷市玉島の 確かであると思います。 いう年に巡り合わせまし 亡くなったのか判りませ 境遇の遺児という立場に ーギニアとしか記載され を調べてほしいと思いま から掘削が開始され未完
提示しました」 のまま終戦を迎えたが、
三宅隆さんがフィリピン 普通でしたら真っ当な人 た。私の目と体で弔って んが、何れにしても最後 ありましたので、巡拝期 ていませんでした。私の して今日、
一部で軍用機の部品が製
続いて、「資料の写真に 造されている。ビデオで
三つ目は、私も老境に います。言いたいことも 厳粛且つ楽しい慰霊の旅 資料にありますように厚
生労働省に問い合わせ、 ありますように、皆様方 は、近代的なコンビナー
なりフィリピンまで行く 言えず、言い残したいこ となりました。
地域訪問団の報告を行っ 生を送り、大きな狂いも やりたいと思いました。 は悲惨なものだったと思 間中はお互いに助け合い、 父は海軍所属でしたので、 と説明を行った。
た。三宅さんは「戦没 者 な か っ た 人 生 で あ っ た と
の遺児の皆様も高齢化 が 思 い ま す 。
『行って良かった。積 履歴を取り寄せた訳です。 が心を込めてお寄せいた ト群の一角にあるにも拘
今回の巡拝に参加させ 気力も体力も無くなって とも多分あったと思いま
進み、近年、慰霊友好 親
善事業も定員割れがある たいただいた理由の一つ おります。七十年の節目 す。言えず寂しくあの世 年の思いを伝えることが ただ、その資料も父と一 だいた折鶴を千羽鶴にし わらず、人々から忘れ去
ということをお聞きし、 は、肉親が国内で亡くな ということもあり、最後 に旅だったことを考えま できた』と大変喜ばれ、 緒に行動された戦友の方 て靖國神社や護國神社、 られようとしている戦争
いと思いました。父も来 が殆どでした。皆様方も ほど完璧ではなく、死没 して沖縄や外国地域戦跡 れている。
事業のPRということも った場合は、様々な機会 の弔いとして踏ん切りを すと、是非行ってあげた また参加したいという方 からお聞きしていた内容 千鳥ケ淵戦没者墓苑、そ 遺産の継承と保護が語ら
あり本日の研修会に参 加 に お 墓 参 り が で き 弔 う こ つ け た 訳 で す 。
訪ねていただきたい」
と、 し、部隊がいた地域が、 ています。ご報告いたし だいた太田房江参議院議
加料金が必要。(予約状況 て説明、報告を終えた。 とから、死没地は西部ニ 納を続けたいと思います 山県副知事)からご挨拶
※シングル部屋は別途追 現地の方々の交流も併せ 当時マノクワリであるこ ますと共に、引き続き奉 員(元大阪府知事・元岡
は三名一室の料金)
ビデオ放映後、遠路、
もう一つ、戦地はどこ てもらいたいと願ってい 是非機会を作っていただ 地も詳細な場所の記録は 慰霊巡拝などの際にそれ
き、父や肉親が眠る所を ありませんでした。しか ぞれ奉納させていただい 大阪から駆けつけていた
回沖縄平和祈願慰霊大行進
させていただきました 。 と が で き ま す が 、 外 国 の
第
23
の参加者を募集してい ま み 下 さ い 。
【6月
し父の戦友の方から聞い いしたところであります。 講演(講演要旨は別掲) 連盟主催の外国地域戦跡
終戦により破棄・消失 を拝聴。続いて研修四と 慰霊巡拝の参加者募集に
⑴ 全戦域における戦没 ※慰霊の日の関係から航 たり、戦友会などに参加
空便は混雑しますので予 させていただき、西部ニ を免れた兵籍・履歴など して“水島の刻印”と題 ついて説明を行った。
者の遺族。
す。
▼実施期間 六月二十二 流れ解散。
この大行進は、沖縄 戦 日 ㈪ 〜 同 二 十 四 日 ㈬ / 二 ▼ 参 加 資 格
の死没者の慰霊と世界 平 泊 三 日
24
日本遺族会と沖縄県遺 族 か ら 受 付 開 始 ) 〜 結 団 式
康な方。(救護車有)
盟で補助します。
会の共催で行われていま 〜沖縄全戦没者追悼式前 ▼参加費用 三万円程度 ▼申込締切 5月
で検討中。(但し、二名又 (日遺締切)
18
22
す。行進は糸満市内中 心 夜 祭 ( 泊 )
いうことで、父が靖國神 帰りませんが、父たちの 制作したビデオである。 した。
日㈪ ていただきました。そう 調査しても父は生きては の記録で、倉敷市が企画 時二十分、研修会を終了
そ し て、
“靖 國 神 社 の
ューギニアのマノクワリ は陸軍の場合は各都道府 するビデオを放映した。
戦が終結した六月二十三 【6月 日㈪】那覇市内 ⑵ 八・五㎞の道程を行 約はお早めに。
これは、倉敷市亀島地 歌”に続いて“ふるさと”
日の「沖縄慰霊の日」 に の ホ テ ル 集 合 ( 午 後 三 時
進できる心身ともに健 ※参加経費の一部を県連 野戦病院での父の最後の 県、海軍・軍属は厚生労
状況について詳しく教え 働省に保管されています。 区の亀島山地下特殊工場 を全員で合唱し、午後三
和祈願を目的とし、沖 縄 ▼ 日 程 ( 概 要 )
負担となります。
秀平部長は「私は父の 神社と護國神社へ祭神票 農林水産副大臣(衆議院 算案に計上された遺族処
日㈬】朝食後、 費は含まれていません。
航空券等は各自で手配・ 顔さえ知りません。しか の訂正と追加記載をお願 議員)の阿部俊子先生の 遇改善項目並びに県遺族
昼食・休憩後、午後一 継続・増額をはじめとす
今年で五十四回目とな る
参加ご希望の方は岡山 進〜政府主催戦没者追悼 ※参加費用には自宅から (軍歴)取得の要領につ いただきました。そいう
いことで、その後、靖國 時から研修会を再会し、 る平成二十七年度政府予
沖縄平和祈願慰霊大行 進 県 遺 族 連 盟 ま で お 申 し 込 式 〜 懇 親 会 ( 泊 )
集合場所までの往復交通 いて説明を行った。
続いて研修二に入り、 ューギニアのマノクワリ のでご協力をお願いした と講演をいただいた後、
日本遺族会では、昭和 部から本島南端「摩文仁」 【6月 日㈫】平和祈願 によりご希望に添えない
事務局が、特別弔慰金の
秀平女性部長が、兵籍簿 と推定されるとの回答を い」と報告を行った。
三十七年の初実施以来 、 ま で の 約 八 ・ 五 ㎞ 。
大会〜平和祈願慰霊大行 場合有)
54
毎月十五日発行 ( 1 1 9 7 )
い さ お 新 聞
(昭和二十五年八月十日
第 三 種 郵 便 物 認 可)
平成27年
2 月15日
(三)
今日、集団的自衛権 に 「 食 べ れ な い 」 と い う 我 万 が 一 の こ と が あ っ た ら
ついての資料をお配り し が 国 の 戦 後 と 一 緒 で す 。 私 た ち が 一 番 に 行 か な け
ているのは、この集団 的 そ う い う 国 々 へ の 援 助 ・ れ ば な り ま せ ん 」 と 言 わ
送り出した自衛官が、一
自衛権と安倍総理が提 唱 支 援 は 我 が 国 の 平 和 と 安 れ ま し た 。 P K O な ど で
しています積極的平和 主 全 に 直 結 し ま す 。
安倍総理は「戦争は決 体どこまでやっていいの
義について、一番心配 さ
れているのは遺族会の 皆 し て あ っ て は な ら な い 」 か と い う こ と が 法 律 で 全
様だと感じたからです。 と心から思われています。 く整理できていません。
遺族会の会合で、「二度 しかし、この私たちの倫 相手が撃ってきたら、或
と 戦 争 は し て は な ら な 理 観 が 通 じ な い 国 々 、 いは他の国が攻撃されて
い」という声を直接ご遺 人々がいることも事実で いる時、自分たちが反撃 する、皆女性です。私た
族からお聞きしました。 す。子供を産む権利が自 したらいいのか、或いは ちも日本の平和はどうあ
とがあっても無事に帰っ との問題は次世代に先送 う切にお願いしたい。戦
の時代に起きたことに政 方ご遺族の声は非常に重
てきてほしいというのが りしてはなりません。そ 争で肉親を失われた皆様
親心です。
6日
6日
日
昭和二十年一月十九日 フィリピン・ルソン島にて戦死 熊本県熊本市寺原町出身 二十五歳
陸軍中尉 相 良 安次郎 命 遺 書
母上様
平成二十七年二月行事表
平成二十七年三月行事表
赤磐市遺族連合会役員会(赤磐市山陽総合福祉C)
県連盟常任理事会(県連盟会議室)
7日 県連盟女性部研修会(岡山ロイヤルH)
日 逢沢一郎新春の集い(Hグランヴィア岡山)
日 日遺第6回理事会(靖國会館)
日 日遺事務局長会議(旧九段会館)
日遺政都道府県本部事務局長会議(旧九段会館)
県連盟監査会(県連盟事務所)
日 瀬戸内市遺族連合会女性部長会議(長船町内)
ール)
安次郎 日
3日 御創立記念日祭・崇敬会祭、世話人会(県護國神社)
統一地方選挙/岡山県議会並びに岡山市議会議員選挙告示
( 日投開票)
平成二十七年四月行事表
日 岡山市北遺族連合会護國神社参拝 研修会(いさお会館)
・
日 県連盟第4回評議員会(県連盟大会議室)
総社市昭和地区戦没者慰霊祭(県護國神社)
・
日 県連盟第5回理事会(県連盟大会議室)
日 岡山陸軍基地清掃(岡山市津高遺族会)
日 加賀郡吉備中央町遺族会護國神社参拝・研修会(県護國神社)
日 県連盟外国地域戦跡慰霊巡拝(パラオ諸島方面)四泊五日
岡山陸軍墓地春季彼岸祭(岡山市北区津高・岡山陸軍墓地)
日
青年部 の組織化に向けての日遺研修会
」
「
(東京都 アルカディア市ヶ谷)一泊
(原文のまま)
【平成二十七年二月靖國神社社頭掲示】
北方領土返還要求岡山県民大会(岡山市北区柳町・さん太ホ
遺族会の動き
「女性が輝く」という 治家が責任を取ることが いのです。
ことを安倍総理はずっと 重要です。その覚悟がな
言われていますが、海外 ければ政治家になっては
でもこのことを訴えて欲 いけません。「天皇陛下万
を通してやるべきだと思 は一人もいませんし、美
母上様 色々御世話になりました。
安次郎は名実共に日本一の野砲兵を率ゐ、赤鬼青鬼共を討ち平ら
げに征きます。
生を享けて一番重大であり、亦名誉ある小隊長として幾十人の兵
解決は重要ですが、将来 達と生命を倶にします。総反攻を叫ばれて待つこと暫し、常に冷
の日本をどうしていくの 静沈着事に当たる覚悟です。
かということの方が、よ 母上様を始め皆様方も十分御身体を御大切に相成り、御幸福に過
り重要です。皆様には戦 されん事を切望します。
争の悲惨さ、
平和の尊さ、 最後に直臣兄上、榮子姉上を始め皆様に安次郎の生前うけました
る御厚情に対し厚く御礼申し上げます。
では靖國で。
講演する阿部衆議院議員
そして、引っ越しがで 命の大切さを次世代に語
はどんな思いでおられる
のでしょうか。どんなこ きないお隣、中国・韓国 り継いでいただきますよ
そういう自衛官の母たち 考えなければなりません。
ら整理できていません。 してどう拘わっていくか
私も看護職という立場か 分にはない、女性を人と 助けていいのか、それす るべきか、また世界に対
ら、これまで命と直接 向
き合ってきました。患 者
の皆様は「家に帰りたい。
家族に会いたい」と切 実
に話されます。まして や
家族を残して戦場に赴 か
れた方々は、どんなに 辛
かったことでしょうか 。
この集団的自衛権と積 極
的平和主義について心 配
されるのはもっともな こ
して扱っていない国も多 しい。戦争が起きた時、 歳、靖國で会おう」と誓
せんが、一方で、今も 一 ら も 信 用 さ れ ま せ ん 。
自給自足で食べて行けま て顔を見せない国は誰か 繋がることであり、女性 の中で戦争を奨励する人
当しました。島国日本は 大切です。お金だけ出し の我が国の安全保障にも ません。私たち国会議員
題になっている中東を担 の発言力を強めることが 顔の見える援助は、将来 か、直視しなければなり
アフリカ、そして今、 問 と こ ろ に 人 を 送 り 、 日 本 で す 。 こ う い う 国 々 へ の す る こ と が で き な い の
政務次官を仰せつかり、 に、問題が発生している 害に遭うのは女性と子供 に、なぜ天皇陛下が参拝
外交問題は様々です。 くあります。そういう地 問題が起きた時、病気や い合って散華されたご英
議員になった当初、外 務 域 の 子 供 た ち の 教 育 と 共 貧 困 が あ る 時 に 一 番 に 被 霊 が 祀 ら れ る 靖 國 神 社
とであります。
平成26年度女性部研修会
自衛隊を訪問した際、 います。女性からの視点 しい戦争があるはずもあ
日一食しか食べられな い
国もあります。これらの 自衛官から「一番戦争に は非常に大切です。子供 りません。
過去に起こった問題の
日 岡山市津高遺族会総会(岡山市内)
日 岡山市瀬戸遺族連合会靖國神社団参(東京方面)一泊
日 都窪郡早島町戦没者追悼式(早島町中央公民館)
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講 演 要 旨
国々の子供たちは、正 に 反 対 な の は 私 た ち で す 。 を 産 む 、 育 て る 、 長 生 き
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阿部俊子衆議院議員
(四)
平成27年
2月15日
(昭和二十五年八月十日
第 三 種 郵 便 物 認 可)
い さ お 新 聞
毎月十五日発行
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