会員各位 島 秀 策 去る十一月十一日開催 されました。東品闘同窓会 の支部長評議員会の席上 に於 て次期会長 K推さ れ 翌十二日の総会に於て承 任され ましたので 、私は 本年頭初からその任につ く ζとになりました。私 にとっては思わざる重荷 をになう乙とになった次 第であります。顧みます れば 三年前に学長の織を退き第一線を離れましてから退任の理 由であ った健康もいくらか恢復いたしましたのでともかくもお 引受けすること にいたしたのであります。 もとよ り活動時代を過ぎました私とし ては皆さまのと期待に 添い得るか否やを深く心配するものでありますが宰に前会長田 丸先生の敷 かれた立派なレ l ルの上を走る ζとによ っていささ かなりとも成すあらん乙とを祈念しておる次第であります。 滋に皆さま方 の限りなき と同情と支援を願って止みません 。 昭和四十 三年一 月 拶 新年交歓会聞かる 干 高 昭和 4 3年 / 約~tt.~fえ争j句t,令ぺ子氏 挨 福島新会長力強く所信表明 お知らせ 一 = = E = = = 三 豆 三 三三三三三E三=三=三==三豆三三三三三 出三三E=三三三三三三三三豆豆三三三三三豆=一一一一一 一 川 二月 十 八 日 ( 日 ﹀ 午 後 一 時 │ 四 時 場所 母校講堂川 川 三三三三三三三三三三三三三芸三三三三三三三三三三三一一===三一三================一三三===========一三===一昨 二月講演会 川 川 日時 同 窓 会 に な に を 望 む か ﹄ 午 後 一 時 │二 時 川 川 川。﹃ 特別講演 午後二時│四時 、新 ら し い 試 み と し て 、 乙 の 種 の 会 合 の 際 、 時 聞 を さ 川 川新執行部においては 、 直接会員からの御意見、御希望、提案等をおき、きして 、 今 後 の 会 務 川 川いて 川 遂 行 上 の 貴 重 な 資 料 な ら び に 本 会 発 展 の た め の 参 考 に す る ζと に な り ま し 川 待してお り ま す 。 川 川た。卒直な御発言を期 酬。 クラウンブリッジにおける岐合の問題点 講師保母須弥他氏 司会鵜養弘教授 母校講堂 最 近 は 、 社 会保険でもクラウンマブリッジを応用するケ l ス が 広 ろ く 認 め ら れ る と 同 時 に 、 差 額 徴 集 も 認 め ら れ る よ う に な り 、 歯 科 医 療 に 大 き な ウエ イ ト を も つ よ う に な り ま し た o そこで 、乙 の 問 題 に つ い て 新 ら し い 知 識 を 得ておく乙とは、非常に意義のあることと思います。 今 回 、 ア メ リ カ イ ン デ ィ ア ナ 大 学卒業で 、 こ の 道 の 専 門 で あ る 保 母 先 生 に お 話 し を お 願 い し ま し た 。 聞 か ね ば 絶 対 に 損 で す。 揮 っ て 御 参 加 さ れ る よ うおすすめします。 ) 東京歯科大学学会(例会 二月十七日(土)午後一時より 日時 卒業証書授与式 三月二十五日(月)午後一時三十分より 三 月 二 十七日(水﹀午後一時より O東 京 歯 科 大 学 衛 生 士 学 校 卒 業 証 書 授 与 式 O東 京 歯 科 大 学 卒 業 証 書 授 与 式 ︿ 会 報 を 年 ニ 回 雑 誌 形 式 で 発 行﹀ 隔月年六回、本号 の よ う な 形 式 で 発 行 さ れ て い ま し た が 、 従 来 本 会 会報 は 、 会 員 よ り の 要 望 も あ り、 前理事会において検討された結果、とりあえず、 本 年 度 よ り 三 十 二頁の 雑 誌 形 式 の も の を 、 年 二 回 発 行 す る よ う 立 案 し 、 そ の予算が 、 昨 年 十 一 月 の 評 議員 会、総 会 に お い て 承 認 さ れ ま し た 。 そ乙で 本 年 度 は 、 六月 、 十 二 月 に 雑 誌 形 式 の も の を 発 行 し 、 他 の 偶 数 月 に 従 来 と 同 じ 形 式 の も の を 四 回 発 行 す る 乙 と に な り ま し た 。 御意 見 、 御希 望 等 を お よせ下さるようお願いします。 門一 同ハ︺ 所 御 恒例の新年交歓会は 、今年も元旦 午前十一時より母校におい て開催 され た。好天で比較的温かい正月に恵まれ 、多くの会員 の出席が あり賑かであった。 長尾教授の司会により、君が代を斉唱後、杉山 学長、福島同 窓会長の新年のと挨拶が別掲のようにあった。ついで 、風邪の ため欠席された田丸前会長に代って大井前副会長より、任期中 会員各位より寄せられた御協力に対し感謝のと挨拶があった。 ついで鹿本名誉会頭の音頭で乾杯。町田教授の謡曲﹁羽衣﹂ で新 春を寿いだ 。 出席者が例年同じ顔ぷれで 、特に若い 人の出席が依然として 少ないのは残念である 。正月はそれぞれの家庭における行事が 定まっていて、なかなか変えがたいこともあろうが 、来年から は是非、元旦の行事予定の一つに母校の新年交歓会を加えてほ しいも のである 。 岳問題字は榎本美彦名誉会頭筆女 場 殿 121号 2月 l口 杉山学長年頭のご挨拶 予定を語 すができるだけ海外に派遣して新知 鴨川 に職員 寮ができました 。 乙れ は 福 島 先 生 に 土 地 の寄 贈 を う け ま し て、 八月に閉所式を 行な いました 。 本 年 は 先 程 申 し上げましたような教 で業績を発表する 資格 の あ る 人 を 学 室 改 造 と 市 川 に動物舎を建築 し研究 室 を 新築 す る 動きがあり ま す。 なお 助 教 授、 講 師 で海外 の学会で 外 国 語 福島 あ け ま し てお め で と う と ざ い ま す 。 私 は 本 月 から名誉ある東京歯 科 大 学同 窓 会 長 に 就任する乙とになりま した 。 既 に と 承 知 の 通 り 私 は 三 年 前 学 長 の 職 を 杉 山現学長におゆずりし て第 一線を退き全く引退とまではい き ま せ ん が 舞 台裏 の仕事 を き し て も らっ て いたのであります。 ζ のたび 立場はちがいますが再び第一線に た つことになりまして今さらながら人 生航路のままならぬことを感じてお る次第でございます 。 ともゐれお引受けいたしたからに は任 期 二 年 間 を 何とか切りぬけてい きたいと思っているしピいでござい ます。現在母校につきましては何の 心配を要することもとざいません 。 極めて順調に叩旭川いされておりますの 校 の技用で派遣しようと云う乙とに なり、 そ の第一回として理工 学の高 , ブ ルガリ 橋助教授が九月に聞 かれ る アのF DIで演説する予定で ありま す。 なお海 外 長期派遣者として 高橋 庄 二郎 教授、 羽賀 教授 の二 人を 派遣 す る予定 Kなっております。なお 一 月には今西助教綬が W H Oの関係で ζではただよろ 音頭で乾杯 阪本名誉会頭の ておりませんのでこ がまに役員の設考も完了していませ んし従って新しい方針の相談もねれ 挨 識 を 得、 ある いは学会 と 交 流 を 深 め、 各 大 学との親交 をあたた めた い と 云う希望を も ってお り ま す。 一月 には長尾教 授 を 台湾の学会に 太平洋歯科会議 に松宮、 三崎 関根(弘)の三教授と今西助 派 遣 し ま した 。同 じ 一 月 に 竹 内 教授 が 朝 日新聞社の 主催の 日本一 の優良 児意をつ れ てロ l マ、 パリに 、 また西 村助教授は 外務省の依頼で南米に 、 五月には京城の第 五回 アジア EE ・圃 ・圃 . . 教授を派起して韓国の歯科界 . . と親密な交流を深めました 0 . . 七月 には沖縄の無 歯 科医村に 圃園 田上講師、須 佐 助 手、 大沢助 . . 手を派遣し 、 九 月 には関根教 授がこれを監督のため沖縄に E圃 フアロ l へ行きました 。 また 八月に松宮教授が FD Iのパ リの会議に出かけました。十 . . 渡り ました 。 八月にはパリ の . . 学会に木作講師が竹内教授 の . . 代理で渡 りました。七月には . . 上口木講師がバッファロ ーから . . 帰 国 し て 代 り に 技 講 師 が、 ハ ツ .. .. EE でと安 心 いただきたいと存じます。 従って今回私が同窓会に関係するよ うになっても別に大した変化はお乙 らないのでありまして常務理事とし て の仕事も当分そのままつ,つけてゆ く こと に相成 っておる次第でござい ます。 本来 な れ ば 乙 乙 で 抱 負 な り 考 え を 述 べて と 挨 拶 と す る わ け で あ り ま す -" ι ー おめ でとゑCざ います。 昨 年 一年間 を回顧レ、 同時に 今年 の予定を述べさせて 頂 きます。 学校はたいした変化 はございませ んでしたが 、福島先生のご 努力で教 室が 一 つ 改造されました。欧米の大 学の教室と比較して少しも見劣りし ない立派だ教室ができました 。 同時 に生化学の教室が解 剖 別 館 の 上 に 移 転しまして 、 ζれも研究室ができま 助教疫が一年間留学のため渡米しま 月にはロンドンの会議に 上 回教授が 出張されています 。 十 二 月 に は 高 添 した 。 なお今年も、 逐次教室を改造 して 、 ゆくゆくは 、 全部ω教室を最 した 。 なお田熊教授が イ ギリスのシ ンポジウ ムに出張 しまし た。なお学 校として正式に派遣しました米沢教 の る 新設備に変えて行く希望をもってお 付 ま す。 なお昨年海外 に派位した教只は次 長 の 段 、 山 本教筏はす山でに帰国し 、 現在 ヒ条教授がタフ ト大 学 に お り、 ζの 二月に帰国する予定で す。それから 拶 コ 3玄 年 の通りであります 。 令部学校の 費用 、 あるいは で行かれた方、 一部自代 〉 A 本 白伐で行かれた方、い ろいろゐりま 〉 小児歯科 の問題をひ っさげまして 北 欧 を魁る 乙とにな っております。ま た昨日は 北村、 三崎 両 教 授 が 台 湾 の 昨年をふりかえり今年の希望を述 学会と 同窓会に行きま した 。 このよ うにでき るだ け多くの 人 を 海 外 に派 遣し て交流を深めたいと思います。 べてと後拶に代えたいと思います。 しくお願する と いう ζとだ けでご挨 拶といたし た いと存じます。 ただ私個人の考えを一言 申 し述べ さしていただくたらば 、 世 の中 のこ とは総てつながりで動いていく 、 も ちつもたれつで支えられ て いる 。 という乙とをい つでも忘れてはならない と思うのでありまして 、 口業をかえて 巾 しますれ 一 一 一 一 ば辿帯 観念の品揚並に協 力態 勢 の 敵 保 に よ っ て 会 務を処理していきたいと 思 っており支す。 日分さ えよければいい 、 或いは 派閥的考え方などは私 の とらないと乙ろでありま して、新しく結成されま する執行部に於でもあく までも共川氏任の立場を とってまいりたいと存じ ております。 一九六八年新春の努頭 にあたり会長をお引受け いたしました怠の心の 中 を巾述べましてと挨拶と いたしたいと存じます。 どうぞよろしくお願い 申 上げます。 (ゐいうえお順) 会長 (新任) 福島秀 大正五年卒 前東京歯科大学 学長 F 理事 ( 新任﹀ 医政担当 遠藤在三郎 昭和四年卒 理 事 (新任﹀ 共済担当 大多和彦吾 大正八年医試合格 理 事 (新任﹀ 事業担当 木村吉太郎 昭和十年卒 理 事 (留任) 総務担当 後藤芳郎 昭和十三年卒 理 事 ハ留任﹀ 事業担当 山本為之 昭和十六年卒 横須賀篤 理 事 (新任﹀ 共済担当 昭和十四年卒 理 事 (留任﹀ 編集担当 渡辺富士夫 昭和十七年卒 事 (新任) 大塚豊美 大正元年 東医校卒 事(新任) O新 役 員 会 福島先生を会長とする新執行部は 別掲のように副会長、理事、監事も 決定し、第一回の理事会が一 月十一 日、母校クラブ室で開催された。 会長より基本方針の被援があり、 理事の職務分担が決まり、 その仇当 面必要な事項が協議され 、第一足を 踏み出した。 O新 旧 引 継 ぎ 会 信 κ 同日 、 理事会終了後五時半より同 所において 、田 丸 前 会 長 以 下 旧 役 員、新役員会員が出席して引継ぎ会 が開催された。従来のような単なる 形式的な会合ではなく 、 具体的 詳 細な引き継ぎが行なわれた 。 短 AV 行 事 ロ月 9日 静岡県清水支部一日入学 参加者お 名 十 二月定例役員会 日曜セミナ ー 市 川病 院 受講者幻 名 会報一二O号発送 部 副会長 (新任﹀ 井上真 大正六年 東医卒) 東京都 副会長 (初任﹀ 長谷 川 慶 僻大正十年卒 -東京都 理 事 (新任) 総務担当 佐々木達夫 昭和二十七年卒 利子 晴美 日日 栄 大正十二年卒 事務長 事務職員 久保田 有江 日年目 理 事 (新任) 会計担当 佐藤貞勝 昭和十八年卒 理 事 (新任﹀ 総務担当 高木圭二郎 昭和十年卒 理 事 (留任﹀ 編集担当 高橋重雄 昭和三十 三年卒 理 事 (留任) 会計担当 宝田忠 本 1 21 2 月月 西 副会長 (間任﹀ 理事 (新任) 総務担当 阿保喜七郎 昭和二十八年卒 1 71 5 2 1昭 1 月和月 ω 役員会 新旧役員引継ぎ会 八V 役員出張 ロ月 日 北 多摩支部懇親会 田 丸 会長 ロ月ロ 日 日本橋支部総会田丸会長 昭和M 年 1月刊日 千代田 支部新年会 福島会長 94 32 0 蔵 徹 大 原 ' ' 理 事 (新任) 医政担当 安嶋宜忠 昭和十四年卒 七 監 策 蔵 茂 ' ' f 壬 市 │I'T" 1 1 1 県 長 〆武藤実 大正九年卒 (福島県) ま辺信 昭和十年卒 ︿ 1月日日 学校支部総会 福島会長 1月げ日 全国歯科大学問窓連合会 長 谷 川副 会長、遠藤理事 1月幻 日 山形県支部総会福島会長 1月お日 墨田区支部新年会 福島会長 1月初日 芝 支 部 新 年 会 福 島 会 長 1月幻日 神奈 川 県支部新年会 福島会長 V 支部長交替 5林 武夫 北海道連合支部長 日本橋支部長 ロ北村尚 学校支部長 8山本 義 茂 6水 上 啓 起 山梨県支部長 ︿V 評 議 員 委 嘱 (支部長推薦) 日本橋支部 お中 村 泰 之 8長 尾 喜 景 学校支部 千葉県支部川鈴木芳信 クラス会代表目 D J各 支 部 長 生 ︽ お願い ! 会員名簿の経理を行いた いと思いますので支部会円以名簿クラ 逝去会員 北 海道 長野県 長野県 岡山 県 北海 道 長野県 ス会員名簿をお送り願います。 V ︿ ム 一 一 ・三 4 関 二 二 回了八 ・ 毛 ・九・三 7渡辺温知 一 四 三一 医万根川義一四千二 ・ 推木村貞隆回ニ ・三・六 2白井馨四ニ・コ一・三 官回瑛一豆 ・コ 一 ・ 一 宮 一 鹿児島 県 2新原広光 四 弘滝沢喜久男四ニ ニ ・ コ 一 ・ 世田谷区 回 ニ 埼玉 県 推梓沢芳雄四ニ ・ ・ 三 一 コ一 謹んで右の方々の と冥福を心よ りお祈りいたします。 。 大 副 正 渡会 監 員紹介 役 教 北米視察旅行記 付 津 和 た 。 目 的 と は 、 母校の命による歯科 洋行という名の海外視宏一小旅行であっ ば 、 私の場合は、まさしく外遊又は lル通り出張することな り と す れ 行 ﹄ と は 、 目 的 を も っ て 、 スケシュ り せ ず、 気楽に出歩く事をいい、﹃旅 在留邦人に交って高松宮御夫妻をお 出 会 ったり、 モ ン ト リ オ ー ル で は 万 国 博 日 本 デ l (七月十二日)に数多 ブ五十周年記念式典(七月五日)に 日(七月四日)と、ライオンズクラ 供天国ディスニlランドに行ったり (七月一日)、 シ カ ゴ で 米 国 独 立 記 念 ルセンター 、 羅 府 で は 同 大 学 ロスア の他氏 、 基 礎 学 専門 の 立 場 か ら、 筒 私は歯学微生物学専攻である乙と た。今一つ残念なのは 、 バッファ ロ l 迄 行 き な が ら、ロ チェスタ l滞 在 の奥村輿治 氏 に 会 え な か っ た こ と と ンゼルス校舎 ( U CLA) と 私 立 南 独立記念日前日(七月一一一日﹀連休の 最後に在留邦人について一寸ふれ 日開 AD ためシカゴで米国歯科医師会 ( A﹀へ行げなかった乙とである。 NIDR) にある国立歯学研究所 ( ておく。桑港では 、 島 静 一 総 領 事 とメディ カ ル セ ン タ ー 医 学 部 の 町田 近 隣 の 米 同 微 生 物 株 セ ン タ ー (AT C C) に 足 を 延 ば し て 、クラ l ク所 (金大 ・解 剖 ) そ の 他 の 留 学 生 の 方 々、 紐 育 州 立 大 学 バ ッ フ ァ ロ l校 舎 と紐育市立大学歯学部高橋暁医師 栄 教 授 と 舎 弟、 組 育 で は ウ ォ l ル街 な る ラ イ オ ン 歯 磨K K事 務 所 の 方 々 緩府では南加大学歯学部矯正科田中 喜久雄医師(東大 ・上 国 内 科 留 学 生 ) に参上、 口腔微生物 学 界 で 著 名 な 、 NIH﹀ 巻 訪 ね て 、 構 内 健研究所 ( ンの近郊にある 、 彼ω広 大 江 田 立 保 学した(六月一一一十日﹀。首都ワシント m 加 大 学 で は 学 部 微 生 物 学 の ア てフ ルマン 、 ヵl ツ 同 教 授 の 研 究 室 を 見 加 大 学、 シ カ ゴ で は ノ l ス ウ エ ス タ ン 大 学 と イ リ ノ イ 大 学、 紐育ではコ ロ ン ビ ア 大 学、 紐帯同市立大学、 バッ ファロ ー で は 紐 育 州 立 大 学 と い っ た、 米 国 の 著 名 歯 科 大 学 八 校 の 視 察 の他、 カ ナ ダ で は 、 モントリオール の マ ッ ク ギ ル 大 学、 トロントのトロ ン ト 大 学、 ウ ィ ニ ベ ク の マ ニ ト パ 大 た傾向として 、付属病院での学生教 長直々所内の案内を受けたりもした 級育では旧ロックフェ (七月六日)。 培地のロコ l サ、 スピレへ l タ の ハ ンプ同博士の健闘ぶりを見て来た。 育診療室はコンバートメントシステ ムを採る のが立て前で 、 大 部 屋 と い (七月七日)、モントリオール大学医 ラ ー研 究 所 に ジ ン ダ l 教 授 を 訪 ね 学 を 加 え て 、 計十一歯大を歴訪した え ど も、 チ ェ ア ー に か け た 患 者 同 志 訳である。米加両国の歯大の一致し 顔 が 見 え な い が 、術者同志は見え、 士、 オ タ ワ の 日 本 大 使 館 と オ タ ワ 大 学 生 物 学 教 室 平 野 正 留 学 生、 ゥィ ニ ベ グ 岡 崎 熊 雄 総 領 事、 カルガリー 歯学部オ 1 ラ ル パ イ オ ロ ジ l の 真 下 彰助教授と母校期間学生 ・校 重 夫 博 際 、 ﹃世利得範洲﹄の漢字名刺をいた 市立病院麻附科長石井正樹医師(慶 迎 え し た 事 ゃ、 ウィニベグでカナダ だいたのにはピックリした(七月十 大変お世話になった。私は国際歯科 教 育 事 情 調 査 で あ る 。出張先は 、 U 三日)。そういえば前記インクル、ア ップルマン両教授からも立派な名刺 I C D) フ エ ロ ー で あ る 学士会 ( 為、 山 内 竜 太 郎 フ エ ロ ー を 通 じ て 本 学 部 見 学 の 際、 ス ト レ ス 学 説 で 有 名 な、 杉 靖 三 郎 教 授 と 懇 意 と い う ハ ンス ・セリ エ教 授 に 拝 眉 し て 、 主 宰 六年来日のソグネス歯学部長自慢の を 戴 い て い る 。 岡 市 の マックギル大 部 よ り 種 々 便 宜 を 得、 個 人 的 に も 山 各種サインライプをとりつけたりし て、 数 少 い イ ン ス ト ラ ク タ ー か ら は この新施設を見せて貰った(六月三 日 ) 。 首 都 オ タ ワ の国立 調 査 研 究 所 学では生物学教室をも訪ねた(同 た。また私は野口英世博士記念会役 十二日)に際会する等の幸運に恵ま 十日)。私は主として臨床検査室 、 付 員 で あ る 関 係 上、 旧ロックフェラ ー 建国百年記念汎米体育大会(七月二 本の水兵さん多数に出会った。パァ フアロ!とトロントの間にある五大 属 図 書 館、 学 生 の 食 堂 と ク ラ ブ 活 動 十 八 日 て そ の他ウ ィ ニベクのマニト 研究所にて野口英世博士の胸像を図 日再び羽凹に無事帰着した の で あ る。 過 ぐ る 一 九 五 八 年 夏 、 西 欧 十 カ 国二カ月の旅行から数えて十年自に 当ることを銘記したい。 伺 桑 港 、 経 府、 シカゴ 、 ワシントン D c、 組 育、 バッファロ ーを経由し、 自 衛 隊 の 艦 隊 入 港 が あ り、 乙 五日﹀ 、 れはカナタ建国百年の祭典に参加す べ く 遥 々 来 港 し た と か で 、 街では日 に注目しつつ 、 学科謀程など詳細記 ター(電算機﹀と秘書の善用の三点 は 大 い に 学 ぶ べ き ζと と 思 う 。 そ の 見学した 。 前科医でブリチッシュ ・ コロンビア大学総長 の マクドナルド 物 学、 電 顕 室 、 農 学 の 研 究 室 を 適 宜 各 大 学 や 研 究 所 で は 、 生 物 学、 微 生 ら銭別を戴いたことを銘記する。 れ得ぬ思い出である。 外のウッドロ ー ン の 博 士 墓 地 に 案 内 していただいた 、同 記 念 会 関 山 事 務 稿 を 終 る に 当 り 母 校 同 窓 会 其他 か 局 長 友 人、 高 橋 愛 志 郎 氏 の 好 意 は 忘 博士には 、 折 角 バ ン ク l パ ー に 行 き な が ら お 会 い で き ず、 遺 憾 で あ っ ( N R C) とオタワ大学(七月十七 ・ 内 家 の 関 係 者 の 皆 様 に 御 世 話 に な っ の 実 験 医 学研 究 所 を 見 せ て 貰 っ た 湖に属するエリl湖からオンタリオ 八大学(七月二十二日)、ぜハンターパ 書 館 の 一 隅 に 探 し 当 て た み ぎ り、 郊 術者が今何をしているか一目で判 り、 か つ 術 者 側 か ら のS O Sのサイ γに よ り、 イン ストラクタ ー が 馳 せ 湖への水路にかかるナイヤガラ爆布 入 し て あ る 歯 大 カ レ ン ダ ー集 め に 奔 ー のブリチジシュ ・コロンビア大学 れた。,ハンターバーでは(七月二十 の雄大さも忘れることが出来ない。 カルガリーから長途、バンフ国立公 走 し た の で あ る 。 南 加大 学 の イ ン グ (七月二十五日﹀ 、 の前記 カナダ国の 月二十七日の私の五十八才の誕生日 に 羽 田 空 港 を に ら、 同 年 七 月 二 十 八 圏内のカナディアンロッキーに行 ル 歯 学 部 長 に も、 パリ l のF DI出 観光談はその辺にして 、 本論の歯 同 詳細な報告は後日の機会に譲る。 大医 ・ 一九五四年卒)等 の方 々には 順 路 と し て は 、 一人旅の USAで き、 途 中 ア メ リ カ イ ン デ ィ ア ン に 対 今 度 は 約 二 十名一回のカナダ大学ク ラブ ( CUC)の一回貝 と し て カ ナ ダ 国 に 入 り、 国 境 の 北 緯 五 十 度 線 上 に あ ク lバ ー とい った風に 、 逆 に 、 大 西 ではカリフォルニア州立大学メデカ 科教育事情調査の話にうつる。桑港 同 万 年 雪 の コロンビア氷河上で遊んだ りもした(七月二十三日)。 洋岸から太平洋岸に飛石伝いに飛び る モ ン ト リ オ ー ル 、 オタワ、トロン ト 、 ゥ ィ ニ ベ グ 、 カ ル ガ リ ー 、 バン 回 っ た の で あ る。 かくて米加両国各 〉 参 ず る と い っ た、 素 晴 し い シ ス テ ム で あ る 。 前 記UCLAでは 、 一九六 は、太平洋岸より大西洋岸へ向って 面 し た り、 美 く し い ル イ lズ湖畔や 席の帰途渡米の松宮教授と相前後し ) 。 てお会いしている(六月三 十 日 彼 の 地 大 学 テ レ ビ 教 育、 コンピュ ー ず つ の 滞 在 で あ っ た 。一 九六七年六 十四都市をまわ っ て 来 た こ と に な る。その問、羅府では彼の有名な子 市︿カナダ国)の観光をも含めて、 が大西洋に注く河口の州都ケベック 浜(U S A)と、セントローレンス 川 六 都 市 の 他、 常 夏 ハ ワ イ の ワ イ キ キ 米 S Aと カ ナ タ 両 国 で あ って 、 名半月 ﹃たび﹄に出るとは 、 目 的 も は っ き 授 4 本年十一月に行われる 日本学術会議第八期会員選挙の手続 日本学術会議は 、 わが国の科学者の内外に対する代表機関で 、そ 川 川 川 日本学術会議中央選挙管理会 一川 の会員は選挙によって、必ばれます。 一川 昭和四十三年は 、 三年ごとに行なわれる会長選挙(第 八期 )の年 剛 剛 川 川 川 川 川 一酬 であります。 一川 会員に選挙され 、 または会員を選挙するためには 、 日本学術会議 川 一川 一川 一川 管理会から 登録用カ Iドを提出するよう 通知のなかった人は 、 有 権者名簿に登録さ れていますから、 あらためて登録用カ lドを提 通知のあ った人は 、 昭和四十三年三月三十一日までに 本管理会に 酬 ても、本管理 会から、 あらためて登録用カlドを提出されるよう酬 酬 州 登録用カ lドを提出しなければなりません。 川 川 山 川 川 山 川 川 よる資格審査は 、 昭和四十三年四月l 五月 に行なわれます。 剛 三、選挙期日 ( 投票締切日 )は、 昭 和 四 十 三 年 十 一 月 二 十 五 日 で 酬 ζの登録用カ l ドに 川 州 山 出 する必要はありません。 川 二、前回の 選挙 の有権者以外の人および前回の 選挙 の 有 権 者 で あ っ 酬 一酬 一川 第八期 の選挙について 、特に次の乙とに留意してください。 昭和四十年 ) の選 挙の有権者 については 、前回提出の登 一、前回 ( 録用カ lドにより、資格審査が行なわれました。これに関し、木 一川 の有権者名簿に登録されなければなりません。 一川 よ 幽 A 444 , iittJ M 青柳文雄君 一‘ . 圃 守d冶a 昭和二十七年卒 一・明副司羽州 ー は 母校解剖学教室 一a 園 ﹁双生児の歯と攻 守 円形態 の類似性よ りみた形態逃伝学的研究﹂歯科学報 第六十七巻五号 指導及び主査 上条薙彦教授 a 幽 ham !v ・ 1 ? a VJ- 〆なお、次 の地区の就職希 望者もと 外国往来 ざいます。 (新潟市・立橋市 ・別府) 。高添一郎助教筏(微生物学)はテ キサス大学に客円以研究此として昨年 学位受領者紹介 十二月十八日 出発し、 一年 間川大 学 。歯学博 士 で研究を行なう。 市 川 明 彦君 。北村、 三崎教授は一 月五、六日に 昭和三十二年卒 開催された台湾省歯科医学会に列席 母校理工学教室 のため大学より派遣された。 ﹁微粉アマルカ ム 。今西孝博助教授(小児 歯利学)は の処理条件に関す 厚生省より w H・O(世界保健機構) の特別研修生に選せられ 、 欧州にお る研究﹂歯科学報六十七巻八号 ける小児歯科事的調査のため三ヶ刀 指 導 及 び 主 査 金 竹 者 也 教 授 問フィンランド、スウェ ーデン 、デ 大曽 根 正 史 君 ' ン マ ー ク、 西独、スイス 、 チェコス 和三十五年卒 ‘,小 一一ご母校保存学教室 ロヴァキアを歴訪する 。 一月十 三日 電 出発した。 ﹁非滅菌水道氷注 自一水下、エア l タl 八V 人 事 ヒンによる露出損傷歯髄に対する直 辞職 必・幻 ・幻 接歯髄覆軍法氏関する臨床病理学的 講師中村靖夫(保存) 研究歯科学報六十七巻九号、 講 師 宇 山 順 子 ( 生 化 学 ) 指導及び主査関根、氷滋教授 助手片倉恵男︿口外) 1111 E 氏 家 英 峰君 助手渡辺英人(補綴) i f h圃 昭和三十一年卒 助手上竹成一(補綴) J-唱姻副 ・ 刷 母 校 口 腔 外 科 教 室 助手 小山 一 六 ( 補 綴 ) ‘ 仁 9 ゐ﹁熱線風速計を 川 1酔 利 一 一 FFfL Sh 休職 位 ・ロ ・l LU 用した呼気消費量 講師木津武久(口衛) による口蓋裂患者の言語障害に関す る研究﹂歯科学報六十七巻九号 指導及び主査、長尾喜景教授 新卒歯科衛生士 求人申し込み受付中 す 。 剛 今年度の本学歯科術生土学校の卒 四、有権者は、氏名、 住 所 (住居 表示の 変 更も含む )本籍、 勤 務地 酬 業生中、 就職希山一著は三十名おりま のいずれかに異動があったときは 、必ず本管理会に﹁有 権 者 異 動 酬 す。ただ今、当校においては求人申 届﹂を提出しなけれぽなりません 。 これを 怠る と 有 権 者 の 権 利 を 川 し込みを受け付けておりますので 、 行使できないことがあります。 酬 と希望がとぎいましたならば 、 衛生 士学校事務室までお問い合わせ下さ い。(内線引番﹀¥ 5 1 , 2 00 ッ ト ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・¥ 1セ ネオ製薬工業株式会社 京東 ・渋谷 校 。なお不明 の点は本学調査部(部長米沢和一教授)にお問い合せ 下さい 。 芽膜度が薄く,前装歯に賞用されます。 8 0 ¥ 2 . . . .. . . .. . . . . . .3 0 g ¥ 2 8 0 コ ー ノレデンブラウン ・3 0 g ¥ 2 8 0 液 ••••••• ••••••• …・…・ 回一5 0 g ¥ 2 0 0 歯髄保護 と同時に永久合着裏装に好適 2 8 0 ライ ト イ エ ロ ー ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・目 白3 0 g ¥ ジンジノミノレブラウン ・ ・ ・ ・ ・ ・3 0 g カラープロテク トセメント 装 4 砂 4 砂包 4つの色調で広範囲な用途 母 ライトグレー 支 部 の う ごき V清水支部企 母校 一日入 学 十二月九日 、会員数約一一一 十五名小、 河村孝義支部長 以下二十四名が大挙して母 校へ一日入学を致しまし た。当支部第一回の試みと して本年は矯正及び小児歯 科の見学とし 、他 の科は毎 年順を追って見学する事と しました。 当日は早朝の新幹線で出 発、 九 時半頃母校着、諸 教 授の心からの歓迎を受けて 大変恐縮いたしました。学 校側の受入れ態勢は万事手 抜かりがなく 、白 衣の用意 までして頂きました。 まず、松宮教授、関根病 院長より歓迎の言葉をいた だき、 当支部長より挨拶、 山本、町田両教授より見学 スケジュ ー ルの説明を受け てから病院見学に移りまし た。 各医局長のリ lドで診 療室の見学をしながら、活 発な質問それに対する解答 と万事順調に進みまし ・ た・ 。午前中の充実した見学 も以 外 な程短かく感ぜられ ました。 正午よりクラブ室におい て、 多教の先生方と楽しい 会食ぞ致しました。 午後一時よりオ l ル屯動 式の第四教室に入りまし た。 冷暖房完備。 スライド 十六ミリ。カラ l。 ト l キ ー、等々、我々学生時代には思いも よらぬ事ばかりでした。昔は夏は暑 いからと云つては、授業を サボって 冷房のきいた挟函館へ行った事もあ りましたが 、 今では教室の方が快適 なのだろう、 と思い 山話に花を咲か せておりました所、 突然 H起立 μ の 号令がかかりハッとして学生時代に 逆もどりしました 。 H 礼 u H 着席 H の芦と共に講義に入 りました 。 関根教授の﹃直抜、 即充 について﹄の久し振りの名講義に酔 い知れている内に講義が終り町田教 授の説明に依るスライドと十六ミり を使った術式を見る 。約二時間にわ たる盛業も﹁アッ﹂と云う間に終り 質疑応答に移る 、 我々の疑川はまだ まだ多く残っておりますが次の機会 に残して ・ : 再 び H起立 H H礼 υ の 号令に依って現代にかえりました。 これで一応一日入学の全 課程 を終 る事になりました 。 学生時代 なら、 いくつサインをもらえたのだろうか と、 ある一日入学生が 聞 いて笑いま した 。 四時頃、 諸教授に見送られて 又々恐縮しながら病院の玄関を出ま した。 一同の感じた事は 、先ず学校の関 係者の努力に依って世界の東歯の面 白躍如たる事でした 。小児歯科に於 ては、あんなに多数の小児のうち、 泣いて困っている患者が一人として いなかった事でした 。また 、数ヶ月 後の診療を待っている事などから考 えて 、小 児歯科の重要性を痛切に感 じさせられました 。 また 、殆どの場 合に設麻の基に治療を進める事など も日新らしい事では無いとは云え 、 十分に考えさせられました 。 矯正の予診室、 診 療室に至つては 、 我々に夢を持たせ て新しい診療に対 する内党に目覚め させてくれるのに 十分なものがあり ました。 総体的に見て 、 今後、我々の診療 をどの様な態度で 進めて行くべき か、今年の重大な る課題の一つにな る事でしょう。 最後に 、杉 山 学 長を始め 、松 宮、 関根両教授、 及び 医局の皆様方、 一 日入学に就いて円以 初に口火を切って 下さった福島、 大 井 両 先 生、 そ の 他、闘係の皆様方 に、紙上をもって 心から厚く御礼申 し上げる次第であ ります。 今後も、清 水 支 部の恒例の事業と して永く続けるつ もりでおりますか ら、 その折には宜 放しくお願い致し ます。(田村領司 郎記) をに/ ト許結 ン手集 メの ル生 ッ先 ス ン Jl 阻 コ -仕事が遼い/ ・楽ですノ 回疲れません / U .S. A .PAT.3198574 商糊 庖蜘 森田製作所 一森 脇 ・ ' 大 国防 持制ロ u凶 北ス 制川 J -司口司 令 ん ? ' 桂川 ヰ zfι ゼ 京都市伏見区東浜南町 6 8 0 6 フ 一 ス 遊 会 総会並びに秋期懇親会 ク だ 会 よ った。 昨年十一月十日(金)午後五時か ら芝の八芳閣別館において開催。 出 席者米賓を加えて五十三名盛会であ E 八芳凶は止回大久保彦左衛 門が余生 を送った地として有名な処、地挽鐙 雄君の司会によ って開会した 。 まず井上会長が開会の挨拶をの ベ、 その中で戦後の混乱期は首相と して日本再建 の悲願をなしとげた吉 田茂元首相の 功績を讃え吾人も社会 から好ましい医家として期待される ように心掛けたいと語り、会員中叙 勲 、 受章の栄典に浴された榊原勇士口 上回貞三 、渡部重徳、 渋谷常三郎、 成富治男、塩見寿二 、 五十嵐庭治、 大塚登美の各氏に 対しそ の栄誉を讃 え心から祝福するも のであると祝意 を表した。続いて 、 三輪副会長から 庶務、会計の報告を行ない異議なく 承認された 。依田清君(品川)が大塚 副会長の紹介によって新たに入会さ れた乙とを報告し 、 同君が新入会 の 挨拶を述べた。続いて本年度中逝去 された会員柳沢靖て本多福雄、加 賀永て田端安治、原一学、吉井保 三各氏 のC冥福 を 祈 って黙謝を捧げ た。ま た、本年喜 寿 を 迎えられた、 石橋坦 、武田伴三郎、鹿野清三郎、 松宮盟、四君に対しそ の 長 寿 を 祝 し、記念品を贈呈した。来賓母校大 井副 学長、関根病院長から(杉山学 長、 田丸同 窓会長共に所 用 のため欠 席﹀夫 々起 って謝意を 表しお互に 健 康で楽し い人生を送りたい 。母校も 同窓会と共に各位の御支援によっ て、 益々発展していると語り以上を ると思う大いに胸襟を開いて一タを かに杯を重ねたいと乾杯の音頭をと 語り合い愉しく過したいと開宴 の挨 拶を述べた 。長老 小椋善男君は 、 八 方に広がるという八芳園の一タを和 った。貴金属の大幅増量 が実施れる と言う朗報を伝える富山の杉江玄照 君、 舞台に上って三味線に のせ て自 慢の喉を聞かせる千葉の佐瀬蔀君、 その他踊るもの謡うもの続出した が、 酒が廻る につれて話声も高まり 惜いしかな聴きとれぬ程の賑かきで あった。何れも一騎当千の古豪揃い 意気大いに上がり時の移つるを忘れ 午後九時前、井上会長 の音頭に よっ て母 校の万 才を、大井副学長 の音頭 によって東遊会の万才を三唱して芽 出度く散会した。 当日特に金品 の御寄付を添うした 各位に対し深く謝意を表します。 (三輪記) 会 ﹂ 十月 二十日午後五時集合地玉造温 泉長楽園に 、 北は青森、南は宮崎よ り夫 妻手に手をとっ て ニコニコと集 合。一年振で閏い握手を交す者、か 級友もお互に七十才前後となり、 四十余年夫妻共に 健に 、 又子供達も 各々成人した今日 、結びの神様出 雲 大社に参拝も意義あり、 又旧い日本 の歴史に富み 、 風光明美な宍道湖、 湖 畔 の松江、 更に泉量豊かな玉造、 三朝の湯につかるも老後の楽しみ。 例年の申歯会総会は 、昨年 の総会 席上で 、今 年 は 山 陰 地 方 と 決 定 し た 。 歯 東 り も って総会を終り懇親会に移 った。 大塚副会長は本会も各位 の御協力に よって益々発展し有力なる百数十名 の会員を擁 して懇親を重ねているお 互の天職に奉仕する乙 とが天命であ たをたたいて健康を祝し合う者、定 刻には三十七名全員元気に集合す 。 旅の疲れを一浴玉の肌となると記さ れたい で湯で流し 、 七時より宴会。 楽しい温い和気に溢れた一タを過 す。 翌二十一日午前八時半、デラック スなパスに乗車。ガイト販の説 明も 半ば耳に入らぬ眺望の中に大社に到 着す。 一同神前 に進み御礼 のお 神楽を奉 納し、神 酒を受け 、申歯会の発展と 各自の健康と幸福を祈願す。思い出 の社を後に 、更に日ノ御崎灯台に向 う。 左に日本海 の荒海、 遠く石 川 の 三瓶 山を眺め 、 ガイドの歴史、神話 を耳にして白菜の灯台下に休憩す。 紺碧に光る日本海を眺め 、灯台を 仰ぎ見、 天然記念物の海猫の生殖 地 を眺め再び改造中の悪路を右に左 に、上に下にゆられつつ大社町に帰 り昼食を摂る 。 一時間余の休憩後、 秋晴れの出雲路を八頭の蛇の神話 . 笈の 川 の伝説等をききつつ宍真湖を 左に眺 めて松江市に入る 。 美 しい松江天主 閣を見つ つ小泉八 雲氏 の旧宅 を見物し 、松江大橋を経 て車は一路北上 、 ガイド嬢のたえ聞 なき 出雲史物語、 ふ る さ と の 小 唄 等、半ば聞きつつ半ば夢路をたどる 中 、 今日の宿泊 地三朝温泉万翠楼に 五時半到着。一日の旅の思い出を語 りつつ岩風呂に浴して旅の疲 れをい やし 、七時 より宴会。民芸安来ぶし 、 さいとりさし等郷土民芸保存会有志 の方々の熱演に拍手をおくり、会員 の飛入り穏し芸に腹をかかえ、 酒盃 廻るにつ れ四十 余年前の学生気分に 帰り時の経るも忘れて談笑の中に早 や十時 の鐙の立自に 、各自室に帰って 出雲伯嘗の思い出の夢路に入る。 翌二十二日七時半の朝食を共に し、 互 の健祥を祈り、 来年の会合を 楽しみつつ西に東に閑散す。 会する者三十七名、 一名の事故も 無く愉快に二日の旅路を終った事を 心から喜んだ次第。 ﹁ド会﹂ κ 会員消息 高 給 洗 君 (旧名高明夫) 突然同君より編集蔀 お便りをい ただいた のでご紹介します。 成 申 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 同君は 、 中 国 で 三 十 年 間 診 療 に 従 F 事 さ れ 、 そ の 間 武 漢 作 戦 当 時 従 軍、 そ の 後 決口で診療を開始されたが、 しており、 ζれ ら の 悪 化 に よ っ て 脳 る。剖見の結果腎臓腫晴樹の他臓器の 外壁が薄くなり油脂性のものが附着 年を考えさせられるような方が十人 、 の 出 入 も し て い た よ う で ある。しか あった。銀座あたりの一流どころへ は級で最初に紹介する程の発展家で りしなかった。在学時代の君は頗る 予タンボーイで 、 当 時 の 流 行 歌 な ど た。一方学校歯科医として児童生徒 支部長としても一般社会に貢献し 会の文化厚生の面で活躍し、 大きな 足 跡 を 残 し た 。 民 生 委 員 と し て衆人 の た め に 尽 力 し、 ま た 交 通 安 全 協 会 糖尿病などに悩まされているという したいとの明るい見通しの方が多い 程おられたが、 養生の甲斐があり快 方 に 向 っ て い て 、次 回 に は 必 ず 出 席 た J元慶大医学部長北島太一先生の 医師会の理事や学校歯科部長などを ら大いに感謝されている。地域歯科 の 口 腔 衛 生 に も 異 常 な 熱 意 を 示 し、 私財を技じて校内治療の 施 設 を 作 り、 治 療 に 尽 し た 乙 と は 、 関係者か 軟化症を起したものとの推定の由氏 は 六 男 二 女 の 子 福 者、 奥 様 は 富 久 子 御曲Hf北 島 興 三 君 が 同 級 で あ っ た 関 歴任し 、 大 き な 抱 負 を も っ て 、 着々 七年間集合的組織の歯科診療所の所 を失ない 、 上海で Mm 終戦と共に令-財 ' 係で、実習時間など指導の先生の限 も会った時、 渡 辺 君 も 出 席 し て 貰 い、 三 辰 会 を や ろ う な ど と 語 っ て い たのに 、 間 に 合 わ な か っ た の は 、 返 えす返えすも残念である。今は唯々 在天の霊の御冥福を祈るのみであ る 。 ωさとりも乱れぬるかな 見えた林武夫君の乾盃の音頭で開 夜、新宿芙答会館で両兄を祝うクラ ス会を催した。先づ速く北海道から 昭和七年三月二十五日 、 東 京 駅 の ステ ー シ ョ ン ホ テ ル で 謝 恩 会 を 開 午 後 一 時、 狭 心 症 で 死 亡 。 長 男 は 新 一一一カ月も経った 、昨 年 九 月 十 二 日 、 った級友も多い。渡辺君もその一人 で 、 岡 県 で 開 業 の 村 居 良 雄 君 す ら、 歯科医である。山田君の応召中も歯 立に開業した。奥さんの博恵さんも 翌年退職し 、 郷 里 の 長 野 県 松 本 市 島 された。 君が 、 十 二 月 十 五 日 突 如 と し て 逝 去 き、 代 表 選 手 と し て 大 い に 活 躍 し た 須郷君は青森市に昭和九年より開 業、 学 生 時 代 に は 柔 道 部 に 籍 を お 須郷省三君を悼む うべきか。(芦沢悠) のある乙とは不幸中の幸いとでも言 一郎君は現在東京歯科大学進学課程 の二年に在学中であるので 、 後 継 者 り、また長女由美子さんは昭和四十 一 年 東 京 歯 科 大 学 ぞ 卒 業 し、 長 男 源 しかし、今後奥さんが医院を守 た 。 た。私達は憶きと悲しみに呆然とし 性牌炎のため 、 突 如 と し て 逝 去 さ れ κ その実現に努力していたのに 、 惜 し い人を失ったものである。 昭 和 四 十 一 年 肝 臓 疾 患 で 、 一時 P いするつもりでお招、きした両兄より をぬすんで 、 よ く 手 伝 っ て い た 親 切 のは何より喜ばしいととで、今後一 多額のお心遣いを戴いたので大村君 家でもあった。漆田一⋮の髪をきれいに 様といい、次男の健郎君が九州歯科 以上 、 白 井、 新 原 両 氏 の 計 報 を 相 の発言で記念品をお贈りする乙とに し、出 席 者 全 員 か ら 御 芳 志 を 頂 き、 長もっとめられた。四年前出境を許 次いでうけてだ然自失したのである 両兄に益々御壮健で歯科界のため御 し、決して不良学生とマ ー クされる ような ζと は な く 紳 士 学 生 で ゐ っ が、 こ の 御 二 人 は 去 年 の ク ラ ス 会 で は出られる可、合方々でありながら出 分け、 ポ マ ー ド の 香 り を プ ン プ ン さ 入院していたが 、 近 頃 で は 全 快 し て 層の御療養をお願い致します。お祝 られなかったのである。哀慨にたえ 活躍下さる事を希って山添君の御斡 せ、 テ カ テ カ と 光 ら せ 、 狭 い 額 が 印 象的であった。中背で 、 頑健な体の 大を卒業して家業を継いでいる。 ない。御豆ハ福を祈ってやまない。 旋 で 純 銀 製ー カップをお贈り致しまし 菊 池 智、 小 室 史 郎 、 沢 潔、 清 水 紘 寿 た 。 出 席 者 熱 田 英 て 朝 倉 竹 次 郎、 浅 田 喜 三 郎 、 遠 勝 義 平、 大村武生、 診 療 に 従 事 す る よ う に な り、 周 聞 も 喜んでいたところ、四十一年十一月 昭 和 五 年 卒 11 持ち主で 、 六 十 才 に な ら ず し て ζ の 世を去ろうなどとは信じられない位 されマカオにおらつかれたとの乙と です。今後の御健闘をお祈り致しま す 。 襖門伴利則街一一七 美 徳 美 大 屋E座 四 楼 げ﹂ HT一 年 北村勝衛記 再び身体の異常を訴え、 入院治療も つかの間で 、 十 一 月 十 五 日 急 性 出 血 雄、 関根、永滋、 高柳秀夫、 田 上 末 吉 中 村 鉄 雄、 中 川 果 、 長 久 保 正 夫、 林 武夫、 松宮誠一 、宮 代 繁 義、 村 田 秀 純、 山 添 新 一 ・ 郎 ( 敬 称 略 ア イ ウ エ オ順﹀村田記 長 野 県 東 歯 蓉 科 寮 に ゆ き、 村 居 兄 と である。一度会いたかった。先般、 税 金 で い じ め ら れ た 四 十 二年とい 病院長に 、 松 宮 兄 は 大 学 院 研 究 科 長 (旧大学院院長)にと両兄揃ってそ う年も、 松 宮、 関 根 両 教 授 に と っ て の 分 野 に 於 け る 最 高 位 に 御 栄進 な さ 付 白井響君 は昨年十二月二日勝臓 癌のために死去された。昨年五月頃 併著し豚臓婚というととで市立前館 小康を得ていた。九月二十日貨症を 病院に入院し療長をつとめたが十一 れ、真に御同慶の至りでした。 乙の栄誉をたたえ同窓会総会当 の句を家人にメモさせた 由 、 十 二月 み且語らい乙の上ない楽しい一夜を 宴。一同学生時代に若返り大いに飲 親友、 山 田 喜 重 君 は 母 校 を 卒 業 多少まだ疲れの残っている方もあ 潟大医学部在学中という程度のこと 幹事長大久保一夫 二日永眠御迦族は奥様のイツ様を始 き、全国各地へ散っていったわれわ 故渡辺温知君を悼む め二男二女、長男健裕君は新潟大学 過した。学生時代と少しも変らぬ元 れは 、 そ の 後、 全 く 再 会 で き ず に 終 ったが 、 大 半 は そ の 役 目 を 果 さ れ 、 空 教 育 学 部 地 質 学 教 室 の 講 師、 二男は 気さに互に励げまされ、 今 ま で 子 供 帥 新原広光君 は 昨 年 十 二 月 十 三 日、 脳 軟 化 症 で 永 眠 さ れ た 。 昨 年 七 これからの人生を 、 よ り よ く 味 わ い 却って嬉しい思い出話になった。 月二十一日発病直後意識不明に陥 あった。彼の自作の続歌の中で 、 特 に愛唱していた一つに 、 ﹁飛べよ飛 にもろく 、 ま た 孤 独 な 性 格 の 持 主 で 須郷君はバンカラな反面非常に怖 り、鹿児島大学病院に入院中であっ 山旧君は開業のかたわら、地域社 科医院は奥さんによって続けられ、 彼をして後顧の憂をなからしめた。 を知った由である。長野県の上山田 温泉で開業され、 同 業 と の 交 際 も 余 まま十二月十三口死亡されたのでめ 〉 たが、日々衰弱が加わり意識不明の 活かして行乙うと張切っておられ た。欠席の御通知の中には高血圧や 山田喜重君を悼む 東歯大卒業の隊二君で 、 ζ の仁が学 ちいったころ 次々に米られる友の友引に 月三十日辺りからとんすい状態にお 胃けいれんの症状から、 慢 性 下 痢 が 会 は大変よい年であられた。関根兄は 瑚 続き腸性腸炎の診断を受けたが一時 珊 後、直 ち に 遠 藤 至 六 郎 先 生 の も と で 口腔外科の副手として勤務したが、 会 生 達 の 事 で 色 々 苦 労 し た 事 も、 それが i 毎 更 業を継いで盛大でめる。 四 辰 上 { ゆ1 &めヲ令。 べ、 とんで泣け泣け 、赤トンボ﹂と いうのがある。また彼は音楽を愛 し、 好んで﹁セロ﹂を弾いた。酒は 若い頃から強く 、 大いに飲んだ方で ドリッド 、 ジュネ ーブ、ロ 1 7を巡 った。シャ γゼリゼ l の樹蔭で母国 山 の大滝、進藤両君、鳥取 の村田 、 そろそろクラス会誌発行 、来年は 幹事は佐藤寛、豊島時太郎両君 会貨二万五 千 円 同 伴歓迎 ゴルフコンペ新津カントリーク ラブで=一日午前八時より 昭和四三年度旅行案内 五月一一一│五日二泊三日佐渡 ﹁かにかかに会いたきもは附くき 友﹂(堤記) 秋庭両君も参加。大いに痛飲する。 ! 愛媛県歯の会長をやっている正岡健 十一月総会 四十名。東中野日本・ 夫君の世話で四国旅行も是非実現し 閣、 森幹事は 応援 に大奮闘。近藤三 たいものです。 郎先生を悶んで 、愛 知、古屋、秋庭 吉 井、 秋山、 堤、 佐々木、 小 野寺、 渡辺、 安楽、柏原、 小杉、森、 水村 武井、 岡村、上野、佐藤 寛、 士ロ峯、 高田 、 佐 藤 俊 て 坂 本、青 木、 二瓶 石井、水野、小鹿、 田口 、 浅野、山 下岩、 守、藤井、 本 問、 五十嵐、 中 加藤、士口枝、岡。近来にない大勢 十二月十一日夜半突然間部 の苦痛を 訴えて、青森中央病院に入院した 。 精密査の結果、解癌と糖尿病である 昭和四十二年十月二十一日(土)、 が大いに押い立ち、 三月から毎月集 まって計画を練り、 石田君をはじめ 全員で﹁一人でも多くの 出席をそし て必ず喜んでもらえる会を﹂という モット ーで努力しました。行き届か なかった点を乙の紙面でお詫びする とともに今年不参加の人は乙の次近 畿でやる時は是非ともおいでになる ようお願いする次第であります。 (山下記) O第二 十回の記念すべき総会は近 畿支部会員の献身的奉仕とかっ又奥 係方のと協力により前述のように成 功裡に終わりました。乙 ζに改めて 次の諸君に謝意を表します。 石田 、有馬、稲野、 上垣、清水、 鈴木(三)、辻、徳 永、 松 島、 丸川 、 森、山下。 会 会 定刻五時には二十周年記念会場 の琵 し み 琶湖畔﹁ ホテル紅葉 ﹂に会員五十三 名と夫人 十三名が到着しました 。 総会は新会長に矢内良徳君を選出 F と つ 散会後、京は紅燈の巷へ散策する者 各自室で歓談する者、 窓外は波立国か すかな琵琶湖の夜更でした。翌日は 全員パスで京都観光、 京都釈にて再 会を約しながら 別 れました。 今回二十 周年記念総会場氏選んで いただいた名誉のために地元十 二名 再現すれば 、 たまりかねた近藤先生 躍り上って﹁いづみ会万歳 ﹂を叫ば れ一同和して会場も揺れんばかり。 して富 山福井 石川 の各県は近畿 地区 に入れ矢野君の他に一名補充する。 弔慰金については従来通りとし見舞 政君議長となり地方幹事関東地区に 千葉県 の杉山君を新たにお願いし 、 中部地区を信越地区(長野新潟) 北 村、皆 川明 君東海地区(静岡愛知岐 阜三重)谷 口富士雄、渡辺製一君そ 叡山閣で一泊、年一回の懇親の実を あげた。久しぶりの出席者もあって 綴幹事より出席会員の紹介があり、 庶務会計報告の後協議となり鈴木義 し無事終了。懇親会には苦難の韮 山 昨年十月八 日に京都叡山閣で四十 疎開時代にとくにお世話になった恩 二年度の総会並びに懇親会を開催し 師近藤三郎先生と 加繰倉三先生のご 出席を頂きました 。和気溢れ酒気充 ました。地元の林徹郎君地方幹事の ち用意の余興また順調、 満座適当に '矢野義明君等のお骨りもあって参加 乱れたと乙ろで校歌 の大合唱。いず 者ぱ家族を含めて七十一名に達し、 み会近畿支部寄贈の大会旗の下で肩 を組み足踏みならして青春の感激を い い 昨年七月不慮の出火で診療室を全 焼したが 、 八月に再建し総械設備を 新らしくし 、大いに張切っていた。 ζとが判った。十三日夜より容態が で、吉岡田 、坂本、青木君の欧州報告 も出たり将に談論風発の大盛会 。 十二月忘年会 h ノ﹂ 定。なお東京地区外の仁蜂会員 C希 望あれば入会を歓迎、早速、 浦和の 肥塚君が電話で入会申込があった。 吉井久君の鉄筋造り医院新築完成 とあって会員有志で記念品に待合室 に大型鋭一枚を贈った。わが仁蜂会 の昭和四 十 二年はかく楽しく陸じく 終った。﹁ 初夢にともの語い遠くな 愛知、石井、 守、吉井の地区幹事を 選出。支部会山口は年五千円。年三四 回会合、内一回は旅行 。会員の慶市 費は役員で適宜 決定して貰う。 次回例会は浅野君担当で二月の予 。 Lた 東京支部長浅野君、東京を六ブロ ック別として各事フロックから吉枝、 急変し 、十四日昏陸状態となり、 十 五日午前二時五十分遂に帰らぬ人と なってしまった。 の仁伶会員急偲'川で乾杯。 御家族は奥様の﹁つな子﹂さんと 、 長女の﹁みさお﹂きんであるが、奥 様は華道の先生をされ、お嬢さんは 青森市内の同業の葛西氏に嫁がれ、 一男一女をあげておられる由、 弘刊ノ。 金沢、那谷寺と新緑を万喫して白 雲楼泊。関西の一行は寧で能登廻 七月欧州旅行 七名(青木、岩崎 坂本、杉山、高田、堤、吉井)F D I学会参加歯科ペンクラブで約二 十 日間 パリ 、ロ ンドン 、 ベルリン 、 マ 八月 関西 クラ ス 会 十 九日夜宝塚 松楓凶で十七名集り、 堤 君を囲んで ヨーロッパ報告の 八ミリを観る 。岡 関西では新和歌ノ描聞に集 って 、 水 入らずの楽しい宴を持った 。 関東では、九日夕四谷﹁味ゆき﹂ で十四名集り。忘年会と同 時に仁蜂 会東京支部会の結成を相談の上左記 の通り決定。なお坪 旧実君が卒業以 来始めの珍客とあって大いに花が咲 なお御遺体は医学の向上のため 、 解剖に供せられたとのことである。 四海会員一同は須郷君 の御只福を 心から御祈りする次第である。 (服部純治記﹀ 一 Ez会 五月北陸旅行 三十四名、夫婦づ れ四組 。福井駅集合、永平寺、東尋 坊を廻り片山津泊。 昭和 蜂 金 につ いては 実 情 が つ か み に く い の で 一応会 と し て は 差 上 げ な い こ と と した 。 次 い で 次 期 ク ラ ス 代 表 評 議 員 には森本俊君を満場一致で 決 定 し で大友か 小 野 旧君の 何れ か に 御 連 絡 下 さ い 。 ま た 、 十 九 回のク ラ ス会も 秋に滞岡に て行 いま す。 (大友記) L 今年は総会の年にあ た り ま す の で、京 都 方 面 に 足 を 延 ば す 予 定 で 、 昭和二十八年 役員一一同で計画中であります。ふる た 。 続 い て 記 念 写 真 の 後、 地 元 林 君 の幹杯に始まり、きれいどころ多数の サー ビ ス を 得、飲 む ほ ど に 酔 う ほ ど ルフ組と観光組に分れ古都京都の秋 に話がはづみついにはかくし芸も 出 、 和気詩々の中に閉会。翌朝はゴ って参加下さるようお願いします。 昨年十一月の横浜での例会の写真 は、紙 面 の 都 合 で 次 号 に 掲 載 し ま す ( 関 根 弘 ・記﹀ を楽しみつつ次回の再会を約して散 会した。当日の出席会員全員に落合 英生君よりパ l ル ネ ク タ イ ピ ン の 寄 贈をうけた。欠席された井上裕君相 (編集部﹀ り下 さ い。 ( 幹 事記) L りましたが杉原(旧新井)君が初優 名)行なわ れ ました。大久保幹事他 原島、大 塚? l ハンデ組の活躍もあ 翌 十 六 日 に は 鬼 怒 川 カントリ ー ク ラブでコルフの大会も(参加者十 八 宿題かと思います。 出し 、 お 互 に 考 え な け れば な ら な い 御苦労で 、 鬼 怒 川温 泉 郷 で 四 十 名 を 越 す 会 員 で 盛 会 に 行 な わ れました。 その席で 、 会 の 運 営 資 金 調 落 の 折 か ら、今 後 の 運 営 に つ い て の 意 見 が 百 月十 五 日 石 川 、 水川 、 大久保幹事の 第 九 回 ジ l ベン会総会は 、昨 年 十 昭和三 十四 年 / リムラ﹂で五十三名の出席を得て盛 大に開催されました。 昨 年十 一 月 第 十 八 回 の ク ラ ス 総 会 し ま し た 。 な お 、第三回、コルフ大会 郊の諸先生に御願いする乙とに決定 世話役を矢頭洋君を中心に名古屋近 古 民 近 郊 で 開 仰 す る 乙 と に し 、 その O かねてより闘病中であった 滝 沢 喜 の上 、 お知らせいたします。 詳細は追って第九回の記念写真同封 千 円 の 予 定、 幹事磯部君他﹂ ﹁十月初旬(十日前後) 、 長 良 川 で鵜飼を楽しむこと。会政七、 八 を東京にて行いました。参加人員二 は、千葉県の鎌ケ谷カントリークラ 乙の総会で十周年記念総会は 、 名 十名 足 ら ず で 淋 し い 限 り で し た 。 そ 開業)がリンパ肉腫のため去る十二 の記念行事も比出様の協力がなくて は、出 来 ま せ ん の で 、 よ ろ し く 御 願 次号原稿 御 冥 福 を 祈 り、 乙乙につつしんで御 久男君(旧A クラス ・ 東京世田ヶ谷区 (若松記) の席上種々意見が出て今後の活動に ブで行われ 、 六喜会杯は昨年に引き つづき原憲次君が獲得しました。 月二十四日永眠されました。心から つ き 何 等 か の 対 策 を た て の ζと と し て、 東 京 在 住 の 会 員 で 協 議 致 し ま す。その結果はいずれ連絡致しま す。きて当日第三回ゴルフコンベを いします。御中込みの方は至急五千 は三月十五日 八名参 加 に て 行 い 、 前 川 君 が 宿 願 の が入賞しました。第四回は静岡の小 二位大 山 優勝をし 、 、 三 位 沖 、 の両君 円也を、そしてコ一月末日までに 、 写 岳 ス遠征 0 ・B 東 京 都千 代 田 区 三 崎 町 二の 九 の十八 東 京 歯 科 大 学内 口腔外科学教室 しま した 。 皆 様方 の中 で右 の 趣 意 に御賛 同 下 さ る 方 は 、 左 記 に 御 連 絡下さい。 (連絡先﹀ 故遠藤至六郎先生二十七回忌 ン}ア 今夏 二月 八 日 は 遠藤 至 六郎先 生の二 十 七 回 忌 に 当 る ので 、 東京 歯科 大 学 口腔外 科 学教室 の 同 門会 で あ る 精到会が 中 心 と な り、 八 日午後三 時 よ り、 そ の 法 要 を 台 東 区 池 ノ 端 一の二の五 、 教 護 寺 で 行 な う と 共 に、 乙 の 際 募 金 を 行 な っ て 問 先 生 の奥様の老後を御慰めする乙とに 歯科界の第一陣 ルlア 月 八 日盛大 に 祝 賀 式 典 を も よ お し た 事 は 既 報 の 通 り であ り ま す 。 強 固 な 団結 と、 た ゆ ま ざ る修 練と、 もゆる 情熱は長年の 伝 統 のもとに凝集し 、 ヒマラヤの関 山 を待 てず目標をベル lアンデスに求めるに到りました。 杖痕ク ラブ は 直 ら に 組 織 的 活 動 を 開始しけ処 女 峯 の 登 山 山門学術調査の 目 的 を 達 成 す べ く 、 あらゆる手段と 努 力を は ら っ て お り ま す 。 総 経 資 約 六百万 円。 総計二トンに及ぶ数百点の登山用 具、 学 術 調 査 用 具 の 点 検 と 調 達 。 登 山 日 程 及 ぴ 調 査 。 内外 に 対 す る 募 金。各方面にわたる物日 間援助の依頼 国 内 外 に 対 す る 渉外 。 事 故 処 理 対 策 ております。 同 窓 各 位 の 御 協力 を 得 て 乙 の 困 難 。メンバ ー。団長渡辺冨士夫。 隊 長 も 乗 切 り た い と 考 え て お り ま す。 依田雄弘。副隊長松島静吾。食糧加 藤 喜 代 次 。 会 計 山 口勝康。装備酒井 。本隊出発昭和四 十 三年五月三日 横 優。記録朝浪惣一郎 浜発。九月七日リマ発帰国予定。 。学術調査補助者を募集しておりま 。詳細な遠征計画書が出来ておりま す 。 すから希望者は募金と共に左記迄御 申越下さい。 野 口 陽 東 京 都 杉 並 区 久 我 山 二の五六一 TEL(三九 二)二三 七 五 東京都千代田区三 崎 町 二丁目九番十八号 東京歯 科 大学同窓会 二公 一 )三 四 二 電話東京会 一 門代) 編集兼発行人 渡 辺富 士 等一応の 成 果 を 得 て 完 遂 に 尚 努 力 し 発行所 謝に 耐 えません。 校痕クラブ(東歯大 山岳 部0 ・B) 特に 読 売 新 聞 社 の 後 援 と 東 大 文 化 は創立三 十 五 周 年 を ひ か え 、昨 年 七 人 類 学 泉 教 授 の 親 身 の 御 協 力 を 得 て この計画が 大 いに充実さ れ た 事 は 感 部 べ 真 を 組 織 学 教 室、 事(昇平君あて御送 山 ジ 野 田君の世話で静岡にて五月頃行う り 歯 、 〆 東 会 主会 勝さ れ 日 本 歯 研 寄 贈 の カ ッ プ を 片 手 第 九 回 総 会 は 、 十 一月 十 一日(土) に大喜びでした。 新 宿 の 伊 勢 丹 会 館 ﹁ レ ス ト ラ ン ・プ O次 期 第 十 四ジ l ベン会総会は 、 東 海地方に決定したしました。 十 田孝輔君より金一封を戴いたので厚 宅垂~ 会 切 十 ~ 期 吾吾 和 く 御礼 申 し 上 げ ま す 。 次 回 よ り の 当 P 番幹 事 は 小 山 裕 君 等 都 内 城 市 フロッ クの各位にお願い致し過去二ヶ年聞 の不 ゆ き と ど き を お 詫 び す る 共 に 心 からの御支援に感謝しつつ一段の御 協カをお願い致します。 (長井他幹事一同) F また 、 昨 年、 アルバムを作製する 会 Z L 報 告 い た し ま す 。 ( 山 本 ・渡 辺 記 ) 鈴 ととを御知らせしましたが 、 申込み が非常に少なく図っております。乙 十 昭 予 定 で す。 ゴ ル フ 名 簿 作 製 中 で す の 夫 五
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