全文 - 聖マリアンナ医科大学雑誌

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聖マリアンナ医科大学雑誌
総 説
Vol. 42, pp. 191–194, 2015
脳神経外科と尊厳死
Death with Dignity in Neurosurgery
ながしま
ご ろう
長島 悟郎
(受付: 平成 27 年 1 月 13 日)
先日,米国で若い女性が脳腫瘍を患い,自ら命を
たします。
絶つ選択をした。当時 29 歳の Brittany Maynard は,
②ただしこの場合, 私の苦痛を和らげるためには,
居住しているカリフォルニア州では尊厳死は認めら
麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行っ
れていないため,オレゴン州に転居して希望をかな
てください。
えたとされている。本人の動画が YouTube で公開さ
③私が回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)
れているが, 7 年前に星細胞腫で手術を受け, 今回
に陥った時は生命維持措置を取りやめてください。
は再発して神経膠芽腫と診断されたとのことであり,
以上,私の宣言による要望を忠実に果たしてくだ
医師から命を絶つための薬剤を受け取り,家族や友
さった方々に深く感謝申し上げるとともに,その方々
人の見守る中で, 命を終えたとのことである1)。 オ
が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私
レゴン州はワシントン州,モンタナ州,ヴァーモン
自身にあることを附記いたします。
そして,「尊厳死とは延命措置を行わないもので,
ト州,ニューメキシコ州とともに,全米の中で尊厳
死が認められた 5 つの州の一つであり,以下の要件
敢えて死につながる行為を行う安楽死とは異なるこ
を満たすことが求められている2)。
と」
「尊厳死協会は安楽死を支持していないこと」が
1.18 歳以上のオレゴン州民
2.余命 6 ヶ月未満と診断された末期患者
3.自らの健康問題について決定し伝達する能力を有
明示されている。
しかし,生命維持装置を取りやめることは,医学
的には「死につながる行為を行うこと」と同義であ
し,任意に致死薬処方を主治医に対して要請した
り,
「医療の不作為」自体が問題視される可能性も存
者
在している。
1975 年 4 月, カレン・アン・クィンランはパー
この事例を理解するためには,医療界で氾濫して
いる様々な言葉の整理が必要である。「尊厳死」「安
ティードレスが着られるようになるために激しいダ
楽死」
「終末期医療」
「DNAR」など,多くの言葉が,
イエットを行い,パーティー当日に意識消失ののち
それぞれ異なった意味が付与されて使われている。
呼吸停止に到り,蘇生されたものの低酸素脳症のた
めに人工呼吸器が外せない状態になった。いわゆる
1. 尊厳死とは
カレン事件である。両親は人工呼吸器を外して安楽
尊厳死協会は,
「尊厳死(death with dignity)とは,
死させることを望んだが, 病院側はこれを拒否し,
人間が人間としての尊厳を保って死に臨むこと」と
1976 年に家族の訴えを認める判決がニュージャー
し,以下のような宣言書が準備されている3)。
ジー州の最高裁判所から出され,人工呼吸器が外さ
①私の傷病が, 現代の医学では不治の状態であり,
れている。彼女はその後 9 年間自発呼吸下に生存し
既に死が迫っていると診断された場合には,ただ単
ているが,この事件は当時,社会に対して安楽死に
に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りい
ついて考えるための一石を投じた。
川崎市立多摩病院 脳神経外科病院教授
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長島悟郎
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2. 安楽死とは
3. 終末期医療とは
世界医師会が 1981 年に採択した 「患者の権利に
安楽死は, 従来から消極的安楽死(passive eutha-
nasia)と積極的安楽死(active euthanasia)に分けら
関する WMA リスボン宣言」でも,患者は終末期ケ
れて議論されてきた。消極的安楽死は,生命維持治
アを受ける権利を有していることが示されており,
療を拒否する権利であり,上記の尊厳死協会の宣言
尊厳を保ち,安楽に死を迎えるための権利が謳われ
書に当たる。回復の見込みのない患者の人工呼吸器
ている。 本邦でも終末期医療(Terminal Care)に関
をはずして死に至らしめたという,2006 年に発生し
するガイドラインがすでにいくつか提示されている。
た射水事件がこれに該当する4)。積極的安楽死とは,
2007 年には厚生労働省から「終末期医療の決定プ
医師が患者に死の結果をもたらすことを意図して,
ロセスに関するガイドライン」が提示され,
致死量の薬物を注射等により投与した結果もたらさ
①医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明
れる患者の死であり,患者に塩化カリウムを投与し
がなされ,それに基づいて患者が医療従事者と話し
て死に至らしめた 1991 年の東海大学事件や, 1998
合いを行い,患者本人による決定を基本としたうえ
年に起きた川崎協同病院事件がこれに該当する。川
で,終末期医療を進めることが最も重要な原則であ
崎協同病院事件は,呼吸器をはずす点では消極的安
る。
楽死と捉えられがちだが,呼吸器をはずす前に筋弛
②終末期医療における医療行為の開始・不開始,医
緩薬を用いて呼吸を停止させた上で呼吸器をはずし
療内容の変更,医療行為の中止等は,多専門職種の
ており,積極的安楽死に該当すると思われる。本邦
医療従事者から構成される医療・ケアチームによっ
ではすべて,医師が刑事訴追され,有罪が確定して
て,医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべき
いる。
である。
そして,緩和医療等で引用される安楽死の要件は,
③医療・ケアチームにより可能な限り疼痛やその他
この東海大学事件の際に横浜地裁が提示した以下の
の不快な症状を十分に緩和し, 患者・ 家族の精神
判決がもととなっている5)。
的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを
〈医師による積極的安楽死として許容されるための 4
行うことが必要である。
要件〉
④生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は,本
1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでい
ガイドラインでは対象としない。
ること
などが示されている8)。
2.患者は死が避けられず,その死期が迫っているこ
そして救急医学会からも同年,
「救急医療における
と
終末期医療に関する提言(ガイドライン)」が作成さ
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を
れている9)。これは 2014 年 11 月に改訂され,以下
尽くしほかに代替手段がないこと
の通りとなっている10)。
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があ
①不可逆的な全脳機能不全(脳死診断後や脳血流停
ること
止の確認後などを含む)であると十分な時間をかけ
そして,オレゴン州で制定されている尊厳死法で
て診断された場合
認められた PAS(Physician-Assisted Suicide)は,医
②生命が人工的な装置に依存し,生命維持に必須な
師が処方した致死量の薬物を患者自らが服用すると
複数の臓器が不可逆的機能不全となり,移植などの
ことで死を選択するものである6)。 患者に死の結果
代替手段もない場合
をもたらす最終行為が患者自身の手に委ねられるが
③その時点で行われている治療に加えて,さらに行
ゆえに,積極的安楽死に比べて患者の任意性が確保
うべき治療方法がなく,現状の治療を継続しても近
されやすく,濫用の危険性が低いと言われている 。
いうちに死亡することが予測される場合
2)
2002 年の世界医師会ワシントン総会でも安楽死は
④回復不可能な疾病の末期,例えば悪性腫瘍の末期
医療の基本的倫理原則に相反する事が再認識されて
であることが積極的治療の開始後に判明した場合
いるが,ベルギーやオランダなど,安楽死が法的に
以上のいずれかが要件として提示され,延命措置
認められている国もある 。
を中止する具体的な方法として,
7)
2
脳神経外科と尊厳死
・人工呼吸器, ペースメーカー(植込み型除細動器
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です。」と答える医師がいる。
の設定変更を含む),補助循環装置などの生命維持装
しかしこれは,DNAR の概念とは根本的に異なっ
置を終了する
た使用であり,尊厳死協会も認めておらず,さらに
・血液透析などの血液浄化を終了する
消極的安楽死からも積極的安楽死の概念からも逸脱
・人工呼吸器の設定や昇圧薬,輸液,血液製剤など
した行為である。東海大学事件に対して横浜地裁が
の投与量など呼吸や循環の管理方法を変更する
定義した要件にも該当しない。そもそも,本人がこ
・心停止時に心肺蘇生を行わない
の「コード」に対して了解していないような状況で,
などの方法が提示されている。
法的に全く認められていない「コード」という言葉
その後,2008 年に改訂された日本医師会編「医師
に,医療安全の立場からは非常に大きな危惧を抱く
の職業倫理指針」では,①患者が治療不可能な病気
し,
「希望した治療を受ける権利を剥奪された」と訴
に冒され,回復の見込みもなく死が避けられない終
えられる可能性もある。
末期状態にあり,②治療行為の差し控えや中止を求
今後高齢者が増え,積極的治療を望まない患者も
める患者の意思表示がその時点で存在する事,が重
多くなると思われるが,救急医療の現場では特殊な
要な要件とされている11)。
状況でない限り積極的な治療を提供するのが医師と
しかし一方で,医療倫理的にも法的にも不明確な
して,また医療機関としての責務であることは,再
状態が続いていて,患者の権利や医師の責任いずれ
認識が必要であろう。
に対しても好ましくない状況が継続している事が示
5. Brittany Maynard の事例について
されている。
さて,はじめに触れた Brittany Maynard について,
患者個人の意思と,回復の見込みがないという絶
考えてみる。
対的事実が,終末期医療の判断には極めて重要とな
る。
神経膠芽腫は,テモゾロマイド,カルムスチンウェ
ファー,アバスチンなどの登場で,その生命予後は
4. DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)について
僅かずつであるが改善しつつある。初発の神経膠芽
DNAR の本来の意味は,「患者本人または患者の
腫であれば,1 年生存率は 60%,2 年生存率は 30%
利益にかかわる代理者の意思決定をうけて心肺蘇生
である。5 年生存率も,10% 以下ではあるが,必ず
法をおこなわないこと。」であり,患者ないし代理者
しも余命半年という判断は妥当ではない12, 13)。 こう
への informed consent と社会的な患者の医療拒否権
したデータから考えると, Brittany Maynard はオレ
の保障が前提となるとされている。欧米では実施の
ゴン州の PAS には該当しない事になる。しかしこれ
ためのガイドラインも公表されている。1995 年に日
は治療を受けた場合であり,加入している保険制度
本救急医学会救命救急法検討委員会から「DNR とは
によっては治療が受けられないことも十分に想定さ
尊厳死の概念に相通じるもので, 癌の末期, 老衰,
れる。最終的には,医師が自殺の幇助をすると言っ
救命の可能性がない患者などで,本人または家族の
ても,その判断は大きく医師に委ねられることにな
「こ
希望で心肺蘇生法(CPR)をおこなわないこと」
り,医師の責任の重大さが見てとれる。
れに基づいて医師が指示する場合を DNR 指示(do
1980 年代にロードショーとなったエレファントマ
not resuscitation order)という」との定義が示されて
ンという映画がある。正確な診断は異なるという話
いる。
もあるが,神経線維腫症(NF-2)で生を受け,見世
物小屋で虐待を受けながら生活していた患者(ジョ
しかし,これが「積極的な治療は行わない」とい
うことと混同されて使用されることがある。
「DNAR
ン・メリック)の話である。 多発性の神経線維腫が
だから気管挿管はしない」「DNAR だから侵襲的な
あり,このため脊柱の変形や気道の変形もあり,就
治療はしない」という誤った解釈が現場で行われる
寝時も坐位でいないと気道閉塞のため窒息してしま
ことがある。
う状態である。 Ending は, 普通の人と同じように
高齢者が肺炎で搬入される。入院させようとする
ベッドで寝たいと強く願い,ベッドに横たわって数
と,医療従事者から「コードは何ですか? 確認して
分後に天に召される。心の中は Brittany Maynard と
ください。
」と言われる。ここで,
「コードは DNAR
同じかもしれない。この世に生を受け,精いっぱい
3
長島悟郎
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ただ単に「法律で認められていない」と主張するだ
8)厚生労働省.終末期医療の決定プロセスに関す
るガイドライン.2007
9)救急医療における終末期医療のあり方に関する
けで良いのか,改めて現在の尊厳死,安楽死につい
特別委員会.救急医療における終末期医療に関
て,考えさせられる事例である。
する提言(ガイドライン).2007
生き,後悔することなく自分の生を終わらせようと
する人に,我々医師や医療従事者は何ができるのか,
10)救急・集中治療における終末期医療に関するガ
イドラン∼3 学会からの提言∼2014
11)日本医師会. 医師の職業倫理指針 [改訂版].
2008
12)Stupp R1, Mason WP, van den Bent MJ, Weller
M, Fisher B, Taphoorn MJ, Belanger K, Brandes
AA, Marosi C, Bogdahn U, Curschmann J, Janzer RC, Ludwin SK, Gorlia T, Allgeier A, Lacombe D, Cairncross JG, Eisenhauer E, Mirimanoff RO; European Organisation for Research
and Treatment of Cancer Brain Tumor and Radiotherapy Groups; National Cancer Institute of
Canada Clinical Trials Group. Radiotherapy plus
concomitant and adjuvant temozolomide for
glioblastoma. N Engl J Med 2005; 352: 987–
996.
13)REPORT OF BRAIN TUMOR REGISTRY OF
JAPAN(1984–2000)12th Edition. Neurologia
medico-chirurgica Vol. 49(2009)No. Supplement. 2009
文 献
1)www.youtube.com. The Brittany Maynard Fund
̶ YouTube
2)久山亜耶子,岩田太.尊厳死と自己決定権 ―オ
レゴン州尊厳死法を題材に―. 上智法学論集
2003; 47: 1–18.
3)一般社団法人 日本尊厳死協会 ホームページ.
http://www.songenshi-kyokai.com/
4)富山県射水市民病院事件について, 朝日新聞
2006 年 3 月 25 日付,2007 年 3 月 29 日付
5)東海大学附属病院事件 横浜地裁平成 7 年 3 月
28 日判決,判時 1530 号 28–42 頁
6)森本直子.オレゴン州尊厳死法に基づく医師に
よる末期患者の自殺介助と連邦規制―Gonzales
v. Oregon, 126 S. Ct. 904(2006). 比較法学 41
巻 1 号 アメリカ法判例研究(3)239–250.
7)アグネス・ヴァン・デル・ハイデ(甲斐克則=
福山好典 訳)
.オランダとベルギーにおける安
楽死と医師による自殺幇助.比較法学 47: 173–
190.
4