腹部コンパートメント症候群の循環呼吸動態の解明

腹部コンパートメント症候群の循環呼吸動態の解明
日本医科大学
医学部
田上
隆
1.研究の目的
本研究の目的は、腹部コンパートメント症候群における循環呼吸動態の解明である。腹部コン
パートメント症候群とは、腹腔内感染症による腹膜炎、腹腔内大量出血、後腹膜血腫、腸管浮腫
等によって腹腔内圧が上昇し、その結果高度に循環・呼吸障害が生じる病態である。臨床的には、
ショック、呼吸不全、腎不全、その他の臓器障害などが出現し、多臓器不全に至ることが多く、
きわめて予後が悪い。そのため、迅速かつ精確な診断・処置が求められる急性の病態である。治
療・全身管理において、腹腔内圧減圧目的の処置(open abdominal management)と破綻した循環
呼吸動態の適正化が、非常に重要であることが知られている。しかし、腹部コンパートメント症
候群における適切な輸液量の設定や人工呼吸器の管理方法などの、循環呼吸動態の適正化方法は、
未だに解明されていない。本研究により、腹部コンパートメント症候群の刻一刻と変化する循環
呼吸動態を迅速かつ精確に評価でき、積極的な治療介入の結果、患者の予後が改善される可能性
がある。
2.研究の計画・方法
(1)
腹部コンパートメント症候群を引きおこす頻度の高い敗血症患者における、循環呼吸動態の
解明、予後との関連、その治療方法の検討を行う。
まず、腹部コンパートメント症候群一般における循環呼吸動態管理の意義を明確にするため
に、腹部コンパートメント症候群を起こす頻度が最も高い敗血症症例において、研究を行う。
特に、肺血管外水分量と予後との関連、そして治療薬になる得る薬剤に関しての検討を行う。
将来的に、腹部コンパートメント症候群の病態理解・治療につながる可能性がきわめて高いと
考える。
① -1:敗血症性の急性肺障害患者における、肺血管外水分量の経時的変化と予後
② -2:敗血症性の急性肺障害患者における、シベレスタットナトリウム水和物の臨床的効果
(2)
臨床観察研究
上記①の結果を基に、症例選択を敗血症症例に限定し、腹部コンパートメント症候群の循
環呼吸動態を解明するための観察研究を行う。
患者対象:
腹部コンパートメント症候群のリスクが高く(急性腹症、重症急性膵炎、重症全身熱傷、重
症敗血症)、腹腔内圧測定で15mmHg以上の症例を対象とする。以下の調査を網羅的に行う。
測定項目:
A) 経肺熱希釈法:循環動態の把握(心拍出量、心臓拡張末期容量)と呼吸状態の把握(肺
血管外水分量・血管透過性係数)の定量的関係
B) 画像評価:原疾患の評価のための腹部造影CT及び高分解能CT検査(high-resolution CT)
での肺病変の分布・程度を評価する
C) 生理学的:人工呼吸器から算出される生理学的パラメータ及び心臓超音波検査との関連
性(肺コンプライアンス、PEEP、プラトー圧、死腔量・換気量比、心機能)の評価を行
う
D) 生化学的:血清の血管透過性亢進物質量及び気道上皮代謝産物の時経列的・網羅的関連
の調査。気管支鏡下マイクロサンプリング法による気道上皮被覆液の採取も行う。約20
μlのサンプル採取が可能であり、気管支肺胞洗浄(BAL)と比較し低侵襲であり呼吸状態
への影響が非常に少ない。申請者は、本検査のよるpilot的な臨床研究(論文執筆中)
― 51 ―
も施行した経験があり、本手技に習熟している。
E) 病理学的:救命し得なかった症例を病態解明のためのGolden standardである病理解剖
で特殊染色等も含め評価する。腹部原疾患及びびまん性肺胞障害の程度と血管透過性の
評価を病理学的に行う。
3.研究の特色
特色:本研究の最大の特徴は、循環呼吸動態を経肺熱希釈法循環呼吸動態モニタリングシステ
ム:PiCCO system(PULSION社、独)を使用し、定量的に精確に評価することである。
経肺熱希釈法循環呼吸動態モニタリングシステム:近年、循環呼吸動態を精確に測定出来る経肺
熱希釈法循環呼吸動態モニタリングシステムが開発され、世界中の集中治療室で使用されている。
申請者は、日常診療においてその測定精度が高いことを示した(Anaesthesia2012; 67: 236-243)。
本システムは、温度センサー付きの動脈カテーテルにより得られる熱希釈曲線により、循環動態
の指標として心拍出量と心臓拡張末期容量がリアルタイムで測定出来る。申請者らは、心臓拡張
末期容量が、中心静脈圧に比べより血管内脱水を示唆することをくも膜下出血患者で証明した
(Shock. 2012;38:480-485)。
また、呼吸状態の指標として、肺血管外水分量と肺血管透過性係数が算出される。肺血管外水
分量は、肺水腫の程度が測定出来、申請者が世界で初めて人間での妥当性を病理学的に証明し、
正常基準値(7.4±3.3ml/kg)を示した(Crit Care. 2010;14:R162)。また、肺水腫の定量的な基準
(>9.8ml/kg)を初めて発表し(Crit Care Med. 2013. 41(9): p. 2144-2150)、「肺血管外水分量を
利用したARDSの定量的診断」も提案した(Critical Care, in press)。肺血管透過性係数は、申請
者らの大規模前向き多施設共同研究で、肺水腫の原因を鑑別出来ることを示した(Crit Care.
2012;16:R232) 。 ま た 、 同 係 数 が 肺 炎 患 者 で 血 中 の 血 管 透 過 性 物 質 と (Respirology.
2011;16:953-958)、心停止後症候群では心停止時間(2011年度日本ショック学会会長賞受賞)と、
それぞれ相関することを報告した。申請者独自の新しい急性肺損傷の診断基準案を国内外の論文
で示した(Crit Care Med. 2012;40:1004-1006;田上隆.日本臨床麻酔学会誌 2011)。
しかし、腹部コンパートメント症候群症例における精確な循環呼吸動態は未解明である。刻一
刻と変化する循環呼吸動態を迅速かつ精確に評価でき、積極的な治療介入の結果、腹部コンパー
トメント症候群患者の予後の改善が期待される。
4. 研究の成果
① -1:「肺血管外水分量の経時的な変化は、敗血症による急性肺傷害患者の予後予測になり
得る」という趣旨を以下の原著論文で発表した。
Tagami T, Nakamura T, Kushimoto S, et al. Early-phase changes of extravascular
lung water index as a prognostic indicator in acute respiratory distress syndrome
patients. Annals of Intensive Care. 2014;4(1):27.
以下要旨:
Background: The features of early-phase acute respiratory distress syndrome (ARDS)
are leakage of fluid into the extravascular space and impairment of its
reabsorption, resulting in extravascular lung water (EVLW) accumulation. The
current study aimed to identify how the initial EVLW values and their change were
associated with mortality.
Materials and Methods: This was a post hoc analysis of the PiCCO Pulmonary Edema
Study, a multicenter prospective cohort study that included 23 institutions.
Single-indicator transpulmonary thermodilution-derived EVLW index (EVLWi) and
conventional prognostic factors were prospectively collected over 48 hours after
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enrollment. Associations between 28-day mortality and each variable including
initial- (on Day 0), mean-, maximum-, and Δ- (subtracting Day 2 from Day 0) EVLWi
were evaluated.
Results: We evaluated 192 ARDS patients (median age, 69 years (quartile: 24
years); Sequential Organ Failure Assessment [SOFA] score on admission, 10 (5);
all-cause 28-day mortality, 31%). Although no significant differences were found
in initial-, mean-, or maximum-EVLWi, Δ-EVLWi was significantly higher (i.e.,
more reduction in EVLWi) in survivors than non-survivors (3.0 vs. -0.3 mL/kg, p =
0.006). Age, maximum- and Δ-SOFA scores, and Δ-EVLW were the independent
predictors for survival according to the Cox proportional hazard model. Patients
with Δ-EVLWi > 2.8 had a significantly higher incidence of survival than those
with Δ-EVLWi ≤ 2.8 (log-rank test: χ2 = 7.08, p = 0.008).
Conclusions: Decrease in EVLWi during the first 48 hours of ARDS may be associated
with 28-day survival. Serial EVLWi measurements may be useful for understanding
the pathophysiologic conditions in ARDS patients. A large multination confirmative
trial is required.
① -2:「シベレスタットナトリウム水和物の使用と28日予後および人工呼吸器フリーデー
の関連」に関して、以下の原著論文で発表した。
Tagami T, Tosa R, Omura M, et al. Effect of a selective neutrophil elastase
inhibitor on mortality and ventilator-free days in patients with increased
extravascular lung water: a post hoc analysis of the PiCCO Pulmonary Edema Study.
J Intensive Care. 2014;2(69):69.
Background: Neutrophil elastase plays an important role in the development and
progression of acute respiratory distress syndrome (ARDS). Although the selective
elastase inhibitor, sivelestat, is widely used in Japan for treating ARDS patients,
its effectiveness remains controversial. The aim of the current study was to
investigate the effects of sivelestat in ARDS patients with evidence of increased
extravascular lung water by re-analyzing a large multicenter study database.
Methods: A post hoc analysis of the PiCCO Pulmonary Edema Study was conducted.
This multicenter prospective cohort study included 23 institutions in Japan. Adult
mechanically ventilated ARDS patients with an extravascular lung water index of >
10 mL/kg were included and propensity score analyses were performed. The endpoints
were 28-day mortality and ventilator-free days (VFDs).
Results: Patients were categorized into sivelestat (n = 87) and control (n = 77)
groups, from which 329 inverse probability-weighted group patients (162 vs.167)
were generated. The overall 28-day mortality was 31.1% (51/164). There was no
significant difference in 28-day mortality between the study groups (sivelestat vs.
control; unmatched: 29.9% vs. 32.5%; difference, -2.6%, 95%CI, -16.8−14.2);
inverse probability-weighted: 24.7% vs. 29.5%, difference, -4.8%, 95%CI, 14.4−9.6). Although administration of sivelestat did not alter the number of VFDs
in the unmatched (9.6 vs. 9.7 days; difference, 0.1, 95%CI, -3.0−3.1), inverse
probability-weighted analysis identified significantly more VFDs in the sivelestat
group than in the control group (10.7 vs. 8.4 days, difference, -2.3, 95%CI, 4.4−0.2).
Conclusions: Although sivelestat did not significantly affect 28-day mortality,
― 53 ―
this treatment may have the potential to increase VFDs in ARDS patients.
Prospective randomized controlled studies are required to confirm the results of
the current study.
② 臨床観察研究
上記①の2つの研究結果を基に、症例選択を敗血症症例に限定し、腹部コンパートメント症
候群の循環呼吸動態を解明するための観察研究を行っている。
まだ、研究途上ではあるが、本研究による解明は今後の治療介入方法・全身管理法確立のた
めの基礎研究であり、その架け橋となることが予想される。将来的には、本研究結果を基に、
適正な輸液管理・治療指針を示せることが予想される。
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剛体球粒子内包型ベシクルにおける粒子「こみあい効果」と膜変形機構の解明
日本女子大学
理学部
夏目
ゆうの
1.研究の目的
【背景】近年、細胞機能の作動原理の一つとして、“こみあい効果”が注目されている。近年、
この効果が細胞内タンパク質のフォールディングや配置の作動原理の一因であることが明らか
になってきた[Minton et al., Nature (2003)]。さらに、細胞分裂などの細胞膜変形への関与
も示唆されている[K. Fujiwara et al., ACS synthetic biology (2014)]。“こみあい効果”
は、細胞内部にこみあって存在する生体高分子や細胞小器官がその自由体積を増すように生じ
る、エントロピックな効果である。検証には、組成の明らかな物質を用いて細胞モデルを構築
し、その挙動を解析するボトムアップアプローチが適している。
【目的】膜変形におけるこみあい効果、特に並進エントロピーの効果を抽出するモデルとして、
我々は袋状の脂質2分子膜(ベシクル)内部に、剛体球であるマイクロメートルサイズのポリ
スチレンビーズを閉じ込めた系を、作成した。この実験系の利点は、光学顕微鏡で個々の粒子
を直接観察できる点である。剛体球粒子内包型ベシクルの膜変形と内部粒子の挙動を観察、解
析することで、膜と粒子の協同現象を明らかにする。
2.研究の計画・方法
【調製方法】直径1 µmのポリスチレンビーズを内包した直径10-20 µm程度のベシクルを作成した。
蛍光観察を行うために、蛍光性のポリスチレンビーズを本助成金で購入した。調製方法として、
油中水滴遠心沈降法を用いた。ビーズ分散液と、脂質分子を融解した油を乳化し油中水滴エマ
ルションを作成した。遠心力をかけて、エマルションに脂質分子の単分子膜を張り合わせて、
ベシクルを形成した。この方法で、体積分率0‐35vol%と様々な体積分率で粒子を内包したベシ
クルを得た。
【観察】時間分解能とZ軸方向の分解能が共に高い、共焦点レーザー走査型蛍光顕微鏡(CSU22、
横河電機株式会社)で観察を行った。1つの焦点面に対する経時的な連続撮影と速やかに焦点
面を変えたZ軸方向に連続した撮影の2種の撮影を行った。
【画像解析】Z軸方向に解像度の高い共焦点蛍光顕微鏡像であるが、他焦点面にある粒子の拡散光
の映り込みは避けられない。そのため、定量的な解析を行う際は、拡散光によるボケを画像処
理で軽減することが必須である。本研究では、顕微鏡画像の画像処理に特化したソフトウェア
である“MetaMorph”を本助成金で購入し、デコンボリューション処理を行い、ボケを軽減した。
処理後の画像を用いて、経時的に連続した画像より、各画像の粒子中心の座標を画像解析より
求め、その変位から粒子の速さを求めた。さらに、焦点面を変化させた一連の画像から、異な
る焦点面における、粒子配置の規則性を評価した。
【モデル計算】ベシクル内部に剛体球粒子は、膜に隣接する領域で並進運動を制限される。この
排除的体積をベシクルの実体積から差し引いた体積が粒子の“自由体積”となる。自由体積を
考慮したモデル計算を行い、実験結果と比較した。
3.研究の特色
本研究の特色は、ベシクル内部の粒子を光学顕微鏡で可視化できることである。これまで、マイ
クロメートルサイズの粒子を様々な体積分率でベシクルに内包することは、技術的に難しかった。
筆者は、油中水滴遠心沈降法を用いることでこれに成功した[Y. Natsume et al., Chem. Lett.
(2013)]。これにより粒子の挙動を直接観察し、定量的に解析することが可能になった。本研究は、
内部粒子の挙動に起因した膜変形機構の解明を行う、新規性の高い研究である。
― 55 ―
4. 研究の成果
位相差顕微鏡を用いた予備実験で、特定の体積分率
(約13vol%)で剛体球粒子を内包したベシクルが、球形
から複数の平坦な面を持つ多面体様の形状に変形するこ
とを見出した。その変形機構を明らかにするために、本
研究において、蛍光性粒子を用いて共焦点蛍光顕微鏡像
5 µm
を取得し、内部粒子の挙動を画像解析から求めた。
【観察・画像解析】最初に、内部粒子の体積分率が0.6
vol%の球形ベシクル(図1-a)と多面体様ベシクル
(図1-b)について粒子の速さ分布を求めた。継時的
に連続した共焦点顕微鏡像から同一粒子を抜粋、中心
座標を追跡してその速さを求めた。球状ベシクル内部
では最頻値が2.8 µm/sであり、標準偏差が 2.7 μm/s
となだらかに分布している。それに対して、多面体様
ベシクル内部では最頻値が 0.4 μm/sであり、標準偏差
が0.6 μm/sとほとんど粒子が動いていないことがわ
かった(図1-c)。
多面体様ベシクル内部では、粒子がほぼ動かないこ
とが分かったため、その配置を明らかにするため、多
面体様ベシクルの複数の焦点面の画像に対してフーリ
図1. ベシクル内部の粒子の速度分布
エ変換を行った。膜に隣接した焦点面(図2 I-M)と
膜から数µm離れた焦点面(図2 II-M)に対して、フー
リエ変換を行った。フーリエ変換像から、
膜に隣接した粒子は、六方格子状に規則的
に配列していることが分かった(図2ⅠF)。一方、よりベシクル中心に近い場所
では、粒子が不規則に配置していることが
わかった。つまり、多面体様ベシクルの内
5 µm
部では粒子が膜に隣接して規則的に配列し
た規則相と、ベシクル中心部分で不規則に
配置した不規則相が共存していることがわ
かった。
【モデル計算】実験結果を踏まえて、モデル
計算を行った。規則相と不規則が共存する
ためには、両相の粒子の浸透圧がつりあ
う必要がある。剛体球粒子の浸透圧 Π は、 図2. 多面体様ベシクルの各焦点面における粒子配置
体積分率に依存する値である圧縮率 ζ を
n
用いて Π = k BTζと定義される。このとき、Nは粒子数、Vは自由体積である。本系において、規
v
則的に配列した粒子が膜に隣接しているため、不規則相の粒子は、さらにその内側に存在する。
そこで、常にV不規則相<V規則相であることを考慮した。結果、体積分率20vol%で直径20 µmのベシク
ルにおいて、2相共存の条件が満たされることが算出された。この結果は、本実験系のオー
ダーにおいて、多面体様ベシクルの出現を支持している。モデル計算において、ベシクルの実
体積から排除的体積を除いた粒子の自由体積を用いることで、この様な計算結果を得た。これ
は、実験系において、多面体様ベシクルの変形が“こみあい効果”によって生じていることを
示唆している。本研究結果をまとめた論文を現在、投稿中である。
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PAF依存性炎症を特異的かつ劇的に抑制するペプチド性薬剤の開発
いわき明星大学
薬学部
佐藤
陽
1.研究の目的
血小板活性化因子(platelet-activating factor: PAF)は、炎症性の脂質メディエーターとし
て、皮膚炎や関節炎、気管支喘息、動脈硬化などの病態形成に関与している。しかし、PAFを対象
とした薬剤については未だ実用化されていないのが現状である。
申請者はこれまで、PAFとの特異的結合能を有する複数種のビオチニル化ペプチド化合物を見出
してきた。本化合物は、PAF受容体拮抗剤と異なり、PAFとの直接結合能を有しており、動物試験
においてPAF炎症活性を低用量(既知PAF受容体拮抗剤の40分の1の投与量)で劇的かつ用量依存的
に抑制し、かつPAF以外の炎症性メディエーターによる炎症を抑制しないことから、PAF依存性炎
症を特異的かつ劇的に抑える全く新しいタイプの抗炎症剤として期待できる。
一方、本化合物はペプチド由来でありペプチダーゼなどの酵素により分解され易いことから、
その生体内安定性の問題点を解決する必要がある。即ち、本化合物がこのまま実用化されれば、
患者の投薬に伴う苦痛や投薬回数が増加し、患者のQOL低下や医療費増大につながるおそれがある。
そこで本研究では、ドラッグデリバリーシステム(DDS)技術を用いて、生体内安定性に優れ、か
つ強力な抗炎症作用を有する新たなビオチニル化ペプチド化合物を開発することを目的とした。
2.研究の計画・方法
(1) 各種ビオチニル化ペプチド DDS製剤の作製
① ポリエチレングリコール(PEG)化製剤およびレシチン(ホスファチジルコリン:PC)化製剤の作製
薬剤の生体内安定性を高める(血中濃度を長期持続させる)代表的な手法として、PEG化修飾やレシ
チン化修飾が知られている。そこで、従来のビオチニル化ペプチド化合物(2種類)であるBP4、BP21を
PEG化またはレシチン化修飾する。PEGやレシチンとしてはペプチドのC末端側のカルボキシル基に修飾
できるもの等を用いる。
② リポ化製剤(乳濁性製剤)の作製
現在、一般に使用されているリポ化製剤は、ダイズ油に目的とする薬剤を溶解させ、これに
乳化剤としての卵黄レシチン(卵黄から精製されるリン脂質:約70%がPC)を加えて乳化させ
たものである。最近、プロスタグランジンE1、ステロイド、非ステロイド性抗炎症剤など各薬
剤のリポ化製剤が、それぞれ治療効果を上げること、また炎症部位に高濃度に集積する性質を
有することが知られている。そこで、本ビオチニル化ペプチド化合物とは相互作用しないPCを
乳化剤として用いて、ダイズ油にペプチドとPCを溶解した後、ポリトロン攪拌機を用いて乳化
し、リポ化BP4、リポ化BP21を作製する。
(2) 各種ビオチニル化ペプチドDDS製剤のPAF活性に対する効果の検討
各種DDS製剤のPAF活性に対する効果を動物試験により調べる。具体的には、Wistar系雄性ラットに各
種DDS製剤を投与した後、PAFの後足肉趾間への投与により起こる足浮腫容積変化を測定すること
により、DDS製剤のPAF活性に対する効果を調べる。なお、足浮腫の容積はプレシスモメーター
を用いて測定する。
3.研究の特色
PAF対象薬剤については、PAF受容体拮抗剤(PAF受容体を標的)が多く開発・研究されている。
特にCV-3988やWEB-2086等は現在、抗アレルギー剤、抗喘息剤として臨床試験段階にある。しかし、
PAF受容体拮抗剤はPAF分子と直接結合しないため、局所投与では効果を示すものの全身投与では
効果不十分である。また、PAFはPAF受容体以外のリゾリン脂質/酸化リン脂質受容体にも作用して
― 57 ―
炎症を引き起こすことから、PAF受容体拮抗剤の効果は不十分である、などの問題点も有している。
よって、PAF受容体拮抗剤を含むPAFを対象とした薬剤は未だ実用化されていない。
それに対し、本ビオチニル化ペプチドは、生体内のPAF分子に直接結合して作用を発現するので
(PAF分子を標的)、局所・全身投与いずれにおいても十分な効果が期待できる。また、本化合物
はそのリガンド特異性からPAF受容体やその他の受容体に直接作用しないため、副作用発現の可能
性も低いと考えられる。実際、本化合物は、動物試験において、PAF依存性炎症を非常に低用量で
劇的に抑制することから、PAF分子を標的とした全く新しいタイプの抗炎症剤として期待できる。
本研究はDDS技術を用いてビオチニル化ペプチドの生体内安定性の問題点を解決しようとするも
のである。この問題点が解決され、従来の化合物と同様に強力な抗PAF活性を有するDDS製剤が創
出されれば、ペプチドの投与間隔の延長や投与量の減少など、患者の投薬に伴う苦痛や投薬回数
を減らすことによるQOL向上ならびに医療費削減につながることが可能となり、その抗炎症剤とし
ての実用化につながる可能性はさらに高まるものと期待される。以上のことから、本化合物のDDS
製剤はPAFが関わる様々な炎症性疾患に有用な予防・治療薬として世界中に広く提供されることが
期待される。さらに、申請者の本研究成果は新薬開発・医療に対して大きなインパクトを与えると
ともに、新薬創出を通じて社会に還元され、人類の健康と福祉の増進に大きく寄与できるものと期
待される。
4. 研究の成果
前述2.の方法により、BP4、BP21のPEG化、レシチン化およびリポ化の各製剤を作製して抗PAF活
性効果を検討したが、いずれの製剤も従来のBP4やBP21とは異なり殆ど抗PAF活性を示さなかった。
これは、ダイズ油中の成分や、修飾したレシチン、PEGがペプチドのPAF結合に対し立体障害等に
よるものと思われる。
一方、私達の別の研究において、一部をD-アミノ酸にしたペプチド(KP6、Fig.1)が血漿中安
定性に優れていること、またN末端側Lysのε-アミノ基に修飾物質を結合させたKP6が動脈硬化の
原因物質である酸化低密度リポ蛋白質(酸化LDL)およびその主要脂質成分であるリゾホスファチ
ジルコリン(LPC)に対して特異的結合能を有することを明らかにした。PAFは酸化LDL中の酸化リ
ン脂質やLPCと構造が類似することから、本申請時の研究計画・方法を見直し、生体内安定性向上
の為の別のDDS技術であるペプチドのD-アミノ酸化を行いそのPAF活性に対する効果を検討した。
具体的には、ビオチニル化ペプチドとして、K(Btn)P6、(Btn)P6およびこれらN末端側LysをD体化
したdK(Btn)P6、(Btn)dKP6を設計・作製し(Fig.1)、これらペプチドのPAF活性に対する効果を
検討した。
各種ペプチドをラットに皮下(局所)投与したときのPAF活性に対する効果を検討した結果、
K(Btn)P6、dK(Btn)P6、 (Btn)KP6、(Btn)dKP6 (各10 nmol)はそれぞれPAF活性を53.5 ± 5.1%,
79.2 ± 3.6%, 42.8 ± 5.4%, and 60.0 ± 8.8%抑制した。この結果から、各種ペプチドはいず
れも抗PAF活性を示し、特にdK(Btn)P6は従来の化合物(BP4、BP21)とほぼ同等の抗PAF活性を示
すことが解った(Fig.2)。さらに、dK(Btn)P6(10 nmol)は静脈内投与でもPAF活性を67.2 ±
4.1%抑制することが解った。
Biotin-(N-terminal amino group)-Lys-Trp-Tyr-Lys-Asp-Gly-Asp
(Btn)dKP6
Biotin-(N-terminal amino group)-D-Lys-Trp-Tyr-Lys-Asp-Gly-Asp
K(Btn)P6
Biotin-(ε-amino group)-Lys-Trp-Tyr-Lys-Asp-Gly-Asp
dK(Btn)P6
Biotin-(ε-amino group)-D-Lys-Trp-Tyr-Lys-Asp-Gly-Asp
BdP4
Biotin-D-Tyr-D-Lys-D-Asp-Gly
BP4
Biotin-Tyr-Lys-Asp-Gly
(A)
Increase in paw oedema (ml)
(Btn)KP6
0.6
0.5
##
0.4
*
0.3
*
**
0.1
0
PAF
-
+
None
-
+
K(Btn)P6
S
O
O
NH
H
Increase in paw oedema (ml)
peptide
(N-terminus
or ε-amino acid of Lys
at the N-terminus)
-
+
dK(Btn)P6
-
+
(Btn)KP6
-
+
(Btn)dKP6
Treatment
(B)
H H
N
*
0.2
Fig. 2 Effects of biotinylated peptides
on PAF-induced rat paw oedema
0.6
##
0.5
0.4
0.3
0.2
**
**
0.1
0
Vehicle
Fig. 1 Amino acid sequences and structures of biotinylated peptides
-
Intraplantar Intravenous
Treatment
― 58 ―
dK(Btn)P6
Rats were treated by intraplantar injection with
biotinylated peptides (10 nmol/paw) 15 min prior
to Intraplantar injection of PAF (1 nmol/paw). One
hour after the PAF stimulus, paw oedema was
quantified by measuring the increase in paw
volume (ml). Each value represents the mean ±
S.D. of 3—4 rats. ##P < 0.05 compared to rat
treated with the vehicle alone.
* P < 0.05 and **P < 0.01 compared to rat treated
with PAF alone.
Increase in paw oedema (ml)
次に、上記4種類のペプチドおよびBP21、BP4に共通
0.5
0.4
して存在するTyr-Lys-Asp-Gly配列(L-アミノ酸のみ
0.3
から成る)の抗PAF活性における重要性を調べる目的
0.2
から、BP4のアミノ酸を全てD体化したBdP4、Fig.1)
*
*
0.1
のPAF活性に対する効果を検討した。その結果、BdP4
0
の抗PAF活性はBP4の1/4程度であり(Fig.3)、ペプチ
10
2.5
10
40
-
BP4 (nmol)
BdP4 (nmol)
ド中のTyr-Lys-Asp-Gly配列がペプチドの抗PAF活性に
Treatment
重要であることが明らかとなった。
Fig. 3 Effects of BP4 and BdP4 on PAF-induced rat paw oedema
ペプチドとリガンド候補物質との相互作用解析の一
つとして、ペプチド中に含有するTrp残基の自家蛍光
変化を測定する方法が知られている。K(Btn)P6, dK(Btn)P6, (Btn)KP6、(Btn)dKP6はいずれもTrp
残基を1個有することから(Fig.1)、この蛍光を指標としてペプチドとPAFの相互作用解析を行っ
た。具体的には、リン酸緩衝生理食塩水(pH 7.4)中、ペプチド (1 µM) と各濃度のPAF (C16、0
-30 µM)を混合して37℃で 30 分間インキュベーション後、Trpの励起波長295 nmにおける348 nm
の蛍光強度を測定した。その結果、dK(Btn)P6はPAFと最も高い相互作用を示し、次いでK(Btn)P6、
(Btn)dKP6、(Btn)KP6の順に高いことが解った(Fig.4)。また、Fig.5に示した通り、本ビオチニ
ル化ペプチドの抗PAF活性とPAFとの相互作用は相関している可能性が高く、これより(Btn)KP6、
(Btn)dKP6、K(Btn)P6 およびdK(Btn)P6 の抗PAF活性はPAF分子に対する直接結合によるものと考
えられた。
Rats were treated by intraplantar injection with BP4 (10 nmol/paw) or BdP4 (2.5, 10, or 40 nmol/paw)
15 min prior to intraplantar injection of PAF (1 nmol/paw). One hour after the PAF stimulus, paw
oedema was quantified by measuring the increase in paw volume (ml). Each value represents the
mean ± S.D. of 3—4 rats. *P < 0.05 compared to rat treated with PAF alone.
以上より、dK(Btn)P6は、従来のビオチニル化ペプチド化合物とほぼ同等の抗PAF活性(既知PAF
受容体拮抗剤の40分の1と低用量で劇的な効果)を示すことが解り、また一部D-アミノ酸を有す
ることからこれまでの別研究での成果と併せると、生体内安定性に優れていると考えられる。今
後、この生体内安定性についてさらなる検討を行いたい。今後本化合物が抗炎症剤として実用化
された場合、ペプチドの投与間隔の延長や投与量の減少など、患者の投薬に伴う苦痛や投薬回数
を減らすことによるQOL向上ならびに医療費削減につながることが可能となり、本化合物の抗炎症
剤としての実用化へとつながる可能性はさらに高まるものと期待される。
【本研究成果に関する発表】
1. 佐藤 陽、横山いづみ、蝦名敬一. D-アミノ酸含有ビオチニル化ペプチドのin vivoにおける
抗PAF活性評価、日本薬学会第135年会(神戸)、2015年3月27日、神戸
2. Sato, A., Yokoyama, I., Ebina, K., Biotinylated heptapeptides substituted with a Damino acid as platelet-activating factor inhibitors, Eur. J. Pharmacol. in press.
0.4
Increase in paw oedema (ml)
Tryptophan fluorescence
intensity change (A.U.)
2
K(Btn)P6
1.5
dK(Btn)P6
(Btn)KP6
1
(Btn)dKP6
0.5
0
0
10
20
30
y = -0.1353x + 0.3195
R² = 0.7257
0.3
○ dK(Btn)P6
▲ (Btn)KP6
0.2
△ (Btn)dKP6
0.1
0
0
PAF (µM)
● K(Btn)P6
0.4
0.8
1.2
1.6
Tryptophan fluorescence intensity change (A.U.)
Fig. 4 Effects of PAF on the intrinsic tryptophan fluorescence of biotinylated peptides
PAF was incubated in the absence or presence of 1 µM (Btn)KP6, (Btn)dKP6, K(Btn)P6, and dK(Btn)P6 for 37° C for 30 min,
and the fluorescence intensity measurements were performed at an excitation wavelength of 295 nm, and an emission wavelength
of 348 nm. Each value represents the change in fluorescence compared to the lipid-free sample and is presented as mean ± S.D.
(n= 3).
Fig. 5 Linear relationship between the intrinsic tryptophan fluorescence change
of synthetic biotinylated peptides by PAF and increase in PAF-induced rat paw
oedema in the presence of peptides
― 59 ―
2種類の向背パターンとその協調性に関する研究
-葉の表裏を作る分子機構の理解を目指して-
立教大学
理学部
中田
未友希
1.研究の目的
葉の発生初期に見られる向背軸に沿ったパターン(向背パターン)は葉の扁平化と表裏の分化の
両方に重要である。向背パターンの形成には多数の因子が関与するが、それらの複雑な相互作用
の結果、細胞運命が表/裏のどちらかに決定し、その後、各々の細胞種に分化すると考えられて
いる。しかしながら、多数の因子が関与する困難さから、全ての因子の詳細なパターンやその差
異の比較解析はほとんどなされていない。私はシロイヌナズナprs wox1 二重変異体が向背境界と
なっている領域(中間領域)を欠失する変異体であること、prs wox1 の葉で細胞レベル・遺伝子発
現レベルの両方で2種類の異なる向背パターンが現れることを発見した。この2種類のパターン
のうち、一方は野生型よりも表側領域が広がるパターンを示し(向背パターンA)、もう一方は裏側
領域が広がるパターンを示していた(向背パターンB)。向背パターンAは向軸側因子AS2とta-siR
ARF、背軸側因子KANとta-siR ARFのターゲットとなるARFで構成され、向背パターンBは向軸側因
子HD-ZIPIII、背軸側因子FILとHD-ZIPIIIをターゲットとするmiR165/166で構成される。ta-siR
ARFとmiR165/166はsmall RNAであり、それぞれのターゲット遺伝子の発現を抑制することで向背
パターンを決定すると考えられている。以上のように、向背パターンの二重性は明らかであるが、
この2種類のパターンの間の協調性が中間領域で働くPRSとWOX1によってどのように達成されてい
るかは全くわかっていない。そこで、本研究では向軸側・背軸側・中間領域で機能する個々の因
子がこの2種類の向背パターンの協調性にどのように寄与しているのかを明らかにし、向背パ
ターンの形成機構を統合的に理解することを目指した。
2.研究の計画・方法
前項で述べた目的を達成する為、私は2つのアプローチを組み合わせて研究を進めることとし
た。1つ目のアプローチは向背異常を引き起こす様々な遺伝的背景における各種向/背軸側因子
の発現解析である。この発現解析には様々な向/背軸側因子の変異を組み合わせた多重変異株や、
特定の向/背軸側因子の過剰発現株を用いることとした。2つ目のアプローチは数理モデルの構
築およびシミュレーションによる数理モデルの妥当性の検証である。数理モデルは微分方程式に
より記述し、Mathematicaによるシミュレーションを行った。
3.研究の特色
本研究の手法の特色は次の2点である。1つ目は、向・背制御因子の発現パターンの変化をで
きるだけ多くの組み合わせの多重変異体や異所的発現体で明らかにする点である。2点目は分子
生物学的な手法と数理的アプローチを組み合わせた解析手法である。本研究は、発現パターンの
解析結果と数理解析の結果をお互いにフィードバックさせることにより、より効率的に2種類の
向背パターンの協調性の理解に迫ることを目指すものである。
4. 研究の成果
(1) 様々な遺伝的背景における発現解析
① 多重変異体の作成
これまでにAS2、KAN、HD-ZIPIIIファミリーの一種REVおよびFILの変異体とprs wox1の多重
変異体を作出済みであった。本研究では、パターンAの背軸側因子ARFの変異体およびta-siR
ARFの生合成経路に関わるタンパク質の変異体rdr6およびsgs3とprs wox1の多重変異体の作出
― 60 ―
を進めた。
② 過剰発現株の作出
向/背軸側因子の過剰発現による葉でのパターンへの影響を調べるため、転写因子の一過的
誘導に用いられている実績のあるGR-DEX誘導系による過剰発現株の作出を行った。これまで
にAS2、KAN1、REVd(miR165/166に非感受性の改変型REV)およびWOX1の一過的誘導株を入手ま
たは作出済みであった。本研究では、FILとARF3d(ta-siR ARFに非感受性の改変ARF)の一過的
誘導株の作出を進めた。
③ 向/背軸側因子の発現解析
これまでにAS2、KAN1、FIL、PRS、WOX1とmiR165/166のパターンを解析済みであった。昨年
度は、REVに関してISH法によって、従来の報告通りのパターンが観察されることを確認した。
また、KAN2のエンハンサートラップ系統のマーカーの解析を行い、その蛍光パターンはKAN1
のmRNAの局在パターンとおおむね一致するが、表皮での発現が非常に弱いことを明らかにし
た。
(2) 数理モデルの確立とシミュレーション
数理解析に関して、たたき台となる数理モデルを作成した。解析の簡便化のため、2種類の
向背パターンの向軸側因子、背軸側因子は1種類のみとし、その相互作用は、small RNAの向背
パターン形成における重要性を鑑みて、small RNAによる転写因子の分解制御と、転写因子によ
るsmall RNAの発現制御のみとした。small RNAをu、転写因子をvとしたとき、uとvの発現量の
変化を微分方程式で
du
1
=a×
− b × u + D(u)
dt
1+ v 2
⎛
⎞
dv
u2
+ D(v )
= c − ⎜ d0 × v + d1 ×
×
v
⎟
dt
1+ u 2
⎝
⎠
と記述した。各々、第一項は合成項を、第二項は分解項を、第三項は拡散項をあらわす。この数
式をもとにルンゲクッタ法で近似した式を用いてMathematicaにより向背パターンの挙動をシ
ミュレーションした。その結果、向・背両因子の発現部位が排他的になるパラメーター範囲を特
定し、過去の知見と同様、この2つの境界が移動することを確認した。次に、この向背パターン
を2つ用意し(u1, v1, u2, v2とした)、逆向きに配置した後、中間領域の因子wを介して相互作
用するように設定した。各因子(u1, v1, u2, v2, w)の発現量の変化を微分方程式で
1
1
du1
= a1 ×
− b × u + D(u1 )
2 ×
1+ v1 1+ w 2 1 1
dt
⎛
⎞
dv1
u12
= c1 − ⎜ d10 × v1 + d11 ×
2 × v1 ⎟ + D(v1 )
dt
1+ u1
⎝
⎠
du2
1
1
= a2 ×
− b2 × u2 + D(u2 )
2 ×
1+ v 2 1+ w 2
dt
⎛
⎞
dv 2
u2
= c 2 − ⎜ d20 × v 2 + d21 × 2 2 × v 2 ⎟ + D(v 2 )
dt
1+ u2
⎝
⎠
― 61 ―
dw
1
1
=e×
− f × w + D(w )
2 ×
dt
1+ v1 1+ v 2 2
と記述した。これらの数式をもとにMathematicaによりシミュレーションしたところ、3領域の
形成を再現でき、wの作用がない場合の挙動がprs wox1変異体で実際に見られた向背パターンと
類似したパターンを再現するパラメーター範囲を特定することができた。
― 62 ―
唾液腺遺伝子のゲノム編集によるマラリアベクター制御
自治医科大学
医学部
山本
大介
1.研究の目的
ハマダラカ唾液腺は吸血行動、それに伴うマラリア原虫のヒトへの伝播のための最重要器官で
あるが、発現する遺伝子の機能はほぼ未解明である。遺伝子機能解析には RNAi 法(ノックダウ
ン)や遺伝子破壊(ノックアウト)は非常に有効である。しかし、RNAi 法では発現抑制効果は不
十分、また発生時期や組織により効果が得られない場合があるため、ノックアウト技術が可能に
なれば、ハマダラカでの遺伝子機能解析が格段に進むことが予想される。
そこで、本研究ではアジアのマラリアベクターであるハマダラカの種(Anopheles stephensi)に
おいてゲノム編集技術 TALEN を利用した遺伝子ノックアウト技術の開発と、それを利用したハマ
ダ ラ カ の 唾 液 腺 遺 伝 子 の 機 能 解 析 を 行 う こ と を 目 的 と す る 。 最 初 に ハ マ ダ ラ カ ( Anopheles
stephensi)での TALEN を用いたノックアウト技術の開発のために、ノックアウト(KO)自体が
生存に影響のないことが予想出来て、かつ KO 個体のスクリーニングが容易な可視的表現型を示
す遺伝子 kynurenin 3-monooxygenase 遺伝子(kmo)に対する TALEN の作製とノックアウト個体の
作製を行う。kmo 遺伝子はトリプトファン代謝経路の遺伝子で、かつ眼の色素合成にも関与して
おり、他の昆虫では KO 個体は白眼になることが知られている。次に、ハマダラカの性分化遺伝
子(doublesex)の TALEN による解析を行う。ハマダラカの唾液腺は雌雄間で大きく構造・機能が
異なるため doublesex 遺伝子によって様々な遺伝子発現制御を受けていることが考えられる。KO
系統の唾液腺を解析することで雌特異的な唾液腺の機能を解明することを目的とする。さらに唾
液タンパク質遺伝子である血小板凝固阻害タンパク質遺伝子(aapp)、抗トロンビン遺伝子
(anophelin)についてもノックアウト系統を作製し解析することを目的とする。
2.研究の計画・方法
(1) まず、ハマダラカ kmo 遺伝子の第4エキソンの部分に対して TALEN を設計・作製した。
TALEN の mRNA をハマダラカ胚に顕微注入し、成虫まで飼育し、それらを野性型のハマダ
ラカと交配し、次世代を得る。これらを RFLP 解析により遺伝子に変異が起こった個体が存
在する系統のみを飼育し、樹立・解析する。TALEN mRNA の顕微注入による注入個体の生
存率や変異の導入効率が低い場合には TALEN を発現するトランスジェニック系統を作製し、
これを用いた変異導入を検討する。
(2) ハマダラカ doublesex 遺伝子の雌特異的エキソン、また aapp 遺伝子、anophelin 遺伝子に対す
る TALEN を設計・作製する。kmo 遺伝子の場合と同様に TALEN の mRNA をハマダラカ胚
に顕微注入し、交配により得られた次世代で RFLP 解析を行い KO 個体の選別、系統の樹
立・解析を行う。
3.研究の特色
(1) マラリアベクターであるハマダラカにおいて TALEN による遺伝子ノックアウト技術を確立
することで新しいベクター制御法の開発、マラリア媒介の分子機構の解明が可能になる。
(2) 唾液腺で発現する遺伝子において、ノックアウト技術が可能になれば、唾液腺分化を制御す
ることで、摂食不能による致死を引き起こし、不妊虫放飼(SIT)などにも応用可能である。
また、マラリア媒介に必須な唾液腺の因子の同定が進み、それらの遺伝子の制御により将来
的にマラリアを伝播しないハマダラカの作製にも利用できる。
(3) 吸血に必要な唾液タンパク質(血液凝固阻害作用、血管拡張作用、麻酔作用など)遺伝子が
解析できるようになり、それらの分子を標的とした薬剤・殺虫剤の開発に貢献できる。
― 63 ―
4. 研究の成果
(1) kmo 遺伝子を用いたハマダラカへの TALEN によるノックアウト技術の導入
kmo の TALEN mRNA 注入個体を飼育し、11 個体より子孫を得た。各系統で RFLP 解析を
行ったところ、3 系統において遺伝子に変異が起こっていた。変異の導入効率は 27%であっ
た。シークエンス解析の結果、変異により翻訳時にフレームシフトが起こり、酵素活性に重
要なタンパク質の C 末端領域が欠損していた。これらの 3 系統を飼育し、各系統内で交配し
たところ、幼虫から成虫を通じて眼に着色が起こらない(白眼)個体が得られた(図1)。
RT-PCR を行ったところ、白眼個体では正常な kmo 遺伝子の mRNA は発現が見られなかった。
このことから遺伝子のノックアウトに成功した。
図1 kmo 遺伝子ノックアウト系統
(2) doublesex 遺伝子のノックアウト解析
doublesex の雌特異的なエキソンに対する TALEN mRNA を胚に顕微注入し、得られた成虫
から次世代を得たところ、標的部位に変異の起こった系統が2つ得られた。シークエンス解
析の結果、変異部分でフレームシフトが起こり、これらの系統では雌特異的 doublesex タンパ
ク質の C 末領域が欠損していることが分かった。C 末領域はキイロショウジョウバエでは機
能に重要な部分とされており、この系統でも雌においても表現型が得られることが予想され
る。現段階では変異をヘテロに持つ個体が得られたところであり、今後、変異個体同士で交
配し、KO 染色体をホモに持つ個体の作製を行う予定である。
(3) 唾液腺タンパク質遺伝子のノックアウト解析
aapp 遺伝子、anophelin 遺伝子については、現時点ではノックアウト系統の作出には至って
いない。
以上の結果からハマダラカで TALEN を用いた遺伝子ノックアウト技術導入に成功した。kmo 遺
伝子での変異導入効率から、顕微注入法でも十分に遺伝子ノックアウトが可能である。また、成
虫の脚1本から DNA を抽出し RFLP 解析出来ることが分かった。従って RFLP 解析後に交配・解
析に使用することが出来ることも分かった。ただし、系統作製時には通常のトランスジェニック
系統作製に比べ変異個体の選別が煩雑であり、同時に複数の遺伝子の KO 系統作製を行うには、
現時点では複数の人員が必要であると考えられた。
― 64 ―
政治体制構想をめぐる日中の思想連鎖
-二十世紀初頭を中心として-
神奈川大学
外国語学部
朱
琳
1.研究の目的
中国と日本の近代史は、解けがたく絡み合っている。助成者は、近代国家の建設を緊急課題と
する 19 世紀末 20 世紀初めにおいて、日中両国の代表的な知識人がいかに目の前の政治的変動を
過去―現在―未来という歴史の流れの中に位置づけ自らの主張や提言を正当化したのか、いかに
歴史像の再構築によって国家体制のあるべき姿および変革の方法論を提示し現在から未来への道
を打開しようとしたのかという一大問題に関心があった。
そして、これまで資料収集および論文執筆の過程で得た啓発の一つは、大正日本と中華民国の
つながりの深さに気づかされた点である。明治期の両国関係に比べると、大正期の両国関係に関
する研究は少ないものの、特に思想文化及び人的交流関係は相当に活発であり、当該時期の中国
思想の理解のためには大正日本の思潮の理解が欠かせない。また、大正日本の思想的傾向を理解
するために、日本と深くかかわった同時代の中国の知識人の動向にも注目すべきであろう。今回
研究課題として挙げられている、近代中国の政治体制構想をめぐる日中の議論は、まさにこう
いった思想的連環の好例である。
2.研究の計画・方法
秦以降、政治体制の選択をめぐる「封建―郡県」論は、ときには「公―私」、「地方分権―中
央集権」などの議論とも重なりあっており、社会体質論になることもあれば、歴史発展段階論に
なることもあり、複雑な様相を呈している。清末に「封建-郡県」論が一つのピークを迎えてお
り、とりわけ辛亥革命後アジアにおける最初の共和国が成立したにもかかわらず政治的混乱が依
然として続いていた中で、目指すべき国家像がどのようなものなのかについて意見が分かれてい
た。そして、1920年代前半にいたると、「聯省自治運動」が大いに盛行し、「聯邦制」の是非を
めぐる議論が一層活発化するようになった。日本と深く関係していた孫文、戴季陶、梁啓超、章
炳麟などがことごとく白熱化した議論に加わった一方、内藤湖南、山路愛山、吉野作造、橘樸な
ど中国に関心の高い代表的な日本の言論人もそれらの議論を意識しながら論説や著書を通じてそ
れぞれの見解を披瀝した。
本研究は、近代国家の建設を緊急課題とする世紀転換期において、「封建・郡県」という東ア
ジアの伝統的概念が近代日中の「聨邦論」にいかに発展し、同時代の日中の代表的な知識人が、
いかに歴史像を再構築することによって国家体制のあるべき姿および変革の方法論を提示したの
かという問題に焦点を絞り、二十世紀初頭における日中の思想的連鎖の一側面を明らかにするこ
とを目指すものである。
助成期間中、地元の記念館や資料館を見て回り、関連する資料の収集に取り組み、取り上げら
れる対象の残した文献類を主な素材として思想史的テキスト分析を中心に考察を行なった。と同
時に、彼らの歴史認識の背景となる思想家の議論、その他の同時代の人士の議論にも目を配って
包括的に研究してきた。既出の全集・選集に収録されていない文章を含め、研究課題と関連する
主要な新聞・雑誌に目を通し、できるかぎりの資料調査をしてきた。加えて、研究するにあたり、
関連分野の内外の研究者と交流しつつ、研究成果の報告を行なうことで、自身の視野拡大と研究
精度の向上を図った。
3.研究の特色
先行研究の業績を踏まえつつ、日本あるいは中国のどちらか一方の資料に頼るのではなく、大
正日本と中華民国との思想・人的交流、とりわけ「聯邦論」をめぐる日中の思想的連環に注目し、
― 65 ―
双方の史料を活用しながら分析を行なった点において、本研究の特色がある。
4. 研究の成果
近代日中両国の代表的な知識人の歴史認識と体制構想の関連を分析した結果、大正時代の日中
思想的連環の一側面を浮き彫りにさせることができた。一方で、日中双方の「聯邦論」はともに
政治体制の選択をめぐる「封建―郡県」論の系譜上にありながら、それぞれ際立った特徴があっ
たことを確認できた。それは時期や立場の変化によって変わっていた。
これまで体系的に検討されていたとは言いがたい体制構想(とりわけ「聨邦論」)の思想的連鎖
について考察する本研究は、東洋史の分野で、とりわけ知識人の思想と活動の理解について、新
たな知見を提示できるのみならず、今日においても議論の焦点となり続けている中国の国家体制
や政治改革の問題と意味を考慮する際に新しい重要な示唆を与えうると考えられる。
一部の研究成果として、下記に反映されている。
◎「梁啓超における中国史叙述――「専制」の進化と「政治」の基準(一)(二)」『人文研究
所報』53号、54号、神奈川大学人文研究所、2014年8月、95~115頁、2015年3月、87~115頁。
◎『史論家と政論家のあいだ――内藤湖南と梁啓超』中央公論新社、2015 年度公刊予定。
― 66 ―
小胞体分子シャペロン誘導を介した糖尿病腎症の治療
金沢医科大学
医学部
乙田
敏城
1.研究の目的
先進国における全死因のうち、組織線維化に起因する臓器不全が40%以上を占めている。糖尿病
腎症の末期腎不全に至る過程において認められる腎間質線維化病変は、糸球体障害と比較して腎
機能予後と、より有意に相関することが明らかにされている。そのため、腎間質線維化の進行阻
止が末期腎不全への進行抑制につながる可能性が示され、線維化の機序を解明することは、臓器
不全の進展予防や治療法の開発に重要である。この様な現状から、線維化の進展機序に対する既
存の治療の重要性には間違いないものの、さらに新しい着想に基づいた分子標的を探索すること
が求められる。
線維化は炎症‐創傷治癒機構の破綻から不適切な線維芽細胞の活性化および、細胞外基質の無
秩序な蓄積が生じている状況と考えられる。線維芽細胞は線維化において中心的役割を果たす細
胞であるが、その起源として①末梢血前駆細胞・骨髄細胞由来、②上皮間葉分化転換(EMT)、③内
皮間葉分化転換(EndMT)などが報告されている(Kanasaki et al. Front Endocrinol 2013)。
最近になり、申請者は、肥満状態でのインスリン抵抗性惹起機構における小胞体(ER)ストレ
スの演じる役割を報告した(Otoda et al. Diabetes 2013)。ERは、分泌タンパク質や膜タンパ
ク質が正しい立体構造をとるように折りたたまれる場である。細胞が外界から種々のストレス
(低酸素、アシドーシス、各種活性酸素種など)を受けると、構造異常タンパク質がER内に蓄積
し、最終的にはアポトーシスを引き起こす。ERストレス応答において、X-box binding protein 1
(XBP-1)はERにおける構造異常タンパク質の蓄積という情報を核に伝える。
また近年、腎臓における様々な生理学的、病理学的応答系へのmicroRNA (miRNA)の関与が明ら
かとなってきており(Diabetes 2011)、今回、miRNAを含めたERストレスの制御が糖尿病腎線維
化治療の標的となるかを検討する計画を提案した。
2.研究の計画・方法
申請者は6週齢雄CD1マウスにストレプトゾトシン(200 mg/Kg)
を単回投与し1型糖尿病(T1D)腎線維化モデルマウスを作製し
た。当教室の研究により、このモデルでは糖尿病誘導6ヶ月で糸
球体硬化、尿細管間質の線維化が生じ(図1)、そのような腎
間質の線維化はEndMTと関連していることが明らかとなっている
(Kanasaki et al. Diabetes 2014)。このマウスの腎臓におけ
る遺伝子発現パターンをDNAマイクロアレイにより包括的に解析
した。また、XBP-1とCD31(内皮細胞マーカー)の蛍光二重染色
を行い、ERストレスとEndMTの関係を検討した。さらに、マイク
ロアレイと定量的PCRを用いて、糖尿病腎線維化に深く関与して
いるmiRNAの探索を行った。
3.研究の特色
図1:STZ投与CD1マウスにおけ
線維化の進展におけるERストレスの位置づけを明確にするこ
る糸球体硬化と線維化
とで、線維化の新しい治療法の開発につながる基盤となる研究
が実施できる。現時点で抜本的治療法の確立していない組織線維化の病態解明と予後改善に、全
く新しいアプローチを展開する事が可能になる。本研究により、ERストレスを標的にmiRNAを用い
た核酸医学という未だ行われていない、新規分野の開拓が期待される。
― 67 ―
4. 研究の成果
(1)糖尿病腎線維化とERストレスとの関係
DNAマイクロアレイを用いてT1D腎線維化モデルマウスの腎臓における包括的遺伝子解析を
行った結果、変動が大きい代謝経路のひとつにERストレス応答に関連する経路(heat shock
protein 1A、1B、カスパーゼ12など)を同定した。また、このマウスでは、XBP-1の発現が上皮
ではなく腎間質において低下することが観察された(図2上段)。さらに、蛍光2重染色で検討
したところ、XBP-1とCD31を発現する細胞が認められた(図2矢印)。これらの結果より、ERス
トレスが糖尿病腎症の腎間質線維化とEndMTの成因として深く関わっていることが示唆された。
(2)糖尿病腎線維化とmiRNAとの関係
T1D腎線維化モデルマウスの腎臓におけるmiRNAマイクロアレイ解析を実地し、大きく変動し
ているmiRNAを同定した。定量的miRNA PCRの結果、miRNA-214の発現が2.3倍と有意に亢進して
いた(図3)。実際にmiRNA-214は糖尿病モデル動物の腎症で増加し、腎線維化をもたらす可能
性が報告されている(Am J Pathol 2011)。また、miRNA-214はXBP-1の3’UTRと相互作用する
ことが報告されている(PLoS ONE 2012)。
以上より、糖尿病腎症では、
① miRNA-214 の発現が亢進する。
② miRNA-214 の発現亢進が XBP-1 の発現を抑制し、内皮細胞機能不全を起こす。
③ 更に、EndMT を介して線維化を促進する。
可能性があり、XBP-1作用増強薬の開発が有効なテーラーメード治療戦略となることが期待できる。
しかし、miRNA-214がXBP-1を直接制御するか、miR-214の明らかになっていない機能や機能喪失効
果、XBP-1の3’UTRと相互作用する未知のmiRNAの同定など明らかにされるべき問題は数多く残っ
ている。今後は、より詳細な研究を行うことで、ERストレスを標的にmiRNAを用いた新規治療法の
開発を目指す。
*
図 3 : 腎 に お け る miRNA214の発現
図2: 腎組織におけるXBP-1の発現
― 68 ―
「糖尿病への夫婦療法」の理論化に向けた基礎研究
-夫婦タイプによる生理・心理指標の予測-
北陸学院大学
人間総合学部
東海林
渉
1.研究の目的
本研究では、糖尿病患者への支援策の一つとして、家族心理学や家族看護学が基盤としている
家族システム理論を背景にした「夫婦療法」を提案することを念頭に、その理論化の基礎となる
以下の実証的研究(研究1、研究2)を行った。
本研究では、家族構造を理解するための鍵概念の一つである「境界(boundary)」に着目した。
研究1では、prospective studyとして夫婦の類型の判別が将来の血糖コントロールの予測に役立
つかどうかを検証した。また研究2では、糖尿病治療に直面した夫婦の行動変容にジェンダーの影
響がみられるかどうかをretrospectiveに検証した。研究1と研究2は直接には関連しないが、家族
システムにおける境界概念に関する研究として、糖尿病の夫婦療法の理論化に欠かせないもので
ある。
2.研究の計画・方法
(1) 研究1:夫婦の類型 (タイプ) が将来の血糖値の予測に役立つかどうかの検証
東海林ら(2013)の食事療法に取り組む夫婦の4類型(団結:夫婦が協同的に糖尿病の食事療
法に取り組んでいる、纏綿:糖尿病でない配偶者が食事の責任を背負い、患者が配偶者に依存
している、遊離:お互いが機能的に分離していて、患者が一人で食事管理の責任を背負ってい
る、無関心:夫婦のいずれも食事療法の責任を負っていない)では、相関分析により血糖コン
トロールの指標であるHbA1c値が団結タイプで最も良好で、無関心タイプで最も悪いとされた。
研究1では、その結果を踏まえ、夫婦の類型が将来的な血糖コントロールに影響するか検討した。
〔研究1の検証仮説〕夫婦タイプの判定から1年後の血糖コントロールは、タイプ別に異なる。
《調査方法》東海林ら (2013) の調査(T1とする)をタイプ判定のベースラインとし、T1の
HbA1c値と、T1から1年経過後(T2とする)のHbA1c値を調査した。
《調査対象》夫婦のどちらかが2型糖尿病をもつカップル166組(平均年齢 66.98歳(±10.15)、
女性28.9%)。
《アウトカム》血糖コントロールの指標にはHbA1c値を用いた。6.9%以下と7.0%以上を血糖コン
トロール良否のカットオフポイントとした。
《分析方法》T1の調査結果をもとに夫婦タイプの判定を行い、T1およびT2時点の血糖コント
ロールの良否との関連を対数線形モデル分析により検討した。
(2) 研究2:糖尿病患者とその家族の行動変容にジェンダーの影響がみられるかどうかの検証
家庭内の夫婦の伝統的性別役割分業は今なお根強く、家事の大部分を担うのは妻である(天
野,2005)。糖尿病治療の中で食事療法の役割が大きいことを考えると、炊事や食料品の購入な
どに従事する機会が多い女性と、その機会が相対的に少ない男性では、糖尿病に罹患した際の
行動変容のあり方に違いがあることが推測される。そこで研究2では、患者およびその家族の行
動変容にジェンダーの影響がみられるかどうか検討した。
〔研究2の検証仮説〕糖尿病患者とその家族の行動変容にはジェンダーの影響(性差)がある。
《調査方法》民間のリサーチ会社保有の疾患モニターを利用し、オンライン調査を実施した。
《調査対象》20歳以上の2型糖尿病者のうち、直面化体験 (糖尿病や将来の健康について思いめ
ぐらすきっかけとなる体験) を経験し、直面化体験時に家族に相談したことのある2型糖尿病患
者169名(平均年齢 57.29歳(10.26)、女性30.8%)。
《調査内容》(1)基本属性、(2)経験した直面化体験の種類(境界型の診断、糖尿病の診断、身
体症状の自覚など)、(3)自身の行動変容の有無、(4)直面化体験時の家族への相談の有無、(5)
― 69 ―
家族の行動変容の有無。
《分析方法》性別、自身の行動変容の有無、家族の行動変容の有無の3変数の関連を検討するた
め、対数線形モデル分析を行った。
3.研究の特色
研究1では、夫婦の類型が将来的な血糖コントロールに影響するかについてprospectiveな検討
を行った。先行研究では、糖尿病をもつ夫婦の類型化に関する研究はもとより、その類型の査定
がどのように臨床的に役立つかについての研究はほとんど行われていない(Gonder- Frederick,
2002;東海林,2010)。また、糖尿病患者を対象とした心理学的研究は相関研究がほとんどで、
prospectiveな研究は僅かである。したがって、夫婦の類型に着目してその臨床的意義を見いだそ
うとする本研究の目的と、因果関係を検討するためのprospectiveな方法論は、本研究の特色の一
つである。
さらに研究2では、糖尿病患者とその家族の行動変容におけるジェンダーの影響を検討した。夫
婦療法ではジェンダーの要因を重要視するが、日本において家族システム論の視点から糖尿病患
者におけるジェンダーの影響を検討したものは少ない。したがって、個人レベルではなく、家族
システムのレベルでジェンダーの影響を検討している点も本研究の特色である。
4. 研究の成果
(1) 研究1の成果
《結果》モデル比較により、夫婦タイプとT2のHbA1c値の関連と、T1のHbA1c値とT2のHbA1c値の
関連を含むモデルが採択された。すなわち、夫婦タイプの違いにより、1年後のHbA1c値に差が
みられる可能性が示された。タイプ別にHbA1cの値を比較すると、纏綿タイプのコントロールが
良好であり、無関心タイプのコントロールが不良であった。
《考察》夫婦タイプの違いが将来的な血糖コントロールに影響する可能性が示された。ただし、
先行研究の知見とは異なり、纏綿タイプのコントロールが良好であった。日本は一般的に境界
があいまいで纏綿家族が多いとされる(布柴,2008)ため、そうした夫婦の特徴が問題改善に役
立った可能性がある。この点については今後、更なる検討が必要であろう。
(2) 研究2の成果
《結果》モデル比較により、性別と家族の行動変容の有無と、家族の行動変容の有無と自身の
行動変容の有無の関連を含むモデルが採択された。
《考察》採択されたモデルは、性別と自身の行動変容との関連は、家族の行動変容を介在する
ことで生じたものであることを示しており、モデルに含まれる変数間の関連から、以下のジェ
ンダー差が読み取れた。すなわち、男女とも7~8割が行動変容しているが、男性患者の行動変
容が家族の行動変容に支えられている一方、女性患者の行動変容は自身が食事提供者であると
いう性別役割によって規定されていることが推察された。
(3) まとめ(本研究の成果)
本研究の結果、研究1の仮説は部分的に支持された。また、研究2の仮説は支持された。本研
究の結果は、日本における糖尿病の夫婦療法の理論化において重要な知見となることが期待さ
れる。現時点では日本の文化的特徴を考慮した研究は少数であるため、今後は更なる基礎的研
究を重ねるとともに、臨床的な技法の開発等を進めていく必要がある。
― 70 ―
部位特異的Schnurri-2ノックアウトマウスを用いた精神疾患様表現型の解析
藤田保健衛生大学
総合医科学研究所
高井(服部) 聡子
1.研究の目的
精神疾患は、遺伝的・環境的要因が関与する多因子疾患と考えられているが、その病因は未だ
に明らかにされていない。申請者の所属研究室では、代表的な行動テストを組み合わせた「網羅的
行動テストバッテリー」を行い、新規の精神・神経疾患モデルマウスを多数同定してきた。その中
で、活動量の亢進、ワーキングメモリーの障害などの類似した精神疾患様行動異常を示す複数のマ
ウスにおいて、成体の海馬歯状回のほぼ全ての神経細胞が未成熟な状態である「未成熟歯状回」と
いう脳内異常が起きていることを見出した。さらに、薬物やけいれん発作などによって、一度成熟
した歯状回が擬似的な未成熟状態に戻る「脱成熟歯状回」という現象を発見し、海馬歯状回の神経
細胞の成熟度は双方向性に調節されうることを報告してきた。このような未成熟歯状回は、統合失
調症、双極性気分障害患者の死後脳でも認められることから、精神疾患の有力な中間表現型であ
ることが期待される。本研究では、未成熟歯状回などの脳内異常や精神疾患様行動異常を引き起
こす原因部位やそのメカニズムを探索するため、部位特異的Schnurri-2(Shn-2) KOマウスを作製
し、表現型の解析を行った。申請者の所属研究室の報告により、Shn-2コンベンショナルKOマウスが、
未成熟歯状回、軽度慢性炎症といった脳内異常や精神疾患様行動異常を示すことが明らかにされてお
り、それらをコンディショナルKOマウスの表現型と比較することで、脳内異常と行動異常を引き
起こすメカニズムを検討する。
2.研究の計画・方法
(1) 部位特異的Shn-2 KOマウスの作製:
本研究では、Shn-2コンベンショナルKOマウスにおいて未成熟歯状回、軽度慢性炎症によるア
ストロサイトの活性化が認められることから、1)海馬歯状回特異的Shn-2 KOマウス、2)アストロ
サイト特異的Shn2 KOマウスを作製し解析を行う。
部位特異的Shn-2 KOマウスは、Cre/loxPシステムを利用して作製する。申請者の所属研究室に
て、既にloxP配列を組み込んだfloxed Shn-2マウスを作製済である。1)海馬歯状回特異的Shn-2
KOマウスの作製には、歯状回特異的Creトランスジェニック (Tg)マウスを、2)アストロサイト特
異的Shn2 KOマウスの作製には、Cre-ERT2をアストロサイト特異的グルタミントランスポーター
(GLAST)依存的に発現するTgマウスを用いた交配を行う。
(2) 網羅的行動テストバッテリーを用いた部位特異的Shn-2 KOマウスの行動解析
上記のように作製したマウスについて、網羅的行動テストバッテリーにより行動解析を行う。
(3) 部位特異的Shn-2 KOの脳内表現型の解析
行動解析後、マウスの脳組織を摘出し、定量的PCR法、免疫組織化学的手法により、海馬歯状
回の成熟度や軽度慢性炎症マーカーの発現を調べ、これらの下流にあるメカニズムを探索する。
3.研究の特色
本研究で標的としている「未成熟歯状回」は、類似した精神疾患様行動異常を示す複数のモデ
ルマウスで共通して認められる新規の脳内異常である。このような、成体神経細胞での成熟度が
双方向性に変化するという現象は、近年、情動を司る扁桃体基底外側核や、統合失調症患者の大
脳皮質のパルバルブミン陽性抑制性介在細胞などでも報告されてきている。このことは、成体の
脳の成熟度変化は、脳の様々な領域や細胞で起こりうる重要な脳機能である可能性を示唆してい
る。未成熟歯状回は、統合失調症や双極性障害患者の死後脳でも確認されており、精神疾患でこ
れほど顕著な中間表現型は他に例を見ないことから、その原因部位やメカニズムの解明は、精神
疾患の新規治療薬の開発を行う上での基礎データとしての活用だけでなく、このような新規脳機
― 71 ―
能の役割の理解ために重要であると考えられる。
4. 研究の成果
(1) 海馬歯状回特異的Shn-2 KOマウスを用いた解析結果
2-(1) の か け 合 わ せ に よ り 、 (wild 、 floxed/floxed) 、 (Cre 、 floxed/floxed)マ ウ ス を 作
製した。(Cre、floxed/floxed)マウスは、既に海馬歯状回特異的にShn-2を欠損することを確認
済みである。これらのマウスを用いて、網羅的行動テストバッテリーを行った結果、歯状回特
異的Shn KOマウスは、遠隔記憶が低下していた。また歯状回特異的Shn-2 KOマウスの海馬歯状
回のサンプルを採取し、海馬歯状回の成熟度マーカー分子の発現量をqPCRにて定量した結果、
歯状回特異的Shn-2 KOマウスの海馬歯状回は、対象群と同等に正常な成熟度を示すことが明ら
かになった。これらの結果、歯状回特異的Shn-2の欠損は、海馬歯状回の未成熟化の誘導には不
十分である一方、海馬歯状回のShn-2は、長期記憶に重要な役割を果たしていることが示唆され
た。
(2) アストロサイト特異的 Shn-2 KO マウスを用いた解析結果
floxed Shn2マウスとアストロサイト特異的CreTgマウスとのかけ合わせにより、(wild、
floxed/floxed)、 (Cre、floxed/floxed)マウスを各5匹ずつ作製した。現在、これらのマウス
にタモキシフェン投与を行い、1)未成熟歯状回を示すマウスに共通して見られる行動表現型に
着目した行動解析、2)アストロサイト特異的なShn-2の発現量解析、 3) 海馬歯状回の成熟度
マーカー分子の発現量解析を進めているところである。
(3) 次世代シーケンサーを用いた脳内異常メカニズムの評価系の立ち上げ
未成熟歯状回を示すマウスの脳内異常やそのメカニズムを明らかにするため、RNA-seq による
発現量、スプライシング解析の導入を検討した。現在、同実験系の立ち上げが終了し、未成熟
歯状回及び、精神疾患様行動異常を示すマウスの海馬歯状回を用いた解析を進める準備を行っ
ている。
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統合失調症モデルマウスの神経幹細胞の網羅的エピゲノム解析
-統合失調症の病態における神経幹細胞のエピゲノム解析-
中部大学
実験動物教育研究センター
大内
靖夫
1.研究の目的
統合失調症は,全人口の約1%にみられる重篤な精神疾患であり、有効な治療法も存在しない。
これまで我々は,家族性の統合失調症のうちで最も頻度の高い22q11.2 欠失症候群の責任領域に
存在するDGCR8 遺伝子に着目し、Dgcr8(+/-)マウスが、認知機能障害などの異常を示す有用な統
合失調症モデルマウスであることを明らかにしてきた。また本マウスでは海馬におけるIGF2 の発
現が低下することで、神経新生の低下を引き起こし、認知機能の低下を引き起こしていることを
報告してきた。IGF2はエピジェネティックな制御を受ける増殖因子として良く知られているが、
近年、エピゲノム異常が統合失調症の発症を高めている可能性も指摘されている。そこで本研究
では本マウスに対して、網羅的エピゲノム解析を行うことで統合失調症の発症機構の解明を目指
すことを目的とした。
2.研究の計画・方法
(1)CpG Island microarrayを用いたDNAメチル化領域の網羅的解析
8週齢のDgcr8(+/-)、野生型雄マウスより、海馬組織を摘出し、定法にてgDNAの抽出を行った。
続いてDNAの断片化処理、Cy3、 Cy5標識を行い、Agilent mouse CpG Island microarray 2 x
105Kを用いて網羅的なメチル化解析を行った。得られた遺伝子群に対して、先行研究から得ら
れたDgcr8(+/-)マウス海馬における網羅的遺伝子発現解析結果を用いた発現解析、Pathway解析
を行った。
(2)Bisulfite sequence法を用いたDNAメチル化解析
8週齢のDgcr8(+/-)およびDgcr8(+/+)雄マウス、各4匹より、海馬組織を摘出し、定法にて
gDNAの抽出を行った。得られたgDNAに対して、EpiTect Fast DNA Bisulfite kitを用いてgDNA
のBisulfite処理を行い、精製後、得られたDNA産物に対して、Igf2/H19ゲノム領域に存在する
ICR特異的なPrimerを用いてPCRを行い、増幅を行った。続いて得られたPCR産物をTAクローニン
グし、Sequenceの解析を行った。
3.研究の特色
本研究は海馬における神経新生に着目し、統合失調症モデルマウスの海馬のエピゲノムの状態
から、その認知機能形成機構や恒常性維持機構を明らかにすることを特色としている。統合失調
症の発症は遺伝的要因と環境的要因の関与が考えられているが、発症機構は不明であり、特にエ
ピゲノムは、環境要因によって修飾されうる遺伝情報の変化であることから、近年注目されてい
る。また精神疾患モデル動物の海馬に対する網羅的エピゲノム解析は、これまで誰も取り組んで
いない研究内容である。本研究は、これまで不明であった環境要因による統合失調症の発症の分
子機構の解明につながる独創的な研究課題である。
4. 研究の成果
(1)網羅的DNAメチル化解析結果
ゲノムワイドなCpG islandのDNAメチル化の解析の結果、Dgcr8(+/-)マウス海馬では、数多く
の遺伝子でCpG islandにおけるDNAメチル化状態に変動が起きており、2030遺伝子が高メチル化、
1688遺伝子が低メチル化状態になっていることが明らかとなった。これらの上位50位までの
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遺伝子を抽出し、Pathway解析を行った結果、Dgcr8(+/-)マウス海馬ではABCトランスポーター
に関わる遺伝子群が高メチル化状態にあることがわかった。また神経幹細胞の未分化性の維持
において重要な転写因子であるSox2が上位に含まれていた。一方、Dgcr8(+/-)マウス海馬にお
いて顕著な遺伝子発現の低下が認められていた20種の遺伝子のDNAメチル化状態を解析した結果、
Dgcr8(+/-)マウス海馬ではHtr2c、 Ace、 Igf2遺伝子のCpG islandが高メチル化状態にあるこ
とが示唆された。
(2)Igf2-H19遺伝子領域のメチル化解析結果
マウスIgf2遺伝子は、H19遺伝子と隣接して存在しており、通常、両遺伝子共通の発現制御領
域(ICR)が父性アレルでのみメチル化されることで、父性アレルからIgf2遺伝子が転写されるが、
様々な疾患でこのICRのメチル化異常が報告されている。そこで次にDgcr8(+/-)マウスにおける
ICRに存在するCTCF結合領域のメチル化をBisulfite sequence法を用いて解析を行った。
その結果、Dgcr8(+/+)マウス海馬組織由来gDNAでは、父性アレルのメチル化、母性アレル脱
メチル化により、4つのCTCF結合領域におけるメチル化率は約50%であったのに対して、
Dgcr8(+/-)マウス海馬由来gDNAでは、CTCF結合領域3番において顕著な低メチル化が起きている
ことが明らかとなった。
以上の結果から、Dgcr8(+/-)マウスの海馬では、Igf2遺伝子のプロモーター領域が高メチル化
状態にあり、一方でICRが低メチル化状態になっていることが明らかとなった。CTCFタンパク質は、
非メチル化状態のICRに結合することで、Igf2遺伝子の発現を抑制することから、これらのメチル
化の変化により、Igf2遺伝子の発現は抑制されることが考えられる。
一方、古くから、統合失調症の発症率を増加させた大きな環境因子として、第二次世界大戦末
期の“Dutch Hunger Winter”が注目されてきたが、近年、この時期に胎児であったヒトでは、
IGF2のICRが低メチル化状態になっていることが報告されている。またIGF2は海馬における成体神
幹細胞の自己分泌型増殖因子であることが報告されていることから、成体神経幹細胞におけるエ
ピゲノム異常がIGF2の発現および神経新生を低下させることで認知機能障害を起こしている可能
性が考えられる。
今後、より詳細な分子機構の解析をすることにより、統合失調症の発症機構の解明と治療戦略
の開発につながることを期待している。
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