野 村組・野村工事時代 当 1869 〜 1971 年 (明治 2 〜昭和 46 年) 社の歴史は、1869(明治 2)年 10 月 1 日、初代野 村専太郎が野村組を創業し、土木工事請負人と してその第一歩を踏み出したときに始まる。 業祖、初代野村専太郎は 1850(嘉永 3)年 5 月、多摩 川沿いの稲田 (現在の川崎市多摩区宿河原付近) で生ま れ、幼少のころ、内藤新宿にほど近い角筈村に住む野 村安五郎の養子となり、ここで成育した。明治維新を 写真 2:淀橋浄水場築造工事 迎え、荒れ果てるにまかせる状態だった新宿界隈の武 家地跡には陸軍の施設や農業試験場(旧内藤氏屋敷 = 者の供給を行うとともに、その後の工場増築にあたっ 現在の新宿御苑) 、官営工場などが建設されていった。 ても下請けとして従事した。 初代専太郎は、こうした新しい時代の伊吹を肌で感 こうして初代専太郎は、とび職から山の手の実力あ じつつ、時代に即した家業への転換を模索。その結果、 る土木請負業者としての貫禄を十分に備えていき、 選んだのがとび職だった。合わせて、これからの土建 1908(明治41)年には甲州街道筋に、当時としてはモダ ブームの到来を見越し、建設労働者の確保にも乗り出 ンな 2 階建て洋館の社屋を新築した(写真 3)。 す。こうして野村組は新宿一帯を地盤に、1869(明治 2) 年 10 月 1 日、産声を上げる。 野村組を継いだ 2 代目専太郎は、 ゴム被覆電線の生産会社として発展過程にあった藤 近く成宗電車の軌 倉電線護謨合名会社(現藤倉電線株式会社)が、1890 道敷設工事が始ま (明治 23)年、千駄ヶ谷村の旧紀州徳川家の土地を買収 るとの話を聞き、 して工場を移転すると、ここに出入りして量産化を急 地元の有力土木請 ぐ同工場に建設労働者を供給した(写真 1)。 負業諸岡組を率い る諸岡勝太郎氏な ど 有 力 者 と 会っ て、工事請負の斡 旋を願った。その 結果、正式に指名 写真 3:野村組本社 を受け、トロッコなどの道具類や人夫を運び工事にあ 写真 1:藤倉電線所工場 たることになった(写真 4)。 明治20年代、野村組の発展につながる大きな転機が 訪れた。淀橋浄水場建設工事への参加だ。沈澄池の掘 削工事、掘削盛り土および引き込み口築造などを除く 工事は、すべて東京府の直営で進められ、初代専太郎 は主としてこの直営工事に連日多数の建設労働者を供 給した(写真 2)。 1902(明治35) 年、角筈十二社の地に設立された六桜 社(現コニカ株式会社)は代表的な大規模工場だった。 野村組は、建設初期からこの工場建設に携わって労働 写真 4:成宗電車軌道敷設工事 1 野 村組・野村工事時代 1869 〜 1971 年 (明治 2 〜昭和 46 年) 1910(明治 43) 年 6 月に着工したが、うち門前駅から 2 代目専太郎時代の大きな特徴は、鉄道建設分野に 成田駅間は、諸岡組の敷地を横切る都合から、諸岡組 おける野村組の基礎を確立したことだ。私鉄建設工事 が請け負った。途中、住民の反対を回避するため掘ら への本格進出を図るきっかけとなったのが、五島慶太 れた2本のトンネル工事を含め、1910(明治43)年12月 氏との出会いだった。 11日に開通の運びとなった。しかし、門前駅∼宗吾駅 五島氏は、武蔵電気鉄道株式会社(東京急行電鉄の 区間は、山を切り崩した土で田んぼを埋め、盛り土し 前々身)の常務だったころ、武蔵野鉄道(西武鉄道池袋 てその上に軌道を敷設する簡単な工事に思われたが、 線の前身)など他の電鉄会社に社員を出向させていた。 一夜にして盛り土した土が沈下して、他の田んぼが隆 その縁で、五島氏は武蔵水電株式会社の新宿乗り入れ 起するという現象が起こり、地固めをやり直すなど工 について、協力を依頼された。 事に手間がかかり、ようやく 1911(明治 44)年 1 月 7 日 開通にこぎつけた。 新宿∼荻窪間の鉄道は軌道が青梅街道の成子坂下ま で完成していたが、当初目標であった新宿乗り入れは さらに工事中の9月5日には、宗吾霊堂の境内を借り 地元の反対が強く、計画が中断状態だった。そこで五 て設けていた飯場の失火で、霊堂や門前町のほとんど 島氏は、地元の野村組に協力を要請。2 代目専太郎は の民家を焼失させてしまった。 宗吾霊堂の再建の際 五島氏の懇意に応じ、工事に着手する。 は、無料奉仕で境内を整地し、手洗い所や本堂再建費 地元の反対は予想以上に強く、工事は夜間作業の連 を寄進したほか、徳川家達氏に 「宗吾霊」 と揮毫しても 続となるなど工事中のトラブルをいくつも乗り越え、 らうなど、責任の償いを重ねた。 完成を間近に控えた1923(大正12)年9月、関東大震災 この間、京王電気軌道 (現京王帝都電鉄株式会社)の に遭遇。ひびの入った軌道を補修して引き渡した後、 軌道敷設工事への参加が実現した。野村組は西参道近 新宿駅乗り入れの際にも野村組が携わり、新宿駅前∼ くの天神橋から新宿追分(起点)までの約 1 キロメート 荻窪間の全線開通が実現した(写真 6・7)。 ルの軌道工事に従事。甲州街道と省線 (現JR線) が立体 交差する跨線橋(葵橋)と並行して木橋を架け、1915 (大正 4) 年 5 月開通の運びとなった(写真 5)。 写真 6:神田上水及妙正寺川流域図(1928〈昭和 3〉年) 写真 5:京王新宿追分終点(1923〈大正 12〉年) 2 代目専太郎は継続して工事量を確保する必要性を 感じ、1916(大正 5)年、東京府に指名参加願いを提出 した。審査に合格すると、東京府の指名入札工事を手 写真 7:武蔵水電新宿駅(1937〈昭和 12〉年) がけるようになった。 2 野 村組・野村工事時代 こうした野村組の誠意ある姿勢は、五島氏に高く評 1869 〜 1971 年 (明治 2 〜昭和 46 年) 部が現場員として施工にあたった(注 1。 価され、目黒蒲田電鉄 (現東京急行電鉄) の本社社屋建 当時の土木業は労務供給業的性格が強く、とび職か 築、など工事を次々に命ぜられるようになった。とり ら出発した野村組においても同様だった。それが大型 わけ 1925(大正 14)年から始まった東横線新設工事へ 土木や建築分野に本格的に進出するとともに建設業と の参加は、野村組の実力をいかんなく発揮する絶好の しての地歩も固まってくると、今後の事業規模の拡大 機会となった。 に伴う機械器具の整備、 企業の近代化という観点か 私鉄の新線軌道施工によって野村組の知名度は高ま ら、1939(昭和14) 年1月26日、株式会社野村組を設立 り、東京土木建築業組合が 1925(大正 14)年 7 月に 7 カ した。資本金は 15 万円。本店は淀橋区角筈 3 丁目 192 所の支部を設立した際、2代目専太郎は第3支部長に就 番地に置いた。 任した。 1937(昭和 12)年夏の日華事変後しばらくは戦争と 1928(昭和 3)年 1 月に 2 代目専太郎が急死すると、3 直結した工事が少なかったものの、1941(昭和16)年12 月に養子の春吉が 3 代目専太郎を襲名した。実兄の平 月に太平洋戦争に突入すると、軍関係の工事が増えて 山巳之吉は1926(大正15)年野村組に入社以来、重鎮と いった。 して活動、3 代目専太郎の経営を支えた。 3 代目専太郎は、野村組を率いて事業の拡大、飛躍 3代目専太郎は、2代目専太郎が晩年に請け負った甲 を図るかたわら、業界団体の要職について土木建築界 州街道拡幅工事を完成させたのに続き、青梅街道の淀 の発展に寄与するとともに、さらには政界にも進出す 橋の橋から塔の山までの道路改修工事を請け負った。 るなど公私にわたる幅広い活動を行った(注 2・3。 東京府発注の土木工事ではこのほか、渋谷川、神田川 などの河川改修工事を数期にわたって請け負った。 2 代目までの野村組は土木工事が主力で、建築工事 は木造の域を出なかったが、3 代目専太郎の代になっ た 1930(昭和 5)年、東京府付属庁舎の増築工事を落札 し、野村組として初の鉄骨鉄筋コンクリート造りの高 層建築を施工することとなった(写真 8)。 この庁舎は 1925(大正 14) 年大倉土木に よって 新 築 さ 設中の小原光学相模原工場の宿舎を仮事務所にあて て、そこで業務を継続し、8月15日に終戦を迎える(注4。 戦後の復興では駐留軍の施設と住宅の建設が始ま 注 1 平山巳之吉著『小狸の体験記』に、 工事の模様が次のように記されてい る。 「全員初めての工事でしたが、今後の経歴上にプラスとなり、不況を乗り 切るにも重要な仕事だと、 頑張ったものですが、 設計書にセメント鉄筋 等が多量に落ちていたために、 設計変更で多少増額して貰いましたが、 どうしても赤字になりました。 しかし、 この工事では、 組も私も大変な勉強になり、 これが契機とな って、 鉄筋コンクリート造りの建築工事に進出して、 現在(1970〈昭和 45〉年)の野村工事では年間の請負の過半数を建築工事が占める程にな った訳です。 注 2 1943(昭和 18) 年当時の本店事務所風景 「当時は社長(3代目野村専太郎)宅の敷地の一部に社屋があり、 1階が 車庫で2階が事務所になっていました。 広さは 15 坪で、 社長宅からは 物干台のような廊下で連なり、 社長はときどきそこから出入りしてい たように記憶しています。 まことに家庭的という言葉がぴったりした 状態であったと思います」 (三宅源弥の回顧談から) れ た も の で、 地下1階、地上 4階建てであっ た。 工事はそ 注 3 東横ニュース劇場建築後の 1938(昭和 13)年6月、 これを経営する東 横映画株式会社(東映株式会社の前身)が設立され、 社長には五島慶太 氏が就任、 黒川渉三氏が支配人となった。 劇場はその後、 五反田、 板 橋、 幡代、 成子坂、 川﨑、 横浜の各地に開設されたが、 第2次大戦末 期の強制疎開や戦災による消失でそのすべてを失ってしまった。 の一部を5階ま で増築 (300 坪) しようという 野村組社屋は1945(昭和20)年5月の空襲で焼失。建 写真 8:東京府付属庁舎増築工事(1930〈昭和 5〉年) もので、 串本 秀次を番頭に、平山巳之吉(のちの専務取締役)らの幹 注 4 小原光学株式会社から指名を受けるようになったいきさつは、 五島慶 太氏の紹介で、 東京横浜電鉄専務の篠原三千郎氏の推薦によるもので ある。 同氏は以前に、 小原光学と資本面でつながりがあった服部時計 店の取締役を務めたことがあり、 その関係で小原光学には縁があった。 3 野 村組・野村工事時代 1869 〜 1971 年 (明治 2 〜昭和 46 年) り、野村組を含め土木建築業界は駐留軍関係の特需に 資の拡大に合わせて民間建築の受注が大きく伸びると よって、いち早く活気を取り戻した。野村組は地元の ともに、大型の土木工事の受注も相次いだ。京王線併 新宿を中心に、復興のための建設工事に従事した。 用軌道移設工事 (京王帝都電鉄株式会社) 、伊東・下田間 駐留軍関係、復興建設の工事量が増すにつれて、施 鉄道建設工事 (伊東下田電気鉄道株式会社) 、小田急新 工能力のない不良・ 不適格業者の参入が相次ぐ中、 宿駅改良工事 (小田急電鉄株式会社)のほか、東海道新 1947(昭和22) 年、建設省の設立が決まった。業界にお 幹線の田園調布付近の路盤工事を完成させた(写真 10)。 いても同年、日本建設工業会が発足した。 野村組は規模の拡大を機に、10 月 15 日、角筈 1 丁目 13 番地高野ビル 3 階に本社を移転(写真 9)。11 月には資 小田急南新宿駅改良工事(1960〈昭和 35〉年) 写真 9:本社ビル (1958〈昭和 33〉年) 本金 400 万円に増資した。次いで、1948(昭和 23)年 7 月に商号を野村工事株式会社に変更した(注 5。 1948(昭和 23)年に全国建設業協会が設立されると、 野村社長は東京建設業協会の理事に就任し、 さらに 1949(昭和 24)年 1 月に行われた戦後初の衆議院選挙 に、建設業界の推薦を受け立候補して当選を果たす。 そのため、平山巳之吉専務が会社運営の柱となった。 この年、建設業法が施行され、10月18日、建設大臣登 写真 10:市ヶ尾隧道開通式(1965〈昭和 40〉年) 録 (195号) 業者として、工事を行っていくこととなる。 新生野村工事がスタートした当初は順風満帆とはい かなかったほか、社長の国政参加によって、利益面で あまり期待できない政策がらみの請負工事も増えてい った。1950(昭和25)年に警察予備隊 (自衛隊の前々身) 庁舎の建設工事も利益を出すには至らず、野村工事の 経営は出発後 3 年にして早くもピンチに見舞われた。 給料の支払いに四苦八苦の状態で、社員の定着率も極 端に悪くなるなど試練が続いた。 そんな逆風も、朝鮮戦争動乱を機に好転する。完成 工事高は急速に増加し、1955(昭和 30)年には 5 億円を 突破。1959(昭和 34)年には 10 億円台に乗る。建設投 注 5 *社名変更のいきさつ(1960〈昭和 35〉年 11 月2日の座談会《於・福住 荘》記事から) 「会社が会社らしく民主化するには、 私の考えでは 野村(3代目専太郎) 『野村』という名称にこだわらなくてもよいと思ったんですが、清水、鹿 島にしろ、 土建業は個人としての歴史が積み重なって近代的な産業に 発展してきたわけで、 この商売はほかの産業と違うところがあるんで すよ。 それにアメリカ軍が進駐してからは、 どこの会社も『建設』という名 前に変え、 テキヤに至るまでが『建設』という名前にしてしまった。 その頃、 専務(平山)が『工事』という名はどうかというので『建設』よ り『工事』のほうが素直で、『工事』はおとなしい上に幅が広いし、 他に 真似するものがないと思ったからこれにきめたわけで、 これがよかっ たと思っている。」 平山「あれはね、 アメリカが進駐してからボス的存在を壊滅するという 政策をとっていたので、 建設会社が『組』という名を『建設』に改めだし たところ、 暴力団やテキヤも同じく組といっていたのを、 これに便乗 して『建設』という名を使いだした。 そこで『建設』とするとそれとまぎれやすいし、 建設業の本来の思想 としてエンジニヤの会社でなければならないと思って、 社長に進言し てこの名称にしてもらった」 4 野 村組・野村工事時代 30年代は大手ゼネコンが続々と株式を公開した。当 1869 〜 1971 年 (明治 2 〜昭和 46 年) 工事の大型化に合わせ、親密な関係にあった丸紅株 社の場合も、1962(昭和37)年1月、資本金を1億2,000 式会社が丸紅鉄鋼建材リース株式会社を設立する際、 万円とした後、11 月 7 日、東京証券取引所市場第 2 部 技術・工場管理面で協力する。 に上場を果たした。 業容の拡大に伴って本社機構の整備を進めたほか、 昭和40年代は不況の幕開けとなり、建設会社の倒産 1964(昭和39)年には安全協力会を発足させる。社内規 も相次いだ。好況時代にも無理な伸長政策をとらなか 則を整備したほか、福利厚生面では1969(昭和44)年12 ったため、驚異的な進展を遂げなかった代わりに、不 月持ち家融資制度の創設、1970(昭和 45) 年 2 月社員持 況時代に直面しても悪影響は少なかった。 ち株会の発足など、制度面での充実を図った。 その間、新たな飛躍への基盤固めに注力し、そこで 1969(昭和44) 年1月26日、創立30周年を迎えた。野 蓄積した力が三菱銀行新宿支店新築、新宿副都心関連 村専太郎社長の年頭あいさつで新社屋建設構想が明ら の新宿駅西口広場および駐車場建設、新宿区役所庁舎 かにされ、 同月本社ビル建設委員会が発足。10 月 15 新築という地元 3 大工事(写真 11)のほか、中央高速道路 日、現在地の新宿区西新宿 4 丁目 32 番地において地鎮 元八王子工事、東電保土ヶ谷・印西土地造成工事など 祭が行われた。こうして、野村工事の歴史は新しい時 の大型工事の受注に結びつく。 代に入っていく。 写真11:新宿西口広場建設工事(1966 〈昭和 41〉年) 都市内の上下水道やガス管などの埋設は当時、開削 工法が一般的だったが、交通事情の悪化や労務費の高 騰などの背景から、シールド工法に対する関心が高ま った。当社も1966(昭和 41)年8 月以来、技術研究室が 中心になってシールド工法の実験研究を続け、1967 (昭和 42) 年 7 月末、所期の目的を達成。1968(昭和 43) 年 6 月、東京電力から受注した西部新宿線新設工事で 実用化された(写真 12)。 写真 12:西部新宿線新設工事(1968〈昭和 43〉年) 5 小 田急建設時代 19 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 68(昭和 43)年ころから始まった民間の大型設 用するプレハブ住宅の建設に乗り出した。1970(昭和 備投資の勢いは、建設業を高度成長の波に乗せ 45)年 1 月に た。しかし、業界の中位にとどまり、経営を安定的に 同社と業務提 持続発展させるためには、業界ランクを50位以内に高 携するととも める必要があった。野村専太郎社長は、新宿駅西口広 に、神奈川県 場や地下駐車場の工事請負を通じて関係が緊密になっ 愛甲郡愛川町 た小田急電鉄の安藤 に PC(プレキ 六会長に、業務提携について話 し合いを申し入れた。 ャストコンク 当時、小田急電鉄株式会社を中心とする小田急グル リート板組立 ープは不動産専門会社としての小田急不動産があった 工法)の生産 が、建設部門を担当する部署はなかった。小田急電鉄 工場を建設 株式会社は鉄道をはじめ各分野で大規模な建設事業を し、1973( 昭 計画している最中だったことから、提携に関する話し 和 48)年 11 月 合いは一気に具体化した。1970(昭和45) 年春から資本 に生産を開始 関係の話し合いが始まり、同年 8 月 29 日付で野村工事 した(写真 2)。 写真 1:小田急建設本社ビル の役員として、河井大治郎(小田急不動産株式会社専 務) が副社長に、鷲崎彦三 (株式会社小田急百貨店取締 役)が常務に、柴田元良(小田急電鉄株式会社副社長) が取締役にそれぞれ就任し、両社の業務提携はいっそ う強化された。 小田急電鉄株式会社は当時、多摩新線の建設や海老 名車両基地建設計画など、輸送力の強化に積極的に取 り組んでいた。当社への発注が増えることが期待され たため、小田急電鉄株式会社工務部の指導を得ながら 下請け業者の施工管理体制、技術の向上、列車事故防 止、労働災害防止といった教育指導を推進した。 小田急電鉄株式会社からの受注が増加する一方で、 写真 2:プレハブ神奈川工場 従来の単なる請負業から脱却し、企画・設計・施工 を行うターンキー方式や、さらには土地売買から一貫 新宿区西新宿 4 丁目に建設を進めていた新本社社屋が して自社で開発するデベロッパー方式を目指す動き 1971(昭和 46) 年 3 月に完成した(写真 1)。 が、建設業界各社の間で活発化していく中、当社も全 1971(昭和46) 年11月1日、小田急電鉄株式会社への 国規模での需要開発につなげるため土地開発事業に乗 第三者割り当て増資による新株式発行を行い、社名を り出した。ちょうど、田中内閣の掲げる列島改造構想 小田急建設株式会社と変更し、名実共に小田急グルー のころであり、当社は練馬区関町、沖縄県大里村、福 プの一員として、新たなスタートを切った。 岡市東区などで用地を取得していった。 1967(昭和42) 年に初めて年間100万戸を突破した新 その一つ、沖縄県大里村での大規模宅地開発は、当 設住宅着工戸数は年々増加していた。この旺盛な住宅 社が初めて沖縄進出を果たした事業となった。1973 需要に対応するため、主要得意先の一つである旭化成 (昭和 48)年 9 月に土地売買契約が成立すると、翌 1974 工業株式会社の軽量コンクリート板 「ヘーベル板」を使 (昭和 49)年 2 月に「大里グリーンタウン」の第 1 期工事 6 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) が起工した。第 1 期工事では住宅用地 600 区画、開発 融の引き締め策によって、建設業の手持ち工事量は低 総面積が 16 万 7,000m2 と、当時の沖縄県内の民間では 下。中小建設業の中には資金繰りの悪化で倒産に追い 最大級の事業となった。 込まれるケースも目立った。 小田急電鉄の輸送力増強投資に伴って、当社の活躍 1975(昭和 50)年 8 月 29 日に開催された第 37 回定時 の場も広がった。新原田町駅の改良、海老名電車基地 株主総会後の取締役会で、河井大治郎副社長が第 4 代 新設、地下鉄 9 号線乗り入れに伴う改良工事、新宿駅 社長に就任した。 野村専太郎社長は取締役会長とな 改良など鉄道関連の大型土木工事が集中。1970(昭和 り、オーナー経営は終止符を打った。河井社長は、全 45)年には小田急多摩線の建設工事が本格的に始まっ 社員営業マンという考え方を提示し、新規得意先の開 た(写真 3)。 拓に全力をあげることとなった。 1976(昭和51)年9月29日に開かれた株主総会で、決 算期を 6 月から 3 月に変更した。 1977(昭和 52)年 3 月、小田急建設労働組合が結成さ れ、労使関係の近代化に踏み出した。同組合は結成当 初から小田急労連に加盟し、1983(昭和58) 年には日本 建設産業職員労働組合協議会(日建協)にも加わった。 写真 3:小田急多摩線建設工事起工式(1970〈昭和 45〉年) 労使関係はきわめて良好で、1977(昭和 52)年 10 月に 労使共催の第 1 回運動会が開かれ、以後、毎年恒例の 多摩線の建設に伴って、沿線の多摩丘陵地帯での住 宅建設は必至だった。 行事として続けられている。 総需要抑制政策のもと、建設投資も伸び悩み、大手 多くの不動産会社がそれぞれ宅地造成を行う無秩序 建設会社の受注競争は激化した。民間設備投資が低迷 な市街地が形成される恐れがある。そこで、小田急電 する中、 当社は小田急グループのバックアップのも 鉄株式会社では地元土地所有者と共同歩調をとり、組 と、数多くの建設工事を受注した(写真 4・5・6・7)。その 合施行の土地区画整理事業によって、理想的な街づく うちの一つが、小田急電鉄が第一生命とともに取得し りを具体化していった。計画区域は新百合ヶ丘駅周辺 た新宿新都心7号地の開発計画だ(写真8)。小田急がホテ から黒川駅付近に至る約 297 万 m2 で、8 つのブロック ル、第一生命がオフィスを建設する計画で、ホテル棟 に分けて組合施行の土地区画整理事業を実施。当社は の建設を共同企業体(JV)で受注した。100mを超える高 全ブロックの造成工事を手がける。 層ビルの施工に参加するのは、当社にとって初めてと こうした小田急電鉄関係工事による売上高の増加 なった。 で、経営基盤も強固になった。小田急電鉄グループ各 社との資本関係もさらに深め、1972(昭和 47)年 12 月 には資本金が 10 億 8,600 万円となった。その約 1 年後 の1973(昭和48)年11月1日、待望の東京証券取引所市 場第 1 部銘柄に指定替えとなり、一流建設業者として の地位を確立した。 1973(昭和48)年10月の第4次中東戦争に端を発した オイルショックは、高度成長を遂げていたわが国経済 に大きな打撃を与えた。政府による総需要抑制策と金 写真 4:東北新幹線川俣 BL 工事(1977〈昭和 52〉年) 7 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) に就任した。 第 2 次オイルショックは日本経済に大きな影響を与 えないと見られていたが、1980(昭和55) 年を境に再び 不況に陥った。公共投資は7年連続で減少し、民間建設 需要を巡る受注競争が激化していった。生き残りを図 るため、各社は技術開発やQC活動の推進による競争力 写真 5:上越新幹線大原北 BL 工事(1977〈昭和 52〉年) の強化、経営の効率化に全力を傾けるようになった。 技術開発の成果の一つが、シールド工法の裏込注入 (注 1 工法の一つ、 「OBF 工法」だ(写真 9) 。これまでは掘削 が困難とされてきた滞水砂礫層などでもシールドトン ネル工事が行われるようになったため、地下水下でも 分離・流出しない裏込め注入材が求められていた。 建築部門では、高層集合住宅の建築に関する新工法 写真 6:関越自動車道魚野川橋りょう工事(1978〈昭和 53〉年) の開発プロジェクトが進行していた。低コストでオリ ジナリティのある工法を 1 年間で開発するという目標 を設定すると、建設省建築研究所の指導・協力のもと、 5 カ月間で当初目標にほぼ合致したプロトタイプが出 来上がった。柱以外のすべての部材を生産工場で製造 しておき、スケジュールに合わせてシステマティック に組み立てる 「OHPR工法」 だ(写真10)。耐震性、経済性に 優れるだけでなく、ジョイント方式の改善によって従 来あった漏水事故が完全に防止されるようになった。 写真 9:OBF 工法 写真 7:千川通り管路新設工事(1979〈昭和 54〉年) 写真 10:OHPR 工法 写真 8:新宿新都心 7 号地建設工事(JV) (1978〈昭和 53〉年) 1980(昭和 55)年 3 月 20 日に河井社長が急逝すると、 翌 21 日開催の取締役会で柴田元良取締役が第 5 代社長 注 1 OBF 工法:裏込材として特殊セメントおよび骨材(スラグなど)にシリ カゾルを使用しているのが特徴で、 これにより形成されたシリカクリ ートに、 B剤として可塑性添加剤を加え、 同時に開発した比例ミキシン グ装置で混合させると5秒以内にゲル化し、地下水のなかでも希釈され ることがなく、 完全に充填できるという画期的な工法である。 8 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 昭和50年代を通じて開発、蓄積されていった当社の 技術、総合力は、1983(昭和 58)年 2 月から始まった新 宿駅南口 D ビル建設工事において、大きく花開いた(写 。このプロジェクトは、ビル本体、小田急百貨店 真 11) へ連絡する人工地盤、駐車施設の3つの工事から成り、 すべてが小田急線の軌道上に構築されるというものだ った。さらに新宿駅構内で国鉄線 (現JR) と隣接してい るという厳しい施工条件に加え、工期は19カ月に設定 されていた。技術の粋を集めた施工が進められ、予定 写真 13:狩川橋梁改築工事(JV)(1986〈昭和 61〉年) 通り 1984(昭和 59)年 9 月 25 日無事完成し、10 月に「新 宿ミロード」 として開業した(写真 12)。 写真 14:狩川橋梁改築工事(1986〈昭和 61〉年) 小田急多摩線沿線の土地造成工事はオイルショック の影響で一時中断した工事もあったが、1983(昭和58) 年11月には鶴川第二土地の造成がスタートした。開発 面積は 15 万 6,000m2 に及び、竣工後は小田急分譲地と して新しい街づくりが行われている(写真 15)。 写真 11:新宿駅南口Dビル建設工事(JV)(1983〈昭和 58〉年) 写真 15:鶴川第二土地宅地造成工事(昭和 61 年) 昭和 60 年代に入ると、建設需要が再び増加に転じ、 業界各社の業績は回復していった。関西国際空港や東 写真 12:新宿駅南口Dビル建設工事(JV)(1984〈昭和 59〉年) 小田急電鉄関係は橋梁の大型工事が多く、JV五反田 京湾横断道路、東京臨海部再開発構想など、大規模公 共事業を含めた空前の建設ブームの到来だ。ただ、急 川橋梁改良、参宮橋改築、JV 狩川橋梁改築、鶴見川架 激な事業量の拡大は技能労働者の不足を深刻化させ、 け替え、JV 境川橋架け替えなどの工事を受注、施工し わが国建設業が誇るべき品質や工期厳守の特色が損な た。このうち、狩川橋梁改築工事は、仮線を設けない われそうになる一面もあった。 活線工法を採用して橋梁の架け替えを行った。1986(昭 1987(昭和62) 年6月26日の定時株主総会後の取締役 和61) 年4月12日夜半から13日の朝方にかけて行われ、 会で、小田急電鉄取締役の小出寿太郎が第 6 代社長に 全長 98m のトラス橋の設置が無事完了した(写真 13・14)。 就任した。柴田元良社長は会長に退いた。小出社長は 9 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 社員に対して、 「信用第一を全社的な信条としてほし 搬出方法の改善に加え、推進口径を可変型(0.8 ∼ 1.2m い」 と求めた。 まで対応)とし、小口径トンネルの建設ニーズにこた 平成に入ると、3V 運動(Vision、Vitality、Victory)を 通じて、将来に対応した業務の革新、改善に取り組み、 えている。1 号機は 1988(昭和 63) 「年 6 月、JV 新宿 2 丁 目管路作業所に搬入され、掘削を開始した。 計画の目標と課題をやり遂げ、明るく活力に満ちた新 時代の小田急建設として、引き続き業界のしかるべき 地位に躍進することを目指した。 経営改善の取り組みが奏功したのに加え、将来的な 経営の安定化を目指して、所有遊休地を有効活用する 写真 17:土圧式曲線推進用シールド機構造図 ため賃貸ビル事業に乗り出した。1986(昭和61)年に販 売用不動産として取得していた大阪市西区の土地を、 事業用不動産に変更し、賃貸ビル「小田急大阪阿波座 ビル (仮称) 」 を建設することにした(写真16)。1989(平成 元) 年 1 月 31 日に起工式を行い、工事を開始した。 都市部では需 要の多い小口径 管 (800 ∼1,200mm) 当時のトンネル工事の代表例(ナラサストンネル建設工事:1987〈昭和 62〉年) の埋設工事は従 来、道路を地上 時代が昭和から平成に移行する中で、金融の引き締 から掘削する開 めや消費税の導入など経済環境は大きく変化する。そ 削方法が用いら の波は当社にとっても無縁ではなかった。当社は1989 れていたが、交 (平成元)年 6 月に設備部門を分離し、小田急設備株式 通量の増加や市 会社を設立した。経営を安定化させるため、小田急阿 街地の密集化等 波座ビル(大阪市)を賃貸ビル事業としてスタートさせ にともない、開 る。翌 1990(平成 2)年には神奈川県海老名市に海老名 削工法からトン 賃貸倉庫の新設に着手した(写真 19)。その後、第 3 弾と ネル工法への転 換が進んだ。こ 写真 16:小田急大阪阿波座ビルパース (1989〈平成元〉 年) して「等々力 6 丁目複合店舗」を小田急百貨店と共同で 購入した土地に建設している。 のトンネルの施工についても、開削工法や推進工法が 主流であったが、推進工法の場合、小口径管を推すに は 60 ∼ 80m を超えると安全面および施工に問題が生 ずるという難点があった。 当社はこれを技術的に解決するため、土木本部関東 統括事務所のタスクチームが中心となって検討をすす め、1987(昭和 62)年 11 月、土圧式曲線推進用シール ド機を開発した(写真17)。このシールド機はさまざまな 土質への適応性を備え、曲線施工性の向上、掘削残土 写真 19:海老名賃貸倉庫(1992〈平成 4〉年) 10 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 1989(平成元) 年9月、小出寿太郎社長が急死すると、 鷲崎彦三取締役が社長に就任した。その後、1993(平 成5) 年6月から山﨑文雄社長、1997(平成9)年6月から 吉岡順三社長、1999(平成11)年6月から菊池幸一社長、 2002(平成14) 年6月から石原道勝社長、2005(平成17) 年 6 月から雪竹正英社長と、経営トップは交代。バブ ル崩壊後の 「建設業冬の時代」 のかじ取りを託した。 この時期、多摩沿線の開発は凄まじく、多摩市唐木 写真 23:小田急アコルデ新百合ヶ丘(1992〈平成 4〉年) 田に収容車両 176 両の小田急唐木田車庫を竣工させる 1990(平成 2)年から工事が進められていた小田急喜 とともに(写真20)、プリメール栗平(写真21)や昭和音楽芸 多見電車基地建設工事も竣工した。喜多見基地は小田 術学院(写真22)、小田急アコルデ新百合ヶ丘(写真23)など 急線の複々線化工事の進 を完成させている。 わるものとして建設されたもので、12 本の留置線 3 本 に伴い経堂の電車基地に代 の引上げ線のほか合計24本の線路が敷設され、一度に 120 両の電車が留置できた(写真 24)。 写真 20:小田急唐木田車庫(1994〈平成 6〉年) 写真 24:小田急喜多見電車基地(1992〈平成 4〉年) 昭和 40 年代からの小田急線多摩沿線の造成工事のう ちの代表的なプロジェクトに「栗木マイコン造成工事」 がある。11 年 8 カ月という長期にわたった工事は 31 名 写真 21:プリメール栗平(1994〈平成 6〉年) の技術者、6名の事務員が携わり、無災害記録は75万時 間にも及んだ。これだけの街づくりという事業を立派 に成し遂げたことは小田急建設史に残るものであった。 高速道路関係の大型工事では、旧日本道路公団が東 名高速道路厚木∼御殿場間を 3 車線化することとな り、当社は新川音川橋(下部工)JVを担当した小田急電 鉄の線路を遥か上空で横断する工事で、この橋脚を受 ける基礎をオープンケーソンとニューマチックケーソ 写真 22:昭和音楽芸術学院(1992〈平成 4〉年) ンで施工するという難工事だった(写真 25)。 11 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 写真 25:東名新川音川橋(2002〈平成 14〉年) 写真 26:小田急サザンタワー・新宿サザンテラス (1997〈平成 9〉年) 1994(平成 6)年 10 月 28 日、小田急建設 OB による小 田急建設建友会も設立された。会長は江端恒太郎氏、 環七地下調整池は神田川中流域で誘発する洪水を一 副会長に浅野真一氏、幹事にその他9名が選出された。 時的に貯留する施設で、周辺地域の浸水被害軽減に大 1995(平成 7)年 1 月 17 日明け方、兵庫県を中心に死 きく貢献している。当社は、その第二期事業の「善福寺 者 5,000 人を超える阪神・淡路大震災が発生した。当 川取水施設工事(その4)」として、立坑までの取水口お 社の被害は小田急阿波座ビルの外壁タイルの剥離程度 よび導水路を施工した(写真 27)。 でそのほかに大きな被害は無かったが、残念なことに 社員のご家族 1 名に犠牲者が出ていた。当社は青島實 常務取締役を本部長とする「兵庫県南部地震災害復旧 支援本部」を設置し、1 月 23 日から 26 日まで、尾澤幸 三取締役同本部副本部長ほか 3 名を送り込み、当社施 工物件の調査を行い支店業務の支援を行った。 大型公共工事への一般競争入札の導入など、工事の 発注方式が着々と変化し始めていた。 建設省により ISO 9000 シリーズの説明会が行われ、公共工事の入札 工事の一条件に加わると予想されたためと、建設省が パイロット工事を試行するため、当社としても早急に 認証取得に向けた取り組みを始めた。 写真 27:善福寺川取水施設(2003〈平成 15〉年) 地球温暖化の防止など、建設業にも一層の環境配慮 1998(平成10)年ころ、東名高速道路の在来線の保守 を求める社会的要請が強まり、当社でもハイブリット 工事「酒匂川橋(下部工)補強工事」を施工した。橋脚 8 カーを社有車として購入し、官公庁への営業に対し、 本に炭素繊維シートを巻くという工事であり、当時と 環境配慮への意思を明確に表示した。 しては施工実績の少ない難工事だった(写真 28)。 1997(平成9) 年2月、新宿南口のミロードから小田急サ 新東名高速で請け負ったひとつに静岡 SA ∼藤枝岡 ザンタワーなどが立ち並ぶ地区へ連結する 「新宿南口甲 部 IC 間にある藁科川の橋梁工事として「JV 藁科川橋梁 州街道横断橋」 工事が行われた。橋長58m、幅4m、総重量 下部工事」がある(写真 29)。この下部部分は栓抜き形状 160tという巨大なメタル橋を国道20号線 (甲州街道) に架 をしており、栓抜き外枠の上層部は新東名高速道路の け渡す模様は、朝のNHKテレビでも放映された(写真26)。 桁が載り、栓抜き内側部分の底盤部分には市道の桁が 12 小 田急建設時代 1971 〜 2008 年 (昭和 46 〜平成 20 年) 載るという変則的なものだった。この二層構造は2003 (平成 15) 年に土木学会田中賞を受賞している。 写真 28:東名高速道路、酒匂川橋(下部工)補強(1998〈平成 10〉年) 月には前年度を対象期間とした第 1 回環境報告書を発 行した。2010年からはCSR活動の実績も加えたCSRレ 写真 30:新交通日暮里・舎人線車両基地整備事業のうち構築(2005〈平成 17〉年) ポートとして発行している。 予てより業界の談合問題が社会を賑わし、当社も多 摩都市新都市公社、東京都水道局でこの混乱に巻き込 まれていた。業界としても長く独占禁止法遵守に向け た取り組みが行われてきたが、平成17年末、スーパー ゼネコン 4 社(大成・鹿島・大林・清水)による談合決 別宣言が発表された。年明け 2006(平成 18)年 1 月 4 日 には早くもこの排除宣言が実行に移され、当社を含む 業界各社において談合に関係する部署の廃止並びに人 員の一斉配置転換が行われた。 写真 29:東名高速道、藁科川橋梁下部工事(1998〈平成 10〉年) 日本海東北自動車道の新設事業の一環で、秋田県の 由利本庄市で道路の新設を行った。軟弱地盤の上に盛 土を行う工事で、地盤の挙動を見ながら時間をかけて 施工するという工程の厳しい工事であった。 また、2001(平成 13)年、PC 事業に見切りがつけら れ、PC 工場が閉鎖された。 東京都は 2008(平成 20)年、日暮里・舎人ライナー (にっぽり・とねりライナー)を開業させた。当社は車 両基地の一部の受注と共に、新交通日暮里・舎人車両 基地整備事業のうち構築部分(B 工区)を完成させてい る(写真 30)。 2003(平成 15)年 10 月には、財団法人日本品質保証 機構 (JQA) からISO 14001の認証を全社一括で取得。11 13 大 和小田急建設時代 20 07(平成 19)年 12 月に大和ハウス工業株式会社、 小田急電鉄株式会社、当社の 3 社が資本業務提 2008 〜 2015 年 (平成 20 〜 27 年) 2011(平成23) 年3月11日午後2時46分頃、東北地方 太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。2 万人近くの死 携について合意した。翌 2008(平成20)年 6 月、その合 者・行方不明者が出た戦後最悪の自然災害となった。 意に基づいて、雪竹正英社長が退任し、新社長に大和 当社はBCP(事業継続計画)に則り、従業員の安否確認 ハウス工業株式会社出身の髙村義明氏が就任した。 をするとともに、建物の安全判定を実施。翌12日には 髙村義明社長は新幹線経営理論を掲げ、全員が同じ 東北支店の状況確認や交通情報を収集し、14日には国 方向に向かって全力で走るよう訓示した。一方、ケン の計画停電に参画したほか、国土交通省からの災害対 キー工業株式会社は大和ハウス工業株式会社と小田急 応要請にも応じた。髙村義明社長のメッセージも発信 電鉄株式会社の資本業務提携と小田急グループの鉄道 され、15 日には復旧方針・計画の検討、東北支店への メンテナンス事業再編により、4月1日から大和ハウス 支援体制が検討された。この他、大和ハウスグループ グループとして新たなスタートをし、当社も 10 月 1 日 全体で支援物資の発送、義援金の募集・送金、節電へ に大和小田急建設株式会社に社名を変更した。 の取り組みが行われた。 大和ハウスグループの傘下に入って間もなく、DO PROJECT(ドゥー・プロジェクト) がスタートした。こ れは企画提案型の賃貸マンションの名称で、当社の新 2012(平成 24 年)年 4 月 1 日、金久保篤司取締役専務 執行役員が社長に就任した。 野村組・野村工事・小田急建設時代の功績は現在の 主力商品とすべく大和の頭文字 D、小田急建設の O を 営 業 に も 役立 合体させたものである。 っている。 当 施工においても、建築部門が大和ハウス工業株式会 社 が 1973( 昭 社のプレミストマンションシリーズを手掛ける(写真 1) 和 48)年 に 建 ほか、 竜ケ崎工場や奈良工場の建屋更新工事をはじ 設した「戸山ハ め、福島支社新築工事など徐々に拡大させ、大和ハウ イツ」の大規模 スグループの関連施設工事を担うようになった。 ま 改 修 工 事 の受 た、土木部門はつくば研究学園 C 街区造成工事や北摂 注 に 成 功 して 三田第 2 テクノ造成工事などの大規模造成工事を施工 いるからだ(写 するといった発展を見せる。さらに、次第に大和ハウ 。 真 2) スグループ各企業との関係構築による事業拡大も行わ また、 ホテ れ、ダイワロイヤル株式会社などとの賃貸ホテル事業 ル セ ン チュリ にも繋がることとなる。 ーハイアット(当時)の空調・給排水設備更新工事は開 写真 2:戸山町一般分譲住宅(2009〈平成 21〉年) 業から 24 年経ったハイアットリージェンシー東京の 施 設 機 器 配管 の 老 朽 化 によ る 改 修 工 事を 受注し、5年に わ た る 長 い補 修 工 事 が 行わ れた(写真3)。ホ テ ル 側 の 重要 写真 1:プレミストあすと長町(2014〈平成 26〉年) 写真3:ハイアットリージェンシー東京 (2010〈平成22〉 年) 14 大 和小田急建設時代 2008 〜 2015 年 (平成 20 〜 27 年) な要望として、補修工事中の稼働率を低下させないこ 人の不足などが社会問題化されており、抜本的な解決 と、並びに騒音、振動、埃などの影響を与えることの 策が必要とされている。そのような中、大和ハウスグ 無いようにという制約も見事に厳守され、5 年間クレ ループは、現場で働く職人の重作業負荷を低減し、高 ーム、トラブルが無いという信頼性の高い施工を行っ い技術を持つ高齢の職人が長く働き続けられる現場環 た。 境の整備を検討してきた。そして、職人が作業を行う 千葉県成田市の 「成宗電車第一、第二トンネル」が土 際、腰部にかかる負荷を軽減でき、腰痛などの身体に 木学会の選奨土木遺産に認定された(写真 4)。このトン 係るリスクも軽減できる「ロボットスーツ HAL 作業 ネルは 100 年を超える伝統のある鉄道トンネルだが、 支援用(腰タイプ)」 (写真 5)を建設現場や工場等に導入 現在は市道として当時のままのレンガ造りで保存・利 し、労働環境の改善と職人不足の解消に向け試験的に 用されている。2015(平成27)年6月13日に、トンネル 取り組みを開始した。当社は「海老名駅間地区基盤整 前で記念式典が開かれ、入り口に取り付けられた「土 備工事」 (土木工事)において、実証運用による各種デ 木学会選奨土木遺産」という銘板と、歴史を説明した ーター収集の協力を行なっている。 案内板が披露された。施工した当社には、小泉一成市 長から感謝状が授与された。 写真5:ロボットスーツHAL®作業支援用 (腰タイプ) 写真 4:成宗第二トンネル (土木学会提供) 高齢化はわが国の重大な社会問題である。小田急電 鉄株式会社は、高齢者が安心して過ごせる住まいを提 供する事業に新規参入し、サービス付高齢者向け住宅 (以下:「サ高住」という)を、成城を皮切りに展開し始 めた。 当社もこれに対応すべく、大和ハウス工業の住宅の 創立77 周年を迎えて 当社は、1939(昭和 14) 年 1 月より、前身の株式会社 野村組が生業をはじめ今年で 77 周年を迎える。 さらに、その源流を ると1869(明治2)年10月の創 業以来、146 年の歴史を重ねる。その間、野村工事株 式会社、小田急建設株式会社、大和小田急建設株式会 社と名称こそ変えたが、長い歴史に培われた精神は、 強みと、140 年という長きにわたって培ってきた当社 伝統となって、時代、時代に受け継がれてきた。当社 の技術力の結集をもって企画提案を積極的に行った結 のあゆみを振り返ると、そのあゆみは決して容易なも 果、成城サ高住を皮切りに経堂、新百合ヶ丘、藤沢と のではなく、幾度となく経営者、従業員が一致団結し 立て続けに受注を獲得した。2014(平成 26)年には成 て事に当たり、難関を乗り切ってきたことがわかる。 城、経堂を竣工させ、2015(平成27) 年は新百合ヶ丘と この度、経営統合という当社の節目に当たり、今われ 藤沢に着手する予定である。 われはこの伝統と精神を奮い立たせ、一致団結して事 高齢化の問題は、建設現場でも避けて通れない。職 にあたらねばならないと思う。 ※当社に在籍した者は、 敬称略とした。 15
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