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銭玄同「左 年表」、「左 著述繋年」、『劉申叔先生
遺書』序(上)全訳 : 同時代人からみた劉師培の事績と
著述
井澤, 耕一
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 19: 163-170
2015.9
http://hdl.handle.net/10109/12709
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銭玄同「左 年表」、「左 著述繋年」、『劉申叔先生遺書』序
(上)全訳-同時代人からみた劉師培の事績と著述-
井澤 耕一
「左盦年表」
銭玄同
西暦
民国紀元・
清朝元号
年齢
干支
(数え年)
著述と関連した事績
六月二十四日(陰暦閏五月二日)江蘇省揚州市区青渓
旧屋にて誕生
父は劉貴曽(字は良甫、1845-98)
1884
前二八・光緒一〇 甲申
一
1898
前一四・光緒二四 戊戌
一五
父貴曽、五十四歳で病死
1903
前九・光緒二九
二〇
この年上海に赴く
この年「光漢」と改名
二一
二月、上海の『警鐘日報』
(もと『俄事警聞』)の編集
主任となる
六月、同郷の何班(のち震、字は志剣、1885―?)と
婚姻
1904
前八・光緒三〇
癸卯
甲辰
1905
前七・光緒三一
乙巳
二二
一 月、鄧 実(1877―1951)、黄 節(1873―1935)ら と
国学保存会を結成し、『国粋学報』を創刊
三月二十五日、『警鐘日報』発禁、浙江省嘉興に逃亡
九月、『経学教科書』(第一冊)が上海国学保存会より
刊行
1906
前六・光緒三二
丙午
二三
安徽省蕪湖滞在、皖江中学などの教員となる
1907
前五・光緒三三
丁未
二四
二月、妻らを伴って来日し、同盟会に加入。以後『民
報』の記事を執筆。
六月、女子復権会の機関誌として、月刊誌『天義』を
創刊
1908
前四・光緒三四
戊申
二五
四月、東京の自宅でエスペラント講習会を開始。『天
義』停刊後、『衡報』を創刊するも十月に発禁となる
十一月、帰国
1909
前三・宣統元
己酉
二六
四月、南京に移り、両江総督端方(1861―1911)の幕
下に入る→革命からの転向
年末から年頭にかけて、妻とともに天津へ移る
1910
前二・宣統二
庚戌
二七
二月、女児誕生(名は熲)
1911
前一・宣統三
辛亥
二八
九月、端方に随行して四川成都に移る
十月、武昌蜂起、辛亥革命勃発
十一月、端方が殺害され、劉師培は一時拘束される
1912
民国元
壬子
二九
一月、章炳麟らの尽力により保釈され、成都の四川国
学院の教員となり、『四川国学雑誌』の編集に携わる
三〇
六月、妻とともに山西省太原に向かう
太原において、閻錫山(1883―1960)の顧問に任命さ
れる
九月、『国故鈎沈』を創刊
1913
民国二
癸丑
『人文コミュニケーション学科論集』19, pp. 163-170.
© 2015 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
井澤 耕一
164
1915
民国四
乙卯
三二
楊度(1875―1931)
、孫毓筠(1869―1924)
、厳復(1854
―1921)、李 燮 和(1873―1927)、胡 瑛(1884―1933)
らと籌安会を結成し、君主制復活を主張
1916
民国五
丙辰
三三
康宝忠(1884―1919)らと『中国学報』を復刊
1917
民国六
丁巳
三四
北京大学学長の蔡元培の求めに応じて、北京大学文科
教授に就任
1919
民国八
己未
三六
一月、国故社を設立し、『国故』を創刊
十一月二十日(陰暦九月二十八日)北京和平病院で病
没
*本年表は万仕国点校『儀徴劉申叔遺書』(広陵書社、2014年)第一巻所収の銭玄同「左
年表」を底本として、万国仕編著『劉師培年譜』(広陵書社、2003年)、嵯峨隆『近代中
国の革命幻影 劉師培の思想と生涯』(研文出版、1996年)を参照しつつ劉師培の事績を
補った(ゴシック体が訂正及び補足部分)
。
「左盦著述繋年」
銭玄同
民国元年前九年(光緒二九、1903)癸卯
『中国民約精義』三巻
『攘書』一巻
前七年(光緒三一、1905)乙巳
『読左
記』一巻
『群経大義相通論』一巻
『小学発微補』一巻
『理学字義通釈』一巻
『国学発微』一巻
『周末学術史序』一巻
『両漢学術発微論』一巻
『漢宋学術異同論』一巻
『南北学派不同論』一巻
『中国民族志』一巻
『古政原論』一巻
『古政原始論』一巻
『文説』一巻
『論文雑記』一巻
『読書随筆』一巻
『倫理教科書』二冊
銭玄同「左
年表」、「左
著述繋年」、『劉申叔先生遺書』序(上)全訳
『経学教科書』二冊
『中国文学教科書』一冊
『中国歴史教科書』二冊
『中国地理教科書』二冊
前五年(光緒三三、1907)丁未
『荀子詞例挙要』一巻
『古書疑義挙例補』一巻
『爾雅虫名今釈』一巻
『晏子春秋補釈』一巻
『法言補釈』一巻
『周書王会篇補釈』一巻
前四年(光緒三四、1908)戊申
『荀子補釈』一巻
『琴操補釈』一巻
前三年(宣統元、1909)己酉
『穆天子伝補釈』一巻
『左
集』八巻
前二年(宣統二、1910)庚戌
『春秋左氏伝時月日古例考』一巻
『古暦管窺』二巻
『白虎通德論補釈』一巻
『白虎通義源流考』一巻
『白虎通義斠補』二巻、附闕文補訂、逸文考
『読道藏記』一巻
『敦煌新出唐写本提要』一巻
前一年(宣統三、1911)辛亥
『周書補正』六巻
『周書略説』一巻
『管子斠補』一巻
『楚辞考異』一巻
民国元年(1912)壬子
『春秋左氏伝答問』一巻
『春秋左氏伝古例詮微』一巻
『荘子斠補』一巻
『春秋繁露斠補』三巻、附春秋繁露逸文輯補
165
井澤 耕一
166
民国二年(1913)癸丑
『西漢周官師説考』一巻
『春秋左氏伝伝例解略』一巻
『白虎通義定本』三巻
民国五年(1916)丙辰
『春秋左氏伝例略』一巻
民国六年(1917)丁巳
『中国中古文學史講義』一冊
民国八年(1919)己未
『毛詩詞例挙要(略本)』一巻
著述年不詳
『尚書源流考』一巻
『毛詩札記』一巻
『礼経旧説』十七巻、補遺一巻
『逸礼考』一巻
『周礼古注集疏』二十巻
『春秋古経箋』三巻、附春秋古経旧注注疏
『春秋左氏伝伝注例略』一巻
『毛詩詞例挙要(詳本)』一巻
『晏子春秋斠補』二巻、附晏子春秋逸文輯補、晏子春秋黃之寀本校記
『晏子春秋斠補定本』一巻
『老子斠補』一巻
『墨子拾補』二巻
『荀子斠補』四巻、附荀子逸文輯補
『賈子新書斠補』二巻、附賈子新書逸文輯補、群書治要引賈子新書校文
『揚子法言斠補』一巻、附揚子法言逸文
『韓非子斠補』一巻
『読書続筆』一巻
各年の作を再編集したもの
『左
外集』二十巻
『左
詩録』四巻
『左
詞録』一巻
『左
題跋』一巻
*本目録は万仕国点校『儀徴劉申叔遺書』(広陵書社、2014年)第一巻所収の銭玄同「左
著述繋年」を底本としている。巻数及び目録中の( )は訳注作成者による補足。
銭玄同「左
年表」、「左
著述繋年」、『劉申叔先生遺書』序(上)全訳
167
『劉申叔遺書』序(上)
銭玄同
近年の五十数年間は、中国の学術思想において革新時代である。中でも国学研究に関する
新運動は、その歩みは最も速く、貢献も最も多く、社会・政治・思想・文化に与えた影響も
最大といえる。この新運動は二つの時期に分かれ、第一期は、民国元年前二十八年甲申の
年、1884(光緒十)年、から、第二期は民国六年丁巳の年、1917年、に始まった。第二期は、
第一期と比べ、研究方法がより精密で、導き出された結果もより正確ではあるが、これにつ
いては目下発展の途中であり、かつ本題とは関係が無いので、これ以上は論じない。第一期
の始まりは、清朝の政治が混乱し、列強との敗戦により国土を失った時期に当たるが、当
時、洛・閩理学を標榜した偽儒たちは、宋、元代の刊刻するという「不正の道」を誇り、学
界に君臨し一世を風靡して、いわゆる「天地が閉ざされ、賢人が隠れ」た時代であった。こ
こで、好学深思の傑出した碩学たちや、時世に憤り、旧来にとらわれないな類まれなる才能
を持った者たちは、政治の腐敗を憎み、学術が衰退していくのを悲しみ、精密な旧い学と奥
深い新たな学を思考することにより、新たなる世界の窓を開いて、愚なる者たちを啓蒙し、
危機・滅亡から中国を救おうとしたのである。この黎明運動において最も卓越した者として
は、私の見解では十二名おり、その言論・著作の発表順に挙げてみると、
(広東省)南海の
康長素 有為 君(1853―1927)
、(浙江省)平陽の宋平子 衡 君(1862―1910)、(湖南省)瀏陽
の譚壮飛 嗣同 君(1865―95)
、(広東省)新会の梁任公 啓超 君(1873―1929)、(福建省)閩
侯の厳幾道 復 君(1854―1921)、(浙江省)杭県の夏穂卿 曽佑 君、先師である(浙江省)余
杭の章太炎炳麟君(1869―1936)
、(浙江省)瑞安の孫籀 詒譲君(1848―1908)、(浙江省)
紹興の蔡孑民元培君(1868―1940)、
(江蘇省)儀徴の劉申叔光漢君(1884―1919)、
(浙江省)
海寧の王静庵国維君(1877―1927)、そして先師、(浙江省)呉興の崔
甫適(1852―1924)
である。以上の十二名は、歴史・社会の変化を窮明したり、言語・文字の本源を探求したり、
先哲の思想の相違を論じたり、先秦の道術の 微 言 を明らかにしたり、南北の戯曲文を表彰
したり、上古の文献の真贋を考証したり、殷の甲骨文、周の金文の歴史的価値を見い出した
り、節士・義民の徳行を表彰したり、経世致用(学問に治世上の有用性を求めること)の核
心的意義を明らかにしたり、また共通、相違を探求するに当たっての奥深い理由を広く世に
知らしめたのである。各人の方向性や持論には相違があり、学術研究に一意専心する者もい
れば、経世(済民、世を治め民を救う)の志を抱いて、政治活動に従事した者もいたが、ど
ちらも自らの思想を表出することができたため、その成果は極めて大きい。この黎明運動は、
当時の学術界においては、まるで雷雨が生じて、様々な果実や草花が殻を破って若芽を出す
ような状況であり、その分野は広く、大変な勢いで前進して、後世の学術に対する寄与は、
まさに窮まることは無かったのである。
168
井澤 耕一
この黎明運動において、劉君は樸学を伝承し、代々徳を積み、その蓄積も厚く、思考も鋭
く、前述の十二名中、年齢は最も若かった。甲申1884年、康(有為)君が『礼運注』を撰し
た年に、劉君は生まれた。癸卯1903年、章(炳麟)公が投獄された年、劉君は『中国民約精
義』及び『攘書』を撰し、それは章公の『訄書』の改訂本が間もなく出版される時でもあっ
た。『訄書』は戊戌(光緒二十四年、1898)に撰せられ、庚子(光緒二十六年、1900)に改訂、民国四
年(1915)乙卯になって再改訂され、書名も『検論』に変更された。よって劉君が最初にその著述
を発表した際、康(有為)、梁(啓超)、厳(復)、夏(曽佑)、章(炳麟)
、孫(詒譲)の諸
先生の著作を広く読んでその影響を受けていたのである。劉君の著述の期間は十七年間、民
国元年前九年癸卯の年1903(光緒二十九)年から民国八年己未の年1919年までで、見解の相異
により、二期に分けることができる。癸卯1903年から戊申1908(光緒三十四)年までの六年間
を前期、己酉1909(宣統元)年から己未1919(民国八)年までの十一年間を後期とする。両時
期を比較すると、前期は「実事求是」を主とし、戴(震)の学に近く、後期は「古義」を篤
く信じることを主とし、恵(棟)の学に近い。また前期は革新、後期は守旧の傾向にある。
劉君の著述で論及されているその範囲は甚だ広く、私が言及できてかつ最も優れていると
思われる点として、一、古今の学術思想を論じたもの、二、小学を論じたもの、三、経学を
論じたもの、四、群書の校訂の四つがあり、以下、それについて個々に論じてみよう。
まず劉君が古今の学術思想を論じたものを述べる前に、劉君の政治思想について概説して
みよう。
庚子1900年以後、愛国の志士たちは清朝が国を辱しめ、漢民族に権力が無い事に憤ってい
た。そこで南明の大儒黄黎洲(宗羲、1610―95)先生の君主排斥を主張した論(
『明夷待訪
録』
)、王船山(夫之、1619―92)先生の異民族を攘い除くことを主張した文(『黄書』)は、
それが埋もれてからすでに二百年余りが経過して、ついに復活を遂げたのである。愛国の志
士たちがこれを読み、大いに刺激を受け、そのため清朝を倒し民国を建てる運動は、まさに
当時最も重要な時代の思潮だったのである。劉君は癸卯の年1903年に上海へ行くが、ちょう
どこの思潮が澎湃として湧き立ってきた最中であった。劉君もすぐさま運動に加わり、黄
氏『明夷待訪録』の続編として『中国民約精義』を、王氏の『黄書』の続編として『攘書』
を著したのである。また甲辰1904(光緒三十)年、蔡孑民(元培)、林少泉獬(1874―1926 、
福建省閩県の人)の諸氏と『警鐘日報』を、乙巳1905(光緒三十一)年、鄧秋枚(実、1877
―1951 、広東順徳の人)、黄海聞(節、1873―1935 、広東順徳の人)の諸氏と『国粋学報』
を撰した。上述の二書は、古代を論じたものではあるが、度々この二義(君主と夷狄を排斥
すること)に論及している。丁未1907(光緒三十三)年、
(東晋の)鮑敬言先生の説を好んで、
人治を廃絶すること(無政府主義)を主張したが、その思想は以前と異なったものであった。
以上が劉君の前期政治思想である。後期は彼をとりまく環境が変わり、王政復古の説を唱え
たために、前期とは全く異なってしまった。
劉君が古今の学術を論じた文章は、すべて前期に著したものである。後期の初めの自刻『左
銭玄同「左
年表」、「左
著述繋年」、『劉申叔先生遺書』序(上)全訳
169
集』中には(学術について)論及している文もあるが、全て前期の文を再編集したものであり、元来
の文章が精密で詳細であることには及ばないので、ここでは引用しない。以下小学と経学もこれに同じ。
専著には、『国学発微』
『周末学術史序』
『両漢学術発微論』『漢宋学術異同論』『南北学派不
同論』『攘書』
『中国民約精義』などがあり、『攘書』『中国民約精義』は劉君が自身の政治思想を
明らかにして述べたものであるが、(目録中の)『攘書』の後の五篇(『古政原論』『古政原始論』『古暦
管窺』
『文説』
『論文雑記』
)は古代の学術思想を専論したもので、『中国民約精義』で引用したものは、
賢哲貴民思想を探る資料である。
『左
外集』巻八・九は全篇、学術思想を論じており、巻十七
の「近儒学案序目」
、「顔氏学案」三篇(「習斎学案序」「幽薊顔門学案序」
「并青雍豫顔門学
案序」)、「東原学案序」も同様である。巻十八は「王艮伝」から「戴 伝」までの十六篇も、
殆どが学術思想と関連している。劉君は学術思想に対して、群書を最も総括・貫通して、多
くの事例から推察し、それを原理に集約することができたので、優れた見解も極めて多かっ
た。以前、先師の章(炳麟)公が梁任公(啓超)君の「論中国学術思想変遷之大勢」を「社
会の沿革と本質の変化を真に洞察できている」と評したが、私も劉君の諸篇に対して同様に
評価できよう。上述の諸篇中、私自身は『周末学術史序』が最も精確であると考える。それ
以外に、古学が宗教および実際の体験から起こったこと、古学が史官から出たこと、孔子の
学の本来の姿、そして六芸は全て史書であり、孔子一門がこれを編纂して教科書としたこと
を論じているが、その主張もすべて精確であった。劉君が王陽明(守仁、1472―1529)、王
し
心斎(艮、1483―1541)及び泰州学派の諸傑、李卓吾( 贄、1527―1602)、顔習斎(元、
1635―1704)および李恕谷(塨、1659―1733)、戴東原(震、1724―77)、章実斎(学誠、
1738―1801)、崔 東 壁(述、1740―1816)、龔 定
(自 珍、1792―1841)、戴 子 高(望、
1837―73)の諸先生の学を高く評価したことは、とりわけ卓越した見識といえよう。
劉君は声音、訓詁について、諸説に広く通じていた。前期で小学を研究した際、以下三つ
を掲げている。
一、字音に依ってその意味を探求する。
本説は黄扶孟(生、1612―?)、王石
(念孫、1744―1832)、伯申(引之、1766―
1834)父子、焦里同(循、1763―1820)、阮伯元(元、1764―1849)、黄春谷(承吉、
1771―1842)の諸先生から提起されたもので、劉君はさらにその枠組を発展させて
いる。
『左
外集』巻六「正名隅論」では標題の意義を最も詳細に述べている。『小学
発微補』及び『中国文学教科書』第一冊においてもこれに言及しており、『外集』巻
七「物名溯源」および続補、「論前儒誤解物類之原因」「駢詞無定字釈例」の諸篇およ
び『爾雅虫名今釈』もそれと関連している。
二、中国の文字を使用して社会学者が明らかにした古代社会の状況を証明する。
『外集』巻六「論小学与社会学之関係」および「論中土文字有益于世界」の二篇は標
題の意義を充分に明らかにしており、『小学発微補』中においてもそれに言及してい
る。
井澤 耕一
170
三、古語を使用して現代語の意味を明らかにし、また現代語を用いて古語を解釈する。
『外集』巻十七「新方言序」において標題の意義を明らかにしている。劉君は「札記」
三十余条を著したが、それは先師、章(炳麟)公編『新方言』に採用されている。章
公「自序」を参考。
この三点は、どれも精確で卓越したのもである。以上が劉君の古語の考証に関することであ
る。また漢字の筆画を減らすこと、加えて新字を造ること、適切でない旧訓を改めること、
本説は『攘書』正名篇および『外集』巻六「中国文字流弊論」を参考。白話文を提唱すること、本
説は『論文雑記』および『外集』巻六「中国文字流弊論」を参考。拼音文字を使用すること、国語
を統一すること本説は『読書随筆』「音韵反切近于字母」を参考。も極めて重要であり、(文字改
革は)ここ二十年来徐々に着手されてはいるが、劉君は三十年も前にすでにその重要性を見
通しており、まさに先駆者と評価できよう。後期民国元年(1912)以降の主張は、その殆ど
が前期と相い反しているが、以下三点を挙げてみる。
一、
『説文解字』については墨守して、寸分も相違してはならないと主張しており、それは
『外集』巻十六「答四川国学学校諸生問説文書」で述べられているが、前期の見解と相
い反している。前期の「正名隅論」序では「心得を主とする。旧説と齟齬していると批判する者
もいるが、
(他者の説の)剽窃・(付和)雷同という過失は、ほぼ免れることができよう」とあり、
また他でも『説文解字』を批判した文章がある。
二、同音通用の文字について、
『説文解字』で本字を検索することを主張した。『外集』巻七
「古本字考」及び巻十六「答四川国学学校諸生問説文書」で主張をしているが、前期の
「音が近ければ意味も通る」という自説を覆し、また同音通用の文字も「偽跡」とした。
三、新しい事物について、
『説文解字』から意味が合う古字を取って命名することを主張し、
加えて新しい文字、詞を造ることに反対した。それについては『外集』巻十六「答江炎
書」で述べられているが、これは前期の記述とは相い反している。
拼音文字を使用することについては、前期末、「論中土文字有益于世界」を記述した際に、
すでに同意しないという意思を表明しており、巻十七「中国文字問題序」でも重ねてそう主
張されている。
(以下、(下)に続く。)
*本文は万仕国点校『儀徴劉申叔遺書』
(広陵書社、2014年)第一巻所収の銭玄同「『劉申
叔遺書』序」を底本として、『銭玄同文集』(人民大学出版社、1999年)も適宜参照した。
文中の( )は訳注作成者による補足。