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【琉球大学法文学部人間科学科紀要. 人間科学】
【Human science. Bulletin of the Faculty of Law and Letters, University of
the Ryukyus, Department of Human Sciences】
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北魏孝文帝代の尚書省と洛陽遷都(4) : 宗室元氏の尚書
省官への任官状況に焦点を当てて
長部, 悦弘
人間科学 = Human Science(32): 9-31
2015-03
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/31494
北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都 (4)
一宗室元氏の尚書省官への任官状況に焦点を当ててー
長部悦弘
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北貌孝文帝代は、北貌史上国家体制の一大転換点とみなすことができょう。
476年に始まる文明太后橋氏の臨朝聴政下では、 484年に班禄制を立て、
485年に均団法を頒布し、 486年に三長制を敷いた。 490年の文明太
后橋氏の亡き後、孝文帝親政下で 491年に第 1次
、 499年に第 2次官制
改革を各々遂行し、 493年には洛陽遷都を敢行し、 496年は姓族詳定を
推進した。なかでも 493年の平城から洛陽への遷都は、北貌史上領域支配
体制の中心たる王都を『農業一遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一
大事業であったと言える。
孝文帝が国家体制の中枢機関の 1であった尚書省を最重視して、自身の手
により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。
小論では、洛陽遷都前後の尚書省の人事配置を考察する前提として、同時期
に教帝が敢行した行事・親征行を確認した。
キーワード:北貌孝文帝尚書省平城洛陽遷都
9-
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号
2
0
1
5年 3月
目次
序
第 1章孝文帝の尚書省重視
蝶 (471-476)
第 2章孝文帝代前期献文帝と文明太后の車L
第 3章文明太后による献文帝の寵臣粛清 (476-479) (1)
第 4章文明太后臨朝聴政体制の確立一文明太后集団の成立
第 5章孝文帝集団の成立
第 1節文明太后集団の継承と構成員に対する処遇
第 2節孝文帝集団の独自構成員
第 3節外戚李氏と橋氏の待遇 (2)
第 6章孝文帝代の尚書省高官
第 1節献文帝実権期 (471-476)
第 2節文明太后臨朝聴政期 (476-490)
第 3節孝文帝実権期第 l期 (490-497)
A洛陽遷都前
(490-493)
B洛陽遷都後 (493-497)
第 4節孝文帝実権期第 2期 (497-499) (
3)
第 7章孝文帝の行幸・親征行
第 7章孝文帝の行幸・親征行
孝文帝は 493年 8月己丑に平城を「南伐」と言う名目で進発し、同月戊
申井州を経由し、 9月戊辰に黄河を渡り、同月庚午に洛陽に到着し、丁丑に
臣下の南伐停止の請願を受け入れて「遷都Jを宣言した。平城から洛陽に向
かう、第 1回平城一洛陽行 (493年 8月-493年 9月)である。これを
皮切りに、孝文帝は行幸・親征行を重ね、それに伴い平城と洛陽を繰り返し
空けた。
(
4)小論の冒頭で孝文帝が尚書省を最重視している旨を述べたが
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~t貌孝文帝代の前書省と洛陽遷都(4) 一宗室元氏の尚書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
(5)、北貌の最重要地である平城と洛陽を不在にする中で、孝文帝集団構成
員を同省に配置したと想定される。問機関に対して如何なる人事配置を行っ
たのか、その支持集団と関連させて検討する前提として、孝文帝の行幸・親
征行並びに支配者層の平城から洛陽への徒住過程、行幸・親征行の随従者を
考察することとする。本章では、そのために先ず孝文帝の行幸・親征行を確
認しよう。
平城
洛陽間行幸・洛陽一平城間行幸・南斉親征行・平城留守期間・洛陽
留守期間を基準に孝文帝の移動・滞在を整理すると、その各回数は、平城一
洛陽間行幸は 3回、洛陽一平城間行幸は 2回、南斉親征行は 3回、平城留守
期間は 4回、洛陽留守期間は 10回であった。(以下、表 1北貌孝文帝行幸・
親征行並びに平城・洛陽留守期間筒表、表 2北貌孝文帝行幸関係表参照)
各期間は、平城一洛陽間行幸は第 1回 (493年 8月-493年 9月)・
第 2回 (494年 10月 -494年 11月)・第 3回 (497年 3月
497年 6月) (
6
)、洛陽ー平城間行幸は第 1岡 (494年 2月-494
年間月)・第 2回 (
497年正月 -497年 2月) (
7
)、南斉親征行は第 1
回 (494年 12月-495年 5月)・第 2回 (
497年 8月-499年正
月)・第 3回 (499年 3月-499年 4月)である(8)。平城留守期間は
第 1回 (493年 8月-494年閏月)・第 2回 (494年 7月-494年
8月)・第 3回 (494年 10月-497年 2月)・第 4回 (497年 2月
497年 3月) (
9
)、洛陽留守期間は第 1回 (493年 10月-494年正
月)・第 2回 (494年 2月-494年 11月)・第 3回 (494年 12月
495年 5月)・第 4回 (495年 9月-495年 10月)・第 5回 (496
年 8月-496年 8月)・第 6回 (496年 8月または 9月-496年 8月
)
・
第 7回 (497年正月 -497年 6月)・第 8回 (497年 8月-497年
8月)・第 9回 (497年 8月-499年正月)・第 10回 (499年 3月
499年 4月)である(10
)。以下、孝文帝の平城ー洛陽間行幸・洛陽一平
城間行幸・南斉親征行において印した足跡、平城留守期間・洛陽留守期間と
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1
5年 3月
の関係を、一瞥しよう。
孝文帝が 493年 9月に洛陽に到着した後即ち第 l回平城一洛陽間行幸
(493 年 8 月 ~493 年 9 月)の後は、翌 1
0月戊寅に洛陽の金塘城に移ると
ともに、洛陽城の造営を命じた。だが自身はそのまま都城建造が進行中であっ
た洛陽に定住せず、一旦離れて郭に向けて移動した。同じ 10月己卯に河南
城に赴いた後、途中橡州・石済・滑台を経て、同月発卯に都城に至り、同月
乙巳に元休(安定王)を随従した官の平城に残っていた家族を迎えに鄭から
平城へ派遣した。 11月発亥には、竣工した郭西方の宮殿に移り住んだ。孝
文帝は鄭において越年した。翌 494年正月丁未に鄭宮澄鷲殿において群臣
を朝見した。 16日後正月発亥には洛陽に向けて南巡するために鄭を出立し、
12日を経て乙亥に再度洛陽に戻り西宮に入ったのである。その間孝文帝の
洛陽不在期聞が、第 1回洛陽留守期間 (493年 10 月 ~494 年正月)で
ある。
翌 2月には、平城に向けて北巡を開始した。河陰に幸した後、同日発卯に
は黄河を越え、閏月壬申に平城に帰着した。これが、前年 493年 8月に平
城を去った後、約半年ぶりの還幸であった。即ち洛陽において遷都を宣言し
て以来はじめての平城帰還であり、洛陽から平城に行く第 1回洛陽一平城間
行幸 (494 年 2 月 ~494 年閏月)でもあった。以上、
493 年 8 月に平
城を「南伐」と言う名目で発って以来、 494年間月に平城に戻るまでの期
間が、第 1 回平城留守期間 (493 年 8 月 ~494 年間月)となる。
平城に 4ヶ月ほど滞在した後、 494年 7月壬辰には陰山方面に向けて北
巡に発ち、同月戊戊に金陵を参拝した後、朔州、│を経て、 8月甲辰には陰山に
行幸した。同月丁未に閲武台に至り、懐朔鎮・撫冥鎮・柔玄鎮を次々と訪問
した後、同月乙丑に南に向けて出発し、同月辛未に平城に再び帰還した。こ
れが、第 2 回平城留守期間 (494 年 7 月 ~494 年 8 月)である。
494
年 10月戊申には神主を洛陽に遷す旨を自ら太廟に告げ、元薬(高陽王)・
子烈に運ばせることとした。同月辛亥には平城を後にし、中山郡・信都郡を
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北貌孝文帝代の前書省と洛陽選者間 4
)ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当てて一(長部悦弘)
経て、 11月丁丑に鄭に至り、同月己丑に洛陽に戻った。これが、第 2回平
城一洛陽間行幸 (494年 10月-494年 11月)である。 494年 2月
に洛陽から平城に向けて北巡に発ち、同年 11月に洛陽に帰着するまでの聞
が、第 2回洛陽留守期間 (494年 2月-494年 11月)である。 494
年 12月から 495年 5月にかけて、孝文帝は洛陽から南斉領を指して南伐
に従事し、洛陽を空けた。第 1回南斉親征行 (494年 12月-495年 5
月)であり、第 3回洛陽留守期間 (494年 12月-495年 5月)でもある。
495年 9月に洛陽を出立し、同月丙成に鄭に到着し、 10月丙辰に洛陽
に帰った。第 4回洛陽留守期間 (495年 9月-495年 10月)である。
496年 8月に洛陽を出発して、同月戊戊に禽山に着き、同月甲寅に洛陽
に帰還した。第 5回洛陽留守期間 (496年 8月-496年 8月)である。
496年 8月または 9月に洛陽を出て、同月戊辰に小平津に至って講武した
翌日同月奨酉に洛陽に戻った。第 6回洛陽留守期間 (496年 8月または 9
月-496年 9月)である。
497年正月乙巳に洛陽を発って、 2月壬成に太原を経て、同月発酉平城
に到った。ついで反乱を企てた穆泰・陸叡を断罪・抹殺した。第 2回洛陽一
平城間行幸 (497年正月 -497年 2月)である。先に平城を後にした
494年 10月から再び戻る 497年 2月までの 2年半の間平城を不在にし
ていたことになる。これが、第 3回平城留守期間 (494年 10月-497
年 2月)である。
497年 2月甲成に永固陵に参詣した後、同月某日に平城を出発して同月
発未に雲中に巡幸し、 3月庚寅に平城に帰還した。その聞が、第 4回平城留
守期間 (497年 2月-497年 3月)である。
497年 3月乙未に平城を進発して、 3月己酉に離石に寄り、 4月辛未に
長安に入札 5月己丑に長安を去って、潤水を通って黄河に入り、 6月庚辰
に洛陽に帰還した。第 3回平城一洛陽間行幸 (497年 3月-497年 6月)
である。 497年正月に洛陽を出て、同月に平城に行き着き、 497年 3月
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円
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2
0日 年 3月
に平城を去って、長安を経由して、同年 6月に洛陽に帰るまでが、第 7回洛
陽留守期間 (497年正月 -497年 6月)である。
497年 8月某日に洛揚を出て、同月壬申に河南城に到着し、 8月某日に
洛陽に還幸した。第 8回洛陽留守期間 (497年 8月-497年 8月)であ
る
。 497年 8月庚辰に洛陽を出発して南斉領に進攻し、 9月に緒陽城・宛
城・南陽城、翌 498年正月に新野城、 2月甲子に宛北城を各々攻陥した。
498年 9月己亥に懸瓢において南斉明帝莞去のため、反締を詔した後、同
月丙午に懸瓢を出発して、 11月辛巳に都に到着し、翌 499年正月戊寅に
は群臣に朝見して澄鷺殿で饗応した。同月乙酉に郭を立って、同月戊戊に
洛陽に帰着した。第 2回南斉親征行 (497年 8月-499年正月)であり、
第 9回洛陽留守期間 (497年 8月-499年正月)でもある。
499年 2月発酉に陳顕達が率領する南斉軍が馬圏成を攻陥したのを受け
て
、 3月庚辰に洛陽を出発した。同月発未に梁城に到着したが、梁城で発病
し、元調、(彰城王)が看病にあたるとともに、政務を総撹した。孝文帝は同
月丁酉に馬圏に到着し、同月戊戊に南斉軍を馬固から駆逐した。同月庚子に
穀塘原に到着した後、同月甲辰に以下の内容の詔を下した。幽皇后橋氏に死
を賜与する。元郵(彰城王)に皇太子元'協を呼んで即位させる。元詳(北海王)
を司空に任命し、王粛を尚書令に就け、宋弁を吏部尚書に叙し、太尉の元糟
(成陽王)、尚書右僕射の元澄(任城王)の 2名を加えて 6人が輸政に当たる。
4月丙午に穀塘原の行宮において莞去した。孝文帝の他界を以て南伐は終結
した。これが、第 3回南斉親征行 (499年 3月-499年 4月)であり、
第 10回洛陽留守期間 (499年 3月-499年 4月)である。
次に章を換えて、以上の孝文帝の行幸・親征行を踏まえて北貌支配者層の
平城から洛陽への徒住過程をみてみよう。
44τ
1i
北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都,(
4
)ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当てて一(長部悦弘)
註
(1)以上、第 1章・第 2章・第 3章の 3章は、拙稿「北貌孝文帝代の尚
書省と洛陽遷都一宗室元氏の尚書省官への任官状況を中心に J(1)
n琉球大学法文学部
人間科学科紀要J27 2012年)に掲載。
(2)以上、第 4章・第 5章の 2章は、拙稿「北貌孝文帝代の尚書省と洛
陽遷都一宗室元氏の尚書省官への任官状況を中心に J(2)(W
法文
学 部 人 間 科 学 科 紀 要J29 2013年)に掲載。
(3)以上、第 6章、拙稿「北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都一宗室元氏
の尚書省官への任官状況を中心に J(3) (W法文学部
人間科学科
紀要J31 2014年)に掲載。
(
4
)註(1)拙稿参照。
(5)孝文帝の行幸・親征行については、以下の研究を参照。
W岡山大学文学部紀要.1 5
①佐藤智水「北貌皇帝の行幸について J(
1984年)
②張金龍『北貌政治史研究J(甘粛教育出版社
1996年
210-
219頁)
③同上『北貌政治史.1 7 (甘粛教育出版社
2011年
316-
319頁)
①佐藤氏の研究は、孝文帝の行幸に限定したものではなく、孝文帝を
含む、道武帝から孝明帝までの 8代に及ぶ皇帝の行幸を対象とし
たものである。
②張氏の研究は、孝文帝の行幸・親征行に的を絞って、その行程と各
地の滞在日数を提示している。
(6)平城一洛陽間行幸の第 1固から第 3固までの( )内の年月は、平
城を出発した時期と洛陽に到着した時期を表示している。
(7)洛陽一平城間行幸の第 1固から第 2固までの( )内の年月は、洛
陽を出発した時期と平城に到着した時期を表示している。
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5年 3月
(8) 南斉親征行の第 1固から第 3固までの( )内の年月は、洛陽を出
発した時期と洛陽に帰着した時期を表示している。
(
9)平城留守期間は、孝文帝が平城を離れ、臣下が平城を留守した期間
である。その第 1回から第 4固までの( )内の年月は、平城を出
発した時期と平城に帰還した時期を表示している。孝文帝は第 4
回が終わった 497年 3月以降、同年同月に再び平城を去った後、
499年 4月に亮去するまで平城に戻ることはなかった。平城を
去った 497年 3月から 499年 4月まで第 5回平城留守期間と数
えることは可能であるが、本文で後述するように、平城が 497年
3月には首都機能を完全に喪失したと考えるが故に、当該期間を平
城留守期間とはしなかった。
(10
) 洛陽留守期間は、孝文帝が洛陽を離れ、臣下が洛陽を留守した期
聞である。その第 1固から第 4固までの( )内の年月は、洛陽を
出発した時期と洛陽に帰還した時期を表示している。
-16-
北貌孝文帝代の前書省と洛陽遷都(
4
)一宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当てて一(長部悦弘)
[
表 1J 孝文帝行幸・親征行並びに平城・洛陽留守期間簡表
行幸・親征行、平城・洛
間
期
陽留守
第 1回平城一洛陽間行幸
493 年 8 月 ~493 年 9 月
第 1回洛陽一平城間行幸
494 年 2 月 ~494 年閏月
第 1田平城留守期間
493 年 8 月 ~494 年間月
第 1回洛陽留守期間
493年 10 月
第 2回洛陽留守期間
494 年 2 月 ~494 年 1
第 2回平城留守期間
494 年 7 月 ~494 年 8 月
~494 年正月
1月
第 2回平城一洛陽間行幸 494年 10 月
~494 年 1
第 1回南斉親征行
494年 12 月
~495 年 5 月
1月
~495 年 5 月
第 3回洛陽留守期間
494年 12 月
第 4回洛陽留守期間
495 年 9 月 ~495 年 1
第 5回洛陽留守期間
496 年 8 月 ~496 年 8 月
第 6回洛陽留守期間
496 年 8 月または 9 月 ~496 年 9 月
0月
第 2回洛陽一平城間行幸
497 年正月 ~497 年 2 月
第 3回平城留守期間
494年 10 月
第 4回平城留守期間
497 年 2 月 ~497 年 3 月
~497 年 2 月
第 3回平城一洛陽間行幸
497 年 3 月 ~497 年 6 月
第 7回洛陽留守期間
497 年正月 ~497 年 6 月
第 8回洛陽留守期間
497 年 8 月 ~497 年 8 月
第 2回南斉親征行
497 年 8 月 ~499 年正月
第 9回洛陽留守期間
497 年 8 月 ~499 年正月
第 3回南斉親征行
499 年 3 月 ~499 年 4 月
第 10回洛陽留守期間
499 年 3 月 ~499 年 4 月
唱EA
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司
琉球大学法文学部紀要人間科学第3
2号
〔
表 2)
年
2
0日 年 3月
北貌孝文帝行幸関係表
月日
巡幸
出発地
経過地
到着地・滞
事件
在地(平城
-鄭・洛揚
長安な
ど)
4 9 3年
4月戊成
平城
廃皇后祷氏
7月乙巳
平城
元伺を立太
8月丁亥
平城
を立后
子
永園陵に参
詣
8月己丑
南伐(第 1 平城
回平城一洛
陽間行幸)
開始
8月戊申
井州
9月戊辰
黄河
9月庚午
9月壬申
洛陽
南伐(第 1
浴陽
洛橋・太学
田平城一洛
.w
石経』
陽間行幸)
を訪問
停止
9月丁丑
洛陽
「洛陽遷都j
を宣言
10月戊寅
治陽
金塘域行
幸。穆亮・
李沖・董爵
に洛陽城建
設を詔する
10月己卯
〔南北巡開 洛陽
始
〕
-18-
河南城
北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都.
(
4
)ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当てて一(長部税弘)
10月乙酉
10月某日 [北転開始〕 議州
10月葵巳
石済津
10月乙未
滑台城
強州
行廟に r
w
遷
都』の意j
を報告。滑
台宮を起│
工
。
10月葵卯
鄭
〔南北巡終
了
〕
11月奨亥
鄭
新宮殿に入
正月丁来
郭
澄鷲殿で朝
る
494年
見
正月奨亥
南巡開始
罪
事
正月戊辰
朝歌
殿・比干墓
洛陽
西宮に入る
を祭る
正月乙亥
南巡終了
2月乙丑
2月壬寅
北巡(第 1 洛 陽
河陰
回洛陽一平
城間行幸)
開始
2月奨卯
黄河
2月甲辰
不明
r
w遷都』
の詔 J発 布
閏月発亥
句注陸南
閏月奨亥
務池
皇太子元絢
謁見
閏月壬申
北巡(第 1
平城
穆熊・子果
回洛陽一平
-元歪ら群
城間行幸)
匡と遷都の
利害を議論
終了
閏月葵酉
平城
朝堂で洛陽
移動者と平
城滞留者を
区分
閏月甲fle:
平城
3月庚辰
平城
永園陵参拝
西郊祭天廃
止
-19-
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号
3月壬辰
2
0
1
5年 3月
平城
太極殿で遷
都計画を説
明
7月壬辰
北巡(除山 平城
巡幸)開始
7月戊成
金陵
7月辛丑
朔州
8月笑卯
朔州
皇太子元倒
謁見
8月甲辰
陰山
8月丁未
関武台
8月号連丑
f
裏朔鎮
8月辛酉
撫冥鎮
8月甲子
8月乙丑
柔玄鎮
〔南転開始〕 柔玄鎮
8月戊炭
旋鴻池
永園陵
8月庚午
8月辛未
講武
平城
北巡(陰山
巡幸)終了
9月壬申朔
平城
考課を行う
ょう命ずる
詔を下す
9月壬午
平城
朝堂におい l
て自ら則砂
を力日える
10月甲辰
平城
元2Gを太侍
10月戊申
平城
神主を洛陽
に任命
に遷す旨を
自ら太廟に
告げる
10月辛亥 南巡
平城
(
第 2回平
城一洛陽
間行幸)開
虫
歯
10月壬成
中山郡唐湖
10月己己
信都
11月丁丑
期1
-20-
北貌孝文帝代の前書省と洛陽遷都(
4
)ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
11月甲申
股・比干墓
朝歌
訪問
11月己丑
洛陽
南巡(第
2回平城
洛陽閑行
幸)終了
12月戊申
洛陽
平城から洛
陽へ移った
戸に対して
租賦を 3年
問免除する
旨を命ず
12月辛亥 南伐(第 1 洛陽
回南斉親征
行)開始
495年
12月戊辰
懸級
正月辛来朔
懸瓢
群臣を朝饗
正月壬午
汝水西
講武
正月己亥
准水
正月甲辰
八公山
正月丙辰
鍾隊
正月辛酉
正月壬成
鍾離
長江最近地 J
篤誕亮去
[北転開始〕
3月戊寅
百E
陽
3月戊子
百E
陽
3月乙未
下部
4月庚子
J
僑照莞去
(徐州)
彰城
4月辛丑
(徐州)
彰城
行在所で鴻
照のために
哀を挙げる
小I
市
4月葵丑
して前漢高
祖廟を祭る
4月己来
取丘
使者を派遣
して泰山
(岱岳)を
市E
る
4月庚申
魯城
自ら孔子廟
を記る
Ei
旬
ワ
白
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号
4月辛酉
2
0日年 3月
魯城
孔氏 4人・
顔 氏 2人を
任官。詔し
て孔氏一族
の中から 1
名を選んで
崇聖侯に封
じ、邑 10
0戸を賜与
し、孔子の
祭把を行わ
せた。莞州
に、孔子の
ために栢園
を開き、基
を修理し、
新たに碑を
立て、聖徳
を褒揚する
ょう、詔し
た
。
4月戊辰
[洛陽〕太
稿磁
和廟完成
(W貌書~)
5月庚午
不明
〔洛陽〕文
明太后J
矯氏
の神主を太
手口廟に移す
i
骨台
5月甲成
5月丙子
5月庚辰
右済
平桃城
皇太子元伺
謁見
5月葵未
南伐(第 1
洛陽
太廟に報告
洛陽
皇太子冗悔
回南斉親征
行)終了
5月 甲 午
に冠礼を施
す
6月 己 亥
洛陽
朝廷での鮮
卑語を使用
内
L
q
'
U
北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都(
4
)ー宗室元氏の尚書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
禁止
6月葵卯
浴陽
皇太子元悔
を太師帯電照
の喪に平城
へ派遣
7月 丙 辰
洛楊
洛陽への移
住者は死後
の埋葬地を
河南に決
定。平城へ
の還葬を禁
止。すべて
本貫地を河
南郡洛陽県
に変更。
8月 甲 炭
8月乙巳
洛陽
西宮に行幸
洛陽
天下の武勇
の士 15万
人を選んで
羽林・虎賞
を編制し、
宿衡に充当
8月丁巳
洛陽
金塘宮完成
9月 庚 午
洛陽
平城の六宮
及び文武両
官すべてが
務陽に移動
完了
9月某日
9月 丙 成
[北巡開始〕 洛 陽
都
〔北巡終
了
〕
9月乙来
[南巡開 都
始
〕
10月 丙 辰
〔南巡終
洛陽
了
〕
11月 庚 午
委栗山
11月甲申
務腸
国丘で祭礼
12月 乙 宋
務揚
光板堂で群
匡を引見。
品令を宣
q
a
nd
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号
2
0
1
5年 3月
示。大選を
はじめる。
1 2月辛酉
洛陽
元町喜(成陽
王)を長兼
太尉に任
命。元羽(広
陵王)を青
州刺史に任
命
。
12月甲子
洛陽
光極堂で群
E月丁卯
洛陽
拓政姓を元
2月辛丑
洛陽
2月庚成
洛陽
華林園行幸
5月丙成
治陽
方沢を河陰
5月丙成
洛陽
使者を派遣
臣を引見
496年
氏に変更
華林園行幸
に造成
して後漢光
武帝・明帝
-章帝を祭
る
5月丙成
治陽
詔して後漢
-曹貌・西
晋の皇帝陵
の四方百歩
以内で機蘇
践陽を禁止
5月丁亥
洛陽
河陰・方沢
7月某日
洛陽
廃皇后病氏
8月壬辰
洛陽
華林園行幸
で祭把
を廃位
8月某日
[嵩山巡幸 洛陽
開始〕
8月戊成
8月某日
信山
嵩山
8月某日
皇太子元
尚、平城を
目指して洛│
向
4
d
性
北貌孝文帝代の前書省と洛陽遷都(
4
)一宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
陽を脱出
8月甲寅
〔嵩山巡幸
洛陽
元{匂を引見
洛陽
華林園行幸
小平津
総武
終了〕
8月丁巳
8月または
9月某日
[小平津 洛陽
巡幸開始〕
9月戊辰
9月某日
9月笑酉
小平津
〔小平津巡
洛陽
幸終了〕
10月戊戊
洛陽
平城から洛
陽へ移動し
た兵士をみ
な羽林兵・
虎責兵と
し、司州の
民から 12
人に 1人を
徴発して 4
年で交替す
る兵牢と
し、毎年順
番を決めて
公私のカ役
に従わせた
12月乙丑
洛陽
12月丙寅
洛陽
皇太子冗伺
12月丁卯
洛陽
太廟に報告
12月
洛陽
恒州車J
I史穆
盟池の禁を
廃止
を廃位
泰らが叛乱
を企て、孝
文帝は元澄
(任城王)を
派遣して穆
泰らを制圧
して裁いた
497年
洛陽
正月丙申
元協(のち
hH
phu
ワ
琉球大学法文学部紀要人間科学第3
2号
2015年 3月
の宣武帝)
を立太子
正月乙巳
北巡(第 2 浴陽
回洛陽一平
城間行幸)
開始
2月壬成
2月奨酉
太原
北巡(第 2
平城
穆泰・陸叡
回洛陽一平
を断罪・詠
城間行幸)
殺
終了
2月甲成
2月某日
平城
永固陵参詣
〔雲中巡幸 平城
開始〕
2月笑未
3月庚寅
雲中
平城
[雲中巡幸
終了〕
3月辛卯
3月乙未
金陵
南巡(第 3 平城
回平城ー洛
陽間行幸)
開始
3月己酉
3月丙辰
離石
使者を派遣
平楊
して発を祭
肥
4月庚申
龍門
使者を派遣
して再を祭
組
4月葵亥
蒲坂
使者を派遣
して舜を祭
杷
4月戊辰
龍門
詔して発・
舜・爵廟を
修築する
4月辛未
長安
4月戊寅
長安
未央殿・阿
房宮・混明
池を訪問
4月丙成
長安
-26-
│
使者を派遣│
北貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都(
4
)ー宗室元氏の尚書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
して前漢諸
皇帝陵を祭
施
5月己丑
〔東旋〕
長安
5月己丑
5月壬辰
滑水・黄河
不明
使者を派遣
して西周文
王を邸で、
武王を鏑で
各々祭泥
5月笑卯
使者を派遣
不明
して撃搬を
祭把
6月庚炭
南巡(第 3
洛陽
回平城一洛
陽間行幸)
終了
6月壬成
洛陽
詔して糞州
-定州・議
州・相仲│・
済州の兵士
20万を動
員
6月丁卯
洛陽
禁軍兵士を
洛陽に残る
ものと南討
に従軍する
ものとに 2
分
8月某日
[河南城行 洛 陽
幸開始〕
8月壬申
河南城
河南城
8月某日
[河南城行
洛陽
幸終了]
8月申成
洛陽
華林園で講
武
8月庚辰
南討(第 2 洛 陽
回南斉親征
行)開始
円
,s
副
れ
つ
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号
自者陽
9月辛丑
2
0
1
5年 3月
諸将を残し
て南斉領緒
陽城を攻撃
させ、孝文
帝は南進
9月葵卯
宛城
南斉領宛城
9月 丁 来
南陽
冗穏(成陽
を攻陥
王)・元英
を残して南
斉領南陽城
を攻陥させ
て、孝文帝
は南進
9月己酉
新野
10月丁巴
新野
南斉領新野
城攻略に失
敗
11月丁酋
不明
12月庚午
汚水
南斉軍を河
水北で大破
12月庚午
4 9 8年
〔東還〕
汚水
12月戊寅
新野
正月笑未朔
新野
行宮で群臣
正月丁亥
新野
南斉領新野
正月庚成
南陽
2月乙卯
宛城
を朝饗
城を攻陥
南斉領宛北
城に進攻
2月甲子
宛城
2月庚午
新野
3月壬午
不明
南斉領宛北
城を攻陥
南斉軍を郵
城で大破
3月庚寅
奨城
3月辛丑
湖陽
3月乙来
比陽
3月辛亥
懸瓢
8月辛亥
懸組
-28-
褒汚で観兵
皇太子元俗
北貌孝文帝代の前書省と洛陽遷都(
4
)ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当てて一(長部悦弘)
(のちの宣
武帝)、懸
組に来朝訪
8月壬子
懸組
反乱を起こ
した勅勃の
樹者討伐を
元継(江陽
王)に詔し
た
9月己亥
懸瓢
南斉明帝発
去のため、
反茄を詔
す
。
勅鞠の樹者
討伐親征の
意志を表
明
。
9月丙午
〔北巡開始] 懸瓢
11月辛巳
剰1
12月甲寅 〔北巡終了]
剰1
元継(江陽
王)勅勅の
樹者を鎮圧
したので、
班師を詔し
た
499年
正月戊寅
鄭
群臣に朝見
し澄鴛殿で
饗応
事s
正月壬午
西門豹桐を│
訪問・津水
を渡る
正月乙酉
正月戊戊
〔南巡開始] 菊1
洛陽
〔南巡終了〕
南討(第 2
回南斉親征
行)終了
正月庚子
洛陽
廟宇土に報告 i
2月笑酉
洛陽
南斉陳顕達│
軍、馬閣成
-29-
琉球大学法文学部紀要人間科学第 3
2号 2
0
日 年 3月
を攻陥
3月庚炭
南伐(第 3 洛陽
回南斉親征
行)開始
3月号を未
梁城
3月丙成
梁城
権病。元自E
(彰城王)
看病にあた
り、政務を
総境。
3月丁酉
馬圏
3月戊成
馬圏
南斉軍を~
逐
3月某日
不明
〔北還開始〕
3月庚子
穀塘原
3月甲辰
穀塘原
幽皇后編氏
に死を賜与
する詔を下
す
。
元高車(彰域
王)に皇太
子元絡を呼
んで即位さ
せるよう詔
を下す。元
詳(北海王)
を司空に任
命し、王粛
を尚書令に
就け、宋弁
を吏部尚書
に叙し、太
尉の元信喜
(成陽王)、
尚書右僕射
の元澄(任
城王)の 2
名を加えて
6人が輔政
に当たるよ
-30
~t貌孝文帝代の尚書省と洛陽遷都(4) ー宗室元氏の前書省官への任官状況に焦点を当ててー(長部悦弘)
う、詔した
4月丙午
南伐(第 3
穀塘原
回南斉親征
行宮におい
て他界
行)終了
4月丁巳
皇太子元
幡、魯陽で
即位(宣武
帝)
5月丙申
長陵に埋葬
※表 1 ・表 2 は、『貌書~ 7 上高祖紀上・『貌書~
.
w貌書~
108之 1礼紀志 1を基に作成。
7 下高祖紀下 :W 北史~
3貌 本 紀 3
-A
唱
J
内