サン・サルビアの兎 クリントン日月抄 (第15話) 小生はサン・サルビアの兎、クリントンである。 旧暦8月15日は豆名月である。太陽暦では9月末か10月初めに当たる中秋の名月だ。 竹中施設長は市内の著名なフラワーデザイナー栗林氏に注文して玄関ホールに花を立て、その脇に小生を 移動させると「月見の兎」と掲示し、「しっかりやれよ。」と訓示する。 餅つきでもしろというつもりか、理解に苦しむ。 遙か太古よりアフリカはもとよりユーラシア、南北アメリカ大陸を覆う多様な民族が、月面の模様に兎を 見ているという。この壮大なロールシャッハテストの結果は、人類の兎によせる尊敬を顕すものと理解する。 月の神をギリシャではアルテミスといい、ローマではディアナという。エジプトではイシスといい、日本で つきよみのみこと は月 読 尊 という。 全て大地豊穣の神であるが、その象徴である月に住みしものが兎である。 かつての大ヒット漫画セーラームーンの主人公が「月野うさぎ」と命名されるのも肯ける。 いずれにせよ竹中施設長は、これで豆名月の小粋な演出のつもりであろう。 悠久の時を越え幾多の宗教者、神秘主義者や芸術家、俳人、歌人の心を捕らえ続けた我がゆかりの明月に、 一凡夫のくわだてなど片腹痛い限りである。 職員もほとんど帰り、妖しい月が中空に浮かぶ。夜間勤務者だけの時間帯である。 月光に和してたたずむ花を観賞しながらムーンナイトセレナーデに揺られ、心ゆくまでモスカレードパセ リを賞味しようと思っていた小生だが、そうは問屋がおろしてくれない。 月明かりに誘われてか、しばしば小生と俊敏さを競う入所者の伊藤吉宗氏や我がクライアントの面々が登 場した。伊藤吉宗氏はそのおぼつかない足取りとは対照的に、レーザー誘導ミサイルのごとき正確さでお供 えの茹で豆に到達する。ちらちら小生を見るが、お裾分けの気配もない。浦島太郎の斉藤マツさんは子供の お土産にと何本か花を抜いていった。別の入所者寺田ヨシさんは小生の前で何度か柏手を打った後、小銭を おいていった。 この程度は施設長以外の職員の予測していることなので小生も気にも留めない。 ただ、小生がお供え物と見当違いされることを懸念する。 「栗名月の時も頼もう。 」と、竹中施設長は一人悦にいってい る。さらなる夜間状況の把握を求めるものである。お供えが茹 で栗であれば、歯のない伊藤吉宗氏はどうするのだろうか。 入れ歯もなしに茹で栗に挑むは、ちと無謀である。我がクラ イアントであり好敵手でもある伊藤吉宗氏を思うに、お供えは マロングラッセか栗金団にすることを栄養士に提案したい。 加えて賽銭箱を準備し、あがりは小生の老後の年金に充当す ることを提案するものである。
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